ドン・フェルダー自伝 イーグルスという人生

ポリオとラジオ

[裏手の]庭には大きなセンダンの木があって、こぶのような根っこが地面から突きでていた。
 「あの木に登ってはだめよ、坊や」ねじ曲がった枝を好奇心いっぱいのまなざしで見上げる僕に、彼女はそう警告した。だけど4歳になった時、僕はついに誘惑に負けてしまった。言うまでもなく、枝は折れ、ものすごい衝撃音とともに僕は地面に落下し(略)皮膚から骨が突きでたまま、僕は泣き叫びながら家に走って帰った。
 アラチュア州立病院の医師たちは、僕の左腕の動きは制限され不自由になるだろうと告げた。だが、母は信じようとしなかった。ギプスがはずれるとすぐに、母は小さいバケツに砂を入れ、僕に持たせた。そして、腕の筋肉を伸ばすために、朝晩、僕にそれを運ばせた。痛がって泣く僕の手を取り、母はいっしょに歩いてくれた、ともに泣きながら。2カ月間にわたる必死の努力の甲斐あって、僕の左腕は自由に動かせるまでに回復した。未来のギター・プレイヤーにとってはとても重要なことだった。
 その事故から1年後(略)ポリオの初期症状という診断が下された。(略)

しかし僕はラッキーだった。入手困難だった新薬ソークワクチンを投与され、幸運にも重篤な症状にはいたらなかったのだ。それでも4カ月という長い期間、僕はたったひとりで怯えながら、小児ポリオ病棟で過ごした。こんな場所で両親にも見捨てられるなんて、僕がいったい何をしたっていうんだ?(略)ただひとつの慰めは、ベッド脇の小さなラジオだった。(略)夜になると、僕はそれを枕の下に忍ばせて横になり、何時間も音楽に合わせて指で拍子をとった。
 アル・マーティノとフランキー・レインの音楽が僕を慰め、より重篤な子供たちの呼吸を補助する"鉄の肺"のゼイゼイいう音から、僕の気をそらしてくれた。「僕のハートはひとりぼっち/さびしくてたまらない」(略)アル・マーティノが歌いかける。あの病気を克服できたのはワクチンの効果ではなく、彼ら50年代の流行歌手による癒しの音楽と快活な歌声のおかげだと、僕はいまでも思っている。

黒人教会の音楽

 母はジェリーと僕が歩けるようになるとすぐに、日曜学校に連れていった。父は1度も行ったことがない。「あいつらの説教はもう聞きあきた」(略)

聖書研究グループに入ることになったジェリーと僕は、まず最初に洗礼を受けなければならなかった。その儀式は、巨大な金魚鉢のような透明ガラスの水槽に、牧師とその"犠牲者"が入ることで行われる。ある日のこと。牧師が会衆のなかから、ひとりの太った大柄の女性に洗礼を施すことになった。彼はその女性を水中で抱きかかえると、ハンカチを彼女の口にあて、祈祷の言葉を暗唱しはじめた。その女性は足をばたつかせ苦しそうにもがいていたが、牧師は彼女を押さえつけて離さない。(略)彼女はぜいぜいと喘ぎながら水面から顔を出した。
 僕はびっくり仰天して叫んだ。「あの牧師さん、彼女を溺れさせるとこだったよ!」。礼拝が終わるとすぐに、僕は通りの向かいにあるメソジスト教会に入っていくと、その場で登録を済ませた。「メソジストは水を振りかけて洗礼するだけだからね」僕は母にむかって、きっぱりとそう告げた。
 僕にとって、教会でよかったことといえば、その音楽だった。といっても、僕が通っていた教会ではなく、黒人たちの通う教会だ。ほとんど毎日曜、教会の礼拝が終わると、僕は1マイル半の道のりを歩いて"ホーリー・ローラー"教会まで通った。外の芝生に座って、開かれた窓から聴こえてくるパワフルなサウンドとすばらしい歌声にゆったりと身をまかせるのだ。そう、彼らは魂で歌うことを知っていた。

初めてのギター

父は、息子との共通の趣味を音楽に見いだした。我が家は貧しかったにもかかわらず、父は33回転LPや45回転SPが聴けるステレオを持っていた。(略)

父は友人たちからアルバムを借りると、ターンテーブルにのせてかけたり、中古のテープレコーダー"ヴォイス・オブ・ミュージック"を使って録音したりした。それが違法行為であることは知っていたが、父にしてみればそうするしかなかったのだ。聞き飽きるとそれを消して、また別の誰かから違うレコードを借りてはそれを録音した。やがて父には、トミー・ドーシー、ローレンス・ウェルクベニー・グッドマン、そしてグレン・ミラーといった幅広いコレクションが出来上がった。いまでも〈ムーンライト・セレナーデ〉を聴くと父のことをなつかしく思いだす。
 父のおかげで、僕は初めてジャズとカントリー・ミュージックを聴くようになった。

(略)

[57年『エドサリヴァン・ショー』のエルヴィスに衝撃を受け]

ギターが欲しくなった。(略)

[金はないので、赤いかんしゃく玉(チェリー・ボム)と近所の少年のおんぼろギターを交換]

穴ぼこだらけで弦が3本しかないひどい代物だったが(略)貯金をはたいて新しい弦に張りかえた。近所に住む人がその新しいおもちゃのチューニング方法や、初心者には難しいDとGコードの押さえ方を教えてくれた。それからというもの、僕は家のフロントポーチにあるぶらんこ椅子を独占して、何時間もかき鳴らしつづけた。そして、そのギターがほとんどすり減ってしまうまで、練習に明けくれた。
 その後、父にすこし援助してもらってひと財産ほどの貯金ができた僕は、シアーズ・ローバックに28ドルを送金(略)シルヴァートーン・アーチトップを注文(略)

ケースを初めて開けた時の、あのプ~ンと鼻をつくワニスの臭いをいまでも憶えている。(略)[兄のお下がりばかりの自分にとって]初めての持ち物だった。

(略)
僕が[優等生の兄]ジェリーよりも優れていたのは、こと音楽に関してだけだ。(略)

ぼーっと夢みる以外に僕にも熱中できることがあると知って、父はほんとうに嬉しそうだった。つねに革新者だった父は、テレビの裏蓋をはずし、小さなジャックがあるのを見つけた。そこにギターをプラグインすれば、そのセットのスピーカーを通してプレイすることができるわけだ。(略)テレビで『マイティ・マウス』や『ウィンキー・ディンク&ユー』といったアニメを観ながら、プラグインしたギターでそれに合うサウンドトラックを作って遊んでいた。

 父は工場の同僚に僕のことを自慢していた。「わしの末の息子は、すごくいい耳をしてるんだ(略)どうやら、生まれつき才能があるようでね」
 ある日のこと、父は仕事仲間が娘にエレクトリック・ギターを買ってやったのにまるで弾こうとしない、と不満をもらしているのを聞いた。(略)

夜遅く帰宅した父はそのエレクトリック・ギターの話を僕にすると、こう忠告した。「ギターを見せてもらいに行くんだが、まるで関心ない態度でいるんだぞ」
 そのギター(ツイードのケースに入ったクリームとゴールド色のフェンダー・ミュージックマスター)を目にしたとたん、僕らの作戦は吹っとんだ。僕の表情を見てとるなり、父は有利な取引をするのは無理だと悟った。それはたぶんフェンダーのなかではもっとも安物で、金色のピックガードがついているせいで女物のギターに見えたが、僕にとってはまさにひと目惚れだった。付属に棚ラジオほどの大きさのアンプがついていると知って、ますます欲しくなったのだ。得意満面で家に持ちかえると、僕は指から血が出るまで練習した。父がそのアンプをフェンダー・デラックスにアップグレードしてくれた。これで完璧だ。あとは、僕のパフォーマンスをより上達させればいい。

初ステージ

 練習に練習を重ねた僕は、ある程度の自信がつくとステート・シアター映画館に出かけた。(略)映画の後でライヴ・タレント・ショーが催されていた。多くの子供たちは早朝から出かけていき、25セントを払うと、それ以上のお楽しみ(映画とアマチュア・タレント・ショー)に与れるというわけだ。
 僕は11歳になったばかり。ホワイトブロンドの髪を片側になでつけ、日曜日に着る1張羅のシャツとズボンでめかしこむと、生まれて初めて人前で演奏するためにステージに立った。僕はひどく緊張して、まだ髭の生えていない鼻の下に汗を光らせていた。(略)〈赤い河の谷間〉のオープニング・バーを演奏した。(略)

ほとんどが見知らぬ人だったので、ある意味、気が楽だった。(略)
 僕は歌ったりはしなかった。歌えなかったのだ。その頃、僕は自分の声にまるで自信がなかった。(略)
 突っ立ったままギターを弾く僕への反応はけっして熱狂的とはいえなかったが、しばらくすると、場内が一瞬、静かになった。何人かの子供たちがちゃんと聴いているのが目に留まった。僕はすこし微笑むと、気持ちが楽になったので自信を持ってプレイしてみることにした。曲の主旋律から少しそれて、自分なりの即興演奏も取りいれてみた。最後のコーラス・パートに入っても、スタンディング・オヴェイションにはならなかった。それでもブーイングはこなかったし、紙コップが投げられることもなかった。そして、いい兆候だった。
 最後のコード音が反響しながら消えていくとき、2列目に座っているかわいいふたりの女の子に目が止まった。(略)気のある素振りで僕に笑いかけたのだ。これこそ僕がずっと求めていたことだ、とその時、僕は確信した。

(略)

[高校入学、赤貧を実感]焼けつくほどに熱い恥の感情が生まれた。

(略)

[レコードを買う余裕はないので、ラジオで最新サウンド入手]

 やがて、髪をグリースでサイドにかため、母のペダル式シンガーミシンでジーンズの裾を細くつめると、僕はノース・フロリダのミュージック・シーンに本格的に乗りこんでいった。父の手本をまねて、ほかの人からエルヴィス、バディ・ホリー、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツといった、ロックンロールと名のつくレコードのほとんどすべてを借りまくった。父のヴォイス・オブ・ミュージック・マシーンを使って片方のチャンネルにそれらを録音しながら、もう片方ではギターを弾きまくってはロックンロールの偉人たちを真似ていた。父がより性能のいいステレオにアップグレードするや、僕はすぐさまその古いやつを貰いうけた。それを自分のベッドルームに慎重に運ぶと、勉強などそっちのけで夜の時間をすべて音楽に捧げた。
 2度目に人前で演奏したのは、14歳の時だった。ジュニア・ハイスクールのタレント・コンテストに応募し、ギターとアンプを持って、たったひとりでステージに立った。(略)

