温泉旅行記 第四章(愛知県) 名古屋市営、近鉄電車

 旅行記の続きです。
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 名古屋はまろやかな寒さだった。肌を劈くような東北の冷気とは訳が違う。大荷物を名古屋駅のコインロッカーに預け、さっそく名古屋市営バスの乗り場へ向かった。今日はこの旅行で珍しく一度も温泉に入らない日である。休肝日ならぬ休肌日だろうか。実際の温泉療法も始めてから少しで小休止を入れるそうだ。
 名古屋市営地下鉄・バスの一日乗車券を購入し、基幹バスの2系統に乗車した。せっかくなら日野ブルーリボンに乗りたかったが三菱エアロスターだった。
 やはり道路が広いのを痛感する。名駅を出てからはしばらく走ったり止まったりの連続だったが、途中から道の真ん中に赤い基幹バスレーンと表示されたところを走るようになった。バス停間距離が長く、スピードもかなり出るので乗っていて飽きなかった。
 この基幹バスシステムは名古屋が全世界に先駆けて実施した画期的な交通システムで、名古屋の成功を参考にして主に欧州などで盛んである。工事は難しいが、東京に是非とも導入して欲しいシステムである。地下鉄を新たに建設するよりは費用が掛からないはずだ。
 あっと言う間に目的地の茶屋が坂に到着した。バス停から地下鉄の駅はわりと離れていた。
 名城線の次の駅は自由が丘である。東横線に同名の駅があるのは言わずもがなの事実。今まで京都府の日吉、兵庫県の大倉山など訪問した経験があり、シリーズ第三弾となる。閑静な住宅地の丘の上、といった印象の駅だった。地下鉄名城線の東側はわりと最近になってから建設された。駅の綺麗さが西側とは違う。だいたいどこの都市も西高東低で、東側に旧市街、西側に新興住宅地が広がるパターンが多いが、名古屋は特殊で西側の方が新興住宅地なのだと、高校時代における部活の顧問は語っていた。名古屋は日本の中でも特異な都市なのである。道の広さと言い、観光地になりきれない雰囲気と言い、これが癖になってしまう人もいるのだとか。
 さて、自由が丘の次は八事日赤で下車した。ここから徒歩すぐのところに目指す喫茶店はある。その名はマウンテン。喫茶店でありながら、明らかに異様な質と量の商品を提供することで、名古屋にとどまらず全国に熱狂的なファンを作っているとかいないとか、まあとにかくとんでも喫茶店なのだ。閑静な住宅街の一隅に山のイラストがどどんと現れ、ハイセンスな建物が存在する。
 せっかくここに来たのだから注文せねばならないだろうと、甘口抹茶小倉スパを注文した。注文時、おばちゃんに量は多いですかと尋ねたところ、普通、と返されたのである。それをまんまと信じた自分が馬鹿だった。
 緑色のパスタの上にクリームがたんまりと掛けられ、適当に果物があしらってある。とにかくスパゲッティーの太さが尋常ではない。しかも苔のような緑色だ。
 食べてみた。麺がやたら甘かった。早々と確信した、これを完食するのは不可能だと。
 本来スパゲッティーとは、デュラムセモリナ粉一〇〇%のものだけをパスタと表し、そのパスタの中の一品種なのである。だからこれはスパゲッティーではない。マウンテンの「甘口抹茶小倉スパ」だ。そういう商品なのだ。しかし、一体これを誰が食べるんだろう。名古屋、おそるべし。
 結局半分も食えずに店を出てきた。おばちゃんに謝ると、遭難したのね、次は頑張ってねと再訪を要求された。心の中で、ここは二度と来ないと心に誓った。
 八事日赤から再び名城線に乗り、新瑞橋で一度バスターミナルを見学した後、堀田で下車した。この駅と同姓の友人がいるので彼にメールを送ってから、バスの基幹一系統に乗車した。
