卑怯にもほどがある。

 朝日夕刊、加藤紘一事務所への放火疑惑について、『これも小泉が悪い』ことにしている。
 テロはテロ、政治は政治。起きたテロ疑惑を政治的な論難に使っている時点でテロリストと同じ次元だ。呆れて話にならない。テロされたのをテロされた理由があるといっている時点でアウト。で、今回はそれをさらにこじつけて、テロを小泉がそそのかしたかのように言っている。
 朝日の阪神支局が襲われた事件であれだけ言論の自由云々といいながら、記事で火があおれれば何だってする。ねつ造もするしテロも利用する。それが朝日新聞だ。
 結局、公器とか社会の木鐸といいながら、結局やっぱりリスクレスの利殖の手段ではないか。酷い話である。


 あと、2ちゃんの卑怯な人たち続報。荒らしの相手をするのも荒らしだけど。
 今度はVIP板mixi招待してやるスレに私の公用のメアドを貼った。おそらく私がやったことにしたいのだろう。あきれた。
 それで、何通か、招待してくれと挨拶もないメールがとどいた。
 なんか、どうしようもなくカマッテほしいんだろうな。
 というか、mixi招待スレって、そういう嫌がらせのためのスレだったんだな。
 世の中の仕組みを一つ知りました。
 うちではmixiの招待は一切してません。今後もするつもりはほとんどありません。だって、知ってる人皆すでにmixiにいたもの。
 あしからず。

脳病院通院

 結局処方は今まで通り。よく考えたら『ハチミツとクローバー』実写映画を見てから調子ガタガタだったな。で、もっと考えれば、アニメやマンガを実写化して成功した例がほとんど無かったな。
 もう精神科のほうは慢性病なので、こっちも慣れてきて、しっかり回復したので、特に問題なし。

 帰りにポストホビー厚木店へ。
 店員ブログをお書きの店員白さんとお話。江ノ電500の2灯形とTOMIX腕木式信号機の話をし、いつか買えるようにお金を貯めますからとお約束する。
 Zゲージのレイアウトを拝見する。架線集電で列車が走る上に光ファイバーを引き回してZゲージのシーナリーの自動車のハザードランプが点滅していた。絶句。オーダーメイドのレイアウト、パイクで、40万円ぐらいするらしい。恐ろしい。
 名刺を持っていかなかったのは失敗であった。白さんのお名刺をいただき、買いそびれていたjShipsの空母特集を購入。
 あと、特価品コーナーでingsのレースクイーンフィギュアが特価で売られていたので、保護。

 このフィギュア、よく見れば見る程良くできている。小さいフィギュアなのにスカートの中のぱんつまで作ってあった。良い買い物であった。


 あと白さんとは明貴美加の話とかしたなあ。昔のコンプティークとか。明貴美加のころ白さんは小学生だったとの話。ホビージャパン明貴美加のユナのページを見るのがちょっと恥ずかしかったという。わかるなあ。ちなみにそのころ私は高校生。
 昔はフィギュアを買うのってものすごく抵抗があった。高いけれど、それ以上に何か恥ずかしいというか、ヤバイという感情があった。万引きをしたことはないが、それでも始めて1/24のレースクイーンのフィギュアを買ったときはものすごく恥ずかしかったな。万引きをするよりも自分の中ではどきどきしていそうだった。
 もしかすると、あのころのフィギュアを買う心理って、ダッチワイフ買うのとつながっていたのかも。ダッチワイフ買ったこと無いけど。
 そこらへんから普通に買えるようになったのがナムコギャルズフィギュアのガシャポンとかからかもしれない。『マッハブレイカーズ』のコトブキマコトあたり。その前はリアル麻雀PIIIのプライズフィギュア。
 彼女たちはよねでん線小倉時代にレイアウトのよねでん線に小倉観音として設置され、後に小倉五百羅漢となって、今は昔の食器棚の中に並んでいる。

