松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

以下は

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060127#p2〜 「根津公子はパレスチナ人なのか?」 の続き です。
「時代遅れの旧左翼だから」(知らない振りをして無視しても良い)とされる根津公子に対し、彼女だって上野千鶴子とぱっと見似たような女教師じゃないかという論法で、両方を見る目の回復を訴えた。(ところで上野千鶴子上野千鶴子であるという理由で差別、無視しても良いと考える人たちもいる?)

 ただフェミ業界内部の文体〜思想しか持っておらず、それを支える膨大な世界や矛盾を、学説とかいう濾過された形でしか消化できないそのような自己のあり方に疑いを持たないで良いのか。

(2/4朝9時)

上野抗議問題・督促状と回答

http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html#notice
「公開質問状」に対する回答

 本事業は、東京都教育委員会の事業として国分寺市教育委員会に委託し、実施を計画していたものであり、東京都教育委員会は、同市が企画中の内容が「『ジェンダー・フリー』という用語の使用に関する東京都教育委員会の見解」を踏まえたものであるかどうかについて問い合わせたものです。
 東京都教育委員会は、国分寺市教育委員会が都の委託事業であることを考慮し実施しないこととしたものと理解しています。

【督促状】
2006年2月7日
【丸つき数字1】上野教授には、「当事者主権」をテーマに初回の基調講演を依頼しようとして同(05年)7月、市が都に講師料の相談をした。しかし都が難色を示し、事実上、講師の変更を迫られたという。(毎日新聞2006.1.10)
(略)(同上)

督促状が200行近くあるのに、回答は上記引用が全てである。この記述量の差に、権力を持つ者と持たない者との差異が表現されている。
(2/9追記)

「二項対立批判」とすべての抗議行動

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060130#p7
さて、上記で「閲覧者」さんに対し侮蔑的引用をしました。
 侮蔑するならするできちんと論点を挙げてしないと、された方も対応に困る、と思われたでしょう。確かにその通りなので、その点について「閲覧者」さんに対し謝罪します。*1
下記に再掲し批判します。

http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060124(コメント欄)

わたしのところにこの件に関するメーリングリストが届きました。この件に関するわたしの思いは、大野さまのプログとほぼ同意見でありながらも、署名することはできませんでした。それは石原慎太郎氏の政治的手段と上野先生の手段は同じ形式、つまり仮想敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式だからです。さらには言えば、石原=男根主義者対上野=フェミニズムという単純な二項対立においては、上野先生が女性の意見の代表/表象するということになります。これではいつまでたってもフェミニズム上野千鶴子という世間的なイメージは終らないでしょう。(略)
閲覧者 (2006-01-26 19:29)

(1)「上野先生の手段は同じ形式、つまり仮想敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式だからです。」
これは批判に成っているでしょうか。成っていないと思います。
(1−2)
「上野が仮想敵を作った」とは何のことでしょうか?今回の論点は「都教育庁上野千鶴子の講師依頼を拒否した」という法的事実への異議申し立てです。これを仮想ということはできない。
(1−3)
仮装敵は何処にいるのか?
実在の事実に対する抗議は、閲覧者さんの脳内で翻訳される。仮装敵とはそこの登場人物だ。
(1−4)
上野千鶴子東大教授の国分寺市「人権に関する講座」講師の拒否について、これを「言論・思想・学問の自由」への重大な侵害として抗議する」というのが抗議文だ。ここで「言論・思想・学問の自由」を〈大文字化〉する動きが起こっている、と感じたのかもしれない。しかし「抗議」を行うためには必ず何らかの上位審級に訴えることが必要になる。これを否定すれば、全ての「抗議」は不可能になる。
閲覧者さんの思想において、全ての「抗議」は不可能になる。そう言い切れると思うがどうだろう。
(1−5)
上野もしくは若桑は「仮想敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取っているだろうか。「故意的にアジる」というのは意味不明のフレーズだ。なぜなら故意的でなくアジることなどありえないのだから。閲覧者さんの偏見がにじみ出ているのか。若桑は運動を広げようとしているのだから、「故意的にアジる」のは当然である。「論理的矛盾及び弱点を批判する」というのは批判を行う最も上品な手法である。
したがってこのフレーズの後半は不可避のことを述べているにすぎない。
(1−6)結論として、
上野もしくは若桑が「仮想敵を創造し」ている事実はない。この点について反論があるならどうぞ!
(2)
「石原=男根主義者対上野=フェミニズムという単純な二項対立」について。
二項対立を作ったのは誰か? 契約についてトラブルが起こり、抗議運動が起こった。これは何処の職場でも起こりうる日常的事態である。抗議運動とは当然「敵を名指すこと」から始まる。それを「単純な二項対立」を作る理論的に不十分な奴と閲覧者さんは批判する。
社会に存在する様々な抵抗運動が言説を獲得すること自体に敵対している、ことになる。すべての抵抗運動に敵対する究極の“全体主義賛美”思想である。
(2−2)
閲覧者さんにそこまでの意図はないだろうから、これはわたしの誤読だろうか。しかしそうだとすれば「敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取らないで、どのような抵抗あるいは抗議ができるのか、是非教えて貰いたいものである。