ベンチャーズの〈ウォーク・ドント・ラン〉をなんとか弾きおえた。会場には500人ほどの観客がいたが(略)どうやら僕を気に入ったみたいで、そのギグを終える頃には新たなステータスを取得していた。そこに集まっていたのはみな、僕と同じように、ロックンロール・ヒーローに憧れる年頃の若者たちだった。そして突然、僕はもっとも身近なゲインズヴィルのヒーローとして、自分にファンがいることを知った。なによりもすばらしいのは、その何人かが女の子だったことだ。色白で細身の体型、おまけに音楽の才能を証明してみせた僕は、たちまち人気者になった。言うまでもなく、すっかり自信をつけた僕は有頂天になった。
 その演奏から3週間後、ある教師が地元のラジオ局WGGGに連絡を取るよう勧めてくれた。その局ではゲインズヴィルのアマチュアたちの演奏をレギュラーで放送しているという。(略)狭いレコーディング・スタジオのなかでマイクを前に立つと(略)

[〈アパッチ〉、〈ウォーク・ドント・ラン〉を披露]

友人の何人かがその放送を聴いていた。「やったな、ドン(略)最高にカッコよかったぜ!」。僕はなんだかいっぱしの人物(エルヴィス)にでもなった気がした。マイクの前に立っただけで人々の僕に対する見方が変わるということも、当時の僕には驚きだった。

ティーヴン・スティルス

[ザ・コンチネンタルズを結成]

実際のところ、僕のバンドのようなものだった。僕がメンバーを集め、僕の電話番号を載せたブッキング用の名刺も作った。(略)

[ベースのスタン・スタンネル]

クラシカル・テクニックとの共通点があったせいか、彼がうまく弾けるのはベースだけだった。(略)最終的にはボストン音楽学校のギター学部の学長になった。つまり、僕のティーンエイジ・ロックンロール・バンドでは、国内でも指折りのクラシカル・ギター・プレイヤーがベースを弾いていたのだ。(略)
ほかにも様々なプレイヤーたちが在籍していた。(略)

もっとも正体不明だったのは、ある日突然ゲインズヴィルにやってきたひとりの若者だった。(略)
「歌えるし、リズムギターがめっちゃ巧いんだ。俺たちのバンドに入れるべきだよ」ある日、ジェフがそう言いだした。
「そりゃ、すごい!なんて名前だい?」(略)

「スティーヴン・スティルス
 ジェフは正しかった。スティーヴンは、それまで聞いたこともないような独特の声をしていた。彼は15歳で、短いブロンドの髪、社交性に富んだじつにおもしろいやつで自信に満ちあふれていた。ギター1本で座ってはひとりでずっと弾き語りができるような、そんなタイプだった。どこか反抗的で独立心の強さをうかがわせたが、常軌を逸するほどではなかった。彼が陸軍士官学校に送られるほどの悪さをしていたとは思えない。おそらく、僕らよりも捕まる回数が少し多かったのだろう。彼はしばらくのあいだ、ジェフの家に居候することになった。そして、僕らはザ・コンチネンタルズの新メンバーに彼を加えて、いっしょにいくつかのショーをこなした。

(略)

気づいた時、スティーヴンはもういなかった。なんの説明もさよならもなく、彼は姿を消してしまった。(略)のちに聞いた話では、どうやらタンパに向かったということだった。その後、彼は家族の移住先のラテンアメリカに渡ったという。理由はともあれ、スティーヴンは蒸発してしまったのだ。僕はその時、彼にはもう2度と会うことはないだろうと思った。

チェット・アトキンスストラトキャスター

[61年夏、父とチェット・アトキンスのコンサートに]

信じられないような親指のシンコペーションとフィンガー・テクニックを駆使するだけでなく、彼は左手と右手を同時に使って異なるメロディを弾くという妙技を展開してみせた。下弦で〈ヤンキー・ドゥードル〉を弾きながら、上弦で〈ディキシー〉を弾くのだ。(略)すっかり心を奪われた僕は友人から彼のレコードを借りまくり、ひたすらコピーに熱中した。(略)
 父のテープ・マシーンで、1秒につき7と2分の1のスピードで録音して3と4分の3のスピードで再生すると、キーと調性は変わらずに1オクターヴ低くなり、速度は半分になることがわかった。その方法で、僕は1弦1弦、1音1音、1指1指を丹念に聴きとっていった。こうして、実際にチェットとユニゾンで弾けるようになるまで、徐々にスピードを上げていったのだ。

(略)

[楽器店ウィンドーにフェンダーストラトキャスター、どうにか分割でとお願いすると店主は]

「弾けるのか?」と、うさんくさそうに訊く。
「もちろんです」僕は自信たっぷりに答えた。
「弾いてみろ」(略)

僕はここのところ急速に増えているレパートリーの1部を披露してみせた。
「ふむ。ひと月10ドルずつ払ってもらうってことでどうだね?(略)都合のいい時に、ここで働けばいい。チューニングやギターの手入れ、それにギターの手ほどき。時給として1ドル50セント払うがね」

(略)
店での僕の仕事には、じきに音楽の教師という役割が加わった。(略)僕は指が痛いと文句ばかり言う10歳のクソ生意気な小僧相手に、ギターを教えるようになっていた。(略)給料は倍になり、じきにストラトキャスターの代金をすべて払いおえることができた。(略)

教え子のなかに、前途有望なひとりの少年がいた。その名をトミー・ペティ(略)

3歳年下のトミーは、そっ歯で痩せっぽち、それにひどいギターを持っていた。(略)ギター・プレイヤーとしてずば抜けていたわけではないが、ミック・ジャガーボブ・ディランを足したような声をしていて、なによりも度胸があった。それからほどなくして、彼はラッカー・ブラザーズというバンドのリードシンガーになる。僕はトミーに、いつかきっと成功するよと言ったのを憶えている。

 僕は彼のバンドメンバーにギター・テクニックを上達させる方法を教え、いくつかのアレンジをまとめるのに手を貸した。時には彼らのギグにも同行(略)

トミーはとてもハンサムで、そのつややかな長髪は女の子たちを惹きつけた。

(略)

B.B.キング

 僕はいまだにブラック・ミュージックが大好きだ。(略)だが、50年代末から60年代初めにかけて、黒人アーティストが出演するコンサート・ホールはひとつもなかった。当時のディープサウスには人種差別がまだ根強く残っていたからだ。

(略)

[ミュージシャン仲間が"チトリン・サーキット"]にB.B.キングがやってくると教えてくれた。誰かの農場の納屋で非合法に営業されているバーで演奏するのだという。その当時、プロモーターたちは牛の放牧地の真ん中に建物を見つけると、大きな牧草堆をどかしてギグ会場に仕立てあげた。テーブルと椅子代わりの箱を並べると、樽ビールをふるまい、5ドルの入場料を徴収する。(略)

白人は僕ひとりだけだ。僕は入場料を持っていなかったので、外に立って窓からなかを覗いた。B.B.は完璧に僕を圧倒した。(略)

[演奏後]混雑した納屋を横ぎって彼のそばに駆けよった。「ミスター・キング」息をきらして、言う。「握手してもらえませんか」
 顔をぱっと輝かせると、彼は真っ白な歯を大きく覗かせて僕に笑いかけた。「あぁ、いいよ、坊や」ほろ酔い機嫌で、答える。「さぁ、握手だ」差しだされた大きな手を、僕は自分の手のなかに握りしめた。その指はソーセージほどの太さで、その息はかすかにビールの臭いがした。なにも言えず、その視線に射すくめられたまま後ずさりすると、僕はぼうっとした状態で家に帰った。それから1週間というもの、僕は手を洗わなかった。

 その後の数カ月かけてせっせと貯金をつづけた僕は、ついに欲しかったものを手に入れた。僕が生まれてはじめて買ったアルバム。それがB.B.キングの《ライヴ・アット・ザ・リーガル》だ。テネシー州のガラティンにあるランディーズ・レコード・ショップからメールオーダーで取りよせた。(略)

世界一すばらしいブルース・レコーディングだった。僕は音符のひとつひとつをそらで憶えた。

バーニー・レドン

 バーニーはちょっと変わっていた。(略)サンディエゴ出身で、クール・ガイといった雰囲気を漂わせていた。ありえないような砂色のカーリーヘアに、パッチだらけのベルボトムジーンズ姿で、まるでサーフボードから降りたばかりのように見えた。

(略)

[楽器店でゲインズヴィルでいちばん巧いギタリストは君だと教えられたと、ある日訪ねてきた。早速ジャム・セッション]

「きみはなにを弾くんだい?」
フェンダーストラトキャスター(略)きみは?」
「アコースティック、バンジョーマンドリン、フラットトップ・ブルーグラス、ま、そんなとこかな」(略)
僕はアコースティック・ギターを持っていなかった。それはもう卒業したと、自分では思っていた。(略)

バーニーはそのフラットピッキング・ミュージックで、僕を完全に圧倒した。彼が若くしてこれほど熟達していることに、僕はすっかり眩惑されてしまった。
(略)

僕らはリッパム・ミュージックに出向いて、新品のギターを2本(彼にはエレクトリック・グレッチ、そして僕にはアコースティックを)注文した。知っていることすべてをたがいに教えあうつもりだった。それから数ヵ月間、彼は僕にカントリー&ウエスタン・ミュージックの繊細なニュアンスを伝授し、僕は彼にロックンロールを教えた。(略)バーニーとの出会いは、僕の人生において最良のできごとのひとつだった。 

 バーニーの父親は原子核物理学者で、サンディエゴから転勤でやってきた。フロリダ大学内に、最大規模の原子核開発リサーチ・センターを開設するためだ。バーニーは10人兄弟の長男で(略)[弟のトムは後に]トム・ペティのニューバンド、マッドクラッチでプレイすることになる。

(略)

 バーニーはサンディエゴ時代、すでにいくつかのブルーグラス・バンドでプレイしていた。そのなかのひとつ、スコッツヴィル・スクイレル・ベイカーズには、クリス・ヒルマン[が在籍](略)

バーニーは間違いなく5弦バンジョーの名手だった。(略)アール・スクラッグスと競いあっても負けないくらいだ。(略)

[ブルーグラス・バンドの他に]

モーンディ・クインテットというもうひとつのバンドを結成し、僕が夢中になっていた音楽をプレイすることになった。(略)

金曜や土曜の夜に男子学生社交クラブのパーティやハイスクール・プロムで演奏すると、200ドルの稼ぎになった。おそらく、父の当時の週給よりも多い額だ。

(略)

