別名、堀尾茂助。帯刀。(1543年〜1611年) 戦国武将、戦国大名。三中老の一。 尾張守護代織田信安(岩倉織田氏)の臣、堀尾泰晴の子。よって、岩倉織田氏の滅亡後、浪人生活に。 その後秀吉(木下藤吉郎)に仕え活躍。高松城水攻めの際には、城主清水宗治の切腹の際の検使を務めている。本能寺の変後、佐和山城城主を経て、家康の関東移封後に浜松城城主となる。
1599年に嫡子の堀尾忠氏に家督を譲る。関ヶ原後に出雲を与えられ、早世した忠氏に代わった孫の忠晴を助けて松江城を築く。 慶長16年没。
前回掲載した金刀比羅社から東へ、一筋目を左折したその先に鎮座するのが秋田 神明社。金刀比羅社からだと2分程の場所になる。 写真は鎮座地南から北側の社地全景。鎮座地周辺は田畑が多く残り、隣家とは余裕をもって建てられた民家が点在する長閑な住宅地。 明治から現在までの地図には秋田 神明社は一度も現れてこないが、Gマップ上では鎮座地は示されています。祭神は天照大御神で、神社の由緒・創建時期など詳細は良く分からなかった。 社殿は南向きに建てられ、石の明神鳥居と左に木造の朱の鳥居を構えています。前回に引き続き大口村史から秋田 神明社を探すと以下内容が確認できた。 「神明社大字秋田字宮東86番地。 長桜の郷…
前回掲載した八剱社、その社頭の前を東西に続く生活道路を東へ約1㌔直進し、突き当りの三叉路を左に曲がった先の公園が今回の目的地、大口町秋田の金刀比羅社になります。 田畑の中を東に真っすぐに続く生活道路。街から訪れた者にすれば、信号のない見通しのいい道路ですが、地元や農家の方にとっては生活道路であり農道。金刀比羅社には参拝者駐車場はないので、堀尾跡公園に駐車して15分程散策するつもりで訪れるのがいいだろう。 上は鎮座地の明治24年頃とほゞ現在の比較。田畑が広がっいた一帯、現在は民家や事業所が増えたとはいえ、見通しの効く光景が広がっています。もう少し暖かくなれば土筆も見られるのではないだろうか。赤枠…
裁断橋と姥堂、堀尾吉晴邸跡・堀尾社・若宮八幡社に続く今回は、裁断橋の南側に鎮座する八剱社。裁断橋を渡った先の堀尾跡公園にも北参道があり、社殿西側を経て社頭に向かう事も出来ます。 社頭全景。右に社標、一ノ鳥居は石造神明造(1935)で、左に手水舎があります。豊かな杜に包まれた参道の左には境内社、右側に神馬、神楽殿があり、拝所に続く。更に右に堀尾吉晴邸跡や若宮八幡社と繋がり、それら含めた社地は実に広大。所在地が大口町堀尾跡とあるように、この町域全体が嘗ての堀尾一族の邸宅があった場所。此の地は鎌倉時代末期に堀尾氏が移り住み、熱田神宮別宮八剱宮から御分霊を勧請し守護神として祀った事が神社創建のはじまり…
前回掲載した大口町の裁断橋から八剱社社地沿いに南側に向かう。 写真は八剱社南側の社頭の眺め。写真左が八剱社の参道で、右側が今回掲載する堀尾吉晴邸跡と若宮八幡社に続く参道になります。 上は八剱社社頭脇の堀尾氏邸宅跡の解説。内容は以下「大口町指定文化財 堀尾氏邸宅跡八剱社境内は、のちの松江城主堀尾吉晴を生んだ堀尾家累代の邸宅跡と伝えられている。堀尾氏は、鎌倉時代の終わり頃、この地に移り住んだと思われ、『寛文村々覚書』にも堀尾家の居館があったことが記されている。また裁断橋物語の堀尾金助も一族の一人である」 とある。堀尾家の先祖を辿っていくと、第40代天武天皇を祖とする高階氏であり、応永年間(1394…
裁断橋…と聞くと、名古屋在住の者からすると熱田区伝馬町の裁断橋を思い浮かべる。ここ丹羽郡大口町堀尾跡にも裁断橋は現存します。そもそも尾張名所図会に描かれた裁断橋は前途した伝馬町のこと、そこから25㌔程北の丹羽郡大口町になぜ裁断橋があるのだろう。そこには戦国時代の若き武将堀尾金助とその母に由来する母と子の悲しい実話からはじまる。その舞台が熱田区伝馬町であり、遠く離れた大口町に裁断橋が復元された理由には、この地に堀尾一族の屋敷があったことによる。 名古屋から下道で小一時間程の丹羽郡大口町堀尾跡公園駐車場。所要で大口町を訪れた帰り、ここの駐車場を起点にして近隣を徘徊することにした。桜の名所五条川右岸…
田中家の三十二万石【電子書籍】[ 岩井三四二 ]価格: 1980 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 近江国浅井郡三川村の農民久兵衛(後の田中吉政)は、父が戦で負傷して満足に年貢が収められなくなると、農民の暮らしを悲観し、領主の宮部善祥坊に仕えることを決断する。小者から始まった宮仕えは厳しいものだったが、身体を鍛え槍などの武術も勉強して、徐々に頭角を表していく。仲間内での試合で勝ち進み認められ、正式に3石取りの下士になることができた。 浅井家に従っていた領主の宮部善祥坊は、織田方の木下藤吉郎の勧誘で、織田方に寝返ることを決める。そこで人質に取った藤吉郎の甥である万丸の子守を吉政が務めることになっ…