NHKの例のアレを見て

 「日本の、これからNHK
 三宅アナも苦労しているなあと思う。あんな電波な人たち(含む田中均)と麻生外相とか岡崎久彦の間に立って、かなり苦しんでいる様子だった。
 難しい立場だよなあ。見ていて同情してしまう。それでも、すっかりモウロクして電波司会になった田原総一郎よりはずっと良いのだが。
 とにかく無事放送終了。


 思うんだけど、こういう左巻きの電波な信じ切った人と議論してもどうやっても平行線のままだからしょうがないのではないか。
 だいたい戦争経験者といったって、年齢を見ると当時幼児だった人ではないか。戦争を体験したと言うより敗戦後の貧乏を経験したと言い換えるべきではないか。
 確実に戦争が風化しているのを感じさせられる。昔は戦争を戦って死線をくぐって生き残った坂井三郎さんとかがいて、『日本が戦争を捨てても戦争は日本を捨てない』と喝破していた。これからそういう人々がますますいなくなる。せめてそういった人々が馬鹿な編集者にいじられて塩漬けにされることなく、ウェブに体験を書き残してくれればと思う。
 事実、防空戦闘機屠龍の後席担当だった人とか、13号などの電探員だった人がウェブ上に体験を書いている。私はいつも、襟を正して拝見している。
 彼らは戦争の悲惨さも不条理も書いているし、その上で戦争の昂揚も淡々と描いている。ただただ頭が下がる。


 まず、負けた戦争だったから悪い訳じゃない。戦争はもともと悪だ。戦争はしない方がいい。それはもちろんだが、世の中には戦争するぞと脅してくる相手、特定アジアがいるからこそ、結局こっちも対抗せざるを得なくなる。
 相互不信があるけれど、不信感を持たざるを得ないことをしているのが中朝韓ではないか。とくにこっそり空母を作ろうとか、いつのまにか沖縄を自分のモノだとしている中国をどう信用せよというのだ。
 逆に日本は不利になるぐらい防衛力を公開している。その上で中国はそれでも足りずにあれやこれやで自衛官や防衛産業にスパイを接触させているではないか。
 もともと隣国と仲良くというのは無理なのだ。ヨーロッパでもローマ帝国以来ユーロートンネルを掘ったりエアバスコンコルドを作るまで何年かかったと思っているのだ。その今でもヨーロッパはもめることがあるらしいのに。たしか隣国は決して友邦とならないと言ったのはマキャベリであっただろうか。うろ覚えなのだが。
 あと、番組で結局中国の凶状、天安門事件法輪功、ウェブ検閲、政治犯チベット侵略、人権問題とかは言わなかったな。いつの間にか放送コードになったのだろうか。参加者が一言こういうことを叫んだらくまさんの人形になっちゃうかもしれないのかな。

 #初期の『いいとも』で放送中に舞台上のタモリにギャラリーが向かって席を立ち、タモリに危害を加えそうになってADにつまみだされ、そのギャラリーのいた席にくまの人形が置かれた事件。あの人くまさんになっちゃったよ、と笑いにされたが、当時『朝生』とかで右と左に別れても有益な議論ができると信じられていて、タモリも政治的な話題をやっていた。いまではありえないことである。


 結局、最後まで麻生外相がいることで姜尚中もあまり電波なことを言えない感じであった。
 麻生はやっぱり外相として続投してほしい。おそらく安倍内閣となるから、そこでも外相としてがんばってほしいなあ。
 なかなかの逸材である。総裁戦で負けても拗ねないよう願っている。国民はちゃんと見ているのだから。

招魂社について(追記)

 招魂社についてのwiki
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A4%BE
 東京招魂社
 http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j020/j020t.htm
 田原招魂社
 http://www.town.kawachi.tochigi.jp/08tanbou/320/312.html
 靖国の歴史、A級戦犯、首相参拝、中国からの批判……
  「靖国問題」基本的なQ&A - [よくわかる政治]All About
 http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050613A/index.htm

