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2017-02-02

[]「恋愛工学」はなぜ危険なのか:女性蔑視と愛の砂漠

The Review of Life Studies Vol.8 (February 2017):1-14 より転載】

「恋愛工学」はなぜ危険なのか

:女性蔑視と愛の砂漠

森岡正博(早稲田大学教授)


1 はじめに

2016年5月、東京大学の学生と大学院生らが、女子学生への強制わいせつ事件を起こし、逮捕された。2016年9月、慶應義塾大学の学生らが女子学生に強い酒を飲ませ集団性的暴行を行なったと週刊誌が報道した。大学は学生らに無期停学などの処分を行なった。2016年9月、千葉大学の学生らが女性に酒を飲ませて集団で性的暴行を行なったとして、集団強姦致傷容疑で逮捕された。立て続けに起きたこれらの事件は、大学関係者に大きな衝撃を与えている。

『週刊文春』2016年12月22日号は、千葉大学の学生である増田峰登被告についての記事を掲載している(「千葉大集団強姦主犯が私淑した外資系ナンパ師」(131〜132頁))。その記事によれば、被告は、藤沢数希氏の提唱する「恋愛工学」にハマっていたという。「恋愛工学」とは、藤沢氏がメルマガや著書で提唱するナンパのテクニックのことであり、「メルマガの購読者数は五千人超」、著書は四万部を売り上げたとされる。現在の出版不況を考えれば、相当数の読者を獲得していると言える。『週刊文春』の記事では、「恋愛工学」の内容は「デートレイプに繋がりかねない」との批判が紹介されている(132頁)。もしほんとうにそのような内容だとすれば、「恋愛工学」に心酔した結果、被告は犯罪に及んだというわけなのだろうか。

この記事に対して、藤沢氏はウェブ雑誌『BLOGOS』(2016年12月14日)に、「週刊文春の記事について」と題する文章を発表している。藤沢氏は3点に絞って『週刊文春』の記事に反論する。(1)作者には表現の自由がある。「犯罪の話ばかり書いてあるような小説であっても、本当に伝えたかったのは愛だったり、人間賛歌だったりする」。(2)「恋愛工学」は性犯罪とは真逆である。「恋愛工学さえ知っていたらこんな事件を起こさなくてもよかったのに、という声がいくつも挙がっていた」。(3)一部の表現だけを切り抜かないで欲しい。「一部の文言だけを切り取るのではなく、全体としてとらえて欲しい、というのが作家としての僕の願いだ」。

そこで私は、まず藤沢氏の著書『ぼくは愛を証明しようと思う。』(2015年 幻冬舎)に何が書かれているのかを詳しく紹介し、検討していくことから始める。以下の批評は、「恋愛工学」に批判的検討を加えることが、今日の社会情勢を鑑みたとき社会の公益に大いに資するとの学問的見地からなされるものであり、藤沢氏本人と藤沢氏の公刊した文章とを明確に分離したうえで遂行される。


2 『ぼくは愛を証明しようと思う。』には何が書かれているのか

この本は小説の形式で書かれている。主人公の「ぼく」は非モテで、好きな女性と恋人関係になることができない。その主人公が、女性を次々と落としていくナンパのプロである永沢さんと出会い、ナンパのテクニックを一から伝授してもらう。このテクニックこそが「恋愛工学」である。主人公は「恋愛工学」のテクニックを実践し、狙った女性たちをナンパできるようになる。そして次から次へとセックスを繰り返していく。小説の冒頭には、「恋愛工学」に熟達した時点での主人公と永沢さんの会話が置かれている。

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「ああ、無料のな」*1

この会話は、本書を貫く基調低音である。そして永沢さんが主人公に教授するテクニックの内容が、本書の中核部分を構成する。

まず、永沢さんは主人公に対して「モテ」を定義する。

モテ=ヒットレシオ×試行回数*2 (この部分はゴチックによる強調)

ここでヒットレシオとは「試行がうまくいく確率、つまり女が喜んで股を開く確率」のことである。つまり、モテとは、ナンパしてセックスした回数のことである。そして「恋愛工学」とは「ヒットレシオと試行回数を最大化するために」開発された「テクノロジー」のことである*3。主人公は永沢さんと一緒に、街コンに出かけていき、店の中や路上で次々と声かけを繰り返す。そして、永沢さんは不器用な主人公に、「恋愛工学」のテクニックを教えていくのである。それらのテクニックは、これまでの心理学系のナンパ本などで言い尽くされたものがほとんどであるが、この本ではそれらにキャッチーな名称が付けられており、ゴチックで強調されているので、印象に残りやすい。いくつか紹介しておきたい。

イエスセット」・・・相手が「イエス」と答えることになるような質問を繰り返すと、「家やホテルに誘われても、相手はまたイエスと言ってしまう」。

ディスる」・・・「恋愛工学では、ギリギリ笑える範囲で相手を馬鹿にしたり、からかったり、失礼なことを言って、恋愛対象として相手に興味がないように振る舞う」。その結果として、相手はこちらに惹かれていく。

タイムコンストレイントメソッド」・・・あと20分しかないなどと言って、会話に時間制限をつける。これによって、こちらが重要人物であるかのような錯覚を起こさせる。

返報性の原理」・・・恩を売っておいて、断わりにくくする。*4

知り合えた女性たちをリスト化し、彼女たちのルックスに「上の下」「中の下」などのランクを付ける。そして優先順位を付けて次々とアタックするのである。永沢さんは、主人公に向かってさらに「恋愛工学」のテクニックを説く。

モテスパイラル現象」・・・「単に他の女にモテている男がモテる、という恐ろしい事実」。だから、自分はふだんからモテているという演出するのがよい。

リーディング」・・・「デートというプロセスは、女とラポールを築き、セックスへとリーディングしていく行為に他ならないんだ」。*5

セックストリガー理論」・・・「一度でもセックスできてしまえば、かなりの確率で女は男に惚れることになるのだ」。*6

主人公はしだいに「恋愛工学」に熟達し、多数の女性たちとセックスを繰り返し、つぎのような思想を持つに至る。

優秀な恋愛プレイヤーは[クラブやストリートなどのナンパの場所→アポを取って飲みに誘うレストラン→自分の家]の3点で張られるトライアングルをコンパクトにしている。こうして女に自由に動けるスペースを与えず、考える時間も与えないままにセックスに持ち込むのだ。

女はやさしい男も、誠実な男も求めちゃいない。驚くことに、イケメンや金持ちといったこともさほど重要な要素ではなかった。女は、単に他の女とセックスできている男が好きなのだ。人間のメスも、グッピーやメダカ、それにウズラやキジのメスたちといっしょなのだ。

女と恋愛するのに、愛など必要ないのだ。*7

永沢さんは、さらに主人公に教授する。恋愛プレイヤーは、女性たちを喜ばせるためにナンパするのであると。

そんなレベルの高い男に自分が見初められることによって、その女は、何日もいい気分でいられるんだ。・・・俺たちは、ちょっと焦らしたあとに、そんな女に連絡してやる。また会うことを提案する。こうして女に大いなる喜びを与える。

