感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-01-29

[]『生者と死者をつなぐ:鎮魂と再生のための哲学』という本を出します

↑ 上のリンクがつながるまではこちら↓でAmazon.jpに飛びます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4393333136/

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ひさびさにエッセイ集『生者と死者をつなぐ:鎮魂と再生のための哲学』(春秋社、1600円、2月20日頃発売)を刊行します。これは、311の大震災の前後の1年間に書いた新聞エッセイをもとに、大幅に書き下ろしを加えたものです。半分以上が書き下ろしになっています。新聞に発表されたエッセイとしては「日経新聞」に2010年の半年間連載していたコラムが中心となっています。いまから振り返れば、あのときに書いていたコラムは、なにか311を予感していたかのような鎮魂の雰囲気に包まれていたように思います。この本では、亡くなった者は、死者となってふたたびこの世に現われ、生者と交流するという死生観を、宗教の次元ではなく哲学的次元において描き取ろうとしました。その線上で「哲学的アニミズム」の構想も打ち出しています。また、美術、アートについてのまとまった文章が収められていて、いままでにない感じの仕上がりです。個人的には、前著の『33個めの石』よりも良い本になったと思っています。

エッセイとはいえ、けっこう密度が高くて濃い内容になりました。これからの私の哲学の展開の基盤になるであろう発想やヒントや断片がたくさん詰め込まれています。エッセイをただ並べたのではなくて、本全体としての統一感と進行に細かく気を配りました。刊行の折には、ぜひ書店で手にとって眺めてみてください。

以下に、目次と、「第1章」の冒頭の3つのエッセイと、「あとがき」を貼り付けておきます。

生者と死者をつなぐ

鎮魂と再生のための哲学

目次

第1章 永遠なき世界

・私たちと生き続けていくいのち

・永遠なき世界

・看取りと鎮魂

・混ざり合う自己と他者

・世界五分前仮説

・時間の流れの真の意味

・誕生肯定

・回復とは何か

・ダイヤモンドと希望

・暴走列車の思考実験

・夕暮れのキャンパス

・脳死移植を考える1

・脳死移植を考える2

・脳死移植を考える3

・石川啄木と子どものいのち

樹木葬

・絶えざる再生

・哲学的アニミズム

第2章 美しきものの記憶

・美しきものの記憶

・過激な美術教師

・ルソーの魂の連鎖

・岡本太郎と「明日の神話」

・爆発する岡本太郎

・オノ・ヨーコの祈り

・レディーメイドの力

・少女アリスの誘惑

・ドイツで聴いた「赤とんぼ」

・クールジャパンの衝撃

・水晶の夜のコンサート

・虐殺跡地の音楽ホール

・想像の音響世界を求めて

・音マニアのこだわり

・埃との戦い

・鳥と「ざわざわ」

・樹海で思ったこと

第3章 私たちはなぜ生きるのか

・十字架の意味

・悟りと身体

・死へと向かう男性性

・「男らしさ」からの解放

・草食系男子と日米安保

・愛情の哲学

・一生かけて楽しむ体育

・走る大学教師

・理系への文系教育

・家畜という幸せ

・捕鯨を考える

・原発と有機農業

・植物工場

・自然支配の究極の目的は

・宇宙船と生命

・自然保護の二面性

・無痛文明と自傷行為 1

・無痛文明と自傷行為 2

・不幸になる自由

・長生きは幸せか

・哲学はゼロからの出発

・わが友なる哲学者

・先人から学んだ「生きる意味」

・死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか

あとがき

私たちと生き続けていくいのち

 二〇一一年三月一一日の震災で、多くの方々のいのちが奪われた。

 ある生存者は語る。津波が襲ってきたとき、妻の手を握りしめていたが、強い波の力によって彼女を流されてしまった、と。目の前で愛する者が消えてゆき、自分だけが生き残ってしまったという慟哭は、それを聴く者の心にも突き刺さる。自分は愛する者を守りきることができなかった、最後の瞬間に何もしてあげることができなかったという自責の念は、どんな言葉をかけられたとしても、おそらく消えることはないだろう。

