Guangzhou Letters 広州通信

2007-10-08

[]新しいブログ

一年以上も更新が止まっていた広州通信ですが、以下のURLで名前も変えて再出発しました。近々、文芸批評家青木純一さんも加わる予定です。どうぞよろしく。

new sights.com

2006-09-13

[]大江健三郎との一夜

作家大江健三郎氏とお会いすることができた。会ったといってしまっては大げさで、大江氏の姿に接することができたというべきかもしれない。僕はまぢかの大江氏の姿をうっとりと見つめ、その言葉のひとつひとつにうなずく(二言、三言だけ言葉を交わした)だけだった。それでも、大江健三郎は僕にとっては特別な作家である。おそらく、一生忘れられない記憶になると思う。

この週末、北京へ出かけたのは,11日に社会科学院でひらかれる大江健三郎を巡るシンポジウムを聴くためだった。二日ほど早く北京入りしていた僕は、10日の夜に、大学院での師匠であり、このシンポジウムにメインスピーカーとして参加する小森陽一先生を空港まで迎えにいった。その後、先生の部屋で社会科学院の先生と飲んでいると、許先生という方が、いま大江さんが食事からもどって、小森先生を部屋で待っていると伝えにきた。そこで、僕たちは大江氏の部屋に移動することになった。

個人的なことがらなので詳しくは書かないけど、その晩、大江さんはある小事件のために、たいへん幸福な状態にあったらしい。僕たちの前で、彼は笑い、はしゃいでいた。でも何よりも、自分のなかの幸福感にゆったりと沈んでいこうとしているようだった。それは、一年間希みつづけた玩具を、クリスマスの朝に発見した、幼い、内気なこどものようだった。

僕は大江健三郎という作家を作品を通してしか知らない。つまり、彼が社会的にどういう性格の持ち主なのか知らない。だけど、彼が驚くほど無防備で、開けっぴろげな一面を持っていることは確かだと思う。この晩の大江氏は、彼の作品にとって大切な言葉であるinnocenseを確かに体現しているように思われた。

通常はメランコリックであることで知られる作家が、この晩、例外的にたたえていた幸福感は、見ている僕らの方までも幸せにした。そして、今後僕が大江文学について考えるとき、僕はまずこの晩のことを思い出すだろうということ、二十年か三十年がたって、僕自身が年老いたとき、二十世紀の偉大な作家について語りながら、やはり微笑むのだろうと思って、なんとも愉快な気持ちになったのだった。

2006-09-07

[]帰中しました

9月3日に広州に帰ってきました。いろいろドタバタイベントがあって、ようやく一息ついたところ。といっても、今週末からまた4日ほど北京にいってきます。

[]インディーズメディアの可能性とレバノン映画

友人で文芸批評家青木純一さんが、メールマガジンの発行をはじめた。アート系と文学評論のふたつを軸に、週一二回のペースでつづけていくつもりだそうだ。青木さんの危機意識、つまり、これから文芸批評のようなものは、ますますマーケットを失い、流通ルートも細っていくだろうという見通しを当然僕も共有する。しかしこれは考えようであって、既存のメディアから脱落しつつあるジャンルだからこそ、インディーズで自由にやれるはずだともいえる。青木さんはその可能性をメルマガにみているというわけだろう。実際、若手の作家批評家(のたまご)は、ネットでどんな展開や実験ができるかどんどん試してみるべきだと思う。

武熊健太郎がいうように

たとえば浜崎あゆみのようなマス・マーケットを相手にするミュージシャンなら現行のシステムは有利に働くけど、インディーズ系アーティストの場合は中間業者は単なる搾取構造に過ぎず、著作権はすべて自己管理したうえで、ネットで作者が直接販売したほうが収益を含めてはるかにメリットがあるのだ、と平沢さん(P-model平沢進)はおっしゃっているのですね。農作物の産地直送販売と同じことなわけです。(たけくまメモ

青木さんのメルマガはこちらから登録できる。すでに第一号が配信されています(バックナンバー閲覧可)。

で、肝心の内容だけど、かなりおもしろい

第一号では、レバノン発の幾つかの短編映画について書いているのだけど、それらが見たくて矢も盾もたまらなくなってしまった。特に中心になっているのはラビア・ムルエという監督の「FaceA/FaceB」と、「魂と血をもって」というふたつの作品。くわしくは青木純一に直接語ってもらおう。

