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一条真也の新ハートフル・ブログ

2016-06-29

『秘儀と秘義』

秘儀と秘義―古代の儀礼とキリスト教の典礼


一条真也です。
『秘儀と秘義』オード・カーゼル著、小柳義夫訳(みすず書房)を読みました。「古代の儀礼とキリスト教の典礼」というサブタイトルがついています。神学者によるキリスト教の典礼秘義についての名著です。



著者は、1886年、西ドイツのゴプレンツ・リュッツェルに生まれました。 1905年、マリア・ラーハのベネディクト会修道院に入り、ローマで神学、ボン大学で古典言語学を学びます。その後、教会の礼拝祭儀におけるキリストの秘義の現存を生涯の研究課題として、神学にも教会の実践にも大きな影響を残しました。第二バチカン公会議の神学的総合と教会の刷新は、本書を中心に展開されたカーゼルの秘義神学に負うところが多いとされます。1948年にヘルシュテレにて逝去しています。



本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。
「『秘義なしに、人は真のいのちに入ることはできない』(アウグスチヌス)
最初のもっとも簡素な秘義への参加は洗礼であった。また、神が人間の舌を通じて告げた聖書の言葉、さらに、『キリストが我らの眼からもはや見えぬものとなって以来』の教会の礼拝祭儀――これらすべてが、秘義の内容をなすものであった。秘義は『筆舌に尽しがたい』ineffabileものであるため、人間の歴史のなかでは、多種多様な現われ方を示している。ローマ人、東方教会、ガリア人、ゲルマン人らによって、壮麗にも神秘的にも軽やかにも、幻想的あるいは瞑想的にも、その典礼秘義はみな異なっていたが、その多様性そのものを条件とするほどに〈普遍的〉(カトリック)なキリスト教の存在なのであった。著者はここに言語学的・宗教学的照明を与えるとともに、その秘義神学の立場から現代の思想状況を展望している。聖書と伝統によって支えられ、珠玉の言葉の結晶の示すヴィジョンと鋭い洞察は、本書の特質をきわ立ったものとしている」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「凡例」
「第四版への序」(ブルクハルト・ノインホイザー)
「第一版‐三版への序」
キリスト教における典礼秘義
第一章 秘義への転向
第二章 キリスト教における典礼秘義の位置
A キリスト教
B 祭儀の型としての「秘義」
C 秘義としての典礼
第三章 古代の秘儀とキリスト教の秘義
第四章 教会の一年におけるキリストの秘義
第五章 教会の一日におけるキリストの秘義
キリスト秘義の充溢の中から
1 秘義の本質について
2 秘義共同体である教会
「解説」(土屋吉正)



「キリスト教における典礼秘義」の第一章「秘義への転向」では、「秘義である神」として、著者は以下のように述べています。
「神の秘義の意味するところは三重でありながら、しかもなお一重である。
秘義とはまず第一に『神自身』である。すなわち無限の遠くにある者、聖なる者、近づき難い者、死ぬことなしに近づき得ない者としての神であり、あの預言者が、『わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民のただ中に住む者であるのに、万軍の主である神をこの目で見た』(イザヤ6・5)と言っているように、この者と比べてはすべてが汚れたものに見えるほどの神である。この全く聖なる者が、その秘義をあらわした。つまり被造物にまで身を低めて自分を啓示されたのである。しかしその啓示も『秘義のうちに』示された。傲慢な者、尊大な者にではなく、神によって選ばれた謙虚な者、心の清い者に向けられた恵みによる啓示によって示された。それゆえこの啓示もやはり秘義なのであって、この俗的な世には許されず、かえって世には隠され、ただ神を信じる者、選ばれた者にのみ示されたのである」


秘儀の歴史 秘儀の世界から 新版 古代の密儀 (象徴哲学大系) 図説 古代密儀宗教

また、著者は以下のようにも述べています。
「古代世界はすでにこの秘義をおぼろげに予感していた。あらゆる地上のものは、何か超自然的な栄光の反映や結果に過ぎないということを古代世界は何かしら気づいていた。シュメールやバビロニアのジグラートも、永遠のいのちを求めるエジプトのピラミッドやスフィンクスも、この秘義への感覚に由来するものである。ギリシアのプラトンの知恵の洞察力もこれを語り、ギリシア時代、ヘレニズム時代の秘儀も、ここに近づこうとしていた。天を地に下ろし、人間的なものを神的なものに近づけ、そして両方の世界を合わせようという人間が常に抱いているあこがれもこれを示しているのである」
このあたりはブログ『秘儀の歴史』ブログ『秘儀の世界から』ブログ『古代の密儀』ブログ『図説 古代密儀宗教』などで紹介した古代の秘儀や密儀、つまり秘密儀式について書かれた本に詳しく紹介されています。



しかし、本書は「秘儀」のみならず「秘義」について述べた本です。
「秘義」とは何か。その核心を「キリスト秘義」として著者は述べます。
「キリストその人が秘義そのものである。なぜならキリストは目に見えない神性を肉のうちに啓示したからである。キリストがへりくだって行われたさまざまな行為、なかんずく十字架上の死の奉献はまさに秘義である。なぜなら神はそこにおいてあらゆる人間的尺度を超えた方法で自分を啓示されたからである。なかでも、キリストの復活と昇天は秘義である。なぜなら、神の栄光が人間イエスのうちに、しかも世には隠れているがただ信じる者にのみ開かれた形で啓示されたからである。この『キリストの秘義』こそ、教会(エクレシア)の使徒が告げたものであり、教会が世々に宣べ伝えるものなのである。しかし、救いの計画が単なる理論ではなく、キリストの救いの行為を同一線上に包括しているように、教会も、単にことばだけによってではなく、聖なる行為によって人類を救いに導く。つまり信仰と秘義によって、キリストは教会の中で生きているのである」



