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一条真也の新ハートフル・ブログ

2016-12-07

『儀式論』旋風!

一条真也です。
東京に来ています。7日の夕方、 六本木ヒルズのハリウッドプラザにあるハリウッド大学院大学で「冠婚葬祭」についての講義を行います。

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神社新報」と「中外日報」の最新号



さて本日、サンレー本社に「神社新報」12月5日号と「中外日報」11月25日号が届きました。「神社新報」紙は全国の神社が購読している新聞、「中外日報」紙は全国の寺院が購読している新聞です。その神社仏閣全体を網羅する両紙に『儀式論』(弘文堂)の書籍広告が掲載されました。

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神社新報」12月5日号
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「中外日報」11月25日号



神社新報」ではタテ、「中外日報」ではヨコと、レイアウトは違いますが、ともに「『儀式とはなにか』を突き詰めた渾身の大著」「人間が人間であるために儀式はある!」というコピーに続いて、以下のように書かれています。
「『人類は生存し続けるために儀式を必要とした』という壮大なスケールの仮説の下、知的でスリリングな儀式有用論を展開する。儀式の本質に迫るとともに、現代日本を蔽う『儀式不要』の風潮が文化的危機であることを論証する600頁の書き下ろし!」



広告のおかげもあって、日本中の神社や寺院から版元の弘文堂に『儀式論』の注文が続々と入ってきています。函入りの豪華本なので、神社仏閣の応接間に置くにも最適な本であると思います。何よりも全国の神官や僧侶の方々が『儀式論』を読んで下さっている姿を想像すると胸が熱くなります。冠婚葬祭業界からの注文FAXも止まず、6日もアイパルさんから大量注文が入りました。本当に、ありがたいことです。

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不識庵の面影」より



また、「書評の達人」として知られる不識庵さんが、自身のブログ「不識庵の面影」に「『儀式論』その読み方と所感」と題する記事をUPして下さいました。これがまた物凄い記事で、おそらく日本のネット書評の歴史において最も凄い記事ではないでしょうか。このたび、多くの冠婚葬祭互助会さんなどが大量購入して下さいましたが、実際に『儀式論』を読み始めてみて、「難しい」「なかなか読み進めない」と困惑している方も少なくないのではないでしょうか。そんな方々も、この不識庵さんの「『儀式論』その読み方と所感」を読めば、必ず最後まで読了できるはずです。不識庵さん、最高の読書ガイドをお書きいただき、本当にありがとうございました!

儀式論

儀式論



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年12月7日 一条真也

2016-12-06

『決定版 日本人の論語』

決定版 日本人の論語


一条真也です。
『決定版 日本人の論語』谷沢永一著(PHP研究所)を読みました。
伊藤仁斎『童子問』を読む」のサブタイトルがついています。
江戸時代に多くの人々が読んだ名著が、現代日本に蘇ります。

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本書の帯



帯には「人生について、人間について、深く考えるらめの至高の書」と大書され、続いて「愛情のかけすぎは家族の人格を歪める。意志の弱さは、悪の発生源である。気にするな、孔子でさえ悪口を言われたのだ」「PHP新書『日本人の論語』上・下を1冊にまとめて復刊!」と書かれています。

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本書の帯の裏



アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「江戸の儒学者・伊藤仁斎はただテキストを暗唱するのではなく、その真髄を理解し、本来の学問としての究極の信念を理解しやすく書いた。本物の学問とは、人生をいかに生きるべきかをめぐって心の修練を重ねる努力である、という日本人の特有の学風が生まれたのも仁斎の出現による。仁斎がその人生最後の日まで手を入れた『童子問』を、書誌学の谷沢永一がその風格を活かしつつ、訳したのが本書である。巻の上16章:盗賊にも彼らなりのモラルがある。だから教育は可能である。巻の中13章:天下国家の治政を願うなら、人々が実行できない規律は強制するな。巻の下11章:天命を知る者はその身を慎む・・・など、現代に生き返った仁斎ならどう表現したかと、広く想像をめぐらし補足し省略もしている。上・中・下巻を1冊にまとめ159章からなるが、どの章から読んでもそこには人生について深く考えさせる倫理がある」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに――『童子問』は「日本人の論語」である
例言
刊行の辞――伊藤東涯
巻の上
巻の中
巻の下
『童子問』秀逸語録
解説――伊藤仁斎について
附記――日本の漢籍註釈書紹介
追記――明治以降の漢籍研究書紹介



「はじめに」の冒頭では、「古典は人生について深く考えさせる別格の書物」として、著者は以下のように述べています。
「遠い昔の述作であるのに、今なお新鮮な感銘を与え、『人生について』『人間について』
深く考えさせる別格の書物を、我々の祖先は古典と呼び、尊重しまた敬愛してきた。
その種類は多すぎて数えきれない。すべてを読み切るなど不可能である。古典に学びたいとは思っても、まず選ぶことから始まる。もちろん客観的な基準はない。何かの縁によって惹きつけられ、とにかく好奇心に従う。いずれにせよ、ほとんど偶然に出合うのである。それがいたって正常な道であり、あとはその書物に導かれ、未知の世界へ進むしかない」



著者は、読むべき本のジャンルとして、1.哲学、2.歴史、3.社会思想、4.経済学、5.社会思想史論、6.政治学、7.法律学を並べ、8番目に思想史を挙げて以下のように述べます。
「哲学者とは認められていないが、人間性について人間社会について真剣に考えたthinkerの系列。その特徴は、(1)平易な用語でわかり易く言い表わす。(2)必ず独立した存在で、学派や学統の権威を借りない。(3)哲学は哲学史という系図に所属しなければ哲学者ではないが、この人たちはすべて哲学と無縁である。(4)高名な哲学はその弟子たちによって、その著作をますます難しくするような注釈に飾られているが、こちらにはそんな装飾は原則としてない」



また著者は、「『論語』は世界の名作である」として、以下のように述べます。
諸子百家のそれぞれについては専門家の研究に任せる。ここでは2人の巨人だけに注意しよう。言うまでもなく、孔子と孟子である。この2人以外にも孫子あり、韓非子あり。しかも、『孫子』は世界一の兵書であり、『韓非子』はマキャベリに優ること数等、と徳富蘇峰(『読書九十年』昭和27年)が折紙をつけた。どちらもたしかに秀逸ではあるけれども、しょせんは技術の書である。
それに対して、孔孟は人生の書であるというところが違う。それゆえ『論語』をモラリストの書と見るのである。世にモラリストの書は多い。しかし、どの名作にもどこか偏りがある。ラ・ロシュフコーは村正のように斬れるが、口外することをはばからねばならぬ方面もあろう。世の著作とはそういうものである。
けれども『論語』だけは例外である。内容が普遍に徹している。いつ、どこで、誰に見せても差し支えない。日本だけではない。世界中の誰に伝えても抵抗しないであろう(特定の宗教を別にして)。これほど人情の自然に立脚した書物は見出し難い」



著者は、「仁斎が日本の学問を変えた」として、以下のように述べます。
「仁斎学は古学と呼ばれる。古典を現代風の自分勝手な気のきいた思いつきの主観で読むのではなく、『論語』が孔子によって語られたその時代において、どのような含みで受けとられ理解されたか、その思考方式を、その時代に即して解釈するのが学問の正道であると考える。
この態度を貫くためには、『論語』を読んで読んで読み抜かなければならない。仁斎の思想はその成果として生まれた古典読解法の産物である。と同時に、古典をそれが書かれた時代の常識と感覚と念慮に立ち戻って咀嚼するのを正道とする仁斎の信念は、古典学の最も妥当な姿勢として、今日の時代まで一貫して、心ある学者によって伝えられ踏襲されているのである」



また、「日本の文献学の創始者」として、著者は以下のように述べます。
「加えて、また仁斎は我が国における文献学の創始者となった。すなわち古典の成立過程の究明や編纂内容の錯誤検討、偽書吟味、図書の外側から問題を発見する研究を、文献学また書誌学または図書学と称する」