 道の真ん中が基幹バスレーンになっている基幹二系統に対し、基幹一系統は道の端がバスレーンである。また、基幹二系統は後乗り前降りなのに対し、基幹一系統は前乗り後降りである(その他、一般の市営バスは前乗り後降り)。
 運良く富士重工製のCNG車に当たった。CNGとは圧縮天然ガスを用いた環境に優しいバスで、最近普及したものは屋根の上にタンクがあるのが特徴である。
 車内は前の方がバスでは珍しいロングシートになっている。やはり乗客が多いのだろう。ただし、とにかく一般のバスに比べれば早いので立っていてもあまり苦にならないかもしれない。
 終点の栄で今度は栄始発の基幹二系統に乗り換えた。このバスの運転手がやたら丁寧だったのを記憶している。事あるごとに「よろしくお願いします」と語尾に付けるのだ。右に曲がります、よろしくお願いします、と言った感じだ。挙げ句の果てに、「信号赤になってしまいました、残念無念」なんてマイクにぼやくからバスの乗客は爆笑している。結論を言えば、名古屋市営バスの職員は他のバス会社に比べるとかなり丁寧だと言える。
 茶屋が坂で再び降車し、今度は大曽根へ向かった。階段をひたすら上がり、近代的なホームに出るとレールはなく、新交通システムの道のような感じだ。
 やってきたのは三菱エアロスターであった。いわゆる大型バスだ。これこそ名古屋が世界に誇るガイドウェイバス方式のゆとりーとラインである。
 バスを運転手が操るというのは一般のバスと同じだった。とりあえず座席に着き、しばらく運転手の動向を見守った。加減速を行うあたりは全く通常のバスと変わらない。ただ、運転手がハンドルを握らないのだ。バスが進むとカーブにあわせてハンドルが勝手に回っていくのである。
 これは新交通システムとバスを足して二で割ったようなシステムで、バスの外側に取り付けられたローラーがガイドウェイに当たって進むという方式を取っている。橋脚がかなり高いところにあるため、バスからの視界がすこぶる良い。あっという間に目的地である小幡緑地に到着した。ガイドウェイバスはこの先、ガイドウェイを離れてそのまま一般道を走っていく、単なる名鉄バスの系統になるのだ。名古屋は街全体が交通の実験場みたいだ。
 すぐにやってきた守十一系統に乗車し、小幡で降りて名鉄瀬戸線で栄、東山線名古屋駅に戻った。これで名古屋で行こうとしていた場所は制覇した。駅できしめんを食し、ロッカーから荷物を取り出して近鉄アーバンライナーのノンストップ特急、近鉄難波行きに乗った。
 車種はアーバンライナープラスである。車内は清潔感に溢れ、特急を走らせ慣れている近鉄の貫禄たっぷりだった。関東で普通列車ダイヤの網を縫って走る有料特急とは訳が違う。近鉄名古屋の次の駅が大阪の鶴橋と言う話もすごい。なお、実はこの一時間前の電車に同じサークルの会員が乗っていたという驚愕の事実が後日発覚するが、それはまた別の話。ミラクルはこの先も発生する。
 車窓がやたらに田舎っぽかったことしか記憶にない。二時間ほど座席の上でうとうとしていたようだ。忍者の里、伊賀上野の近くを経由して列車はあっという間に鶴橋に到着していた。
 予定よりも一時間早い列車に乗ったのは、せっかく大阪に来たのだから阪急電車に乗っておこうと心に誓ったからである。環状線で大阪へ。自分は関東でICOCAを使っているのだが、久しぶりにイコカの地元でこれを使うことが出来た。
 阪急梅田からとりあえず神戸本線七〇〇〇系に乗って十三へ向かった。一旦改札を出てから再びホームで待っていると運良く八〇〇〇系がやってきた。神戸本線では珍しくクロスシートの入っている車両で、全面の窓が広く軽快な音を立てて快走する名車である。かねてから乗りたいと思っていたが、この度その夢が叶った。