恋愛工学の目標は、女のハートに火をつけることだ。そして、俺たちに抱かれたいと渇望させること。*8

と同時に、「恋愛工学」の最終目的がセックスであることは揺るがない。

これまで様々なリスクを取って、ゲームをプレイしてきたのは、ひとえにこの果実のためだ。プレイヤーの努力は、セックスで報いられるのである。

僕たちプレイヤーは、熟練した金庫破りが精密な道具を使い分け、どんな金庫の扉も開けてしまうように、恋愛工学の様々な道具を使って、女の股を開いてしまうのだった。*9

以上の引用に、「恋愛工学」の思想がクリアーな形で表明されていると見てよいだろう。小説では、このあと、主人公がつねに複数のセフレを同時進行する状態になる。しかし、セクハラの訴えによって会社を解雇され、失意の内に昔の女性と再会する。そして彼女との純愛に目覚め、「ひとりの女を愛することを学びたい」と思うようになるところで終わっている*10

この最後のパートは、全体を読んだ感想から言えば、あきらかに付け足しであると私は思うし、多くの読者もそう感じるのではないだろうか。読後感として圧倒的なのは、やはり中盤の「恋愛工学」のテクニックを解説する部分である。その証拠に、テクニックに関してはゴチックによる強調が何度もなされているのに対し、ラストの純愛部分にはゴチックは一切ない。本書の目玉は「恋愛工学」の伝授であり、ラストは本書が不謹慎だと糾弾されたときのためのただの言い訳にすぎないと理解するのが出版の約束事を熟知した大人の読者の態度であろう。

本書に横溢しているのは、セックスを最終目標とし、女性を「股を開く」メスとして捉える「女性蔑視」の思想である。女性に喜びを与える、幸せにするとの言辞も書かれているが、それは「恋愛工学」の「女性蔑視」を糊塗するための言い訳にすぎない。たとえば、女は圧倒的に恋愛経験が多いから、いくらナンパしたとしても「お前に女を傷つけることなんてできない。たとえ、傷つけようとしたってな」と永沢さんは語っている*11。これは、「恋愛工学」によるナンパで女性を傷つけてしまうのではないかと脳裏で思ってしまう男性たちに、「女は傷つかない」から大丈夫、と思わせる言い訳として機能し得るようになっている。また、彼女を自宅に呼んだあと、「彼女がベッドの上に座ったら、お前もとなりに座って、そのままキスして、抱きつけ」*12と書かれている箇所は、今日ではデートレイプの教唆と取られても仕方ないだろう。

以上、『ぼくは愛を証明しようと思う。』から、長い引用を行ないながら、その内容を吟味してきた。これは「一部の文言だけを切り取るのではなく、全体としてとらえて欲しい、というのが作家としての僕の願いだ」とする著者の意向を汲んだものである。私の引用紹介に強い選択バイアスがあると思われる方は、ぜひご自身で著書を読んでみていただきたい。以降の記述も、同様のポリシーで行なう。


3 『週刊金融日記』に見る「女性蔑視」の思想

しかし、この本に、それほど強い「女性蔑視」があるのかどうかよく分からないと思われる読者もいることだろう。また、この本はあくまで小説の形を取っているのだから、フィクションにいちいち道徳的な鉄槌を下すのはおかしいと思われる読者もいることだろう。そこで、この本の内容のネタ帳とも言える藤沢氏の有料メルマガ『週刊金融日記』を見ていくことにしたい。このメルマガは、2017年1月の時点で250号が刊行されている。その内容は、著者の金融関係・政治関係のエッセイや情報、対談、そして「恋愛工学」についての解説と質疑応答などである。これらの日記からいくつかを任意に取り出して以下に紹介する。メルマガの全体はまだ読むことができていないが、以下の記述からその全体像はある程度推し測れるであろう。

「恋愛工学」の理論として、「一度でもセックスできてしまえば、かなりの確率で女は男に惚れることになるのだ」という「セックストリガー理論」というものがあることは先に紹介した。それについて、『週刊金融日記』第35号で詳しい解説がなされているので長くなるが引用しておきたい。以下の箇所では、恋愛感情を起こさせるためには、挿入が重要だと強調されている。

そして、当研究所はそうした困難を乗り越え、さらに面白いデータを得ることができました。膣外射精どころか、実は、最初のベッドインで、口でやってもらって口内射精しても、手の中で果てても、あるいは自分で最後はオナニーでもして、女性のお腹の上で出しても、やはり同様に女の恋愛感情を発火させることができたのです。但し、この場合は、短時間であっても、挿入というプロセスが必要であり、どうしてもまだセックスする気にならないけど、フェラだけならやってあげる、というようなパターンではダメだということも、同時に判明しました。

まとめると、とりあえず何とか挿入(この場合、コンドームの有無は関係ない)と、とりあえずどこでもいいからとにかく射精する、というふたつの条件がそろえば、恋愛感情を発火させるトリガーを十分に引けることが判明したのです。もちろん、恋愛工学の法則は確率的なものなので、こうした条件を満たしても、100%の確率で恋愛感情を呼び起こせるとは限りませんし、第34号で論じたように例外はあります。それでもこのふたつの条件を満たせば、かなりの確度で女のハートに火が点くのは確かなんですよ。

要するに、藤沢氏の「セックストリガー理論」とは、性的に親密な場面で女性に恋愛感情を起こさせるためにはどうしても「挿入」が必要だという理論である。著書には、女性をナンパしたらなるべく早く、できればその日のうちに自宅やホテルに誘うべしと説かれているので、それと併せて考えれば、「セックストリガー理論」とは、ナンパしたその日のうちに挿入せよ、そうすれば女性はこちらに「かなりの確度で」恋愛感情を持つようになるというメッセージであることが分かる。女性の心理につけこみ、女性に蔑んだ言葉を効果的に発して混乱させ、なるべく早く二人きりになって挿入せよ。「恋愛工学」とは、このような考え方を教唆するものである。ここで説明される「セックストリガー理論」には、著者の主張に反して科学的な根拠がない*13

他の箇所を見てみよう。『週刊金融日記』第40号で、妻とセックスレスであるとの質問に対して、藤沢氏は次のように答えている。まず質問者に、タイなどに行って、「ゴーゴーバー」の若い風俗嬢とセックスしてきたらどうかと言う。そして妻が夫の変化に気づいたときに、妻に次のようにすればよいと言うのである。

そこで、

「お前、なんもしてなくて毎日家で何してんの?」

とか、ガツンと言ってやりましょう。お前はダメ人間だって、ディスってさらに値段を下げるんです。たまに香水の匂いを付けて帰ってきたりしましょう。

女って、他の女の匂いにやけに興奮しますからね。それにお前の代わりはいくらでもいるってことを分からせることができますし。

こうやって蜜壷の値段をどんどん下げていけば、自然と妻の方から「抱いて」みたいにやってくるでしょう。そうしたら、しょうがないので、「このメス豚」とか心のなかで呟きながら、セックスしてやって下さいよ。