著者は、伊藤仁斎の業績を以下のようにまとめます。
1、儒学を読書の学から人生の学へと根本義に戻して決定的に転換した。
2、師が講じるのを聞く形式から同学の士による和やかな対等の討議検討に変更した。
3、漢文に独得の語彙語法の構成や、表現に特有の調子を学んで、読解力に誤りなきを期し、和臭(日本人が創った漢詩・漢文に表われる日本人流の表現の癖)を除いた。
4、四書の権威をものともせず聖典の文献批判を広く行い、書誌学の先駆となった。
5、それまで二流扱いされていた『孟子』を、『論語』を理解する鍵であると頌揚した。
6、古典を理解するには、それが成立した時代の社会意識に遡るべしと、古典学の髄を示した。
7、人間の「道」を知るためには事実に即した明白端的な説に即くべきで、また論は須く卑近であれとした。
8、「道」は「仁義」である。「人の外に道なし」である。君臣父子夫婦兄弟朋友との間に「道」がある。
9、人間の生まれたときの性はだいたい似たようなものであり、人は善を悦び悪を憎むのだから、人の性は善である。
10、生まれながらの性を拡充し存養し「道」のほうへ誘導し努めるのが「学」である。
11、仁者の心は愛を以て本体とする。ゆえに心が寛やかで偏らず、楽しんで憂いなし。
簡明を旨としたので、以上を以て終わる。



巻の上5章「最も尊い真理は知り易く行い易い」の「復習」では、著者は以下のように述べています。
「古代支那の思想界に発展を目指す志向が乏しいのは、理想の聖人をはるかに遠い昔に想定し、復古を思考の基軸とした弊害による。
富永仲基が加上の説を以て喝破した思考法を借りるとするなら、はじめは周公を理想としたかと思われる。しかしそれよりもっと上位の聖人を想定したい。そこで遡って三皇五帝を敬仰する。この段階で帝堯と帝舜が出現する。
時代の古い人ほど徳が高く聖人としての尊さが重い。この考えの反動は、世が降るにしたがって聖人が姿を見せなくなり、世間には徳行が減り人情が薄れるという末世思想である。これほど不健康な、進歩を阻害する観念はほかに見出し難い。
孔子が世に現われた意義の最たる要素は、この、古いほど偉くて及び難いと信じる古聖人神話を打ち破った思考転換である。孔子の修養による人格の円熟は、現世の生身の人間でも、努めれば堯舜を越えうるとの範例となった」



巻の上9章「人間性に即してない道徳は、真の道徳ではない」では、以下のように述べられています。
「問う。『「人の外に道なし」と言います。その論拠は何ですか』
私は以下のごとく答えた。『人とは何かと考えてみよ。人とは、君臣であり、父子であり、夫婦であり、兄弟であり、朋友である。このように立場をそれぞれ異にするものの、人間関係を成り立たせている道理はただひとつのみである。君臣にあっては義、父子には親、夫婦には別、兄弟には叙(順序)、朋友には信、いずれも両者の関係に基づいて表現が変わり、態度と所作では重点の置き方が移る。この世に人間がいなければ、そもそも道理があるはずもない。それゆえ、人と無縁な道理はないと言ったのだ』」



続けて、巻の上9章では以下のように述べられています。
「問う。『では「道の外に人なし」と言われる根拠は何ですか』
私は以下のごとく答えた。『道理とは何か、仁、義、礼、智である。これらの重要な道徳のなかに、譬えてみれば、人間はしっかり閉じ込められていて、少しの間もそこから離れることができない。離れてしまえば、人間が人間でなくなってしまう。それゆえ、人間である限り道徳は必ず守られると言ったのである。
一般に、この現実世界から外へ跳躍して論じたり、見聞できない大昔や地の果てから話を起こしたり、珍しいけれども人間の生活にとって何の助けにもならず、天下国家の政治に役立たない議論は、すべて人を惑わす邪説の最たるものである。
たとえ宇宙の外にまた同じく宇宙がある場合、かりそめにもその地に人間が生じておれば、彼らの間に必ずや君臣父子夫婦の人間関係とその構造を維持するための道徳が行われて、仁義礼智の規律を守っているであろう」



巻の上11章「孔子でも『中庸の徳を体得するのは難しい』と言った」の「復習」には、以下のように述べられています。
「宗教にせよ学派にせよ、世界に数多い聖典教典のすべては、人を何かに駆り立てる発射装置を具えている。さらに加えて、他宗他教他派を批判し攻撃するための、理論武装に怠りない。その共通性から外れた特殊な例外として、儒教と神道を挙げることができよう。仁斎は中庸を孔子の教えの極致と見た」



巻の上17章「君子と小人の差は学問の差である」の「復習」には、以下のように述べられています。
「人間の成長は学問によってしか達成できない。政治力の面でいくら苦労を重ねて有能となっても、それによって人格が向上するわけにはいかぬ。建築や工藝の技術が密になっても、世間一般に処する見識が伴うとは限らぬ。いかなる道を行くにしても、そこに学問が加わらなければ、才能も技術も偏頗になるのを免れないであろう。
仁斎は第5章で、『論語』を、『最上至極宇宙第一の書』と嘉賞した。そして、第17章では、孔子を『生民以来、未嘗て有らざるの至聖』と敬仰した。共に仁斎が史上初めて発した嘆声である。私はこれを過褒にあらずと同感する」



巻の上34章「仁義礼忠信は、人間関係を円滑にする心得である」では、以下のように述べられています。
「孔子学派における学問では、仁を第一義として尊び、それに対応して義を大切に考え、それの補いとして礼を重要視し、その基礎となる忠信を必須と見る。仁と義とは陰陽の関係にあり、組み合わさって一体となる。
したがって『程氏遺書』(程頤)に、『孟子は仁を主唱する。ただし、必ず義を以て対応させる』と説明する。両者は密接に相互依存して切り離せない。
礼は仁が崩れないように守る防波堤である。そこで程子は、『仁と礼とは相依り助ける』と指摘した。礼を欠けば仁が成り立たない旨を言うのである。自己に忠実で、かりそめにも自己を詐らない正直を忠といい、他人に誠実であることを信という。以上は学問の基本である。
ゆえに程子は、『忠信を以て下地と為』と要約した。家屋を建てるのに基礎工事が必要であるごとし。これが学問の総括である。すべては仁を為すための行程である」



巻の上39章「孔子の教えをひと言で表わすと『愛』である」では、以下のように述べられています。
「孟子曰く。『親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す』。つまり、親族には特に親しみ、人民には仁、すなわち思い遣りの真心を以て臨み、そして物を愛す、すなわち生きとし生けるものに愛憐の気持ちを持つ、の意である。
そもそも君臣の義、父子の親、夫婦の別、兄弟の叙(順序)、朋友の信、これみな根本の愛から発する。その愛たるや、思いの深い真心から生じる。ゆえに以上の五徳を吟味するなら、愛に根ざしている場は真情であり、底に愛のないときは偽装にすぎない」



巻の上42章「仁とは人間が心安らかな境地であり、人道の根本である」では、以下のように述べられています。
「問う。『孔子、孟子が主唱する仁の、その趣旨をお教えください』
私は以下のごとく答えた。『仁とは、人道の根本であり、一切の善を総合した要である。天道に陰陽の二気があるように、人道は仁義の照応によって支えられている。ゆえに孟子は言う。「仁は人間が心を最も安らかにしていられる境地であり、義は人間の最も自然な行路である」と。仁と義とは離すことができないものの、いずれが肝心であるかと言えば、仁こそ決定的に重要である。それゆえ孔門の諸子は、決して仁を手の届かぬ高遠なところにあるとは考えず、むしろ日常茶飯のなかで、当たり前に処する人間関係と心得て、わざわざその意味を詮索する者はいなかった』」



