- ポリオとラジオ
- 黒人教会の音楽
- 初めてのギター
- 初ステージ
- スティーヴン・スティルス
- チェット・アトキンス、ストラトキャスター
- B.B.キング
- バーニー・レドン
- デュアン・オールマン
- ジャズに目覚める
- クリード・テイラー、ラスカルズ
- ウッドストック
- ボストンへ、ピーター・グリーン
- 結婚
- イーグルス
- 天使の都へ
ポリオとラジオ
[裏手の]庭には大きなセンダンの木があって、こぶのような根っこが地面から突きでていた。
「あの木に登ってはだめよ、坊や」ねじ曲がった枝を好奇心いっぱいのまなざしで見上げる僕に、彼女はそう警告した。だけど4歳になった時、僕はついに誘惑に負けてしまった。言うまでもなく、枝は折れ、ものすごい衝撃音とともに僕は地面に落下し(略)皮膚から骨が突きでたまま、僕は泣き叫びながら家に走って帰った。
アラチュア州立病院の医師たちは、僕の左腕の動きは制限され不自由になるだろうと告げた。だが、母は信じようとしなかった。ギプスがはずれるとすぐに、母は小さいバケツに砂を入れ、僕に持たせた。そして、腕の筋肉を伸ばすために、朝晩、僕にそれを運ばせた。痛がって泣く僕の手を取り、母はいっしょに歩いてくれた、ともに泣きながら。2カ月間にわたる必死の努力の甲斐あって、僕の左腕は自由に動かせるまでに回復した。未来のギター・プレイヤーにとってはとても重要なことだった。
その事故から1年後(略)ポリオの初期症状という診断が下された。(略)しかし僕はラッキーだった。入手困難だった新薬ソークワクチンを投与され、幸運にも重篤な症状にはいたらなかったのだ。それでも4カ月という長い期間、僕はたったひとりで怯えながら、小児ポリオ病棟で過ごした。こんな場所で両親にも見捨てられるなんて、僕がいったい何をしたっていうんだ?(略)ただひとつの慰めは、ベッド脇の小さなラジオだった。(略)夜になると、僕はそれを枕の下に忍ばせて横になり、何時間も音楽に合わせて指で拍子をとった。
アル・マーティノとフランキー・レインの音楽が僕を慰め、より重篤な子供たちの呼吸を補助する"鉄の肺"のゼイゼイいう音から、僕の気をそらしてくれた。「僕のハートはひとりぼっち/さびしくてたまらない」(略)アル・マーティノが歌いかける。あの病気を克服できたのはワクチンの効果ではなく、彼ら50年代の流行歌手による癒しの音楽と快活な歌声のおかげだと、僕はいまでも思っている。
黒人教会の音楽
母はジェリーと僕が歩けるようになるとすぐに、日曜学校に連れていった。父は1度も行ったことがない。「あいつらの説教はもう聞きあきた」(略)
聖書研究グループに入ることになったジェリーと僕は、まず最初に洗礼を受けなければならなかった。その儀式は、巨大な金魚鉢のような透明ガラスの水槽に、牧師とその"犠牲者"が入ることで行われる。ある日のこと。牧師が会衆のなかから、ひとりの太った大柄の女性に洗礼を施すことになった。彼はその女性を水中で抱きかかえると、ハンカチを彼女の口にあて、祈祷の言葉を暗唱しはじめた。その女性は足をばたつかせ苦しそうにもがいていたが、牧師は彼女を押さえつけて離さない。(略)彼女はぜいぜいと喘ぎながら水面から顔を出した。
僕はびっくり仰天して叫んだ。「あの牧師さん、彼女を溺れさせるとこだったよ!」。礼拝が終わるとすぐに、僕は通りの向かいにあるメソジスト教会に入っていくと、その場で登録を済ませた。「メソジストは水を振りかけて洗礼するだけだからね」僕は母にむかって、きっぱりとそう告げた。
僕にとって、教会でよかったことといえば、その音楽だった。といっても、僕が通っていた教会ではなく、黒人たちの通う教会だ。ほとんど毎日曜、教会の礼拝が終わると、僕は1マイル半の道のりを歩いて"ホーリー・ローラー"教会まで通った。外の芝生に座って、開かれた窓から聴こえてくるパワフルなサウンドとすばらしい歌声にゆったりと身をまかせるのだ。そう、彼らは魂で歌うことを知っていた。
初めてのギター
父は、息子との共通の趣味を音楽に見いだした。我が家は貧しかったにもかかわらず、父は33回転LPや45回転SPが聴けるステレオを持っていた。(略)
父は友人たちからアルバムを借りると、ターンテーブルにのせてかけたり、中古のテープレコーダー"ヴォイス・オブ・ミュージック"を使って録音したりした。それが違法行為であることは知っていたが、父にしてみればそうするしかなかったのだ。聞き飽きるとそれを消して、また別の誰かから違うレコードを借りてはそれを録音した。やがて父には、トミー・ドーシー、ローレンス・ウェルク、ベニー・グッドマン、そしてグレン・ミラーといった幅広いコレクションが出来上がった。いまでも〈ムーンライト・セレナーデ〉を聴くと父のことをなつかしく思いだす。
父のおかげで、僕は初めてジャズとカントリー・ミュージックを聴くようになった。(略)
[57年『エド・サリヴァン・ショー』のエルヴィスに衝撃を受け]
ギターが欲しくなった。(略)
[金はないので、赤いかんしゃく玉(チェリー・ボム)と近所の少年のおんぼろギターを交換]
穴ぼこだらけで弦が3本しかないひどい代物だったが(略)貯金をはたいて新しい弦に張りかえた。近所に住む人がその新しいおもちゃのチューニング方法や、初心者には難しいDとGコードの押さえ方を教えてくれた。それからというもの、僕は家のフロントポーチにあるぶらんこ椅子を独占して、何時間もかき鳴らしつづけた。そして、そのギターがほとんどすり減ってしまうまで、練習に明けくれた。
その後、父にすこし援助してもらってひと財産ほどの貯金ができた僕は、シアーズ・ローバックに28ドルを送金(略)シルヴァートーン・アーチトップを注文(略)ケースを初めて開けた時の、あのプ~ンと鼻をつくワニスの臭いをいまでも憶えている。(略)[兄のお下がりばかりの自分にとって]初めての持ち物だった。
