それはそうと、Akufenはなにをしているのか。「My Way」以来、アルバム出してないぞ、たぶん。12インチとかは出してるのか。本名のMarc Leclair名義ではアルバム出してたけど。よりアンビエントっぽいのを。これどこやったかなと思ったら手放していた、うすうす知ってたけど。いま中津のパンタロンではドローグデザインの展示をやっている。気になる。最近パンタロン行ってないし。パンタロンはいまいちばん面白いと思う。→http://www.pantaloon.org/exhi_droog.html サントリーミュージアム天保山の「純粋なる形象―ディーター・ラムスの時代」も気になる。図録4000円。高い。。ブラウンの本をなんかひとつ持ってた気がするのでよしとしよう。シンポジウムにはディーター・ラムスさん、喜多俊之さん、柏木博さんの名前と並んで深澤直人さんの名前も。ひっぱりだこだなあ。いまディーター・ラムスさんだけ「さん」付けしてなかったけど、ちょっと迷って付けた。仲間はずれはよくない。別に全員呼び捨てでいいんだけど。「さん」付けた方が敬意を持っているように見えるし、なにより自分が敬意を持っているように錯覚するので、そういう勘違いからでも本当の敬意を持てるようになるのではないか。六甲のブックファーストで、また服部一成装丁らしき本を見つけて、中村祥二「調香師の手帖 香りの世界をさぐる」。これは落ち着いているというか、服部一成さんと林央子さんの対談(http://www.surfcom.jp/shop/randomtalk/08index.html)でも触れていた「中林洋子」という人の装丁からの影響がみえるような。この対談で取り上げられている中林洋子装丁の本は、有吉佐和子「非色」、伊藤整「虹」、三島由紀夫「お嬢さん」。

Last Christmas
http://jp.youtube.com/watch?v=lgR-f8i0cmQ
http://jp.youtube.com/watch?v=L1srCPuDVNc
http://jp.youtube.com/watch?v=qDErSNUIHB0
http://jp.youtube.com/watch?v=YW1RpOHbPY4
http://jp.youtube.com/watch?v=mAqgAfgAp00
http://jp.youtube.com/watch?v=AI6p4sr8G-I
http://jp.youtube.com/watch?v=vy_1s5BohjY
http://jp.youtube.com/watch?v=NN_TfiKx1wE
http://jp.youtube.com/watch?v=C85Uy_0-wXc
http://jp.youtube.com/watch?v=kO6ONMNVOAk
http://jp.youtube.com/watch?v=N9aslW_3YGU
http://jp.youtube.com/watch?v=z6j7fCvyi0c
http://jp.youtube.com/watch?v=iRYYUqY1ZKM
http://jp.youtube.com/watch?v=wK2UA6NoDmM
http://jp.youtube.com/watch?v=03Vyx95Ex80
http://jp.youtube.com/watch?v=0NMVOWkEN60
http://jp.youtube.com/watch?v=zEZtBRY7Fgc
http://jp.youtube.com/watch?v=fE3KHr-F3bI
http://jp.youtube.com/watch?v=jEY4F1AeRdk
http://jp.youtube.com/watch?v=zeUeQcb7Cpo
http://jp.youtube.com/watch?v=sLstfYialu4

そして、このまえ大阪のジュンク堂で見かけた気になる本。美術がらみというか美学がらみ?、大橋良介「美のゆくえ―カント・ヘーゲルアドルノハイデッガー (阪大講義プロトコル)」、由良君美メタフィクション脱構築」、ダリオ・ガンボーニ「潜在的イメージ モダン・アートの曖昧性と不確定性」、佐々木健一「美学への招待」、ゲルノート・ベーメ「感覚学としての美学」、松宮秀治「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神」 asahi.comにあった、柄谷行人さんによる「芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神」書評より http://book.asahi.com/review/TKY200812090090.html

