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2012-04-10 記号論の再構築のために(3) このエントリーを含むブックマーク

namdoog2012-04-10

4 ソシュールの記号概念 

 彼による記号の分析は――この点はうっかりすると見過ごしがちだが――実に重大な含意を伴っている。

 第一に、彼の記号概念とともに、記号への指示論的アプローチからカテゴリー論的アプローチヘの転換が決定的に成就されたのである。第二に、この転換には、形而上学ないし世界観の更新が伴っていた。常識的実在論から内部存在論への更新である。どういうことか、しばらく説明を試みたい。

 ソシュールは、ジュネーブ大学における有名な講義で、現に流布している言語理解を「名称目録(nomenclature)観」と呼んで厳しく批判した。この批判は例えば次の遺稿にも読むことができる。「言語哲学者たちの考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせる。つまりアダムはさまざまな動物を傍らに呼んで、それぞれに名前をつけたという。それは事物の名称目録という考え方である。これによれば、まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」[frag. 3299]。

 ソシュールの論点をすこし敷衍してみよう。――『旧約聖書』の創世記の記載に従えば、万物を創造したのは神である。もちろん人間の祖であるアダムも、神が創り給うたのであった。アダムは神から言葉の能力を授けられているので、それを用いて、世界に見いだされるあらゆる存在者に、「これは「象」、あれは「馬」・‥」という具合に、ひとつひとつラベルとしての名称を貼っていく。このようにして、万物に名称が与えられることになったのだ。この神話の通りだとすると、言語は多数の名前のリスト、つまり「名称目録」だということになる。――こうソシュールは言うのである。

 厳密にいえば、言語にはモノの名称以外の要素が含まれることがある。例えば、日本語の格助詞「が」や英語の前置詞「on」が貼りつけられるはずのモノとは何だろうか。そんなモノがあるとは考えにくい。古代ギリシャの文法家はすでにこの種の要素を知っていた。言語学や論理学では、これらの要素を「共義的な」(syncategorematic)語と呼んでいる。つまり、それ自体では独立した意味をもたず、他の語と合わさって初めて意味を獲得するような語のことである。(他方、「名称目録」に含まれる名称=ラベルのような語はカテゴレマティック(categorematic)つまり「独義的な」[これは仮訳である]という。)

 しかしこの観察は必ずしも言語の名称目録説を排除しない。というのは、あらゆる言語が、それが誕生したばかりのとき、独義的要素のみで成り立っていたかもしれないからだ。幼児が最初に覚えることばがどうやら共義的ではないという観察がこうした仮定をもっともらしくしている。

 ソシュールは、もちろん神による万物の創造という論点は棚上げして、ただこの種の言語観における有意な存在論的含意だけに注目している。なによりも、言語の発動以前に世界にはあらゆる事物がすでに存在していた、という含意が重要だろう。換言するなら、名称目録観によれば、言語の主体からは独立に(「客観的に」)あらゆる存在者が実在することになる。これは、私たちが「常識的実在論」と呼んだ形而上学と同じものであって、ソシュールは記号観の革新をつうじてこの種の形而上学を覆したのである。

 とはいえ、ソシュールはこの場面でメタ記号的振る舞い(つまり記号学的言説の遂行)を適切におこなっていないきらいがある。遺稿断片にはこうあった、「……まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」。これだけ読むと摑みそこねてしまいがちな、記号に関する論点がじつはある。それは、記号の形而上学的身分の問題である。事物と記号の創造の順序の如何は問題にはならない。むしろ事物と記号の両方がいったん創造された後にそれらが並列される、という事態が重大なのである。言い換えれば、問題は事物と記号の存在論的並列であり、記号のモノ化にある。あるいは、これを言語に即して言うなら、言語要素(言語記号)がほかの存在者と並ぶある種の存在者にすぎないこと、これが問題なのだ。記号ないし言語(神話における「名称」)が事物の一種だとすると、アダムないし話す主体の役割は、ただ単にモノとしての名前とモノとを何らかの根拠によって対応させることにすぎなくなる。