(略)
僕が[優等生の兄]ジェリーよりも優れていたのは、こと音楽に関してだけだ。(略)ぼーっと夢みる以外に僕にも熱中できることがあると知って、父はほんとうに嬉しそうだった。つねに革新者だった父は、テレビの裏蓋をはずし、小さなジャックがあるのを見つけた。そこにギターをプラグインすれば、そのセットのスピーカーを通してプレイすることができるわけだ。(略)テレビで『マイティ・マウス』や『ウィンキー・ディンク&ユー』といったアニメを観ながら、プラグインしたギターでそれに合うサウンドトラックを作って遊んでいた。
父は工場の同僚に僕のことを自慢していた。「わしの末の息子は、すごくいい耳をしてるんだ(略)どうやら、生まれつき才能があるようでね」
ある日のこと、父は仕事仲間が娘にエレクトリック・ギターを買ってやったのにまるで弾こうとしない、と不満をもらしているのを聞いた。(略)夜遅く帰宅した父はそのエレクトリック・ギターの話を僕にすると、こう忠告した。「ギターを見せてもらいに行くんだが、まるで関心ない態度でいるんだぞ」
そのギター(ツイードのケースに入ったクリームとゴールド色のフェンダー・ミュージックマスター)を目にしたとたん、僕らの作戦は吹っとんだ。僕の表情を見てとるなり、父は有利な取引をするのは無理だと悟った。それはたぶんフェンダーのなかではもっとも安物で、金色のピックガードがついているせいで女物のギターに見えたが、僕にとってはまさにひと目惚れだった。付属に棚ラジオほどの大きさのアンプがついていると知って、ますます欲しくなったのだ。得意満面で家に持ちかえると、僕は指から血が出るまで練習した。父がそのアンプをフェンダー・デラックスにアップグレードしてくれた。これで完璧だ。あとは、僕のパフォーマンスをより上達させればいい。
初ステージ
練習に練習を重ねた僕は、ある程度の自信がつくとステート・シアター映画館に出かけた。(略)映画の後でライヴ・タレント・ショーが催されていた。多くの子供たちは早朝から出かけていき、25セントを払うと、それ以上のお楽しみ(映画とアマチュア・タレント・ショー)に与れるというわけだ。
僕は11歳になったばかり。ホワイトブロンドの髪を片側になでつけ、日曜日に着る1張羅のシャツとズボンでめかしこむと、生まれて初めて人前で演奏するためにステージに立った。僕はひどく緊張して、まだ髭の生えていない鼻の下に汗を光らせていた。(略)〈赤い河の谷間〉のオープニング・バーを演奏した。(略)ほとんどが見知らぬ人だったので、ある意味、気が楽だった。(略)
僕は歌ったりはしなかった。歌えなかったのだ。その頃、僕は自分の声にまるで自信がなかった。(略)
突っ立ったままギターを弾く僕への反応はけっして熱狂的とはいえなかったが、しばらくすると、場内が一瞬、静かになった。何人かの子供たちがちゃんと聴いているのが目に留まった。僕はすこし微笑むと、気持ちが楽になったので自信を持ってプレイしてみることにした。曲の主旋律から少しそれて、自分なりの即興演奏も取りいれてみた。最後のコーラス・パートに入っても、スタンディング・オヴェイションにはならなかった。それでもブーイングはこなかったし、紙コップが投げられることもなかった。そして、いい兆候だった。
最後のコード音が反響しながら消えていくとき、2列目に座っているかわいいふたりの女の子に目が止まった。(略)気のある素振りで僕に笑いかけたのだ。これこそ僕がずっと求めていたことだ、とその時、僕は確信した。(略)
[高校入学、赤貧を実感]焼けつくほどに熱い恥の感情が生まれた。
(略)
[レコードを買う余裕はないので、ラジオで最新サウンド入手]
やがて、髪をグリースでサイドにかため、母のペダル式シンガーミシンでジーンズの裾を細くつめると、僕はノース・フロリダのミュージック・シーンに本格的に乗りこんでいった。父の手本をまねて、ほかの人からエルヴィス、バディ・ホリー、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツといった、ロックンロールと名のつくレコードのほとんどすべてを借りまくった。父のヴォイス・オブ・ミュージック・マシーンを使って片方のチャンネルにそれらを録音しながら、もう片方ではギターを弾きまくってはロックンロールの偉人たちを真似ていた。父がより性能のいいステレオにアップグレードするや、僕はすぐさまその古いやつを貰いうけた。それを自分のベッドルームに慎重に運ぶと、勉強などそっちのけで夜の時間をすべて音楽に捧げた。
2度目に人前で演奏したのは、14歳の時だった。ジュニア・ハイスクールのタレント・コンテストに応募し、ギターとアンプを持って、たったひとりでステージに立った。(略)ベンチャーズの〈ウォーク・ドント・ラン〉をなんとか弾きおえた。会場には500人ほどの観客がいたが(略)どうやら僕を気に入ったみたいで、そのギグを終える頃には新たなステータスを取得していた。そこに集まっていたのはみな、僕と同じように、ロックンロール・ヒーローに憧れる年頃の若者たちだった。そして突然、僕はもっとも身近なゲインズヴィルのヒーローとして、自分にファンがいることを知った。なによりもすばらしいのは、その何人かが女の子だったことだ。色白で細身の体型、おまけに音楽の才能を証明してみせた僕は、たちまち人気者になった。言うまでもなく、すっかり自信をつけた僕は有頂天になった。
その演奏から3週間後、ある教師が地元のラジオ局WGGGに連絡を取るよう勧めてくれた。その局ではゲインズヴィルのアマチュアたちの演奏をレギュラーで放送しているという。(略)狭いレコーディング・スタジオのなかでマイクを前に立つと(略)[〈アパッチ〉、〈ウォーク・ドント・ラン〉を披露]