芸術が根本的に国家と資本の下にあることを見ないなら、反芸術を志向することは、純粋芸術を求めることと同様に不毛である。

なんかこう変に引用してくると叱られそうなのだけれど、いちおうルールに沿っているならばよいのか。引用ルールってなんだったっけか。あくまで補足のために使うとか、全体のなかの部分である、とかそういうのか。引用箇所のちょっと前あたりに書いてあるのだけれど、作品の芸術的価値と経済的価値の区別がなくなっている、というのは確かで、美術バブル(とその崩壊?)とかいうまでもなく、「フツウ」の感覚として、なんらかの作品の展示をいくらかお金を払って見て、そこから芸術的価値を見出せなかった場合、払ったお金の分の価値はなかった、と言ってしまえるわけで、ここでもうすでに芸術的価値と経済的価値の混同がある。というよりも、すべてを経済的価値観で計ろうとする傾向が私たちにはあって、これはたぶん意識的なものではない。だからいまの「フツウ」の感覚。でもこの「フツウ」の感覚は貨幣の性質や成り立ちについて考えたりすることはないので(もはや前提だから、というよりそういうのを意識しなくさせるのも貨幣の性質?)、ありとあらゆる商品すべてと交換可能でありかつ量的に分割・結合可能であるという機能において、異なる質のものを量として比較可能にする、という貨幣のきわめて特殊な性質を意識しない。ちなみにマルクスは「資本論」「第一部 第三章 貨幣または商品流通」の冒頭で

諸商品は、貨幣によって同単位での計量が可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間的労働であり、それゆえそれ自体が同単位で計量可能であるからこそ、すべての商品はその価値を同じ独自な一商品で共同ではかり、そうすることによって、この独自な一商品を諸商品の共同の価値尺度または貨幣に転化することができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的価値尺度である労働時間の必然的現象形態である。

といっていて、貨幣があるから商品が計られるのではなく、商品と商品の関係において貨幣が現象してきた、といっているのは分かるけれども、『すべての商品が価値としては対象化された人間的労働であり、それゆえそれ自体が同単位で計量可能である』ということがいまひとつ飲み込めない。質が量に転化される仕組みがまだ飲み込めない。とりあえず、これはひとまずおいておいて、どこかで私たちは日常生活で出あうもろもろの「商品」に対するように、「芸術作品」に対しているようなところがある。入場料なり作品の値段ぶんのお金が自分の懐から出ていくデメリットと差し引きしてまだメリット(楽しみ)が残っていれば「満足」ということになるし、残っていなければ(メリットがマイナスになれば)、払ったお金分の価値はなかった、というわけだ。こういうふうに日常の経済的感覚で芸術的価値を捉えようとすると、どうしてもマイナスからの出発になる。お金を払っているからまずはマイナスからのスタート。払っていなくても(路上ミュージシャンとか無料イベントとか)、見るあいだの時間を払っているからまずはマイナスからのスタート(つまらなかったら、「見て損した」)。なんとかゼロまでいければ、満足でも不満足でもない。そしていちばん重要なのは、その芸術的価値(芸術作品)の受容によって生じる「メリット(満足・楽しさ、などなど)」が完全に「作品」ないしはその「作者」に委ねられている、ようにみえるということ。つまり、受容者は完全に受身で、待っていても「メリット(満足・楽しさ、などなど)」がやってくるものだと思っている。そしてそれがやってこないのは「作品」および「作者」の責任だと思っている。お金や時間などのコストを払っているんだから、それなりの対価をもらえないと困る、という。この態度はどちらかというと、「商品」に対するときの態度に近いし、テレビなどのエンターテインメントに対するときとも近いかもしれないし、「商品」の価値を品定めする「試験官」の態度ともいえるかもしれない。まえにも引用した(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080514)、ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術」の第3稿より

芸術作品にたいする散漫な姿勢は、知覚の深刻な変化の兆候として、芸術のあらゆる分野においていよいよ顕著に認められるようになったが、ほかならぬ映画こそ、その本来の実験機関なのである。映画は、ショック作用によって、この新しい芸術作品鑑賞形式に適応する。映画は、礼拝的価値をよせつけない。それは、単に映画が観客に審査員の姿勢をとらせるからだけではない。映画館内でのこの観客の審査の姿勢がいかなる精神の集中をも必要としない、という事情にも基づいているのだ。観客はいわば試験官である。だが、きわめて散漫な試験官である。