このあと著者は、離婚準備金を用意するように茶化しているが、上記の文章が典型的な「女性蔑視」であることは誰の目にも明らかであろう。ここには著者の言う「恋愛工学」のテクニック(「ディスる」「モテスパイラル現象」)が使われている。「恋愛工学」とはこの引用部分のような精神的土壌から生まれてきたものだと言える。

もうひとつの例を紹介する。これは、付き合っている女性が自分のキャリアのために中絶を希望しているが、中絶を中止させたいという男性からの質問に答えたものである(『週刊金融日記』第184号)。

こっちが「子供産んでいいよ」と言って、子育ての素晴らしい環境を用意してあげると、ふだんは脳ミソなんか使ったことないのに、なぜかこういうときだけフル回転して「いま出産すべきでない10個の理由」を考えます。

ところが、ヤベッ、中絶してくれるよね? という困った顔をしていると、彼女たちは勝手に「結婚しなくても、ちゃんと子供を生んで育てられる10個の理由」を考えるんですよ。

女性の脳みそって、学歴があったり、キャリアがあっても、基本的に、ハヌマンラングールのメスの脳みそとほとんど変わらないので、物事を客観的に考えるのではなく、「相手の男性とはゼロサムゲームだから相手の男性が頼んでくることの反対をするのが自分の得」という、プレインストールされた簡易アルゴリズムに従って意思決定するんですよね。

これを「女性蔑視」と言わずして何と言おう。もちろん、これは質問者の知性レベルに合わせた対機説法であると言いつくろうことはできるだろうが、しかしながら、ここまで「女性蔑視」をあらわに示した文章にそうそうお目にかかれるものではない。

藤沢氏の言葉「「犯罪の話ばかり書いてあるような小説であっても、本当に伝えたかったのは愛だったり、人間賛歌だったりする」」を思い出していただきたい。上に引用した二つの文章のいったいどこに「愛」や「人間賛歌」があり得ると言うのだろうか。いや、きっと藤沢氏はあり得ると言うだろう。というのも、同じ号のメルマガに次のような文章があるからである。

金融日記恋愛工学研究所というネット上に存在するヴァーチャルラボを中心として、恋愛工学という理念でつながった同志たちが、この荒涼とした恋愛市場で互いに連携しながら、ひとりでも多くの心優しい女性を救い出していくための物語が、このメルマガなのだと思います。

藤沢氏は、「恋愛工学」とは、「心優しい女性を救い出していくため」のものだと言う。さきほど引用した文章を含むような「恋愛工学」が、である。藤沢氏の文章は、一方において女性の性を徹底的に貶め、男性のテクノロジーによって自動的に「股を開く」ような存在としておきながら、他方において男性に向かっては自分たちこそが女性を救う行為を行なっているのだと思わせ、「恋愛工学」を実践する男性たちを免罪しようとしている。「女性蔑視」を行ないながら、それを救済の行為だと言いくるめようとするこのような狡猾な二枚舌こそが、「恋愛工学」のはらむ最大の悪であると私は考える。藤沢氏の著書のタイトル『ぼくは愛を証明しようと思う。』は、その悪を端的に表わしたものである。

「恋愛工学」の目的は、(1)女性に喜びを与え、女性を救い出すことであり、(2)女性に「股を開かせ」ることである。ここにあるのは「恋愛工学」を実践する男性のエゴイスティックな欲望を満たすことに他ならない。(1)については、女性に喜びを与え女性を救い出すことのできる自分に達成感を覚えて満足することが目指されており、(2)については、直接的に女性とセックスをすることが目指されている。結局のところ、自分の満足と達成感が最終的な目標なのである。「恋愛工学」に決定的に欠けているのは「共感」だ。目の前に人格をもったひとりの女性である人間がいて、いろんな喜びや悩みを持ちつつ日々を生きているということに対する「共感」が欠如しているのである。カントならば「恋愛工学」を女性の手段化の最たるものとみなしたであろう。「恋愛工学」においては、「女性」というものは、「恋愛工学」を実践する男性がみずからの欲望を達成するための「手段」以上でも以下でもないからである。

そして、著書『ぼくは愛を証明しようと思う。』のタイトルには「愛」という文字があるが、「恋愛工学」それ自体は、「愛」からもっとも遠いものである。「恋愛工学」に心酔している若者にはまったく理解できないと私は思うが、私はここにこれを明記しておく。アリストテレスは「愛」について、「愛とは、その人に善いことが起きるのを願い、その人に善いことが起きるように行為することである」と結論づけている(『ニコマコス倫理学』)。すなわち、「愛」とは愛する自分の満足感や快楽や情熱のことを言うのではなくて、愛の対象となる人物がほんとうの意味で幸せになるように心から願い、その人が幸せになるように行為することだというのである。この考え方は、「人間の本性なんてどす黒いぜ、愛なんて信じるのはお子様だけだ、男も女もみんなエゴで生きてるんだよ!」という絶え間のない2000年以上にわたるディスりの連続の中で今日まで生き残り、多くの賢者たちや心ある市井の人々に受け継がれてきた考え方である。そうであるがゆえに、この「愛」の考え方は、実は信じられないほど頑強なものである。簡単に突き崩せるようなものではない。


4 「恋愛工学」を実践する者たちに伝えたいこと

しかし、そもそも、このような「恋愛工学」を真に受けて実践するような男たち、とくに学生たちがほんとうにいるのだろうか。信じがたいことだが、『週刊金融日記』を読むかぎり、そのような男たちは多数いるようである。第35号には、大学院生と名乗る男性からの質問が掲載されている。その質問の中で、男性は「恋愛工学」を使って最近彼女ができたとしており、次のように書かれている。

彼女のスペックは、以下のとおりです。

・・・(中略)・・・

けれども、男は現状に満足したら終わり、という藤沢さんの言葉を忘却してはおりません。1人の彼女で満足せず、これからもどんどん手をひろげ、複数の女子と関係をもちたい、と思います。

目標はセックスの数を増やすことという「恋愛工学」を真に受けている様子が見て取れる。複数の女子と関係を持つために「恋愛工学」を活用していきたいという意気込みが伝わってくる。

第40号には、「毎週メールマガジンで恋愛工学の勉強をしている」という大学生から、四人の女の子から会おうというメールが来ているが、女の子にかけるべきコストを教えてほしいという質問が来ている。

そこで、藤沢先生に、それぞれの女の子に掛けるべきコストを、だいたいでいいので教えて欲しいのです。

試験が月末にあるので、時間的コストもけっこう重要です。

僕はたぶんコストが安い順に会って、一番コストが高い女の子を月の真ん中にもってきたいと思っています。

このような会計学的発想は、「恋愛工学」に顕著なものである。この大学生はその発想に見事に染まっていると言えよう。

時期の異なる3つの号のメルマガの内容を見てみたが、他の247個の号の内容も推して知るべしであろう。関心のある方はぜひご自身で検証していただきたい。

ここまで「恋愛工学」について見てきて、ふたたび冒頭の集団強姦致傷容疑で逮捕された千葉大生のことを思い出してみたい。彼は「恋愛工学」にハマっていたと報道されている。その真偽はいまだ定かではないが、実際に「恋愛工学」を学習している大学生や大学院生がいると藤沢氏自身が述べているのである。事態は深刻な水位にまで上昇しているのではないかと考える人が出てきたとしても不思議ではないだろう。