友人の何人かがその放送を聴いていた。「やったな、ドン(略)最高にカッコよかったぜ!」。僕はなんだかいっぱしの人物(エルヴィス)にでもなった気がした。マイクの前に立っただけで人々の僕に対する見方が変わるということも、当時の僕には驚きだった。
スティーヴン・スティルス
[ザ・コンチネンタルズを結成]
実際のところ、僕のバンドのようなものだった。僕がメンバーを集め、僕の電話番号を載せたブッキング用の名刺も作った。(略)
[ベースのスタン・スタンネル]
クラシカル・テクニックとの共通点があったせいか、彼がうまく弾けるのはベースだけだった。(略)最終的にはボストン音楽学校のギター学部の学長になった。つまり、僕のティーンエイジ・ロックンロール・バンドでは、国内でも指折りのクラシカル・ギター・プレイヤーがベースを弾いていたのだ。(略)
ほかにも様々なプレイヤーたちが在籍していた。(略)もっとも正体不明だったのは、ある日突然ゲインズヴィルにやってきたひとりの若者だった。(略)
「歌えるし、リズムギターがめっちゃ巧いんだ。俺たちのバンドに入れるべきだよ」ある日、ジェフがそう言いだした。
「そりゃ、すごい!なんて名前だい?」(略)「スティーヴン・スティルス」
ジェフは正しかった。スティーヴンは、それまで聞いたこともないような独特の声をしていた。彼は15歳で、短いブロンドの髪、社交性に富んだじつにおもしろいやつで自信に満ちあふれていた。ギター1本で座ってはひとりでずっと弾き語りができるような、そんなタイプだった。どこか反抗的で独立心の強さをうかがわせたが、常軌を逸するほどではなかった。彼が陸軍士官学校に送られるほどの悪さをしていたとは思えない。おそらく、僕らよりも捕まる回数が少し多かったのだろう。彼はしばらくのあいだ、ジェフの家に居候することになった。そして、僕らはザ・コンチネンタルズの新メンバーに彼を加えて、いっしょにいくつかのショーをこなした。(略)
気づいた時、スティーヴンはもういなかった。なんの説明もさよならもなく、彼は姿を消してしまった。(略)のちに聞いた話では、どうやらタンパに向かったということだった。その後、彼は家族の移住先のラテンアメリカに渡ったという。理由はともあれ、スティーヴンは蒸発してしまったのだ。僕はその時、彼にはもう2度と会うことはないだろうと思った。
チェット・アトキンス、ストラトキャスター
[61年夏、父とチェット・アトキンスのコンサートに]
信じられないような親指のシンコペーションとフィンガー・テクニックを駆使するだけでなく、彼は左手と右手を同時に使って異なるメロディを弾くという妙技を展開してみせた。下弦で〈ヤンキー・ドゥードル〉を弾きながら、上弦で〈ディキシー〉を弾くのだ。(略)すっかり心を奪われた僕は友人から彼のレコードを借りまくり、ひたすらコピーに熱中した。(略)
父のテープ・マシーンで、1秒につき7と2分の1のスピードで録音して3と4分の3のスピードで再生すると、キーと調性は変わらずに1オクターヴ低くなり、速度は半分になることがわかった。その方法で、僕は1弦1弦、1音1音、1指1指を丹念に聴きとっていった。こうして、実際にチェットとユニゾンで弾けるようになるまで、徐々にスピードを上げていったのだ。(略)
[楽器店ウィンドーにフェンダー・ストラトキャスター、どうにか分割でとお願いすると店主は]
「弾けるのか?」と、うさんくさそうに訊く。
「もちろんです」僕は自信たっぷりに答えた。
「弾いてみろ」(略)僕はここのところ急速に増えているレパートリーの1部を披露してみせた。
「ふむ。ひと月10ドルずつ払ってもらうってことでどうだね?(略)都合のいい時に、ここで働けばいい。チューニングやギターの手入れ、それにギターの手ほどき。時給として1ドル50セント払うがね」(略)
店での僕の仕事には、じきに音楽の教師という役割が加わった。(略)僕は指が痛いと文句ばかり言う10歳のクソ生意気な小僧相手に、ギターを教えるようになっていた。(略)給料は倍になり、じきにストラトキャスターの代金をすべて払いおえることができた。(略)教え子のなかに、前途有望なひとりの少年がいた。その名をトミー・ペティ(略)
3歳年下のトミーは、そっ歯で痩せっぽち、それにひどいギターを持っていた。(略)ギター・プレイヤーとしてずば抜けていたわけではないが、ミック・ジャガーとボブ・ディランを足したような声をしていて、なによりも度胸があった。それからほどなくして、彼はラッカー・ブラザーズというバンドのリードシンガーになる。僕はトミーに、いつかきっと成功するよと言ったのを憶えている。
僕は彼のバンドメンバーにギター・テクニックを上達させる方法を教え、いくつかのアレンジをまとめるのに手を貸した。時には彼らのギグにも同行(略)
トミーはとてもハンサムで、そのつややかな長髪は女の子たちを惹きつけた。
(略)
B.B.キング
僕はいまだにブラック・ミュージックが大好きだ。(略)だが、50年代末から60年代初めにかけて、黒人アーティストが出演するコンサート・ホールはひとつもなかった。当時のディープサウスには人種差別がまだ根強く残っていたからだ。
(略)
[ミュージシャン仲間が"チトリン・サーキット"]にB.B.キングがやってくると教えてくれた。誰かの農場の納屋で非合法に営業されているバーで演奏するのだという。その当時、プロモーターたちは牛の放牧地の真ん中に建物を見つけると、大きな牧草堆をどかしてギグ会場に仕立てあげた。テーブルと椅子代わりの箱を並べると、樽ビールをふるまい、5ドルの入場料を徴収する。(略)