「魂と血をもって」では、その後、えらくぼやけたデモの写真の中からムルエが自分の姿

を探し出そうとする過程が延々と続きます。左下に群衆に持ち上げられた棺が写っている

ので、どうやら殉教者に関わるデモのようです。群衆の中の一人一人の姿に映像が絞り込

まれてゆきます。そして「この中に私もいるはず」「この男が私か」「いや違う」といっ

たムルエ本人のナレーションが入ります。ところがいきなり別の人たちがインタビュー

答える声が流れ出し、その人たちのものとおぼしき名前や年齢を記したテロップが画面に

現れます。その人たちは、何か過去の出来事に関わる恐怖を語り続けます。その出来事と

は、スクリーンに映し出されたデモのことなのでしょうか。その人たちこそ、写真に写っ

ている本当の当人なのでしょうか。そこは結局、特定できません。

二つの作品のどちらにおいても、ムルエは映像と声の間にズレ、あるいは多層的な関係を

持ち込みます。その結果、映像や声が実際に記録されたものだとしても、データとしてそ

れらの記録が指示しているはずの時間や場所は、半ば行方不明な感じになります。このこ

とはたぶん、レバノンの歴史にも関係しています。何度も空爆をうけたレバノンでは、瓦

礫の下に埋まったまま死体も見つからず、行方不明になった人がたくさんいます。今回の

空爆でも、多くの人がいまだ行方不明です。不意に消えた人の姿、立ち消えになった声ー

ーその中からわずかに残った記録を夢のように再構成することで、ムルエは或る歴史の姿

を立ち現せようとしているかのようです。

どう、おもしろそうでしょう? 青木さんもそうだけど、このムルエというフィルムメイカーも、既成の流通ルートとは異なるところで、自分の「現場」での問題を、普遍的な文化生産につなげようとしているわけだろう。こうしたマスメディアにのらない文化のポテンシャリティに敏感であることは、現在批評家のもっとも大切な責務であるに違いない。 

2006-08-27

[]座談会「日本と中国の狭間から」より

言論の自由に対する批判のことですが、私がいつも思うのは、与えられた自由な言論空間でいうと、日本は中国より広いです。ただ、日本の自由な空間は、どうも壁のようなものに囲まれていて、押しても押してもなかなか広げられない。一方、中国での空間は狭いのですが、それは一種のネット袋みたいなもので、押したら十分な空間に空間になりうるんです。(孫軍悦さん)


メディア存在は、今の中国においては特別な意味を持っている時代だと思いますね。例えば三農(農村・農業・農民)の問題を最初に具体的に取り上げたのは、近年一番有力な全国紙のひとつになっている広東省の南方報業集団でした。南方集団は、現地に取材に行って農村の問題をリアルに伝えました。ただ、忘れてならないのは、南方集団も広東省の機関新聞で、広東省政府の機関紙だということです。そういう機関誌がとても批判的なことをしていることについては、あまり日本の人は見ていない。社会的経済的に見れば南方報業集団は、党のプロバガンダ紙からある種のメディアグループへ転換した一つの成功例です。しかし政治的に見れば、そういう転換を成功させることに大きな役割を果たしたのは、編集者記者など知識人だけでなく、党内の改革派だったんですね。共産党そのものをも重層的にまた動的に見るべきであり、そこから「中国」そのものをダイナミズムに満ちた存在としてみるべきだということです。(林少陽さん)


季刊軍縮地球市民 特集:隣人中国 より。

孫軍悦さんとは、まだ学校にいた頃、何度かお会いしたことがある。ほとんどすれ違いのようなものだったので、この座談会を読んで、もっといろいろお話を聞いておけば良かったと思った。中国の言論空間が「ネット袋」だというのは、思わず首をぶんと振ってしまうような指摘なのだが、この感覚をうまくロジカルなコトバで表現できたら、俺もたいしたものなのだけどな、と思う。

[]南博の水脈

読売新聞本日の朝刊「時代の証言者 名画上映 高野悦子(4)によると

高野は46年に入学した日本女子大で、アメリカ帰りの気鋭の社会心理学南博出会い、指導教授とする。

先生は個別の課題を与え、私のテーマは「マスメディアとしての映画」でした。「娯楽には大衆の無意識が反映される。ヒトラーは映画を利用して大衆心理をとらえた。映画などを通して何となく形成された男らしさ、女らしさというイメージは根強い。言いかえれば、無意識の部分をかえれば社会も変わる」と持論を語り、「送り手、その内容、受け手」との関係で研究するよう指導されました。