巻の上43章「仁の人は他人を黙殺したり陥れたりしない」では、以下のように述べられています。
「問う。『仁が徳として完成された暁には、どのような人物になるのか、お尋ねしてよろしいでしょうか』
私は以下のごとく答えた。『承知した。慈愛の心が、すべての徳と融合して渾然一体となって発露し、自身の内面から外側へ、その何物に対しても遍く浸透し、至らぬところなく行き渡る。酷い心、冷えきった心、苛める心、黙殺する心、陥れる心、そのような他人を突き放す暗い念慮は一厘一毫も影さえ見せない、まさにこのような心情をこそ、仁という。
この人へは心を掛けるが、かの人には心を向けないというふうに区別するのは仁ではない。1人にだけは心を通わすが、10人の人にも均しく心を遣らないという不公平は仁ではない。ほんのわずかな時間、眠っている間、どんな場合にも愛の心が一貫し、心と愛がひとつになる。この状態が仁である』」



巻の上「学問は仁の実践家を育てるためにある」では、以下のように述べられています。
「問う。『人間の徳として最も高い水準にある仁の究極的な核心は、愛の心情でありましょうか』
私は以下のごとく答えた。『詮じつめれば、仁の核心は愛である。仁は建前ではなく、実行できる徳であり、志ある者なら実行しなければならない徳である。心に愛がなければ、仁という徳は目に入らない。冷酷残忍嗜虐の心があれば仁とは無縁である。ゆえに、学は仁に至って、充実した実地の徳という里程標に達し、各種の善行が可及的に為される。仁の徳たるや、その余波は遠くまで届くのである』」



巻の上46章「愛の心は水の流れのように時と処と人により千変万化する」では、以下のように述べられています。
「もともと仁者は根本に愛の心を基とする。ゆえにその気分は落ち着いている。その心は平である。心が沈着であれば、したがって心はゆったりと広く、人を毛嫌いせずに包容する。度量が大きくいかなる人にも温かい。したがって常に悠然として鷹揚である。腹が据わっていて物事に動じない。したがって気分が明るく万事に楽しみを見出し、自ずから興じる。気持ちが生き生きして見ること聞くことが面白い。したがっていつも泰然として心にかかることが何もない。
心に憂いなく思い患うことなく平安である。心が平安なときは何を為ても仕事が捗る。あれは苦手だ、これは難儀だ、などと避けるべきことがなく、すべてが穏当に成し遂げられる。このような晴れ晴れとした状態こそ、仁の道が至り着く究極である」



巻の上58章「思いやりは仁への近道であるが、仁とは別ものである」では、以下のように述べられています。
「問う。『孟子曰く。「強め恕って行う、仁を求むること近きは莫し」と。その意味は如何』
私は以下のごとく答えた。『仁と恕との相違が問題なのであろう。まず求むるという言葉に注目せよ。一般に、求むるという語は、その人が今のところ持っていないものを求むる、という意味である。この求むるという表現を、至るという字と同じに解釈してはいけない』」



また、以下のようにも述べられています。
「『仁の徳は努力したからといって成し得るほど容易ではないが、恕、つまり思いやりであれば、勉励する限り、その心を育成することができるだろう。仁は徳を具えた者でなければ達し得ないが、恕は強い意志力によって行おうとする者ならば必ず為し得る。このように意志力で可能となる恕を為しているうちに、自然と、努力によっては不可能な仁を体得してしまうという成り行きとなる』」



さらには、以下のように述べられています。
「『仁はあくまでも仁である。恕はそのままの姿において恕である。恕を大きく考えすぎて、恕を、あたかも仁に到達するための階梯であるなどと思ってはならぬ。また、仁と恕との区別は、未熟と成熟とか、または大きい小さいとか、その程度の隔差であるなどと軽く見縊ってはならないのである』」



巻の中7章「智は技巧、聖は力。目的を達するのは両方必要である」の「復習」には、以下のように書かれています。
「世界の宗教では、聖書やコーランのように単独の聖典が定められている。佛教だけは唯一の例外で、釈迦が入滅した紀元前385年(異説あり)頃から、6世紀すなわち紀元500年代、中国僧の智擇佛典を整理分類するまでの約900年間、経文は絶えず増え続けて厖大な量に達した。すべて釈迦とは関係のない創作である。
印度のみならず佛教の通った道、ネパールはもちろんであるが、カイバー峠を越して東へ西へ、アフガニスタン、カシミール、タジク、キルギス、ウイグルなど各地に住む無名の天才たちが、奔放な空想力を発揮して、情熱的な増産に励んだと推定する。この想像を佛教界では絶対に認めないであろうが、どの宗教も遡れば国際的に合成された雑炊なのである。
佛教経典の集大成は我が国の学者が完成した。『大正新修大蔵経』全100巻各巻平均1000頁(大正13年)がそれである。1冊に経典約200巻を収録した。内容は漢訳に限られているので、もちろん誤訳と勝手気儘訳の産物であり、印度佛教とは違う支那佛教である。原典はパーリ語、サンスクリット語、印度の方言アパブランシャ語、新疆の古代史語各種である。この原典と、漢訳と、独自の日本佛教と、佛教は3種と記憶しよう」



巻の中10章「人情と欲望を自然なかたちで発揮するのが人間の生き方である」では、以下のように述べられています。
「礼と義とを以て心を抑制する意志力を失わぬ限り、人情はそのまま道となり、欲求はそのままで道理となる。情と欲とをいけないと斥ける理由はない。しかるに礼儀を以て自制する行程を踏まず、闇雲に、愛の心を断絶し、情欲を消滅させようと努めるなら、容器が曲がりすぎているのを直すのに力を入れすぎ、今度は真直に戻って使い途がなくなったような結果になる。すなわち穏やかな親しみのある物わかりのいい表情が、掻き消すようになくなって、生きている感覚もどこへやら、見ること聞くことに興味なく、生ける屍になり果てるであろう」



巻の中12章「緊迫ではなく、ゆったりとしたところに道がある」の「復習」には、以下のように書かれています。
「人間の持って生まれた情欲を肯定する。この立脚点から発したのが礼である。初めから礼ありきではない。古代の礼は道徳論の押しつけであったが、孔子の礼は調整であり、度の過ぎた情欲に対してのみ抑制となる。人間性の自然を尊ぶ。この目途から外れないゆえに、孔子の教えは万人を首肯せしめたのである。理屈で押して、美容整形みたいに人間性を切ったり削ったりする論理、さらに進んでは平均的な人間には為し得ない苦業を求める教理、それらはすべて邪道である」



巻の中13章「天下国家の治政を願うなら、人々が実行できない規律は強制するな」の「復習」には、以下のように書かれています。
「『吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん』孔子が心情を吐露したこの一句は、ほかの書物には出てこない痛切な表現である。孔子の学が、徹底して人間学であるという根本性格が、しみじみと納得できる名句である。人間は人間の群れから離れたら人間でなくなる。この認識をのちの作家が言い換えている。
夏目漱石『草枕』(明治39年)。『人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向こう三軒両隣にちらゝする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう』」



巻の中26章「音楽が盛んなのは、民の生活にゆとりがあるからだ」では、以下のように述べられています。
「要するに、礼は節倹に生ず。音楽は余裕のある生活から生まれる。唐虞3代の世は、家庭生活が保障されており、財産に不足がなかった。それゆえ民の心はなごやかで人間関係も親密であった。晨より夕べ、春から冬へ、つまり1年を通じて誰も心安らかで何の心配もない。それはちょうど正月の吉日、他所行きの着物を着て儀容を改め、觶を挙げてお祝いのめでたい言葉を述べ、お互い長生きするよう祈り合って、家中が楽しく、年末の苦労をすっかり忘れる、そのような気分の時代であった。したがって、礼が重んじられ、音楽が奏でられるのは当然である」