社交クラブのパーティはワイルドそのものだった。映画『アニマル・ハウス』で観たように、誰もがしこたま酔っぱらっていた。

(略)

 最盛期のデイトナには、ミュージシャンたちが前座として出演できるチャンスが数多くあった。(略)

僕はトミー・ロー&ザ・ローマンズといったハウスバンドにソロで参加したり(略)自ら"世界で最年長のティーンエイジャー"と名乗る[〈ウォーキン・ザ・ドッグ〉が大ヒット中のルーファス・トーマスのバンドでもプレイ](略)

[64年ビートルズ旋風]

モーンディ・クインテットの外見もサウンドも、あいかわらず英国風のままだった。僕らはおもに、キングスメンの〈ルイ・ルイ〉のようなポップソングや、昔のソウル・インストゥルメンタル曲〈グリーン・オニオン〉、そして[ビートルズのカバー]

デュアン・オールマン

[新しいミュージシャン仲間]のなかに、デュアンとグレッグ・オールマンというふたりの兄弟がいた。(略)デュアンはずばぬけた才能を持つリードギタリストで、すばらしくソウルフルな声を持つグレッグはキーボードを弾いた。(略)

長髪を背中の下まで伸ばし、デュアンは立派なもみあげを蓄えていた。(略)本物のヒッピーで、バーニー同様ポットにハマっていた。(略)最初のうちスポットライツと呼ばれていたが、その後、キャンディの名をとってオールマン・ジョイズに変わった。

(略)

 スライドギターを弾くのを見るのはデュアンが初めてだった。(略)なめらかに磨いたバドワイザーの瓶のネックを指にはめ、フレットを上下にスライドさせる彼を眺めていた。(略)とてつもない衝撃だった。(略)

チューニングのやり方を初めて伝授してくれた。「いいか、目を閉じて、音楽をよく聴くんだ」自分のロングネック・バド・トップを弦の上でスライドさせている僕に、デュアンは言った。「心のなかでそれを感じるんだ。背筋がぞくっときたら、それが正しい音なのさ」。(略)彼こそ、まさしく本物の天才だった。

(略)

[サークルの前座をやり、マネージャーに気に入られNYに連れて行ってもらったが]

メンバーのふたりがホームシックにかかってしまい、それ以上の進展はなかった。

(略)

[バーニーがカリフォルニアに帰って本物の音楽をやると言い出し、誘われたが、貧しい育ちゆえの慎重さで話に乗れず、バーニーは一人旅立って行った]

ジャズに目覚める

[バークレーで2年間学んできた6歳年上のポール・ヒーリーが音楽教室開校]

僕はギター教室に入学してくる子供たちに教えることを条件に、彼からジャズ理論と作曲法を学べることになった。

(略)

[フリーフォームのジャズロックを得意とするヒッピー・バンド、フロウに誘われる]

フロウとバリー(ジャンと僕が家をシェアしていたカップルの夫)からの二重の影響で、僕は初めてジャズに興味を持つようになった。(略)

じっくりと聴きこんではジャズギターについて学んだ。ジャズ特有のソロを覚えるにつれ、ソニー・ロリンズジャンゴ・ラインハルトなどを好んで聴くようになった。じきに、僕はギターを違う角度からとらえるようになった。より知的で洗練されたジャズに比べると、カントリー、ロックンロール、そしてブルーグラスはいくぶん古風なものに思われた。ポールのもとでみっちり理論を教えこまれた僕にとって、ジャズは突然、意味のあるものとなった。

(略)

[バリーに教えられマイルスをヴィレッジゲイトで観て衝撃]

クリード・テイラーラスカルズ

[ラジオからバッファロー・スプリングフィールドの〈フォー・ホワット〉が流れ]

その声の持ち主はスティーヴン・スティルス、コンティネンタルズでいっしょにプレイしていた、あのミリタリー・ヘアカットの放れ馬だ。
(略)「あいつ、ついに油脈を当てたな!(略)僕もいつか見習いたいもんだな」

(略)

 1968年秋、ついにフロウがニューヨークでのショーケース・コンサートを行うことになった。(略)

[フィルモア・イースト]

オールマン・ブラザーズが僕らの前にプレイしていた。(略)オールマン・ジョイズからアワーグラスと名前を変えて、LAでアルバムのレコーディングも行っていた。

(略)

ギグが終わると、クリード・テイラーが楽屋に僕らを訪ねてきた。(略)

袖にパッチをあてたスエードのジャケットを着た寡黙な男だった。「さて、きみたち。今夜の演奏を聴いて気に入ったよ。すばらしかった。5000ドルでレコーディング契約をしようと思うが。どうかね?」
 それは僕らにとっていままでで最高の稼ぎだった。自分たちの幸運が信じられなかった。(略)

5000ドルのアドヴァンスは1ヵ月しかもたなかった。ダッジの配達用ヴァンの頭金を支払い(略)防寒コート、そしてPAシステム用のマイクを2本購入した。残りの金は、葉っぱや食料、巻きタバコ、そしてジャック・ダニエルに消えた。

(略)

ヤング・ラスカルズが僕らのスポンサーになってくれた(略)ヒットを飛ばし乗りに乗っていた彼らは、僕らがクラブでプレイできるよう楽器のお下がりをくれたり、PAシステムを貸してくれたりした。ディノ・ダネリからはドラムセットをもらったし、フェリックス・キャバリエからはハモンドB3キーボードをもらった。そしてジーン・コーニッシュは彼のギター、大きなギブソン・エレクトリックを僕にくれた。

(略)

クリード・テイラーが使用する[のはルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオ](略)

彼はレコーディング・ブースに陣取ると、マッド・サイエンティストのようにコントロール装置を操作した。両手に白い手袋をはめ、文字どおり、無菌で人間味のないハイファイ・レコーディングを行うのだ。
 ある日、アンディとジョンは僕らをアトランティック・スタジオまで連れて行くと、ヤング・ラスカルズの最新シングルのカッティングを見学させてくれた。(略)とてもくつろげる雰囲気だった。(略)僕らはスタジオの隅っこに立ち、彼らが〈ビューティフル・モーニング〉のレコーディングをするのを聴いていた。

(略)

かたや、イングルウッド・クリフのスタジオで(略)僕らはひどくピリピリしていた。(略)ちゃんとしたレコーディングは初めての経験だったからだ。最新式の超ハイテク機材と実験用の白衣を着た男というこの臨床的な雰囲気のなかで、僕らは味わったことのないプレッシャーを感じていた。クリードがやってきて、コントロールルームの椅子に座る。(略)ひと言も発しなかった。音楽的な指示も一切なかった。

 僕は瞬時に、それも不快感とともに、理解した。いわゆる伝説のレコーディングといわれるものを手がけたのはクリード・テイラーでもルディ・ヴァン・ゲルダーでもなく、そのアーティスト自身なのだと。(略)僕らはプレイを始めたが、それは誰が聴いても無理強いされた不自然な演奏だった。実際、それは転落した列車の残骸そのもので、奈落の底から引きあげることなど誰にもできなかった。

(略)

僕らはいわゆる"AM向き"ではなかった。長いジャズ・ソロがあるため、ラジオ局の多くは僕らの楽曲をかけたがらなかったのだ。評判は悪くはなかったが、それでもヤング・ラスカルズと同じというわけにはいかなかった。ルックスとサウンドはいくらか似ていたかもしれないが、明確な位置づけができないため、マーケティングに関してはまさに悪夢だった。僕らに興味を示すのは、クラブに通いレコードを買うようなメインストリームのファンではなく、ジャズ通から派生した折衷主義の連中だった。
 次のアルバムのオファーもなく、まったく仕事のない日々が延々とつづいていた。

ウッドストック

 1969年8月。(略)"平和と愛の3日間"と告知されたそのイベントは、ウッドストックの近くのベテルという場所で催されるという。
 「なぁ、みんなでこいつを観にいこう(略)きっと知り合いが大勢くるはずだ。(略)ラインアップがとにかく凄い。ジャニス・ジョップリンザ・バンドザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ザ・グレイトフル・デッド。あのヘンドリックスもプレイするんだぜ」

(略)

出演バンドのリストにクロスビー、スティルス&ナッシュの名前を見つけた。彼らのデビュー・アルバム《クロスビー、スティルス&ナッシュ》は、チャートを急上昇中だった。

(略)

 どしゃ降りだったことだけは覚えている。東から押しよせる雨雲の大群とともにものすごい嵐がやってきた。激しい風は、不安定に積みあげられたスピーカータワーをなぎ倒しそうな勢いだった。僕らはシェビィのなかで寝袋にくるまって、屋根に打ちつける豪雨の音を聞きながら眠った。

(略)

出演者の名前がアナウンスされる(略)
 「おっと、こいつは観にいかないとな」(略)意を決して雨のなかに出ていく。滑りやすい丘の斜面をステージに向かって駆けおりた。サンタナ、ヘンドリックス、アルヴィン・リーの演奏を、耳から血が出るかと思うほど熱心に聴いた。
 それは全員びしょ濡れで寒さに震え、思いだしてもぞっとする"泥の祭典"だった。粘着性のある土が足指のあいだで固まり、毛穴やひび割れにまで進入してきたが、誰も気にしていなかった。

(略)

ドーヴァー・プレインズに戻ると、なぜか自分の人生が前よりも耐えがたいものに思われた。僕はまだ少年だったスティーヴン・スティルスを知っている。その彼が、朝の4時にロックンロールの大御所たちと同じステージに立ち、グラハム・ナッシュなどといっしょに演奏していた。

(略)

白のポンチョを着てスツールに腰掛け、あの独特のざらついた声で歌っていた。すばらしくグルーヴィだった。あのステージ上で彼と並びたい。なににもまして、僕は強くそう願った。
 かたや僕はといえば、人里離れた古い大きな家でマリファナ常習者たちとのらくら暮らしながら、このどうしようもない状況からなんとか逃れようともがいていた。(略)バンドのメンバー以外は恋人も友人もいなかった。もうすぐ冬だというのに、無一文だった。この暖房もないでっかい家で僕らが凍え死んだとしても、誰も気づいてくれないだろう。僕ら自身でこの状況をどうにか打開しないかぎりは。

ボストンへ、ピーター・グリーン

[18ヶ月ぶりに元カノに連絡。スーザンはハーヴァードで秘書をやっていた。ボストンに来ればと言われ、フロウ脱退を決意。クリードに伝えると、バークレーの役員をやっているから、教師の仕事を世話しようかと言われる]

 ボストンはまったく別世界だった。(略)時代は1970年、ビートルズが解散した年だ。(略)

[ホリデイ・インのディナーショーで]ナイロン弦ギターで映画音楽を演奏した。

(略)

