ブログ以外にSNSをやってみようかな。

 フェイスブックツイッターSNSをやってみようかなと思っている。でも、実名であり、個人情報はどうなるのかという不安もある。もう少し内容を見た上で考えていこう。まだ登録方法も知らないし、操作方法もよく理解していない。少し勉強してから取り組んで行こう。専門家の意見によれば、まず、住所や生年月日、学歴等はあまり最初からオープンにしない方がよいかも。また、友達になると言っても相手を知らないのだから慎重にした方がよいのかも。

(1月5日生まれの偉人)
◆今日の偉人は、私のブログの顔であるトトロの監督である。『となりのトトロ』は、スタジオジブリ制作の日本の長編アニメーション作品。昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジー。田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ、メイ姉妹と、“もののけ”とよばれる不思議な生き物「トトロ」との交流を描く。キャッチコピーは「このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん。」と「忘れものを、届けにきました」のふたつ[1]。前者は糸井重里によるもの、後者は同時上映された『火垂るの墓』との共通コピーである。
宮粼 駿(みやざき はやお、1941年〈昭和16年〉1月5日 - )は、日本のアニメーション作家、映画監督、漫画家。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館館主。
 東京都小金井市三鷹市名誉市民。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は二馬力で、主に宮粼の著作権関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていた。
 1978年、『未来少年コナン』(NHK)で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナル・スケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、半年という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨人兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。
 『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。さらに自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。
 その後は1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを創立した。ほぼ2〜4年おきに長編作品を製作している。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。ジブリ作品が興行的に成功し、また宮崎駿が国民的映像作家としての地位を確立したのは、1989年の邦画興行成績1位を獲得した『魔女の宅急便』以降である。宮崎本人は「カリオストロ」、「ナウシカ」、「ラピュタ」、「トトロ」という元からやりたかったものを全て作り終えてしまったこともありやる気ではなかったが、鈴木プロデューサーが当時にスポンサーとしてクロネコヤマトを起用して、作らざるを得ない状況を作った。この大ヒットにより宮崎はジブリの労働環境を整えるため社員化を決定。後にこの段階で解散するのも一つの手だったと振り返っている。また、宮崎作品は今でこそ国際的にも高い評価を受けているが、欧米では1996年に徳間書店とディズニーが業務提携するまで本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたために、欧米諸国で知られるのは遅れた。それでも、日本アニメファン達は日本語版の宮崎アニメを見ることで宮崎駿の作品に接し、熱心なファン層が広がっていった。1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、引退してシニアジブリを立ち上げると発言し、実際に二馬力を立ち上げている。2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネツィア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[12]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。次回監督作は2013年頃に公開予定。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあるという。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。2010年にNHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、監督としてはあと一作が限界であると述べていた。2013年の作品が最後か?