第二章「キリスト教における典礼秘義の位置」のA「キリスト教」では、以下のように「感謝の奉献(エウカリスチア)」について述べられます。
「教会は儀式によって「受難を記念する」ことによって、常に新しい若芽を成長させ、霊(プネウマ)に満たされ、キリストの満ち満ちた背丈〔エフェソ4・13〕にまで成熟させるのである。
しかし感謝(エウカリスチア)の秘義の本質は、それが奉献であることに尽きるのではなく、この奉献はさらに(狭義の)秘跡としての側面をももっている。旧約の奉献は、一面では食物の奉献であった。つまり、食物をヤーウェに奉献し、それによって聖別された食物を、奉献に集った会衆がヤーウェとともに食べ、これによって会衆自身が聖別され、ヤーウェの共同体に高められる。新約の奉献も、食物の奉献であるが、その意味は全く高められ、霊的である。キリストは自分のことを、世の食物、『いのちのパン』(ヨハネ6・35、6・50〜51)、「いのちの飲物」(ヨハネ4・14、9・37)と呼んでいる。『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠のいのちをもつ。』(ヨハネ6・53〜54)受肉したロゴスは、事実、世の糧である。ことばと霊(プネウマ)によって世に超自然現象ないのちを与え、それを保つからである。キリストはこの事実をひとつの秘義に変えた。自分と教会との肉体的一致を、肉と血をともにすることによって、最も具体的に刻みつけようとされたからである」



また、3つの典礼秘義について、著者は以下のように述べます。
「3つの典礼秘義、すなわち洗礼、堅信、食物としての感謝の秘跡(エウカリスチア)は、人間がキリストのからだへ完全に組み入れられることを表わしている。洗礼は、キリストの十字架へと沈められることによって罪から清め、堅信は、霊(プネウマ)の新しい神のいのちを吹き込み、聖体の拝食は、このいのちを強め保ち、枝体をからだと完全に一体にする。したがって、この3つの秘義は、キリスト者として聖別する入信の儀(initiation)であり、これによって聖別された者が、神秘的キリストの最高の働きである父に対する愛の奉献に、行動的に協働できるようになる。この協働によって、入信者は、キリストのからだの中でさらに深く成長して行く。キリストの血によってたえず清められ、復活の霊(プネウマ)によってたえず新しくより強くいのちを与えられ、奉献の食物によってたえず主と一体化させられるからである。したがって、これら3つの秘義は、教会(エクレシア)にとっても、キリスト者ひとりひとりにとっても、最も重大なものであり、生きていくために必要欠くべからざるものなのである」



C「秘義としての典礼」では、「秘義から典礼へ」が述べられます。
「新約の原秘義は、ふつうに用いられる、『儀式』という意味での典礼ではない。旧約の典礼を示すいろいろな表現は、新約の真に霊的な事実に転用され、より深い意味を表わしている。キリストの奉献は、けっして『儀式』という古い意味での『典礼』ではなく、予型としての旧約の典礼を究極的に最高に完成したものであり、より高められた現実そのものである。教会がキリスト秘義を、典礼秘義の中で儀式によって行うとき、その旧約的な表現や形式は、新約の祭式において、新しいより高められた形で現実化され、完成されている。こうしてひとつの典礼が成立する。それはもちろん外的な形をもっているが、しかし『来るべきよいものの影』(ヘブライ10・1)をになっているのではなく、恩恵に満ちたあがないの現実そのものを帯びているのである」



第三章「古代の秘儀とキリスト教の秘義」では、著者は「祈り」「奉献」「秘義」について以下のように述べています。
「『祈り』とは心の思いと願いを神なる者の前に告げるものであり、『奉献』とは、本質的に神々への贈りものであるのに対し、『秘義』とは、神と一層親しい関係を結ぼうとするものである」
さらに「秘義」について、著者は以下のように述べます。
「秘義とは、そこで救いの事実が儀式のもとに現実化されるところの聖なる祭儀行為であり、祭儀を行う会衆は、この儀式を行うことによって救いの行為に参加し、それによって救いを得る」



「キリスト秘義の充溢の中から」の1「秘義の本質について」では、「典礼は、主がわれわれの救いのためになさったことの、儀式による完成である」として、以下のように儀式の意味が述べられています。
「われわれはキリストのからだとして秘義をとり行う。からだであるから、かしらのなすことをすべて行う。これを可能にするのが儀式である。儀式はひとつのかたどりであり、そのかたどりの中には、キリストが歴史の中で実行されたときにわれわれが参加することができなかった行為自身が含まれている。最後の晩餐も同じである。そこでキリストはあたかもこうおっしゃったようである。『十字架上の奉献という1回限りの行為を、今あらかじめかたどりとして行う。あなたがたも、これにならって、かたどりとして行なわなければならない。』全教会は、主が晩餐でなさったことを行う。しかし選ばれ聖別されたものだけが、教会のために、儀式を執行するのである」



著者は、古代の秘儀とキリスト教の秘義について、以下のように述べます。
「エレウシース秘儀のもつ意味を研究するとき、それが理性によって理解できるものではなく、ひとつの秘義であることを忘れがちである。秘儀は、実際は彼岸においてはじめて存在を知るものを、すでに今経験しながら生きることを可能にする。これはまさにキリスト教の秘義の祝祭に参加するとき必要なことである。日々ささげる秘義の祝祭において、キリストの死と復活の記念をとり行い、われわれ自身も死して復活することを学び、いつかこの力によって、より確実に死して復活することを得る。この秘義の食物は、死期の迫った人に与えられるとき、Viaticumすなわち『旅路の糧』と呼ばれる。この食物は次の世界のための糧となるべきものだからである」



また、宇宙的な秘儀とキリスト教の秘義について、著者は述べます。
「宇宙的な秘儀は死と結ばれたままである。これに対して、キリスト教の秘義は、死を越えてもはや死のない新しい生命へ到る道に人を導く。神話と祭儀は互いに分かちがたい関係にある。キリスト教においても同様である。しかしこの関係は、現代のキリスト教においてはほとんど自覚されていない。欠けているのは、存在そのものにかかわる結合であるから、それは禁欲や教育によっては得られない。キリスト者として生きる力は、まさに秘義が与えるものである。人は祭儀を通して、キリストのいのちにあずかる。決定的なことは、人がキリストの救いの営み(オイコノミア)の中に組み入れられていることである。その他すべてのことは、この存在的な関係から生じる結果なのである」
要するに、古代の秘儀は「死」のセレモニーであったが、キリスト教の秘義は「不死」のセレモニーでああるというのです。