高野らは学生でグループを作り、映画館に出かけ観客の反応を調査する、今のマーケティング・リサーチを行っていたという。南が社会心理研究所を創ると、一橋の南ゼミ学生とともに参加し、映画研究のグループを作って活動した。ほかには新聞ラジオ、流行歌、婦人問題などの部門があった。

余談ながら、この時に知り合った2人が後に東京都知事になります。早大生だった青島幸男さんと、一橋の南ゼミにいた石原慎太郎さんです。

2006-08-23

[]吉澤誠一郎『愛国主義の創成 ナショナリズムから近代中国を見る』

a なかなかおもしろい本だね。筆者の吉澤誠一郎は、俊英といってもいいのだろうけど、決して大向こう受けをねらうことなく、堅実に実証をつみあげて、近代中国のナショナリズムの誕生を幾つかの側面から考察している。

b おどろくべきビジョンを一気に描き出す、といった本ではないけど、確かに中国なりの国民意識の成り立ちは見えてくる。僕は、中国というのは幾つもの色彩のことなる糸が幾重にもからまりあった巨大な毛糸玉じゃないかという感じがしたな。大きくちがった文化や習慣が混在しながら、それらはかえって緊密にむすびついている。

a それを示すのが第2章、アメリカでの華人排斥や差別意識が、中国としての一体感を醸し出していくさまを叙述する部分だね。1905年にアメリカへのボイコット運動が行われるんだけど、そこで主なアクターとなるのは、業種や出身地別に組織されていた商人団体だ。ここに学生知識人のグループが加わる。これはのちの五四運動と同じパターンだ。

b 中国は一般に地域ごとのまとまりがつよく、それらの諸地域が熾烈に競合している、といったイメージで語られる。よくある中国分裂待望論というのも、そういう思い込みからでてくるものだよね。だけど、出身別の団体がそれぞれの地域に自足しているわけではなく、むしろ異郷ネットワークをひろげているということが重要だ。たとえばこの本でいうなら、ボイコットが始まる当時、上海商業界には寧波幇、福建幇、広東幇といった勢力が存在していた。

a さらにそうした出身地によるつながり自体が、異郷でこそ形成されたものだともとれることが書いてあるね。

移住が盛んであるとき、移住先で同郷のよしみに基づく協力関係がかたちづくられることは、ごく自然なりゆきであろう。移住の過程からいえば、すでに移住したものが自己の郷里近辺から後続車をつのることで、移住という現象そのものがすすんでいくことになる。そのような同郷者が、移住先に会館、公所と呼ばれる建物を設けて、強力の場とすることもしばしばだった。

同郷心がつよいから結束するわけではなくて、異郷にいるからこそ、同郷というアイデンティティが生まれるわけだ。これは、貨幣史の黒田明伸などと一緒で、中国社会の伝統的な流動性の高さに着目する観点だね。

b だからこうした「同郷」による結束というのを、地域で求心的に閉じていくのではなく、

はんたいにコミュニカティブに異なる土地を結んでいくものだと考える必要がある。僕が、からまりあった毛糸玉というイメージがわかってくれたかな。

a それに関しておもしろいのは、清朝帝国の地方統治のありかただ。

中央の官僚がその版図をすみずみまで綿密に統治していたという状態を脳裏に描くとすれば、それは誤った印象である。清朝の場合、各県から中央に派遣される官はふつう数人、場合によっては一名だけであり、これら官僚は、胥吏などの役人が地元の権益のなかで活動しがちなのをなんとか使いつつ、地元の有力者の強力をあおいで、ようやく行政を進めることができた。(略)かりに社会階層の隅々までが、よく統制されていたかを問うならば、「封建」制にたとえられていた徳川時代の日本の方が、きちんと統治・管理されていたと考えた方が、どちらかといえば妥当であろう。