巻の中36章「親孝行は、愛の究極の形である」では、以下のように述べられています。
「問う。『孝についてお聞かせください』
私は以下のごとく答えた。『孝は愛を以て本とす。愛するときは、すなわち従順である。親に従順であれば、為すことすべて徳行となる。順とは父母の心に逆らわざる、この一筋である。自分の親に愛を以て仕えずして、他人に愛情を向けるのを、道理に背く悖徳という。自分の親に従順ではないのに、他人に従順なのを、為すべからざる逆徳という』」



巻の下17章「正しくない学問は、人心を惑わし国家を乱す」では、以下のように述べられています。
「問う。『老荘の学は孔門を指して異端と見做します。けれども老荘の学を好んだところで、そんなにひどい害はないと思いますが』
私は次のごとく答えた。『老荘の害は上っ面だけを眺めている限りでは風邪引きぐらいにしか見えないが、その症状を拡大するときは、その害が明々白々に浮かびあがる。世の一般人がこの学を好むとなると、真先に必ず礼法を憎み、自分の身を引き締めることを厭う。それゆえ家業を潰し家を保持できなくなるまでいってしまう。況んや国家の柱石たるような重要人物が、老荘に耽ったりしようものなら、その害は国家天下に広く及び、人心は意欲と希望と張りを失い、風俗は日に日に頽廃し、世の秩序が乱れて国家の体をなさなくなる。恐れざるべけんや』」



「『童子問』秀逸語録」では、著者の谷沢永一が「学者であり、モラリストでもある仁斎」として、以下のように述べています。
「仁斎は単なる学者ではなく、懐の深い悠揚迫らぬモラリストであった。それゆえ仁斎の全貌を洩れなく理解するためには、『童子問』の鋭鋒を振り仰がなければならない。
書いては消しまた書き直し、生前ついに版行せず、条項を次第に増やしていった『童子問』のなかには、仁斎が確信を以て語りかける箴言が、見事に要約した表現を以て鏤められている。その要となっている仁斎独自の洞察眼は、一度ならず重ね重ね、肝に銘じて然るべきではなかろうか。仁斎は日本のセネカでありモンテーニュであり、ラ・ロシュフコーである。同時にまた近世人文学の始祖であり、内部証明に基づく文献学の開拓者であり、日本儒学の創始者である。その活気に満ちた訓誡を、もう一度心を澄まして聞きとりたい」



「解説――伊藤仁斎について」では、冒頭に「学問の本質に迫った仁斎」として、「伊藤仁斎は、我が国における学問の意味内容を、史上最初の明確な気魄を以て、根本からの転換更改を促進させた」と書かれています。また、著者は以下のように述べるのでした。
「仁斎は問う。『学問とは何か。学問なるものは、文献を覚え込む表面的な知能を誇る競争にあらず。学問とは、文献の出典を探索する訓詁注釈にあらず』
仁斎は、学問の真実なる核心を衝いて痛切の言を発する。学問とは、学ぶべき者が生を享けたひとりの人間として、どこから見ても捩れて欠落した羸弱がないよう、聚合する人の世に立ち交じって生きるのに、必要にして十分な道徳の自戒を身に体し、謙虚で沈着で温和な性を養い、親族とは自然で円満な親しみを醸しだし、以上のような自己を円熟した人格に成育する過程、その努力がすなわち社会生活の適格者となるための道である」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年12月6日 一条真也

2016-12-05

『21世紀の論語』

21世紀の論語: 孔子が教えるリーダーの条件


一条真也です。
『21世紀の論語』佐久協著(晶文社)を読みました。
「孔子が教えるリーダーの条件」というサブタイトルがついています。
著者は1944年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院で中国文学国文学を専攻。後に慶應義塾高校で教職に就き、国語・漢文・中国語などを教えました。同校生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれたそうです。退職後に執筆した『高校生が感動した「論語」』がベストセラーとなり、NHKでも『論語』の講座を担当しています。

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本書の帯


本書の帯には「ニッポン社会のネジを巻きなおす!」というキャッチコピーに続いて、「不透明な時代を生き抜くためには、今こそ孔子の知恵が必要だ。ベストセラー『高校生が感動した「論語」』の著者による現代版『論語と算盤』!」と書かれています。



またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。
「古くから日本人の精神と道徳を支え、福沢諭吉渋沢栄一など知識人にも大きな影響を与えてきた『論語』。近代以降においても黒船来航、敗戦といった国難を乗り切ってきたのは孔子の教えだった。
バブル崩壊、リーマンショック、3・11・・・・・・政財界は迷走し、人々は閉塞感から抜け出せずにいる。ニッポン再生のためには、今こそ孔子の知恵が必要なのだ。『論語』には人間教育のエッセンスが充ち満ちている!
ベストセラー『高校生が感動した「論語」』の著者による21世紀的『論語』再考」

高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)

高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「はじめに」
The 1st Step 三つの主義
The 2nd Step 一つの願望
The 3rd Step 四つの心
The 4th Step 五つの力
The 5th Step 三つの養
The 6th Step 三つの論
The 7th Step 二つの観
「おわりに」

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本書の帯の裏



「The 1st Step 三つの主義」では、「徹底した現実主義者としての孔子」として、著者は以下のように述べています。
「世界の三大聖人のうち、ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ)と孔子はほぼ同時代人であり、ソクラテスは孔子の死後10年ほど後に生まれていますが、3人の主張を比べてみると孔子の特色が明瞭になります。ブッダならば、父子の庇い合いはもとより、父親が迷い羊を自分のものにしようとした行為そのものを「煩悩」として斥けるでしょう。ソクラテスは、皆で認めた法ならば悪法でも従うべきだと主張して自らの死刑を受け入れたくらいですから、葉公と同じく躬を褒める立場に立つでしょう」



続けて、著者は以下のように三大聖人を比較します。
「ブッダとソクラテスの共通点は、〈理性〉や〈知性〉の力で、人間の〈感情〉を押さえ込もうとしている点です。2人は、感情に基づく行為を野放しにすれば社会秩序は乱れ、個人の平安は得られないと考えているのです。これに対して孔子は、諦念や法律によって感情を押さえつけたのでは、かえって本当の心の平安や社会秩序は生まれないと考えているのです」



また著者は、孔子の人間観および社会観について以下のように述べます。
「“人は人の中で人となる”というのが孔子の人間観および社会観でした。世間に背を向けて引き籠もったり、隠遁したところで、人間社会から完全に離脱できるわけではありません。人間である限り、どこにいようと、どんな生活をしようと、広い意味での人間社会にいることに変わりはないのです」
さらに著者は、「人間社会を『俗世間』と呼んで見下したり否定したりするのは間違っている。積極的に人間社会にとどまって、人間社会を変えることなしには個人の平安も、社会の安定も得られない――というのが孔子の根本姿勢だったのです」と述べます。



著者は、(1)緩い道徳観(2)緩い宗教観(3)俗世間の容認の3点が、孔子の現実主義の三本柱だとして、以下のように述べます。
「政治家であれ企業家であれ、社会的なリーダーを目指す者は、この孔子の現実主義を見習い、こうした緩い条件の中でも実行できる社会政策や個人計画を立てるべきです。さもなくば、いかなる政策や計画も絵に描いたモチで終わるか、理想に走り過ぎて他人や自分を苦しめる手枷や足枷になってしまうのがオチなのです」



著者は「個人主義者としての孔子」として、福沢諭吉を引き合いに出しながら、孔子について以下のように述べます。
「日本では、明治初期に福沢諭吉氏が『独立自尊』のスローガンを掲げて個人主義を広めましたが、福沢氏も地位も金もコネもなく我が身1つで世に打って出ようと志した人物です。頼れるのは自己一身の才覚であり、福沢氏の生き方自体が個人主義の見本となったのは当然だったのです。孔子の場合も状況はまったく同じでした」

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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続けて、著者は福沢諭吉と孔子を比較しながら、以下のように述べます。
「個人が社会や国の基本であり、個人が自分の才覚によって世の中を動かすことができると宣言する個人主義思想は、明治時代の若者に熱狂的に支持され、福沢氏が書いた啓蒙書『学問のスゝメ』は人口3000万の時代に300万部も売れたのです。同様に孔子の個人主義的な生き方も、当時の中・下層階級の若者たちの心を捉え、孔子の私塾は門弟3000人と称せられる若者を引きつけたのです。つまり、『論語』とは、2500年前の『学問のスゝメ』であり、孔子塾は2500年前の白熱教室だったのです」