 由緒についてもうちょっと整理されたページがあったと思うが、思い出せない。
 でも神道という宗教は日本の風土にマッチしたいい宗教のように思う。
 『もったいない』など日本特有のモノに魂が宿るという心は、海外の人々が考える一神教とは違い、むしろポリネシアアメリカインディアンの祖霊信仰に近く、神道形式を国の基礎とするのは宗教分離条項の目的と反しないと思う。事実、津地鎮祭訴訟ではそういう最高裁判例が出ている(反対意見付きだが)。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%9C%B0%E9%8E%AE%E7%A5%AD%E8%A8%B4%E8%A8%9F
 日本に健全な真心、魂を復活させる過程として、防衛庁市ヶ谷敷地内のメモリアルゾーンを中心にして招魂社を復活し、その後憲法の改正を含めて靖国神社と合併させ、発展的拡大をすべきと考える。今でも一宗教法人に国家のために受難した人々をすべて任せるというのは荷が重い。日本国としての真心として、靖国の拡張版、国費を投じた新靖国神社が必要と考える。
 現時点はその過程にあり、靖国と千鳥が淵と市ヶ谷メモリアルゾーンにわかれているのは仕方がない。日本の国内がまだ混乱している。
 だが、いずれこれを統一すべきと考える。自然とそういう環境が整っていくと思う。

朝日新聞、をどりのあと。

 16日朝日朝刊はかなり必死に電波を発振している。しかしそのほとんどが印象報道であり、国営靖国神社への批判も結局は津地鎮祭判決を取り上げず、まったく奥行きのない紙面構成である。
 必死さは伝わるが、ただそれだけの新聞に成り下がったと思える。事実の報道よりも印象だけで文脈を作る、いわゆる築地踊りは今年はかなり必死である。
 もう観客があきれているので、もっと強くやらねばと必死である。
 でも、そこには奥行きを持った思想も信条もなにもない。単に特定アジアに媚びを売るだけの浮ついた新聞だというのが良く分かる。こういう新聞だから、戦前に行け行けどんどんな報道をしたんだろうな。
 陸海軍は率直な反省とともに国民とともにある頼りになる自衛隊となり、統合指揮システムもでき、シビリアンコントロールも上手く機能して粛々とやっているのに、マスコミは戦前ならまだしも、戦争へあおり立てていった姿から何も変わらない。
 ウェブのあちこちでマスコミの変節ぶりを言われているのだが、実際図書館に行って縮刷り版を読めばいい。本当にひどいものである。
 まさにマスコミこそ先の戦争でのA級戦犯ではないだろうかと思わされる。


 あと、その朝日にお金を払ってその電波ぶりを監視しているが、本当に天声人語、質が落ちた。
 とりあえず『最近の言葉から』はやめてほしい。手抜き過ぎる。
 まあ、今朝の朝日新聞は全紙面が『最近の言葉から』という他人の言葉の端をつかんで自分たちのイイタイコトに沿わせてモンタージュを作るような印象報道だから、もう呆れるしかないのだが。
 中華日報東京支社と言われても仕方のない新聞だからもう期待できないけど、でも小泉政権を総括するときに、国民がどれだけ小泉改革と抱き合わせの悪法で苦しんだか、全然取材できていないようだ。


 PSE法案にせよ、老人介護の問題にせよ、本当に深刻な事態が進行中なのに。
 特に今、パチンコ業界と老人介護の現場は第二の土建業界のように利権まみれのとんでもない状態である。