 ソシュールが提起した記号概念は、伝統的・通俗的言語観を覆してしまった。言語記号はほかの事物と並ぶ別の事物ではあり得ない。言語はモノではない。それはむしろ、万物を差異化しつつそれとして生起せしめる能力(ランガージュ)のアスペクトにほかならない。換言すれば、言語記号は人間のカテゴリー化(categorization)の能力が現勢化するために欠かせない手段である。あるいは、言語はカテゴリー化の媒介要因なのだ。こうして、〈記号〉は何かを指示するモノであるのをさしおいて、原理的に(in principle)何かを意味するものとなったのである。

 ソシュールによれば、記号は一元的なモノではなく、記号表現(significant)と記号内容(signifié)の二元的構造体である。記号はいつでもいち早く二元性(dualité)の現象である。これにはただちに存在論の更新がしたがっていた。常識的実在論から内部存在論への転換である。記号がそれとは別の(記号外部の)対象を指示するものではない限りにおいて、いまや存在論的な意味であらゆるものは〈記号〉である。換言すれば、記号にとって「外部」なるものはない。――ここにソシュールの洞察の大きな意義がある(もちろんこれをどのように解釈すべきかという問いが残っている)。

 ところで、記号の二元性をソシュールはどのように展開しただろうか。そこに私たちは、彼の思索の危険きわまる足取りを認めざるを得ない。

 記号表現が記号の裏面をなすとすると、それは聴取された限りでの言語音、すなわち「聴覚像」(image acoustique)であり、「心理学的なもの」としてつまりは心的なものだと知られる。また記号の表面である記号内容は「概念」(concept)としてやはり何らか心的な存在者であると思える。こうして、ソシュール記号学が観念論に依拠するらしい気配は隠しようもない。

 しかし私たちが生きられた言語にどこまでも密着するとき、この種の観念論的言語学に違和感を覚えないだろうか。そもそもソシュール言語学のメンタリズム的側面はデカルト的二元論から派生したのではないだろうか。そのような進路を踏み惑うのではなく、ソシュールは自分で新たに拓いた内部存在論にどこまでも忠実であるべきではなかったか。

 もちろん「内部」や「外部」という言い方はさしあたり隠喩に過ぎない。しかしそれらは避けがたい「必然的隠喩」[スネル74]であろう。このことが事柄を困難にしている。そのうえ言語記号いや一般に記号は、いつでも何か質料的な担い手に乗ることによってしか存在者として実現されない。例えばそれは音響的出来事(空気=質料の振動)であったり、インクで描かれた図形(少量の顔料=質料)だったりする。

 ソシュールが遂行した記号への「カテゴリー論的アプローチ」は、〈記号〉のこの存在論的制約を無力化する方向でなされた。明らかにソシュール記号学は、全体として「観念論」あるいはメンタリズムの色彩をおびている。質料のもつ存在論的意義について、彼以降現在に至るまで、多くの言語学者や記号論者は頓着することがない。この先入主はソシュールに由来している。だが私たちは、内部存在論は質料の存在論的制約と両立するはずだと見なしている。 

 この制約は、ただ単に記号の物質的基盤を意味するものではない。なるほど、音声はある意味で空気の振動であり、文字はインクで記された図形である。しかし、〈言語〉ないし〈記号〉にとって質料性が条件だというのは、それらが必ず一定の物質的所産をもたらす身体の動きや働きであることを意味する。存在論の別のレベルからこれを言い換えれば、言語の本態は〈出来事〉ないし〈過程〉であり、記号とは〈記号過程〉(パース)なのである。このようにして、人間的事象としてしか言語や記号がありえないとすれば、言語の本態は〈身体の働き〉にほかならないことになる。メルロ=ポンティが解明したこの眼目を、ソシュール記号学は見失ったのではなかろうか。

[スネル 74] B. スネル著、新井靖一訳:精神の発見:ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究、創文社(1974).

一般言語学講義

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ソシュール小事典

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2012-03-31 記号論の再構築のために(2) このエントリーを含むブックマーク

namdoog2012-03-31

3 古典的記号論から現代的記号論への展開――ソシュール記号学の構想

 

 20世紀から現時点までの記号思想の展開を通観するとき、この間になされた探究の跡を大きく整理して、これを「古典的記号論から現代的記号論への展開」と捉えることができる。いまでは常識となっているように、20世紀において記号論を構築するのに力を尽くしたのは、ソシュール(F. de Saussure)とパース(C. S. Peirce)の二人であった。彼らの業績はまことに偉大でありその意義はいまだに汲みつくされてはいない。いま私たちが目にしている記号論はほぼ彼らの衣鉢を継いだ仕事だといっても過言ではないだろう。彼らの業績が「古典的記号論」に礎石を据えたのである。