 しかし、人生の途中でいのちを奪われた人たちは、けっしてこの世から消滅したわけではない。その人たちのいのちは、彼らを大切に思い続けようとする人々によっていつまでもこの世に生き続ける。私たちの心の中に生き続けるだけではなくて、私たちの外側にもリアルに生き続ける。

 たとえばふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ。彼らは言葉を発しないけれども、この世から消え去ったわけではない。

 人生は一度限りであるから、どんな形で終わったにせよ、すべての人生は死によって全うされている。すべての亡くなった方の人生は聖なるものとして閉じた。そして彼らのいのちはこれからずっとこの世で私たちと共にいる。私たちは彼らに見守られて生きていくのである。

永遠なき世界

 私はなぜ生きているのか、時はどうして過ぎゆくのか。過ぎ去った時は、もう二度と戻ってこない。私たちはもう以前の世界には戻れない。震災以前の世界に戻ることは不可能である。

 私たちは映像で見た。建物を破壊しながら怒濤のように迫り来る津波の果てしないエネルギーを。建物を飲み込み、車を飲み込み、そのなかに生きていた人々を飲み込んでただひたすら前進してくるそのとめどない濁流を。

 それは私たちの記憶に抜きがたく刻まれた。夢の中に繰り返し現われて、夜中にはっと目覚める、そのくらいの強さでそれは刻み込まれた。

 阪神淡路大震災では人々は火の海に焼かれた。東日本大震災では津波に呑まれた。津波の映像を見ているうちに、私の身体から書くエネルギーが奪われていった。それから一ヶ月のあいだ、私は一枚も原稿を書くことができなかった。

 阪神淡路のときもそうだった。今回も同じことが私に起きた。前に向かって進むことができない。人生を不条理に絶たれた人たちに向かって、私は何を言えばいいのか、何を書けばいいのか。それは私の哲学の大きなテーマであるがゆえに、私はエネルギーを失った。

 自転車に乗って、夕暮れの電車沿いの道を走ってみる。私が被害を受けなかったことをさも重大なことのように考え、みずからの倫理的責務についてあれこれ思考をめぐらせることそれ自体が、汚いことのように思われる。私はこうやって以前と変わりなく生きている。私にできることは、この生をいまここで生き切ることではないか、という考えすら欺瞞のように思えてくる。

 いま、あの向こうのビル群が決壊して、巨大な津波が押し寄せてきたとしたらどんな感じだろうか。それは水しぶきを上げながら、ゆっくりと木造の家々を飲み込んで、こちらに向かって迫ってくる。私は自転車を降りてその様子をただじっと見つめる。足元にすばやい水流が押し寄せてきて、自転車もろとも流される。あっという間に何メートルもの濁流が私を包み込み、目の前が暗くなる。水のかたまりが鼻と口から有無を言わせず入ってきて、私は窒息する。頭に何かがはげしくぶつかり、私はそのまま失神する。

 あのとき、人々はこのようにして死に至ったのかもしれないし、もっと別の経験をして死んだのかもしれないし、何かの方法で生き残ったのかもしれない。しかし私は彼らに近づくことはできない。これは私の想像であって、彼らの経験したであろう現実ではない。

 私はなぜ生きているのか、時はどうして過ぎゆくのか、私はなぜ他人になれないのか、私はここに哲学の最重要課題を見る。

 いま私にできることは、この問題を何度も考え抜いて、言葉で表現できるぎりぎりのところまで迫っていくことだ。小さな思考の断片を数珠のようにつないで、なにか大きなものの輪郭を描いていくことだ。

看取りと鎮魂

 車道のガードレールに、花が供えられている。通るたびに新しくされているから、誰かがいつも花を入れ替えているのだろう。おそらくは交通事故で亡くなった家族か友人のために供えられたのだ。

 若いときには、このような光景を冷ややかな目で見ていた。亡くなってしまった人は、もうどこにも存在していないのだから、お花を供えてあげてもその人に届くわけでもない。あれは花を置く人の自己満足にほかならないのだ、と。

 しかし時を経て、親しかった人が亡くなるような年代にさしかかってくると、また別の感慨を抱くようになった。亡くなった人は死んでしまってはいない。その人は生きていたときとは別の形で、私たちの世界の片隅で存在し続けているのだと感じるようになった。いまの私の世界を形作る必要不可欠のピースとして、亡くなった人はいまもここに存在し続けているのだ、と。

