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一条真也の新ハートフル・ブログ

2018-04-23

真摯さはごまかせない(ドラッカー) 

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一条真也です。
今回の名言は、経営学者ピーター・ドラッカーの言葉です。
ドラッカーはリーダーシップについて語るとき、必ず「真摯さ」の重要性を説きました。そして、「真摯さはごまかせない」と述べています。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則



ドラッカーいわく、ともに働く者、特に部下には、上司が真摯な人間であるかどうかは数週間でわかるといいます。彼らは、上司の無能、無知、頼りなさ、態度の悪さには寛大ですが、真摯さの欠如だけは絶対に許しません。また、そのような上司を選ぶ者も許しません。上司と部下には、当然ながら「信頼」が求められます。信頼なくして従う者はいません。
では、信頼とは何でしょうか。ドラッカーは『未来企業』で述べます。
「信頼するということは、リーダーを好きになることではない。つねに同意できることでもない。リーダーの言うことが真意であると確信をもてることである。それは、真摯さという誠に古くさいものに対する確信である」
(上田惇生訳)



上司は部下の「強み」を生かさなければなりません。それがマネジメントということです。しかし、部下もまた上司をマネジメントするのです。そして、その方法も、上司の「強み」を生かすことです。ドラッカーは述べます。
「上司をマネジメントするということは、上司と信頼関係を築くことである。そのためには、上司の側が、部下が自分の強みに合わせて仕事をし、弱みや限界に対して防御策を講じてくれるという信頼をもてなければならない」
(上田惇生訳)



お互いに「強み」を生かしあうことからくる信頼関係というものも、その前提に真摯さというものが欠かせないのです。
なお、今回のドラッカーの名言は『最短で一流のビジネスマンになる! ドラッカー思考』(フォレスト出版)にも登場します。

最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考~一流の思考を身につける!47の実践テクニック~

最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考~一流の思考を身につける!47の実践テクニック~

 
2018年4月23日 一条真也

2018-04-22

「サウンド・オブ・ミュージック」

一条真也です。
22日の日曜日の早朝、自宅で映画「サウンド・オブ・ミュージック」をDVDで観ました。じつに40年ぶりぐらいの再鑑賞になります。先日、業界の海外視察でオーストリアを訪れ、ザルツブルグやザルツカンマーグートなど、この映画ゆかりの地を回り、改めてこの名画を観たくなったのです。自分でも意外だったのですが、予想以上に感動し、何度も涙腺が緩みました。




最近のわがカラオケ愛唱歌であるサザンオールスターズの「若い広場」には「あの日観てたサウンド・オブ・ミュージック 瞼閉じれば甦る♪」という歌詞が出てきます。じつは、「若い広場」が主題歌だったNHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」の時代背景も、「サウンド・オブ・ミュージック」の日本公開(1965年)も、そしてわがサンレーの創業も、ほぼ同じ時期です。ミュージカル映画の最高峰とされる「サウンド・オブ・ミュージック」が日本で公開された頃にわが社が誕生したと思うと、感慨深いものがあります。

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ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
「ロジャース&ハマースタイン・コンビの大ヒットしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化。1938年のオーストリア、院長の命により厳格なトラップ家へ家庭教師としてやって来た修道女マリア。彼女の温かい人柄と音楽を用いた教育法で、七人の子供たちはマリアの事が好きになるが、父親であるトラップ大佐とマリアの衝突は絶え間なかった。だが、次第に大佐に惹かれている事に気づき悩むマリア。やがて大佐の再婚話が持ち上がり彼女は傷心のまま修道院に戻るのだが・・・・・・」




「日本人に最も愛されたミュージカル映画」などと呼ばれるほど、あまりにも有名な作品ですので、ストーリーをすでに知っている人も多いでしょう。
もし、知らない方がいらしたら、Wikipedia「サウンド・オブ・ミュージック(映画)」の「ストーリー」をお読み下さい。
この映画、じつに174分の長さなのですが、40年ぶりに観直してみて、ちっとも「長い」とは感じませんでした。記憶していた以上にテンポが良く、あっという間にエンディングを迎えました。




ディズニー・アニメのテンポに近い印象でしたが、特に「美女と野獣」や「アナと雪の女王」などに似ていると思いました。映画関係者の間では、「サウンド・オブ・ミュージック」にはミュージカル映画のみならず娯楽映画におけるヒットの方程式が隠されていると言われているそうなので、きっとディズニー・アニメのほうがこの映画の影響を受けているのでしょう。




