今日からまた仕事再開。台風16号北上中。

◆今日から仕事再開。でも、明日は秋分の日で休み。仕事の効率はいかがかな?午前中から資料作成。午後から、資料整理。かなりの進捗であった。

台風16号北上中 今週半ばに西日本へ。フィリピンの首都・マニラでは、台風による大雨で洪水が発生した。台風16号は、中国東部の沿岸に接近する見込み。台風16号の接近により、石垣島などで強風が吹き荒れ、波が高くなった。今週半ばに台風が温帯低気圧に変化しても、大雨などに注意が必要であろう。

◆今日は吉田茂の誕生日。http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130922/p1
 外務省飯倉公館(外国の賓客をもてなす場所)の隣に建つ外交資料館別館。この別館は財団法人吉田茂記念事業財団(現 財団法人吉田茂国際基金)から外務省に寄贈されたものである。入り口を入った真正面に和服姿の大きな吉田茂の上半身像が体の前で手を組んでおり、「宰相吉田茂像」とある。製作者は誰かと探したがわからなかった。また階段の上り口には、昭和27年11月のメガネをかけた吉田の写真が飾ってある。年譜をみると、吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁を発見する。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。この養子制度を含む日本の「家」に思いを馳せる。確か斉藤茂吉も養子だった。江戸時代から家は法人格的な性格を持っていたから、優秀な番頭に実務を任せたり、子供がいない場合にはできのいい子供を養子に迎えて家の存続を図るなどの工夫が見える。明治維新後、株式会社が輸入されたが日本人は違和感無く導入して大きな成果をあげている。要するに会社というものに慣れていたのだ。日本の家は実は会社と同じだったのである。明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だったことを系図を見て発見する。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、安倍内閣麻生太郎副総理兼財務大臣である。サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。吉田は「歴史を知らない国民は滅びる」という言葉をよく使った。89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった。昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。昭和の20年代は吉田ワンマンに率いられた時代だったのだ。在任期間一位は2798日の佐藤栄作、3位は1806日の中曽根康弘である。今、安倍晋三は長期政権を目指している。吉田の後を襲った鳩山一郎とは協力と競争の関係にあったようだ。吉田は日米安保をやり、鳩山は日ソ国交回復を実現している。

<本の紹介>
吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし」(北康利著・扶桑社)
http://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%9F%E5%A4%A2-%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%BF%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%A6%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AA%E3%81%97-%E5%8C%97-%E5%BA%B7%E5%88%A9/dp/4594061788
(内容)「あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいる時に登場され、国民の苦悩をよく受けとめ、自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め、もっとも困難な時期における指導者としての責務を立派に果たされました。、、、あなたは、なにものにもまして祖国日本を愛し、誰よりも日本人としての自負心を抱いておられました、、、」。遅咲きで67才で総理になり、76歳まで第5次にわたって組閣し、89歳で亡くなった宰相・吉田茂(1878−1967年)の国葬の葬儀委員長を務めた佐藤栄作首相の弔辞である。
 終生のライバル・鳩山一郎との長い確執の果てに、吉田の後継候補であった緒方の自由党と鳩山民主党は1955年に合同し自由民主党が結成される。吉田から政権を奪った鳩山は自由民主党の初代総裁となった。軽武装と引き換えに経済復興を優先する吉田の政治手法は、後に「吉田ドクトリン」と呼ばれ、成功する。何度となく繰り返されるライバルの鳩山一郎との対決は凄まじい。吉田が「経済復興優先」「軽武装」「日米安保継続」を目指したの対し、鳩山は「日米安保破棄」「早期改憲」「自主的な軍事力整備」「日ソ国交回復」を掲げ激突します。そして吉田の最終目標は独立国の完成であった。アメリカとの同盟関係で防衛を依存することで吉田は、国民から覇気が失われることを恐れていた。そういう形が長く続けば、国の形をとってはいても、植民地と変わりはない。吉田ドクトリンはある過渡期における国家戦略であったのだ。
 一度政権を退き返り咲いた吉田は結局6年二か月という長期政権を担当している。日本の歴代総理の中では、桂太郎伊藤博文佐藤栄作、に次ぐ記録である。小泉純一郎内閣は近来まれにみる長期政権であったが、それでも5年5か月だった。所得倍増計画の池田、沖縄返還を実現した佐藤という吉田学校の優等生が、長く政権を担当し、吉田茂は隠居先の大磯で長くアドバイスをし続けたから、吉田の目標であった「独立国」へ向けての道を歩み続けたことになる。そういう意味で吉田茂という政治家は戦後もっとも影響を与えた政治家ということができるだろう。まさに、吉田茂が見た夢を自分たちの世代で終わらせたくないという強い意志によって書かれた本である。


<今日のトラックバック
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