「The 4th Step 五つの力」では、「公正力を磨く」として、著者は礼儀作法の問題を取り上げ、以下のように述べています。
「リーダーが地位にあぐらをかいて普段から威張り散らしていては、自ら失敗した時に潔く失敗を認めて謝ることなどできません。それを防ぐには日頃から部下に対して礼儀正しく振る舞うことが肝心です。
『礼』は『仁』と並ぶ孔子の思想のキーワードですが、『仁』とは思いやりの心であり、『礼』
とは思いやりの心が外に形となって表われ出たものを指します。ですから、見た目がどんなに優雅な挙措動作でも、そこに思いやりの心が込められていなければ、いわゆる慇懃無礼の類で、『礼儀正しい態度』とは呼べないのです」



また著者は「交渉力を磨く」として、社交力の問題を取り上げ、以下のように述べます。
「孔子は、自然な流れとして親→兄弟姉妹→友人→同僚→上司の順に人間関係を築いていけば無理なく社交力を活性化でき、最終的には、―― 四海の内、皆な兄弟(顔淵第12―5)―― 世界中が兄弟のような関係になれる。――と考えています。孔子は、―― 相手を尊敬して誠実に接すれば誰もが心を開くようになる。(子路第13―19)――とも主張しています」



孔子は「君子に九思あり」(季子第16−10)と述べて、良きリーダーとしての条件を9点挙げていますが、著者が以下にまとめています。
(1)的確にものを観ることができるか?
(2)部下の言うことを誤りなく聞くことができるか?
(3)表情を穏やかに保っているか?
(4)立ち居振る舞いが礼儀にかなっているか?
(5)言葉を違えないか?
(6)仕事に誠実に取り組んでいるか?
(7)わからないことを目下の者にも訊けるか?
(8)見境いなく怒ったりしないか?
(9)社会正義に反した利益を追求していないか?



「The 5th Step 三つの養」では、「家を斉える」として、以下のように述べています。
「孔子は最晩年にこそ家でのびのびと生活をしていた(述而第7−4)ようですが、彼の生涯は家庭的には恵まれたものではありませんでした。父親は魯国の武将だったと伝えられていますが、孔子が生まれた時に60歳を越えており、孔子が数え齢3歳の年に亡くなったとされています。以降は母親の手で育てられたようです。ちなみに孔子を崇拝してやまなかった孟子も母子家庭だったようです。孔子は子供の頃に神霊を祭る遊びをしていたと伝えられているところから、母親はそうした世界に関係していたのではないかと推測されており、自川静氏は「巫児の庶生児ではないか」と推測しています。巫児というのは、結婚をしないで巫女となった女性です。そうだとすると、巫女は結婚を禁じられており、孔子を産んだ母親は破戒の巫女だったわけですから、さだめし陰口もたたかれたことでしょう。孔子はイジメに遭っていたかもしれません。ただ、巫女は文字に通じており、孔子は文字を母親から習うことができた利点はあったでしょう」

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

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また、孔子と福沢諭吉の「子育て」論を比較しているのですが、「福沢氏の子育て」というのがなかなか興味深かったです。福沢は夫婦や家庭のあり方に関しても、子どもの養育に関しても極めて開明的だったそうです。彼は夫人との間に四男五女をもうけ、『福翁自伝』に「品行家庭」の一章を設けて自らが実践した子育ての秘訣を示しています。それは、以下の5点です。
●夫婦・親子が仲良く暮らす。
●夫婦・親子間に隠しごとをしない。
●子どもたちを平等に扱い、男児・女児の間に軽重愛憎の差別をつけない。
●躾は、温和を旨とし、大抵のところまでは子どもの自由にまかせる。
●五歳までは知識教育を控え、身体を動かすことを優先させる。



そして、福沢諭吉が唱えたという「夫婦創姓」について、著者は以下のように述べるのでした。
「福沢氏は、門閥を根底から崩そうと、明治18年(1885年)に『日本婦人論』を著し、男女が結婚したら両者の姓の一部ずつを取ってまったく新たな姓を名乗るべきだと主張しています。そうすれば夫婦で協力して1つの家庭を築くという意識を持てるようになり、代々にわたって家門を護るという従来の封建的な家庭意識を改められ、長男重視のいびつな養育方針や、門閥制度も打破できると考えたのです」



もう、みなさんもお気づきのように、この『21世紀の論語』という本には、孔子に負けず劣らず、福沢諭吉が何度も何度も登場します。著者は、『論語』とは2500年前の『学問のスゝメ』であると明言しているのですから、福沢諭吉は「日本の孔子」だと思っているのでしょう。ということは、慶応義塾は「日本の孔子塾」ということになります。それはまあいいのですが、福沢諭吉にいちいち「氏」をつけているのが気になりました。明治時代の人物に「氏」をつけるのはどう考えても変でしょう。
どうしても呼び捨てにしたくなくて敬称をつけたいのであれば、慶応義塾出身の著者は「福沢諭吉先生」と書くべきであったと思います。
そのへんが気になって、どうも読書に集中できませんでした。(苦笑)



ちなみに、わたしも『世界一わかりやすい「論語」の授業』(PHP文庫)という著書で孔子のリーダーシップ論について詳しく紹介しました。
豊富なイラスト付きで、非常に読みやすい『論語』入門になっています。

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント

孔子とドラッカー 新装版―ハートフル・マネジメント



また、リーダーシップの真髄は「人間通」になることですが、孔子は人類史上最大の「人間通」であったと思います。拙著『孔子とドラッカー新装版』(三五館)で、わたしは福沢諭吉ではなく、最高の「経営通」であるドラッカーと比較しながら、ビジネスに活かせる孔子の思想を紹介しました。
まだ読まれていない方は、ぜひ御一読下さい!



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年12月5日 一条真也

2016-12-04

『百歳の論語』

百歳の論語


一条真也です。
『百歳の論語』伊與田覺著(致知出版社)を読みました。
「いまも論語が面白い。いまも論語に生きている。百歳、なお論語を説いてやまず」というサブタイトルがついています。著者には、ブログ『修己治人の書『論語』に学ぶ 「人に長たる者」の人間学』ブログ『「大学」を素読する』で紹介した著作もあります。

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本書の帯



本書の帯には著者の顔写真と、致知出版社の藤尾秀昭社長が「その話を全身で傾聴する聴衆を数多持つ人は有史以来、おそらく伊與田氏お一人である。その意味で氏は、かつて誰もが至り得なかった頂に立っている」という言葉を寄せています。



また、アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「『論語』とともに歩んで90余年――。本書は昨年百歳を迎えた著者が行った連続講義を書籍化したものですが、 三時間という長丁場を、びしっと背筋を伸ばして講演されるお姿は健在。受講生の経営者たちは身を乗り出すようにして話に聴き入ります。本書では、恩師・安岡正篤師とのご縁をはじめ、道縁に導かれた氏の歩みを回顧しつつ、心に響いた『論語』の名句などを多数収録。
『論語』には道徳の基本がすべて詰まっていると氏が述べるように、人間の道の根本となるもの、本学と末学の違いなど、氏の言葉には、人物となるための要諦が凝縮されています。
命ある限り、日に新た、日々に新たに精進し、一貫した道のりの末に、最も完熟した品格を備えて息を引き取りたい――。90余年もの間、倦まず弛まず日々『論語』を素読する著者。いまなお精進を続ける氏の気概に触れ、修養のよすがとしていただきたい一冊です」