 阪急梅田で下車、頭端式ホームにマルーンの列車がずらりと並んだ光景は圧巻である。頭端式は関東ではすっかり珍しくなってしまった。東横線渋谷駅もいずれ副都心線との直通運転が開始されればあのホームも廃止され、地下に移される。旅情を駆り立てるこのような光景、関東では東急蒲田駅などが今でもその雰囲気を残しているが、やはり阪急梅田は半端な規模ではない。今でも頑なに路線のカラーを守り、全車両をマルーンで統一する心意気も尊敬すべきことだ。利便性のみを追求して無闇やたらな相互直通運転を重ね、すっかり威厳をなくしてしまった関東の私鉄にも見習って欲しいものである。東急田園都市線東武伊勢崎線内における濃霧の影響で遅延とか、本当にやめてほしい。
 さて、阪急梅田駅でカメラを構えていたらなんとサークルの先輩に出会ってしまった。その人は当該列車に三ノ宮から乗車してきたらしい。これから近鉄の布施駅界隈でサークルの飲み会があるので、二人で布施に向かった。

温泉旅行記 特別章 寝台特急あかつき

 飲み会終了後、近鉄電車で大和西大寺に向かい、特急に乗り換えて京都へ向かった。阪急梅田で出会った先輩とはここで別れ、サークルの別のメンバー数名と寝台特急あかつきに乗り込んだ。
 ご存じの通り、寝台特急あかつきは熊本へ向かうなはと途中まで併結し、長崎まで走るブルートレインだった。今年三月のダイヤ改正で惜しまれながらも廃止となってしまった列車である。
 廃止の主な要因は車両の老朽化である。一方、マスコミの報道では金銭的な問題と時間的な問題が目立った。寝台特急は時間が掛かる上、通常の乗車券、特急券と別に寝台券を重ねなければならない。B寝台で六三〇〇円で、これは下手なビジネスホテルと同額かそれ以上である。新幹線が便利になったのは言わずもがなであるが、東京〜弘前五所川原を結ぶ夜行バス「ノクターン号」の成功をきっかけに、各地の都市間を結ぶ夜行バスが発達し、低料金でありかつ寝台特急よりも便によっては早い時間で結ぶから、乗客がそちらに流れていったという背景もあるのだろう。
 しかし、国鉄時代の面影を残す車両を廃してしまうのは残念でしょうがない。B寝台とは言え、カーテンを閉じれば寝るスペースが十分にあるし、なんと言っても横になれるのが嬉しい。寝ながら車両の揺れを感じるのも良いが、たまにむっくりと起きあがって窓の外を眺め、現在地を確認するのも乙なものだ。
 自分は昭和生まれであるが、旅行を主に寝台特急で行っていた世代ではない。すでに新幹線が整備され、一晩掛けなくても目的地につくことが出来るようになっていた。
 しかし車内で懐かしい物を発見した。東北、福島へ向かう列車の主役は二〇〇系だった。これの車内に冷水コーナーがあったのである。くるくる回すと紙コップが出てくる。紙コップと言っても紙が二枚重ねになっていて中を膨らませて使うのである。ボタンを押して水を出す。決してうまい水ではなかったが、座席で落ち着いていられなかった自分の幼年期には必須のアイテムだった。列車の中をさまよう間、重要な水分補給の地点だったのである。今でもあのときに飲んだ水と紙コップの形状は忘れていない。
 二〇〇系の方は車体を更新するとともに冷水コーナーは消えてしまった。一方、急行銀河には設置されていなかった。あかつきとなはが消えてしまった今、あの冷水コーナーを体験できるのは富士とはやぶさだけになってしまったのだろうか。もしも他にあるという情報があるのなら是非とも欲しい。
 そんなわけで、あかつきの冷水コーナーで水を飲んだ。やはり決してうまい水ではなかった。けれども、それで寝台特急に乗っているのだという実感を得ることが出来た。時代に取り残されることとなってしまった寝台特急。けれども走る歴史の証人として、いつまでも日本の夜を駆け抜けていて欲しかった。利用客離れよりも、車両の老朽化の方が深刻なのだろう。全く同じ列車を作るわけにも行かない。非常に残念だ。