しかしやはり「恋愛工学」はアンダーグラウンドの存在であって、一般メディアに現われることはないのだから心配しなくてもいいという考え方もあり得るだろう。ただし注意しておきたいのは、「ナンパ教室」のような話題はすでに一般マスメディアにも現われ始めているということである。たとえば、NHKのテレビ番組「ねほりんぱほりん」(Eテレ)の2017年1月11日放送「ナンパ教室に通う男」では、「恋愛工学」に似たテクニックを学ぶ男たちが多数登場している。

私がどうして「恋愛工学」にこんなにこだわって、それを批判しているのかというと、私もまた、恋愛に奥手で女性にどう迫っていけばいいか分からない若い男性たちに恋愛と性愛のアドバイスをしたい気持ちがあるし、またいろんな女性たちとセックスの冒険を重ねていきたいという彼らの気持ちが理解できるからである。しかしながら、その道は、女性をさげすみ、女性の「股を開かせ」ることを指向する「恋愛工学」の道であってはならないと思うからだ。私は、「恋愛工学」に充ち満ちている「女性蔑視」の思想に若い男性たちが染まってほしくない。その先はほんとうのデッドエンド、行き止まりになっていることを知ってほしい。

そのかわり、もし好きな女性とつきあいたいからそのための「女性蔑視」ではない本物のアプローチの仕方を知りたいということならば、私の『草食系男子の恋愛学』(2008年 メディアファクトリー)をぜひ読んでみてほしい。私はその本で、女性蔑視に陥ることなく、ひとりの好きな人と付き合い続けていけるやり方を伝えようと思った。まずは、日常の挨拶の仕方からはじまって、相手の話の聞き方、自分のしゃべり方はどうするのがいいかについて考え、そして結局は好きな女性に対して誠実に向かうことがいちばんの早道なのだと説いた。その先でセックスの扉は開かれる。この本を書くにあたっては、たくさんの女性たちに原稿を実際に読んでもらい、意見交換をした。彼女たちの生の声を取り込み、女性の目から見ても違和感の少ないものにした。この本を作り上げる過程で、私も彼女たちからたくさんのことを学んだ。みなさんもこの本を読めば、ふだん女性たちが面と向かっては言ってくれないほんとうの意見を知ることができるだろう。そしてこのようなアプローチのほうが、「セックストリガー理論」よりも、ずっと実証的なのである。この本を読んでくれた女性読者の多くは、その内容に好意的である。私がここであえて自著に言及しているのは、それが女性との恋愛や性愛の仕方をメインテーマにしながらも、「恋愛工学」とは対極のメッセージを発している本だからだ。

『草食系男子の恋愛学』から、セックスに関して一カ所だけ引用しておきたい。

好きな女性とセックスするときに、もっとも大事なことを一つあげよと言われれば、「それは相手に対する敬意だ」と私は答える。いかに変態でインモラル(不道徳)なセックスをしたとしても、両者が同意していて、また相手に対する本物の敬意があれば、それは誰からも軽蔑されるべきではない凜々しいセックスである。これに対して、もっとも恥ずべきセックスは、相手の弱みにつけ込んで、相手を自分の欲望達成の道具にするようなセックスだ。このようなセックスが地上から消えてなくなることを、私は真剣に願っている。(文庫版 115頁)

「恋愛工学」が提唱するセックスは、この「もっとも恥ずべきセックス」以外の何ものでもないと私は考える。

もし私のこの文章を読んでいる「恋愛工学」実践生がいたとしたら、私からあなたに言いたいのは、この「恋愛工学」に仕込まれた「女性蔑視」という毒薬は、いまはまだその作用ははっきりとは現われないかもしれないけれど、将来、あなたにほんとうに好きな人ができたとき、この毒薬がじわじわとあなたの内部から染み出してきて、好きな人との関係を内側から不可逆的に壊していくことになるということだ。そのときにあなたは「こんなはずじゃなかった」と頭を掻きむしることになるだろう。おそらく「恋愛工学」に興奮していたり、その成果を経験したり、それにすがろうとしているあなたには私の声はすぐには届かないに違いない。そのことはよく分かっている。ただ、このようなことを言う大人がここにいたという事実を頭の片隅で覚えておいてくれるとうれしい。私にも若いときがあり、若いときにはあなたと同じような悩みにあえいでいた。私はモテなかったし、セックスできなかった。自分にまったく自信がなかった。ちょっとアウトロー的な権威者風の男が自信満々に言う言葉に弱かった。当時も「恋愛工学」のようなものは存在した。だが私は「恋愛工学」のような道へと誘われながらもそこから逃れることができた。そしてその後の何十年に渡る紆余曲折のあった人生経験のなかで、女性の身体や精神や感受性やセクシュアリティについていろんなことを我が身で学んできた。それらを踏まえて、いまここでこうやって書いている。たしかに藤沢氏の『ぼくは愛を証明しようと思う。』で紹介されている個々のテクニックに効果がある場合もあるが、その全体を一本につないだ「恋愛工学」の道は、人を荒涼たる瞬間欲望達成と女性蔑視の砂漠へと導き入れるものでしかない。もちろん同書の最終章にもそれはほのめかされている。しかし、すでに述べたように、同書の最終章は、その本が社会から糾弾されたときのための「言い訳」として書かれたものにすぎないのではないかということを冷静に洞察できる知性をあなたには持ち続けてほしいと私は心から願わざるを得ない。

「恋愛工学」がなぜ危険なのかについては、まずはそれが「恋愛工学」実践生の精神を、本人も気づかないうちに内側から壊していくことになるからだというソクラテス的な答えを与えておきたい*14。もちろんそれよりももっと重大なのは、「セックストリガー理論」を含む「恋愛工学」の無分別な実践が女性たちに取り返しの付かない実害を加え、女性の尊厳を毀損してしまう危険性に満ちていることである。『週刊金融日記』の免責事項に「強引に性行為に及ぼうとする行為は、強制わいせつ罪、強姦罪などで告訴される可能性があり、本メルマガはそういった犯罪行為を助長するものでは決してありません」とわざわざ書かれていることの真の意味を、「恋愛工学」実践生はじっくり考えてみる必要があるだろう*15

話を元に戻すと、長続きする恋愛に必要なのは、相手を尊重できること、相手の立場に立てること、相手に共感できること、相手の幸せを願えることである。そのベースができてはじめて、我々は恋愛技術と性愛のテクニックを互いの快楽のために肯定的に開花させることができる。これが、私があなたにもっとも伝えたいことだ。

(終わり)

