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一条真也の新ハートフル・ブログ

2017-12-12

茶道と「おもてなし」   

一条真也です。
東京に来ています。今日は全互協の委員会会議に参加。明日は、六本木ヒルズハリウッド大学院大学で「おもてなし」についての講義を行います。
12日、「サンデー毎日」12月24日号が発売されます。
わたしは、同誌にコラム「一条真也の人生の四季」を連載しています。
第109回のタイトルは、「茶道と『おもてなし』」です。

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「サンデー毎日」2017年12月24日号



わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、先日、本社のある小倉で、創立50周年記念祝賀会を開催しました。同業の経営者のみなさんが全国から集まって下さいましたが、まずは抹茶でおもてなしさせていただきました。わが社では、茶道の精神を体現できる「お茶のある人」になるため、多くの社員が稽古に励んでいます。



拓殖大学の呉善花教授によれば、1回の茶道の稽古は、現在多くの企業で行われている研修10回分に相当するとか。一般的な社員研修とは違い、茶道は、おもてなしの修行、礼儀作法の修行、人間の修行なのです。茶道は茶室という狭い空間での主客のふるまいが中心になっていますが、そうした息づかいまで聞こえるような距離でお互いが接し合うことで、感覚が研ぎ澄まされ、相手が何を求めているかを自然に察知できる感性が身についてきます。



茶で「もてなす」とは何か。それは、最高のおいしいお茶を提供し、礼儀をつくして相手を尊重し、心から敬意を表することに尽きます。そして、そこに「一期一会」という究極の人間関係が浮かび上がってくるのです。人との出会いを一生に一度のものと思い、相手に対し最善を尽くしながら茶を点てる「一期一会」の精神を最初に文字に著したのは、利休の弟子・山上宗二でした。利休が生み出した「和敬清寂」の精神とともに、日本が世界に誇るべきハートフル・フィロソフィーだと言えます。



わが会社のミッションは「冠婚葬祭を通じて、良い人間関係づくりのお手伝いをする」ですが、茶道はまさに「良い人間関係づくり」のためのヒューマン・コミュニケーションのアートであると言えるでしょう。
おもてなしは「ふるまい」「しつらい」「よそおい」によって成り立ちます。この各要素は、すべて茶道の中に存在しますが、それにとどまらず、「つつしみ」「うやまい」「おもいやり」という人の生き方、接客においては「常に一歩ひいてお客さまをたてるという心」も茶道は包有しています。

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「サンデー毎日」2017年12月24日号の表紙



2017年12月12日 一条真也

2017-12-11

『逆さに吊るされた男』  

逆さに吊るされた男


一条真也です。
『逆さに吊るされた男』田口ランディ著(河出書房新社)を読了。
著者は1959年東京生まれ。2000年、長篇小説『コンセント』を発表。以来、社会問題や人間の心をテーマに、フィクションとノンフィクションを往還しながら幅広い執筆活動を続けています。作品は映画化や各国語に翻訳され、海外でも高い評価を得ているとか。01年、『できればムカつかずに生きたい』で婦人公論文芸賞を受賞しています。

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本書の帯



本書のカバーには書名と同じ「吊るされた男」をはじめとしたマルセイユ版タロットカードの絵札の写真が使われています。帯には「オウム真理教とは何だったのか、私だけが、真実に辿りつけるはず――」と大書され、続けて「地下鉄サリン実行犯/死刑囚Yとの十年を超える交流。実体験をもとに、世紀の大事件を描く衝撃の私小説」と書かれています。

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本書の帯の裏



帯の裏には「許さないのは、世間ではなく、私――?」として、以下のように書かれています。
「地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yの望みで、外部交流者となった作家・羽鳥よう子。贖罪の日々を送るYと、拘置所での面会や手紙のやりとりを重ねるうち、羽鳥はこんなに穏やかそうなYが《なぜ、殺人マシンとまで呼ばれるほどの罪を犯したのか》という疑問を抱く。《警察も、マスコミも、世間も、間違った解釈でオウム真理教事件を過去のものにしてしまった。Yとの出会いは運命。私だけが、事件の真実に辿りつけるはず――》関係者に会い、教義を学ぶうち、そう確信した羽鳥は、ついにYとの交流をもとに『逆さに吊るされた男』と題した小説を書きだし、独自のオウム解釈にのめり込むのだったが・・・・・・」



本書の存在は「未来医師イナバ」こと東京大学医学部付属病院循環器内科助教の稲葉俊郎氏のブログ記事「田口ランディ『逆さに吊るされた男』」を読んで知りました。稲葉先生はブログ記事の冒頭で同書を「別世界に連れ去られたかのように、一気に読んだ。圧倒的に面白かった。作家が存在をかけて書いている、まさに『渾身』の作品だ」と絶賛し、さらに以下のように書かれています。
「この『逆さに吊るされた男』の小説では、事件の深い森のような中に入り込んでいく書き手の視点で話は進むのだが、ある時に『超自我』や『自己』(自分を上から俯瞰する自分)のようなものが自分の中に出現してきて、『あなたが意味を求めて事件に関与していくこと自体が、あなたの自我の欲望ではないか、あなた自体のどういう深層心理と呼応しているのだ』と警告を発する。そのアラーム音に気づきながら、そのはざまで揺れ動く書き手自身の心理をも同時に描いていた。作家の心をさらけだしながら描かれるすごい作品だ」



稲葉氏は著者である田口氏とは昔からの知り合いだそうです。ブログ記事の最後に書かれた「渾身の小説だった。こういう小説を書いた作家の心身の健康が心配になるほどだ。心の極北に連れて行かれて戻ってくるような感覚になった。力作です」という一文にはお二人の友情を強く感じました。
『逆さに吊るされた男』を読了したわたしは基本的に稲葉氏と同じく「渾身の小説」であり、「すごい作品」であり、「力作」であるとは感じたものの、どこか釈然としない思いがしたのも事実です。それはやはり、オウム真理教を過大評価していること、麻原彰晃というモンスターを生み出したのは社会であるという見方、そして多くの犠牲者を出した地下鉄サリン事件の実行犯Yを美化しているように描いていると感じたことから来ているのでしょう。




地下鉄サリン事件は、1995年(平成7年)3月20日に、東京都で発生した同時多発テロ事件です。警察庁による正式名称は「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」です。宗教団体のオウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)で営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスのサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出ました。平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のない事件であり、国内外に大きな衝撃を与えた事件でした。



『逆さに吊るされた男』では、その地下鉄サリン事件の実行犯の1人で、死刑囚となっているYと、著者をモデルとする女流作家の交流を軸として物語が展開されます。このYですが、作品中のプロフィールおよび「殺人マシーン」というあだ名から、元オウム真理教幹部で確定死刑囚の「林泰男」がモデルであることは明白です。東京都出身の林のホーリーネームは「ヴァジラチッタ・イシディンナ」で、教団内でのステージは師長でしたが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格しています。オウムに省庁制が採用された後は、科学技術省次官の1人となりました。地下鉄サリン事件で唯一サリンパックを3つ携帯し(他の実行犯は2つ)一番多くの犠牲者を出したため、マスコミに「殺人マシーン」のあだ名を付けられました。