こうの史代のマンガ「夕凪の街」(『夕凪の街 桜の国』双葉社 二〇〇四年)は、原爆投下後一〇年目の広島を舞台に、若い女性、皆実の短いラブストーリーを描いた作品である。ベストセラーとなり、映画化もされたので、ご覧になった方も多いだろう。

 皆実は、原爆投下後ようやく復興し始めた広島で働いている。ある日、思いを寄せてくれる男性、打越さんから帰り道にハンカチをプレゼントされ、二人は橋のたもとで口づけをする。皆実はそのとき、川を流れる無数の焼けただれた死体の幻影を見る。

 皆実は、原爆投下直後の広島で、行方不明の父と妹をあてどもなく探していたことを思い出す。生きていた姉も、投下二ヶ月後に病気で亡くなった。皆実は自分だけが生き延びたという気持ちから抜け出せない。

 デートのあと皆実は次第に弱っていく。いろんな人が見舞いにくる。打越さんもやってきて手を握る。そうして少しずつ意識が薄らいでいき、皆実は静かに息を引き取る。そういう物語である。

 ストーリーだけを見ると、救いのない話のように感じるが、私はたくさんの思いをこの作品から酌み取ることができた。

 広島の原爆は、一瞬にしてたくさんの人命を奪った。そのなかには、皆実のように、これからまさに青春を開花させようとしていた若者も多く含まれていたはずだ。彼らは好きな人とデートすることもかなわずに、この世を去った。家族に別れを告げることもできず、誰に看取られることもなく死んでいった。

投下後の広島で生き延びた皆実は、原爆によって瞬時に死んでしまったこのような無数の人たちによって、いくばくかのいのちを与えられたのである。若くして死んでいった彼らの無念の思いをかなえるかのように、皆実は恋人との逢瀬を経験し、心をときめかせ、そして母親と二人暮らしの温かな家庭で、みんなに看取られながら息を引き取ることができた。

 皆実は優しく看取られながら亡くなり、そしてそのプロセスを読者もまた追体験する。読者をも含めたその営み全体が、看取られることなく瞬時に死んでしまった無数の人々への、鎮魂の行為となる。

 それは道路にそっと花を手向ける気持ちと相通じるものであり、宗教のありなしを問わず、私たちの生が死者とのつながりのうえに成立していることを再確認する作業でもあると私は感じたのだった。

*  *  *

あとがき

 死んでしまった人たちは、姿を変えて、私たちの前に戻ってきているのではないか。だから、私たちは死んでしまった人たちに見守られて生きているのであり、ときおり彼らと対話することすらできるのではないか。そのような経験に支えられることで、私たちはこの世界をより良く生き抜けるのではないか。この本を書いているうちに、こういった考え方が私の身体の中を満たしていった。本書のタイトルの「生者と死者をつなぐ」とは、そのような意味である。

 私は、死後の魂を信じていない。死んだあともどこか空中にとどまってこの世界を見下ろしているボールのような存在がある、とは思っていない。

 しかしそれでもなお、死んでしまった人たちは、魂という形ではない別の姿を取って、私たちの前に現われるというのが私の言いたいことなのだ。生きるとは、死者とともに生きることである。この本において私が読者と共有しようとしたことを、私は「生命の哲学」という名で呼びたいと思う。大震災を体験したこの地から、新たな「生命の哲学」を世界に向けて生み出して行かねばならない。

 収められたエッセイのうち、約半数は、大震災以前に書かれたものである。そのほとんどは二〇一〇年の『日経新聞』「プロムナード」欄に連載された。読者からの反響も多く、本書に収録するにあたっては、それらの声を取り入れて細かく書き直した。『朝日新聞』『高知新聞』に掲載されたエッセイも入っている。

 残りの約半数は、この本のために書き下ろしたものである。生とは何か、死とは何か、私はなぜ生きなければならないのか、というテーマを螺旋階段のように掘り下げようと試みた。たとえば、「死ななければならないのに、なぜ人は生きるのか」という問いや、衝撃的な出来事によって人生を破壊されてしまった人間にとっての生きる意味とは何かという問いや、あらゆるものにいのちがあるという「アニミズム」を哲学的に捉えるとどうなるのかという問いについて考えてみた。それらの思索は、まだ芽生えたばかりの若芽のような段階でしかないけれども、これから時間をかけて大樹に育ててみたいと思っている。