 たとえば介護の現場で、寝たきりになったり歩けない高齢者が、もう回復は無理だからと、もう死ぬまで使うのだから介護用具、車いすやベッドを、じゃぶじゃぶと金のかかるレンタルではなく、購入して節約しようとすると、突然補助がなくなりまるまる実費を払わされる。
 レンタルだと自己負担額は少ないが、しかしお年寄りはちゃんと考え、自己負担ではない補助が公的資金であり、それをじゃぶじゃぶと使うのは勿体無いと、レンタルではなく買い切りにしようとすると、レンタルのまま補助金をじゃぶじゃぶ使えというのである。
 購入するよりも遥かに大きな額が介護用品レンタル業者に公共の福祉補助とともに投入される。
 当然レンタル業者は丸儲けで、例によってその業者は厚生労働省の官僚の天下りの受け皿になっている。
 酷い話では老人介護の現場では、車いすどころかスリッパ一足がレンタルで月何千円もして、しかもそれを『ほとんどは補助でまかなえますからご負担はないですよ』と業者は言っているという。
 その補助は我々の払った税金ではないか。そのスリッパがどれほど豪華かというと、ダイソー100円のものと何にも変わらない。でも老人介護用の公費がじゃぶじゃぶと使われ、それが厚生労働省OBや関連企業に流れている。
 しかも、現場で働く介護士はバイトで使い捨てである。こんなボロい金儲けがあるだろうか。
 そんな状態を放置して、谷垣は福祉のカネがない、消費税を福祉目的税として増税するという。
 国民をどこまで馬鹿にしたら気が済むのか。安倍・麻生はまだいいが、福田に続いて谷垣も政権担当能力なしである。


 パチンコも、やる人の気が分からない。あれってギャンブル、賭け事である。しかも上がりは総連経由で北朝鮮に流れたり、そうでなければ警察OBの関連企業に流れるようになっているのだ。昔から競輪競馬ばくちのたぐいで蔵を建てた人がいないというのを誰も言わない。ましてやそれをテレビで面白いもののように放映する。
 あんな単調でやかましく見苦しいパチンコの機械を見ていて楽しいと思う神経が分からない。もっと他に楽しいことはあるはず。風物を感じたり、美味しい食事を食べたほうがずっとためになると思う。
 しかも、実は日本で現在非常に多い自殺者のなかには、パチンコやスロットといった、気晴らしと言うにはあまりにも高価でリスクの高いギャンブルに無知からはまって依存症となり、例によって武富士とかアイフルとかから借りて、それに『相談』したらうちの借金だけは返せ、その返す金はもっと怪しく高金利の街金から借りろと言われ、自己破産することもできずに首を吊る例が少なくない。
 こういうことを、マスコミは全く報じない。なぜかというと、マスコミはこういったとんでもない人たちからの投資をもらって利殖に励む営利企業だからである。報道の名に値しないのだ。
 まったくとんでもない人々である。しかも、そういう企業とつきあって限りなく犯罪に近い仕事をしていても、私のような貧乏ライターよりは良いと思っている人がいるようだ。それは賃金だけの話で、しかも良心、真心を売り渡して得た金ではないか。
 今、心の価値、目に見えない倫理や恥の概念を失い、ただカネを無駄遣いしてそれをセレブと褒めそやす世の中になっている。


 でもその実は、IT長者でさえも、よく見ると海外でフリーで頒布されているソフトをもってきて弁護士と結託してあたかも自分たちが開発したかのように権利を主張してソフトとしてパッケージして販売して儲けている人もいる。もとがフリーだからそりゃ儲かって当たり前である。しかも、売ったら売りっぱなし、そのソフトのサポートはほとんどなし。で、文句を言われると結託した弁護士にノルマを課していちゃもんをつけまくる。そりゃ儲かるのが当たり前だ。だが、それも犯罪に限りなく近いではないか。