当時、林泰男は自ら志願して他の実行犯よりも多い3袋を引き受けたと報道されました。しかし、実際は事件の前日、中川智正・遠藤誠一がサリンのパックを11個用意して端数が生じ、林が犯行当時、指示を断れない状況下にあるのを知っていた村井秀夫が実行犯の5人の中で最初に林に「1つ多く持ってくれるか」と頼み、引き受けたものでした。井上嘉浩は「実行メンバーの中でもっとも人間的で優しい人なのでいやがることを引き受けた」と語っています。なお、林は1994年6月の松本サリン事件で使用されたサリン噴霧車を製造しています。



本書を読めば、林泰男をモデルとしたYが誠実な人物であることはよくわかります。しかし、女流作家の羽島よう子との面談では、Yは煮え切らない返答を繰り返します。人の「こころ」が一筋縄ではいかない複雑なものであることを思い知らされます。わたしたちが誰かに問いを投げかける場合、わかりやすい答えを求めがちですが、よう子はYの「わかりにくさ」をそのまま受け止め、さらなる謎に囚われて葛藤していく様子が描かれています。その流れの中で、よう子のYへの共感を読み取ることができます。




たとえば、「死と同じように避けられないものがある、それは生きること」という喜劇王チャップリンの言葉を紹介した後、よう子は「チャップリンのサイレント映画って、とっても静かで、残酷で、それでいて優しいの。主人公は一文無しの放浪者。ちょび髭を生やして、山高帽をかぶり、ダブダブのズボンをはいている。ヨチヨチしたアヒルみたいな歩き方をして、態度だけは紳士なの。妙に毅然としていて、反骨精神があって、弱い者の味方。でも、最後は警官に追っかけられて、ドタバタ逃げ回って、ジ・エンド」と述べてから、「なんだか、それが、Yさんと重なって見える」と結んでいます。Yに対するよう子の気持ちがよくわかります。



さらに「死刑囚であるYもまた人間である」というメッセージを読みとることができます。たとえば、Yは「拘置所側は死刑囚を、なるべく人間社会から遠ざけたいのだと思います」と語ります。「どうして?」と問うよう子に対し、Yは「死刑囚が、生きた人間、同じ人間だという認識を、国民に持たせないためじゃないかと思います」と答えます。
「そのことで、いったいどういうメリットがあるの?」と問うよう子に対して、Yは以下のように述べるのでした。
「死刑囚が、同じ人間だったら、死刑囚を処刑する刑務官の方々の心情はいたたまれないです。死刑がある以上、誰かが処刑ボタンを押すんです。いまは、5人の刑務官が同時にボタンを押して誰が処刑したかわからない仕組みになっています。だけど、そんなことはあまり関係がないと思うんです。選ばれた5人は、自分が殺したかもしれないと思うでしょう。だから、少しでもその罪悪感をやわらげるために、死刑囚を人間として扱ってはいけないのかもしれないです」




わたしは、おそらく日本で最も多くの死刑囚に面会したであろう人物を知っています。作家の故・佐木隆三氏です。生前は北九州文学館館長や九州国際大学客員教授を務められ、わたしも親しくさせていただいていました。お酒が大変お好きな方で、わたしも酒席でご一緒したことが何度かあります。2015年10月31日に78歳で亡くなられたときにはわが社で葬儀のお世話をさせていただきました。直木賞受賞作となった『復讐するは我にあり』をはじめ、佐木氏の小説は実在の凶悪殺人事件を扱ったものが多く、それもあってか殺人事件の裁判を傍聴し続け、多くの死刑囚と面会されました。一度、わたしに「日本中の死刑囚に会いたい」と言われたことがあります。



『逆さに吊るされた男』には、その佐木隆三氏が2回登場します。1回目は本書の冒頭で、よう子が門司の佐木氏の自宅を訪ね、一緒に酒を飲みながら、オウム真理教について意見交換をします。Yと同じく死刑囚である林郁夫の法廷での証言にウソくささを感じるよう子に対して、佐木氏は徹頭徹尾「林郁夫の反省は本物だと思う」と言い続けました。そのことと、佐木氏が「あまりにも宗教に興味がない」ことに、よう子は不満をおぼえます。
しかし本書の後半になって、再び、佐木隆三の名が登場します。
Yの言葉に翻弄され、「オウム真理教」という謎に囚われたよう子は以下のように述べるのでした。



 いまになってやっと、佐木先生の謙虚さが、理解できる。
 先生は、傲慢に事件の内部に入ろうなんて、思っていらっしゃらなかった。じっと傍聴席の最前列に座って、裁判を傍聴し続けた。佐木先生は、自分の目で、ありのままを見ようとした。私のように妄想を膨らませて、その妄想の内部で事件を解釈しようとはしなかった。
 たぶんそれが、本物の戦争を知っているってことなのよ。
 私は戦争を体験していない。その雰囲気、空気感を知らない。あんな巨大なファンタジーの内部に入った経験がない。だから、ファンタジーの本当の怖さがわからない。佐木先生は、戦争の怖さを知っているから、現場主義に徹したのじゃないかしら。(『逆さに吊るされた男』P.206〜207)




その著者が抱いた妄想とは何か。ここで「ゴジラ」や「ナウシカ」といったキーワードが出てきます。怪獣ゴジラが核のメタファーであり、ジブリの「風の谷のナウシカ」は核戦争後の世界の物語ですが、よう子は「過去を葬り祈る術すら失った戦後世代の、暗い心の深みから現れたものが、怪獣アサハラとオウム真理教だとしたら、オウム真理教は、ゴジラやナウシカと同じように、潜在化した大衆の不安から創造され、大衆によって消費されたのではないかしら」と考えます。ナウシカが命がけで鎮めようとした生物の名は奇しくも「オーム!」でした。




いつしか、よう子は非日常的な物語世界に迷い込みます。
その始まりは、「ゴジラ」と「風の谷のナウシカ」という2つの映画の封切り日の奇妙な符号に気づいたことでした。
「ゴジラ」 1954年11月3日封切り
風の谷のナウシカ」1984年3月11日封切り
「11」と「3」の組み合わせが互い違いになっていますが、よう子は「3・11に東日本大地震があり、それに伴い福島第一原発事故が起こったのは単なる偶然なのだろうか」と考えるのです。本書の最後で、よう子はYに向けた手紙で、自身の「妄想」を次のように総括しています。