ここで「神話と祭儀」が不可分の関係にあることが示されましたが、神話とは原初の出来事に関するものです。著者は以下のように述べます。
「原初に関する神話は、文学的な虚構ではなく、ひとつの世界像がそこに表われている。この世界像は、今日でも拘束力のある現実性を有し、そしてとくに祭儀を通して現存している。この儀式を通じてのみ、自然の移り変わりの真の意味を把握し、理解することができる。儀式も生活にとって必要なものである。この考えはなかんずくキリスト者にとって重要である。キリスト者の生活の中心は典礼である。キリスト者の生活はまさに典礼に依拠しているということを、祭儀のとき意識しているならば、典礼はけっしてつまらない死んだ決り事にはならないだろう。典礼こそが、原初の出来事の現存から常に新たに刺激を与えることによって、現在の生活を真に意味づけうるものだからである。
原始民族はこのような考えに従って生活している。かれにとっては、毎日の偶然的な出来事もけっして偶然ではない。原始民族は、いかなる出来事をも、祭儀の中で現存している原初と常に関連づけて考える」



また、ユングとケレーニイの共著である『神話学入門』に触れ、以下のように述べています。
「スイス人のユング(C.G.Jung)とハンガリア人のケレンニ(karl Kerényi)は、著書Einführung in das Wesender Mythologie(第4版、1951)の中で、神話と物の起源との関係の問題を扱っている。かれらは、神話というものは本来それに基づいて人が生活したものであることを結論している。神話は、今日では単なる文学作品と考えられ、その本質が忘れられているが、今日でも神話がセラム島の人々の生活を規定しているように、かつては、古代ギリシア人、ローマ人、ゲルマン人の生活をも支えていたのである」



神話と祭儀の関係について、著者は以下のように力強く述べます。
「神話は祭儀の中で生きている。祭儀は生きている神話である。祭儀は、現在の行動の意味を明らかにする模範を、過去の中に求める。キリスト教の秘跡もまさにこのことを明らかに示している。子供が生まれ、洗礼を受ける。聖なる三位がその上に呼び求められ、その名によって再び水から上げられる。人が水の暗黒のふところの中に沈められるとき、キリストが死んだように死す。そして、キリストが復活したように、人も三位の名によって水から新しい生命へ浮び上る。人が救いの原事実の中に沈められるこの儀式を通して、それ自体としては小さく貧しい人のいのちが、『第2のキリストになる』という壮大な次元の中にひき入れられるのである」
わたしは、祭儀とは神話の出来事を思い出させ、原初の時に連れ戻す「初期設定」の文化装置ではないかと思います。



さらに著者は、祭儀について以下のように述べます。
「祭儀は原初を再興する手段であるから、キリスト者にとっては、その中に原初が新たに現存する。祭儀においては、単に救いの行為の効果を経験するのではなく、救いの行為そのものが再び現存している。キリスト者の礼拝の対象はキリストの救いのわざである。祭儀で読まれる旧約の太祖の行為は、予型であり、象徴であり、預言である」
そして著者は、神話の本質についても以下のように述べます。
「真の神話の本質は、それが何か文学的な創作ではなく、生きた現実だということである。それはかつて原初に起こったことであり、現在の人間の運命に影響を与えていると信じられている。神話は、より高い永遠的な現実について述べる。ひとは、自己の実存を把握するためにはそれを知らなければならず、それから生き方への指針が得られるのである。
同様にキリスト者も、いつも自分の生活をキリストと関係づけなければならない。福音の中に模範を求め、あらゆる出来事に際して、キリストの光のもとに見たらどう見えるかを考えなければならない。キリストこそ、われわれの鋳型である。キリスト者は皆キリストの生き方を生き、第2のキリストにならなければならない」



ここでまた、著者は神話学者であるカール・ケレーニイに言及し、儀式と神話について以下のように述べます。
「ケレンニのことばを借りるならば、儀式とは神話の内容を行動に翻訳するものである。これはわれわれにとっても非常に重要な命題であって、何よりも典礼を祝うときに忘れてはならないことである。ひとりの人を水に沈めて象徴的に死をもたらす〔洗礼式の〕典礼において、キリストの死が象徴的に表わされる。こうして根源的な救いの行為が再び明らかにされ、単にことばによってだけではなく、儀式によって表わされる。ミサの祝祭においてはこのことがさらに強く表現される。パンは主のからだであり、ぶどう酒は主の血である。この2つは祭壇上に分かれて置かれ、エピクレシスによって聖別される。あらゆる天上的な出来事が、地上の出来事に反映するという原事実が儀式の中で表現される。2つの形態に分かれていることは、いけにえとなった神人の象徴である。死んだ者だけが、体と血に分かれているからである。主は祭壇上に死んだ者として置かれているのである」



著者は、農業祭儀についても以下のように言及しています。
「古代の農業祭儀の立場から見直すと、預言者ホセアのことばは新しい意味をもってくる。このことばは現実の秘儀の式文を提示している。古代の農業祭儀の中で異邦人は2日間嘆き悲しんだ後、生命の再帰を祝う。農業祭儀の中では、死の悲しみとそれに続く新しい生命の喜びというテーマが繰返し現われる。注意すべきことは、もともとは祭儀において行動するのは神だけであって、後になってはじめて信者も神とともに行動し、自分自身も神になる、という考えが発達してきたことである。こうして、エジプトのオシーリスの祭儀では、信者は自分自身オシーリスである。この考えはキリスト教において、キリスト者がもうひとりのキリストになるという考えにおいて、最高の完成に達した」



古代の秘儀を代表するものとして、エレウシースの秘儀があります。
これについて、著者は以下のように非常に興味深いことを述べています。
「エレウシースの入信者は、聖別式の中の定った所である文句を唱える。クレメンスはこれをエレウシースの『ドラマ』と言っている。この聖別式全体は明らかに1つの神秘劇の形をしている。『デーメーテールとコレーは、秘儀のドラマにつくりあげられた。エレウシースは、この二女神のさすらい、略奪、悲しみをたいまつの火によって示す。』」

葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)



わたしは、『葬式は必要!』(双葉新書)や『永遠葬』(現代書林)、さらには『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)などにおいて、葬儀をはじめとした儀式の本質とは「ドラマ」であると述べました。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていきます。 
親しい人間が死去する。その人が消えていくことによる、これからの不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心にはいつまでたっても不安や執着が残るのです。この不安や執着は、残された人の精神を壊しかねない、非常に危険な力を持っています。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心に、ひとつの「かたち」を与えることが求められます。まさに、葬儀を行う最大の意味はここにあります。