 これが平成日本の金儲けの実際だ。世の中に疎い私ですら、これぐらいは調べることができる。それができないマスコミに報道、道を報じるの名の資格はない。

ブランド力という幻想

 SONYというものに誤解のある人が多すぎる。ソニータイマーと呼ばれる補償が切れるころに壊れるように作ってあるモノ作りの倫理に反する行為は有名だが、SCEIもひどいものである。まあ犯罪とは言わないけどさ、『ロコロコ』の歌、あれ、話題になったからCDで売るという。
 ホント、目先の商売に目がくらんで大事な商売を失っているの典型だ。今時CDで売るという神経が完全に世の中見えていない。たかがCFソングを、人気が出ているかどうかも分からない段階から売ると公言。これも自分の仕事をモノ作りではなく消費者の財布からカネを奪い取るという発想だろう。
 モノを売る、お客さんがほしいモノを作って、それをお客さんが評価してお金を払ってくれる。それがモノ作りの商売だろう。
 それが、ブランド力という人々は、客なんかクソなものでもうちのブランドつければ馬鹿だから買うんだ、ついでに馬鹿からむしり取る金額も少し増やしとけ、どうせ馬鹿だから買うんだ、という姿勢と何のかわりもないことを理解していない。
 常識的にまずしっかり流行るように無料着メロとかで広めてロコロコというソフトの本体を売り、そしてそれと平行してダウンロード販売で良いではないか。
 サントラを販売するのに、サントラだけあってもとの作品がないなんて、まあ馬鹿なCFプロデューサーはティーザー広告のつもりかも知れないけどさ、それって客を馬鹿にしすぎだろ。
 著作権うんぬんと言うが、著作が広まらないのに著作権を主張したら、なんだヤクザな会社だなと思われて企業イメージが低下するだろうが。
 VAIOもHitbit以来のPC発売ではじめは低姿勢で良かったらしいが、またSONYブランドを勘違いしてライフスタイル提案などといいだし、現実にはクソ重くて互換性も何もなくCDに焼くことも制限しているSonicGateを始め、デザインばっかり凝っていても何をするソフトか分からないソフトを出荷時に山盛りにしてハードディスクの容量を圧迫し、ユーザーからそんなウザイ機械だったらいつとどくか分からないけれど安いという取り柄だけはしっかりしたDELLとか、それよりは安くないけど気持ち安心なエプソンダイレクトにしようとか、思うように作れる自作PCのほうが作る楽しみがあると思われているのが実情だ。
 ウォークマンも絶滅しかかっている。iPodに完全に負けた。
 うちはネットワークウォークマンiPodも持っているので分かるのだが、iPodiTunesはセキュリティでユーザーに不快感を与えないように配慮している。しかしネットワークウォークマンとSonicGateは、とくにSonicGateが動作感覚でもデザインでも機能でもiTunesに劣っている。先ず第一にiTunesのマネであるうえに、マネしてマネしたもとより悪いというから救いようがない。
 なにかというとセキュリティ、著作権チェックをやって、ユーザーを待たせる。しかもiTmsに対抗して作ったMoraはぜんぜん音楽を網羅していないし、ダウンロードして買った曲の中にはなんとCDに焼けないモノがある。びっくり。ここまで消費者を信頼していないのかと呆れた。
 ブレイブストーリーの主題歌『決意の朝に』がまさにそれである。買ってもCDに焼けない。ネットワークウォークマンがなければPCでしか聞けない。結局私は自分の車のオーディオで聞くためにアナログ出力でWavに変換してiTunesにインポートし、CDに焼いた。
 昔のテープレコーダーの時代、ダビングは個人の視聴の範囲内なら自由、として、ある意味視聴者を信頼していた。あのころはテープもCDもちゃんと売れていた。
 しかし、今は視聴者を疑い、本来作品として広く視聴されて人気が立ち上がっていくべきものを、人気が立ち上がるより前にヤクザな姿勢でいちゃもんをつける
 そりゃCDが売れなくなって当たり前である。


#ちなみに、うちの小説ダウンロード販売にはコピーガードはなく、生テキストデータで売っている。個人の閲覧の範囲内なら、さまざまな端末へのコピーも許可している。再販売とか再配布、公衆送信(アップロード)は困ると言っているが、でも買ってくれた人を信頼している。
 ただ、それでもその信頼を裏切って公衆送信したバカがいてビックリしたけど、でも私は購入者を、読者を信頼し続けるつもりである。しかし、それでも公衆送信をするのなら、法的手段をとる可能性は言及しておく。ちなみに現在、そういう無断公衆送信は刑事罰の対象である。