*1:「プロローグ」。電子書籍版からの引用(以下同じ)。

*2:第1章。

*3:同上。

*4:以上は、第2章。

*5:以上は、第3章。

*6:第4章。

*7:以上は、第4章。

*8:以上は、第4章。

*9:第5章。

*10:第6章。

*11:第3章。

*12:第3章。

*13:「恋愛工学」に入れ込んでいる読者からは、「このエッセイには「恋愛工学」に対する科学的な反論がまったくない。だから「恋愛工学」は否定されていない」という反論がくるかもしれない。「恋愛工学」の科学性については、本エッセイではあえて書かない。それでも気になる人は、そもそも「恋愛工学」がどれほど「科学的」なのかについて、さきほど引用した「セックストリガー理論」についての文章を以下に研究資料としてさらに長く引用しておくので、じっくり読んだうえで考えてみることをお勧めする。
 「具体的には、コンドームあり/なし、膣内/膣外での射精、また、ピル服用中かそうでないか、などの場合分けをしてデータを集める必要があります。言うまでもなく、現実世界で避妊なしの中出しは極めてリスクが高く、簡単に実験するわけには行きませんが、幸いなことに、そのようなことをするまでもなく、我々はいくつもの重要な知見を得ることができました。
 まず、コンドームやピルなどの、避妊の有無と、この恋愛感情の発火ということに関しては、すぐに信頼できる結果が出ました。論理的に考えれば、避妊をしていれば妊娠する可能性がないわけですが(事故が起こらなければ)、女の恋愛感情の発火メカニズムは、この避妊の有無を判別できないようです。言い換えると、コンドームを付けていても、付けていなくても、ほぼ同じぐらいの強さで女の恋愛感情の引き金を引けるのです。人間の本能が作られたのは、避妊などはもちろんのこと、セックスと妊娠の因果関係さえ不明であった狩猟採集時代なので、これは驚くには値しないかもしれません。
 次は、膣内射精か膣外射精かですが、これはコンドームを付けて膣内で射精する場合と、膣外で射精する場合で比べてもいいですし、まあ、いわゆるコンドーム無しの外出し避妊法(オフィシャルには決してオススメできませんが)などで検証することが可能です。驚くことに、膣外で射精しても、やはり同様に恋愛感情の引き金を引けるのです。
 ちなみに、ここまでの対照実験は、同一の女性でシチュエーションを変えて行うということはもちろんできず、全て「はじめてのセックス」で行うことが必須です。一回一回別の女性が必要であり、どれほどデータを収集するのが困難か想像できると思います。
 そして、当研究所はそうした困難を乗り越え、さらに面白いデータを得ることができました。膣外射精どころか、実は、最初のベッドインで、口でやってもらって口内射精しても、手の中で果てても、あるいは自分で最後はオナニーでもして、女性のお腹の上で出しても、やはり同様に女の恋愛感情を発火させることができたのです。但し、この場合は、短時間であっても、挿入というプロセスが必要であり、どうしてもまだセックスする気にならないけど、フェラだけならやってあげる、というようなパターンではダメだということも、同時に判明しました。
 まとめると、とりあえず何とか挿入(この場合、コンドームの有無は関係ない)と、とりあえずどこでもいいからとにかく射精する、というふたつの条件がそろえば、恋愛感情を発火させるトリガーを十分に引けることが判明したのです。もちろん、恋愛工学の法則は確率的なものなので、こうした条件を満たしても、100%の確率で恋愛感情を呼び起こせるとは限りませんし、第34号で論じたように例外はあります。それでもこのふたつの条件を満たせば、かなりの確度で女のハートに火が点くのは確かなんですよ。」
 上記の「判明しました」「知見を得ることができました」「結果が出ました」のエビデンスはいったい何なのか。「対照実験」とは具体的に何なのか。それはこの文章の前後にもいっさい書かれていない。エビデンスがない以上、上記の文章は単なるポエムにとどまっていると言わざるを得ないであろう。ここまで読んでまだ分からない人は、科学とは何かについて初歩から学びなおしてほしい。

*14:プラトン『クリトン』参照。

*15:これは「恋愛工学」の若者への影響を考える上で、重要な点である。ウェブには、「セックストリガー理論」を正しいものとする言説が多数存在する。たとえば、このような文章がウェブにある。「<恋愛工学最重要科目セックス・トリガー理論とは> 恋愛プレイヤーであれば、セックス・トリガー理論はもはやプレーヤーであれば、誰でも知っていると思います。「女は好きな男とセックスするというよりもむしろセックスした男を好きになる」という理論です。というよりももう一種の法則ともいえるレベルの信憑性を誇ります。」(https://note.mu/itwarrioronc/n/nf8ef80a2f07a 2017年2月1日閲覧)

2015-07-13

[]『書評という快楽:「臨死体験」から「AV女優」まで』

2002年にキノコプレスから電子配付していた拙著『書評という快楽』が、このたびKindleにて電子出版されました。250円。私がかつて朝日新聞に連載していた書評の全文に加えて、1986年から2001年に発表したその他の書評を集めたものです。それにさらに加えて、「書き下ろし 朝日新聞書評の内幕」という文章を本書の最後に付けました。

アマゾンに行って、無料サンプルをダウンロードすると、内容の感じは分かりますのでぜひ。各書評には、「おまけ」として、2002年の視点からの各著者や時代についてのコメントを新たに書きました。内輪受けの感もありますが、けっこう面白いんじゃないでしょうか。

「書き下ろし 朝日新聞書評の内幕」にはこんな描写もあります。

 そうこうするうちに、第一回の書評委員会が開催されることになった。

 私は、さっそく新幹線で東京に行って、築地にある朝日新聞本社新館にある会場へと向かった。新聞社というのは、なかなか警備がきびしい。まず新館の1Fのところで、受付の人に行き先を告げないといけない。書評委員会に出るのだと言うと、カウンターから書評委員のバッジを出してくれた。これを付けていると怪しまれないらしい。エレベーターで上の方の階まで行く。会場に着いてみると、朝日新聞の編集者・記者さんたちが、多数待機していた。顔見知りの担当編集者もいる。ということで、日本社会ではお決まりの名刺交換。それが終わったところで、さっそく、新刊を見て選んでくださいということになった。

 ここで、仕組みの解説。新刊が出ると、各出版社は、朝日新聞の書評担当に送る。編集者たちが手分けして、まず一次審査をする。どうも、この一次審査で、かなりの本がふるい落とされるらしい。あとで分かってきたのだが、この振り分けには、編集者たちの嗜好がかなり反映されているらしい。出版社が強力にプッシュする本は、けっこう入ってきているところを見ると、話題書籍は取り上げたいという新聞側の意向もほの見える。そのほか、この一次審査には、いろんなことがあるのだろうなということが、ずいぶんあとになって、分かってきた。でもまあ、一次審査では、残るべき本は残っているというのが正直な感想だ。くだらない本や、極端な専門書ははずされる。マンガや児童書も、基本的にははずされている。本の好きな人が手に取るかもしれない、というたぐいのものが、基本的には選ばれている。あと、書評委員の書いた本も、原則としてはずされる。この一次審査は、月に二回行なわれる。それを通過するのは、百冊強である。・・・・・