*1:閲覧者さんの大野ブログへの2番目の書き込みを私は数日遅れて今日読みました。書き捨て的コメントではなかったことを改めて確認することができました。

連帯?

discourさんコメント欄より、自己引用。(なんかあんまりしたくないが、下との関連で)

# noharra 『discourさん toledさん 大野さん tnさん こんにちは。
>>「一致団結」を誘う言説こそ、女の中の権力関係を押しつぶしてしまう危険性をもつのではないか。
上をはじめとするdiscourさんの意見、冷静に考えると一理あるのですが、わたしは基本的には反発を感じます。具体的には大野さんのコメント欄の「閲覧者」さんに反発を感じました。
id:nohrraの1/30の最初に引用しましたが、説明不足なのでここで補足します。
今回の闘いによって、上野の特権性は強化されるのでしょうか。
3月末に任期更新されない数多くの女性非常勤講師の闘いにホンの少しでも連帯することになるのは、上野が今戦うことなのか、戦わないことなのか?私は前者だと思います。
(なお、わたしはdiscourさんとtoledさんのいつもの言説に尊敬を持っているものです。)』 (2006/01/31 20:31)
(2/4 12時追加)

大野さんへ・1「自分の権利侵害に対して」

http://d.hatena.ne.jp/discour/20060125 コメント欄への(2006/02/01 05:52)大野さん書き込みへの応答。

大野さん
discourさんのコメント欄でご挨拶いただいたのにお返事が遅れてすみません。

 ただこうも思います。女性学の権威と目される上野さんが行動され、署名運動が起こり、それに多くの研究者や関係者の方々が賛同の意を表するという今回の動きが、どこまで広範な人に訴えかけられるのか。「またフェミが細かいことで騒いでいる」というベタな印象を払拭して、「運動」がどこまで効力を発揮できるのか。

 そうですね。わたしと、今回の動きとの接点はごくわずかなのでよく分かりません。ただわたしの感覚で言うと、上野さんが他人の権利侵害に対してではなく、自分の権利侵害に対して闘い始めたと言う点は高く評価できると思います。「表象=代行批判」とは「批判して何もしない」ことを意味するのではなく、「被支援者−支援者」の落差を自らが当事者に成ることにより乗り越えることであるべきだからです(唯一の方法ではないでしょうが)。

 抗議文でもジェンダーの定義をしジェンダー・フリーについても説明していますが、ジェンダーは、自分自身の問題としてリアリティをもって捉える体験がない限り、頭で理解できるものではないと思います。大袈裟に言うと身を切られるような実体験と共に感じるものであって、そこからしか入り口はない。

 これはおっしゃるとおりだと思います。わたしは女性ではなく差別された体験もあまりありません。ただ自己を(マジョリティとして)肯定する気配みたいな物が嫌いで、フェミニズムなどにも興味を持っているだけです。


