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アメリカ独立戦争

社会

アメリカ独立戦争

あめりかどくりつせんそう

American Revolution

アメリカ独立革命とも。

1775年4月のコンコードの戦い?に始まり、英仏の世界規模の大戦に発展し、1783年9月のパリ条約によって終わった。

イギリスは国際的に孤立して不利な戦争を戦うことになり、アメリカの独立を認める結果になった。フランスは久しぶりに英国に苦杯をなめさせた(が、戦費という負担が戦後、重くのしかかることになる)。


開戦まで

何をもって戦争が始まったか、個々の原因を挙げることはいくらでもできるが、究極的には大西洋という障害物がもたらすコミュニケーションギャップに求めることができる。

仮に毎週ギャラップの世論調査結果が英本土で発表されていたり、CNNBBC植民地の現状をレポートしてたり、あるいは強大な権限を与えられた総督が北米を統括して植民地人たちの要望と本国の政策との摺り合わせを行っていれば、独立運動は起きないかもう少し違った形を取ったことだろう。

いずれによせ、最終的にはボストン周辺で起こったいくつかの偶発的な事件が決定的な対立の発火点となった。植民地人たちは軍隊の組織に乗り出す一方で国王への忠誠も表明し、平和的解決を模索する。

だが、英本国は忠誠の承認を拒んで北米植民地が反乱状態にあると認定、ここに和平の望みは潰えた。


独立宣言

この時点でも、植民地側の最高意志決定機関、大陸会議で独立が多数派だったというわけではなかった。軍事的にも彼らは弱体であり、ワシントンは戦闘よりもまず管理にその手腕を発揮する必要があった。

独立に対する植民地人たちの躊躇を吹き飛ばしたのはイギリスが投入した外国傭兵ドイツ傭兵)であり、トマス・ペインによる王政攻撃であった。英本国が自分たちを本気で敵視していることと、王制が何も普遍的価値ではないということを知ったのだ。

1776年7月4日、ついに大陸会議は独立宣言を発し、ここに戦争は新たな局面を迎える。


フランス参戦

近代史上初の共和国を樹立した大陸会議の面々は、しかし、単なる理想主義者とはほど遠い、有能な実務家たちだった。

彼らは世界の海を支配する英海軍を何とかしない限り独立が得られないことは知っていたし、それに挑戦する力があるのは世界でただ一国、フランス王国だけであることも知っていた。

彼らの中のエースとも言うべきベンジャミン・フランクリンはフランスに、ジョン・アダムズオランダに、ジョン・ジェーはスペインにそれぞれ渡り、困難な外交折衝に当たった。

フランクリンはフランス側要人の好意を勝ち取り、また、大陸軍も1777年のサラトガの戦い?で戦勝を収めることができた。ついにフランス王国は参戦を決意、1778年2月に植民地の独立を承認してこれと同盟を結ぶ。

さらに1779年初めにはスペインもフランスに与することとなり、イギリス国内では厭戦気分が増してくる。

加えて、ロシア女帝エカテリーナが提案した武装中立同盟が、英国の背後を不気味に脅かす。

このままイギリス外交的立場が悪化すれば、全欧州あげてアイランダーたちの本拠を脅かす羽目になりかねない。これが英国の伝統的な国益に反することは明白である。

一方、植民地人たちもこの情勢を熟知しており、あと一度の戦勝を得ればイギリスの戦意が潰えると見抜いていた。フランス本国からの艦隊増援を得た結果、舞台は整った。

ワシントン率いる大陸軍フランス軍は、ヨークタウンに籠もるコーンウォリス軍を陸海から包囲下に置く。1781年10月、解囲に失敗したコーンウォリスは降伏、ここに北米での戦闘は事実上終結した。


パリ条約(1783年)

和平交渉は2年近く続いた。同盟国フランスはイギリスへの意趣返しが目的だったので、北米に強大な新国家が誕生することなどは望んでいなかった。一方イギリス人たちはさっさと戦争を片付けたかったので、植民地人たちに譲っても講和に持って行きたいところだった。

アメリカ代表団はあえて、フランスを「裏切って」講和に踏み切り、ここにアメリカ合衆国の独立は達成された。彼らは西はミシシッピに達する新たな国土を得、北では五大湖の南半分を領有、西方進出の願望を実現させた*1


次回予告

久しぶりに英国に一矢を報いたフランス王国だったが、その財政は悪化し、早急な是正策が必要となった。だが彼らは「代表なければ課税なし」という言葉の意味を、もう少し考えておくべきだった。放置されていたアンシャン・レジームの矛盾が、全欧州を混沌へと投げ込むことになる。

次回、「フランス革命

*1:そもそも、植民地人の西方進出とそれによって起きるインディアンとの衝突を避けるのが北米駐留イギリス軍の任務の一つでもあった