ディズニーといえば、ブログ「リメンバー・ミー」で紹介したディズニー/ピクサーのアニメ映画が大ヒットしました。第90回アカデミー賞において、「長編アニメーション賞」と「主題歌賞」の2冠に輝いた話題作ですが、「サウンド・オブ・ミュージック」とテーマが共通していることに気づきます。それは「音楽の力」と「家族の愛」です。「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公マリアも、「リメンバー・ミー」の主人公ミゲルも、ともに音楽の力で救われます。また、彼らはともに音楽の力によって家族の愛を得るのでした。




1905年にオーストリアで生まれたマリア・アウグスタ・フォン・トラップは、元オーストリア海軍将校ゲオルク・フォン・トラップと結婚し、亡くなった前妻の子供たちと自らの子供たちで「トラップ・ファミリー合唱団」を結成して有名になりました。彼女の自叙伝を脚色してつくられたのがミュージカル・映画で大ヒットした「サウンド・オブ・ミュージック」です。

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Wikipedia「マリア・フォン・トラップ」より



さて、映画「サウンド・オブ・ミュージック」は実話に基づきながらも、多くのフィクションが含まれています。この作品は、あくまでマリアの自伝を「基にした」ミュージカルを「基にした」映画であり、元のミュージカルの時点から史実とは異なる点が多々あります。詳しくは、Wikipedia「サウンド・オブ・ミュージック(映画)」の「史実との相違点」を御覧下さい。
たとえば、映画ではマリアは修道女のまま、修道院の紹介でトラップ家に家庭教師にやってきますが、史実では家庭教師になった時すでにマリアは修道院をやめています。体調を崩しての転職でした。




生まれてすぐに母アウグスタ・ライナーを亡くしたマリアは、父カール・クチェラの手で親戚に預けられましたが、その父も9歳のときに失いました。やがて親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入りました。1923年、マリアは、ウィーン学校を卒業しましたが、音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習いました。もともと彼女はキリスト教に反感を持っていましたが、音楽鑑賞をするためにカトリック教会のミサに参列し、やがてキリスト教に心を惹かれるようになったそうです。

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罪を告白するマリア
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マリアの幸福を祈る院長



史実とは異なりますが、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場する修道院および修道女たちは、最初こそ自由奔放なマリアに手を焼きますが、トラップ家から戻ったマリアに対して献身的に尽くします。トラップ大佐への愛に気づいたマリアが「神に仕える身で男の方を愛するなど罪です」と悔いるのに対し、修道院の院長は「男女の愛も神聖です」、そして「人を愛しても神への愛は減りません」と述べ、マリアの女性としての幸福を祈るのでした。ザルツブルグの大聖堂でのマリアの結婚式のシーンは荘厳で素晴らしいものでした。やはり、カトリックの儀式は威厳に満ちていますね。

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修道女たちから結婚を祝福されるマリア
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威厳に満ちたカトリックの儀式



じつは、21日の午後、日本における儒教研究の第一人者である中国哲学者の加地伸行先生からお電話を頂戴しました。加地先生は、今月より、わたしが上智大学グリーフケア研究所の客員教授に就任したことを知り、わざわざお祝いの電話を下さったのです。久々の儒教の師からの電話に感激したわたしは、しばらくお話させていただきました。その中でキリスト教と儒教の違いという話題になりましたが、加地先生は「キリスト教、特にカトリックには家族主義の否定という本質がある」と言われ、わたしは目から鱗が落ちた気がしました。




家族主義に立脚する儒教では「肉親が死んだら最も悲しい」わけですが、家族を超えた隣人愛を志向するキリスト教では「誰が死んでも同じように悲しい」と考えるわけです。しかし、「サウンド・オブ・ミュージック」の修道女たちは家族を否定するのではなく、マリアの家族の最大の危機を救います。わたしは、「サウンド・オブ・ミュージック」という映画はカトリックの最も良き部分を描いた映画なのだと思いました。

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修道女たちに救われたトラップ一家



日本におけるカトリックの総本山である上智大学で「グリーフケア」の研究をすることになったわたしは、神道・仏教・儒教のハイブリッドな信仰に基づく「祖先崇拝」を精神的支柱とする日本人のグリーフケアとはどうあるべきかと考えていましたので、加地先生のお話から大きなヒントを与えられました。ぜひ、わが平成心学にカトリックからの学びを加えて、日本人のためのグリーフケアを追究したいと思います。早速、これからカトリック関係の資料を読み込むつもりです。アウグスティヌスの『告白』や『神の国』、トマス・アクィナスの『神学大全』をはじめ、基本文献から学び直していきます。