 この本のバックボーンをなす哲学に興味のある方は、最近の私の論文「誕生肯定とは何か」(二〇一一年)と「パーソンとペルソナ」(二〇一〇年)を読んでいただければ幸いである。ともに学術論文であるが、哲学を専門としない読者にも面白く読んでいただけると思う。インターネットで検索すれば全文をダウンロードすることができる。

 前著『33個めの石』に引き続いて、春秋社のSRさんに編集を担当していただいた。的確なアドバイスによって良い本に仕上がった。感謝したい。

2012-01-18

[]「現象学的な心:心の哲学と認知科学入門」ギャラガー・ザハヴィ

近年注目を浴びている、現象学の新しい展開を総まとめにして検討した本。現象学というとフッサールと、フッサール学派、その後のメルロポンティ、社会学のシュッツなどでだいたい終わったというように思われているのかもしれないが、この本に見られるように、現象学と実験心理学・認知科学・脳科学が融合して新しい領域を作り出しているようである。現象学からの分析哲学への接近とも言える。自己意識、時間、志向性、他我問題などがこういう形で議論され続けているのは興味深い。ただし何かの画期的新展開があるのかどうかという点はどうなのだろうか。少々お高いが、興味ある方は持っていていい本かと思われる。

2012-01-12

[]週刊ブックレビュー出演します

1月14日(土)のNHK・BS・週刊ブックレビューに出演します。私がメインで紹介する本は、「詩の礫」和合亮一 です。共演者は星野知子さん(女優)いしいしんじさん(作家)です。収録は和気藹々と進みました。

放映は

【BSプレミアム】2012年1月14日(土) 午前6時30分〜午前7時24分

【BSプレミアム】2012年1月16日(月) 午前2時00分〜午前2時54分

【BSプレミアム】2012年1月20日(金) 午後0時00分〜午後0時54分

です。

詳細は、http://www.nhk.or.jp/book/next/index.html にあります。

2011-12-28

[]「いのちの思想」を掘り起こす

「いのちの思想」を掘り起こす――生命倫理の再生に向けて

「いのちの思想」を掘り起こす――生命倫理の再生に向けて

日本の生命倫理(と思われる思想)を、現時点から振り返って、その意義を考えるという趣旨の本。この種の本としてははじめてなのではないだろうか。生命倫理というと、米国からの輸入物だと思われているが、それに対応するような豊かな思想はすでに日本に存在していた。私の本『生命学に何ができるか』(2001年)では、70年代のウーマンリブ、とくに田中美津と、青い芝の会を、日本における生命倫理運動の創始として位置づけ、たぶんこれが日本の生命倫理を現時点から(まともに)振り返った最初の試みではなかったかと思うのだが、本書も着実な研究成果を見せているように思われる。

内容としては、上原専禄、田中美津、中川米造、岡村昭彦が取り上げられており、生命倫理開拓者のひとりとして私の名前も挙がっている。こういうふうに私自身が位置づけられるような日が来るとは思ってもみなかった。ここで言われる「いのちの思想」というのは、米国流のバイオエシックスとはまったく異なった指向性をはらんでいるのであり、それを今後に向けて明瞭に言語化することが必要だと思われる。私の言う生命学もそのひとつの方向性であり、ほかにも多様な可能性があるだろう。振り返りを経て、将来への可能性を開拓していきたいと思う。

[]大学生と語る性

大学生と語る性―インタビューから浮かび上がる現代セクシュアリテイ

大学生と語る性―インタビューから浮かび上がる現代セクシュアリテイ

倫理学とセクシュアリティというジャンルの研究者である田村公江と細谷実が、大学生にセックスについてインタビューして、いろいろ論じた本。本のほとんどはインタビュー記録に当てられていて、たしかにこのような言説が言語化されるのはめずらしいことだろう。まあ、大学生当事者たちとしては新しいことは書かれてないのだろうが、年代の離れた私たちにとっては、こういう言葉が採録されるのは興味深いことだと思う。このテーマに関心ある人は、目を通しておいてもいいかもしれない。