永遠葬

永遠葬



では、この儀式という「かたち」はどのようにできているのでしょうか。それは、「ドラマ」や「演劇」にとても似ています。死別によって動揺している人間の心を安定させるためには、死者がこの世から離れていくことをくっきりとしたドラマにして見せなければなりません。ドラマによって「かたち」が与えられると、心はその「かたち」に収まっていきます。すると、どんな悲しいことでも乗り越えていけるのです。それは、いわば「物語」の力だと言えるでしょう。わたしたちは、毎日のように受け入れがたい現実と向き合います。そのとき、物語の力を借りて、自分の心のかたちに合わせて現実を転換しているのかもしれません。つまり、物語というものがあれば、人間の心はある程度は安定するものなのです。逆に、どんな物語にも収まらないような不安を抱えていると、心はいつもぐらぐらと揺れ動いて、愛する人の死をいつまでも引きずっていかなければなりません。

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙

愛する人を亡くした人へ ―悲しみを癒す15通の手紙



エレウシースの秘儀に話を戻しましょう。著者は述べます。
「このエレウシースの『ドラマ』は文学的な意味のドラマではなく、秘儀のドラマである。その中心テーマも、あらゆる秘儀の中心問題と同じく、『どうしたら死を免れ、死後も生命を保てるか』ということである。このテーマは、コレーとデーメーテールの運命の中に表現されている。コレーは、黄泉の王に略奪され、その母デーメーテールは子を探し、長いさすらいの末にやっとみつける。これらすべてがエレウシースの秘儀のドラマの中で演じられるのであるが、入信者はこれらの出来事をただ表現するだけでなく、かれら自身が演じているものそのものであるかのように、自分自身でそれを体験する。このテキストが示すように、かれらは母のさすらい(デーメーテールは女祭司の姿で現われ、娘を探す)と、失った娘への悲しみを演じる。これはアドーニスの祭儀の悲しみと似ている。「たいまつの光」は、母と娘の再会にかがやく光を意味している」



秘義の本質について、著者は以下のように述べています。
「秘義の本質は、見える要素を通じて霊(プネウマ)的なことを見、聞こえることばを通じて霊自身を聞くことである。古代の秘儀でも、原理は同じである。入信者が経験し、見聞きするのは客観的なものであるが、その背後に全く霊的なものを『観る』。それゆえ古代の秘儀は、キリスト教の秘義をよく深く理解し味わうための助けとなる。秘義は単なる儀式でも、単なる教育的な模範でも、大人には必要のない子供っぽい人々のための絵物語でもない。秘義とは、感覚的なしるしを通して、神の現実に触れさせるものである。秘義は客観的な行為であるが、それに参加すると、信者は信仰によって、そのうしろに神の現実を「観る」ことができるのである」



さらに、キリストの秘義について、著者は述べます。
「秘義において主の行為に参加する人は、すでに永遠のいのちの活動のまっただ中にいる。その行為は、すでに神のもの、天上のものになっている。これがいつの日か天上で祝う祝祭である。典礼においては、それをあらかじめ味わう。しかし秘義を祝うときだけ、天上の現実にあるのではない。キリスト者の生活は常に祝祭である。キリスト者は、常にキリストとともに父の前に立っているから、常にこの神聖な典礼を祝っている。外的な祝祭は過ぎ去るが、内的な祝祭は留る。逆に、ユダヤ教や異教では、典礼を祝う特別な日や、いけにえをささげる決った場所があった。祭儀は、時と場所にしばられていた。神を崇拝しようと思うときには、神殿に行かなければならなかった。神はそこにしかいなかったからである。われわれ人間にとって、現在とはただちに過去になってしまうただの一瞬に過ぎない。われわれは永遠の時の流れの中にあって、留ることができない」



続けて、人間の行う祭儀について、著者は述べます。
これに照応して、人間の行う祭儀も、キリストによって時間から解き放たれていない間は同じであった。祭儀も時間に縛られ、太陽や月の運行や、地上の産物の成長に縛られていた。祭儀が時間や自然に繋がれていたので、しだいに自然自体を崇拝するようになり、遂には自然の諸力をも神格化してしまった。しかしキリスト教では全く違っている。主・キリストは死を通して永遠に入り、もはや時間性にしばられていない。したがってキリスト教の祭儀は、自然にではなく、永遠性に繋がっている。日や時間にしばられず、新しい世(アイオーン)のもとにある。祭儀によって、われわれは時間をふみこえる。もちろん、決った祝日を祝うこともある。時間のうちに生きる人間として、時間に貢物を払わないわけにはいかない。しかしわれわれは自然を祝うのではなく、自然によって象徴する何かを祝うのである」



著者によれば、われわれはキリストの行ったことをすべて行わなければならず、秘義の「共演者」にならなければなりません。著者は述べます。
「古代の演劇は、この『共演』の意味を明らかにしてくれる。古代の劇場で上演されるのはたいてい宗教劇であって、観客はただ傍観するのではなく、ともに演技し、ある意味でそれに参加した。劇場の中央には、神が、たいていは何かの仮面をつけて座していた。そのまわりで劇が行われ、全員が何らかの形で、その中に加わったのである。この劇は『神』と人との共同のわざであった。この劇の中では、神々と人間は祭りをともに祝う。この劇によって、古代人は見えない世界を見える世界に降し、それを現存させその中に入ろうとした」



さらに、古代の演劇について、著者は以下のように述べます。
「古代人にとって劇は神聖な行為であった。見える形で行動するのは人間であるが、真の行為者は列席している神々である。神々が人間を通じて劇を行う。それゆえ劇において表現されることは、真に現実化するのである。
これらすべてのことは、より高く深い意味において、キリスト教の奉献秘義にあてはまる。この神聖な劇では、見える形で行動するのは人間であるが、キリストが見えない姿で救いのわざを完成する。キリストは『祭り仲間』であり、真の行為者である。われわれが行うことは、実はキリストが行うのである。からだが頭と全く一体であって同じ行為を行うように、われわれはキリストとともに行動する。神聖な洗礼によって、われわれはキリストの枝体となり、受肉した子とともに、ひとりのキリストになる。こうしてキリストの行為はわれわれの行為となる。キリストは、秘義において、自分のからだである教会(エクレシア)とともに行動するのである」