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本書の帯の裏





本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」伊與田覺
第一講 「瞼の母」が導いた『論語』との縁
第二講 わが師父・安岡正篤先生と『論語』のかかわり
第三講 道縁が結んだ孔子の子孫たちとの出会い
第四講 孔子の道を後世に伝えた曾子
第五講 心に響く『論語』の言葉
「あとがき」藤尾秀昭



第一講「『瞼の母』が導いた『論語』との縁」の「わが師、安岡正篤先生の言葉を胸に35年の山籠り」では、著者がかつて山に入って勉強していたときに、恩師の安岡正篤から「もう出てくるな。わしの失敗を繰り返すなよ」と厳重に言われたそうです。そのことについて、著者は語っています。
「先生がなんで『山から出るな』と言われたかというと、『いやしくも教育に従事するものは有名になってはいかん』というのが先生のお考えだったからです。本人が有名になるのではなしに、教育された者の中から世のため人のため、あるいは有力になる人物が輩出されることによって、世の中が『あの人は誰が教えたのだろうか』と注目する。それで、ずっと探っていったら教えた人のところに辿り着くけれども、その名が世の中に知られるようになる時分にはもうこの世にはいない。そういうのが教育者であって、学者と違うところだ、というわけです」



著者は小学校1年生のときに母親を亡くしました。
「母を失った悲しみを忘れさせてくれた『論語』との出合い」で、そのときの深い悲しみを以下のように述べています。
「その当時、土佐では火葬はしませんでした。儒教の影響が続いていたため土葬だったのです。新仏があるときには、土葬をした墓に白い幟を幾本も立てるのがしきたりでした。ですから遠くからでも、あそこに新仏があるなとわかるんです。その墓は私の家から川を挟んで真正面にありました。だから、毎日その白い幟を見ては涙を流しておりました」



続けて、著者は母を失った悲しみについて、以下のように述べます。
「この母の葬式に位牌を持って墓に行ったことは覚えています。たくさんの人が参っていましたから悲しみはあまり感じなかったのですが、みんなが帰ってから後に、私は叔母の背中に負われて泣き続けました。もう学校にも行きませんし、朝から晩まで家の中でしくしく泣いたり大きな声で泣いたりするものですから、家族は随分困ったようです。これは実の母を恋う子供の心です。それは失った人にしてわかると思いますが、性格も変わってしまったようでした」



その深い悲しみを忘れさせてくれたのは『論語』でした。
著者は7歳にして、白文で『論語』の素読を教えられます。「『論語』には道徳の基本がすべて詰まっている」では、以下のように述べています。
「私は7つのときから『論語』を学んで、『論語』と共に生きてきたわけですけれども、道徳の根本を教えるものはやっぱり『論語』です。日本には教育勅語というものがありましたが、教育勅語は『論語』をもとにつくられたものですから、『論語』をお読みになったら教育勅語は読まなくてもいいぐらいです。『論語』がすべての基本になっているのです」



また、「死してなお後世に伝わる命というものがある」では、著者は以下のように述べています。
「人間には肉体的生命がなくなると同時に世の中から忘れられる人もあります。むしろそういう人のほうが多いかもわかりません。ところが、亡くなってからも世の中に影響を及ぼしている人もあります。孔子さんという人はいまから2500年以上も前の人であります。それが現代、国境を越え、民族を越え、時代を越えて、人々の心の中に生きています」



さらに、著者は以下のような大変興味深いことを述べています。
「私は、死んだ人は100年単位で年齢を勘定したらよろしいと思っています。弘法大師は1200年前の人だから12歳。伝教大師も大体同じ。孔子さんは2500年余り前だから、いまもし生きていたら25歳の青年ですね。お釈迦さんも大体同じぐらい。キリストは2000年余り前ですから20歳。吉田松陰はまだ100年余りですから2歳足らずだなぁというふうに、死んでからの命を数えるという勘定の仕方もあると思います」



「安岡先生の導きによって結ばれた孔子の子孫との縁」では、中国の文化大革命における孔子批判に言及し、以下のように述べます。
「孔子の批判をやめた代わりに出てきたのが反日です。それを国家統一の1つの方策にしているんです。今頃共産主義を唱えても、そう共鳴する人はおりません。ご承知のように、共産主義をもって世界を制覇しようとしたソ連が自ら崩壊しました。何も外交の力によって崩壊したわけではない。内側から一瞬にして崩壊したのです。それで今回も随分孔子に対する評価が変わってきまして、他に批判の矛先がなくなったものですから反日を言うようになっただけで、これには何も特別な思想的背景があるわけではないんです」



第二講「わが師父・安岡正篤先生と『論語』のかかわり」では、「『処士』として一生涯を過ごす」として、著者は以下のように述べています。
「安岡先生が亡くなられて青山斎場で葬儀がありました。そのときも全国から人々が集いました。葬儀委員長が岸信介元総理でありました。そして歴代総理のうち、中曽根現総理(当時)はもちろん健在な方は全員お見えになりました。亡くなった方は奥さんがご主人の代理として見えました。財界からも主だった方々が多数お見えになりました。
ところが祭壇は非常に質素なものでした。というのも、先生は非常に優れた学識を持ちながら、学位ももっておりませんし、勲章も受けていなかったからです。ただ1つ、いまでも強く印象に残っているのは、天皇陛下からの祭祀料というようなものが祭壇の中央に供えられていたことです」



第三講「道縁が結んだ孔子の子孫たちとの出会い」では、「『老子』と『易』と『古事記』を貫く万物誕生のしくみ」として、著者は述べます。
「『老子』の中に『一、二を生ず、二、三を生ず、三、万物を生ず』というのがあります。『一』というのは1つの存在です。人間も1つの存在です。そしてそこには易でいうところの陽と陰の2つが存在する。人間であれば男と女がいる。これが『二を生ず』ということ。しかし、陰と陽が別々であったのでは、そこからは何も生まれません。陰陽の2要素が結ばれることによって『三を生ず』。人間であれば、男性と女性が結ばれることによって子供が生まれる」



また、著者は以下のように『古事記』について述べています。
「『古事記』の一番初めは『天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独り神成りまして、身をかくしたまいき』と始まります。この高御産巣日神神産巣日神は大きな働きはありますが、独り神ですから、そこからは新しいものはできないんです。日本の神は何代かこのような独り神が続き、後に伊邪那岐命伊邪那美命の二柱が出ます」



著者は、神道と儒教には親和性があると指摘します。その理由について、「酒を介して神道と通じていた孔子の教え」として、以下のように述べます。
「『論語』がこれほど日本に浸透して、孔子の子孫が日本でも尊敬されているというのには理由があると思います。それは孔子が酒を飲むことを禁じていないということではないかと私は思っています。世界の宗教とか教えの中で、飲酒を許可しているものは意外と少ないんです。マホメットのイスラム教は絶対に飲酒はだめですし、カトリックなどでも本当のカトリックであれば酒は飲まないでしょう」



仏教でも僧侶はもともと飲酒を禁じられていたとして、著者は述べます。
「ところが、孔子さんは酒が好きだったんですね。『論語』の中には『沽う酒と市う脯は食わず』(郷党第十)と書いてあります。『買う酒と買う乾肉は食べない』というわけですから、自分の家で酒を造り、干し肉なども作っていたのでしょう。だから、飲酒についてはあまり堅苦しくなく、家族そろって酒を飲むこともあったのでしょう。あるいは、隣近所の集まりに孔子さんもおいでになって一緒に酒を飲んだりもしたのでしょう」



続けて、著者は『論語』について以下のように述べています。
「王仁という博士が、いまから1700年ぐらい前に日本に『論語』10巻、千字文1巻を持ってきて伝えます。王仁博士というのは人間的に大きなところもあったのでしょう。『論語』と一緒に酒造りの名人を連れてくるのです。その酒造りの名人が酒を造って、時の応神天皇に奉った。その時分、日本にも酒はありましたけれども、名人が造った酒は特別美味しかったようです。応神天皇は心地よく酔われ、外へ出て石を杖で叩いたら、その石が逃げていったと『古事記』の中にはあります。こうしたことからも孔子の教えが酒を禁じていなかったことは明らかです。『論語』が日本になんの抵抗もなしに入ってきた理由はここにあると私は考えています」