 で、もとにもどるが、結局SONYは未だに一人バブルの状態なのだ。
 クオリアブランドのどでかくて重くてバカ高いトリニトロン管テレビの末路、液晶の省スペース省エネルギーに勝てないことが判明したときにはすでに液晶は他社に出遅れ状態となった。
 まさに出井体制はSONYブランドを勘違いし、SONYに寄せられていた信頼をブランド力という勘違いですべて金に換えようとしてどっちも失った戦犯である。
 でもこれもマスコミは言わない。SONYにCFを出稿してもらっているからだろう。

ノーコメント、ノートラックバック。

 教育勅語
 http://www.meijijingu.or.jp/japanese/gosai/educate/
 昔から良いと思っていたのだが、それがウェブ時代になってアップされている。


 結局天皇の神格化は昭和になってから極端に進んだらしい。よくないことである。
 しかし教育勅語の元々のあり方では、天皇でさえも皇祖というようにさらに敬うものがあるところが実にいい。そして、教育勅語も文明開化の悪影響を防ぐために陛下が皇祖に誓う言葉であり、その勅語西園寺公望が時代に合わせて改訂しようとしたり、柔軟であったらしい。
 戦前は、決して北朝鮮の現在なんぞと一緒にされては困るのである。ぜんぜんちがうのである。なんでもたとえ話にすればいいと思ったら大間違いである。
 歴史にせよ、物事とは、真剣に学べば学ぶほど、何かにたとえて簡単に表現できたり、分かるようになったりするものではないと思わされるものだ。
 むしろ、難しさと玄妙さに身を正していくところにこそ事物の検討の心髄はある。
 私はその点で、事物の認識を深めるのに議論なんぞ必要ないと思っている。だからコメント欄はやらないし、トラックバックも表示していない。
 物事の理解は、一人心静かに学んでいくものであって、誰かと楽しむ議論などというのは全くの時間の無駄である。
 第一、『他人コントローラー』で書いたとおり、学んだことで自分が変わるのが大事であって、他人に啓蒙なんてのは思い上がりも甚だしい。
 相手はそれはそれで理解しているのだ。それと自分のモノが一致しないところで、一致させる必要なんてないのである。その人にはそこにいたる人生があり、酸いも甘いもあったわけで、それを言葉の端を捕まえて教えてやるなんて思い上がりである。
 考えれば考えるほど難しく深いものが事物である。私はその難しさを面白いと思うし、自分が学んだそのことを書くことはしても、誰かを啓蒙しようなんて思わない。ましてや何かムーブメントを起こそうなどとも思わない。マイブームはあっても、自分の中でやっているわけで、それを公表したところで他人が見たくないと言うなら、見なければ良いだけだ。
 ただ一人静かに検討し、検討の結果を書くだけで、別に誰かから意見をいただくことは必要ないと思っている。結局『荒らしの相手をするのも荒らし』であり、議論を白熱させたところで有意義なことは一つもない。万事公論に決すべしというが、それは聖徳太子のころ、まだ議論をする人々が限られていた時代の話。
 今のようにだれもが馬鹿なことができる時代には、傾聴すべき意見は、馬鹿でもウェブにいられる時代、志ある人々は馬鹿よりも一段上だからすでにちゃんと有志によってウェブにアップされていたり、言及されているので、それを私は学ぶだけである。
 そして、ウェブ上で不勉強な意見を見たとしても、心静かに立ち去るのみである。それでいいのだ。
 結局、事物の認識とは、自分で転んで、自分で傷を負ったりしながら血肉で分かっていくものである。それを転ぶ前からああだこうだいわれても五月蠅いだけだ。その事物の味を理解できる年齢に達して始めて味が分かるものであり、味が分かる準備もできていないのに押し売りされるのはまっぴらごめんである。
 それではブログではないという人もいるかもしれないが、ブログの定義なんて人それぞれで良いではないか。まさしくそれは主観の押し売りであり、他人コントローラーがほしいガキの理屈である。