白人は僕ひとりだけだ。僕は入場料を持っていなかったので、外に立って窓からなかを覗いた。B.B.は完璧に僕を圧倒した。(略)
[演奏後]混雑した納屋を横ぎって彼のそばに駆けよった。「ミスター・キング」息をきらして、言う。「握手してもらえませんか」
顔をぱっと輝かせると、彼は真っ白な歯を大きく覗かせて僕に笑いかけた。「あぁ、いいよ、坊や」ほろ酔い機嫌で、答える。「さぁ、握手だ」差しだされた大きな手を、僕は自分の手のなかに握りしめた。その指はソーセージほどの太さで、その息はかすかにビールの臭いがした。なにも言えず、その視線に射すくめられたまま後ずさりすると、僕はぼうっとした状態で家に帰った。それから1週間というもの、僕は手を洗わなかった。その後の数カ月かけてせっせと貯金をつづけた僕は、ついに欲しかったものを手に入れた。僕が生まれてはじめて買ったアルバム。それがB.B.キングの《ライヴ・アット・ザ・リーガル》だ。テネシー州のガラティンにあるランディーズ・レコード・ショップからメールオーダーで取りよせた。(略)
世界一すばらしいブルース・レコーディングだった。僕は音符のひとつひとつをそらで憶えた。
バーニー・レドン
バーニーはちょっと変わっていた。(略)サンディエゴ出身で、クール・ガイといった雰囲気を漂わせていた。ありえないような砂色のカーリーヘアに、パッチだらけのベルボトム・ジーンズ姿で、まるでサーフボードから降りたばかりのように見えた。
(略)
[楽器店でゲインズヴィルでいちばん巧いギタリストは君だと教えられたと、ある日訪ねてきた。早速ジャム・セッション]
「きみはなにを弾くんだい?」
「フェンダー・ストラトキャスター(略)きみは?」
「アコースティック、バンジョー、マンドリン、フラットトップ・ブルーグラス、ま、そんなとこかな」(略)
僕はアコースティック・ギターを持っていなかった。それはもう卒業したと、自分では思っていた。(略)バーニーはそのフラットピッキング・ミュージックで、僕を完全に圧倒した。彼が若くしてこれほど熟達していることに、僕はすっかり眩惑されてしまった。
(略)僕らはリッパム・ミュージックに出向いて、新品のギターを2本(彼にはエレクトリック・グレッチ、そして僕にはアコースティックを)注文した。知っていることすべてをたがいに教えあうつもりだった。それから数ヵ月間、彼は僕にカントリー&ウエスタン・ミュージックの繊細なニュアンスを伝授し、僕は彼にロックンロールを教えた。(略)バーニーとの出会いは、僕の人生において最良のできごとのひとつだった。
バーニーの父親は原子核物理学者で、サンディエゴから転勤でやってきた。フロリダ大学内に、最大規模の原子核開発リサーチ・センターを開設するためだ。バーニーは10人兄弟の長男で(略)[弟のトムは後に]トム・ペティのニューバンド、マッドクラッチでプレイすることになる。
(略)
バーニーはサンディエゴ時代、すでにいくつかのブルーグラス・バンドでプレイしていた。そのなかのひとつ、スコッツヴィル・スクイレル・ベイカーズには、クリス・ヒルマン[が在籍](略)
バーニーは間違いなく5弦バンジョーの名手だった。(略)アール・スクラッグスと競いあっても負けないくらいだ。(略)
[ブルーグラス・バンドの他に]
モーンディ・クインテットというもうひとつのバンドを結成し、僕が夢中になっていた音楽をプレイすることになった。(略)
金曜や土曜の夜に男子学生社交クラブのパーティやハイスクール・プロムで演奏すると、200ドルの稼ぎになった。おそらく、父の当時の週給よりも多い額だ。
(略)
社交クラブのパーティはワイルドそのものだった。映画『アニマル・ハウス』で観たように、誰もがしこたま酔っぱらっていた。
(略)
最盛期のデイトナには、ミュージシャンたちが前座として出演できるチャンスが数多くあった。(略)
僕はトミー・ロー&ザ・ローマンズといったハウスバンドにソロで参加したり(略)自ら"世界で最年長のティーンエイジャー"と名乗る[〈ウォーキン・ザ・ドッグ〉が大ヒット中のルーファス・トーマスのバンドでもプレイ](略)
[64年ビートルズ旋風]
モーンディ・クインテットの外見もサウンドも、あいかわらず英国風のままだった。僕らはおもに、キングスメンの〈ルイ・ルイ〉のようなポップソングや、昔のソウル・インストゥルメンタル曲〈グリーン・オニオン〉、そして[ビートルズのカバー]
デュアン・オールマン
[新しいミュージシャン仲間]のなかに、デュアンとグレッグ・オールマンというふたりの兄弟がいた。(略)デュアンはずばぬけた才能を持つリードギタリストで、すばらしくソウルフルな声を持つグレッグはキーボードを弾いた。(略)
長髪を背中の下まで伸ばし、デュアンは立派なもみあげを蓄えていた。(略)本物のヒッピーで、バーニー同様ポットにハマっていた。(略)最初のうちスポットライツと呼ばれていたが、その後、キャンディの名をとってオールマン・ジョイズに変わった。
(略)
スライドギターを弾くのを見るのはデュアンが初めてだった。(略)なめらかに磨いたバドワイザーの瓶のネックを指にはめ、フレットを上下にスライドさせる彼を眺めていた。(略)とてつもない衝撃だった。(略)
チューニングのやり方を初めて伝授してくれた。「いいか、目を閉じて、音楽をよく聴くんだ」自分のロングネック・バド・トップを弦の上でスライドさせている僕に、デュアンは言った。「心のなかでそれを感じるんだ。背筋がぞくっときたら、それが正しい音なのさ」。(略)彼こそ、まさしく本物の天才だった。
(略)
[サークルの前座をやり、マネージャーに気に入られNYに連れて行ってもらったが]
メンバーのふたりがホームシックにかかってしまい、それ以上の進展はなかった。