 一般に、歴史的系譜に正統と異端があるように、記号論についても、異端の系譜がないわけではない。とはいえ、闇の暗さが光のかがやきによっていっそう暗くなるように、異端者がマジョリティをなす正統な者たちなしには生息しえないのは自明である。後に触れるはずのグッドマン記号論は、分析哲学の潮流に掉さすという意味ではパースの系譜に属しているが、分析哲学者の大半がきわめてテクニカルな概念操作にあけくれしている(いわゆる重箱の隅をつついている)のとは打って変わって、全体知を志向したその思索の構えにおいて異端者の面影がいろこい。

 だがグッドマンの哲学的営みを、パース哲学における本来の企図を復興するものと受け取るなら、彼こそがある意味で正統派の人物だと評することもできる。実際、古典時代の記号論を現代へと推し出しその現代化に大きく貢献した者の一人がグッドマンである点に疑いはない。

 記号論を現代に押し出した多くの異端者――そのかぎりで、逆説的だが、記号論の本来的正統派――のうち、認知言語学者たちの名も逸することができない。彼らの仕事には後ほど触れることになるだろう。しかも彼らは分析哲学の枠組みを踏み越えた大陸の哲学的伝統から意識的に学んでいる。具体的には、とりわけメルロ=ポンティの身体性の現象学が彼らの発想のひとつの源泉となっている。 これに加えて、彼らが明言しているように、身体性の現象学を彼らが受容した根本の動機に「伝統的な西洋哲学思想」の乗り越えがあったことを看過できない。――認知言語学者は自らが「異端者」だと自覚しているのである。

 以下において記号論の現代化を具体的に調べるその前に、私たちはまずソシュールの業績を考察しなくてはならない。なぜなら、ソシュールこそ、二つの伝統的記号観という問題を一身に引きうけ、そのうえで、言説の形態としての記号論が記号論でありうる機軸――記号における二元性の構造――を明確に打ち出すという、独自な業績をあげたからである。

 ソシュールの記号学探究における最大の功績は、実在論的記号観から内部存在論的記号観への転換を、周到な議論の裏打ちによって成し遂げたことだろう。ソシュール記号学の基本的概念をここで説明するのは時間の浪費と言われるかもしれない。記号論といえばつねにソシュールが引き合いにだされるのであってみれば、この疑念にはもっともなところがある。

 とはいえ、ソシュールの記号概念を明確に把握したうえでないと、「記号論」なるものを理論的言語の空間から除去できないゆえんは明らかにならない。記号論の「現代性」のひとつの意味は、それが現代においても「除去し得ない」(ineliminable)記号論だ、という点にある。それゆえ「古典的記号論から現代的記号論への展開」の真意を理解するためにも、ソシュールにおける記号観をしっかりと摑む必要がある[Saussure 71]。

 ソシュール記号学はホモ・ロクエンス(homo loquens 言葉を語る人間)の人間観を背景に誕生した。これは、人間は言葉を用いることにおいて、ほかの生物とは断然異なる独自な生き物だ、とする人間観にほかならない。この人間観は、〈理性〉に人間の証を認めるホモ・サピエンス(homo sapiens)の人間観の具体的形象だと評すこともできる。なぜなら、言葉を語る人は、必ずや「理性」の持ち主だからである。〈理性〉そのものは見えないが、その働きは、耳朶にふれ目に見える言語として実現されるのである。

 ギリシャ語のロゴスは言葉であり理性でもあった。こうして、ホモ・ロクエンスはそのままホモ・サピエンス(知性ある人間)である。――この種の人間観が収斂してゆくひとつの突出したかたち、それが20世紀におけるソシュール記号学だと解することもできる。そこには、現代的記号論への転換を仕掛ける重要な発見があると同時に、とうてい是認できない理論的逸脱――私たちが「言語中心主義」と呼ぶもの――もある。

 まずソシュールは人間について、彼らがランガージュ(langage)、つまり潜在的かつ普遍的な言語使用の能力――つまりは理性とりわけ概念化の能力を生得的に所有しているとみなした。次いで彼は、ランガージュが人間集団の場に顕在化した形態としてのラング(langue)を設定する。具体的に言えば、ラングとはおのおのの言語共同体で用いられている多様な「国語」のことである。(ただし、ラング=国語、なのではない。〈ラング〉という概念は、諸国語として現実化されるがそれ自体はいかなる国語でもありえない言語の様態をいう。)