第四講「孔子の道を後世に伝えた曾子」では、「本学を大切にしながら末学も疎かにしなかった孔子学校」として、著者は以下のように述べています。
「人間となるためには2つの道があります。1つは人間の本質を育て上げていく本学である人間学を学ぶ。もう1つは社会において役立ついろいろな技術を学ぶ時務学です。これを末学といいます。孔子の頃の時務学は六芸といって『礼(礼節)・楽(音楽)・射(弓術)・御(馬術)・書(文学)・数(数学)』を学びました。人間学よりもそちらのほうを主として学ぶ人が多かったのです」



「心の継承者として信頼していた顔回を失った孔子の慟哭」では、著者は中国の葬儀について述べています。
「中国式の葬式は、お参りするときに泣く真似をするんです。泣き真似というのはなかなか難しいから、泣き男や泣き女を雇って悲しみを表す場合もあります。いずれにせよ、親族以外は悲しくても身悶えをして慟哭するような泣き方をしてはいけない。そういうのはかえって失礼になると礼儀の中にちゃんと書いてあります」



第五講「心に響く『論語』の言葉」では、「何事でも熱中することによって苦が游になる」として、『論語』述而篇の「子曰わく、道に志し、徳に據り、仁に依り、藝に游ぶ。」という言葉を取り上げ、以下のように述べています。
「仕事が苦しいからレジャー、バカンスで休み時間が欲しいというのは西洋的な考え方ですが、孔子の言う『游ぶ』というのは、そういう苦楽を忘れて、そのものに熱中しているということです。子供は朝から晩まで動いているように見えますが、あまり疲れを感じません。それは熱中しているからです。これと同じように、仕事の上でも『游ぶ』という心境になれば、そんなにたくさん休みはいらないということです」



著者は「藝に游ぶ」について、さらに以下のように述べています。
「やはり『藝に游ぶ』という境地が大切だと思うのです。この『游』という字を見ると『しんにゅう』ではなくて『さんずい』が付いています。これは本来、水を遊ばすという意味です。中国の古代、堯舜の時代には黄河の氾濫によって非常な被害をこうむりました。それをいかにして食い止めるかということが、政治の一番の根本でありました」



「あとがき」では、藤尾秀昭氏が以下のように述べています。
「日本には古来、『論語』に傾倒、精通した偉人は多い。しかし、100歳を超えて3時間、『論語』を説き来たり説き去り、多くの人びとを魅了して止まないのは、恐らく先生お一人ではないだろうか。伊與田先生は日本の歴史上多くが至り得なかった頂きに立つお一人であることは確かである」



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2016年12月4日 一条真也

2016-12-03

朝本浩文よ、安らかに眠れ!

一条真也です。
小倉高校の同級生で音楽プロデューサーの朝本浩文君が先月30日に亡くなりました。同じく同級生である経営コンサルタントの首藤章三君が報せてくれました。まだそのときは内密とのことで他言は一切しませんでしたが、大変ショックを受けました。高校時代は別々のクラスでしたが、予備校時代はずっと朝本君、首藤君とトリオで行動していました。他の2人は慶應で自分は早稲田に分かれましたが、大学時代も3人で仲良く遊んだ仲でした。

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「ヤフー・ニュース」より



ヤフーのTOPニュースにも掲載されていましたが、「音楽ナタリー」配信の「朝本浩文が53歳で逝去」という記事には以下のように書かれています。
朝本浩文が11月30日に逝去したことが明らかになった。53歳だった。
朝本は2014年9月に自転車事故で頭部を強打して意識不明となり、そのまま療養生活を続けていた。朝本の妻、由美氏は彼の療養生活を支援するプロジェクト『AID FOR Asamoto』Facebook公式アカウントにて『朝ちゃん、これからは安らかに。本当にありがとう! 朝本浩文の美しい楽曲の数々が、彼の魂と共に生き続ける事を願っております』とコメントしている。葬儀はすでに密葬で執り行われており、後日彼を見送る会の開催が予定されている。朝本は1985年にAUTO−MODのメンバーとして本格的な活動を開始。これまでにUA,THE BOOM,ZEPPET STORE、THE YELLOW MONKEYなどのプロデュースやアレンジを手がけてきた」




学生時代は朝本君がわたしの小倉の実家や東京の部屋によく泊まりに来ましたし、彼のライブには何度も行きました。六本木のディスコやカラオケにも行きました。当時人気絶頂だったチェッカーズのメンバーを紹介してくれて、みんなで朝まで六本木で飲んだ思い出もあります。カラオケでは、わたしの歌を聴いて「うまいなあ」と言ってくれたことが忘れられません。
早朝のマックや吉野家にもよく一緒に行きました。恵比須でラーメンもよく食ったな。そうそう、松柏園のラウンジでピアノも弾いてくれたなあ。
わたしの処女作『ハートフルに遊ぶ』を手渡したときは、「この本、自分で書いたの? すげえなあ!」と喜んでくれた。本当に、思い出が尽きません。
いつも優しい笑顔を見せてくれました。なんだか涙が出てきました。

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「ヤフー・ニュース」のTOPで紹介



じつは、わたしが作詞して彼が作曲した歌が2曲あります。これは2人だけの秘密であり、わたしの宝物です。今夜は献杯して、1人でその曲を歌います。君の魂に届くように、魂を込めて歌います。
偉大な音楽プロデューサー朝本浩文よ、安らかに眠れ! 
君のことは首藤と俺がいつまでも憶えているからな。
御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。




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2016年12月3日 一条真也

『百歳までの読書術』

百歳までの読書術


一条真也です。
『百歳までの読書術』津野海太郎著(本の雑誌社)を読みました。
歩きながら本を読む「路上読書」の実践者が、70代を迎えてからの「幻想抜きの老人読書の現実」を、ざっくばらんにユーモアを交えて綴るエッセイ集です。著者は1938年福岡県生まれ。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」で演出家として活動する一方、晶文社の編集責任者として、植草甚一リチャード・ブローティガンなど60年代、70年代の若者文化の一翼を担う書物を次々世に送り出しました。「季刊・本とコンピュータ」編集長、和光大学教授・図書館長も務め、現在は評論家です。

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本書の帯



本書の帯には「老人読書はけっこう過激なのだ」「蔵書の処分、図書館の使い方、速読と遅読、有名作家たちの晩年。ネイ編集者が七十歳からの本とのつきあい方を綴る、老いと笑いの読書エッセイ」と書かれています。

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本書の帯の裏



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「老人読書もけっこう過激なのだ」
<壱>
本を捨てない人たち
減らすのだって楽じゃない
路上読書の終わり
新しいクセ
遅読がよくて速読はダメなのか
月光読書という夢
「正しい読書」なんてあるの?
本を増やさない法
近所の図書館を使いこなす
退職老人、図書館に行く
渡部型と中野型
<弐>
背丈がちぢまった
ニベもない話
私の時代が遠ざかる
もの忘れ日記
漢字が書けない
老人演技がへたになった
八方にでてパッと凍る
〈死者の国〉から
本から本へ渡り歩く
老人にしかできない読書
ロマンチック・トライアングル
<参>
映画はカプセルの中で
いまは興味がない
病院にも「本の道」があった
幻覚に見放されて
友達は大切にしなければ
書くより読むほうがいい
むかしの本を読みかえす
怖くもなんともない
古いタイプライター
もうろくのレッスン
「あとがき」



「まえがき」にあたる「老人読書もけっこう大変なのだ」では、著者は以下のように書いています。
「読書にそくしていうなら、50代の終わりから60代にかけて、読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性にあった本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然とそう考えている。現に、かつての私がそうだった。しかし65歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち70歳。そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。のんびりだって? じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、いまはまだ考えてもいないだろうと、60歳の私をせせら笑いたくなるくらい」

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

本とつきあう法 (1975年)