(略)
[バーニーがカリフォルニアに帰って本物の音楽をやると言い出し、誘われたが、貧しい育ちゆえの慎重さで話に乗れず、バーニーは一人旅立って行った]
ジャズに目覚める
[バークレーで2年間学んできた6歳年上のポール・ヒーリーが音楽教室開校]
僕はギター教室に入学してくる子供たちに教えることを条件に、彼からジャズ理論と作曲法を学べることになった。
(略)
[フリーフォームのジャズロックを得意とするヒッピー・バンド、フロウに誘われる]
フロウとバリー(ジャンと僕が家をシェアしていたカップルの夫)からの二重の影響で、僕は初めてジャズに興味を持つようになった。(略)
じっくりと聴きこんではジャズギターについて学んだ。ジャズ特有のソロを覚えるにつれ、ソニー・ロリンズやジャンゴ・ラインハルトなどを好んで聴くようになった。じきに、僕はギターを違う角度からとらえるようになった。より知的で洗練されたジャズに比べると、カントリー、ロックンロール、そしてブルーグラスはいくぶん古風なものに思われた。ポールのもとでみっちり理論を教えこまれた僕にとって、ジャズは突然、意味のあるものとなった。
(略)
[バリーに教えられマイルスをヴィレッジゲイトで観て衝撃]
クリード・テイラー、ラスカルズ
[ラジオからバッファロー・スプリングフィールドの〈フォー・ホワット〉が流れ]
その声の持ち主はスティーヴン・スティルス、コンティネンタルズでいっしょにプレイしていた、あのミリタリー・ヘアカットの放れ馬だ。
(略)「あいつ、ついに油脈を当てたな!(略)僕もいつか見習いたいもんだな」(略)
1968年秋、ついにフロウがニューヨークでのショーケース・コンサートを行うことになった。(略)
オールマン・ブラザーズが僕らの前にプレイしていた。(略)オールマン・ジョイズからアワーグラスと名前を変えて、LAでアルバムのレコーディングも行っていた。
(略)
ギグが終わると、クリード・テイラーが楽屋に僕らを訪ねてきた。(略)
袖にパッチをあてたスエードのジャケットを着た寡黙な男だった。「さて、きみたち。今夜の演奏を聴いて気に入ったよ。すばらしかった。5000ドルでレコーディング契約をしようと思うが。どうかね?」
それは僕らにとっていままでで最高の稼ぎだった。自分たちの幸運が信じられなかった。(略)5000ドルのアドヴァンスは1ヵ月しかもたなかった。ダッジの配達用ヴァンの頭金を支払い(略)防寒コート、そしてPAシステム用のマイクを2本購入した。残りの金は、葉っぱや食料、巻きタバコ、そしてジャック・ダニエルに消えた。
(略)
ヤング・ラスカルズが僕らのスポンサーになってくれた(略)ヒットを飛ばし乗りに乗っていた彼らは、僕らがクラブでプレイできるよう楽器のお下がりをくれたり、PAシステムを貸してくれたりした。ディノ・ダネリからはドラムセットをもらったし、フェリックス・キャバリエからはハモンドB3キーボードをもらった。そしてジーン・コーニッシュは彼のギター、大きなギブソン・エレクトリックを僕にくれた。
(略)
クリード・テイラーが使用する[のはルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオ](略)
彼はレコーディング・ブースに陣取ると、マッド・サイエンティストのようにコントロール装置を操作した。両手に白い手袋をはめ、文字どおり、無菌で人間味のないハイファイ・レコーディングを行うのだ。
ある日、アンディとジョンは僕らをアトランティック・スタジオまで連れて行くと、ヤング・ラスカルズの最新シングルのカッティングを見学させてくれた。(略)とてもくつろげる雰囲気だった。(略)僕らはスタジオの隅っこに立ち、彼らが〈ビューティフル・モーニング〉のレコーディングをするのを聴いていた。(略)
かたや、イングルウッド・クリフのスタジオで(略)僕らはひどくピリピリしていた。(略)ちゃんとしたレコーディングは初めての経験だったからだ。最新式の超ハイテク機材と実験用の白衣を着た男というこの臨床的な雰囲気のなかで、僕らは味わったことのないプレッシャーを感じていた。クリードがやってきて、コントロールルームの椅子に座る。(略)ひと言も発しなかった。音楽的な指示も一切なかった。
僕は瞬時に、それも不快感とともに、理解した。いわゆる伝説のレコーディングといわれるものを手がけたのはクリード・テイラーでもルディ・ヴァン・ゲルダーでもなく、そのアーティスト自身なのだと。(略)僕らはプレイを始めたが、それは誰が聴いても無理強いされた不自然な演奏だった。実際、それは転落した列車の残骸そのもので、奈落の底から引きあげることなど誰にもできなかった。
(略)
僕らはいわゆる"AM向き"ではなかった。長いジャズ・ソロがあるため、ラジオ局の多くは僕らの楽曲をかけたがらなかったのだ。評判は悪くはなかったが、それでもヤング・ラスカルズと同じというわけにはいかなかった。ルックスとサウンドはいくらか似ていたかもしれないが、明確な位置づけができないため、マーケティングに関してはまさに悪夢だった。僕らに興味を示すのは、クラブに通いレコードを買うようなメインストリームのファンではなく、ジャズ通から派生した折衷主義の連中だった。
次のアルバムのオファーもなく、まったく仕事のない日々が延々とつづいていた。
ウッドストック
1969年8月。(略)"平和と愛の3日間"と告知されたそのイベントは、ウッドストックの近くのベテルという場所で催されるという。
「なぁ、みんなでこいつを観にいこう(略)きっと知り合いが大勢くるはずだ。(略)ラインアップがとにかく凄い。ジャニス・ジョップリン、ザ・バンド、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ザ・グレイトフル・デッド。あのヘンドリックスもプレイするんだぜ」(略)