 笑わないでね。外に、意識を向けたとたん、発狂したの。
 次々と標識が現れて道が繋がっていく。第二次世界大戦、原爆からゴジラ、水俣、風の谷のナウシカまで。
 私が意味を与えた瞬間から、なんだってリアリティをもって動き出す。それが快感なの。ファンタジーに巻き込まれていくのって波乗りみたい。意識が飛んじゃう。その感覚は最高にスリリング。
 どんどん現実離れしていく私の言動を、Yさんが一番、心配してくれたわね。「麻原はゴジラだと思う」と言った時のあなたの顔ったら、「大丈夫かなこの人」って思ったでしょう。
 そうなの。私は発病していた。
 もしかしたら、サリンを撒く前日の井上嘉浩や村井秀夫も、あんな感じだったのかも。麻原彰晃に意識を向けると、体の内側がぞわぞわしてくる。きっと神話的なシンボルをたくさん含んでいるから、こちらの無意識に潜んでいる怪物が目覚めてくるのね。私は作家だから、無意識との細いパイプから物語を汲み上げている。日常生活がそもそも妄想的な物書きが、神話のシンボルに摑まった時は、狂うのが早いのなんの。一気に、無意識からガジェットな情報が流れ込んできて、全部が繋がって、パンパカパーン。頭がお花畑の人になっちょうのよ。(『逆さに吊るされた男』P.223〜224)



本書の読者は、よう子の妄想からオウムの「魔境」までは遠くないことを知り、底知れぬ恐怖を感じます。Yは、よう子が抱く妄想について、「妄想とファンタジーは、基本的に違います。妄想が積極的に他者を巻き込もうとすることはきわめて稀です。しかし、ファンタジーは他者を巻き込んで膨らんでいきます。統合失調症の患者さんは妄想は持っていますが、ファンタジーで他者を巻き込んだりはしないのです」と述べます。
ファンタジーの最たるものこそ宗教ですが、宗教としてのオウム真理教の本質について、よう子は以下のように述べていますが、その核心を見事に衝いているいると言えるでしょう。




 麻原の弟子たちは、教団のマニュアルでヨーガ修行を進め、程度の差こそあれクンダリニー覚醒(らしきもの)を体験している。教義の通りに神秘体験が起きることで修行への確信を深めていった。修行中に体調不良や事故、精神の不安定が生じると「カルマが出てきた」と歓迎され、カルマが表面化したことで内的な浄化が起こり修行はさらに進むとされた。
 何が起きても修行は正しい、という一方向への思考回路の形成。全員で信じれば思いこみ効果も絶大。
 弟子に「成就者」という認定を与えられるのは、教祖の麻原彰晃のみ。教団において麻原彰晃は絶対的な存在。麻原だけが「成就とはなにか」を知っていて、弟子は、決して麻原を越えるることができない。よって、教祖の逮捕後には、弟子たちのステージが上がることはない。この気づきは衝撃だった。Yは事件前に「正悟師」に昇格している。たとえ死刑囚になっても、現信者にとっては永久背番号みたいなもんなんだわ。
(『逆さに吊るされた男』P.119〜120)




よう子は「なんとなくわかってきた」として、「輪廻転生を信じ込ませ、都合が悪いことはすべてカルマのせいにしてしまえば、悪いカルマをもった人を早く転生させるための殺人も正当化できる。内容はどうあれ理屈として『筋が通っている』。筋さえ通せばへ理屈で相手を丸め込むことができる。なんだってそうじゃない、ネットワークビジネスだって、政治法案だって・・・・・・」と考えるのでした。




さて、ブログ「地下鉄サリン事件20年」の冒頭で、わたしは「13人が死亡し、約6300人が負傷したオウム真理教による悪夢のような犯罪から、もう20年も経過したとは驚きとともに世の無常を感じます」と書きました。
その5年前の3月20日、地下鉄サリン事件15周年の日、わたしはオウム関連の記事を1日に6本も書きました。以下の通りです。
『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』
『アンダーグラウンド』
『約束された場所で』
『1Q84』BOOK1&2
『二十歳からの20年間』
「地獄」(石井輝男監督)

オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか-

オウム-なぜ宗教はテロリズムを生んだのか-



その中の島田氏の大著『オウム〜なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』の書評記事で、わたしは次のように自分なりにオウム事件を総括しました。
「日本の犯罪史上に残るカルト宗教が生まれた背景のひとつには、既存の宗教のだらしなさがあります。あのとき、オウムは確かに一部の人々の宗教的ニーズをつかんだのだと思いますが、そのオウムは自らを仏教と称していました。そもそもオウムは仏教ではなかったという見方ができました。オウムは地獄が実在するとして、地獄に堕ちると信者を脅して金をまきあげ、拉致したり、殺したり、犯罪を命令したりしたわけです。本来の仏教において、地獄は存在しません。魂すら存在しません。存在しない魂が存在しない地獄に堕ちると言った時点で、日本の仏教者が『オウムは仏教ではない』と断言するべきでした。ましてやオウムは、ユダヤ・キリスト教的な『ハルマゲドン』まで持ち出していたのです。わたしは、日本人の宗教的寛容性を全面的に肯定します。しかし、その最大の弱点であり欠点が出たものこそオウム真理教事件でした。仏教に関する著書の多い五木寛之氏は、悪人正機説を唱えた親鸞に『御聖人、麻原彰晃もまた救われるのでしょうか』と問いかけました。核心を衝く問いです。五木氏は最近、小説『親鸞』(講談社)上下巻を発表してベストセラーになっていますが、くだんの問いは、親鸞が開いた浄土真宗はもちろん、すべての仏教、いや、すべての宗教に関わる人々が真剣に考えるべき問いだと思います」

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)

黄泉(よみ)の犬 (文春文庫)



現在でも、わたしのオウム事件に対する考えは基本的に同じです。ただ、藤原新也著『黄泉の犬』(文春文庫)を読んで麻原彰晃に対する見方が少し変わりました。この本は『逆さに吊るされた男』にも登場します。田口ランディ氏も、水俣病と麻原の関係に強い関心を抱いたようですね。また、ブログ『オウム事件17年目の告白』で紹介した本を読んで上佑史佑に対する見方も少し変わりました。もちろん、彼らが行った凶悪な犯罪行為はどんな言葉を用いても許されることではありません。これからの上佑氏の生き方に注目したいと思います。

オウム事件 17年目の告白

オウム事件 17年目の告白



宗教学者の大田俊寛氏はブログ『オウム真理教の精神史』で紹介した著書で次のように書いています。
「人間は生死を超えた『つながり』のなかに存在するため、ある人間が死んだとしても、それですべてが終わったわけではない。彼の死を看取る者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、そのことを感じ取る。人間が、死者の肉体をただの『ゴミ』として廃棄することができないのはそのためである。生者たちは、死者の遺体を何らかの形で保存し、死の事実を記録・記念するとともに、その生の継続を証し立てようとする。そしてそのために、人間の文化にとって不可欠である『葬儀』や『墓』の存在が要請される。そこにおいて死者は、『魂』や『霊』といった存在として、なおも生き続けると考えられるのである」