本とつきあう法 (1975年)



「渡部型と中野型」では、著者は読書論の名著である渡部昇一著『知的生活の方法』と中野重治著『本とつきあう法』の2冊を比較します。そして、渡部氏の読書法を「所有中心の読書」として嫌う著者は、『本とつきあう法』の内容について以下のように述べます。
「本は物質、端的にいってしまえば、モノ、物体である。したがって、鉛筆でぐいぐい太い線をひっぱるとか(同書所収「わが文学的自伝」)、必要とあらば1冊の本をパカッと2つに割ってしまうとか(おなじく「本とつきあう法」)、そうした乱暴な、それこそ肉感的なつきあい方もできる。そういう度量の大きな『品物』こそが本なのだが、こうした豪快な面だけではなく、モノ、物体としての本とのつきあいには同時に、なんともこまった一面がある。
『場所をとる。そのうえ斤目がかかる』
斤目というのは『重さ』ね。その結果、本が屋根裏の書庫からはみだし、床が抜けそうになる」




さて、芝居通である著者は、歌舞伎の名優であった18代目勘三郎と会ったことがなく、その舞台すら、TV観劇をのぞけば、いちども見たことがないそうですが、「私の時代が遠ざかる」の中で「にもかかわらず、その死にうけたショックの度合は、なかでもっとも大きい」として、以下のように述べます。
「安岡さんや丸谷さんや小沢さんの死は、年齢からみても、ご本人たちがどう考えていたかは別にして、なすべきことをなしおえたのちの大往生といっていい。私個人にひきつけていえば、知的にも娯楽の面でも、若いころからいろいろお世話になった方々がいなくなり、歴史にしめる「私の時代」が、またすこしうしろに遠ざかったという感じにちかい。
しかし勘三郎さんの死からうけたショックは、それとは性質がちがう。いってみれば、過去よりも未来にかかわるショック。なにしろ私は、これまでずっと勘三郎さんのことを『私の歴史』ではなく、よりつよく『私が消えたあとの歴史』に属する人だと考えてきたのでね。



「老人演技がへたになった」では、著者は「戦後の映画俳優は、じぶんよりずっと年長の人間、つまり老人を演じるのがうまかった」と述べ、その実例を以下のように挙げます。
(1)笠智衆『東京物語』1953年
(2)三船敏郎『生きものの記録』1955年
(3)三國連太郎『異母兄弟』1957年
そして、著者は以下のように述べています。
「ちょうどいい順番になった。というのも、私が『なぜ往年の映画俳優はあんなに老人の演技がうまかったのだろう』と最初に思ったのが、2002年、(1)の『東京物語』を10何年かぶりに見なおしたときだったからだ」




(1)の『東京物語』について、著者は以下のように述べます。
その前年からつとめるようになった大学で『老いる』というテーマの授業をやろうと思いたち、まず最初に『東京物語』をみんなで見ることにした。そのため資料にあたるうちに、この映画に出演時の笠智衆が49歳だったことを知っておどろいた。だって、あの平山周吉(役名)さん、どう見ても70代、いまふうにいえば、まぎれもない後期高齢者でしょうが。その、よれよれに年老いた夫の役を、笠智衆49歳が14歳も年長の東山千栄子を相手どって、一抹の不自然さもなく、みごとに演じとおしている。もちろん東山千栄子が、あのときまだ63歳だったというのもすごいがね。ちなみに監督の小津安二郎は50歳。うーん」




また、(2)の『生きものの記録』について、著者は述べます。
「1954年、ビキニ環礁の水爆実験で焼津のマグロ漁船が被曝した。この第五福竜丸事件を背景に黒澤明がその翌年に完成させた映画で、まぢかにせまった核戦争の幻影におびえ、じぶんの鋳物工場を売りはらって一家でブラジルに移住しようと狂奔する老人に三船敏郎が扮した。映画で見るかぎり、この中島喜一老人はたぶん70代前半。とすると三船自身はあのとき何歳だったのかね。いそいで調べたら、なんと役の年齢のほぼ半分の35歳。若いというもおろか、その前年に『七人の侍』で菊千代を演じたばかりだったことを考え合わせると、信じられないくらい鮮烈な老人演技だったことがわかるだろう」




そして、(3)の『異母兄弟』について、著者は述べます。
三國連太郎は三船敏郎の3歳年下で、この映画を撮ったときは34歳。おなじ年に日活のアクション映画『鷲と鷹』で11歳下の石原裕次郎と互角に殴り合い、みごとに鍛え上げた上半身を見せている。したがって壮年期の鬼頭範太郎を演じるのにさしたる努力は要しなかったはずだが、権力も体力も、すべてを失って廃人化した70すぎの老人となると、そうはいかない。それでもかれは持ちまえの異様なまでの集中力で鬼頭役を演じきったらしい。なのに私は、肝腎の、さぞすさまじかったであろうかれの老人演技をまったくおぼえていない。わずかに記憶にのこっているのが、この役を演じるのに三國が歯を10本抜いた、といったゴシップだけというのがくやしい」




さらに、著者は以下のように述べています。
笠智衆(1904年生まれ。以下おなじ)、三船敏郎(1920年)、三國連太郎(1923年)の老人演技にみなぎる説得力のつよさにくらべると、それにつづく、大滝秀治(1925年)、仲代達矢(1932年)、山崎努(1936年)、緒形拳(1937年)といった俳優諸氏の近年の老人演技は、どことなく迫力を欠く。いや、へたというのではないですよ。好きな俳優たちだし、技術的なうまさからいえば、50年代の三船や三國よりうまいと思う。それぞれに工夫をこらして独特の老人像をつくってみせてもくれた。それなのに、むかしとちがって、かれらのつくりあげた魅力的な老人像が若い人間たちをもグイと引きよせ、金縛りにするというような事態は起こらなかった」








では、著者は現在の映画俳優の演技に失望しているのでしょうか。
いや、どうやら、そうではなさそうです。
著者は「いまに興味がない」で、以下のように述べています。
「私は70歳をこえたころから近所のシネコンで、これまで長いことご無沙汰していた日本映画を見るようになった。そして『デスノート』で松山ケンイチ、『アフタースクール』で堺雅人、『悪人』で妻夫木聡の演技にはじめて接し、ああ、こういう演技はむかしの俳優にはむずかしかったろうなと、あのときの樹木希林のことばを思いだした。
むかしの俳優のうまさといったものがあるなら、いまの俳優にしかないうまさもある。ひとつの基準ではかって上下をきめることはできない。私は彼女のことばをそう解釈する。私だって、まだ生きている以上、なかなかジャン・ギャバンハンフリー・ボガート志村喬だけでは満足できない。ジョニー・デップやベネディクト・カンバーバッチみたいなくさい連中も、けっこう好きだしね。むかしの老人だけが正しい老人ではない。いまの世の中には、そうではないタイプの老人だっていくらもいるのだ」



そして「あとがき」で、著者は以下のように述べるのでした。
「齢をとれば人間はかならずおとろえる。
いや逆かな。人間一般ではなく、ひとりの生身の人間にとって、最初にやってくるのは心身の衰退であり、ややおくれて、そのおとろえこそが世にいう『老い』であったことにハッと気がつく。そういったほうがむしろ正確だろう。
私の場合でいえば、そうと気づいたのは70代にはいってまもなく、待ち合わせた友人を何度もすっぽかすとか、つまずくはずのない場所でつまずくとか、そんな事態がひっきりなしに生じるようになってから。
――なんじゃ、これは?
なにしろじぶんのうちに、日々、新しいなぞが生じるのだから、そのつど、ちょっとあわてる。でも、それほどには嘆かないし、抵抗もしない。それらのなぞの現象を、どちらかといえば面白がって観察するうちに、いつしか疑問の余地のない老人と化していたじぶんに気がつく。そのようにして私はとつぜん老人になった。いってみれば、そんなおっちょこちょいの好奇心老人にね」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年12月3日 一条真也