出演バンドのリストにクロスビー、スティルス&ナッシュの名前を見つけた。彼らのデビュー・アルバム《クロスビー、スティルス&ナッシュ》は、チャートを急上昇中だった。
(略)
どしゃ降りだったことだけは覚えている。東から押しよせる雨雲の大群とともにものすごい嵐がやってきた。激しい風は、不安定に積みあげられたスピーカータワーをなぎ倒しそうな勢いだった。僕らはシェビィのなかで寝袋にくるまって、屋根に打ちつける豪雨の音を聞きながら眠った。
(略)
出演者の名前がアナウンスされる(略)
「おっと、こいつは観にいかないとな」(略)意を決して雨のなかに出ていく。滑りやすい丘の斜面をステージに向かって駆けおりた。サンタナ、ヘンドリックス、アルヴィン・リーの演奏を、耳から血が出るかと思うほど熱心に聴いた。
それは全員びしょ濡れで寒さに震え、思いだしてもぞっとする"泥の祭典"だった。粘着性のある土が足指のあいだで固まり、毛穴やひび割れにまで進入してきたが、誰も気にしていなかった。(略)
ドーヴァー・プレインズに戻ると、なぜか自分の人生が前よりも耐えがたいものに思われた。僕はまだ少年だったスティーヴン・スティルスを知っている。その彼が、朝の4時にロックンロールの大御所たちと同じステージに立ち、グラハム・ナッシュなどといっしょに演奏していた。
(略)
白のポンチョを着てスツールに腰掛け、あの独特のざらついた声で歌っていた。すばらしくグルーヴィだった。あのステージ上で彼と並びたい。なににもまして、僕は強くそう願った。
かたや僕はといえば、人里離れた古い大きな家でマリファナ常習者たちとのらくら暮らしながら、このどうしようもない状況からなんとか逃れようともがいていた。(略)バンドのメンバー以外は恋人も友人もいなかった。もうすぐ冬だというのに、無一文だった。この暖房もないでっかい家で僕らが凍え死んだとしても、誰も気づいてくれないだろう。僕ら自身でこの状況をどうにか打開しないかぎりは。
ボストンへ、ピーター・グリーン
[18ヶ月ぶりに元カノに連絡。スーザンはハーヴァードで秘書をやっていた。ボストンに来ればと言われ、フロウ脱退を決意。クリードに伝えると、バークレーの役員をやっているから、教師の仕事を世話しようかと言われる]
ボストンはまったく別世界だった。(略)時代は1970年、ビートルズが解散した年だ。(略)
[ホリデイ・インのディナーショーで]ナイロン弦ギターで映画音楽を演奏した。
(略)
[知らない曲をリクエストされると、次の休憩の後に、と言い、休憩中に]ポピュラーソング楽譜集でその曲を探し、コード進行を覚えてひたすら練習する。そして、20分後に戻った時は、完璧に知っているかのようにプレイして5ドルのチップを稼ぐのだ。
それは自分が望んでいるキャリアではないと痛感していた僕は、できるだけ多くのミュージシャンたちと関わろうと思った。(略)何人かの興味深い人たちに出会った。ひとりはピーター・グリーンというエキセントリックな英国人。彼は自らを世に送りだしたバンド、フリートウッド・マックを脱け、それまでに稼いだ大金も手放してしまったという。僕は公園の無料コンサートでジャミングしている時に彼と知りあった。雑談を交わすうちに、彼が町にやってきたばかりで泊まる場所もないことを知った。
「よかったら、しばらく家に泊まってもいいよ」と彼に言った。彼の目には信用できるなにかが宿っているように、僕には思えたのだ。数日間、彼は我が家のカウチで寝泊まりした。僕らはいっしょにセッションもした。彼はすばらしいブルース・ギタリストだった。コックニー・アクセント丸出しで、痛快なユーモアセンスを持っていた。ともにB.B.キングを熱烈に支持していることもわかった。ただし彼は、あまりにも向精神作用性物質を摂取しすぎだった。そしてある日、彼は忽然と姿を消した。結局、僕らのコラボレーションからは何も生まれなかった。のちに彼が宗教にどっぷりはまり、有り金すべてを寄付したと聞いた。
トリプル・Aという二流のレコーディング・スタジオで、週給50ドルの仕事を見つけた。僕の仕事はレコーデイング用にセッション・ミュージシャンを雇い入れることだった。そのほとんどがバークレー音楽院の学生だった。そのうちのひとりが、アブラハム・"エイブ"・ラボリエール。のちに、ジャズとポップ界を代表するもっとも著名なセッション・ベースプレイヤーとなる人物だ。彼が演奏を始めると、誰もが背筋をぴんと伸ばした。信じられないほどすばらしいリズム感覚の持ち主だった。エイブと僕はすぐに親しくなり、僕はできるかぎり多くの仕事を彼にまわした。(略)
ほかにも、夜間と週末にふたつの仕事を掛けもちしていた。別々のスタジオで、カーディーラーと衣料品のアウトレット用にCMジングルを作る仕事だ。(略)
スタジオのひとつはエースといって、オーナーの息子のシェリー・ヤカスという少年が時々やってきては、掃除をしたりケーブルを巻いたりしながら、僕の作業を眺めていた。その後、彼は業界でも屈指のエンジニアとなり、ブルース・スプリングスティーンやU2のレコードを手がけることになる。
(略)
バーニーは時々ふらりと町にやってきて、僕はいつも彼に会うのが楽しみだった。彼はしばらくリンダ・ロンシュタットのバックバンドにいたが、彼にとって最大のブレイクはグラム・パーソンズ率いるフライング・ブリトー・ブラザーズに加入したことだった。彼らはすでに大ヒットアルバムを1枚出していて、全米ツアーの一環
