東浩紀氏講演会「裏波状言論」参加

波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由三省堂本店で開催された東浩紀氏の『波状言論S改』出版記念講演会「裏波状言論」に参加してきました。聞き手は東氏の主催されたメールマガジン波状言論」の16・18号「自然・批評・祈り―舞城王太郎について」でデビューされた福嶋亮大氏。

※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。


トークでは大きなテーマとして『波状言論S改』のサブタイトル「社会学」「メタゲーム」「自由」について語られました。
社会学の危うさとして、本の内容自体よりも内容の社会位置づけを読んでしまい実際読んでいないのに読んでしまったように語れてしまうことだそうです。昔は「何か(≒弱者)のため」に知識や思想を学びえたけれど今はテーマをいかにうまく説明するかという精緻化させる知のゲームの様相を呈しており問題であるということが話されました。
しかし別の次元で、個人の情報流通が「サービス提供」と「監視」の二面性を持つ中、単に左派的言説や旧来の公共性概念を主張するだけでは実効性がないとのことで、東氏の「情報自由論」では左翼的言説(フーコーの生権力)との親和性を高かったらしいのですが、それだと限界があることを認識したため現在は言説を脱色化することに努めているそうです。それが次のメタゲームの話でした。
個人的にはこの話が一番面白かったというか勉強になったのですが、東氏はまず、ヨーロッパの思想伝統では、人間は神と動物の中間的存在であり、その二重性ゆえに苦しむが主体がそれを弁証法的に統合していくという人間モデルがあったのではないかとおっしゃってました。フーコーがそのモデルが60年代に崩壊傾向にあることを「人間の終焉」「西洋の終焉」などと発言したけれど、文芸批評的なレトリックとしてしか受け止められず本気で考えられてこなかったと。しかし実は人間は超越的思考のメタゲームを止める機制もなければ、動物的快楽への欲望を止める機制も存在せず、両者を統合するメカニズムもなく、あるときは「神」でありあるときは「動物」であるということが人間には併存しているのではないかとのことでした。
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会動物化するポストモダン』でも、人間が「動物化」するということよりも、人間が「人間的なもの」と「動物的なもの」に「乖離」して共存すること(=統合されるのではないこと)を主張したかったとのことです。
そのような「乖離」が前提となった社会においては、人間的コミュニケーションの舞台は共通の前提がなくなりテーマが細分化され小さな島宇宙に閉じ込められ不自由にならざるをえないとのことで、「メタであること」=「自由」ではないのではないかとのことでした。日常生活における動物的な部分のランダムな確率・偶然・事故のようなものがコミュニケーションに微細な変化を及ぼし「自由」へと繋がるのではということが話されました。


さらに、まさに確率的・偶然的に話が来たという、韓国・アメリカ訪問の話も聞けました。
東氏が韓国でサブカルの講演をしたら大半が女性で、日本の批評・社会学ポップカルチャーの言説においてジェンダーが偏ってしまっていることが長期的によくない効果がでるのではという危惧を憶えたとのことでした。

またアメリカでは日本のコンテキストが全くと言っていないほど共有されていないそうで、「嫌韓厨」が「日本のヤング・ジェネレーションはコリアン・バッシングをしている」と認識されているそうです。国内では作法が確立していてコンテキスト共有がなされていれば「ネタ」として享受され得ても、コンテキストを全く共有していない人が読む可能性が情報社会の中で飛躍的に高くなっていて誤解の連鎖が生じているとのことでした。学者同士や官僚同士の海外ネットワークではないオルタナティブな言論ネットワークが必要と主張されていました。

余談ですが、トークの途中で東氏の娘さんの汐音ちゃんが開場にいることが判明!講演中のパパに声援を送るべく(?)「あーあー」と仰ってました。開場から出るときにすれ違ったのですがとてもかわいらしいお子様でした。
今回のトークでは東氏の現在の考えが非常によくわかった気がしました。本を読んだつもりでもわかっていないことはたくさんあるのだと再認識させられてしまいました。


※要注:以上のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。

蓮實重彦とことん日本映画を語るVOL.13「祝祭のあとさき―60年代から70年代への視覚」参加

1950年代の「黄金時代」を経て、60年代は日本映画にとって「変化」と「衰退」の時代であったらしく、映画館の外では変革の時代であった60年代に映画の中では「抒情性への回帰」と「儀式化・美化への反動」の両方が現れていたとのこと。それを検証する作品が多数上映されました。

ファンの方々には大変申し訳ないのですが、今回のトークのように場面を部分的に見てしまうと、本来盛り上がってしかるべき討ち入りシーンでの北島三郎(『兄弟仁義・関東命知らず』)、菅原文太(『昭和残侠伝』)、高倉健(『緋牡丹博徒』)、鶴田浩二(『人生劇場・飛車角と吉良常』)の所作・言動が笑えてしまいました*1。そしてその後の鈴木清順監督の『東京流れ者』のシーンに至ってはもう笑う以外にないといった感じでした。
それにしても確かに寅さんは流れ流れるやくざ者という設定でしたが、ヤクザ映画の要素の結晶が『男はつらいよ』だったとは。その後それらの要素は徐々に巧妙に排除されていったとのことです。

*1:けっしてバカにしているわけではなく、観る文脈によって受け止め方が変わってしまうということです

杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』購入

フリーターにとって「自由」とは何かid:ueyamakzkさんより「よいのでぜひ」と紹介されたid:sugitasyunsukeさんでもある杉田俊介さんの『フリーターにとって「自由」とは何か』を三省堂で購入しました。

まる激トーク・オン・ディマンドの本・第3弾『ネット社会の未来像』が発売とのこと

僕も02年後半からずっと視聴しているビデオニュースドットコムの番組まる激トーク・オン・ディマンドの書籍版第3弾が春秋社から発売されるそうです。
第1弾は日本におけるメディアの状況と政治との関係を扱った『漂流するメディア政治』、第2弾は日本とアメリカの関係を扱った『アメリカン・ディストピア』、第3弾は『ネット社会の未来像』で「IT編」とのことで東浩紀氏、水越伸氏、西垣通氏、池田信夫氏がゲストの回をまとめたもののようです。
僕が思うに各回独立したテーマというよりは、第1弾のテーマは第2弾に継承されており、第3弾はおそらく前2回のテーマ―現代のメディアと政治の関係の上での日米関係と生活世界の米国化・グローバル化による入替可能性の増大―を継承した上での、まる激で扱ってきて深められたテーマによる「IT編」だと思われます。とても楽しみです。