 ラングヘのパースペクティヴは一様ではないので、ラングをさまざまな様態で捉えることができる。例えば〈行動〉という視点からは、ラングは〈話す主体〉(sujet parlant)がおこなう言語行動のパターンあるいは慣習行動とみなし得るだろう。またマクロな視点からは、ラングを話す主体のこころに組み込まれた(超個人的な)心的機序と捉えることもできる。また別の視点、例えば社会学的視点からは、ラングを社会制度と把握することもできる。いずれにせよ、ラングは一人称的なあり方を超えた「間主観的」存在者であり、そのようなものとして、ある種の「体系」(système)をなすのである。

 この体系が一人称的な場面で顕在化するとき――ラングはこの場合、アリストテレス形而上学の「潜在態」(デュナミス)としてある――パロル(parole)つまり個々の発話行為が生起する。ラングが超個人性、規則拘束性(この意味での「必然性」)などの性格を示すのに対して、パロルはつねに話す主体にかかわる偶然的属性を帯びているのだが、いまこの論点には深入りしない。――要約すると、ソシュール記号学においては、「言語」(「ことば」)という理論以前的存在者を、ランガージュ/ラング/パロルからなる系列として理論化する。この系列におけるある項はその左側の項が実現したものであり、この限りにおいて、左の項はその右の項の可能態にほかならない。

 ついでながら、三者が系列をなすことに間違えはないが、この系列を左から右への直線のように表象するよりも、むしろこの直線を垂直に立てたイメージをつくる方がソシュールの真意にふさわしい。全体としての「言語」とは、ランガージュを底辺に置き、その他の項をその上に積み上げてできた層状の構造なのである。

 ソシュールは、ラングの構成要素としての〈言語記号〉(signe linguistique)を設定した。これは全体としての発話をばらしていき、意味をなす最小単位にまで切り詰めたものである。この概念は、現代の一部の言語学者がいう語彙素(lexème)にほぼ相当するとしていいだろう。ただし厳密に言うなら、語彙素は理念的に設定された抽象物であって、例えば、walk、walks、walkingなどに通有する単位(このかぎりで、語彙素は「語根」(radical)にひとしい)であるが、ソシュールの「言語記号」には(この例でいえば)walk以下のそれぞれのアイテムが数え入れられる。こうして私たちは言語記号について最も重要な問いを問うことになる。――ソシュールは言語記号をどのような存在者と見なしたのか、言語記号の存在構造とはどのようなものか。

 周知のように、ソシュールは言語記号ひいては記号一般を二元性(dualité)の構造として捉えた。ソシュールは説明のために一枚の紙を例にもちだす。紙には表と裏がある。紙の表がひとつの次元をなすとするなら、その裏は明らかにそれとは別の次元をなす。しかもこの表と裏を切り離すことは不可能である。表裏はつねに一体として一枚の紙をつくりあげている。――この紙のように、言語記号もつねに二つの次元をそなえている。言語記号には、一面では記号表現(signifiant)、多面では記号内容(signifié)の両面がそなわり、しかも両者が一体をなしている。

 ソシュールは言語学を記号学の傘下にはいるそのひとつの学科として位置づけた。そのほかの記号学的学科として、彼は、聾唖者の使用するサイン、(例えば〈挨拶〉といった)儀礼行動、手旗信号などの研究に言及しているが、それらについて実際に考察を行っているわけではない。彼は基本的には言語探究者であった。しかしながら、ソシュールがこれまでの言語学者と決定的に違う点は、後者が(概して言えば)言語を他の種々の記号系とのかかわり抜きに研究してきたのに対して、ソシュールが、このかかわりの明確な自覚に立ちつつ、〈記号学的システムとしての言語〉を探究したことである。ジュネーブ講義で知られるソシュールの言語学はそのまま記号学だったと言っても過言ではない。