でイーストコーストに来ていた。スーザンと僕はコンサートを観にいったが、彼らはじつにすばらしかった。「なあ、こんなとこからさっさと抜けだしたほうがいい(略)車のCM曲なんか書いてる場合じゃない。きみはすごいギター・プレイヤーなんだぜ、ドン。ウエストにくるべきだよ」。スーザンの表情がすべてを語っていた。彼女はボストン生まれで、家族のそばで暮らしたがっていた。もし彼女といっしょにいたいなら、僕がボストンに留まるしかなかった。
結婚
[家を買い、スーザンと結婚]
23歳の若さで、僕は人の夫となった。その責任は恐ろしいほど重かった。
たいして金はなかったが、僕らは若く愛しあっていて、墓地に隣接する家の半分に住んでいた。人生が突然、楽しく思えてきた。(略)スーザンは自分が一家の稼ぎ手であることをとくに気にもしていなかった。(略)
バーニーの多才さを見習い、自分の商業価値を高めるため、僕はつねに音楽的スキルを磨こうとがんばっていた。入手できるイクイップメントを使って、ドラムの基本とキーボードとベースギターを独学で習得した。さらには、トラックのミキシングとオーヴァーダビングの技術も学んだ。(略)
個人的には幸せな生活だったが、それでも、好機を逸してしまったという感覚はどうしても拭えないでいた。
(略)
[デュアン・オールマン事故死]
同い年だった。彼とはいっしょに育ったような気がしている。彼は僕にたくさんのことを教えてくれた。「いいか、眼を閉じて音楽を聴くんだ(略)心で感じるんだ。背筋がぞくっときたら、そいつは本物だぜ」
(略)
[マナサスでボストンにやってきたスティーヴン・スティルス。楽屋に行こうとしたらセキュリティに止められ、ドン・フェルダーが会いたがってるって伝えてくれよ、と執拗に説得。だが戻ってきた大男は]
「スティルスさんはいま忙しくて会えないそうだ」
それからの数カ月間、僕の精神状態は最低まで落ちこみ、もしかして父は正しかったのかも、とまで考えるようになった。僕は妻帯者で、もうじき25歳になろうとしていた。いままで成功していないということは、これから先も見込みがないということなのか。
(略)
[そんな時、NYでの友人ベース・プレイヤーから電話]
「デラニー&ボニーの前座でプレイするんだ(略)聴きにこないか?」
(略)
[友人と楽屋にあったギターでジャムっていると]
デラニーが声をかけてきた。「今夜のステージでいっしょにプレイしないか?」
(略)
[ショーのあと、ツアーに同行しないかと誘われたが、妻との生活を考え断る]
またしても大きなチャンスがすり抜けていくのを、僕はただ眺めていた。それは僕の人生で2度目の苦い決断だった。
イーグルス
[リンダ・ロンシュタットのギグでバックを務めた、バーニー・レドン、ランディ・マイズナー、ドン・ヘンリー、グレン・フライ]
ドン・ヘンリーは(略)ケニー・ロジャースの資金提供を受け、彼のバンド、シャイロを引きつれテキサスからやってきた。しかし、アモス・レコードとの出だしでつまずき、バンドは解散の憂き目に。(略)
ボブ・シーガーを敬愛するグレン・フライはデトロイトからLAに(略)ジョン・デヴィッド・サウザーと(略)69年、ロングブランチ・ペニーホイッスルというデュオを結成する。だが、アモス・レコードから出したファースト・アルバムは失敗作だった。彼らはしばらくのあいだ(略)ジャクソン・ブラウンとアパートをシェア(略)[70年フライはソロとして]"ティーン・キング"と名乗った。(略)デヴィッド・ゲフィンは、グループとして活動するよう彼を説得していた。
ロンシュタットとのアナハイム・ギグが忘れられず、あの夜の魔法をふたたび呼びおこしたいと願ったフライとヘンリーは、マイズナーとバーニー・レドンにアプローチし、グループを組まないかと持ちかけ[アサイラムと契約](略)
自称"ジェームス・ディーン"のグレン・フライは、『ウエスト・サイド物語』に登場する10代のギャングのような、パンチの効いた響きを持つ名前を欲しがっていた。ある夜、モハーヴェ砂漠でペヨーテ茶とテキーラを飲んでいると、バーニーがカルロス・カスタネダの本について話しはじめた。それによると、ホピ・インディアンはすべての動物のなかで、鷲をもっとも崇敬している。鷲は太陽のもっとも近くまで飛翔し、すばらしく崇高な精神の持ち主だからだという。こうして、イーグルスが誕生した。
(略)72年春、僕がボストンで落ちこんでいた頃、彼らは英国でデビュー・アルバム《イーグルス》をレコーディングしていた。プロデューサーはグリン・ジョーンズ。(略)
ジョーンズの完璧主義、ドラッグへの嫌悪感、そして音楽にどの程度カントリー色を添えるかについての意見の相違が、彼らの関係をさらに悪化させていた。
(略)
その夏、彼らはイエス、ジェスロ・タル、そしてプロコル・ハルムといったブリティッシュ・バンドとの奇妙な組みあわせでツアーを回った。そのうえ彼らは、トップ4に3曲のヒット・シングルを送りこんでいた。
(略)
〈テイク・イット・イージー〉がいつも流れていた。まだ誰もイーグルスを知らない頃から、僕はその曲をずっと聴いていた。バーニーの特徴あるバンジョーの音が、バックグラウンドいっぱいにあふれていた。それを聴くたびに自然と笑みがこぼれ、誇らしい気持ちになった。〈魔女のささやき〉では、彼の不気味なギターコードが、どこかホピ・インディアンが儀式の時に踊るダンスを思わせた。1972年にイーグルスがイエスの前座バンドとしてボストンを訪れた時、バーニーが電話をかけてきた。
「やぁ、ドン。来週、そっちに行くよ。新しいバンドといっしょにボストン大学で一夜だけプレイするんだ。スーザンも連れて、僕の仲間に会いにこないか?いっしょにセッションでもしようぜ。ゲストのリストに名前を入れておくよ」(略)
「やぁ、フェルダー夫人!おめでとう。ついにこいつを落としたんだね?」スーザンが恥ずかしそうにバーニーにキスをする。