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カトリックについて学び直します



わたしは、これまで修道院という施設に一種の抑圧性を感じていましたが、「サウンド・オブ・ミュージック」に登場する修道院は「癒し」と「救い」の場として描かれていました。イエスの理想をそのまま実現した場のようでした。愛に悩むマリアを前に「すべての山に登れ」を歌い上げる院長の姿に感動しました。ただ厳しい戒律を押し付けるだけでなく、悩める者を勇気づけるために歌う・・・これこそ、真の宗教者ではないかとも思いました。
また、わたしは「サウンド・オブ・ミュージック」という映画そのものがグリーフケアの物語であることに気づきました。この映画は、愛する妻を亡くしたトラップ大佐、愛する母を亡くした子どもたちの悲しみがマリアがもたらした愛情と音楽によって癒されてゆく物語なのです。

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歌にはグリーフケアの力がある!



映画の中で、「悲しい時の薬は歌だって先生が言ったわ」というトラップ家の少女のセリフが出てきますが、グリーフケアにおいて歌は大きな力を発揮します。上智大学グリーフケア研究所特任教授にして神道ソングライターでもある鎌田東二先生は、ブログ『歌と宗教』で紹介した本において、歌の持つ力について次のように述べています。
「歌や祈りの言葉は、国境を超え、宗教を超えて、人々の魂、身体に直接働きかける力をもっているのだ。それは、世界を救うための人類の教義といった知的レベルを超えたダイナミックな力動性を宿している。だから、歌は人の心を切り替え、世界のありようの感受のしかたを切り替え、人間の関係性をも切り替えることができるのだ」

(020)歌と宗教 (ポプラ新書)

(020)歌と宗教 (ポプラ新書)



サウンド・オブ・ミュージック」には、さまざまな名曲が登場します。
オープニングでマリアが山の草原で歌う「サウンド・オブ・ミュージック」、修道女たちが歌う「マリア」をはじめ、「私のお気に入り」「ドレミの歌」「もうすぐ17才」「ひとりぼっちの羊飼い」「エーデルワイス」「恋の行方は」「さようなら、ごきげんよう」「すべての山に登れ」・・・・・・マリアとともに歌う子どもたちも魅力的でした。じつは、映画製作40周年を記念したテレビ番組でマリア役のジュリー・アンドリュースと7人の子役が集合しました。そのときの様子はYouTubeで観ることができますが、当時すでに70歳だったジュリー・アンドリュースが一番若く見えるのには驚きました。(笑)
彼女は現在、82歳。健在です。




サウンド・オブ・ミュージック」の数多い名曲の中でも、最も良く知られた歌が「ドレミの歌」です。日本では歌手のペギー葉山が自ら日本語の歌詞をつけて紹介したものが広く知られており、音楽の教科書にも掲載されました。ペギー葉山は1960年(昭和35年)にロサンゼルスで開催された日米修好100年祭に招待された直後にブロードウェイに立ち寄り、そこで見たミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」に感銘を受け、劇場の売店で譜面とオリジナルLPを購入したそうです。彼女はそのままホテルへ直行して1番の訳詞を手がけ、日本に持ち帰ったといいます。




ペギー葉山による日本語詞はアメリカのイメージが強いドーナツが最初に登場するなど、ミュージカルとの関連性が希薄になっていたため、「サウンド・オブ・ミュージック」の日本公演でペギーの詞が使われることは長らくありませんでした。しかし、2007年からの劇団スイセイ・ミュージカルによる「サウンド・オブ・ミュージック」では、ペギー葉山が修道院長役で出演し、はじめて彼女の日本語歌詞が使用されました。2010年の劇団四季による「サウンド・オブ・ミュージック」上演でもペギー葉山版の歌詞が使用されています。さらには、映画「サウンド・オブ・ミュージック」製作50周年記念吹替版「ドレミの歌」では、平原綾香がペギー葉山による日本語歌詞で歌い上げました。




歌詞中にドーナツを登場させたことについて、後にペギー自身は「戦時中の集団疎開で食べ物が乏しい中、一番食べたかったものが母親手作りのドーナツだったことからこの歌詞を着想した」と語っています。原曲の歌詞もいいですが、ペギーの日本語詞は「ドはドーナツのド」「レはレモンのレ」と食べ物からはじまって、「ミはみんなのミ」「ファはファイトのファ」「ソは青い空」「ラはラッパのラ」「シは幸せよ」と、この上なくポジティブな人生讃歌であり、この世界そのものを肯定する内容になっています。まさに音楽によって人生を肯定したこの映画にふさわしい歌詞であると言えるでしょう。
そういうわけで、先日訪れたザルツブルグのミラベル庭園やザルツカンマーグートの船上で、わたしはずっと「ドレミの歌」をハミングしていました♪