 いままでフェミこんなふうに敗北してきた、だからこれからはこうした戦い方では駄目だというのならわかりやすいですが、貴ブログコメント欄ではそうした議論はなかったようですね。きよたさんの言われる、フェミニズムが「自ら作った壁」とは何か、あのコメント欄の文章からは私には読みとれませんでした。
 わたしの主要な関心は「閲覧者さんの文章(思想)において、“全ての「抗議」は不可能になる。”」かどうかにあるので、話がもう一つかみ合いませんね。
(2/4 12時追加)

大野さんへ・3http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c21

http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c23
 Ohno blog(2006-01-26)コメント欄での大野さん発言への応答。(そちらへも書き込みました。

というわけでやっと次に、- 大野さん (2006-02-03 21:32)および- 大野さん (2006-02-05 00:33) への応答に入ります。

ただ、わたしが丁寧すぎるほど丁寧に説明した「「敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取らないで、どのような抵抗あるいは抗議ができるのか?」という点については明確な回答はありませんでした。しかしおそらく、大野さんはフェミニズムは抗議の思想であり「敵を創造しアジる」云々ということはありうべきことだと思っておられるようだ。私が聞きたかったことはそこなので、根本では食い違いがない、と感じることができた。
以下いくつかの点について書いてみます。

(3)しかしnoharraさんは、閲覧者さんの言葉を今回の件についてのコメントと看做して読解されていますので、批判が的を外しているように思われます。

...かなり無理をしないとそうした読み方はできない。「「石原慎太郎氏の政治的手段と上野先生の手段は同じ形式」というフレーズが出てくるのは、「わたしのところにこの件に関するメーリングリストが届きました。この件に関するわたしの思いは、大野さまのプログとほぼ同意見でありながらも、署名することはできませんでした。」という文の直後である。つまり「仮想敵を創造し」云々という形式をもつ呼びかけだから、呼びかけには応えなかったと明確に述べている。この点で誤読の余地はない。彼/女の本心がどうだったのかについてはわたしは議論するつもりはない。むしろ、彼/女があることを語ろうとして発した言説(packet〔ネットワークを流れるデータの単位〕みたいな感じ)が彼/女の本心とはむしろ乖離して、あらゆる抗議の不毛性を確認してしまうものになっていることを問題にしているのです。
...したがって、下記の大野さんの発言は的はずれです。

(3−2)閲覧者さんの言葉を「社会に存在する様々な抵抗運動が言説を獲得すること自体に敵対している」と決めつけるのは、閲覧者さんが明らかにフェミニストであることを無視した発言です。

(3−3)そもそも二項対立でなかったら、なぜ「全体主義」にならねばならないのかわかりません。一項対複数項、二項対立対一項などいろいろあるはずです。

...「敵を創造し、故意的にアジる」抗議一般を否定してしまっては、抗議ができない社会になってしまうと言っているだけです。

(4)これまでの石原言説と上野言説には、(思想的にはまったく異なるものの)「形式」として相同性があるという指摘だと思います。

...これまでの上野言説とは一体何を指しているのか、というよりも上野言説なり思想をあげつらう必要のある場面なのでしょうか? 「上野千鶴子の講師依頼を拒否」問題について、普段の思想が悪いからだ、というのは普段の行いが悪いからだというのと何処が違うのでしょう。

(5) 閲覧者さんのコメントの論点は、今回の件が「単純な二項対立」を作り出し、それによってフェミニズムがいつまでも上野千鶴子に代表され(ているように一般には映り)、その見飽きた構図にみんながうんざりする、こういうのは何とかならないものか‥‥ということではないかと思います。

...「今回の件が「単純な二項対立」を作り出した」のかどうか?が論点ですね。
...少なくともtummygirlさん,noharra,discourさん,鈴木薫さんたちにtnさんが絡んで繰り広げられたものは「単純な二項対立」の正反対の混乱に近い物だったんですがね。またフェミたちが内紛して云々というのはそれを回収する事後の言説にすぎません。

...http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060203#p3「以下は」について。フェミ業界云々は、大野ブログコメント欄での議論の批判または揶揄したものではありません。「根津公子はパレスチナ人なのか?」というトンチンカンなタイトルを持つ文章と閲覧者さん批判が、私のなかでは深いつながりを持っていることを、書き留めておきたかっただけです。