 言語記号の二元性という主張は、したがって、記号一般の二元性のテーゼに拡張しうるものとして提起されている点に留意が必要だろう。

 いま読者が読むことができる講義録によれば、言語記号についてソシュールは、その記号表現が〈聴覚像〉(image acoustique)、すなわち発話された記号の刺激(言語的音声)が聞き手にもたらした心理学的イメージに相当し、また記号内容が〈概念〉(concept)だと述べている。

 言語記号以外の記号の場合にも当然記号の二元性が記号の構造をつくっている。ソシュール自身はこの種の構造についてほとんど語ることがなかった。しかし読者にとって、彼が言語記号について述べていることからそれを記号一般へ類推をおよぼすのは容易ではなかろうか。例えば、紙面に記された漢字は〈記号〉にほかならない。目に視覚的刺激が与えられ最終的に頭のなかに(?)〈視覚像〉(image visuelle)という〈記号表現〉が成立し、これに漢字の意味(語義)が〈概念〉として裏打ちされている、といった具合である。

[Saussure 71]F. de Saussure著、小林英夫訳:一般言語学講義、岩波書店(1971).ソシュール研究としては、筆者には異論があるものの、丸山圭三郎:ソシュールの思想、岩波書店(1981)が我が国における基本的文献である。近年、ソシュール研究の高まりの結果として、講義録の新訳が試みられている。F. de Saussure著、ソシュール一般言語学講義―コンスタンタンのノート、影浦 峡・田中 久美子訳、東京大学出版会 (2007) はそのすぐれた一例である。

一般言語学講義

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ソシュールの思想

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2012-03-20 記号論の再構築のために (1) このエントリーを含むブックマーク

namdoog2012-03-20

記号論の再構築のために――問題と構図

 記号論(semiotics)とは何だろうか。歴史的な事実として見れば、記号論は、20世紀の初めに期せずして(だが真実は思想史的必然性によって)記号についての学(sémiologieないしsemiotic)を異口同音に提唱した二人の人物ソシュールとパースの業績が呼び起こした大きくて広範な反響――そのうねりのすべてのなかに具現されている。しかし理論的・概念的な視点から見るなら、〈記号論〉はいま再吟味(re-examination)と更新(renewal)の主題として人びとの目のまえにある。

 記号論の理論構成については、さまざまな意見がありうるだろう。とはいえ、それが文字どおり、記号に関する基礎的理論(the general philosophical study of signs and symbols)であることに、大方の異論はないだろう。もちろん細かく見るならば、記号論の全体としての構成は、ほかの学問と同じように、多次元にわたっている。例えば、記号論の体系を編成するために、基礎理論と応用理論、各種の領域的理論(例えば、音楽記号論、絵画の記号論、衣服の記号論など)、研究史等々に区分するやり方があり得るだろう。しかしここでは、もっぱら記号論の原理的問題だけに考察を絞り込みたい。とはいえ紙幅の制約のために、以下の議論が、せいぜいのところ、記号論再建のための方向性を概説するのに終始するのをお断りしておきたい。

1 教室での観察から 

 記号論にとって無視しようにもそうはできない原理的問題がある。なぜなら、この問いにたいする明らかな見解をもたないなら、そもそも記号論自体が成立し得ないからだ。これは記号論にとっての構成的問いにほかならない。

 記号論の構成的問いとは、言うまでもなく、「記号とは何か」という問い(これを短く「記号の問い」と呼ぼう)以外ではない。換言すれば、記号論は――記号の存在構造の解明であるかぎりでの――「記号の存在論」から開始されるべきものである。

 (どの学問でも事情は同じであるが)記号の存在論への手掛かりはすでに与えられている。「記号」について何がしかの理解をあらかじめ抱いていない人はいない。この理解が記号論への確実な礎石となる保証はどこにもないが、少なくとも考察の糸口として――そしてあくまでもただ糸口としてだけなら――大きな利益をもたらすだろう。解釈学派の指摘するように、「常識」――これは学問知から見れば「偏見」(Vorurteil;「先んじた判断」)とさえ言いうる――なしに学問知はあり得ない。ところで筆者は記号論の講義をいくどかおこなっているが、そうした場合、講義の初回には受講生に〈記号〉の例を挙げてもらうことにしている。

 彼らが好んで最初に挙げるのが、化学記号や代数の記号だ。そのほかに、以下のような例がずらりと並ぶことになる。文字、看板、ネオンサイン、交通標識、地図の記号、各種のロゴマーク、等々。