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ザルツブルグのミラベル庭園で
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ザルツカンマーグートの船上で



2018年4月22日 一条真也

2018-04-21

「レディ・プレイヤー1」

一条真也です。
20日の午後、東京から北九州へ戻りました。その夜、公開されたばかりの映画「レディ・プレイヤー1」をレイトショーで観ました。スティーヴン・スピルバーグの最新作です。最高に刺激的な映像体験でした。




ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。
スティーヴン・スピルバーグアーネスト・クラインの小説を映画化した、仮想ネットワークシステムの謎を探る高校生の活躍を描くSFアドベンチャー。2045年を舞台に、仮想ネットワークシステム『オアシス』開発者の遺産争奪戦を描く。主人公を『MUD マッド』『グランド・ジョー』などのタイ・シェリダンが演じる。共演は、オリヴィア・クック、マーク・ライランスサイモン・ペッグ、T・J・ミラー、ベン・メンデルソーン森崎ウィンら」

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には、以下のように書かれています。
「2045年、人類は思い浮かんだ夢が実現するVRワールド『オアシス』で生活していた。ある日、オアシスの創設者の遺言が発表される。その内容は、オアシスの三つの謎を解いた者に全財産の56兆円とこの世界を与えるというものだった。これを受けて、全世界を巻き込む争奪戦が起こり・・・・・・」




この作品をわたしは3Dで鑑賞したのですが、冒頭からヴァン・ヘイレンの「JUMP」が鳴り響き、ドラッグレースには「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンや「AKIRA」の金田バイクが疾走し、ティラノサウルスやキングコングが大暴れします。いやあ、いきなり、ぶっ飛びましたね。



アーネスト・クラインが2011年に発表した原作小説『ゲームウォーズ』には、世界的に有名なアニメやコミック、映画のキャラクターを一堂に集め、有名映画やゲームの舞台までも再現され、まさに「ポップカルチャー大集合」の観がありました。映画にはハロー・キティなどのキュートなキャラも一瞬登場しますが、何よりも日本人を驚かせたのは敵のボスがメカゴジラを出現させたこと、さらには日本が誇る巨大メカであるガンダムが颯爽と現れたことでしょう。




ガンダムといえば、20日、「機動戦士ガンダム」シリーズの新作となる映画「機動戦士ガンダムNT」(ナラティブ)が、今年11月に劇場公開されることが発表されました。ガンダム・ファンの人には嬉しい出来事が続きますね。わたしの好みで言えば、シン・ゴジラエヴァンゲリオンだったら最高でした。でも、無いものねだりをしても仕方がありません。




原作と映画では登場するキャラに違いははありますが、ほぼ原作の映像化に成功しています。エンターテインメントの天才であるスピルバーグでなければ不可能だったでしょう。1946年生まれのスティーヴン・アラン・スピルバーグは、映画監督としては、世界最高のヒットメーカーの1人です。「ジョーズ」「未知との遭遇」「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「インディ・ジョーンズ」「ジュラシック・パーク」「シンドラーのリスト」・・・・・・彼がメガホンを取ったヒット作を挙げていけばキリがありません。




スピルバーグ監督作品の全米生涯興行収入は2018年現在で計46億3660万ドルに達しています。日本円に換算するとほぼ5000億円ですから、凄まじいですね。これは、もちろん監督として歴代1位ですが、プロデュース作品の同興行収入も計77億3330万ドル(約8297億円)を記録していて長年歴代1位でしたが、2018年にケヴィン・ファイギが1位となり、現在は歴代2位となっています。
それにしても、ジャーナリズムの尊厳に迫った社会派の傑作「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」を同時進行で仕上げてしまうのですから、その天才ぶりはもはや神がかりであると言えるでしょう。




ガンダム登場にも盛り上がりましたが、わたしが最もコーフンしたのは、1980年に製作された映画「シャイニング」が作品ごと舞台になったことでした。スティーブン・キングの原作小説をもとに、監督スタンリー・キューブリック自らが共同脚色を手がけたホラー映画の金字塔で、わたしの大好きな作品です。原作者のキング自身は気に入らなかったようですが、ホラー映画の歴史を俯瞰しても最恐の作品に仕上がっていると思います。この物語に登場する狂気と殺戮が渦巻くオーバールック・ホテルがそのまま「レディ・プレイヤー1」の舞台となるわけですから、もうたまりませんでした。




