第50回有馬記念

クリスマスの今日、中山競馬場で第50回グランプリ・有馬記念G1(芝2500m)が行われた。何といっても今年牡馬クラッシック無敗3冠馬ディープインパクトが無敗で有馬記念を制覇するか注目の的だったが、残念なことに直線で優勝した4番人気、ハーツクライを差し切ることが出来ず2着に惜敗。無敗での有馬記念制覇はならなかった。3着はリンカーン。2番人気のゼンノロブロイは8着。3番人気デルタブルースは11着に沈んだ。
21年前の1984(昭和59)年に日本で初めての無敗で3冠馬となったシンボリルドルフが成し得なかった夢・・・。それが無敗での有馬記念制覇だった。シンボリルドルフ菊花賞後に挑んだジャパンカップで、大逃げを打ったカツラギエースの前にまさかの3着と完敗。その時、連勝は『8』で止まり、有馬記念ではカツラギエースに借りを返して4冠馬となったものの、冠は外されてしまった。
競馬史上の名馬と謳われたシンボリルドルフを超える、無キズ3冠馬による無キズでの有馬記念制覇。50年、いや100年に一度あるかないかのステージに無敗3冠馬ディープインパクトが挑んだのだか・・・。残念ながら先に記したとおり2着に敗れ4冠馬にはならなかった。然も馬券も見事に外れたし(笑)ウィンズに来ていた人々の溜息が印象的だった。

有馬記念G1】
1931(昭和31)年に創設された『中山グランプリ』が前身。当時の理事長であった有馬頼寧氏が、中山競馬場新スタンド竣工を機に、暮れの中山競馬にも日本ダービーに匹敵する大レースを提案し創設された。ところが、第1回開催後の翌32年1月9日、創設者である有馬理事長が急逝したため、同氏の功績を称え、競馬の発展に尽力した同氏の名前をとり、有馬記念と改称された。以来、暮れの風物詩として親しまれ、幾多の名馬が名勝負を展開し今日に至っている。出走馬がファン投票で選出される。ファン投票で出走馬が決定されるのは宝塚記念(G1)と本競走のみで、ファンの皆様の手によって出走馬を選び、より一層競馬に親しみを持って頂けるようなレースにするという趣旨のもと行われている。

前代未聞

フィギュアスケートトリノ五輪代表最終選考会を兼ねた全日本選手権第2日(24日、東京・代々木第1体育館)でコンピューターの採点プログラミングの不備を理由に優勝者の表彰式終了後に1、2位の選手が入れ替わるという前代未聞の大失態が起きた。
男子フリー演技終了時は織田信成選手(18)=関大1年=が優勝と認定されたが、その後に織田選手の演技の減点部分が採点で引かれていなかったことが判明。織田選手から7.4点が減点され1位と2位が入れ替わり、高橋大輔選手(19)=関大2年=が優勝となった。来年2月のトリノ冬季五輪男子代表「1枠」は高橋選手で確実になったが、あまりに後味の悪い結末となった。
根本的なミスの原因はプログラミングではなく、採点システムの更新を不要と判断した日本スケート連盟と、ジャンプの回数を見落とした技術役員の人為的ミスによるもの。
今回問題となったのは織田選手の3回転ジャンプ。国際スケート連盟(ISU)では「3回転ジャンプは2種類2回まで」と定めており、織田選手は3回転ジャンプを3種類2回ずつ跳んだため、本来、最後に跳んだ3回転ジャンプは採点の対象外となる。従って国際スケート連盟(ISU)が使用しているコンピューターは、このような場合、自動的にこのジャンプを採点の対象外とするが、日本スケート連盟はそのようなケースを想定せず、コンピューターに同様の機能を持たせていなかった。仮に、こういった事態が起きた場合、「計算前に誰かが気づくだろう」との思い込みにも立っていたようで、国際スケート連盟(ISU)のコンピューターを導入しない背景を、日本スケート連盟の小野長久フィギュア部長は「高額で、英語表示のため、日本国内では使いにくい」ためと説明したが、日本で使うコンピューターも当然同じものにしておく必要があったはずで、日本スケート連盟の釈明は単なる苦しい言い訳に過ぎない。更に採点のチェック役のテクニカルコントローラー城田憲子フィギュア強化部長)が減点を見落とした。日本スケート連盟の見通しの甘さ、採点段階でのチェックを怠り、まさに人為的なミスにより、起こった“悲劇”としか言いようがない。
小野同委員長は会見を開き「大変に遺憾で心からおわびしたい。織田選手にも、高橋選手にも申し訳ないことをした」と謝罪しているが、全日本優勝、更に4年に1度の五輪代表が掛かる大事な試合での日本スケート連盟のミスは、選手の人生を左右しかねない上、逆転裁定を聞いて泣き崩れたという織田選手の心の傷は一生消えまい。五輪出場を掛けた大一番での日本スケート連盟が犯した罪はあまりに重い。全員、腹を切って償え!!って言いたい。