たとえば、「お金や時間などのコストを払っているんだから、それなりの対価をもらえないと困る」といっても、それに見合う対価をなにがなんでももらうからな!という能動的な姿勢であれば、それを契機に自分なりになにか感じるものを見つけられるかもしれないけれど、「お金や時間などのコストを払ったんだから、なにかもらえるんでしょ」というような受動的な姿勢だと、おそらく「芸術」からなにも得るものはない。そりゃ、もともと「好き」なタイプの・ジャンルの「作品」をみて、いいなあ、と思って満足することはあるけれども、そういう見方ではそれ以外のタイプの・ジャンルの「作品」から「自分にないもの」を得ることは少ないし、できないといってもいいかもしれない。趣味・嗜好の反復からは、自分(の趣味・嗜好)以外のものは排除される。もちろんこれだけならなんの問題もないけれど、自分にない、理解できない「作品」に出会ったときが問題で、そういうときどうするかというと、大抵は否定的理解を示すか(簡単に「人それぞれ」で済ますか)、過剰な拒否反応を示すか、(見)なかったことにするか、のどれかで、といってはみたものの別にこれはこれでよいのか。でもなあ、この構図はどこか「自分の苦手な人」と出合ってしまったときとも似ていて、自分の感覚というかこだわりを超えて仲良くなれるかどうか、と理解のできない「作品」を自分なりに楽しめるかどうか、はどこか通じているような。とにもかくにも、作品の芸術的価値と経済的価値の区別がなくなる、とかいう前の、個々の受容者のレベルでの「作品」と「商品」の混同は、作品にも作者にも受容者にも、お互いよいことがない。とはいえ、市場が発達することで芸術家が活動しやすくなり(それだけで食っていけるようになる、とか)芸術じたいも発展する、ということもあるわけで、「作品」の「商品」化、芸術作品市場の発達はいちがいに悪いともいえない。たぶん問題は「作品」が「商品」になりきれない部分があることで、このことがあるから、既存の市場の論理をそのまま「芸術」に当てはめることに無理が出てくるのではなかろうか。あくまでも「商品」の世界である市場において、芸術作品の商品になりきれない部分をどうカバーするのか。おっ、やばい、なんとなくイメージで書いているけれども、芸術作品の「商品」になりきれない部分ってなんだ、いったい。あるのか、そんなもん。とりあえず、「商品」を買う、商品として「作品」を買う、というとき、なにを買っているのだろうか。ちなみに彼女のおうちにあった「動物のお医者さん」を読んでいて「もやしもん」を思い出したのだけれど(もちろん「動物のお医者さん」の方が古いが)、「もやしもん 動物のお医者さん」という検索ワードで検索してみたら、みんな思い出すらしい。どっちかというと、「動物のお医者さん」の方は絵柄も含めとても細かい。さて、wikipediaの「商品」の項によると

商品(しょうひん)とは、経済活動において生産・流通・交換される物財のことである。商品には具体例としてリンゴや衣服などの物のほかに、法律相談や郵便配達などのサービスや、証券などの権利、情報などが含まれる。

とある。ほいで、http://d.hatena.ne.jp/k11/20080629でも引用した、山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男「マルクス資本論入門」第2編 第一巻・資本の生産過程 1商品と貨幣の注釈"労働価値説への批判"にこういう箇所がある。

そのようなマルクス批判(労働価値説への批判-引用者注)の一論点として、マルクスが等しくおかれた諸商品にふくまれている共通者として抽象的人間労働をとりだしてくるさい、鉄とか小麦といった労働生産物のみをとりあげて、土地とか骨董品などを無視したのは不当だというものがあります。しかし、こういった批判の根本的な欠陥は、小麦や鉄などの「再生産可能な商品」と土地や骨董品などの「再生産不可能な商品」とをはじめから同列に論じようとする点にあります。人間の経済活動を根本的にささえているものが再生産活動であることを考えれば、再生産可能な商品は、人間の経済活動にとって決定的な意味をもった、基本的な商品であって、けっして再生産不可能な商品と同列に論じられるべきものではありません。

ここで言われていることをひとまず鵜呑みにすれば、「商品」であるためにはまず再生産が可能でなければならないことになり、土地はともかくとして、骨董品、ひいては芸術作品は再生産が不可能であるため「商品」としては例外である、ことになる。ここで出てくるのが、「再生産」ってなに?ってことで、またもやwikipediaに頼って、「再生産」の項を見てみると