山中御殿址と本丸遠望 by:photo-ac 108回目です! 今回は、鳥取県の月山富田城といきましょう。 月山富田(がっさんとだ)城は、戦国時代に中国地方最大の支配者であった尼子氏の居城です。 月山山頂に本丸土塁などが残る、典型的な中世の難攻不落の山岳城ですね。 月山富田城は、「日本100名城」(第65番)に選定、国の史跡にも指定されています。 別称は、月山城、富田城。 私は月山富田城へ、2003年6月23日に登城しました。 ******************************* 菅谷口石垣 by:photo-ac 月山富田城は、山間の広瀬町を一望するような形で台地状にそそり立つ標高…
▼PR 利き酒師が選ぶお酒 松江城 by:photo-ac 今回は、島根県の松江城です。 松江城は、宍道湖(しんじこ)に臨む水運の要衝に築かれた平山城です。 別称は千鳥城。 2006年に「日本100名城」(第64番)に選定されています。 松江城は山陰地方に唯一現存する天守で、2015年に指定された新しい国宝天守です。 さて、国宝の天守は他に四つありますが、全部言えますか? ▼関連記事 *********************** 初めて松江城に登城したのは、1995年2月26日のことでした。 この年は2月5日に佐賀県の唐津城に登城しています。 思いつくままにお城を探訪し始めた初めての年で、2…
これまた普段の散歩コース(ドラクエウォークコース)の1つ、島根県松江市の松江城敷地内にある興雲閣と松江神社です!興雲閣は、明治 36 年 建設のモダンな建物で、大正天皇 の宿泊所としても使用されました。。。松江神社は松江城の二の丸にあり、松平初代藩主の松平直政、松江開府の祖である堀尾吉晴、第七代藩主の松平治郷、徳川家康が御祭神。。。。とっても偉大なる神社(^^)/いつもパワー貰ってます(#^.^#)¥ ファイナルファンタジー VII リメイク PLAY ARTS改 ローチェ価格:13803円(2024/3/26 20:07時点)感想(0件)ファイナルファンタジー VII リメイク PLAY A…
堀尾跡公園もお散歩してきた。 愛知県丹羽郡大口町の五条川沿いにある公園。 五条川にかかる裁断橋。 裁断橋からの眺め。 五条川両岸のソメイヨシノが満開。 屋台もいろいろ出ていて、たくさんのお花見客で賑わっている。 無料駐車場もあるが人出が多くて待ちが出ている。 堀尾跡公園の南側にある八剱社へも。 のちの松江城主堀尾吉晴を運だ堀尾家の邸宅跡と伝えられているとのこと。 こちらもソメイヨシノが満開できれい。
2024年3月2日 二俣城跡 二俣城天守台 本丸に残る静岡県内最古級の天守台が特徴のようです。 石垣の積み方と石材は浜松城天守台と共通点があり、浜松城主堀尾吉晴の弟堀尾宗光の時代の城で浜松城と同じ工人集団の手によるものか。 初めて堀切というものを見ました 連れてきてくれたカブ110 なんといってもここのお城は徳川家康の嫡男徳川信康が切腹した場所だということが印象に残りました。 信長が家康にそう命じた説と家康自ら徳川家のことを考え切腹させた説があるそうです。どちらにせよ親に切腹を命じられた信康の気持ちを考えるとつらいですね。
掛川城復興天守と太鼓櫓の遠景 文明年間(1469-87)頃に、駿河守護今川義忠が家臣の朝比奈泰煕に命じて築かせたというのが掛川城の初見であるが、この時に築かれたのは北東数100mにある掛川古城であった。掛川古城を築いた泰煕は、そのまま城主となり、子泰能が永正9年(1512)かその翌年に龍頭山に築いたのが、現在の掛川城である。字は懸河城や懸川城とも書く。 遠江国は、かつては今川氏が守護職に就いていたが、後に斯波氏が守護となったため、斯波氏と今川氏の間で壮絶な争いが繰り広げられた国である。 東の駿河を本拠地とする今川氏にとって、駿河に隣接する遠江東部を固める拠点として、また、東海道の街道筋を押さえ…
菜の花と桜と墨俣城 by:photo-ac 上の写真は、いかにもな春の景色ですね。 手前に菜の花、向こう岸に桜に囲まれた天守。 待ちどおしい春の風景。 城と春の景色を求めて、遠くへ行きたーい。 2021年3月に公開した「城と桜」で、1月下旬日本で一番早い桜まつりが行われる沖縄の今帰仁グスクから、5月上旬に桜まつりが行われる北海道の五稜郭まで、桜前線とともに北上して17城を紹介しました。 今回は、その時とは違う「城と桜」15城を紹介しましょう。 とは言え、ここに紹介した城以外にも、桜がとても似合っている城・城址は日本中にきっとたくさんあるはずです。 ここもよいところ、とおすすめがありましたら、ぜ…