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義



かつて大田氏は自身のHPで、わたしに次のコメントを寄せてくれました。
伝統仏教諸宗派が方向性を見失い、また、一部の悪徳葬祭業が『ぼったくり』を行っていることは、否定できない事実だと思います。しかしだからといって、『葬式は、要らない』という短絡的な結論に飛びついてしまえば、そこには、ナチズムの強制収容所やオウム真理教で行われていた、『死体の焼却処理』という惨劇が待ちかまえているのです。社会のあり方全体を見つめ直し、人々が納得のいく弔いのあり方を考案することこそが、私たちの課題なのだと思います。とても難しいことですが」
わたしは、この大田氏の意見に深く共感します。
火葬の場合なら、遺体とはあくまで「荼毘」に付されるものであり、最期の儀式なき「焼却処理」など許されないことです。それは、わが社のミッションである「人間尊重」に最も反する行為だからです。

0葬 ――あっさり死ぬ

0葬 ――あっさり死ぬ



わたしは、葬儀という営みを抜きにして遺体を焼く行為を認めません。
かつて、ナチスもオウムも葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。ナチスはガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。しかし、「イスラム国」はなんと生きた人間をそのまま焼き殺しました。このことを知った瞬間、わたしの中で、「イスラム国」の評価が定まりました。わたしたち日本人は、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」「直葬」あるいは遺骨を火葬場に置いてくる「0葬」といったものがいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の精神に通じているのです。

唯葬論 (サンガ文庫)

唯葬論 (サンガ文庫)



麻原彰晃が説法において好んで繰り返した言葉は「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得したわけですが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。 この主張は拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも強く訴えました。その意味で、Yが自らが命を奪った人々の「弔い」や「供養」についてどう考えているのかを知りたかったです。

葬式に迷う日本人

葬式に迷う日本人



思えば、地下鉄サリン事件は戦後50周年という大きな節目の年に起きたわけです。わたしは重大な事件や発明から半世紀後に社会は一変するという「ドラッカーの法則」を唱えていますが、たしかに戦後半世紀目のオウムの悪夢によって日本社会は一変しました。日本人が宗教へのアレルギーを示すようになり、葬儀に対する関心も一気に弱まっていったのです。これはあまり言いたくないのですが、現在、「0葬」を提唱しているのが、かつてオウム真理教を擁護した島田裕巳氏であることは重要です。島田氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)で対談してからは島田氏本人には何の恨みもありませんが、儀式なき遺体焼却という行為において、オウムと「0葬」は完全につながっていることを指摘しておきたいと思います。

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3月20日生まれの鎌田東二先生と



最後に、地下鉄サリン事件が起こった3月22日の2日前にあたる3月20日は「バク転神道ソングライター」こと鎌田東二先生の誕生日です。鎌田先生とわたしは、WEB上の往復書簡「シンとトニーのムーンサルトレター」を交わしているのですが、現在は第151信がUPしています。月1回、1年に12回なので、151回ということは12年7ヶ月です。その文章量もかなりなものですし、われらが往復書簡、もしかしてギネスに近づいているのではないでしょうか?
『逆さに吊るされた男』では、よう子がYへの手紙で「ごめんね。いまや、私は、年に1、2回しか面会に行かなくなっている。手紙だって、以前は週に一度も出していたのに、最近では2ヶ月に一度も書きゃあしない。親の介護や仕事で忙しかったのは確か。だけど、十年前より忙しいかと言えばそうでもない。だから、面会に行けないというのは、忙しさより気力のせい。きっとそのことは、Yさんも感じているでしょう。そして、諦めているのよね。しょうがないさ、彼女も自分の人生で忙しいんだから、って」と書いています。



わたしは、この文章を読んで、ずっと鎌田先生と往復書簡を続けられることに感謝するとともに、サン=テグジュペリが言った「人間関係の贅沢」というものを感じました。その鎌田先生も田口ランディ氏と面識があるとか。わたしが「いま、田口さんの『逆さに吊るされた男』を読んでいます。オウムの死刑囚の話です」と申し上げたところ、鎌田先生は「オウム真理教事件については、いろいろなアプローチと考察が可能であり、また必要です」とメールに書かれていました。オウム真理教事件の考察としては、本書は最高のテキストの1つだと思います。なによりもオウムの「魔境」に迫っているところが素晴らしいです。渾身の力作である本書を上梓された田口ランディさんは、出版の報告を兼ねてYさんに面会されたのでしょうか?

逆さに吊るされた男

逆さに吊るされた男



2017年12月11日 一条真也

2017-12-10

「DESTINY 鎌倉ものがたり」

一条真也です。
8日、東京から長女が戻ってきました。お姉ちゃんが帰ってきて次女も嬉しそうです。夜は、家族全員で土手鍋を囲みました。9日は公開されたばかりの日本映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」を観ました。




ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「西岸良平による人気漫画『鎌倉ものがたり』を、西岸が原作者である『ALWAYS』シリーズなどの山崎貴監督が実写映画化。人間だけでなく幽霊や魔物も住むという設定の鎌倉を舞台に、心霊捜査にも詳しいミステリー作家が新婚の愛妻と一緒に、怪事件を解決していくさまを描く。和装に身を包み多趣味なミステリー作家を堺雅人、年の離れた妻を高畑充希が演じる。そのほか堤真一、安藤サクラ田中泯國村隼薬師丸ひろ子三浦友和、中村玉緒らが出演」

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「鎌倉に住むミステリー作家・一色正和(堺雅人)のもとに亜紀子(高畑充希)が嫁いでくるが、さまざまな怪奇現象が起こる日常に彼女は戸惑ってしまう。犯罪研究や心霊捜査にも通じている正和は、迷宮入りが予想される事件の折には、鎌倉警察に協力する名探偵でもあった。ある日、資産家が殺害され・・・・・・」




師走に観た「DESTINY 鎌倉ものがたり」、良かったです!
堺雅人と高畑充希の2人も、一色夫妻のキャラに合っていました。
中村玉緒のお手伝いさんも、安藤サクラの死神も、適役でした。
わたしは、この映画が公開されるのが楽しみでなりませんでした。というのも、わたしは不思議な味わいを持つ原作の大ファンだからです。西岸良平氏の漫画はほとんど全作品を読んでいますが、特に映画化された『三丁目の夕日』、『鎌倉ものがたり』はコミックを全巻持っているだけでなく、再編集されたコンビニ本もすべて揃えており、妻や娘から呆れられています。



西岸氏は1947年東京生まれ。現在は70歳ですが、立教高校・立教大学時代の同級生にミュージシャンの細野晴臣氏がいます。当時漫画家を目指していた細野氏は、西岸氏の才能に感服したことで漫画家の道を諦めて音楽の道に進む決意をしたとか。西岸氏は博識で知られ、1980年に「アップダウンクイズ(MBS)漫画家大会」に出場した際は、あっと言う間に10問正解して賞品のハワイ旅行を獲得しました。

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わが書斎の「オルゴール江ノ電」



さらに、作品にも反映されていますが凝り性で多趣味の人です。
鉄道ファンとして有名で、『三丁目の夕日』では湘南電車(80系電車)や都電や交通博物館を、『鎌倉ものがたり』では横須賀線や江ノ島電鉄や電車が作品に登場します。特に、江ノ島電鉄は「DESTINY 鎌倉ものがたり」で大活躍します。わが書斎には、江の島に行ったときの記念に求めた「オルゴール江ノ電」が鎮座しています。