そしてこの後に、選書会議という脅威のビブリオバトルの世界が繰り広げられるのである・・・・・。

2014-12-17

[]山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』

2014年12月共同通信配信

 トマス・アクィナスは、ヨーロッパ中世神学を大成させた哲学者だ。主著『神学大全』は、その圧倒的な分量と緻密な論理構成において、容易に人を近づけない荘厳さを帯びている。西洋哲学史にそびえ立つ最高峰のひとつなのだ。

 本書は、トマスが人間の「感情」をどのように捉えていたかに着目し、その思索の一端を私たちの目の前に展開したものである。これまで近づきがたかったトマスの哲学を、至近距離から検討することが可能になった。

 トマス哲学の基礎には、世界をその根底から肯定する「根源的肯定性」の思想がある。たとえば、「愛」と「憎しみ」は同じくらいの力をもって対立する感情であると考えるのが普通であろう。しかしながらトマスはそう考えない。なぜなら、「愛」は「憎しみ」なしにも存在しうるが、「憎しみ」は常に何らかの「愛」を前提にするからだ。すなわち、まず初発に「愛」があって、しかるのちに「憎しみ」が登場するというのである。

 このような小さな気づきが、世界を見る私たちのビジョンを大きく変えていくのだ。そしてそれは、絶望に陥った私たちが自分の生を肯定的な方向へと向き直していくための、かけがえのない力となる。これこそが、トマスが現代人に発する希望のメッセージなのである。

 聖書には「神は愛である」と書かれている。これは人間が受動的に感じる愛のことではなく、神が世界のすべてをその隅々に至るまで肯定し尽くそうとする能動的な意志の運動のことである。

 トマスは、「善は自らを拡散させる」と言う。世界の根底にある「これでよし」という肯定や希望は、それみずからの力によって、次々と人々へと伝達されていく。その明るい自己肯定の旋律を感受し、静かに受け止めることが宗教経験の本質である―。そうトマスが言っているように私には思えた。



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2014-07-17

[]塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ フェミニスト倫理の視点から』

2014年6月27日週刊読書人掲載

この本を読んではじめて、日本の人工妊娠中絶が世界のスタンダードからとんでもなく遅れており、日本の女性たちは時代遅れの環境で危険な中絶手術を行なっているという事実を知った。日本は医療技術の先進国だとばかり思っていたが、その常識が崩れ去ってしまった。この書評を読んでいるみなさんも、本書に目を通せば、日本の現状に唖然とするであろう。

中絶というと、女性のお腹の中の胎児を殺して、そのバラバラになった身体を掻き出すといったイメージを持っている人が多いのではなかろうか。私もそうであった。実際に日本の産婦人科で行なわれている多くの中絶が、そのような方法(拡張掻爬術:略称D&C)でなされている。手術は全身麻酔で行なわれる。しかしながら、世界のスタンダードを見てみると、この方法が主流である国は、先進国では日本以外どこにもないのである。そればかりか、いまやWHOは拡張掻爬術を使うべきではないと勧告しているのだ。

WHOが指定する方法は、真空吸引(略称VA)というものである。これは、局所麻酔をしたあと、電動あるいは手動で子宮内容物を吸引除去するやり方で、数分以内にすべてが終わる。女性はそのあいだ意識があるので安心することができ、痛み、出血、子宮穿孔リスクが少ない。これは胎児がまだごく小さい初期中絶に適用される方法で、米国では一九七〇年代に拡張掻爬術から真空吸引への転換が行なわれた。

米国で真空吸引を体験した女性の文章によれば、まず細いチューブが子宮の入り口に入れられ、機械のスイッチが押されてから、わずか数分間で子宮内容物が吸引される。排出されたものは「赤い少しドロッとしたもの」であり、肉眼では特別な物は何も確認できないと体験者は言う。いまやこれが先進国の標準である。

実は、もうひとつの新しい中絶の方法がある。それはミフェプリストンという中絶薬を使うやり方である。リスクがあるとの疑義もあったが、現在ではそれは否定され、WHOのお墨付きもあって、海外では通常に使われている。これはさらに画期的なものである。というのも、薬さえあればいいわけだから、妊娠した女性が自宅で中絶をすることができるのである。中絶は流産に近い方法で行なわれ、自分で処理するのでプライバシーの侵害の心配が少ない。重い月経のようだと表現される。著者も強調するように、これはまさに女性の自己決定権に即した中絶だと言えるだろう。

ところが、日本はこうした世界の潮流から完全に取り残されていると著者は言う。二〇一〇年に著者らが行なった調査によれば、実に九割もの医師が現在なお拡張掻爬術を行なっているのである。拡張掻爬術を行なうには、ある程度胎児が大きく育っていなければならないから、日本では、妊娠初期の中絶希望女性に対して、胎児が大きくなるまで待つようにとの指導がされることもあるようだ。海外では真空吸引ですぐに終わるにもかかわらずである。

ではなぜ日本でこのようなガラパゴス化が起きたのかであるが、それについては著者の綿密な歴史研究をぜひお読みいただきたい。一点、指摘しておけば、日本で中絶薬による自宅中絶を政府が規制しているのは、日本の刑法に堕胎罪があるからである。妊娠女性が自分の手で中絶をするのは犯罪なのである。日本の法体系では、堕胎は国家によって管理されるべきものであり、けっして女性自身がそれを行使してはならないのである。結局のところ、この問題は、国家による人間の再生産の管理という急所に行き着くのである。

本書の後半では、女性たちがみずからの身体をコントロールし、社会の中で自身の生き方を切り開いていくためのリプロダクティヴ・ジャスティスと、女性の経験からボトムアップのやり方で構築されるフェミニスト倫理の展望が述べられる。この部分は希望に満ちており、男性である私にとっても勇気づけられる内容であった。本書は、中絶を切り口とした、すぐれたジェンダー学の成果だと言えるだろう。


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[]村瀬幸浩『男子の性教育: 柔らかな関係づくりのために』

2014年6月共同通信配信

この本を読むと、性教育に対するイメージが大きく変わるはずだ。著者の村瀬は、高校生や大学生に向けて、男子の性を見つめ直すことの重要性について語りかける。まず話題として取り上げるのは「射精」である。

男性雑誌やポルノ映像では、射精は気持ちのいい体験として描かれているが、ほんとうにそうなのか。男性たちは、射精の後でみじめな気持ちになったり、射精をする自分自身を情けなく思ったりはしていないか。

実際に、中高生の男子に調査してみると、3〜5人に1人が、射精は気持ちいいものだとは思っていない。村瀬はこれらのデータを説明した後に、男子学生たちに自由に意見を書いてもらった。

すると、はじめて射精を経験したときにそれを肯定できなかった、射精してから後悔にかられることがたびたびある、男の体は汚いし性欲はなくなったほうがいい、男性性器は汚く醜いといった声が届いたのである。

男子学生たちの切実な声を踏まえたうえで、村瀬は、「射精する身体」をもって生まれてきたことを若い男性たちが素直に肯定できるような性教育がぜひとも必要であると強調する。