[知らない曲をリクエストされると、次の休憩の後に、と言い、休憩中に]ポピュラーソング楽譜集でその曲を探し、コード進行を覚えてひたすら練習する。そして、20分後に戻った時は、完璧に知っているかのようにプレイして5ドルのチップを稼ぐのだ。
 それは自分が望んでいるキャリアではないと痛感していた僕は、できるだけ多くのミュージシャンたちと関わろうと思った。(略)何人かの興味深い人たちに出会った。ひとりはピーター・グリーンというエキセントリックな英国人。彼は自らを世に送りだしたバンド、フリートウッド・マックを脱け、それまでに稼いだ大金も手放してしまったという。僕は公園の無料コンサートでジャミングしている時に彼と知りあった。雑談を交わすうちに、彼が町にやってきたばかりで泊まる場所もないことを知った。
 「よかったら、しばらく家に泊まってもいいよ」と彼に言った。彼の目には信用できるなにかが宿っているように、僕には思えたのだ。数日間、彼は我が家のカウチで寝泊まりした。僕らはいっしょにセッションもした。彼はすばらしいブルース・ギタリストだった。コックニー・アクセント丸出しで、痛快なユーモアセンスを持っていた。ともにB.B.キングを熱烈に支持していることもわかった。ただし彼は、あまりにも向精神作用性物質を摂取しすぎだった。そしてある日、彼は忽然と姿を消した。結局、僕らのコラボレーションからは何も生まれなかった。のちに彼が宗教にどっぷりはまり、有り金すべてを寄付したと聞いた。
 トリプル・Aという二流のレコーディング・スタジオで、週給50ドルの仕事を見つけた。僕の仕事はレコーデイング用にセッション・ミュージシャンを雇い入れることだった。そのほとんどがバークレー音楽院の学生だった。そのうちのひとりが、アブラハム・"エイブ"・ラボリエール。のちに、ジャズとポップ界を代表するもっとも著名なセッション・ベースプレイヤーとなる人物だ。彼が演奏を始めると、誰もが背筋をぴんと伸ばした。信じられないほどすばらしいリズム感覚の持ち主だった。エイブと僕はすぐに親しくなり、僕はできるかぎり多くの仕事を彼にまわした。

(略)

ほかにも、夜間と週末にふたつの仕事を掛けもちしていた。別々のスタジオで、カーディーラーと衣料品のアウトレット用にCMジングルを作る仕事だ。(略)

スタジオのひとつはエースといって、オーナーの息子のシェリー・ヤカスという少年が時々やってきては、掃除をしたりケーブルを巻いたりしながら、僕の作業を眺めていた。その後、彼は業界でも屈指のエンジニアとなり、ブルース・スプリングスティーンU2のレコードを手がけることになる。

(略)
 バーニーは時々ふらりと町にやってきて、僕はいつも彼に会うのが楽しみだった。彼はしばらくリンダ・ロンシュタットのバックバンドにいたが、彼にとって最大のブレイクはグラム・パーソンズ率いるフライング・ブリトー・ブラザーズに加入したことだった。彼らはすでに大ヒットアルバムを1枚出していて、全米ツアーの一環
イーストコーストに来ていた。スーザンと僕はコンサートを観にいったが、彼らはじつにすばらしかった。「なあ、こんなとこからさっさと抜けだしたほうがいい(略)車のCM曲なんか書いてる場合じゃない。きみはすごいギター・プレイヤーなんだぜ、ドン。ウエストにくるべきだよ」。スーザンの表情がすべてを語っていた。彼女はボストン生まれで、家族のそばで暮らしたがっていた。もし彼女といっしょにいたいなら、僕がボストンに留まるしかなかった。

結婚

[家を買い、スーザンと結婚]
 23歳の若さで、僕は人の夫となった。その責任は恐ろしいほど重かった。
 たいして金はなかったが、僕らは若く愛しあっていて、墓地に隣接する家の半分に住んでいた。人生が突然、楽しく思えてきた。(略)

 スーザンは自分が一家の稼ぎ手であることをとくに気にもしていなかった。(略)

バーニーの多才さを見習い、自分の商業価値を高めるため、僕はつねに音楽的スキルを磨こうとがんばっていた。入手できるイクイップメントを使って、ドラムの基本とキーボードとベースギターを独学で習得した。さらには、トラックのミキシングとオーヴァーダビングの技術も学んだ。(略)

 個人的には幸せな生活だったが、それでも、好機を逸してしまったという感覚はどうしても拭えないでいた。

(略)

[デュアン・オールマン事故死]

同い年だった。彼とはいっしょに育ったような気がしている。彼は僕にたくさんのことを教えてくれた。「いいか、眼を閉じて音楽を聴くんだ(略)心で感じるんだ。背筋がぞくっときたら、そいつは本物だぜ」

(略)

[マナサスでボストンにやってきたスティーヴン・スティルス。楽屋に行こうとしたらセキュリティに止められ、ドン・フェルダー会いたがってるって伝えてくれよ、と執拗に説得。だが戻ってきた大男は]

「スティルスさんはいま忙しくて会えないそうだ」

 

 それからの数カ月間、僕の精神状態は最低まで落ちこみ、もしかして父は正しかったのかも、とまで考えるようになった。僕は妻帯者で、もうじき25歳になろうとしていた。いままで成功していないということは、これから先も見込みがないということなのか。

(略)

[そんな時、NYでの友人ベース・プレイヤーから電話]

「デラニー&ボニーの前座でプレイするんだ(略)聴きにこないか?」

(略)

[友人と楽屋にあったギターでジャムっていると]

ラニーが声をかけてきた。「今夜のステージでいっしょにプレイしないか?」

(略)

[ショーのあと、ツアーに同行しないかと誘われたが、妻との生活を考え断る]

またしても大きなチャンスがすり抜けていくのを、僕はただ眺めていた。それは僕の人生で2度目の苦い決断だった。

イーグルス

[リンダ・ロンシュタットのギグでバックを務めた、バーニー・レドン、ランディ・マイズナードン・ヘンリーグレン・フライ]

 ドン・ヘンリーは(略)ケニー・ロジャースの資金提供を受け、彼のバンド、シャイロを引きつれテキサスからやってきた。しかし、アモス・レコードとの出だしでつまずき、バンドは解散の憂き目に。(略)

ボブ・シーガーを敬愛するグレン・フライデトロイトからLAに(略)ジョン・デヴィッド・サウザーと(略)69年、ロングブランチ・ペニーホイッスルというデュオを結成する。だが、アモス・レコードから出したファースト・アルバムは失敗作だった。彼らはしばらくのあいだ(略)ジャクソン・ブラウンとアパートをシェア(略)[70年フライはソロとして]"ティーン・キング"と名乗った。(略)デヴィッド・ゲフィンは、グループとして活動するよう彼を説得していた。
 ロンシュタットとのアナハイム・ギグが忘れられず、あの夜の魔法をふたたび呼びおこしたいと願ったフライとヘンリーは、マイズナーとバーニー・レドンにアプローチし、グループを組まないかと持ちかけ[アサイラムと契約]

(略)

自称"ジェームス・ディーン"のグレン・フライは、『ウエスト・サイド物語』に登場する10代のギャングのような、パンチの効いた響きを持つ名前を欲しがっていた。ある夜、モハーヴェ砂漠でペヨーテ茶とテキーラを飲んでいると、バーニーがカルロス・カスタネダの本について話しはじめた。それによると、ホピ・インディアンはすべての動物のなかで、鷲をもっとも崇敬している。鷲は太陽のもっとも近くまで飛翔し、すばらしく崇高な精神の持ち主だからだという。こうして、イーグルスが誕生した。
(略)

72年春、僕がボストンで落ちこんでいた頃、彼らは英国でデビュー・アルバム《イーグルス》をレコーディングしていた。プロデューサーはグリン・ジョーンズ。(略)

ジョーンズの完璧主義、ドラッグへの嫌悪感、そして音楽にどの程度カントリー色を添えるかについての意見の相違が、彼らの関係をさらに悪化させていた。

(略)

その夏、彼らはイエスジェスロ・タル、そしてプロコル・ハルムといったブリティッシュ・バンドとの奇妙な組みあわせでツアーを回った。そのうえ彼らは、トップ4に3曲のヒット・シングルを送りこんでいた。

(略)

〈テイク・イット・イージー〉がいつも流れていた。まだ誰もイーグルスを知らない頃から、僕はその曲をずっと聴いていた。バーニーの特徴あるバンジョーの音が、バックグラウンドいっぱいにあふれていた。それを聴くたびに自然と笑みがこぼれ、誇らしい気持ちになった。〈魔女のささやき〉では、彼の不気味なギターコードが、どこかホピ・インディアンが儀式の時に踊るダンスを思わせた。1972年にイーグルスがイエスの前座バンドとしてボストンを訪れた時、バーニーが電話をかけてきた。
 「やぁ、ドン。来週、そっちに行くよ。新しいバンドといっしょにボストン大学で一夜だけプレイするんだ。スーザンも連れて、僕の仲間に会いにこないか?いっしょにセッションでもしようぜ。ゲストのリストに名前を入れておくよ」

(略)

「やぁ、フェルダー夫人!おめでとう。ついにこいつを落としたんだね?」スーザンが恥ずかしそうにバーニーにキスをする。

(略)

「ねぇ、みんな」とバーニーが大声で告げる。「ドン・フェルダーを紹介するよ。ストラトキャスターにかけては、誰よりも早弾きのできる男だ」
「やぁ、フィンガース」と角張った顎の男が言った。グレン・フライと紹介された。僕の手を力強く握ると、すこしヒリヒリした様子(本番前で緊張していたのだろう)のカーリーヘアのドン・ヘンリー、そして内気そうなビーフェイスのランディ・マイズナーに紹介された。とくに決まったリーダーはいないようだったが、僕にはメンバーの紹介を自ら買ってでたグレンがもっとも自信に満ちているように見えた。

(略)

「いっしょにジャムするかい?」(略)バーニーが誘う。
「もちろん」(略)
バーニーがゲインズヴィルで何百回となくいっしょにプレイしたブルーグラスを弾きはじめ、僕はすぐに感覚を取りもどした。彼とまたいっしょにプレイするのはいい気分だった。その瞬間まで、僕は彼のすばらしい音楽的才能に飢えていた自分に気づいていなかった。

(略)

 ポケットから使い古したボトルネックを取りだし左手の中指にはめると、次の曲でスライドギターを弾いてみせた。じきに、楽屋にいる全員が曲に合わせて足を踏みならし、手を叩きはじめる。(略)