 途中でサークルの他の部員と合流した。四人ほどでしばし歓談した。あかつきは山陽本線をゆっくり走っていった。特急列車であるにもかかわらず、別の特急に抜かれたり新快速に抜かれたりする。けれどもそれで良かった。今しばらくは昭和の雰囲気を味わいながら、旅情に浸っていたかった。
 わりとぐっすり眠ることが出来た。何を夢見ていたのかすらわからない。目が覚めるとすでに九州島内に入っていた。鳥栖から長崎までやたら時間が掛かる。単線区間だからという理由もあるが、それにしても遅いのである。振り子付きの八八五系特急かもめが快走を見せる区間で、寝台特急はのろのろと進み、途中何度も待ち合わせをする。決して現代的な列車ではない。けれどもそういう列車が少しはあってもいい気がする。
 諫早湾の景色がすばらしかった。真っ赤な朝日が靄の掛かった空に浮かんでいる。あかつきは諫早の手前でかなり長い間止まり、やっとのことで諫早に到着した。僕は諫早のホームに降り立ち、終点の長崎へ走っていくブルートレインの勇姿を名残惜しく見つめた。

温泉旅行記 第五章(長崎県) 島原鉄道 雲仙温泉・島原温泉

 諫早駅のコインロッカーに荷物を預け、雲仙行きの島鉄バスに乗り込んだ。今日は島原半島遊湯券という切符を用いて島原半島を巡る。
 バスは山道をうねうねと走る。運転手はかなり慣れているようで、カーブの続く道もらくらく駆け抜けていった。
 まもなく小浜温泉に到着した。小浜温泉と言えば、アメリカ大統領選挙で話題のオバマ候補を勝手に応援しているところである。一風呂浴びていきたかったが、時間の都合でここはそのまま通過した。
 向かったのは雲仙である。道路の脇から煙がもうもうと上がっている。天気は晴れてくれた。
 早速公共浴場に向かった。ここはPHが2.2という強酸性の温泉である。ここまで酸性が強いと石鹸がうまく泡立たない。より酸性の強い蔵王温泉では米糠ソープなどで代用している。ただ、この浴場には石鹸類はおろかこれといった設備はなかった。あるのは浴槽と桶くらいである。
 しかし泉質は素晴らしかった。硫黄の香りが漂い、湯の華が入った強酸性の湯は冷えた身体を芯から暖めてくれた。設備は揃ってなくとも、ここまで泉質が良ければ文句なしである。さすがは雲仙、大満足だった。
 温泉神社を参拝し、地獄の遊歩道を歩いた。荒涼とした土地から煙がもうもうと出ている。別府にも地獄はあったが、それとはまた違う雰囲気だった。別府はちょっとした地獄が各地に点在している形だが、雲仙は山全体が一つの地獄になっているような気がした。別府は地獄のテーマパーク、雲仙は地獄そのもののなれの果て、と言うとわかりやすいかもしれない。
 基督教殉教碑というのがあった。キリスト教の信仰を取り締まっていた江戸時代、拷問のため熱いお湯をぶっかけ、何人ものキリスト教信者が火傷で亡くなっていったという。これはその慰霊碑だそうだ。
 自分は今まで温泉はただ人間に恩恵を授けるものだとばかり考えていた。しかし、そのような歴史もあったのだ。以前、キリシタンに興味を持って天草を訪れたことがあり、今回も旅行計画に島原を組み込んだのもそのためだから、この発見は自分にとってショックだった。やはり、自然というのは人間の使いようなのである。間違った使い方をしてはならない。
 熱湯を掛けられて亡くなったキリシタンたちに、自分は温泉好きだと言えば恨まれるかもしれない。けれども、悪いのは温泉ではなく、人間は政権を握ると時に過ちを犯してしまうのだ、ということを理解してもらいたい。そして、これからはそのような過ちを犯すことなく、限りある資源をなるべく有効に使って行かなくてはならない。マグマ由来の煙が絶えず吹き出し、荒涼とした地獄の中、僕は過去にこの場所で苦しめられた人々のことを思い、殉教碑に手を合わせた。