2「秘義共同体である教会」では、著者はキリストによって定められた「神聖な秘義の体系」について以下のように述べています。
「秘義の体系は、常に繰返し行うことのできる目に見える儀式から成立しているが、その背後には、目に見えない神的な現実がある。たとえば降誕祭には、救いをもたらす神の子の誕生が、新たに神秘的に描き出されることによって現存する。救いが生じるのは、まさにこの神的な現実によるのであって、単なる追憶や、大昔の歴史的な事実の効果によるのではない。この救いは、からだの救いではなく、死後にも残る人間のより高い部分に及ぶ救いである。この部分こそが、秘義の力によって彼岸においても生き続けるのである。しかし、この救いを未来のことに限定しないよう、再び注意しておきたい」



続けて、著者は以下のように述べています。
「キリスト者は、秘義によって天上のことに『今すでに参加している』のである。秘義の内容は、『清め』『更新』『『食べること飲むこと』でもあるし、また『照明』つまりより高い光の知(グノーシス)でもある。おそらく秘義の本質を表わす最も意味深いことばは『参加』(participatio,consortium)であろう。この概念は、古代の秘義のみでなく、古代の宗教哲学や神秘観の深さを思い起こさせる。プラトンは、地上のものが天上のイデアに『あずかる』こと、地上のものが、単に天上のものにぶつかり動かされるだけではなく、本質として、天上のものに『あずかる』と言っている』



そして、著者は「観る」ことの重要性を訴えます。
ブログ『神話と古代宗教』で紹介した本では、古代ギリシャ人の宗教の本質は「観(テオーリア)」であると指摘されていましたが、本書の著書も以下のように述べるのでした。
「古代の秘儀について論じる際に、ひとつ注意を払わなければならない点がある。『観る』ことは秘儀の中心であって、『観る』人を、『観る』ものへと変える力をもつ。人間は神に同化する。しかしそれは自分の力によるのではなく、神を『観る』ことによる。これは深い神秘観である。古代人はこのことをすでに予感していた。キリスト教の秘義は、それに最高の客観的現実性を与えた。神は感謝の祭儀(エウカリスチア)において見える姿で現われる。――アプレイウスの『転身譚』に出てくる入信者ルチウスは、『観る』ことによって自分が太陽神となり、翌日にはその姿で現われ、神として崇拝された。キリスト者も、同じようにこう言うことができる、『わたしはキリストである』と」




最後に、キリスト教の秘儀というと、わたしたち日本人にはあまり馴染みがありません。しかし、その本質はイエス・キリストの言行録である『新約聖書』に依拠しています。イエスの生涯やその言葉を意味を知ることがキリスト教秘儀の理解に役立ちます。ブログ「パゾリーニの世界」で紹介したピエル・パオロ・パゾリーニ監督(1922−1975)の代表作である「奇跡の丘」(1964年)という映画は、キリストの生誕から磔刑、そして復活までを丁寧に描き、数々の映画賞に輝いたパゾリーニの出世作です。




パゾリーニ自身は無神論者でしたが、彼は『新約聖書』の冒頭に置かれている「マタイによる福音書」に基づいてキリストの生涯を忠実に映画化しています。この作品は、1964年の第25回ヴェネチア国際映画祭審査委員特別賞と国際カトリック映画事務局賞をダブル受賞しています。無神論者が作った映画でありながら、とはいえ、カトリックの国イタリアでカトリック映画として認められたわけです。わたしも「奇跡の丘」を観て、キリスト教の秘儀が少しは理解できたように思えました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2016年6月29日 一条真也

2016-06-28

「おくりびと」

一条真也です。
2008年の日本映画「おくりびと」を久々にDVDで観賞しました。
ここのところ、次回作である『死を乗り越える映画ガイド』(『死が怖くなくなる映画』を改題)という本を書いていたのですが、「おくりびと」についての感想をきちんと書いていなかったことに気づき、改めて観直したのです。
ブログ「おみおくりの作法」ブログ「サウルの息子」で紹介した映画と並んで、世界の三大「葬儀映画」と呼べる名作であると改めて思いました。




ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた感動作。監督には『壬生義士伝』の滝田洋二郎があたり、人気放送作家の小山薫堂が初の映画脚本に挑戦。一見近寄りがたい職業、納棺師に焦点を当て、重くなりがちなテーマを軽快なタッチでつづる。キャストには本木雅弘、広末涼子、山崎努ら実力派がそろい、主演の本木がみせる見事な納棺技術に注目」



また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた大悟(本木雅弘)は好条件の求人広告を見つける。面接に向かうと社長の佐々木(山崎努)に即採用されるが、業務内容は遺体を棺に収める仕事。当初は戸惑っていた大悟だったが、さまざまな境遇の別れと向き合ううちに、納棺師の仕事に誇りを見いだしてゆく」



この映画についての思い出は尽きません。わたしが一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の広報委員長を務めているときに全面的にサポートした映画でした。そのとき、モントリオール世界映画祭のグランプリを獲得するという嬉しいニュースがありました。さらには、日本映画を代表して第81回アカデミー賞の外国映画部門賞に出品されることにもなりました。それが本当に受賞したときの驚きと喜びはよく記憶しています。



じつに、日本映画界初の快挙でした。わたしが社長を務める冠婚葬祭会社ではこの映画の前売券を大量購入し、ほぼ全社員で鑑賞しました。また、周囲の親しい方々にもチケットをお配りしてきましたので、このときの快挙の感動はひとしおでした。「日本人は、いや世界中どこでも同じだが、死を忌み嫌う傾向がある。企画をいただいたときは不安だった。しかし、実際に(映画で扱っている)納棺師の仕事をみて、これはやらなければいけないと感じた」という滝田洋二郎監督の受賞コメントを聞いて、涙が出ました。
「おくりびと」は、「死」という万人に普遍的なテーマを通して、家族の愛、友情、仕事への想いなどを直視した名作です。最も興味深く感じたのは、納棺師になる前の主人公の仕事がチェロ奏者という音楽家であった点でした。




孔子は「礼楽」というものを重視しました。
「礼」の重要性を唱えた孔子はまた、大の音楽好きでもあったのです。
『論語』には「楽は同を統べ、礼は異を弁(わか)つ」という言葉があります。楽すなわち音楽は、人々を和同させ統一させる性質を持ち、礼は、人々の間のけじめと区別を明らかにするといいます。つまり、師弟の別、親子の別というように礼がいたるところで区別をつけるのに対して、音楽には身分、年齢、時空を超えて人をひとつにする力があるというのです。