 セッションが終わると、楽屋中が狂乱状態になった。(略)

グレン・フライが寄ってきて、僕の肩に手を置く。「きみ、巧いじゃないか」感動した様子で言う。「LAに来るべきだよ。向こうで、きみみたいなプレイヤーを何人か使うのもいいと思ってるんだ」
(略)

 いよいよバンドがステージに(略)

彼らは正統的な4パート・ハーモニー・バンドとして、じつにタイトですばらしいプレイをしていた。ただし、僕にはすこし変化に乏しく、カントリー色が強すぎる感じがした。(略)

1曲だけ、〈魔女のささやき〉でドン・ヘンリーがリードヴォーカルをとったが、びっくりするほど巧かった。よく通る、その軋んだハスキーヴォイスは、まるでナイフのように鋭く空中を切り裂いた。
 全体的に見て、僕はその音楽性よりも彼らの人間性に好感を持った。僕の生まれ故郷では、カントリー・ミュージックはどちらかといえば下級のものに思われていた。それは主に、ディープサウスの白人労働者が好んで聴く音楽だった。正面ポーチにはアライグマ猟犬が寝そべり、ピックアップ・トラックの後ろにライフルやショットガンを積んでいるような連中だ。幼い頃からグランド・オール・オープリーを聴いて育った僕だが、自分としてはとっくにそれを卒業し、すでにフリーフォーム・ジャズやリズム&ブルース、そしてロックンロールへと移行していた。そして僕は、いまだに英国の音楽に強く惹かれていて、イーグルスよりもイエスの新作が聴きたくてたまらなかった。イーグルスのニューアルバムが出たからといって、店に走ることはなかった。その代わりに、骨折って手にいれた金でフリートウッド・マック、ヘンドリックス、そしてエリック・クラプトンの新作を買いあさった。
 イーグルスを公平に評価するならば、そのサウンドにはわくわくするような魅力があった。それに、全員が歌えるというのも強みだった。ビーチ・ボーイズとクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング以外に、それができるバンドは少ない。

(略)

グレンはリードシンガーで、ドンはすばらしいハーモニーと微妙に遅れる独特のドラムビートで音楽に絶妙な緊張感を与えている。おそらく、それは彼が意識的に意図したものではないだろう。それこそが彼の感じるビートのつぼで、それがイーグルス独自のグルーヴを生みだしているのだ。
 バーニーは5弦バンジョーマンドリン、そしてペダルスティールをみごとに弾きこなし、ランディはベースを弾きながら、あの天使のような声でエッジの効いた高音のハーモニーで貢献している。

(略)

 イエスにはすっかり圧倒された。(略)プログレッシヴロック・シンフォニーを観ていて、心から感動した。その特徴あるサウンドに、観客はみな狂乱した。ジョン・アンダーソンの声は水晶のように澄みきり、スティーヴ・ハウはじつに洗練されたギタリストで、リック・ウェイクマンのキーボードは冴えまくっていた。彼らのプレイを聴けたことを、僕はとても名誉に感じた。

天使の都へ

「またどこかで会おう」とバーニーに告げる。握手をかわしながら、すこし悲しくなった。
「あぁ、もちろんだとも。今度はカリフォリニアで会えるかな?」僕の微妙な立場を察して、そう冗談めかす。そして、スーザンを抱きしめると彼女の髪にもぞもぞとつぶやいた。「ドンをLAに来させてやれよ。あいつならやれるってこと、わからせてやりたいんだ。いいだろ?絶対、後悔はしないぜ、ふたりとも」


 ある考えが頭のなかで育っていく、まるで種子のように。10年前にバーニーによって植えつけられた種が(略)カリフォルニアに行って成功してみせるという思いが、僕の脳裏で成熟した生物体のように膨れあがっていた。バーニーはまさに成功の生き証人だった。

(略)

「ハニー、バーニーの言うとおりかもしれない(略)しばらくのあいだ、LAに行って様子を見てこよう思うんだ。(略)向こうで仕事のめどがついたら、きみを迎えにくるよ」(略)

「いやよ!(略)あたしが、カリフォルニアの女たちと遊びまわるためにあなたをひとりで行かせると思う?(略)あなたが行くなら、あたしもついていくわ」
(略)

 僕はあちこちの職場に届けを出し、スーザンはハーヴァードを退職した。

(略)

1972年の夏。僕らは見果てぬ夢を追いかけ、ついに約束の地である"天使の都"めざして、アメリカ横断3000マイルの旅に乗りだした。

次回に続く。

 

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はじめての作詞 鈴木博文

 

鈴木博文及びムーンライダーズに関する逸話的なもの引用する前に、題名に則した作詞手ほどきの一部を紹介。

 

詞は事実に基づいて空想し、創造するのが一番聞く人に伝わりやすいのです。

 

詞に一貫して喜びを書き出すとその喜びに影がなくなります。

 

聞き手はことばとことばの間にある空白に共鳴するのです。

 

詞はむしろ余白、(略)無駄を表現するものと考えてください。

 

発展形とは、2番を書くときに1番よりも個人的なことばを用いてみることです。

 

以下、逸話ですが、作詞手ほどきも混ざっています。

「レンガの男」

[歌詞引用のあとに]

 この曲のサウンドはなかなかハードなので単語が切れ切れに歌われています。(略)

ここに書かれたことばたちは自分が歌うという意図で選ばれていません。わたしが在籍するグループであるムーンライダーズのために書きました。この時期バンド愛なるものがあるとするならかなり希薄で、投げやりな言い回しが多くなっています。この曲を収録したアルバムに対するその制作方法や、バンドが向き合わざるをえない社会とのさまざまな接点に対していらだちを覚えていたことを記憶しています。そんな微妙かつ無関係な人にはどうでもいいようなことが、ことばに、詞に現れてしまっているのです。詞はそれでもいいのです。
 この詞は社会という都市に対する怒りと個である自分に対する怒りを込めて作りました。タイトルはポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダの作品『大理石の男』(1977)からインスピレーションをいただきました。

景色を描写する

 次に詞の屋根に登るための梯子になるのは景色です。印象に残った景色を書き綴りましょう。(略)

 景色をことばにしてゆくと、俯瞰した表現になりやすいのも特徴です。この表現は主語に縛られない自由な表現に挑戦できます。この景色は現実に存在しないものであってもかまわないのです。(略)マンホールの底から空を見た閉塞した景色でも、病気で寝込んだときよく見た夢

(略)

 わたしの家から徒歩5分のところに東京湾に面する運河があります。釣り船の係留所があり、右手に緑色の大きな水門、左手は海につながる場所。正面にちょうどモノレールが東京湾のトンネルに潜り込み、姿が消えてゆく場所。道路はここで行き止まりとなり、防波堤に寝転ぶしかない場所。実際防波堤に寝転んで空を見上げ、視界に広がる見える限りの中で、1ミリメートルくらい動く雲をじっと見つめるのが好きでした。自分の不在、景色に溶け込んでいるに違いない、という満足感が気持ちを静かに踊らせたことを覚えています。そのように思い入れのある景色から2篇の詞[《くれない埠頭》《monorail》]ができました。

詞は何を書いてもいい

 わたしは月に一度、東京・神保町にある美学校に出向いて「歌う言葉、歌われる文字」という詞の講座を開いています。(略)

受講生さんたちに詞を書いてもらい、せっかくだから自分が作った詞に曲もつけ歌に仕上げ、年に3回ミニライヴにて披露してもらっています。

(略)

ここに元受講生あ~さ~・ぺろりんさんの本当に自由な詞をあげておきます。

(略)
アンディ・ウォーホルホントは大阪生まれの大阪育ち。
小さい時みんなからあんちゃんって呼ばれてた。
鼻の垂らし方2本とも美しかった。どうした!どうした!

(略)

自主制作詩集

 わたしは小説や評論を読むのがとても苦手です。(略)

[高校時代、紀伊國屋書店の]「詩」のコーナーだけが目当てでした。分厚い本は値段が高く手が届かないので、もっぱら薄めの詩集やら詩人にまつわる本を買いました。ボードレール、ギョーム・アポリネールボリス・ヴィアンT・S・エリオットワーズワース、ハート・クレイン、清岡卓行中原中也山之口貘(略)
 なぜに詩に執着したか。(略)
中学生のときです。フラワー・ムーヴメントで賑やかな新宿の駅前に、ひとりの詩人が駅弁をぶら下げるように自分の詩集を肩から下げて売っているのを見てショックを受けたのです。
 「僕の詩集を買ってください、いくらでもいいです」
彼の声は雑踏にかき消されてほとんど聞こえず(略)

ショックと同時にその駅前詩人に憧れを抱きました。俺もああなりたい。その憧れに突き動かされ、自分も詩を書き、何人かの友人も巻き込んで見よう見まねで詩集を作り、親にガリ版を買ってもらい、製本までして80部ほど自主制作をしました。タイトルは「夢想庵」。彼に憧れたのに、それを肩から下げて駅前に立つ勇気がなかった。学校で、友人たちに200円くらいで売りさばいてしまいました。(略)

自分にことばを溜め込んでいく

ことばは一体どこからやってくるか。わたしの場合はっきりしています。小学校4年生から40歳近くまで30年間書き続けてきた日記ならぬ「日詩」のことばたちです。
 当時のわたしは、重めの気管支炎で東京湾岸の羽田近辺には生活できず、主治医は(略)静岡県伊東市にある宇佐美養護学園を紹介してくれました。2期制でわたしは小学校4年生の10月から小学校5年生いっぱいまでいました。(略)

一面夏みかん畑、その向こうには小高い山がありました。そしてホームシックで夜山を降りないように、フェンスの外側は苔むした古墓が並んでいたのを鮮明に覚えています。
 夜8時から1時間テレビを見たり漫画を読んだりして、そこで東京オリンピックの閉会式を見ました。9時になると寮母さんがノートを配ります。今日感じたことを書きなさい、というのです。何時に起きて朝ご飯食べて鉄棒してではマルはもらえません。感じたことなのです。これはなかなか難しい。「夏みかん畑がいい匂いで、空が青かった」とか「モヤった海を走る水中翼船はどこに向かっているんだろう」とか「今日はいつもより友人との会話が楽しかった」とかその日に感じたことを書くとマルがもらえました。それを毎日毎日書くのです。おかしなことに東京へ帰ってきてもなぜか習慣付いて続いて、変わったのは日詩を書くものが大学ノートに変わったぐらいでしょうか。(略)誰かにわかってもらおうと書いてない分、丸裸の自分が見える文体になります。そのとき読んだ本、漫画、音楽に即座に影響されているのも面白いことです。
 わたしはこの「日詩を書く」という行為で知らぬうちに内在することばを得たのだと感じます。