(6)上野先生が女性の意見の代表/表象するということになります。(閲覧者)

...代表/表象批判というテーマを真面目に考えた発言とは思えません。別の所でも書いたように、「表象=代行批判」とは「批判して何もしない」ことを意味するのではなく、「被支援者−支援者」の落差を自らが当事者に成ることにより乗り越えることであるべきだ。という理路をどこまでふまえて発言しているのか。今回の事件において、上野は女性の意見の代表でもなんでもなく、女性の立場に立った場合不可避的に訪れるテーマを面倒でも引き受けることにしただけでしょう。
...代表/表象批判については、谷川雁から全共闘を通って上野千鶴子へという構図を描くこともできます。女性学年報を創刊したとき上野が「私は誰も代表しない」云々といった台詞を書き付けたことを記憶している人も多いでしょう。

「(4)これまでの石原言説と上野言説には、(思想的にはまったく異なるものの)「形式」として相同性がある」
...結局のところ上記が私には何を言っているのか分かりません。「ファルス」という難解な魔法言葉に自分でだまされているだけではないのですか。しかしながら、上野がファルスなのは、フェミ業界の人にとってだけですから!残念!

以上、長くなっってしまいました。やはり攻撃的に書いてしまいました。すみません。
大野さま、閲覧者さま、他のみなさま へ。(野原燐)
2月5日20.28

大野さんへ・4

http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c33
-
(2006-02-08 20:17)

大野さま 丁寧な応答ありがとうございます。

・・最初に、誤植(のようなもの)訂正。
「また彼女の問題意識がフェミ業界の内部事情にある以上」について。「彼女」とは閲覧者さんのことでではなく大野さんのことを意図しました。まずい文章でごめんなさい。で内部事情ではなく、上野がフェミを表象代行する結果になること、への危機感が大野さんの一つの関心軸ですね。

で何度もいうが。
(2−2)「敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取らないで、どのような抵抗あるいは抗議ができるのか?、と言えばできない。したがって抗議者の主張が、権力者の主張と二項対立の図式を描いているという批判は、あまりに一般的であり、すべての抗議行動を抑圧する危険性があるという理由で避けるべきである。
というのがわたしの主張である。

しかし、それがなぜただちに、閲覧者さんの「思想(文章)」について「全ての「抗議」は不可能になる」「争うこと自体を全面的に忌避することに帰結する」と断言(私から見ると言葉尻をとらえた拡大解釈)することになってしまうのか、わかりません。

...ですからそう言うのであれば当然、「「敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取らないで、どのような抵抗あるいは抗議ができるのか、是非教えて貰いたい」に答えるべきでしょう。

(2−2−2)
わたしが丁寧すぎるほど丁寧に説明した「「敵を創造し、故意的にアジるもしくは論理的矛盾及び弱点を批判するという形式」を取らないで、どのような抵抗あるいは抗議ができるのか?」という点については明確な回答はありませんでした。

そんな難しいことについて明確な回答ができたら誰も苦労はしません。これについては前にも、ここの議論で出たと、宮田さんの御発言に触れて書きました。

...あれ、この点についていままではわたしの意見にほぼ同意してもらっているのだと思っていた。前にも書いた、だって。ふむ。どこに?...なんだ。「こうした戦い方」って運動のスタイルの話じゃないですか。宮田さんの言葉では「抗議形態」。そんな話はしていないでしょ。わたしのメインの論点は一つだけなのだからしっかり対応してください。

4)

上野言説なり思想をあげつらう必要のある場面なのでしょうか?

それこそ言論の自由でしょう? どうして異論を書いてはいけないのですか? 「必要」がある場面かそうでないか、誰が一律に決められるのですか? 抗議すべき事態が起こっているんだから、抗議者の言説手段(思想まであげつらってないとです)について云々する必要はない、なんていうことはありません。

...抗議者の(普段の)言説手段について云々する必要はない、と思いますよ。
抗議という活動に関わる上では、(例えば)“あの娘はどうせ不良だから”云々といった過去のイメージを、抗議するかしないかというまさにその局面で口にするのは妥当な態度とは言えません。抗議が正当かどうかという問いから身をそらし論点をズラす態度だからです。
それとも「自己を無条件に正当化し(できると信じ)相手を頭ごなしに否定したり揶揄する言説を発してきた」というスタイルを、上野あるいは若桑などの抗議文において指摘できるのですか?