帝国の統治というのは、社会のずいぶん浅い層にしか及んでいないということだね。ほんとかどうかは知らないけど、通俗的なイメージだと、地方に派遣された中央官僚というのはろくに仕事もせず、豪華な宴会や美女にうつつをぬかすばかりという印象があるじゃない。いや、カンフー映画なんかに出て来るお役人イメージだけど(笑)。だけど、県にひとりとかだったら、毎日接待されるくらいしか仕事もないかもしれないね。いや、そうして神輿としてかつがれて、顕示的消費をすることこそ大事な仕事だったかも。

b 中国が雑色の毛糸玉なら、日本ははっきり色分けされたジグゾーパズルのようなものかな。とにかく、藩ごとにかなり高度な行政・管理体制があったことは確かだよね。

a 権力が直接下層まで浸透するという点では、まちがいなく日本の方がすすんでいるし、それが直接地域に根付いた権力によって行われていることも大きいと思う。もちろん江戸期に高度な商品経済や流通組織が発達していたことはいうまでもないけど、地域としての自律性という点では日本の方がはっきりしてたんじゃないか。そしてその地域性ごとの閉鎖性を越えて国家観念を獲得するために、天皇というシンボルが持ち出される。

b そこで革命運動を担ったのが、支配層である武士階級であり、そのなかでも反権力から離脱したアトム的個人だった。彼らのつくり出した「国家」は、個別の「くに」をのりこえる超越性をともなっている。それにくらべ、そもそも中国ではそういう意味での支配階級というのがいないね。革命の主軸は、開明的な商人層だったといっていいのではないか。どうもこの階層のちがいが革命の性格も大きく規定しているような気がするのだけど。維新の元勲がきわめてプラグマティック思考様式をもちながら、明治国家がきわめて超越的な要素をもちながら成立してしまった事実を考える上でも。

a 日本では国家意識は、まずは武士階層が獲得し、それを暫時下層に及ぼしていくという過程がとられたけど、中国ではそうではないらしい。

この後、北京の中央政権の実行統治が弛緩するにもかかわらず(あるいはそれゆえに)、様々な愛国運動の高揚が進展することになる。この点で、たとえば日本やフランスで、中央政府の施策を大きな動因としつつ均質な国民形成が志向されたのとは異なっていると言えそうである。

実際、フランス革命明治維新では、パリや京と江戸といった中心都市で権力が奪取され、一気に強大な中央権力が成立するわけだけど、辛亥革命というのはそれとはまったくちがう経過をたどるわけだよね。吉澤は、中国意識の高まりが、本籍地アイデンティティを弱めたわけではないといっている。逆に、同郷関係の活性化が、愛国運動を支えたのだと。なんか中国で暮らしていると、思わずここでうなずいてしまうわけね。

2006-08-15

[]終戦記念日の今日

VIVA! レバノンでも停戦状態がつづいているようです。

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永遠の帰還

リタニ川を越えるものへのイスラエル軍の警告にも関わらず、午前8時から、人々と荷物を満載した数千台の車が廃墟となった村々へ向けて出発した。僕にとって、レバノン人の頑固さは、いつまでも喜ばしき謎だ。

しかし、一度刻みつけられた恐怖の記憶は、容易に去ることのないもののようでもあります。

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8月14日から15日にかけての夜

午前五時

静けさ

静けさ

静けさ

そして、口の中の苦い味わい

bitter taste in the mouth

それは、もう本当に爆弾が降らないのか、固唾をのんでいるあいだに口にした何杯ものコーヒーやタバコの後味かもしれないけど、未来への不安と、喪われてしまったものへの後悔でもあるように感じます。

今日は全部で13枚のイラストがアップされています。ぜひ、直接KERBLOGを覗いていってください。

2006-08-13

[]彼らの「今」と僕らの「今」

日記更新がすっかりご無沙汰になってしまいましたが、久しぶりに、どうしても書かなければと思うことがありました。

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まずはこの画像をみてください。焼け焦げた少年死体がバラバラにちらばっている迷路、遺体の身の丈にあった棺を探すゲーム、空爆前と後の街並を並べたまちがい探し。なんともブラック残酷ジョークです。不謹慎だとさえいえるかもしれません。だけど、これが現在のベイルートに暮らしているレバノン人によって描かれたものだと知れば、絶望的な状況のなかで希望を手放さないための悲痛で、しかし強靭なユーモアだとわかるはずです。

このイラストは、レバノンアーティストmazen kerbajさんのブログKERBLOGに掲載されているもののひとつです。僕はこのサイト存在を、最近一番気を入れて読んでいるイルコモンズさんのブログで知りました(このブログはすごくおもしろいのでおすすめです)。mazenさんは、イスラエルの空爆が始まった7月12日以降今まで、170枚以上に及ぶイラストをアップして、リアルタイムレバノンの様子を綴っています。

次のイラスト空爆が始まった当日の夜にアップされたものです。「午前4:51 爆発が近づいて、一人また一人とテラスへでて、どこから爆音が聞こえるのだろうと耳をすます」