 自分自身のソロ活動が忙しくなり始めた40歳頃、日詩の上で遊んでいたことばたちはわたしの曲の中に住処を移していきます。

ことばが見つからないときは

(略)

詞を書こうと身がまえると思考が硬直して指が動かなくなる(略)ときは、詞から離れて自分語りをしてみる。(略)頭の中の渦をことばにするのです。出てきたことばでどんどん文章を作りましょう。文章を書くにあたって「詞」を意識する必要はありません。
 ひと通り書き出したかな、または吐き出したかなと思ったら熟読しましょう。きっと必要ないことばがたくさんあるはずです。(略)
[「風街ラジオ」に呼ばれて]話しているときに、松本隆さんがふと言いました。
「自分で書いた文章のいろいろな部分を削除していけば詞になるよね」と。
 まさにその通りなんです。そしてわたしは感じます。削除する部分を探すのではなく、残しておきたいことばを探した方が良いのです。このときに初めて詞を意識します。

《僕は走って灰になる》

《僕は走って灰になる》という楽曲はインストゥルメンタルの可能性がありました。作曲した武川雅寛さんはそれまでバンドで詞をあまり書いてなかったからです。そして彼はヴァイオリン担当ということもあり、この当時1986年にはメロディ主体で曲を提出してきました。前半部分が充実したふくよかなメロディ(略)

後半部分は武川さん、鈴木慶一さん、そしてわたしとで発展させました。(略)まず詞が欲しいという3人の意見があり(略)大学ノートに書いてあった「豚の葬列」という詞(略)を歌ってみようということになり(略)発声法を3人似合わせて団子のように歌ってみたら、面白いものができあがったのです。声を似合わせて和声を作るとビートルズやバーズのようなハーモニーができて一体となった感じがするのです。この手法はムーンライダーズでは結成初期から使われていました。(略)
「豚の葬列」という題名が内容とかなりかけ離れていたので、最後の歌詞をとって「僕は走って灰になる」を題名にしました。

詞を担当するきっかけ、曲先の場合

 わたしがムーンライダーズというグループの初期に詞を担当するようになったのはなぜか、まったくはっきりわかりません。ファースト・アルバムで《湊町レヴュー》という曲の詞を頼まれて書きました。多分それがきっかけでしょう。デビュー初期は他のアーティストのサポートとしてステージに立ったり、レコーディングでの演奏活動が多く、その場でその仕事に対して金銭的リターンを得られました。若いからすぐにお金も欲しかった。だから、その頃の演奏家は詞を書くよりも演奏技術を磨くことを重じていたのだと思います。サウンド優先という流れで後回しになってしまった作詞について、メンバー最年少のわたしにお鉢が回ってきたのかもしれません。

(略)

[曲先の場合]

曲を覚えていきます。これから生まれることばの勢いを滞らせないようにメロディをしっかり覚えこむのです。メロディの中の特有の一節や引っ掛かりにふとあるワードが降りてきたり、そのメロディがもたらす情景から見えて物語が導き出されたり、メロディからことばのヒントをもらうのです。

(略)

サウンド全体を浴びてことばを見つけ出します。テンポ感や長調短調と言った調性から詞のヒントを得られることもあります。個々のメロディをことばに翻訳し、全体のサウンドに馴染むように一篇の詞に通訳するような作業です。

思いつきから完成まで

(略)

とにかく初めに得た勢いで全篇を書くことです。(略)後で十分修正はできるのだから、今の勢いと集中力を手放してはいけない。

(略)
《くれない埠頭》という曲は自宅でリズムボックスとベースラインを打ち込み、Ampegのベースアンプで鳴らしながらギターを録音しました。(略)目指したのは(略)バーズでした。テンポも早く調子良く下記のように歌ってました。


くれない埠頭demo

 

ふきっさらしの(略)

     (略)きょうまで走った


なけなしの愛のために僕のバイク海に沈めよう

 

 この曲をレコード会社の人々も交えて聞いたら、ある人間の案で、この曲はテンポをゆっくりにしてバラードにした方がいいのではないだろうか、という思ってもみなかったことを言われ、もう一度自宅で録音し直しました。するとサビの「なけなしの愛のために僕のバイク海に沈めよう」がどうもしっくりハマらなくなったのです。意味からしてもずっと俯瞰視しているのにここで突然行動的になるのが不自然に感じるようになりました。気持ちを入れ替えて大きく変更して下記のようなサビに落ち着いたわけです。

 

Sitting on the Highway(略)

       (略)誰かを待ちつづけて

 

工場と微笑

 この詞に1箇所逸話があります。わたしは初め「工場からのバイエン(煤煙)」と書きました。多分煤煙と漢字ではなくカタカナで書いたのでしょう。(略)何をどう間違えたのかヴォーカルの鈴木慶一は「工場からのバイエル」と歌っていました。これを聞いたときはショックを受けました。世界が瞬く間に広がったように感じたからです。考えてみれば、工場からのバイエンでは当たり前すぎてまったく面白くありません。(略)[工場からバイエル]というミスマッチな感じが不思議なロマンをひき出していると思いました。わたしはよくぞ間違えてくれた、という気持ちでいっぱいです。

「ヒットする詞」

わたしたちムーンライダーズサウンドだけ聞けばそれなりになんとかなっていたと考えています。ところがいつも言われることが詞に関してです。出版社の担当ディレクターから「この詞では売れないんだよ、今ヒットしている詞を研究してもらえないだろうか」と言われ続けてきたのです。(略)
自由が丘の喫茶店で今は亡きディレクターと2人で頭を付き合わせて「ヒットする詞」をわたしたちは模索し書きました。もちろんヒットしませんでしたが。それが《ジェラシー》です。
(略)

沢田研二さんの詞を目指そうということになり、かなり安直に「バスローブ」、「舌足らずの言い訳」、「くわえ煙草」などわかりやすいことばを使っています。それが意味合いを浅くしてしまったように感じます。ジェラシーならもっとドロドロしたことばを使うべきだったと、今思っても仕方がないですが、感じます。
 が、しかしそうしたところで果たしてヒットしたかどうかなんて誰もわかりません。

空耳から「大寒町」へ

 生を受けて70年、こんな人生を送るとは思わなかったのです。父系制の怖い祖父、弱々しくもどこか図太い焼きおにぎりが上手かった祖母、何かといえば家を開け夜遅くまで蒲田で飲んでいた母、ほとんど芝居の旅で家にいなかった父、そしてなんとなくそばにいてくれた兄。

(略)

白い紙を渡されて「詞を書いてくれ」と言われたら何を書くでしょう。(略)

必要なのは歌われて初めて感じる、その詞の中にしかない情感のはずです。(略)

しかしそんなことばかり考えていては、詞が書けません。どのように詞が書けるようになるのか

(略)

結論から先に言うと、「空耳」からすべては始まりました。17歳のときに書いた《大寒町》の誕生の秘密です。

(略)

[高校1年生、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』]の中の1曲《ロンサム・スージー》は高校へ行く前のインスタントコーヒーとジャム・トースト1枚とセットになって、1日の始まりとして重要なものでした。
 こんな声でこのような良い曲を歌ってみたい。
 そう思いながらリチャード・マニュエルと一緒に切々と歌ったのです。もうこの頃はLUXのアンプとJBLのスピーカーの前にいました。夜になれば『ガロ』や『COM』という漫画世界が待っていました。(略)鈴木翁二の「詩人の部屋」という作品に心底やられたのです。ベタ塗りの多い夜に詩人が歩いているそのことば少ない漫画はわたしの心のことばをたくさん引き出してくれ(略)そのことばを携えて《ロンサム・スージー》を聞くと空耳が現れてきました。歌い出しの


「ローン、サーム、スージー」に
「おー  さむ  まーちに」がはまってしまったのです。


大寒町なんて町はないし、ことばもありません。造語です。でも鈴木翁二は「大寒町」を描いていました。孤独な高校2年生のことです。
 《大寒町》は出だしをリチャードの歌声が引き出してくれたので、あとは苦労せず鈴木翁二の世界にどっぷり浸かりながら、ことばを書き上げられました。

(略)

 ロマン、場末、ビリヤード場(略)月、星、銀河と大寒町の環境準備は整っていきました。そこへ自分とあの娘の関係性を放り込めば出来上がる。

(略)

コピーと模倣、なぜコピーをやめたか

 1973年に刊行された片岡義男訳の『ビートルズ詩集』1と2をいつも持ち歩いていた記憶があります。文庫本だったのでどこでも、いつでも暇があったら見ていました。詞の訳というのはとても読み解くのが難しい。ちょっと違うようだけど意訳かな、なんて勘繰ってしまったらキリがないのです。ここは腹を据えて素直に日本語のビートルズがやってきたと思って楽しんだ方がいいと考え、そこに書かれてあったことばをなるべく身近なものとして、いつもそばに置くようにしました。そうやってわたしはこのビートルズ詩集を大いに楽しみました。楽しむことによって日本語を好きになれるのです。
(略)

まだこの段階は訳詞を楽しむだけです。自分なりの詞表現には至っていません。そこにお前も書けるぞという背中を押してくれる音楽があったのです。それは、はっぴいえんどです。

(略)
通称『ゆでめん』(略)のサウンドと詞が絡み合う様をまざまざと聞いて倒れるくらい感激したのを覚えています。それまでコピーした曲はハーブ・アルバートとティファナ・プラスのヒット曲《ア・テイスト・オブ・ハニー》ぐらい(略)メロディを単音で弾くという拙いコピーでした。(略)歌もギターも全面的にコピーしたのははっぴいえんどが最初で最後です。それだけわたしの中では「待ってました」という音楽であり、感激したのです。

(略)

とくに《12月の雨の日》、《かくれんぼ》を聞いて背中を押されました。

(略)
高校時代に散々コピーして歌っていたはっぴいえんど(略)

なぜ突然コピーをやめたのでしょうか。(略)
高校同級生の柴田元幸君に「この高校で一番ギター上手いから演奏会にでてくれないか」と言われるまで、ずっとはっぴいえんどのコピーをやっていました。でもなぜかこの演奏会でオリジナル曲を2曲以上やった記憶があります。

(略)

[コピーを]なぜやめたのか。歌っても、歌っても彼らにはなれないと知ったのです。大瀧詠一さんの真似をしても大瀧さんにはなれなかった。そしてわたしは彼らの歌を広めるべくいるのではなく、彼らのような詞を歌いたいのだとわかりました。その時点でコピーの意味はなくなります。彼らが作るような詞を自分も作って歌うという方向が決定されたのです。 
 そしてコピーとオリジナリティの間に存在する「模倣」というのが少々厄介な代物です。模倣の中から自分のことばを探し、詞にしなければいけません。