 意外にも彼らが忘れがちな例の一つに言語がある(この見落としの理由は何か。これは興味ある問題だが、いまは立ち入らない。一方、手話は見落とされることが比較的に少ない。これにはやはり意味があるだろう)。そして絵画が記号であることの理解を切っ掛けとして、矢継ぎ早に、ダンス、身振り、表情、写真、音楽、建築、彫刻などが、やはり記号の形態であることが理解される。さらには、さまざまな計器(例えば温度計)が記号としての機能をもつ点もただちに了解される。この作業はまだ続くのだが、ここでひとまず切り上げてもいいだろう。

 記号の問いへの常識的理解の核心は、これらの例から推定するに、記号が何らかの実物(real things)(世界に帰属する存在者)を代理するものである、という点にある。化学の教科書の記載の中で、元素記号のCuは、明らかに、銅なる金属の代わりに遣われている。同じことだが、この事態を、メタ言語を使用して「Cuは銅を代表する(意味する、指す、など)」と言い表すことができるだろう。この理解は、記号がどのような働きをするのかという問い(つまり〈記号機能〉の問い)にかかわるが、これは、冒頭に述べた記号の存在構造の一面を明らかに物語っている。つまり、記号とは何かという問いはおのずと記号の働きと結びつく。

 常識的理解には、これとは別の記号の存在構造にかかわる含意も伴っている。すなわち、何か存在者を代表するものとしての記号は、それ自身が世界に帰属する存在昔だという理解である。記号も実物なのである。こうして、テキストに印刷された元素記号は、あるパターンをそなえた少量のインクにほかならないし、ネオンサインは、ガラスや金属などから製造された物体である。

 以上に確かめた記号の二つの構造特徴から、世界についての一種の形而上学がおのずと従うだろう。それはやはり常識が抱いているある種の世界像にほかならない。すなわち、世界はもろもろの存在者――感覚できるものとできないものとを含めて――を容れた器のようなものなのだ。あるいは、世界は存在者の総体――その意昧でのユニヴァース――として、それを知覚する個々の人間からは独立に存立する「客観的な」リアリティである。こうした形而上学を、しばらく「常識的実在論」(commonsense realism)と呼ぶことにしたい。

 それは哲学史で「素朴実在論」(naive realism)と称されることのある形而上学とはいくつかの点で異なっている。第一に、素朴実在論者が、世界は感覚するとおりに存在すると「素朴に」確信しているとすれば、常識的実在論者はそんなうぶな見地を取らない。錯覚や幻覚が私たちをしばしば欺くことを知っているからだ。だから第二に、常識的実在論は、均一で同質的な構成物ではなく――パッチワークといえばやや大袈裟になるが――いくつかの異質な成分の継ぎはぎとしての理論である。一般に、これら成分の一部は認識主体の経験から、また他の一部は主体に授けられた教育に由来している。


2 せめぎあう二つの記号観 

 思想史を顧みるとき、記号の定義ないし本質規定として、真っ向からせめぎあう二つの見方があったのがわかる。初めに、いましがた確認した常識的実在論を土壌として育まれた記号観がある。これを「実在論的記号観」(RS)と呼ぼう。この記号観に従えば、

   (RS) 記号とは、ほかの何かを代表する何か(something that stands for something else)である。

 こうした記号観の表明を、例えばアウグスティヌス(Augustinus)や西洋中世の文獣にたどることができるだろう[Nöth 90]。こうした記号観がいかに常識に適っているかを、筆者は教室で確かめることができた。記号はそれ自身が何らかの存在者ないしモノないし実物であり、それがほかのモノを代表する(意味する、指す、など)とされる。すなわち、代表という機能(repre-senting) は(少なくとも)二項関係なのだ。そして歴史上、この関係を支えるのは、人びとの言語的慣習や因果関係だとされてきた。交通シグナルで赤ランプが「停止せよ」という命令を意味するのはなぜか。それは赤ランプの点灯がそうした命令だという規約(道路交通法)が定められているからである。またある種の発疹が麻疹(はしか)という病気を意味するのは、病気の本態と症状に因果関係があるからである。ともあれ、ここで確認しておくべき点は、<記号機能は関係である〉という理解にほかならない。