「DESTINY 鎌倉ものがたり」では、その江ノ電は「黄泉の国」、すなわち死者の世界へ続いています。映画では黄泉の国に行ってしまった亜紀子を正和が江ノ電に乗って探しに行きます。そのシーンが非常に幻想的で、まるでジブリ・アニメの名作「千と千尋の神隠し」の実写版のようでした。千尋とカオナシが乗り合わせた不思議な電車を連想しましたね。




ネタバレにならないように気をつけて書きますが、黄泉の国では、正和と亜希子の夫婦愛が感動的に描かれています。かつて、哲学者プラトンは『饗宴』において、元来が1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するという「人間球体説」を唱えました。そう、結婚相手と出逢うことは奇跡にほかなりません。そもそも縁があって結婚するわけですが、「浜の真砂」という言葉があるように、数百万、数千万、数億・・・ブルゾンちえみなら「35億」というでしょうが、そんな膨大な異性の中からたった1人と結ばれるとは、何たる縁でしょうか!




この映画には、多くの妖怪や魔物や神様が登場します。
妖怪というのは「目に見えないもの」を見える化した存在ですが、一般に妖怪が好きな人は、民俗学に興味を抱く人が多いです。「DESTINY 鎌倉ものがたり」と「ZIP!」のスペシャルコラボ映像として、一色夫妻が「日本の暮らしのマナー」を学ぶ特別映像が5本作られています。國學院大學教授の新谷尚紀氏が民俗史監修をされていますが、「割り箸の割り方は?」「夜の口笛はナニを呼ぶ?」「てるてる坊主の作法」「赤文字にご用心」「ホウキに宿る神さま!?」といったタイトルが並んでいます。

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國學院大學の「常磐松ホール」で新谷尚紀教授と



わたしは、2014年11月21日に新谷教授にお会いしました。
ブログ「還暦と年祝い」で紹介した國學院大學での特別講義を拝聴したのですが、新谷教授は「この中で正月にはマイカーに注連縄を飾る人は何人いますか?」あるいは「喜寿の祝いをされた方を知っている人はいますか?」などと次々に質問して、聴講生たちに挙手を求められました。新谷教授いわく、年中行事や通過儀礼というのはすべからく「緊張する」時に存在するとのこと。たとえば正月ですが、去年までは良かったけれど今年は悪いものが入ってくるかもしれないとういうことで、正月飾りなどを行うわけです。厄年なども同じ理屈ですね。七五三や長寿祝いも同様です。

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國學院は日本民俗学のメッカです!



正和の祖父も父親も民俗学者だったという設定です。2人とも國學院の出身だったのかもしれません。というのも、國學院は日本民俗学が誕生した場所だからです。日本民俗学の創始者として知られる柳田國男折口信夫はは、ともに國學院大學の教授でした。社会学や人類学といった欧米から入ってきた学問は帝国大学が受け皿となってきましたが、民間伝承学の延長線上にある日本民俗学は私学である國學院から産声を上げました。昭和10年、國學院大學からついに日本民俗学が誕生しました。

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國學院大學と私



わたしの父であるサンレーグループ佐久間進会長は國學院の出身ですが、日本民俗学が誕生した昭和10年にこの世に生を受けています。また、佐久間会長は亥年ですが、柳田國男折口信夫の2人も一回り違う亥年であると、新谷先生の講義で初めて知りました。わたしは、佐久間会長が國學院で学び、日本民俗学のまさに中心テーマである「冠婚葬祭」を生業としたことに何か運命的なものを感じました。

妖怪学の基礎知識 (角川選書)

妖怪学の基礎知識 (角川選書)



柳田國男といえば、『妖怪談義』という妖怪研究の名著がありますが、その伝統を受け継いだのが小松和彦氏です。小松氏は現代日本を代表する民俗学者にして妖怪研究の第一人者として知られていますが、ブログ『妖怪学の基礎知識』で紹介した著書で、「妖怪の定義」について述べます。
「『妖怪』とは何か。正直なところ妖怪を定義するのはむずかしい。文字通りに理解すれば、不思議な、神秘的な、奇妙な、薄気味悪い、といった形容詞がつくような現象や存在を意味する。私の考えでは、これはそのままでは『妖怪』ではない。あえていえば『妖怪の種』である。しかし、そうした出来事・現象を『超自然的なもの』の介入によって生じたとみなすとき、それは『妖怪』となる。これが『妖怪』についてのもっとも広い定義である」

妖怪学講義

妖怪学講義



ブログ『妖怪学講義』で紹介した本で、宗教学者である著者の菊地章大氏は、妖怪と民俗学の関係について、「妖怪はやはり民俗学の色彩が強くあるようです。かたや幽霊は文学的な要素を多分に持っていると言えます。浮世の人間模様が背景にあるからこそ、幽霊話は文学であり、人情話にもなるわけです」と述べています。
そう、「幽霊」も「あの世」も、ともに妖怪学の研究対象でした。
また菊地氏は「お葬式」について、「死者の世界へ行くのを嫌がって自分の家や仕事場に帰りたがっている霊魂に、戻ってきちゃいけないとあきらめてもらう。やすらかに『あの世』へ送り出す。そのための儀式が、つまりお葬式なのです。普通ならばこれでようやく、死んだ人と生きている人たちとの断ちがたいつながりが断たれることになります」と述べます。



簡潔に葬儀の役割を説明していますね。では、本来は「あの世」へ行ってもらうべき死者の霊が、もしも「この世」にとどまった場合はどうなるのか。
菊地氏は、「これまで魂が宿っていた肉体は火葬されていて、あるいは土葬ならば腐敗していて、もうありません。しかたなく霊魂はさまようことになります。あの世にも行かれず、この世にも戻ってこられずに、さまようしかなくなった霊魂。それがまさしく幽霊の本質なのです」と述べます。
なるほど、お葬式とは、「死者を幽霊にしないためのもの」だったのです。



「DESTINY 鎌倉ものがたり」には、お葬式の場面も登場します。
鎌倉では「幽霊申請」というのがあって、残された者が気になって成仏できない場合、死神に幽霊申請をして、しばらくの期間をこの世に留まるという制度があります。そこで老いた夫(橋爪功)を残して先に亡くなった妻(吉行和子)が幽霊として暮していたのですが、ついに夫が亡くなった夜、2人で葬儀会場から黄泉の国行きの江ノ電の停車場に向かいます。その2人に対して、正和が「お幸せに!」と声をかけるシーンが印象的でした。