こうなると、もっとバラエティに富んだ映画やアニメを「レディ・プレイヤー1」に出したくなるのが人情です。4月19日、「レディ・プレイヤー1」のスペシャルトークセッションが行われました。そこでスピルバーグ監督は、出演者のタイ・シェリダン、オリビア・クック、森崎ウィンとともに登壇しましたが、「日本人のクリエイティビィティについてどう思うか」という記者の質問に対して、スピルバーグは「宮崎駿監督はディズニー以上だ。尊敬している」と述べました。また、「続篇が作られるとしたら、ウルトラマンは登場できないか」という質問には、「権利が取れたら出したいね」と答えました。ぜひ、巨神兵やナウシカやトトロやウルトラマンやバルタン星人が「オアシス」に出現するシーンを見てみたいです。スタジオ・ジブリや円谷プロは前向きに検討していただきたいですね。




「レディ・プレイヤー1」は、バーチャル・リアリティ(VR)の快楽と危険性を描いたSF大作です。VRは、コンピュータによって作り出された世界である人工環境・サイバースペースを現実として知覚させる技術です。時空を超える環境技術であり、人類の認知を拡張します。
VRをテーマにした映画といえば、やはり「マトリックス」(1999年)がすぐ思い浮かびますね。ストーリーの各所にメタファーや暗示を置き、哲学や信仰というテーマも表現したSF映画の名作です。従来のCGにはなかった、ワイヤーアクションやバレットタイムなどのVFXを融合した斬新な映像表現は「映像革命」として大きな話題になりました。

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ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)


VRといえば、今から26年も前の1992年に上梓した拙著『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)において、わたしは「バーチャル・リアリティの役割」という文章を発表しています。そこで、わたしはメディアの歴史およびVRの歴史を振り返りながら、VRにはエンターテインメントを超えた大きな役割があるのではないかと述べ、寝たきり老人や病人のための「仮想体験システム」が大日本印刷やインテルジャパンが共同開発したことを取り上げました。両社は「動物園に行こう」というタイトルで、東京都多摩動物園で録画した約30分の散歩風景のVR映像を作成したのです。




このシステム開発に協力した筑波医学実験用霊長類センター長(当時)の吉川泰弘氏は「寝たきりの病人は、日常生活の変化が少ないため精神的に参りがち、寝たままでも、自分の意志で散歩しているような体験ができれば、お年寄りにはボケ防止、病人には元気づけのきっかけになるはず。思い出深い旅行風景などを映し出せば、患者の精神的な支えになると思う」と「朝日新聞」1991年12月4日朝刊の記事で発言しています。
この記事を読んで非常に感動したわたしは、「足が不自由な人や寝たきりの人が夢の中で、行きたいところへ思い切り走ってゆく。こういう夢をかなえることこそ、VRの最大の役割の1つではないだろうか。VRが人間のための癒しのテクノロジーになる可能性は大いにあるのだ」と書きました。その思いは四半世紀以上を経た今でも変わりません。

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愛する人を亡くした人へ』(現代書林)



また、今月から上智大学グリーフケア研究所の客員教授に就任したこともあって、わたしは、グリーフケアについて考え続けています。拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、わたしは、人間にとっての最大の苦悩は、愛する人を亡くすことだと思っています。老病死の苦悩は、結局は自分自身の問題でしょう。しかし、愛する者を失うことはそれらに勝る大きな苦しみではないでしょうか。配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかるといわれています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。この世にこんな苦しみが、他にあるでしょうか。あまりの苦しみの大きさ、悲しみの深さから自ら命を絶とうする人も多いです。




わたしはVRこそは、グリーフケアにとって大きな力になるような気がします。仮想現実の中で今は亡き愛する人に会う。それはもちろん現実ではありませんが、悲しみの淵にある心を慰めることはできるはずです。何よりも、自殺の危険を回避するだけでもグリーフケアにおけるVRの活用は検討すべきではないかと思います。緊急処置としてのVRで急場を切り抜けて、その後にカウンセリングなどによって「愛する人を亡くした」現実の人生を生きる道を歩み出すことができればいいのではないでしょうか。東日本大震災後には多くの幽霊現象が報告されましたが、あれも「どうしても故人に再会したい」という遺族の脳内VRという側面があったと思います。




故人との再会といえば、「レディ・プレイヤー1」の中にも死者が登場しました。「オアシス」の創始者であるジェームズ・ハリデーです。彼によって組まれたゲームの勝者は「オアシス」の所有権と2400億ドル(56兆円!)相当のハリデーの遺産が授与されることになっているのですから、多くの人々がもう死にもの狂いでゲームに参加しました。
「レディ・プレイヤー1」におけるハリデーはまさに創造主であり神そのものでした。会社を創業した仲間との決裂の場面などは、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグの人生を連想させます。まあ、いま、フェイスブックは大変なことになっていますけどね。