ともすると、それは失われた「男性性」を復活させようという意見のように聞こえるかもしれない。しかしながら、村瀬が提唱するのはまったく逆のことだ。

単に「抜く」だけの自慰を繰り返すのではなく、みずからの身体を慈しむセルフプレジャーへと射精を変容させることを通して、パートナーと新しい「柔らかな関係」をつり出していってほしいと村瀬は願っているのである。

村瀬による男子の性教育は、授業を受けた女子学生にも大いなる感銘を与えている。男子であっても性被害を受けて心身に大きな傷を残すことがあるという事実についても、ていねいに解説されている。男女の生理についての情報も豊富だ。男子の性をどこまでも優しく見つめようとする村瀬に拍手を送りたい。



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2014-05-03

[]戸田山和久『哲学入門』

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

2014年4月20日日経新聞掲載

私とは何か、自由とは何か、生きる意味とは何かというような問いを、徹底的に突き詰めて考えていくのが哲学だ。本書は、ここ数十年の英語圏の分析哲学や科学哲学の知見を縦横に駆使しながら、これまでの教養主義の哲学入門にはなかった、新しい世界像を垣間見させてくれる。

著者の戸田山は、次のような前提で哲学をしていこうとする。まずは、唯物論である。この世のすべては物理的なものだけでできている。そして、たいがいのものは物理的なもの同士の相互作用で説明することができる。もうひとつは、自然科学を信頼することだ。哲学も、科学の知見によって鍛えられながら発展していかなければならない。

しかし、そのような立場を取ってしまうと、最初に言ったような、私だとか、自由だとか、生きる意味というような、見ることも触ることも測定することもできないような抽象物はどこにも実在しないという結論になってしまうのではないだろうか。

だが戸田山は、そうは考えない。それらの抽象物は、私たちが生き物としてこの地球上で進化していくプロセスのなかで、どこからともなく湧き出てきたというのだ。そしてそれらの抽象物は、物質とはまったく異なった形式で、私たちの住むこの世界にはめ込まれ、私たちにとってなくてはならない不可欠のピースになったのである、と。

人間と動物のあいだに決定的な断絶があるわけではない。人間が登場する以前の動物だって、自由のようなものを持っていたし、原始的な記号操作もできた。生物進化のプロセスの途上で、人間がそれらをさらに発展させて、自己制御能力や、未来についての目標設定能力を開発していったのである。その結果として、人間は、目的、自由意志、道徳といった高度な抽象物を使いこなせるようになった。その道筋を哲学的に論究した箇所が本書の白眉である。

だが、自由意志や責任などの抽象物は、いつか使い勝手が悪くなるかもしれない。脳科学の進展によって、人間の自由意志と思われていたものが、実は、脳内物質のはたらきによって生み出された虚像であることが分かるかもしれないからだ。

しかし、たとえ自由意志や責任という概念が人間から奪われたとしても、それによってディストピアが到来するわけではない。むしろそこは他人から理不尽な責任を押しつけられることのない魅力的な社会かもしれないと著者は言うのである。哲学者からのこの挑戦状をどう受け止めればいいのだろうか。

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[]若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

2013年11月24日日経新聞掲載

本書で取り上げられる池田晶子は、『14歳からの哲学』などのベストセラーで知られる哲学エッセイストである。池田の文章は、自分の直観的な結論を読者の前にポンと投げ出すというスタイルであり、非常に独特である。

池田自身が敬愛しているプラトンやデカルトやヘーゲルは、なぜそのような結論が導かれるのかについて渾身のロジカルな議論を重ねるのであり、評者はそこにこそ哲学の醍醐味があると考えているので、池田のスタイルには不全感を禁じ得ない。

しかしながら、本書の著者である若松は、池田のそのようなスタイルによってこそ光を当てることのできる思索があるのだという。そして池田のテキストをたんねんに読み解いて、そこから繊細な果実を抽出してくるのである。

若松が池田に読み取るのは、「言葉はいったいどこから来るのか」という問いである。ある言葉が、書き手を通路として貫いて彼方から降臨してくることがある。そのとき、その言葉を発したのは書き手なのか、それとも彼方の存在なのか。

読み手のほうにおいても、同じことが言える。私がある文章に、いかづちのように撃たれるとき、私が出会っているのはその書き手なのか、それとも書き手という通路を伝ってこちらまでやってきた彼方の存在なのか。

池田はこのあたりの消息を、「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだ」と書く。若松はこれを、さらに存在の深みに向けて掘り下げていく。するとそこには、池田という書き手を「場所」としてそこでさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風が立ち現われ、そこにおいてちょうどつぼみが開花するように、言葉が、魂の交わりのコトバへと変じていくというのである。

若松は、自身が敬愛する哲学者、井筒俊彦を読むようにして、池田を読んでいるのであろう。たしかに池田は、存在がコトバとしてみずからを顕現する瞬間のことを繰り返し語っている。そして若松のまなざしもまた、この一点に注がれているのである。


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2013-09-23

[]中村桂子『科学者が人間であること』

科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

2013年9月22日日経新聞掲載

 中村桂子による渾身のエッセイであり、科学を志す次世代の若者たちへの熱いメッセージである。地球の中で生き物の一員として生きていることを真に大切にするような人間たちによって、これからの科学は担われなければならないと中村は語る。

 中村にそれを再認識させたのは、2011年の東日本大震災であった。日本の原子力技術は優秀なので大事故は起きないだろうと思っていた科学者はたくさんいたが、「実は私もその一人でした」と中村は告白する。その反省から、中村は再度みずからの原点に立ち返り、「人間は生き物であり、自然の中にある」という地点から、将来の科学のありかたを根底から再考しようとするのである。

 しかしそのときに、西洋の方法論はもうダメだから、これからは東洋の方法論で行こうというような発想を、中村は拒否する。真に必要なのは、西洋由来の科学を生命論的世界観によって生まれ変わらせることである。

 哲学者大森荘蔵によれば、物理学に代表される近代科学は、世界をいのちのない死物のかたまりとみなし、それを数字で描写し尽くそうとする。

 中村はこの死物的なアプローチを全否定するわけではない。むしろ、そのような世界観の上にぴったりと重なるようにして、「川は生きている、雲も生きている、風も生きている」という生命論的世界観を描き込んでいくことが必要だと中村は言う(大森荘蔵はこれを「重ね描き」と呼んだ)。

 そうすることによって、科学的な「機械論的世界観」と日常的な「生命論的世界観」の両方にいのちを吹き込むことができ、その両支柱の基盤の上に次世代の科学を作り上げることができるというのである。そして日本の理科教育には、そのようなことを可能にするポテンシャルがあるという。

 中村が目指しているのは、「生きているってどういうこと?」「人間ってなんだろう?」という原初の問いへとありのままに迫っていくことのできる科学だ。まだ生まれ来ぬ将来の人間たちにまでこの問いを届けたいという著者の祈りが、この本には籠められている。



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2013-09-07

[]まんがで哲学を描いてみた!