社会の構成主体である人間は消費を行うことによって生存しているため、生産を継続的に反復するという再生産がなければ社会は存続できない。同時にすべての人間が社会の中で商品を売買し、それを消費して生活しているため、この場合すべての生産は再生産の側面を併せ持つと言える。

とある。ということは、たとえば、「マルクス資本論入門」からの引用にあった例でいえば、小麦や鉄はどのように再生産されるかといえば、小麦はパンになったりするし鉄はトンカチになるかもしれないし車にもなるかもしれない、ということか。そしてもうひとつ重要なのが、人間の働く力=労働力もまたなんらかの財=商品の再生産で成り立っているということで、簡単にいえば、腹が減っては戦はできぬ、ということで、パンという商品を消費することで働く力=労働力を生産している(つまり、再生産)といえる。たぶん、だけども。で、「芸術作品」はどうなのか。「土地」は生産の基盤であるために再生産不可能なのだけれど(たぶん、、)、「芸術作品」は別にそういうわけではない。どう考えても生産の基盤なんかじゃない。なぜ「芸術作品」は再生産できないか。もちろん単なるモノとしてみれば何かの材料として再生産も可能かもしれないが、「芸術作品」はそれを許さない。なぜなら「芸術作品」に価値があるのはそれがそれである限り、だからだ。かたちが変わって別のものになってはならない。もし仮になんらかの作品を素材に別の作品をつくった場合、それはもはや別の「作品」である(ああ、でもそういう再生産はありかもしれない。著作権と作者の自我(という自分の手柄)へのこだわりさえなくなれば)。ということは、再生産可能かどうか、ということは純粋にモノとして、つまり次の生産の材料として使われ得るかどうか、ということなのだろうか。とすると、「商品」を買う、っていうとき、その「再生産性」を買っている、ということになる(が、もちろんこれもひとつの側面にすぎない)。そしてその「再生産性」は誰でも同じように使うことができる。小麦は誰にとっても小麦でしかない。誰かにとっては小麦で別の誰かにとっては小麦でない、ような小麦(らしきもの)があるとするなら、そのどちらかが小麦ではない。小麦のなかで質の差はあるけれど、小麦と非小麦の境界ははっきりしている。ならば、「芸術作品」を買う、っていうとき、なにを買っているのか。んん、いまひとつ思い浮かんだことがあって、「作品」の「商品」化、つまり芸術作品が市場で流通するとき(「作品」は流通(売り買い)して初めて「商品」になる。逆ではない)、作品を買った人が値段が上がるのを待って転売したとして、その転売で得た利益は作者には入らないよな、もちろん。それもすごいな。。取引としては当たり前だけど。というか、芸術作品が市場で取引されるとき、作者から(代理人とかを通して)買い手へ売るか、買い手からさらに買い手へ売るか(転売)しかない気がするな。なんかそういう意味では、再生産が不可能である理由は違えど、土地と似ているかもしれない。さっきの「マルクス資本論入門」からの引用のなかで、土地と骨董品がともに再生産不可能な例として並べられていたのは偶然ではないかもしれない。えーと、では、「芸術作品」を買う、っていうときの転売目的じゃない場合を考えてみる。絵画とか「モノ」として在るものだとちょっとややこしいので(モノとして転売できるから)、とりあえず分かりやすくするために転売できない「コト(経験)」の場合を考えよう。つまり、演劇とかダンスとかライブなどのパフォーマンスの場合。と、そのまえに芸術業がいったい何業なのか、サービス業なのか製造業なのか、と思って統計局のサイトにある日本標準産業分類を見てみると、「大分類 L 学術研究,専門・技術サービス業」のなかの「専門サービス業(他に分類されないもの)」のなかの「著述・芸術家業」「芸術家業」に分類されている。やっぱりサービス業だよな。たぶん、統計局は正しい。いままで見てきたように、芸術作品の価値はモノとしての価値にはない。なので少なくとも、製造業ではない。モノやコトを介した特殊なサービス業なのだ。とすると、演劇とかダンスとかライブなどをお金を払ってみるとき、受容者はなにを買っているのかが見えてくる。つまるところ、演劇とかダンスとかライブというコト=経験を買っているのだ。そしてその代金を「入場料」と呼んだりもすることと関係あるのかどうか分からないが、あくまでも買っているのは「経験」であって「(経験から感じる)楽しさ・面白さ」を買っているわけではない。