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わが書斎のボヘミアングラスの卵型ペーパーウェイト



ゲームの参加者の中には、「オアシス」の管理権を欲する大企業のメンバーもいましたが、この会社がまた究極のブラック企業でした。
ハリデーは「オアシス」内にイースターエッグを隠しており、それを得た者が最終的な勝利者となるわけですが、このイースターエッグが映画の最後に姿を見せます。それは、わたしが今月14日にプラハのボヘミアングラスの工場で求めた卵型ペーパーウェイトにそっくりでした。このボヘミアングラスのペーパーウェイト、現在はわが書斎の机の上に鎮座しています。



2018年4月21日 一条真也

2018-04-20

言葉の本当の意味  

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言葉は聞く人の偏見によって、
いくらでも意味が変わってしまう。
相手が賢い聞き手でなければ、
詞の本当の意味は伝わらない。
(『弁顕密二教論』)



一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
空海は「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

超訳空海の言葉

超訳空海の言葉



「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。
わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。
現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介しています。



2018年4月20日 一条真也

2018-04-19

『あわいの時代の「論語」』

あわいの時代の『論語』: ヒューマン2.0


一条真也です。
『あわいの時代の「論語」』安田登著(春秋社)を読みました。
「ヒューマン2.0」というサブタイトルがついています。
著者は能楽師ですが、『論語』についての造詣が深いことで知られ、ブログ『身体感覚で「論語」を読み直す』で紹介した本などの著書があります。

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本書の帯



本書のカバーには京劇のようなPOPな孔子のイラストが使われ、帯には「安田さんは世にもまれな『死語』の使い手である。遠い過去に生きた人たちの、安易な想像や共感を許さない特異な思念や体感をありありと現出させる才能において、柳田國男白川静の学統を継いでいる。――内田樹」とあります。

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本書の帯の裏



また帯の裏には、 「『君子』とはどんな人なのか? 『仁』の境地に達するには?――究極の温故知新がここに!」「AI等の急速な進歩によって、文字の誕生に匹敵する『シンギュラリティ(=技術的特異点)』がやって来ると言われている。そんな『あわいの時代』の現代こそ『論語』が役に立つ!」と書かれています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
第1章 あわいの時代――シンギュラリティ
第2章 心――腹部に宿った「自由意志」
第3章 君子――「心」を使いこなす
第4章 礼と六芸――身体拡張装置としての「礼」
第5章 知――脳の外在化によって生まれた精神活動
第6章 仁――ヒューマン2.0
付録  『大盂鼎』を読む――論理の誕生
「おわりに」
「参考文献」



「はじめに」を著者は以下のように書きだしています。
「いまからおよそ3000年前(紀元前1300年頃)。古代の中国では文字が誕生しました。文字は『時間』を生み、『論理』を生み、そして『心』(という文字)も生みました。生まれたばかりの『心』の意味はいたってシンプル。すなわち、未来を変え、過去から学ぶ力、それが『心』でした」



また、著者は以下のようにも述べています。
「未来を変える力を、心の『作用』だとすれば、『不安』は心の『副作用』です。その副作用に対する処方箋を私たちに与えてくれたのがお釈迦様であり、イエスであり、そして孔子です。みな、2000年以上も前の方たちです。それなのに今に至るまで、このお三方を凌駕する人物が現れないのは、『心の時代』がまだ続いているからです。
しかし、近年の急激な時代の変化を肌で感じていると『ひょっとしたら、文字や心の誕生前夜もこうだったのではないか』と思います。文字が生まれたばかりの頃の資料を読んでいると、いま私たちが直面している不安や期待に似たものを感じるのです」



第1章「あわいの時代」では、『論語』全体を孔子の時代の文字に書き直してみると、孔子の時代にはなかった文字群があることを、著者は指摘します。それは「感」を含めた「心」を部首とする文字群でした。さらに漢字を追っていくと、「心」という文字自体が孔子の生まれた500年前(紀元前1000年頃)に誕生したことがわかりました。
自由意志としての「心」とほぼ同時に「時間」が生まれ、「論理」が生まれ、そして「(政治)組織」も生まれました。



このような「心」について、著者は紀元前1000年に発明された現代人類のOS(御ペレーティング・システム)であるとし、以下のように述べます。
「『文字』の発明と、その後300年後にやってきたOSとしての『心』の発現は、人間社会を劇的に変えた『シンギュラリティ』だといえます。このシンギュラリティ(以下、文字シンギュラリティ)によって、人々の思考の量や質は爆発的に増加し、人間社会は質的な飛躍を遂げることになったのです。文字シンギュラリティ以降、時代は『心の時代』に突入しました。『心』を中心にいろいろなことが回るようになったのです。これは中国だけに限ることではありません。人類最初の都市文明を生んだ古代メソポタミアでも、エジプトでも同じです」