 ところで、思想史を顧みると、これと全く異質な記号理解がいまに伝承されてきた形跡も歴然としている。この理解の含意するものは、実在論的記号観よりむしろ貧しい。なぜなら、この見地は常識的実在論なる形而上学を引きずっていないからだ。すなわち、

   (ES) 記号とは、意味するところのもの(something that means)である。

 この見地をどんな名で呼んだらよいだろうか。形而上学の対比をいやがうえにも鮮明にするために、これを「内部存在論的記号観」(ES; endo-ontological view of signs and symbols)と称することにしよう。この種の見解の詳しい説明は後におこなうが、要するに、この種の記号観では――常識的実在論に反して――記号の外部の世界がリアルかどうかという問題に無頓着なのである。実在論的記号観でも、記号が意味をもつという事情に変わりはない。交通シグナルの赤信号が「停まれ」という命令を意味しているかぎり、どちらの記号観に従うにせよ、それは確かに記号である。

 残された問題は、後者の記号観の比較的に少ない概念的内包がどのような形而上学や記号観への基本的パースベクティヴを要求するか、それを闡明することだろう。

 記号を枚挙する際、従来ややもすれば見過ごされてきた記号のタイプがある。これはいくら強調しても強調し過ぎることがない事実である。一つには〈見本〉であり、さらには〈表情〉である。どちらのタイプも、実在論的記号観という独断のまどろみから私たちを覚醒させるインパクトを内に秘めている。見本や表情に二項関係が認められるだろうか。ここに、ある湖の水質を調査するためのサンプルがあるとせよ。湖の水質は湖水に含まれた種々の物質によって決まる。このサンプルはサンプル以外のモノを代表するわけではない。しかじかの水質、それはこのサンプルが具現している。あるいは怒りの表情。ある人物が眉をあげ、眺を決し、顔を紅潮させて怒りを顕にしているとする。怒りは現になされている身体的表出とは別のモノではない。そうではなく、しかじかの身体的表出がそのままある怒りを意味するのだ。

 ここで強調したいのは、実在論的記号観がこうした記号のタイプをうまく扱えないように思えるのに対して、内部存在論的記号観はわけなくこれらのタイプを受容するという点である。換言すれば、実在論的記号概念の外延は、内部存在論的記号概念のそれより狭い(この観察は、伝統的論理学における、概念の内包はその外延に反比例するという想念と折り合いがいい)。

 私見によれば、記号への根本的に異なるアプローチが二つの相克する記号観をもたらした。記号への指示論的アプローチ(referential approach)が実在論的記号観を生んだ[Benveniste 83]。 そして記号へのカテゴリー論的アプローチ(categorizing approach)が内部存在論的記号観を生んだのである。記号が何かと関係する、という観念が指示論的アプローチの奥底に横たわっている。また、存在者にラベルを貼り事物を分類するという想念が、カテゴリー論的アプローチの基底にある。おのおののアプローチは異なる形而上学、異なる意味論、異なる記号の存在論を要求するだろう。それぞれの差異を明確にすることも小論の目的の一つとなる。


*この文章は、『人工知能学会誌』、Vol.17, No.6 (2002年11月)に掲載された「現代記号論の構想」に、今回あらたに加筆してなったものである。書き加えた部分は表現の不適切さや言葉たらずを改善するためのものであり、原論文の主張や論旨にはまったく変更がない。原論文に筆者はいまでも格別の感懐をいだいている。それというのは、依頼され執筆した論文であるにもかかわらず、編集長がその論文で展開した筆者の議論に愚かで不当な横やりを入れてきたからである。過去の話となった今その経緯について詳しく述べることはしない。この機会に明言しておきたい点はただひとつ、原論文が打ち出したもろもろの論点が「人工知能」論者には理解の外にあったこと、それらはあたかも喉に刺さった棘のようなものだったという事実にほかならない。

[注]

[Nöth 90]しばしば、記号とは<alquid stat pro aliquo> だという定式が用いられた。W. Nöth、Handbook of Semiotics、lndiana University Press、 Bloomington and lndianapolis、 p.17(1990)

[Benveniste 83」この記号観の二別に注意を促したのは、バンヴェニスト(E. Benveniste)であった。E.Benveniste著、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』、みすず書房(1983)を参照。彼は、これら両様のアプローチに対応させて、記号一般を「意味論的記号」と「記号論的記号」に二分する。    (つづく)


Handbook of Semiotics (Advances in Semiotics)

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