王様

25日付のサンスポに面白い記事が出ていた。読んで見るとなるほどと納得出来る内容だったので一寸紹介しますね。
清原和博中村紀洋両選手の入団で『計り知れない相乗効果』が期待されるオリックスバッファローズだが、両選手の獲得が吉と出るか凶と出るかと問われれば、凶と出るだろうと記事を書いた記者は予測している。理由は、2人共『王様』だからだそうで、清原選手は西武、巨人で、中村選手は近鉄で言わずと知れた王様だったからとのこと。王様はスターで頼りになる一方で自己中心的で、組織の和を乱すこともしばしばあり、王様でいる間は多少の我が儘も許されたし、プレッシャーなどの重圧を撥ね退け、チームも救ってきた。然しどの世界でも王様は1人しか存在しないと。
王様はその存在から子分が出来る。私生活など共にすることで学ぶこともあるだけに、徒党を組むことを一概に批判は出来ないが、大きな派閥が2つ出来ればチームは分解する可能性がありチームは機能しなくなると警告している。
中村選手は兎も角、巨人時代、番長と言われた清原選手を中村勝広監督が如何コントロールするかに依り来シーズンのオリックスバッファローズの運命が決まってしまうことだろう。既に客寄せパンダ的な所もチラホラと出てきている清原選手。
ボロボロになるまで(野球を)やると言っている清原選手だが多少なりのプライドを捨てて(野球を)やらなければ・・・後がないでしょう。王様は周りから認められなくなったら横綱と同じで去るしかないのだから。

清原和博】1967(昭和42)年8月18日生。大阪府岸和田市出身。プロ野球選手。
PL学園高校時代巨人・桑田投手とK・Kコンビで1年夏から甲子園に5季連続出場。
在学中に夏:優勝2回、準優勝1回。春: 準優勝1回。
◎西武時代の1986年から1988年までと1990年から1994年までに8度のリーグ優勝。
6度の日本一(1986年〜1988年、1990年〜1992年)に貢献。
◎1986年、1988年は優秀選手に、1993年、1994年は敢闘賞に選ばれる。
・1985(昭和60)年、PL学園からドラフト1位で西武ライオンズに入団。
・1986(昭和61)年、ルーキーながら31本のホームランを放って新人本塁打記録の
最多タイを記録、新人王を獲得。
・1996(平成8)年、FA宣言をして念願の讀賣ジャイアンツに移籍。
・2004(平成16)年、史上31人目の2000本安打を達成。
・2005(平成17)年 広島東洋カープ戦でホームランを打ち通算500号を達成。
史上8人目の快挙。オリックスバファローズに移籍。
<通算成績・2005年シーズン終了時>
•試合 2153(歴代13位)
•打率 .273
•安打 2073
本塁打 514(歴代5位)
•打点 1491
•盗塁 59
•犠打 5
犠飛 65
•四球 1307
死球 195(歴代1位)
•三振 1861(歴代1位)