孔子の儒教をはじめ、釈迦の仏教、イエスのキリスト教は、「心の時代」に生まれました。そのあたりは拙著『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)に詳しく書かれています。各宗教は、その創始者だけでなく、それ以降も聖人や偉人を排出しました。たとえば仏教なら、空海。キリスト教なら、聖フランシスコやマザー・テレサ。儒教だって、幕末の吉田松陰などがいます。しかし、著者は以下のように述べるのです。
「不思議なことに空海は釈迦ほどではないし、聖フランシスコやマザー・テレサだってイエスには及ばない。吉田松陰だって孔子の方がずっとすごい。しかも、釈迦、孔子、イエスの三聖人はみんな2000年以上も前の人たちです。釈迦や孔子は紀元前500年ほどの人、イエスはちょうど紀元ごろの人。こんなすごい人たちがみんな今から2000年以上も前に生まれて、それ以降、これに代わる人がいない」



「これって変ですよね」と読者に問いかけてから、著者は以下のように述べます。
「科学も文明も、当時に比べれば現代の方が格段に発達しています。人類全体の知的水準だって上がっているはずです。それなのになぜ今まで彼ら以上の人が誕生しなかったのか。そして、この3人は、なぜ『あの時期』に生まれたのか。それは、この3人がみな『心の時代』になって数百年後に生まれた人たちで、そして『心の時代』のパイオニアだからです。『心』の副作用に対して、その共同体で初めての、そして強力な処方を施した人たちです」



本書の中でも、特に第4章「礼と六芸」が読み応えがありました。
古代中国で士以上の者が修めるべき六つの教科が六芸(礼、楽、射、御、書、数)です。これらの教科はいずれも「超越的なもの」と関わる技法であると言えますが、その最初に置かれているのが「礼」です。姿のない神霊という、通常ではコミュニケーションができない相手との交流をするという「礼」の機能は六芸すべてに通底するとして、著者は以下のように述べます。
「第一層の礼を社会的に行うのが通過儀礼です。五経の『礼』のひとつに『儀礼』という本があります。その中には、成人式(士冠礼)や結婚式(士昏礼)などの通過儀礼の式次第が載っています。私たちにもっとも身近な通過儀礼は卒業式でしょう。講堂の檀の下にいるときには『在校生』なのに、壇の上に登って卒業証書をもらい、反対側の階段から壇を下りると『卒業生』に変わり、学校からの縛りを一切受けることがなくなります。式の前とあとでは人格が変容する、それが通過儀礼です」



さらに通過儀礼について、著者は次のように述べています。
「人は、卒業や成人のようなさまざまな『通過』を人生の中で経験します。それがうまく機能しないと、それは『過ち』になります。『過ち』とは通過の『過』であり、過剰の『過』です。成人になっても大人になりきれなかったり、卒業をしても学校にいつまでも未練を持ち続けたりと、『通過』をうまくクリアできすに、前の時代の心身を持ち越してしまうことを孔子は『過ち』と呼びました。これは時間的な『過ち』もありますが、空間的な『過ち』もあります。風習の違う土地からやって来た人が、前の土地のままで生きようとすると、やはり『過ち』として現れます」



そして、それらは「過剰」という形で現れるとして、著者は以下のように述べます。
「大人になっても何かイヤなことがあると子どものような反応をしてしまったり、卒業をしてもしばしば学校に足を運んで『ウザい卒業生』と思われたりしてしまいます。それを避けるために通過儀礼があるのです。現代は、通過儀礼の力が弱まっているので、それがうまく機能しないことが多いようです。そうなったら孔子は『改めよ』といいます」
北九州のド派手成人式で馬鹿騒ぎをする新成人たちも、あのままでは大人に変容できないのではないかと心配してしまいます。ぜひ、「過ち」を「改め」てほしいものです。



「『文』と『質』」として、著者は以下のように述べています。
「孔子の学団で『礼』が、具体的にどのように学ばれていたかは想像するしかありません。貝塚茂樹氏は、礼のふたつの型式は『文』と『質』であるといいます。礼の学びは、この『儀礼(文)』と『実践(質)』でなされていたのではないでしょうか。装飾と訳される『文』は、礼の学びでいえば儀礼的身体の修養と儀礼的教養の獲得であり、素朴と訳される『質』は日常生活における徳目の実践です。孔子は初学者たちに『家においてはまず“孝”を、そして外に出たら“悌(弟)”を、そして言葉数を少なくして(謹)、言ったことは必ず実現するようにし(信)、多くの人に思いやりの気落ち(愛)を持ち、そして人(仁)に親しむ』ようにと勧め、そして、そのような行動を尽くして、さらに余力があったら『文』を学ぶといいだろうと言いました」