また、江ノ電の終点である黄泉の国駅では、多くの死者たちが新しくやってきた死者たちとの再会を喜ぶ姿が描かれます。これも感動的でした。黄泉の国は、ブログ「丹波哲郎の大霊界」で紹介した映画の死後の世界にそっくりでした。その死後の世界は死者の思念が反映された世界であり、「霊界とはこのような場所であるはずだ」というイメージが投影されています。地獄でさえも、生前に罪を犯した人々の罪の意識が作りあげているというのです。これは、偉大な霊能者として知られたスウェーデンボルグの説でもあります。このような霊界の存在を確信していれば、葬儀会場で故人に向かって「お幸せに!」と呼びかけるのも素敵かもしれませんね。

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唯葬論』(三五館)



「葬儀」の役割を徹底的に考察したのが拙著『唯葬論』(三五館)です。
同書の第五章「神話論」では「死の起源神話」について述べていますが、そこで日本神話では亡き妻イザナミに会うため、イザナキが黄泉へ行くエピソードを考察しました。「DESTINY 鎌倉ものがたり」では正和は亜希子とともに現世へ戻ってきますが、わが国最古の神話である『古事記』では、イザナミとイザナキの夫婦は現世に戻れませんでした。

超訳 古事記

超訳 古事記



変わり果てた妻の姿の恐ろしさにイザナキが逃げ帰ろうとすると、「私に恥をかかせましたね」と、イザナミが言いました。脱兎のごとく逃げるイザナキ。よもつしこめがイザナキを追い、次に八雷神が1500の黄泉軍を率いて追ってきましたが、イザナキは物を投げながら逃げ切りました。最後にイザナミ自身が追ってきた。黄泉比良坂(よもつひらさか)で大きな石をはさんで両者は向き合います。イザナミが「愛しい夫よ、あなたがこんなことをするならば、私はあなたの国の人間を1日1000人殺しましょう」と言いました。それに対して、イザナキは「愛しい妻よ、あなたがそうするならば、私は1日に1500の産屋を立てよう」と言いました。だから、1日に必ず1000人が死に、1日に必ず1500人が生まれるというのです。

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涙は世界で一番小さな海』(三五館)



神話は人間生活のあらゆる面に行きわたっていますから、死や死後の世界にも当然ふれています。それどころか、死や死後の世界というのは世界中の神話におけるメイン・テーマの1つだといえるでしょう。
死や死後の世界について語るのは神話だけではありません。
アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリといった人々が書いたファンタジーも同じく、死や死後の世界について語ってくれます。
拙著『涙は世界で一番小さな海』では、「人魚姫」「マッチ売りの少女」「青い鳥」「銀河鉄道の夜」「星の王子さま」の5作品を「ハートフル・ファンタジー」として、その深いメッセージを探っていきました。
わたしたちは、どこから来て、どこに行くのでしょうか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのでしょうか。そのようなもっとも大切なことを教えてくれる物語がハートフル・ファンタジーなのです。 



これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。それでも、今でも人間は死につづけています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは1度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だといえるでしょう。まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。その謎を説明できるのはハートフル・ファンタジーしかないと思います。そして、「DESTINY 鎌倉ものがたり」は素晴らしいハートフル・ファンタジー映画でした。



ブログ『日本人は死んだらどこへ行くのか』で紹介した本のカバー前そでには、「私たちは死んだらどこへ行くのか――。これは誰もが必ず直面する問いであろう。この問いは、大いなる不安を伴うものであり、ときに絶望ですらあり、さらに深い孤独を感じさせるものでもある。 ほとんどの宗教が『死後』の問題を中心に据えているのも、それゆえだ。たしかに、『死んだらどこへ行くのか』についての固い信念があれば、『安心』を手にすることができるかもしれない。だが、その信念を持つことは現代日本人の多くにとって、そう容易なことではない」と書かれています。
しかし、ハートフル・ファンタジー映画である「DESTINY 鎌倉ものがたり」は物語の力によって「安心」のようなものを観客に与えてくれます。



『日本人は死んだらどこへ行くのか』は、宗教哲学者の鎌田東二先生の著書です。國學院大學のご卒業で、現在は上智大学グリーフケア研究所特任教授、京都大学名誉教授を務められ、わが魂の義兄弟でもあります。その鎌田先生はご自身の蔵書をわがサンレーに寄贈して下さることになりました。数万冊の膨大な書籍を数回に分けて送って下さるのです。昨日届いた「昨日、約300箱の段ボール詰めを行ないました。」というタイトルのメールには以下のように書かれていました。
「昨日、まる一日がかりで、埼玉県さいたま市大宮区にある妻の実家に置いてある本約段ボール300箱を7人がかりで詰め終えました。2階と1階と書庫と大きく3カ所に分かれていて、特に書庫は庭にあるので、冷たい雨がそぼ降る中、大変な作業でした。ともあれ、ひとまず終えてホッとしております。15日には搬出し、そちらへは17日か18日に届けられると思いますので、よろしくお願いします」



わが義兄弟である鎌田先生のご厚情には、ただただ感謝するばかりです。必ずや、ご蔵書を広く世の中のためになるように活用させていただきます。
鎌田先生の膨大な蔵書の中には、ご専門である宗教や哲学の本はもちろん、国学や日本民俗学の専門書も多いことと思います。きっと、「死」と「死後」について書かれた本も少なくないのではないでしょうか。いま、鎌田先生は『涙は世界で一番小さな海』を舞台化する戯曲も書いて下さっています。日本人に死後の「安心」を与えることのできるハートフル・ファンタジー演劇を提供することが、われら義兄弟の夢であり、志です。ぜひ、鎌田先生にも「DESTINY 鎌倉ものがたり」を観ていただきたい!



2017年12月10日 一条真也

2017-12-09

貴乃花と白鵬

一条真也です。
国技である大相撲が激震しています。日馬富士の暴行事件に始まった一連の騒動は、「貴乃花親方vs.白鵬」の構図に集約されてきました。その構図は、ずばり、「ガチンコ」と「八百長」というキーワードで表現されています。
今週発売の「週刊文春」や「週刊新潮」では白鵬をはじめとしたモンゴル勢の「八百長」問題を大きく扱っています。

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「週刊文春」12月14日号(上)と「週刊新潮」12月14日号(下)



その流れの中で、両者の「相撲観」の違いを指摘する声も多いです。
スポーツライターの赤坂英一氏は、「白鵬と貴乃花に見る『相撲観』の違い」というネット記事で、立ち合いでの張り手やエルボー、かち上げに代表される白鵬の相撲には「卑怯で汚い勝ち方」という意見が少なくないことを紹介し、さらに以下のように述べています。
「白鵬にとっては恐らく、張り差しも微妙な立ち合いも勝つために必要な手段であり、横綱の技のひとつなのだ。自分の相撲観は絶対で、自分の相撲こそが『横綱相撲』という信念がある。審判への抗議、優勝インタビューでの発言、さらに万歳三唱のパフォーマンスと、すべては『白鵬だけの相撲観』が源になっているように思う。横審や理事長からいくら注意されても、何が悪いんだ、というのが白鵬の本音に違いない」