[]哲学オデュッセイ

ドイツの「市井のスター哲学者」プレヒトが、欧米の現代哲学のいろいろなトピックスを、縦横無尽にわかりやすく解説したエンタテイメント本。脳操作などの現代の事象から、哲学的話題へと入っているというようなところが、いまっぽいと思われる。ドイツで100万部のベストセラーということだが、ドイツ人はそんなに哲学が好きなのか? 日本でこれが10万部売れるとはとても思えないが。もし売れたらこの業界にいるものとしてはうれしいのであるが。本書で扱われているテーマは、どれも現代的なものであり、著者はかなり嗅覚がよいと思われる。

[]来年に新刊が出ます

ながらくごぶさたしておりましたが、来年の2月と3月頃に、私の新刊が出ます。ひとつはエッセイ集で、『33個めの石』と対をなすような本になりますが、「33個め」よりもよい内容に仕上がりました。ご期待ください。もうひとつは宗教学者との対談で、現代における「救い」について語ったものです。対談は震災の前後をはさんで行なわれ、はからずも時代に即応したテーマとなってしまいました。というわけで、来年になったら詳細情報をこのブログでお知らせします。

2011-12-24

[]明るくマスターベーションする日本人青年

オランダ(たぶん?)のテレビのレポートに登場した日本人青年。青年は明るくマスターベーション、彼女はそばでミシン縫い。時間を計ったりしている。仕込みでなければ、これはすごく興味深い映像でしょう。

【視聴注意】

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追記:

出演男性は佐藤雅信さんという方みたいですね。映像中に出ている自慰ツールの開発者のようだから、営業の一環なのでしょうけど、彼女との共同生活の様子は仕込みではないような感じだから、なかなかすごいものです。

2011-11-16

[]「草食系男子」の現象学的考察

「「草食系男子」の現象学的考察」というエッセイ・論文を書きました。そもそもはソウル大学の『日本批評』から依頼があり、日本語で書いて寄稿し、それが韓国語(ハングル)に翻訳されて刊行されました。その日本語元原稿にさらに手を入れて日本語で改めて発表しました。

草食系男子の話題はもう過去のものとなったような気もしますが、ある意味、市民権を得たとも言えるわけで、そろそろこのような振り返り記事・研究が必要とされるころでしょう。先日も、ニューヨークで現地の方と話していたら、日本の草食系男子に興味をもっているらしいし、先日はドイツの雑誌から寄稿依頼を受けました。

ここに述べたのは、あくまで当事者の一員だった私の目から見た「草食系男子」現象に過ぎませんが、きっと何かの資料として役立つことでしょう。

「草食系男子」の現象学的考察

森岡正博

1 「草食系男子」という言葉の誕生

「草食系男子(草食男子)」という言葉は、2008年から2009年にかけて流行語となった。新聞、テレビ、雑誌、インターネットなどでさかんに取り上げられ、人々の日常会話にもたびたび登場した。流行語になるにつれ、当初の意味合いは多様化していき、人々は様々に異なった意味を付与しはじめた。2009年12月に、「新語流行語大賞」(ユーキャン主催)のトップ10のひとつとして「草食男子」が選ばれた。2010年になるとこの言葉は普通名詞化し、2011年現在、人々はこの言葉にさほど興味を示していない。流行語の生命は短いから、そのうちに廃れていく可能性も高い。しかし、この言葉の登場によって、若い男性を見る人々の目が一変したことは事実である。日本の男性史におけるエポックメイキングな出来事であったと言えるだろう。