(略)

わたしからすれば、コピーの方が模倣して作った歌を歌うより潔さを感じます。
 ただ偶然にも、そして幸いなことにわたしには模倣する時間的余裕がありませんでした。すぐにグループ(ムーンライダーズ)の一員になったからです。6人6様の音楽性があって、認め合ったり拒否したりして最終的にひとつのグループの音楽になります。そこで一番指摘されるのが「何かの音楽に似ている」ということです。そうしたら素直に違う自分の音楽を探さなければなりません。
 こうしていわばグループとの出会いによって、若いうちからコピーも模倣もしなくなりました。

松本隆

よく渋谷の喫茶店松本隆さんと会いました。隆さんはショートホープを片手に、コーヒーはブラックで、国道246号線を走る車の音にかき消されそうな静かな話し方でした。わたしの心をうかがうようにことばを選び、そして無駄のない的確な話ぶりだったと記憶します。
 わたしと松本隆さんはわたしが18歳から19歳にかけてバンドを組んでいました。もちろん隆さんがドラムで、わたしは渋谷のヤマハの倉庫に隠されてあったエピフォンのベースです。隆さんが詞を書き、わたしが曲をつけて、リード・ヴォーカルは今は亡き山本浩美さんが歌うムーンライダース(今でいうオリジナル・ムーンライダース)というバンドでした。曲のタイトルは《ベイビー・カムバック》(略)残念なことに全詞は記録に残っていませんが1番だけありました。

   ベイビー・カムバック

プロペラ飛行機に 指を切られたまま
ぼくは佇んでいる きみの血ばしった愛の前で
きみの鋭い爪が 背中を引き裂くなら
ぼくは微笑むだろう
溶け出した夕焼けの中で プロペラ ブンブンブン

 

(略)

 隆さんは1973年9月21日に開催されたはっぴいえんどの解散ライヴにおいて、メンバーそれぞれのこれからの道の提示として、ムーンライダースでドラムを叩くことを選んだのでしょう。そして《ベイビー・カムバック》の詞を書き、わたしに曲の依頼をし、すでに前から演奏していた《月夜のドライブ》と《大寒町》を加えて解散ライヴで披露したのです。しかしあっという間に作詞家の世界に行ってしまいました。

(略)

《月夜のドライブ》と《大寒町》というわたしにとって重要な曲が生まれたのは、松本隆というドラマーであり作詞家と出会ったからなのです。


 そしてもうひとり、歌の詞の素晴らしさを教えてくれたのは、あがた森魚さんです。最初は兄の友人でした。(略)

対談:柴田元幸

柴田 ぼくたちは同じように大田区のはじっこから1970年に日比谷高校に入学して、ぼくは堅気に東大に行って、教師になった。博文くんはアーティストになった。どこでこんなに変わったんだろうね。
 同じフォークソング・クラブに入っていても、ぼくは自分の歌をつくるなんて思いもしないで仲間と一緒にビートルズホリーズを一生懸命コピーしてたわけだけど、博文くんは最初から日本語で自分の歌を歌っていたよね。そこにどうやって飛べたのかがわからない。

鈴木 (略)鈴木慶一は本格的に音楽活動にいっちゃってたんで(略)そういうふうにやるものだと思ってたんだよね。シバタは音楽の道には行こうと思わなかった?

柴田 行けたら行きたいと思ったけどね。以前に仏文学者の野崎歓と話してたら彼も昔はミュージシャンに憧れたと言っていて、ミュージシャンになれなかったから文学者やってる奴って案外多いんじゃないかな(笑)。

(略)

「まろうど」っていう二人組だったでしょ。フジイくんと。(略)
大田区民ホールとかそんなところで。(略)《郵便番号144》って曲をそこで聞いて、すごいなあと思って。(略)

「屋根また屋根のまちをゆく」って歌詞ではじまるんだけど、これってなに、ムーンライダーズになってから歌ってないの?
鈴木 あれはもうぽしゃりましたよ。
柴田 そうなんだ。いい曲だったのに。いつか復活させてほしい。で、「あれが廊下で見かける、いつもディスクユニオンの袋持ってるやつか!」って思ったんじゃなかったかなぁ。

(略)
柴田 キンクスとバーズだったね、なんといっても。だから、音楽がきっかけで英語に興味はもったんだけど、それで聞いてわかりたいとはあまり思わなかった。なにをしゃべってるかもまったくわからない。(略)内容にはあんまり興味がなかった。ボーカルも楽器みたいに聞いてたから。(略)しゃべれるようになりたいとかも思わなかったんだ。読めればいいなとは思ったけど。(略)
翻訳家になりたいとはまったく思わなかったけれど、翻訳するのは好きだった。(略)
中学のころから実はうまかったんじゃないかなぁ(笑)。教科書以外にもやさしく英語で書かれた物語を買ってきてノートに訳したりはしていたから。

(略)
 この本の中で、歌詞を書く方法としてふつうの散文を書いてから削るっていうのがひとつのやり方だって書いてるよね。翻訳の場合は、削っていくと整えていくのあいだくらいの感じがあるんだよね。整えていくというのは文章のトーンというものがあって、そのトーンにそぐわないものを削っていくということなんだけど。(略)英語の文章だと、一貫して流れている声というものがあって、少なくとも1段落くらいはまとまったトーンがあるはずだという前提で書かれている。たとえば町田康は素晴らしい作家だけど、英語にはなかなか訳せない。彼の場合はひとつのセンテンスの中でもトーンが変わる。小難しい理屈を言っているのかと思ったら大阪弁おちゃらけになる。そういうものをいったりきたりする。それが面白いところなんだけど、それは英語ではやれない。

(略)
鈴木 堀口大學の翻訳とかは、訳でひとつの流れみたいなのが頭に入り込んでしまう。ボードレールのような詩人でも堀口大學の訳で書かれたっていう色がつくでしょう。そういうのって別に構わないってことだよね。色を感じても。
柴田 うん、構わない、いいものができるなら。でもいい訳を作ろうと思ったら、余計な色をつけないようにするのが一番早いっていうことは多い。昔は違った。文化が遠いと、表面的に忠実にやってもだめで、日本の精神でやるならこうだろう、と向こうのものを強引にこっちに置き換えないとだめだったんだと思う。というか、そのほうがうまくいった。堀口大學が訳したころはまだフランス文化が遠かったから。そこに日本語の個性ある声みたいなのが入らざるをえなかったし、入るほうがよかった。でも、いま堀口大學みたいなことをやると、もっと透明にやってくれ、原文が透けて見えるようにって言われたりする。フランスだってそんなに遠くないんだから、見えればわかるはずだっていう気持ちが読者にある。
鈴木 常盤新平を読んでた時期があって、そのころはあの感じに影響を受けて詞がどんどんできていたんだよ。彼の場合はアメリカだけれど、行くことができないアメリカを感じられたってことか。
(略)

柴田 作家の人と話をしていると、翻訳者はもとのテクストを自分の中に通して別のことばに変える、作家は世界の中の経験を自分の中に通してことばに変える。その意味ではそんなに変わらないんだよって言ってくれるんだよね。
 だけど、やっぱり翻訳の場合には自分を通して変えるといっても、変え方はすごく限定されている。

(略)

鈴木 曲先の場合はメロディが先にあるから、そこに対してのことばは、作家の自由度とは違うかもしれない。字数と、歌い方とかね。

柴田 なるほどね。すでにあるメロディに声をはめて、きわだたせていくわけか。ある意味では翻訳と正反対かもしれない。翻訳は推敲しながら自分の声を抜いていくから。ぼくの翻訳にぼくの声が聞こえるとしたらそれはもうノイズ。自分の声は体臭みたいなもんで(笑)、デオドラントがあったら消したい。
 村上春樹さんが翻訳について、「いいアンプっていうのは、いいアンプだなと思わせるようではだめで、いい音楽だなと思わせなければならない。アンプは消えなくてはいけない。そういう意味では翻訳者もアンプみたいなものだ」というようなことを言っている。
鈴木 自分の歌わない詞を書くときにはそういう意識もあるよね。違う人が歌うとなると自分の声は残りすぎてはいけないわけでもある。(略)一番大変だったのはアイドルだよね。女の子だから。

(略)

ムーンライダーズに書くときは慶一に歌われることを想定しているかな。だからおれが歌いたくないことばを使ったり、いじわるをしたりするね。下品なことを書いたりね。

柴田 自分が感じたところから始めるとことばは強いという話と、一方では詞というのは自己表現ではないんだという話がこの本には書いてあるじゃない。その両方の塩梅がすごく気持ちよかったな。

鈴木 自分のことばは使いながら、けれど自己表現じゃない、そういう表現が難しいんだよね。

(略)

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カフカ 夜の時間 高橋悠治

カフカのよるべない世界

 二十世紀の音楽は、ききにくいものとして出発した。シェーンベルクの音楽は、普通のコンサートのレパートリーとはならず、自分で私的音楽会シリーズを組織しなければならなかった。今も、現代音楽の作曲家たちは、限られた場所で、すくないきき手を自分で集めなければならない。なぜ、孤立を選ぶのか。コミュニケーションを拒否するのか。
 西洋の芸術音楽は、教会や宮廷のものとしてはじまった。教会のオルガンは見えない高みから音を降らせる。コンサートでも、ステージと客席は引き離され、音は上から来る。
 キリスト教的文明がほころびはじめると、あたえられたものを受けとるだけの平等や、同化を前提とした権利に満足できず、少数者や内部に抑圧されたものの表現をもとめて、バッハやベートーベンの音楽の構造を受けつぎながら、これを神の声ではなく、人間の知的な作業としてつくりなおそうとした。というのが、シェーンベルクに代表されるような現代音楽のひとつの道だったのではないだろうか。
 そこでは、作曲の天才的な技術だったものを論理化し、システムをつくり、うごかない真理にまで普遍化しようとする。こうして、音楽は抽象化し、音と構造が分離する。構成のシステムさえあれば、作曲家はどんな音も、どんな表現も使う自由を手にした。精神の内部にとじこめられたもの、文明の周辺に追いやられた異文化が、市民権を得る。ただし、抽象化の代償をはらって。意味とかたちの分離、素材と構造の分離、音を記号としてあつかうこと、その結果として、音楽を空間化して発想すること。音楽は日々の活動ではなく、空間に配置された音響というかたちで、新しい教養となる。少数者の表現の権利の主張だった抽象化は、音楽全体にひろがりつつある。