今回の事件において、上野は女性の意見の代表でもなんでもなく、女性の立場に立った場合不可避的に訪れるテーマを面倒でも引き受けることにしただけでしょう。

当人にとってはそうでしょう、というかそうするしかないはずです。

...上野の思想において今回の抗議は必然的な物だ、という理解は間違っていると思います。現実においては多種多様な抑圧や罠が不意に襲いかかってくるわけで“さすがの上野さん”であってもそれら全てと戦えると考えることはできない。ましてや彼女の思想においては当然戦うという帰結しかないという理解は間違いです。

今そんなこと言っている場面か?という"正義の言葉"で、うまく言葉にするのは難しい違和感をとるに足らないものだとしたり、言葉を捉えてまるで「敵」のごとく看做したりするような言説は、言わんとするところが正しくても引かれてしまうと思います。

...わたしは"正義の言葉"は一言もしゃべってないですよ。

2/1の記事のコメント欄でのTORさんのような意見も出てくるのです(ぜひお読み下さい>野原さん)。

...読みましたが、どこが「ぜひ」なのか分かりませんでした。

大野さんへ・5

http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c34

  • (2006-02-08 20:31)

(追加 一点だけ)

閲覧者さんが言っているのは、今回の件で「上野先生が女性の意見の代表/表象する」イメージが強固になるということです。(大野)

...閲覧者さんと大野さんはそう思ったということですね。だがいったい今回の件とは何なのですか、これで終わりのなのですかそれとも裁判でも起こして何年も続くのですか?「今回の件」が今後展開し大きくなっていくのかどうかも何も分からない状態で、帰結するイメージのイメージだけがちゃんと抱けるというのは、それが事態の分析ではなく閲覧者さん自身の思いこみに由来していることを意味している、と思えます。

大野さんへ・6

「野原さん、敵を創造してますね。」
と言われてしまった。
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c37

閲覧者さんだけではありません。その発言を受けてレスした最低二人は、共通したイメージを持っています。(大野)
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060126#c36

...それがどうかしましたか。「共通したイメージ」に依拠することは「世間」に依拠することと同じであり議論としては失格ですね。

その署名できなかった気持ちというのは、(きよたさんの言葉を借りれば)フェミニズム全体、知識人全体の閉塞感を感じるところから来ているのであろうと思われました。それが、ここでの議論者に共有されている一種やりきれない感情です。(大野)

...そんなことは最初から分かっています。その上で、あなた方のおしゃべりは、“閉塞という自己=アプリオリ”を反復しているだけだ。したがって現実の諍いに原理的に触れ得ない。と指摘したいのです。


野原さんの中に、常に「これは抵抗の言説(味方)か、そうでない(敵)か」をチェックする機構が働いていて、たまたま閲覧者さんの数行に反応してしまった、そしてここぞとばかりに「敵」を攻撃した‥‥私は当初から、そういう感じを強く受けました。一連の御発言を読んで、ますますそう感じています。

すべての抵抗はむなしい、という自分の思いを、インテリは常に婉曲に(それが一般的に正しいかのように)表現してしまいがちです。しかしそれは「すべての抵抗を抑圧する」というベクトルに翼賛する物であることは確かでしょう。少なくとも野原の言っていることは一理あるのに、誰も大きな声で主張してこなかった。大野さん、世間はあなたの味方なのだから、TB拒否とかいわないでくださいね。

そうした振る舞いがなぜ起こったのかを、(相手を論難するばかりじゃなくて)内省的に考えてみられたらいかがでしょうか。 「「誤読」によって発生したわたしへの「疑問」は、わたしが応答するよりも、ご本人がその答えを見つけ、答える問題だと思われます」と閲覧者さんが言われているのは、そういう意味でしょ。‥‥なんでいちいち解説しないと理解されないんですか。