「草食系男子」という言葉が流行語になったのは、その言葉に対応する現実の「男性」たちが日本社会に存在していたからである。人々は、「女性化」し「男らしさ」を失ったように見える若い男性たちが増えていることを以前から感じ取っていた。その兆候は、20世紀の終わり頃に、髪を茶色にカラリングし、指にファッションリングをはめ、耳にピアスをするおしゃれな若い男性たちが登場した頃から存在した。当時、私は大阪府立大学に移ってきたばかりであったが、新入生を講義室の壇上から見下ろしたときに、男性も女性もそのほとんどが茶髪だったときの驚きを覚えている。よく観察してみると、ピアスをしている男子学生もいた。しかしいまからすれば懐かしい話である。現在のキャンパスには、髪を金色に染めてロングスカートを履いてくる男子学生がいる。先日、授業のあとで質問に来た男子学生のひとりは、サラサラの黒い前髪を女子高生のように赤い大きなヘアピンで止めていた。このように、まるで女性のようにファッションに敏感であり、筋肉があまり目立たず、どことなく暴力性の薄いタイプの若い男性たちが多くなったという感触を、人々は21世紀に入って抱きはじめていたのである。

このような時代の雰囲気を敏感に察知したマンガ作品に、菅野文の『オトメン(乙男)』がある。これは、外見は運動万能で男らしいのであるが、その内面はかわいいものが好きで少女的な感性を持つ男性を主人公としたもので、2006年から雑誌連載(『別冊 花とゆめ』)が開始された。「オトメン」とは、「オトメ(乙女)」と「メン(男)」の合成語である。男性に現われたジェンダーの揺らぎをテーマにしたマンガであり、評判を呼んだ。そしてこの2006年に、「草食男子」という言葉も登場したのである。ライターの深澤真紀は『U35男子マーケティング図鑑』というウェブマガジンに、「草食男子」というタイトルのエッセイを発表した。深澤はそのエッセイで、「恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」」が若い世代に増えてきていると指摘した[1]。彼らは若い女性と夜に同じ部屋に泊まったとしても、とくに何もせずに一緒に雑魚寝をして帰ってくると深澤は述べる。年上の世代からすれば、このような男性たちの存在は理解を超えている。男ならばチャンスがあれば女を襲うはずだ、という年長者の「常識」からすれば、まったく「男性」のカテゴリに入るはずのない若者が増えてきたというのである。深澤はまた「「草食男子」はそこそこもてるので、恋愛経験もセックス経験もあります」とも述べている。それにもかかわらず、恋愛やセックスに積極的でないのが草食系男子の特徴なのだというのである。この点については、あとでコメントすることにしたい。いずれにせよ、「草食男子」という言葉の誕生は2006年である。「草食」というのは「草食動物」から取られたものであり、肉食動物のように(女性を)襲うことがない、女性にとって安全な男性というニュアンスがあったと考えられる。

深澤の提唱した「草食男子」という新語は、しかしながら2006年の時点ではまったく人々の意識を捉えなかった。この言葉に対する社会的反響はほとんどなかったのである。草食男子に一躍注目が集まったのは、2008年のことだ。その年の女性誌『non-no』5月号が、「出会い「4月革命」に勝利せよ! 男子の「草食化」でモテ基準が変わった!」という大特集を組んだ。この有名雑誌の特集によって、「草食男子」という言葉は世間に知れ渡るようになった。日本の草食男子・草食系男子について研究しようと思うものは、まずはこの雑誌の特集を詳しく調査しなくてはならない。その後の草食系男子についての言説の基本形の多くが、ここに述べられているからである。・・・・(続く)

本体を読む

→ http://www.lifestudies.org/jp/soshokukei01.htm

2011-10-30

[]草食系男子を科学する@一橋大学

一橋大学の学園祭で、「草食系男子を科学する」という催しが行なわれるとのことです。

11月6日(日)13:40〜15:30

草食系男子を科学する

講演:山嵜 哲哉

「草食系男子」…言葉は聞くけど、実際はどういう男性のことを指すの?

 この講演会では、「草食系男子」について、どこまでもアカデミックに考えていきます!

 こんなことを考えます!

・「草食系男子」ってどんな人のことをいうの?

・なんで「草食系男子」が生まれたの?

・「草食系男子」が世の中にもたらした影響は?

・私たちが持っている「草食系男子」に対する誤解って?

・よりよい生活を「草食系男子」や周りの人が送るには?

 …400人の大学生対象に行った調査をもとに、一緒に「草食系男子」の実態に迫りませんか?

 講師は武蔵大学教授の山嵜哲哉氏!

 若者文化を研究する山嵜教授が「草食系男子」を科学します。

http://jfn.josuikai.net/student/ikkyosai/event/sympo/muto.html