 次に向かったのは山の情報館である。ここの二階では温泉のメカニズムが科学的に紹介されていた。非常に面白かったので、僕はなんとしてでも理解してから帰ろうと、メモを取り写真を撮りながら何遍も展示物を見返した。
 どうして温泉には様々な成分のものがあるのだろうか。その答えはマグマとそこから水に解け出す成分の関係にあった。マグマから近いところにあるもの、たとえば先ほど通った小浜温泉などがそうだが、非常に塩分の強い温泉なのである。これはマグマに含まれる有効成分のうち、塩分が最も早く水に溶けるからである。自分は理系ではなく、詳しい記述ではないが、おおまかなメカニズムはこのような感じである。
 中心から少し離れると、今度は硫黄などが水に溶けるようになる。こうして、酸性の非常に強い温泉が出来る。先ほど入った雲仙温泉がそうで、硫黄が主な成分だ。
 そしてさらに離れると今度は二酸化炭素などといった炭酸系が溶けてくる。重曹泉などといったアルカリ性の温泉はこうして生まれる。これから向かう島原温泉は重炭酸塩泉である。そして最終的に重炭酸土類泉なども出てくるのだ。
 このように、島原半島は温泉のメカニズムを知る上で格好の土地なのだ。島原半島西側のえぐれている部分、橘湾がちょうどカルデラでマグマ溜まりのある辺りであるから、そこからの距離と方位を考えると温泉成分との関連が見えてくるのである。これは非常に面白い。
 長崎ちゃんぽんを食べ、雲仙からバスに乗り今度は島原へ向かった。バスで雲仙普賢岳の向こう側に出るのである。先ほどの例から言えば、自分はマグマ溜まりからどんどん離れながら温泉に入っているということになる。
 バスはかなりアグレッシブな運転を続け、島原のバスセンターに到着した。ここは島原鉄道島鉄本社前最寄りである。少し歩いて南風楼という由緒ある旅館へ向かった。ここで島原半島遊湯券を見せ、温泉に入る。この切符は指定された温泉施設の中から一つを選んで入ることができる、交通と入浴がセットになった画期的なチケットなのだ。これを利用しない手はない。
 島原温泉は源泉があまり熱くないため、加温処理をしている。それでもあまりお湯は熱くなかった。眺望風呂があり、波が寄せては返す海を一望しながら入浴できたのは素晴らしい経験だったが、ややお湯が少なかったのが残念である。一度中で暖まってから外に出ないと、肩の辺りがだんだん冷えてきてしまう。
 温泉のあとは島原城へ向かった。ここではキリシタン関連の物が展示されていた。マリア観音など、天草にあったような物が存在した。遠藤周作の沈黙という小説がちょうどキリスト教弾圧についての内容である。神の沈黙とは、その辺りに少しでも興味がある方には是非ともお勧めしたい小説である。
 島原城天守閣の一番上は例の如く展望スペースとなっていたが、外に出た瞬間突風に煽られ思わず飛ばされてしまいそうだった。これは良い景色どころの話ではない。写真を数枚取ってすぐさま中へ引き返した。
 島原城内には長崎の平和記念像を作った彫像家の美術館のような施設もあった。かなり広範囲な人物像を手がけていて、天草四郎などもあったが、目があのようにおっさんっぽくなっているのである。まあ、いいか。
 最後は島原駅から島鉄に乗り、諫早へ引き返した。島鉄よりもバスの方が早い気がする。ずっと海岸線を走るのだが、加速が遅く、たいしたスピードを出さない。ちなみに、途中の駅で対向列車を何気なく見ていると、そこにサークルの知り合いの姿があった。なんという奇跡だろう。思わず笑顔で手を振った。

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