続けて、赤坂氏は以下のようにも述べています。
「一方、貴乃花親方の腹の底には、そうした白鵬をはじめとするモンゴル人力士の『汚い取り口』が横行している現状への反発があると思う。対する白鵬も『貴乃花親方の下では巡業に参加できない』と猛反発。かつて『尊敬している』と話していた元大横綱との亀裂は深まる一方だ」
わたしは、白鵬はおそらく、大相撲をモンゴル相撲のように勝てばいい「格闘技」だと考えているように思います。そこでは礼儀や礼節などは二の次で、勝ちを重ねて「最強」であることが一番の価値なのでしょう。




一方の貴乃花親方は、大相撲を格闘技であるとは考えていません。
貴乃花親方の現役時代は、K−1の全盛期でもありました。あるテレビ番組で横綱・貴乃花とK−1王者のピーター・アーツが共演したことがありました。司会者は2人に対して「最強の格闘技は何か?」と禁断の質問を投げかけました。2人ともフリップにマジックペンで答えを書きました。そのとき、アーツは当然のように「K−1」と書いたのですが、なんと貴乃花親方も「K−1」と書いたのです。慌てた司会者が「ちょっと、ヨコヅナ〜!」と取り乱した場面をよく記憶しています。そのとき、貴乃花はニコニコして、「だって、キックとか強そうじゃないですか」と言い放ったのでした。それを見て、わたしは「ああ、貴乃花は大相撲を単なる格闘技とはとらえていないんだな」と思いました。貴乃花は大相撲に「強さ」を超えた価値を求めていたのです。




わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない力士はいないと思います。日馬富士暴行事件の現場に居合わせたこと、九州場所で90秒にわたって行司の判定に抗議をしたこと、優勝インタビューで暴行事件の当事者であるにもかかわらず「日馬富士関、貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」と発言したこと、その後あろうことか観客を巻き込んで万歳三唱をしたこと、そして全力士の前で「貴乃花親方を巡業部長から外してほしい」などと八角理事長に直訴したこと・・・すべてが礼儀と礼節を欠く行為です。日馬富士が引退会見で述べた「礼儀と礼節を大切にして生きてほしい」という貴ノ岩へのメッセージは、むしろ白鵬にこそ送られるべきです。




特に問題なのが、九州場所11日目、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし続け、勝負後の礼をしないという前代未聞の振る舞いをしたことです。長い大相撲の歴史でも、横綱の品格が最も損なわれた瞬間でした。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断!
さらに両者の「相撲観」の違いを見ていく上で、わたしは決定的な違いを発見しました。それは「相撲観」というよりも「横綱観」の問題です。

相撲よ!

相撲よ!



ブログ『相撲よ!』で紹介した白鵬の著書には、「横綱が土俵入りをすることが、なぜ神事となるのか」という問いが示されています。その問いに対して、著者である白鵬は「横綱が力士としての最上位であるからだ」と即答し、さらに以下のように述べています。
「そもそも『横綱』とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称である。その綱は、神棚などに飾る『注連縄』のことである。さらにその綱には、御幣が下がっている。これはつまり、横綱は『現人神』であることを意味しているのである。横綱というのはそれだけ神聖な存在なのである」




この「現人神(あらひとがみ)」という言葉は、「この世に人間の姿で現れた神」を意味し、ふつうは「天皇」を指します。この言葉を使うからには、白鵬は「横綱」を「天皇」と同じように神であるととらえているのでしょう。いや、昭和天皇は戦後の「人間宣言」によって神であることを自ら否定したわけですから、横綱こそは唯一の「この世に人間の姿で現れた神」だと考えているのかもしれません。誰かが白鵬に間違った横綱観を伝授した可能性もありますが、白鵬は「大相撲」や「横綱」というものを根本的に誤解しているようですね。わたしは、ここに「礼をしない横綱」の秘密があると思いました。なぜなら、神であれば人間である対戦相手に礼をする必要などないからです。




一方で、貴乃花親方はつねづね「土俵には神様がおられる」と述べています。貴乃花は「平成の名横綱」でした。すなわち、彼は横綱という存在を神であるとはとらえていないわけです。「横綱≠神」と考える貴乃花、「横綱=神」と考える白鵬・・・・・・この両者の横綱観にこそ、両者の考え方の違いが最も明確に表われていると言えるでしょう。自身を「神」と考えているとすれば、白鵬の一連の傍若無人な行為も理解できます。




ところで、「週刊文春」取材班は、白鵬と“愛人”の2ショットを入手しました。白鵬は愛妻家をアピールする一方で、モンゴル人の愛人に入れ上げていたというのです。まさに激震の角界をさらに揺るがすスキャンダルですね。どうやら「最強」なのは、K−1でもモンゴル相撲でもなく、文春砲のようです。



2017年12月9日 一条真也

2017-12-08

「終活」は卒業準備

一条真也です。
今朝の小倉は雪がちらつき、とても寒いです。
ブログ「『人生の修め方』講演」」で紹介したように、7日、わたしは西日本新聞北九州本社主催の講演会で講師を務めました。
その記事が「西日本新聞」12月8日朝刊に掲載されました。

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西日本新聞」12月8日朝刊



記事は「『終活』は卒業準備」「作家一条さん講演 西日本文化スポーツ部」の見出しで、以下のように書かれています。
「北九州ゆかりの文化、スポーツ関係者が講師を務める『西日本文化スポーツ部』(西日本新聞北九州本社主催)が7日、小倉北区の湖月堂であった。老いや死生観などに関する著作で知られる作家の一条真也さん(54)が『終活』について話した。一条さんは冠婚葬祭会社の社長も務める。自らの葬儀や墓の準備を含めた『終活』を『人生の卒業準備』と位置付け、『葬儀会場や参列者の顔触れを具体的にイメージできたら、死は怖くなくなる』と強調。『葬儀で言ってほしいお悔やみの言葉を考え、そう思われるように生きないといけない』と話した。その一方、講演では『終活』という言葉に代わり、『心を修めるという意味の修活』を用いたいとする考え方を提案。また、『命は流れていくもの』として、『誕生は霊界からの、七五三は幼児からの、葬儀は人生からの卒業式』と自らの死生観も披露した(諏訪部真)」
なお、講演の詳しい内容は、今後数回にわたって「西日本新聞」に掲載されるそうです。これからも「修活」について語っていきたいです。



2017年12月8日 一条真也

葬祭責任者会議  

一条真也です。
ブログ「『人生の修め方』講演」で紹介したイベントが終了すると、わたしは迎えの車に乗ってサンレー本社へと急ぎました。7日の午後から、 サンレーグループの葬祭責任者会議が行われたのです。師走で慌ただしい中、各地から「おくりびと」ならぬ、わが社の「きわめびと」たちが集結しました。

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社長訓話前の一同礼!
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サンレーグループ全国葬祭責任者会議のようす