孔子は「礼楽」というコンセプトを打ち出すことによって儀礼と音楽が不即不離の関係であることを訴えたわけですが、葬儀という儀礼にも音楽が欠かせません。わが社では、葬儀で流す弦楽四重奏の音楽をはじめ、グリーフケア・サロンなどでもクラシック音楽による癒しを重視しています。
特に、マスカーニ「歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲」、エルガー「弦楽合奏のためのエレジー」「弦楽セレナーデ 第二楽章」、チャイコフスキー「アンダンテ・カンタービレ」、ラフマニノフ「ヴォカリーズ」、バッハ「G線上のアリア」などをよく流します。いずれも、聴く者の魂をその最深部から癒してくれる力を持っています。葬儀の場で、これらの名曲が弦楽四重奏で演奏されるとき、セレモニーホールは密度の高い芸術空間と化します。

澁澤龍彦 西欧芸術論集成 上 (河出文庫)

澁澤龍彦 西欧芸術論集成 上 (河出文庫)



作家・評論家の澁澤龍彦は、「楽器について」という秀逸なエッセイにおいて、「芸術」そのものの本質を語っています。
まず澁澤は、オランダの文化史家であるホイジンガの名著『ホモ・ルーデンス』を取り上げます。この本で「人間の文化は遊びとともに発達した」と主張したホイジンガは、「音楽は人間の遊戯能力の、最高の、最も純粋な表現である。そこには何ら実利的目的はない。ただ快楽、解放、歓喜、精神の昂揚が、その効果として伴っているだけである」と述べています。
これに対して澁澤は、「まことにホイジンガのいう通り、音楽ほど純粋な芸術はなく、それは私たちを日常の現実から救い上げて、一挙に天上の楽園に運んでくれるものだろう」と感想を記しています。

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)



ヨーロッパの中世の宗教画には、かわいい天使たちが手にいろんな楽器をもって音楽を奏でている場面が描かれています。現代日本の結婚式場やチャペルのデザインなどにも、よく使われていますね。澁澤は、その天使の楽器について、さらに「天上」というキーワードを重ねて、「たしかに最高の音楽は、いわば天上的無垢、天上的浄福に自然に到達するものと言えるかもしれない。アンジェリック(天使的)という言葉は、たぶん、音楽にいちばんふさわしい言葉なのである」と述べています。英語でもフランス語でもドイツ語でも「遊ぶ」という言葉と「演奏する」という言葉は同じです。英語では「プレイ」ですが、日本語でも「遊ぶ」という表現は、古くは「神楽をすること」あるいは「音楽を奏すること」という意味に用いられました。



ここで、わたしが思い浮かべるのが、他ならぬ「おくりびと」です。
繰り返しますが、納棺師になる前の主人公はチェロ奏者でした。チェロ奏者とは音楽家であり、すなわち、芸術家です。そして、芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。絵画や彫刻などは間接芸術であり、音楽こそが直接芸術だと主張したのは、かのヴェートーベンでした。すなわち、芸術とは天国への送魂術なのです。

唯葬論

唯葬論



拙著『唯葬論』の「芸術論」にも書きましたが、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものなのです。「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家です。そして、送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりえるのです。
「遊び」には芸術本来の意味がありますが、古代の日本には「遊部(あそびべ)」という職業集団がいました。これは天皇の葬儀に携わる人々でした。やはり、「遊び」と「芸術」と「葬儀」は分かちがたく結びついているのです。「おくりびと」は、葬儀が人間の魂を天国に送る「送儀」であることを宣言した作品です。人間の魂を天国に導くという芸術の本質を実現する「おくりびと」。送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりうることを「おくりびと」は示してくれました。わたしは、そのように考えています。

定本納棺夫日記

定本納棺夫日記



さて、「おくりびと」の原案とされているのがブログ『納棺夫日記』で紹介した青木新門氏のロングセラーです。「おくりびと」が公開される16年も前に俳優の本木雅弘氏がこの本を読んで感動し、ずっと映画化の構想を温めていたとか。著者の青木氏は、富山にある冠婚葬祭互助会の葬祭部門に就職し、遺体を棺に納める「納棺夫」として多くの故人を送られてきました。ちなみに「納棺夫」とは青木氏の造語で、現在は「納棺師」と呼ばれています。



死をケガレとしてとらえる周囲の人々からの偏見の目に怒りと悲しみをおぼえながら、青木氏は淡々と「おくりびと」としての仕事を重ね、こう記します。
「毎日、毎日、死者ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗き込む生者たちの醜悪さばかりが気になるようになってきた。驚き、恐れ、悲しみ、憂い、怒り、などが錯綜するどろどろとした生者の視線が、湯灌をしていると背中に感じられるのである」



まるで宇宙空間から地球をながめた宇宙飛行士のように、著者は視点を移動して「死」を見つめているのです。「生」にだけ立脚して、いくら「死」のことを思いめぐらしても、それは生の延長思考でしかありません。また人が死の世界を語っても、「それは推論か仮説でしかないであろう」と青木氏は述べます。納棺という営みを通じたからこそ、「生」に身を置きながらも「死」を理解できたのでしょう。そこからは、「詩」が生まれます。作家の吉村昭氏が「人の死に絶えず接している人には、詩心がうまれ、哲学が身につく」と序文に書いていますが、まさに至言です。『納棺夫日記』は、「死」という未来をもつ者が読むべき一篇の美しい「詩」のような本です。



それにしても悲しいのは、「死」をタブーとするあまりに生まれるもの、「葬」にたずさわる人々への差別と偏見です。青木氏は、こう書かれています。
「職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である。」「昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今日では花形になっている。士農工商と言われていた時代の商が、政治をも操る経済界となっている。そんなに向上しなくても、あらゆる努力で少なくとも社会から白い眼で見られない程度の職業にできないものだろうか。」「恐らく葬送という行為は、今後も人類があるかぎり、形が変わっても続いてゆくだろう。そうであるなら何とかすべきである。」「自分の父や母が、日ごろ白い眼で見られている者の世話になって人生の最後を締めくくるのも、おかしな話である。」まったく、同感です。




以前、劇団四季のミュージカル『ウィキッド』を観て、差別や偏見は政治的に作られるものであることを改めて強く感じました。「誰も知らない、もう一つのオズの物語」であるこの作品は、『オズの魔法使い』に登場する「悪い魔女」と「善い魔女」の誕生秘話です。美しいルックスで皆から愛されるグリンダと、生まれつき緑色の肌を持ち周囲から差別され続けてきたエルファバ。この二人が世の中から「善」と「悪」というレッテルを貼られる物語でした。