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「7月15日から16日の夜 テレビ「ニュース」、ウイスキー・オン・ザ・ロック、ポーカー、外では、ロックンロール。つまりそういうこと」

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7月16日「〈message in a bottle〉

レバノンと海外の親愛なる友人と家族

毎日、何トンもの応援のEメールをありがとう。僕らは本当に君たちの注目を必要としているからね。

できるだけ返事は書くつもり。だけど似たような質問も多いんだ。中でももっとも多い質問はこれかな。

「私たちに何ができるの?」

答えは「話すこと」

ここで起きているひどいできごとを、家族に、友達に、見知らぬ人に話してくれ。バーで、レストランで、道端で話してくれ。

みんなに話しかけてほしいんだ。ビルにだって話しかけてほしいくらいだよ。ここにいるとね、世界の誰も気にかけてやしないって思ってしまうんだ。黒焦げになった子供死体のことなんかね。」

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「うちのママ第二次世界大戦のときは10歳だった。

1975年内戦のときは45歳。

今、75歳。

〈ねえ、私、次の戦争には間に合うかしら〉」

mazenさんは、8月5日にこう書いています。

「「ウェブティファーダよ、なすがままに進め」

親愛なるみんなへ

 この「ウェブティファーダ」というコンセプトには何か特別なメッセージがこめられてるように思うかもしれない(でも言っておくけど、この言葉は、僕をしばるものではないからね)。みんなもよく知ってるはずだと思うけど、僕の頭はすっかり混乱してしまって、ここ数日に起きたことを、きちんと把握できてない。いったい何をすればいいのかも分からない。日ごろ、何に対しても懐疑的なことで知られてる僕だけど、でも、このネットにつながってる世界中の人たちと何か一緒にやれるんじゃないかという気がしてる。それが何かに異議を唱えるものかどうかは分からない。普段の僕は署名をしたりしないし、そんなもの信じてもいない。それより何かもっとましなことがあるはずだけど、それがなにかは分からない。それはともかく、この「ウェブティファーダ」を実現させるのは、君たちだ。

僕はただひたすらアップを続け、この問題について何かいいアイデアがみつかるように、コメントのための場を提供してゆくつもりだ。僕はこのサイトが人に何かインスピレーションを与えるものとして使われることを望んでいる。なにしろ、ここには大勢の人たちがつながってるからね。僕はここにきてようやく多くの人たちが、レバノンというのはラクダにまたがった人たちが朝から晩まで飲み水を求めてさまよってる砂漠の国ではないのだ、ということを理解し始めてくれたような気がしている。これから僕は自分がやるべきことをやり続けるので、どうか君たちも何かはじめてみてほしい。くそったれ、へこたれるもんかと、自分にできるところまで、僕らは抵抗するつもりだ。」(翻訳:イルコモンズさん)

Guanzhou Lettersも、このウェブティファーダへの参加を宣言します。といっても、こうやってKERBLOGを紹介したり、自分でも見に行ったりするだけですけど。このブログを読んでくださっているみなさんも、できたらKERBLOGを自分のはてなアンテナに登録したり、人に教えたりしてください。僕はここをポータルサイトにしました。もうすぐ国連の停戦決議が受け入れられると言うけれど、それで戦争が終わるのかどうかはわかりません。ベイルートの上空を戦闘機が飛び、KERBLOGに矢継ぎ早に現況がアップされる限りウェブティファーダはつづきます。

僕がKERBLOGを見ながら考えていたのは、僕たちの「今ここ」とmazenさんの「今ここ」はどうつながっているのだろうということでした。イラク戦争の頃から、ネットを通して色々な映像や音声や言葉が、皮膚一枚の身近さでもって、やってくるようになりました。僕がPCに向かっているこの瞬間に、爆弾が落ち、人が死んでいるのかもしれず、mazenさんもきっとブログを書いている。それは遠近法がむちゃくちゃになるようなちょっと不思議な感覚です。何が近くて何が遠いのかよくわからない。苦しいような辛いような、それでいてどこかが麻痺しているような。

だからといって、僕は「死んでいくベイルートの子供たちのことを考えろ!」というようにヒステリックに叫び立てたいわけではありません。それでも僕たちはご飯を食べたり、仕事に行ったり、昼寝をしたりしなければならないのですから。そしてベイルートに限らずあらゆる場所で、今日もあらゆることが起きています。だけど、僕らの生活にはいつのまにか、もう複数の「今ここ」が入りこんでしまっているので、それらと一緒に生きていかなければならない、そのためのやり方を見つけなければいけないと思うのです。