それでは、「孝」とは何か。著者によれば、「孝」はまさに孔子の儒教文化が完成させ、そして日本も含めた東アジアに大きく影響を与えた、世界的に見れば非常に特殊な徳目です。著者は、「親が子を養ったり、親が子のことを想ったりするのは本能であり自然なことです。しかし、子が親を思うのは本能ではありません。しかし、だからこそ子が親を養い、自分が親から思われた以上に強く親のことを思う、それが尊いのです。本能を超える力、それが『孝』です」と述べています。
「孝」と「老」の字の上が同じであることからもわかるように、「孝」の対象は自分の親に限らず、すべての老人となります。その人の能力や性格などとは関係なく、年上であるというわけで、また親というだけで尊敬しなければなりません。それが人間社会のすごさなのです。



孝に続く実践は「悌(弟)」です。目上の人を敬うという徳ですが、「なめし皮」という文字の原義から見ると「悌(弟)」には「柔らかな徳」という意味もあることがわかります。著者は、「決して大きな声でもないし、論理的に筋が通っているというわけでもない、それなのに、その人に柔らかくお願いされるとイヤといえない、そんな人がいます。そういう人が『悌(弟)』の徳を備えた人です。北風と太陽の、太陽の人です」と述べています。



第6章「仁」では、「上帝サテライトとしての『天』」として、儀式の問題が取り上げられます。著者は、殷の紂王が「衣」の儀式によって上帝と一体化していたのではないかと推測し、さらに以下のように述べています。
「日本で天皇が即位後最初に行う一世一度の新嘗祭である『大嘗祭』でも、衣は重要な意味を持ちます。即位式が地上の儀式だとすれば、大嘗祭は霊的な即位式だということができるでしょう。このときに天皇が伏す神座に設けた衾(ふすま)は、天孫降臨の時、高皇産霊尊が瓊瓊杵尊を覆って降ろしたという真床覆衾(まことおうふすま)(『日本書紀』)とも関係があるともいわれます。また、この真床覆衾に包まるということは天津神の直系であることを象徴するものとされています」



平安朝期の大嘗祭の形態を伝える『儀式 践祚大嘗祭儀』(思文閣出版)によると、大嘗祭当日の戌の刻に、天皇は廻立殿で湯浴をします。そのときにまず「天の羽衣」を着て背中を流されたあと、その衣を湯殿に置いたまま出て、別の衣に着替えます。「天の羽衣」は能の『羽衣』や『竹取物語』にも登場する衣で、これを着ると過去を忘れ、違う人格に変容するといいます。すなわち、人間としての天皇から現人神としての天皇に変容するための衣なのです。

儀式論

儀式論



最後に、「いのる」についての説明が興味深かったです。
日本語で「いのる」というのは、本来「い+宣(の)る」、すなわち神の名を唱えることでした。ですから平安時代までは「神にいのる」という用法はなく、「神をいのる(神の名を唱える)」という使い方をしていました。孔子はずっと「神を祷る」行為をしていました。しかし、弟子の子路がしようとしていたのは「神に祷る」でした。それは「祷り」ではなく「願い」だったのです。
そして著者は、以下のように述べるのでした。
「神霊は敬するだけでいい。願いのような祈りは必要ないと孔子は思っていました。神霊は遠ざけるもので、近づく必要はない。すべての人は、自分の中に神(帝・天)を持っていて、そして、ひとりひとりが別々の『神の刻印(天命)』を身に刻んで生まれて来ている、それに気づいたからです。すなわち孔子が長い間やってきたという祷りは、神に対する願いではなく、自分の中の神にアプローチする方法としての祷りだったのです」

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わたしは、本書を読んで唸りました。著者の『論語』の読み方は深いです。
ブログ「論語とマネジメント」で紹介したように、昨年の4月、わたしは「齋藤アカデミー」で特別講義をしました。社会起業大学・九州校が主催する、これからのリーダーを育成する私塾で、受講生のほとんどがMBAの取得者です。そこでわたしは「論語とマネジメント」を担当したのですが、著者の安田登氏も出講されており、「哲学・思想・宗教」を担当されていました。
ニアミスというか出講日が違ったために、わたしたちが出会うことはありませんでしたが、わたしは著者に拙著『儀式論』(弘文堂)を献本すべく事務局に預けました。安田氏にはぜひ一度お会いさせていただいて、『論語』について語り合いたいです。



2018年4月19日 一条真也