・・・

タイトルの訂正

2月3日(今日)と20060203#p1(上から二つ目)の両方のタイトルを、「二項対立批判は全体主義擁護?」から、“「二項対立批判」とすべての抗議行動”に訂正します。
 大野さんからの批判もあり、必要以上の攻撃性は不要かもしれないと思い直したためです。(2/5 11時47分)

君子は争うところなし。

子曰。君子無所爭。必也射乎。揖讓而升。下而飮。其爭也君子。
子曰く、君子は争うところなし。必ずや射(しゃ)か。揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り、下(くだ)りて飲む。その争いや君子なり。
(03-07)
* 揖譲(ゆうじょう)して升(のぼ)り、下(くだ)りて飲む … 新注の訓み方。なお、『儀礼』の鄭玄の注では「揖讓而升下」で句切っているので、「揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而(しこう)して飲ましむ」と訓むこともできる。
http://kanbun.info/keibu/rongo03.html  論語:八佾第三(Web漢文大系)

さて君子は争うべきではないのか。そんなことはなかろう。

顔淵編に克己復礼という言葉があるが、己に克って礼に復(かえ)るということも、結局一つの争いである。(略)されば徳を修めて立派な人になろうとするには、始終争いを避けるわけにはゆかぬ。(渋沢栄一論語講義』二松学舎大学出版部)p109

克己復礼という目的が正しいかどうかは分からないが、一般に自己の完成を目指す思想においては始終争いを避けるわけにはいかない。ましてや正義というようなことを考えるとなおさらだ。
「君子と雖も正々堂々の争いは絶対にこれをなさずといふべからず。(同上)p108」

 これを要するに、我が正しきを他より曲げんとするもの、我が信ずる所を外より屈せんとする者あらば、断々乎としてこれと争ふと同時に、一面気永く時期の到来を待つ忍耐もなければならぬ。(同上p112)

 というわけで、論語には確かに「君子は争うところなし」と書いてあるが、絶対に争うな!という教えでもなかろうという、当たり前と言えばこれ以上当たり前のことはない話です。
 えーと、突然論語を引用したのはたまたま渋沢栄一の分厚い本を図書館から借りてきて読み始めていたという以外に他意はありません。
 で、落ち着いて考えてみても、「争うこと自体を全面的に忌避することに帰結する思想ではないか?、上記閲覧者さんの数行が」という疑問は消えません。
(2/4朝5時)
(ちなみに、仁斎は「他人と争う人はみな小人で、不仁、不礼の極である」という意見。p84日本の名著)

《絶望感》

 中島*1は、『ブギーポップ』や時雨沢恵一キノの旅』を前にして、読み手&書き手の《無力感》《絶望感》に思いを馳せる。そして、複雑で情報過多な社会に適応すべく「シングルタスクのシンプルな思考形式」を選び取ることで乗り切ろうとしているのではないか、と考える。
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050415/p1 博物士 - ポストライトノベルの時代へ

 息子が必死に読んでいた『キノの旅』というのを読んでみてかなり感心した覚えがある。透徹した《絶望感》を美しく定着させている。全然関係ないが、私が批判しようとしている「閲覧者」さんの根拠にもこうした《無力感》《絶望感》があるのかもしれない。しかしそうだとすれば、既成の言説に安易に依拠しすぎだろう。
(2/5朝7時追加)

タブーは存在するのか?

現在の我々にとって、いちばん大きなタブーとは何か?と考えると、それはこの「理想」なのではないかと思う。

筋を通す、何かを貫くことによって、自分の自由や権利が侵害され、「迷惑をかけられる」ことが、現在の我々にとって、もっとも嫌悪するところになっている。だから、「意味」や「理想」を追求することは危険であり、悪なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20060206#p1 ぼうふら漂遊日記

 文脈を無視した強引な引用になるが、上記渋沢栄一の「これを要するに、我が正しきを他より曲げんとするもの、・・・、一面気永く時期の到来を待つ忍耐もなければならぬ。」という〈待つ〉という戦略も、また現在の我々には存しない。私が正義であると考えることが、「天」と私との直結によって保証されているのであれば、十年や二〇年待つことは十分可能であるはずである。
(2月7日朝追加)