 ストラヴィンスキー新古典主義は、バッハを記号化した。演奏の原典主義は、楽譜という記号システムの偶像崇拝だった。バルトークは、東欧の農民の歌を要素に還元し、西欧の構造に押しこめた。ウェーベルンの音楽は、空間に配置されたまばらな音となり、沈黙に近づいていく。チャーリー・パーカーはジャズを歌と踊りからはなれたコード進行にした。録音技術の発達とともに音はディジタル記号以外のものではなく、大衆音楽さえ、きき手とは直接の接触をもたないスタジオの作業が主になる。
(略)

 音楽のなかでことばの必要を感じたのは、一九六〇年にクセナキスにまなんで作曲の方法をコンピューター・プログラムに置き換えているころだった。
 数式化された音楽構造が何を意味しているのか、ことばで明確に定義するなかで、任意に選ばれた記号にすぎない音が、抽象のなかでかってに増殖しないように、つなぎとめようとする。

 そのことばは、イディオムなしの英語で、意味をになう機能しかもたない。作品のためのプログラム・ノートもおなじように、非日常化した音楽を解説するための、もう一つの非日常のことばだった。
 一九七〇年代には、作曲のシステムや作品の意味のためではなく、音楽をすることの意味を考えるために、ことばが必要だった。
 日常の活動を一時停止して、その歴史的・社会的な意味を確認するために、ことばをつかう。それは、批判のことば、方法論のことば、イデオロギーのことばだった。論理のことばは、一つのものを選び、矛盾を認めない。ことばが方向を見つけ、目標への道を決めるなかで、ことばにさきまわりされた音が、貧しくなっていく。音は抽象論理をになう記号ではなく、歴史と文化のなかで意味づけされる。
 それを伝達するのが音楽で、それは「いま・ここで」ではなく、「いま・ここ」からの救済に向かう活動だった。いや、あるはずだった。
 こんなことばを書くためには、かなりの努力が必要だった。考えたことを順序よく書きつけるということができず、書きながら考えるために、論理は思いがけない方向にそれていく。おなじことについて、もう一度書けば、もう矛盾している。それを読みかえしてみると、思想らしく見えるものも、表面をかすめているだけだった。書くことが考えることならば、考えられてしまった論理のことばをもちこむから混乱するのだ。一定の方向からそれないようにするのも、むだな努力だ。書きすすめるうちに見えてきた目標などは、しんきろうにすぎなかった。

 そのようなことばの使い方とは別に、自分用のノートがある。本からの抜き書き、音やリズムの思いつきにそえたメモ、演奏のしかたについての走り書きなど。
(略)
ここには蓄積がない。わずかな思いつきの変奏があるばかりだ。本からとった他人のことばも、姿を変え、意味を変えて、別なものになっていく。
 このノートは、方法論のためだと、ずっと思っていた。だが、目標や方法を信じなくなったあとでも、やはりノートはつづく。そこで、気がついた。これは、音楽の前の、朝の祈りのようなものだった。

(略)

 カフカのよるべない世界。だが、ことばは明るく澄んでいる。毎日、てがみを書き、日記を書き、ノートを書く。「城」のような長編も、ノートの集積であり、それを日々書きつづけるペンのうごきがすべてなのだ。(略)つかいふるされたはずのことばも洗われて、はじめてこの世界に現れたかのように、かがやこうとする。ここにリズムが生まれる。反復からのがれる精神の運動としてのリズムが。
 これらをテキストにして音楽を考えるのは、これらのことばに音楽をつける、というよりは、それらによって問いかけられている音楽の「あるべきようは」に心をひらくための、ひとつの訓練なのだ。
 音楽をつくるのは、音響空間の設計図を書くことではなく、日常の時間のなかにもうひとつの時間をひらく活動だった。新しい音をつくりだそうとして、日常からはなれるのではなく、ありふれた音を新しくするのは、もっとむずかしい。伝統を破壊して別な教義をたてるのではなく、それを要素に解体して抽象化するのでもなく、それが伝統となった日々にうしなったもの、日々に生きる音楽と世界との対応をとりもどすのには、たえず実験をかさねるしかない。
 システムもなく、方法もない。音楽に向う姿勢だけがのこされる。

(略)

本がよめなくなった

 本がよめなくなった。あいかわらずたくさんの本を買ってはくるが、よみとおしたものはすくない。ことばがつみかさなって意味をつくったり、かたいりんかく線のなかにものをとじこめるのを目で追いながら、こちらはそこからはじきだされてゆくのがわかる、そんな本がおおい。よみすすむほどにあいまいになり、糸の切れたことばがそれぞれかってにおよぎだして、たくさんの廊下に枝分かれするような本がほしい。

グレン・グールドの死の「意味」?

 グレン・グールドが死んだ。クラシック演奏のひとつの実験はおわった。
 現代のコンサートホールで二千人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にもまけない大きな音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的なリズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。
(略)

 グレン・グールドは、コンサートホールを捨て、スタジオにこもった。なま演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、かれの才能だったのか。
 グールドのひくバッハは、一九六〇年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、しかも即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは十八世紀の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。一九七〇年代には古楽古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。
 だが、一九六〇年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントから、マーシャル・マクルーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。
 この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。

(略)

 マクルーハンが死んだときは、もうわすれられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれもがしっている曲を聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。
 音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラシック音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。

(略)

 音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見するのはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日まで生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。

 

 

「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」

「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」(ストローブ=ユイレ)

 

 ととのったかつら。その右肩ごしに自筆楽譜をのぞき。その位置をうごかず、チェンバロの一曲を聴く。顔はほとんど見えず、指のうごきはかなりよくわかる。
 音楽をどの位置から聴くか。
 今コンサートでバッハを聴く人は、バッハの同時代人よりも遠くから聴いている。昔の絵を見ると、聴き手は演奏者をとりかこむほどに近くで音楽を聴く、というより演奏を見守っていた。古楽器のちいさい音量が楽器自体の共鳴やへやの構造にたすけられて、しみとおるような響きをもつのにもふさわしい。
 それにしても、肩ごしにのぞきこんでいるこの位置は演奏者自身が聴いている響きに一番近く、楽譜と指をのぞきこめるのはまた、バッハのキーボード曲の使用目的をあらためておもいださせる。それらは家庭音楽であるか、または同時に教育用の作品だった。かれは妻の音楽ノートにあたらしい曲をかきこんだり、彼女にコピーさせたりした。そのノートに、やがて息子たちがそれぞれの作品をかきこむだろう。写真やビデオのない時代のファミリー・アルバムは、やがて出版されて、「アンナ・マグダレーナ・バッハのクラヴィーアの本」(今だったらキーボード・ブックというところだ)と呼ばれることになる。
 このように家庭という場が音楽成立のきっかけとして公認されたのは、やはりルーテル派の十八世紀ドイツだった。カトリック世界では家庭は創造の場にはなりえないだろう。家庭音楽はやがて十九世紀ドイツでそのピークをむかえる。アメリカの女流作家がかいた小説「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」がドイツ語になって、本物の記録のようによまれることになったのも、ドイツ的な家庭観やそのアングロ・サクソン的変形、ヴィクトリア朝のスタイルを人びとが当然のこととしていた時代だったからではないだろうか。
 ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレのつくった伝記映画「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」の最初のシーンから以上のことをおもいだす。だが、この映画は小説とは関係がないばかりか、プロテスタント倫理にささえられた家庭観も過去のものとなったドイツ一九六〇年代の作品で、それを見ているのは一九八〇年代の日本であり、映画ができた当時の美学自体が過去のものになりかけているのだ、ということを忘れないようにしよう。
(略)

 職業観もバッハの時代には変化しつつあった、ということを、この「ブランデンブルグ協奏曲第五番」そのものから聴きとることができる。合奏協奏曲という、いわばイタリア都市型の形態の枠のなかで、和音を埋めるにすぎないキーボードのチェンバロが、即興ではなく、こまかく音符でかきこまれたパートをもって前面にソロをとるような書き方は、神や宮廷の使用人でもなく、都市の職人でもない有名人「芸術家」になっていったバッハ自身の職業歴をおもいだしてみれば、なっとくのいくことではないだろうか。
 職人はできあがった音楽の陰に消えるというだけではない。作品を意図する時からこの無名性はつきまとっている。作品の意図はかれの意図であってはならず、神の意図がかれを通してあらわれるように、かれ自身はつつしんで一歩わきによけていなければならないし、神の意図するところを書きしるすのもかれの手を借りた神の筆跡だとすれば、「有名人」となったバッハの自筆楽譜は、自覚した芸術家の力強さと奔放な省略をすでにしめしているように見える。
 そして、注意ぶかく、ことばを選んでつづられたバッハの手紙の筆跡は、その内容にふさわしく、へりくだった外見のなかに近代人としての芸術家の要求をつつんでいる、といえるだろう。
 それは経済人としてよい給料をもとめて転職し、地位と権力をめぐって他人と争うなかで「神の栄光のために書かれた」作品をつくりつづける姿でもあった。
 バッハは価値観の変化のなかで生きながらも、中心から距離をたもっていた。パリでもロンドンでもなく、ドイツでの啓蒙主義文化の中心地ベルリンにも旅人として登場しただけで、ライプツィヒにいるというだけで、音楽の世界に伝説的な影をおとしていた。それだって芸術家としての偶然の使用法といえないこともない。かれ自身がライプツィヒでの生活には不満だったとして
 この映画の対象であるバッハの芸術家としての多面性から逆に映画の作者たちに照明をあててみると、かれらはまるで、バッハが後にしてきた無名性のなかにもどろうとするかのような、禁欲的な姿勢をくずさない。バッハの伝記映画を構成するのに、音楽演奏を中心に、それもあまり知られていない曲に重点をおいて、そのまわりに自筆楽譜や手紙の接写、資料をよみあげる声、ほんのわずかな生活場面を挿入するだけ、といった距離のとりかた。一曲の演奏のあいだカメラをうごかすことをしない極端に長いカット、演技なしの動作と単調な声、これらの制限された表現手段の変化なしのくりかえし。ミニマルアートの典型的な特徴をそなえている。一九六〇年代は絵画でも音楽でもミニマリズムが最先端だった。それはゆたかさにあきた世界がゆめみた「まずしさ」だった。音楽でのミニマリズムは特にアジアやアフリカの音楽にたいする方法論的関心をともなっていた。

(略)

ミニマル・ミュージックはオーケストラやオペラとなって体制に吸収された。もともと、それは方法論からつくりあげられた芸術である点でテクノロジーによる管理のイメージをひきずっていたのだ。
(略)

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