わたしは、16時半から、いつものように60分ほどの社長訓話をしました。
まずは、最近取材が殺到している「くさみ三礼庵」について話しました。紫雲閣とは別ブランドの古民家を改装した施設で、「三礼」とは「慎みの心」「敬いの心」「思いやりの心」という小笠原流礼法における3つの「礼」を意味しています。「くさみ三礼庵」に続いて、来年早々には別府に「三礼庵」がオープンします。「三礼庵」は「葬儀だけを行う」セレモニーホールではなく、「葬儀も行う」コミュニティハウス」です。普段は茶道教室や華道教室などを開き、葬儀のときにはスタッフが着物姿で抹茶をたて、生け花を飾ります。「三礼庵」は、これまでにない新業態なのです。もともと葬儀などの冠婚葬祭こそは日本文化の集大成ですが、そのことを広く示していきたいです。

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「三礼庵」について話しました



わが社は「セレモニーホールからコミュニティセンターへ」をスローガンに掲げています。従来の「葬儀をする施設」から「葬儀もする施設」への転換を目指しているのです。たとえば、各地の紫雲閣を「子ども110番の家」「赤ちゃんの駅」に登録したり、常備薬やAEDを設置したりしています。さらには、映画、演劇、音楽コンサートなども上演できる地域の文化の殿堂化をめざします。サンレーの本社のある北九州市は日本一の超高齢都市として知られています。その中には、「八幡紫雲閣」がある八幡東区の大蔵のように坂道が多い街もあります。そこには多くの高齢者が住んでおられ、日々の買い物やゴミ出しにも苦労をしておられます。こういった問題を解決する「買い物支援」「ゴミ出し支援」にも積極的に取り組みます。これらの取り組みは、「日本経済新聞」や「日経MJ」などでも紹介されました。

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セレモニーホールからコミュニティセンターへ!



セレモニーホールをコミュニティセンターに進化させるというのは、ある意味で「紫雲閣の寺院化」とうことでもあります。かつての寺院は、葬儀が行われる舞台でありながらも、近隣住民のコミュニティセンター、カルチャーセンターでもありました。仏教伝来以来1500年ものあいだ、日本の寺院は生活文化における3つの機能を持っていました。「学び・癒し・楽しみ」です。「セレモニーホールからコミュニティセンターへ」というスローガンは、ある意味で寺院の本来の機能を蘇えらせる「お寺ルネッサンス」でもあるのです。そこでは、グリーフケアという「癒し」の機能を最重視します。思い起こせば、わが社は、2004年に高齢者複合施設「サンレーグランドホテル」を北九州市八幡西区に作りました。セレモニーホールと高齢者用のカルチャーセンターなどが合体した前代未聞の施設として大きな話題になりました。今では、「盆踊り」や「観月会」などの年中行事の舞台でもあります。

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天皇陛下について



それから、わたしは「ここのところ毎日、天皇陛下と大相撲について考えています」と述べました。まずは「天皇制」について。1日に開催された皇室会議では、天皇陛下が2019年4月30日に退位される日程が固まりました。平成は再来年の4月末で終わります。翌5月1日から改元となります。じつに200年ぶりの天皇の退位となりますが、安倍晋三首相は会議を踏まえ「天皇陛下のご退位と皇太子殿下のご即位が国民の祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしていく」との談話を発表しました。政府は退位や即位の儀式のほか、新元号制定に関する準備を本格化します。

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天皇陛下は神話的存在である!



わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考えています。
社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうでしょう。そして、天皇陛下ほど「神話」と「儀式」をその存在で体現されている方はおられません。まず、天皇陛下は神話的存在です。日本人のアイデンティティの根拠は、神話と歴史がつながっていることです。神話により日本人は、現在の天皇家の祖先が天照大神につながることを知っています。『日本書紀』の一書によれば、天照大神は天を支配し、月読尊が海を支配し、須佐之男命が地を支配したことも知られています。天照大神はいまも伊勢神宮に祀られており、その子孫が皇室です。

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天皇陛下は儀式的存在である!



また、天皇陛下は儀式的存在です。代々の天皇陛下は、自ら稲を栽培され、収穫が終わると新嘗祭神嘗祭で、今年の収穫のご報告をされます。新嘗は、新しくできた米を嘗(な)めるお祭。神嘗は、神々が新穀を嘗(な)めるお祭りです。天皇陛下が即位後初めて行う新嘗祭だけは、「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼び、その儀式は遠く神代の昔から毎年続いています。ちなみに、伊勢神宮の20年に1度の式年遷宮は、20年に1度の周期で行う大神嘗(かんなめ)祭でもあるのです。まさに天皇陛下とは儀式的存在です。一連の皇位継承儀式によって、日本人が儀式の大切さを再確認することを切に願います。皇室儀礼には冠婚葬祭の未来がかかっています。

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大相撲について吼えました



次は「大相撲」についてです。国技である大相撲が激震しています。九州場所の終了後、横綱・日馬富士は貴ノ岩への暴行事件の責任を取って引退を表明しました。しかしながら、わたしは、先の九州場所で40回目の優勝を果たした横綱・白鵬も引退すべきと思います。
わたしは、白鵬ほど横綱にふさわしくない下品な力士はいないと思います。日馬富士暴行事件の現場に居合わせたこと、九州場所で1分半にわたって行司の判定に抗議をしたこと、優勝インタビューで暴行事件の当事者であるにもかかわらず「日馬富士関、貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」と発言したこと、その後あろうことか観客を巻き込んで万歳三唱をしたこと、そして全力士の前で「貴乃花親方を巡業部長から外してほしい」などと八角理事長に直訴したこと・・・すべてが礼儀と礼節を欠く行為です。

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礼をしない横綱は言語道断!



日馬富士が引退会見で発言した「礼儀と礼節を大切にして生きてほしい」という貴ノ岩へのメッセージは、むしろ白鵬にこそ送られるべきでしょう。
特に問題なのが、九州場所11日目の22日、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし、約1分半、勝負後の礼をしない前代未聞の振る舞いをしたことです。
長い大相撲の歴史でも、横綱の品格が最も損なわれた瞬間でした。相撲の原則は「礼に始まり礼に終わる」であり、礼をしないで横綱が土俵を下りるなど言語道断です。

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懇親会で挨拶する佐久間会長
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わたしも懇親会で挨拶しました
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懇親会でカンパ〜イ!



大相撲は単なる格闘技ではありません。勝っても負けても相手に敬意を示す。白鵬は、対戦相手のみならず、土俵上の神にも礼をしなかったのです。 そもそも「横綱」とは、横綱だけが腰に締めることを許される綱の名称です。その綱は神社に飾る「注連縄」のことであり、そこには御幣が下がっています。つまり、横綱とは神聖な存在なのです。そのことを理解しない力士は横綱ではありません。わたしが「サンレーグループは、総力をあげて貴乃花親方を応援しよう!」と言うと、みんな「おう!」と雄叫びを上げました。大相撲の行方も冠婚葬祭の未来がかかっています。そう、冠婚葬祭とは日本人の「こころ」と「かたち」そのものなのです。なお、社長訓話後は、サンレー本社から松柏園ホテルに移動して、懇親会が開催されました。



2017年12月8日 一条真也