(略)
「ねぇ、みんな」とバーニーが大声で告げる。「ドン・フェルダーを紹介するよ。ストラトキャスターにかけては、誰よりも早弾きのできる男だ」
「やぁ、フィンガース」と角張った顎の男が言った。グレン・フライと紹介された。僕の手を力強く握ると、すこしヒリヒリした様子(本番前で緊張していたのだろう)のカーリーヘアのドン・ヘンリー、そして内気そうなベビーフェイスのランディ・マイズナーに紹介された。とくに決まったリーダーはいないようだったが、僕にはメンバーの紹介を自ら買ってでたグレンがもっとも自信に満ちているように見えた。(略)
「いっしょにジャムするかい?」(略)バーニーが誘う。
「もちろん」(略)
バーニーがゲインズヴィルで何百回となくいっしょにプレイしたブルーグラスを弾きはじめ、僕はすぐに感覚を取りもどした。彼とまたいっしょにプレイするのはいい気分だった。その瞬間まで、僕は彼のすばらしい音楽的才能に飢えていた自分に気づいていなかった。(略)
ポケットから使い古したボトルネックを取りだし左手の中指にはめると、次の曲でスライドギターを弾いてみせた。じきに、楽屋にいる全員が曲に合わせて足を踏みならし、手を叩きはじめる。(略)
セッションが終わると、楽屋中が狂乱状態になった。(略)
グレン・フライが寄ってきて、僕の肩に手を置く。「きみ、巧いじゃないか」感動した様子で言う。「LAに来るべきだよ。向こうで、きみみたいなプレイヤーを何人か使うのもいいと思ってるんだ」
(略)いよいよバンドがステージに(略)
彼らは正統的な4パート・ハーモニー・バンドとして、じつにタイトですばらしいプレイをしていた。ただし、僕にはすこし変化に乏しく、カントリー色が強すぎる感じがした。(略)
1曲だけ、〈魔女のささやき〉でドン・ヘンリーがリードヴォーカルをとったが、びっくりするほど巧かった。よく通る、その軋んだハスキーヴォイスは、まるでナイフのように鋭く空中を切り裂いた。
全体的に見て、僕はその音楽性よりも彼らの人間性に好感を持った。僕の生まれ故郷では、カントリー・ミュージックはどちらかといえば下級のものに思われていた。それは主に、ディープサウスの白人労働者が好んで聴く音楽だった。正面ポーチにはアライグマ猟犬が寝そべり、ピックアップ・トラックの後ろにライフルやショットガンを積んでいるような連中だ。幼い頃からグランド・オール・オープリーを聴いて育った僕だが、自分としてはとっくにそれを卒業し、すでにフリーフォーム・ジャズやリズム&ブルース、そしてロックンロールへと移行していた。そして僕は、いまだに英国の音楽に強く惹かれていて、イーグルスよりもイエスの新作が聴きたくてたまらなかった。イーグルスのニューアルバムが出たからといって、店に走ることはなかった。その代わりに、骨折って手にいれた金でフリートウッド・マック、ヘンドリックス、そしてエリック・クラプトンの新作を買いあさった。
イーグルスを公平に評価するならば、そのサウンドにはわくわくするような魅力があった。それに、全員が歌えるというのも強みだった。ビーチ・ボーイズとクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング以外に、それができるバンドは少ない。(略)
グレンはリードシンガーで、ドンはすばらしいハーモニーと微妙に遅れる独特のドラムビートで音楽に絶妙な緊張感を与えている。おそらく、それは彼が意識的に意図したものではないだろう。それこそが彼の感じるビートのつぼで、それがイーグルス独自のグルーヴを生みだしているのだ。
バーニーは5弦バンジョー、マンドリン、そしてペダルスティールをみごとに弾きこなし、ランディはベースを弾きながら、あの天使のような声でエッジの効いた高音のハーモニーで貢献している。(略)
イエスにはすっかり圧倒された。(略)プログレッシヴロック・シンフォニーを観ていて、心から感動した。その特徴あるサウンドに、観客はみな狂乱した。ジョン・アンダーソンの声は水晶のように澄みきり、スティーヴ・ハウはじつに洗練されたギタリストで、リック・ウェイクマンのキーボードは冴えまくっていた。彼らのプレイを聴けたことを、僕はとても名誉に感じた。
天使の都へ
「またどこかで会おう」とバーニーに告げる。握手をかわしながら、すこし悲しくなった。
「あぁ、もちろんだとも。今度はカリフォリニアで会えるかな?」僕の微妙な立場を察して、そう冗談めかす。そして、スーザンを抱きしめると彼女の髪にもぞもぞとつぶやいた。「ドンをLAに来させてやれよ。あいつならやれるってこと、わからせてやりたいんだ。いいだろ?絶対、後悔はしないぜ、ふたりとも」
ある考えが頭のなかで育っていく、まるで種子のように。10年前にバーニーによって植えつけられた種が(略)カリフォルニアに行って成功してみせるという思いが、僕の脳裏で成熟した生物体のように膨れあがっていた。バーニーはまさに成功の生き証人だった。(略)
「ハニー、バーニーの言うとおりかもしれない(略)しばらくのあいだ、LAに行って様子を見てこよう思うんだ。(略)向こうで仕事のめどがついたら、きみを迎えにくるよ」(略)
「いやよ!(略)あたしが、カリフォルニアの女たちと遊びまわるためにあなたをひとりで行かせると思う?(略)あなたが行くなら、あたしもついていくわ」
(略)僕はあちこちの職場に届けを出し、スーザンはハーヴァードを退職した。
(略)
1972年の夏。僕らは見果てぬ夢を追いかけ、ついに約束の地である"天使の都"めざして、アメリカ横断3000マイルの旅に乗りだした。
次回に続く。
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