皆さんこんにちは、シンです。 東海道ポタリング旅【岡崎宿〜三条大橋編】2日目、今回は庄野宿を通り過ぎたあたりから亀山宿に到着して宿泊、3日目スタートあたりまでを記します。 庄野宿から亀山宿の間には2つの一里塚がありました。どちらも大きく目立っていたので見落とすことなく確認することができました。 中冨田一里塚跡 川俣神社の境内にある中冨田一里塚跡。ここが亀山藩と神戸藩の境界となっていた。 和田一里塚跡 一部残っていた和田の一里塚は昭和59年の道路拡幅工事によって消滅した。現在あるのは本来の場所から少しずらしたところに復元したもの。 46番目・亀山宿 歌川広重 東海道五十三次之内 亀山 雪晴 亀山…
五条川に架かる裁断橋のある堀尾趾公園。前回までは東側の神社を回りましたが、今回から西方向の神社を巡ります。堀尾趾公園の北側を東西に延びる県道176号線、そこを西に10分程先の天王町交差点に向かいます。 天王町交差点から北東方向の眺め。稲荷社はこの交差点角に鎮座します。 鎮座地はこれまでの丹羽郡大口町から江南市天王町に変わります。五条川右岸の柳街道脇に鎮座します。 交差点から見た稲荷社全景。歩道と社地は山茶花の生垣で別けられている。社頭には幾つもの赤鳥居が立てられ稲荷堂に続いている。天王町の稲荷社はGマップ上では記されていましたが、今昔マップon the web上で記されておらず、創建時期の推測…
丹羽郡大口町秋田1の津島社社頭から次の目的地は県道179号線を西に進みます。 県道沿いの右手に山神さまが見えてきたらその先で左に向かい南下します。 上は目的地天神社と山神の位置を示したもので、天神社は明治24年当時既に記されている。こうして見ると東の秋田集落と西の御供所集落のほゞ中間に位置し、当時の神社付近に集落はなかったようです。 右手に見えている杜が今回の大口町秋田2の天神社で、津島社社頭から移動時間は西に4分程の場所になります。社頭はもう少し南下した西側になります。 社頭から天神社の杜の全景。杜の南側は一面田圃が広がり、田圃の中に社頭から杜に続く参道が伸びています。社頭には「郷社 天神社…
神明社を後にして次の目的地秋田 津島社へは更に北に向かい、県道179号線を左に進むと県道右側に津島社の社標が現れます。 県道に面した津島社社頭は右に「村社 津島社」の社標があり、その先に注連柱がある。間口が狭いので、車で探そうとすると見過ごすかもしれない。もっとも、車で訪れても止め置く場所がない。注連柱の先にニノ鳥居(1935)の石の神明鳥居があり、真っすぐ奥に伸びる参道の先に三ノ鳥居の姿がある。間口は狭いながら、南北に長い社地を持った神社です。 明治24年とほゞ現在の鎮座地の比較。長桜集落北外れにあたり、この地図上に鳥居の姿が現れるのは昭和43年以降から、それをもって創建時期を推し量るのは、…
序文・母の思い 堀口尚次 堀尾金助は、安土桃山時代の武士。天正元年出生。堀尾吉晴〈豊臣政権三中老の一人〉の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが続柄には異説がある。天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが、6月12日に陣中で死去した。享年18。死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳(みしょう)。弟の忠氏が吉晴の継嗣(けいし)となった。 金助については、熱田〈現・愛知県名古屋市熱田区〉の「裁断橋」を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠(ぎぼし)銘文にその名が見える。第二次世界大戦後には、この裁断橋の擬宝珠銘文を基にした物語が多く創…
こんにちわ。rekikakkunです。 小田原北条氏の防衛戦を綴っていまして、 前回は、下記の9.4).⑦まで進んでいます。 9.小田原城の包囲 1)小田原城包囲までの流れ 2)小田原城包囲戦 布陣図 3)小田原城包囲戦の陣地探訪分類 4)小田原城包囲戦 陣地探訪 (★1)東海道方面 ①豊臣秀吉本陣 ②石垣山城 ③堀秀政陣所 ④富士山砦 ⑤小田原城 三の丸外郭新堀土塁 (★2)尾根筋、大堀切ルート ⑥水之尾口櫓台 ⑦水之尾櫓台の尾根筋と織田信包軍布陣 今回、4)小田原城包囲戦陣地探訪の 続きで⑧からとなります。 下の布陣図の〇番号と、記事の番号を同じにしてます。 小田原城包囲戦 布陣図(色別標…