ウェブティファーダって、たぶんそんなことです。

2006-08-04

[]「民話」という言葉

どんな小さな図書館に行っても、「日本の民話」といった本は必ずある。シリーズであったりする。棚ひとつを占めていたりする。民話は、地方自治体が経営し、地域コミュニティの核になることを求められている図書館には欠かせないものだと考えられているということだ。それらの読者としては小学生から中学生が想定されているのだろう。日本の子供たちは、日本の民話を読む、それもたぶんまずは自分の地域の民話を読み、それから他県の民話を読むというのが、ごく自然で当然のふるまいとして設定されている。

「民話の会」1952年木下順二、岡倉士朗、山本安英、松本新八郎、林基、吉沢和夫氏らが集まって、木下順二氏の民話劇『夕鶴』の上演を契機に発足。1958年10月から1960年9月の2年間、機関誌『民話』を小社(未来社)から発行していた(通巻24巻)。この機関誌の編集委員には民俗学者宮本常一も名を連ねている。この会と同時期にあった「民族芸術を創る会」の2つに所属した人々の運動によって「民話」という言葉が世の中に定着していった。

 具体的には、1950年頃から歴史学研究会や民主主義科学者協会(民科)歴史支部会などを中心にして国民的歴史学運動(歴史学を国民のものにすると同時に、歴史学の体質改善を図ろうとする運動)が盛んになったが、この民科歴史支部会の思想史研究会主催した木下順二氏らを囲む会がきっかけとなって、戦後の民話運動が起こり広まっていったとされる。戦後の解放と民主化の運動のなかで第一次民話ブームが起こり、さらに日本経済が高度成長を達成した1960年代後半には伝統的なものの再発見ということなどから第二次民話ブームが起こった。(「民話を語り継ぐということ 松谷みよ子インタビュー」内の註『未来2006年8月号)

なるほど、とうなずきまくる記述。つまり、民話というカテゴリーは、国民的歴史学運動や国民文学論争などが生まれる風潮とひとつながりのものだった。戦後社会の中で、民科などの左派運動が果した役割は、現在予想できる以上に大きいと思う。そして、マルクス主義の魅力とは、よくいわれる包括的な世界観といったものだけではなく、名もなく小さなものを掘り出し、ナショナルな領域に組織するその能力になったのかもしれないと感じる。

2006-08-03

2006-07-19

[]「カビリアの夜

テレビをつけると白黒映画をやっており、しばらく眺めているうちにフェリーニの「カビリアの夜」だと気づく。1957年。ローマの娼婦カビリアとその周りのチンピラ群像。野方図だけどけなげでもあるカビリア、騙され、踏みつけにされるカビリア。なんともグッとくる作品なのだけど、ひとつ思いあたったのは、当たり前だがイタリアも敗戦国であり、独自の「戦後復興」があったのだろうな、ということだった。例えばカビリアの家がある場所というのが、原っぱのような場所にちょぼちょぼと近代建築が立ちかけ中という荒涼とした空間で、おそらくはローマでも戦火からの回復と都市化への対応のため、大規模な郊外開発が行われたのではないかと。または、下層階級へのカソリックの浸透具合とか、どこか戦争後の社会変動を感じさせる。ここに出て来るカソリックというのは決してカテドラルに象徴されるような、伝統的大宗教ではなく、もっといかがわしく生き生きとした民間信仰だ。とすると、当然、溝口健二の遺作である56年の「赤線地帯」に連想がいくわけで、京マチ子演ずるアプレ・ゲールと、ジュリエッタ・マシーナのカビリアを比較してはどうかなどと考える。ところで、それにしても、「にがい米」や「カビリアの夜」でキャリアを始めながら、リドリー・スコットの「ハンニバル」とかまで撮ってしまう御大ディノ・デ・ラウレンティスというのも映画界の怪物やね。

[]

軽く鬱。理由はいくつか思い当たるがあたっているのやらいないのやら。

現象として言えるのは、どうも街を歩いていると気が滅入るという頃だ。今日は池袋。世の中つまんねー、生きるのだりーという気持ちになってしまう。今までは、日本は閉塞感があっていやだね、などと(自分の問題を社会にすり替えているという意味で)勝手かつ適当に言ってみたりしたのだが、そういう問題でもないだろう。

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