そもそもある経験が楽しいか・面白いか、は経験する主体の主観的なものなので、売り買いできるような質のものではない。言い換えれば、経験する権利を買っているのであって、そこには経験の価値を保証するものはなにもないし、できるものでもない。経験が豊かなものになるかどうかは、経験する主体にかかっているからだ。これは転売できる「モノ」の場合でも同じ。「芸術作品」を買う、というとき、買うのは芸術的「モノ」ではなく「モノ」を介した芸術という「コト(経験)」なのだ。たとえば、私が高校のときに気付いたのは、美容室に行って髪を切ってもらうときに、美容師さんとはなしが盛りあがるとなんとなく仕上がりもよい気がする、ということで、これはいつかも書いた「サービスを受ける技術」のこと。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20080825 散髪の仕上がりには美容師さんの髪を切る技術も影響するけれど、うまいオーダーの仕方とか信頼関係のつくり方とかそういう髪を切ってもらう側の「サービスを受ける技術」がかなり影響してくる。そりゃ、お互いの雰囲気がよい方が美容師さんも切りやすいに決まっている。非協力的なお客はどんなサービス業にも嫌われるだろうし。えーと、なんだっけ。とにかく、芸術っていうのは、モノやコトを介した特殊なサービス業であり、サービス業であるからには、サービスする側とサービスされる側の共同作業であって、それがうまくいくかどうかにその経験が豊かになるかどうかがかかっている、ということ。もちろんサービスする側の努力は前提としてあるけれども、そこからさらに先に行くには、サービスされる側の努力が必要で、ちょっとした努力でもだいぶ違うんじゃないかということ。「芸術作品」を(商品として)買うっていうとき、「商品」を買うときのように誰にでも同じ「再生産性」という価値を買っているわけではないことに注意しないとわけが分からなくなる。価値そのものを買っているわけではなく、価値の基盤、価値の可能性を買っている、くらいに思った方がよいのではないかしら。とりあえず、それを、芸術作品の「商品」になりきれない部分(のひとつ?)ということにして、あとは、「付加価値」という観点からみれば、「商品」も「作品」も、もはや同じもののベクトル違いでしかないんじゃないか、というのは、6月29日に書いたから今回は触れない。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20080629 Fennesz「Black Sea」を何回かタワレコで試聴するけれど、なんとなく買う気になれず、Ricardo Villalobos「Vasco」も同じく。いまヘッドフォンで聴いているのはRicardo Villalobosの自作曲のみをつかったミックスCD、「Fabric 36」。キリンジのベスト盤もとくに買う必要はないかも。ディスク1が弟の堀込泰行さん作詞作曲のものを集めたもので、ディスク2が兄の堀込高樹さん作詞作曲のものを集めたもの、とのこと。なんとなくCD屋には行くものの楽しくないので、梅田の紀伊国屋の経済コーナーに行くも、小田中 直樹「ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう」はない。検索機に訊いてみるといつも「経済思想コーナーにあるよ」というのだけれど、いくら探してもない。なので東梅田の旭屋書店で買う。最初、経済学と間違えて経営学のところに行ってしまった。いまは「第1章 分配」の「1・2 分配をめぐる考察の系譜」。とてもおもしろい。あと、この前の日記にて、『カオス的振る舞いをする数式から自動で吐き出される数値をシンセに直接いれる』と書きましたが、そういう数値をメロディに置き換えるとかではないです。エンヴェロープやらVCOやらVCFやらもう忘れましたが、いろいろ各種の数値に使いました。でも結局はピョイーン、ギューーーン、ボッ、チュルルルル、とかいう音が延々でるだけです。なぜそうなるかというと、そういう風に数値とシンセを繋いだからで、そこがそもそもの限界です。そのプログラム自体はibookが壊れたりG3が壊れたりして、失われました、たぶん。どっかのMOに入っているかもしれませんが。エンツォ・マーリ「プロジェクトとパッション」の発行がまた延びている。2009年1月16日発行予定。出るのだろうか。