*『本』2013年8月号(講談社)8−10頁 →『現代ビジネス』9月5日転載

「まんがで哲学を描いてみた!」

森岡正博

講談社現代新書から『まんが 哲学入門』という本を出すことになった。大げさに言えば、これは「哲学界」と「まんが界」に波紋を呼び起こすかもしれない出版物なのである。

まず哲学界についてであるが、いままで、たとえば『まんが ニーチェ入門』というふうに、過去の偉大な哲学者の思想をまんがで解説する本はたくさんあった。哲学史の流れをまんがでおさらいする本もあった。しかしながら、哲学者である著者本人が、自分自身の思索をまんがで描いた本というのは存在しなかったのだ。

「え?」と思われるかもしれない。そう、この本の約二三〇ページにわたるコマ割まんがの原画を描いたのは、私なのである。A4の用紙に鉛筆書きでまんがの原画を描いて、それをプロの漫画家である寺田にゃんこふさんに版下に仕上げてもらったのだ。寺田さんは、私の原画に忠実に、すばらしい線で完成させてくださった。

哲学の二千数百年の歴史の中で、哲学者自身によって全編まんがの本が描かれたことはなかった。これを快挙と言わずして何と言おう!とひとりで盛り上がっているのである。できあがった版下を何人かの方に見ていただいたが、登場するキャラたちが「なかなかカワイイ」そうである。「かわいい哲学オリジナルまんが」がここに登場したのだ。

次にまんが界についてである。実は、インターネットで「まんが横書き論争」なるものが勃発している。日本のコミック本は右綴じで、吹き出しの文章は縦書きである。実際に調べてみると分かるが、プロの漫画家によるほとんどすべてのまんが本は「右綴じ縦書き」になっている。なぜなのかは分からないが、手塚治虫先生がそのようにしたから、そうなっているのではないだろうか。

しかし、海外に輸出するときのことを考えれば、まんが本は「左綴じ横書き」のほうがぜったいに良いのである。たとえば英語や簡体中国語やスペイン語などは横書きだから、横書きのほうが翻訳した文字を入れやすいのだ。これまでの日本のメジャーなまんがは、縦書きを固守してきた。その伝統を大手の出版物ではじめて破ったのが、『まんが 哲学入門』なのである(コマ割まんがにこだわらなければ、山井教雄『まんが パレスチナ問題』『まんが 現代史』という横書きの二冊がすでに講談社現代新書から出ている)。

もちろん、講談社現代新書は「まんが界」の外側にいるから、この本の試みがただちに日本のまんが界に波紋を呼び起こすとは考えにくい。でもここに何かの可能性を感じてくれる漫画家さんたちがいればうれしいなと思う。

さて、『まんが 哲学入門』の内容に戻ろう。

この本では、私が何十年もずっと考え続けてきている四つのテーマ、すなわち「時間とは何か」「存在とは何か」「私とは何か」「生命とは何か」について、できるかぎり奥深くまで突っ込んで考えてみた。これらは、多くの読者が気になっているテーマでもあるはずだ。誰だって一度は、「時間が流れるっていったいどういうことだろう?」と考え込んだことがあるだろう。

時間はどんどん流れていって、それを止めることは誰にもできない。時間はほんとうに流れているのか、それとも時間は流れていると私たちが「感じている」だけなのか。そもそも「流れる」とは、いったいどういうことなのか。

というような哲学の根本問題を、「まんまるくん」と「先生」の掛け合いの形でゆっくりと解きほぐしていくスタイルのまんが本なのである。「まんまるくん」は球形の身体に手足がそのまま付いているというかわいい形態のキャラであり、ときおり頭のてっぺんに旗が立ったり、顔が自由自在に変形したりする。「先生」は眼鏡をかけていて優しげであるが、どこにも口らしきものがなく、首が不気味にぐんぐん伸びたりする。そのほかにも、「いまいまくん」という外見が癒し系のキャラが走り回り、ストーリーに彩りを添える。

存在とは何かというテーマについては、「なぜ世界にはそもそも何かが存在するのか。なぜ世界には何も存在しないというふうになっていないのか」という「形而上学の根本問題」(ハイデッガーの命名)に正面から取り組んだ。実際、描き始める前は、「ほんとにまんがでこのハードな問題をやるの?」と絶望したものだが、やってみるとなんとかなるものだ。そして、話は、現代哲学のホットな話題である可能世界意味論へとつながっていくのである。

まんがを使うことで、きわめて効果的に表現できる哲学的なテーマがあることもわかった。たとえばこの本の第3章で「私」というテーマについて議論しているのだが、この問題はそもそも文章で表現するのがたいへん難しいのである。私が自分自身のことを「私」と呼ぶときに、そこには、宇宙でただ一人だけ特殊な形で存在しているこの私、というような意味が含まれている。しかしそれを「この私」という言葉で表現しようとしても、それはあらゆる人の存在様式に普遍的に当てはまるような「この私」一般に読み替えられてしまって、当初意味しようとしていたものが指のあいだからすり抜けていくのである。

このあたりの機微を指摘するために、哲学者の永井均は〈私〉という表記法を編み出してなんとかそれを表現しようとしてきた(『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書)。私は「独在的存在者」という言い方でそれを表現しようとしてきた。しかしいずれのやり方を使っても、言葉でそれを説明するのは非常に難しいし、その真意が読者になかなか伝わりにくいのである。

ところが、まんがを使うと、その核心部分を一発で伝えることができる。図を見ていただきたい。この「あなたなのです!!」という吹き出しの中の文章と、そこに描かれている絵によって、〈私〉や「独在的存在者」というものの真意が、読者に直接的に伝わるようになっている。この絵だけではすぐに意味するところのものが分からない方は、ぜひこの本の該当ページの前後をじっくり読んでみていただきたい。何かしら、心に響くものがあるはずだ。

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実際に、まんがで哲学を描いてみて、まんがという形式の持つ無限の可能性をもっと積極的に開拓すべきだと思うようになった。そう、まんがと哲学は、非常に相性がよいのである。これまでの「まんがで哲学者の思想を解説する」みたいな本とはまったく異なった未知の可能性がそこにはある。まんがの絵を描いていくことそれ自体が、哲学的な思索そのものになっていくような表現方法があり得るのである。今回、私自身がまんがの原画を描いてみて発見した最大の果実がここにある。

この本は、著者自身の哲学的な思索を、まんがという形式で、直接読者へと届ける本である。その試みがどこまで成功しているかについては、ぜひ手に取って確かめていただきたい。しかし、全編コマ割まんがで新書を出すという企画にゴーサインを出してくださった現代新書編集部には、ほんとうに敬意を表したい。

私が最初に持ち込んだまんがの原画は、いまから考えれば非常に稚拙なものだった。そこに何かの可能性を見出してもらえなければ、この本は存在しなかっただろう。信頼されて原画を描き続けるうちに、私の技量はどんどん上がっていった。第1章から第4章まで三年間かかっているが、読者はこのあいだの時の流れに、私の作画の進歩を見ることができるはずだ。

もし本書が評判になれば、きっと『まんが 論理学入門』『まんが 宗教学入門』などの新書が引き続いて出現することになるだろう。そういう可能性が開けていったら、すごく楽しいと思う。