 私は97年以来、ウェブ日記としてFTP日記をやっていて、ブログ勃興時に当時不安定だったブラウザとcgiを使って書き込むブログを信頼ならないと思っていた。私はこの日記もひとつの作品として自分の血肉と思って心血を注いでいる。交流のツールなどではない。ましてや寂しいから誰かにコメントをほしいなどとも思わない。
 安定的になったブラウザとcgiとサーバで、FTPする必要がなくezwebiモードで読める形式になっているところで便利さと安定性を勘案し、ブログへの移行を決意し、ココログを借りた。ところがniftyの手違いで削除せざるを得なくなり、そこでhatenaに移動した。それだけのことである。
 そして、これからもノーコメントで良いと思っている。うちにコメントがこなくても、よそのブログやテキストを見ていれば勉強になるし、自ら望んで勉強してこそ血肉となるというものだ。それをお節介に教えてやるなんて何様なのか。ましてや楽しむ議論などで時間を空費したくない。
 私としては軍事板のまとめサイトとかを読んでいるし、他にもいくつか勉強になるサイトをブックマークしている。そこで私を思ったことを書く。それだけだ。
 ちなみに、こう思うまでに大石英司先生のブログを見て、ああ先生苦労なさっているなと思いながら、大石先生のウェブでの戦いの結果を見て、匿名の馬鹿どもは相手にする必要はないと思った。
 私はコメントをされれば、コメントをきちんと返さないと気が済まないタチだし、それにつけ込まれてさんざん荒らされて心も体も疲れ切ったこともあった。そこで大石先生や竹熊健太郎さんのようにコメント欄で馬鹿が騒いでも放置したままでいられるほど自分が大きな器ではないことを自覚している。
 だからアクセス数はのびないが、別にそれで良いと思っている。
 私には私の人生の仕事がある。人生を賭ける夢がある。そのために勉強しているのであって、それをそばで支えてくれるユキさんもいるし、ちっとも寂しくない。
 友達にも困っていない。ウェブ友達なんてあやふやな、テキストをやりとりしながら内心こっちが消えることを望んでいるかもしれない相手に私は自分のオールを任せたくないし、本当の友達がいる。もっとも苦しかったときに手をさしのべてくれた人が、実際に会える距離にいる。それで十分だ。
 ウェブで徒党を組まないと、いつでも徒党の誰かに加勢してもらえるオープンな、自分のホームゲームにしないと何も言えない、一人では何もできない寂しくチキンな人々とは違うのである。
 そういう人々は、コメント欄を閉じると言論圧殺などという。馬鹿じゃないか。他人のコメント欄を借りて自分を表現できないのが言論圧殺などとは大笑いである。どっちにしろ文句があれば対抗サイトを立ち上げるんでしょ、どうせ。その上で第一家主の権利の範囲内のコメント欄で家主に文句たれるのってのはケンカ売ってるわけでしょ。はなからケンカ腰ではないか。それを回避するのは家主としては至極あたりまえである。進んでケンカをするのは暇で事物の心髄よりもその場の荒れた感触を活発な議論だと誤認する馬鹿だけである。
 それにこうしてコメント欄をとじるのを逃げなどというが、これも馬鹿な考えである。誰でも馬鹿騒ぎは回避するよ。第一、構ってくれないからだだをこねて『逃げた』などと言うのだ。幼児性でひきこもり、自分は自分の不勉強すら自覚もできないで自分は変わりたくないくせに他人に変わってほしいと他人をコントロールする欲望のままに動き、それを見透かされてカマッテもらえないからだだをこねているだけだ。
 結局、自分で何かを表現したり、何かを作ったりできない、誰かにけちをつけて満足したり、誰かを不愉快にすることが楽しいという病気の段階の人は、病院へ行けばいいのである。精神が未熟な幼児のままなのだ。
 私は精神科医でもないし、医者の資格もない。カウンセラーになるつもりもない。だからそういう迷惑な人、困った人には距離を置く。至極当然のことである。それをそうやって距離を置かれると逃げられたと思うのは、自分中心の世界観しか持てないオコサマである。知能が未発達なのである。
 逃げられたと思っているかもしれない。しかし、違う。
 あまりの馬鹿さにドンビキしたのだ。
 馬鹿はカマッテほしいのである。ママの愛情が足りなかったのである。
 病院へ行け。話はそれからだ。