「おくりびと」に話を戻しましょう。
アカデミー賞受賞で何よりも嬉しかったのは、日本の片田舎でひっそりと生きている納棺師というこの上なく地味な職業の物語が、ハリウッドでのアカデミー賞授賞式という世界一華やかな場面で評価を受けたことです。
そして、もうひとつ嬉しかったことは、「日本文化としての葬儀の素晴らしさ」を世界中の多くの識者が認めてくれたこと。葬儀は、まさに「クール・ジャパン」でした。あの快挙で、葬祭業という職業が、青木氏が夢見た「少なくとも社会から白い眼で見られない」職業へと大きく前進したと思います。



差別から平等へ! わたしたちは、何としても「平等」を獲得しなくてはなりません。そして、人間に与えられた最大の平等とは「死」に他ならないことに気づきます。「生」は平等ではありません。生まれつき健康な人、ハンディキャップを持つ人、裕福な人、貧しい人・・・「生」は差別に満ち満ちています。しかし、王様でも富豪でも庶民でもホームレスでも、「死」だけは平等に訪れるのです。こんなすごい平等が他にあるでしょうか!まさしく、死は最大の平等です。冠婚葬祭業を営むわが社では「結婚は最高の平和である」と並び、「死は最大の平等である」というスローガンを掲げています。



さらに、わたしは葬祭業ほど価値のある仕事はないと思っています。
ブログ「アリよさらば!」で紹介したように、2016年6月4日に逝去したプロボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリは、黒人差別とも闘った人でした。黒人であるがゆえにレストランへの入店を拒否されると、1960年ローマ五輪で手にした金メダルをオハイオ川へ投げ捨てました。
ベトナム戦争の徴兵を、「ベトコンは俺をニガー(黒人の蔑称)とは呼ばなかった」と明瞭な理由を公言して拒否しました。
そんなアリは、「黒人が最も美しい」とも語っています。
「黒人は醜くない」や「黒人も美しい」ではなく、「黒人が最も美しい」。
これほど、誇りと信念に満ちた言葉があるでしょうか!

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ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(1991年10月15日刊行)



この「黒人が最も美しい」というアリの言葉は、わたしに多大な影響を与えました。わたしは、葬儀ほど崇高で価値のある行為はないと心の底から思っています。しかしながら、世間には葬祭業に対する偏見や差別が今も存在します。1991年に『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)を上梓して以来、わたしは「葬儀ほど重要な営みはない」と訴え続けてきました。その考えは、昨年上梓した『唯葬論』(三五館)に結実したのではないかと、不遜ではありますが自分で思っています。

それからの納棺夫日記

それからの納棺夫日記



さて、青木氏は、ブログ『それからの納棺夫日記』で紹介した本も書かれています。『納棺夫日記』の続編となる内容ですが、その序では、『納棺夫日記』を映画化したいという本木雅弘氏に対して、映画「おくりびと」の製作を許可しながらも「原作者」との表示を頑なに拒んだ青木氏の考えが述べられています。最初に「仮題『納棺夫日記』」と表題に書かれたシナリオの初稿を読んだときの感想を、青木氏は次のように述べます。
「読み始めて私はがっかりした。そのシナリオは納棺という職業に焦点が当てられて書かれていた。確かに『納棺夫日記』には納棺の現場が描かれている。しかしそれは、私にとっては目指すテーマのイントロに過ぎなかった。その後半の六割は、親鸞の思想を借りて宗教のことを取り上げたつもりであった。その部分が完全にカットされていた」



つまり、青木氏が最も思いを込めて書いた宗教に関する部分が完全に削除されていたというのです。青木氏は「死の実相を知るということは、必然的に宗教を知ることになり、そして、人は死んだらどうなるのか、仏教のいう往生とはどういうことなのか、そのことを知った時初めて人は安心して生きていけるものだ」と言いたかったそうです。そして、「死を恐れ、死に対して嫌悪感を抱いていては死者に優しく接することなどできないということ。すなわち生死を超えて対処しなければ、納棺夫の仕事は務まらないということ」を体験で学んだ青木氏は、そのことを同書で書いたつもりだったのです。その思いが届かないことを知り、青木氏は映画「おくりびと」の原作者であることを拒否したわけです。



あれだけの超話題作の原作者という立場を自ら拒絶した青木氏の信念には感銘を受けますが、氏は同書で次のようにも告白されています。
「私が著作権を放棄してでも原作者であることを辞退したのは、納棺の現場で死者たちに導かれるようにして出遭った仏教の真実が消されていることへの反抗でもあった。しかし今になって思えば、眼に見えない世界を映像化して眼に見えるようにするには、方便を用いるしかないわけで、私の言い分には無理があった」




これは、映画公開後の青木氏の偽らざる心情でしょう。わたしも同感です。
「おくりびと」という映画で親鸞の宗教を描くことには無理がありました。たとえ、それを織り込んだとしても、単なる宗教映画として、世界の注目を浴びることは絶対になかったと思います。なによりも、あの映画がアカデミー賞を受賞した最大の理由は、主演の本木氏の所作の美しさにあったと、わたしは思っています。まさに、「おくりびと」という映画は「眼に見える」部分で評価された作品であると言えるでしょう。

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青木新門氏と



ブログ「青木新門氏にお会いしました」で紹介したように、今年の6月6日に、わたしは富山で青木新門氏にお会いして葬儀について意見交換させていただきました。青木氏から貴重なアドバイスもたくさん頂戴しました。わたしにとって、葬儀の意味を改めて学ぶことができた有意義な時間となりました。最後に青木氏は「葬儀は絶対になくなりませんよ」と言われました。「『葬式は、要らない』じゃなくて、『葬式は、なくならない』ですよ」とも言われました。その言葉には、とても重みがありました。

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わたしも棺に納まってみました



ブログ「入棺体験」で紹介したように、26日の日曜日、「サンクスフェスタ in小倉紫雲閣」が盛大に開催されました。
全国の終活フェアなどで人気を呼んでいる「入棺体験」コーナーも設置、お客様が来る前に、自分でも試しに棺の中に入ってみました。普通サイズの棺だったので、ちょっと窮屈でしたが、なんとか体が納まりました。棺に入って目を閉じると不思議な感じで、本当に自分が死んだような気がしました。わたしは「これまでの人生に悔いはないか」と振り返り、自分の人生をフラッシュバックしてみました。すると、いろんな想いが次から次へと思い浮かんできました。亡くなった方の気持ちが想像できたように思います。

おくりびと [DVD]

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2016年6月28日 一条真也

2016-06-27

「10 クローバーフィールド・レーン」

一条真也です。
映画「10 クローバーフィールド・レーン」を観ました。
「SFパニック・スリラー」とでも呼ぶべき内容でした。異色のモンスター映画「クローバーフィールド/HAKAISHA」を想わせるタイトルですが、両作品の世界観は微妙につながっています。ある日見知らぬ地下シェルターで目覚めた女性がやがて知ることになる戦慄の真実とは? 




ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』などのヒットメーカー、J・J・エイブラムスが製作を担当した異色スリラー。思いがけずシェルターの中で過ごすことになった男女を待ち受ける、想像を絶する出来事が展開していく。『リンカーン/秘密の書』などのメアリー・エリザベス・ウィンステッド、『バートン・フィンク』などのジョン・グッドマン、テレビドラマ『ニュースルーム』シリーズなどのジョン・ギャラガー・Jrらが出演。手に汗握る心理劇と、一気になだれ込む衝撃の展開に息をのむ」

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「ミシェル(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)は目覚めると、自分が見ず知らずの2人の男性とシェルター内にいることに気付く。その日を境に、彼女を助けたと主張するハワード(ジョン・グッドマン)とエメット(ジョン・ギャラガー・Jr)との奇妙な共同生活がスタートする。ミシェルは、外は危険だという彼らの言葉を信じるべきかどうか悩んでいた」




ブログ「貞子vs伽椰子」ブログ「クリーピー 偽りの隣人」で紹介した映画もそうですが、6月の半ばを過ぎて、面白そうな映画が続々と公開されています。ネットで高評価の「帰ってきたヒトラー」あるいは「葛城事件」が観たいのですが、残念ながら北九州では上映されていません。代わりに、「10 クローバーフィールド・レーン」を観た次第です。この映画、ネットでの評価はけっして高くありませんが、とても面白かったです。この映画ではジャンルの違う2つの「恐怖」が描かれているのですが、その発想は斬新ですね。

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シェルターに囚われた2人
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ミシェルが見たものとは?



ネタバレになるのを避けるため詳しいストーリーには言及しませんが、正体不明の敵に襲われるという設定はアメリカが持つ潜在的恐怖ではないかと思いました。この映画にはUFOが登場しますが、ジャンルの違う2つの「恐怖」が描かれています。これまで地球上で最も頻繁に目撃されたのは冷戦時代のアメリカです。冷戦時代に対立したアメリカとソ連の両大国は絶対に正面衝突できませんでした。なぜなら、両大国は大量の核兵器を所有していたからです。そのために両者が戦争すれば、人類社会いや地球そのものの存続が危機に瀕するからです。そこで、第二次大戦後には、米ソ共通の外敵が必要とされました。その必要が、UFOや異星人(エイリアン)の神話を生んだのではないかと思います。




いわゆる「空飛ぶ円盤」神話が誕生したのは、アメリカの実業家ケネス・アーノルドが謎の飛行物体を目撃した1947年です。第二次大戦から2年を経過し、3月には事実上の冷戦の宣戦布告であるトルーマン・ドクトリンが打ち出されています。東西冷戦がまさに始まったその年に、最初のUFOがアメリカ上空に出現したのです。かつて米ソ共通の最大の敵といえばナチス・ドイツでしたが、その後任として、宇宙からの侵略者に白羽の矢が立てられたとは言えないでしょうか。「UFOはナチスが開発していた」とか「ヒトラーは地球の裏側で生きていた」などというオカルティックな俗説が流行するのは、新旧の悪役が合体したイメージにほかなりません。

UFOとポストモダン (平凡社新書)

UFOとポストモダン (平凡社新書)



また、「なぜUFO神話はアメリカ合衆国で誕生したのか」という問題について、現代アメリカ文化の研究者である木原善彦氏が注目すべき説を発表しています。木原氏は、著書『UFOとポストモダン』(平凡社新書)の中で、最も重要な点は、第二次世界大戦後にはアメリカがヨーロッパをしのいで近代の最先端を走ってきたことだと述べています。つまり、アメリカはさまざまな面で他の国に近未来図を提供していたわけですが、当のアメリカ自身には近未来図を提供してくれる存在が欠けていました.もちろん、科学技術に裏づけられた近代のプロジェクトが描く青写真はあったのですが、そこに描かれた未来と現在との間に微妙なひびが入っていたのです。そのひびから偶然垣間見えたのがUFOという天空の光点でした。それは、「核に代表される新しい超科学技術と疑似科学的超科学技術とのはざまに見えた光」と木原氏は表現しています。



ブログ「ビンラディン殺害に思う」にも書きましたが、アメリカは世界最大のキリスト教国家でもあります。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)に書いたように、キリスト教諸国はイスラム教諸国を目標に発展してきた時期がありました。かつて、イスラム社会がヨーロッパに提供し、ヨーロッパがアメリカに提供し、アメリカが日本に提供してきたものこそ「近未来図」だったのです。先を走るランナーのいなくなったアメリカは、その幻影を天空に見たのでしょうか。




そう考えると、UFO神話が、現在に至るまで最も広く浸透したのはアメリカであることの説明がつきます。また、イスラム諸国の上空にはまったくと言ってよいほどUFOが出現しなかったことも納得できるでしょう。
アメリカは、「新たな敵」としてのイスラムにも、エイリアンにも、憧憬を裏返したような屈折したコンプレックスと強い恐怖心を抱いていたのです。そして、冷戦時代の「新たな敵」としてのエイリアンと、冷戦後の「新たな敵」としてのイスラム教徒は、あの9・11以降、アメリカ大衆のイメージ上において融合したようです。 




その顕著な例を、「未知との遭遇」や「E.T.」のスティーブン・スピルバーグが、H.G.ウェルズの古典的SFを再映画化した「宇宙戦争」に見ることができます。度外れた破壊力でアメリカ人を殲滅しようとする外敵のイメージは火星人というよりは、オサマ・ビンラディン率いるテロ組織アルカイダに限りなく近いものでした。2005年に公開された「宇宙戦争」には9・11のアメリカのトラウマが色濃く出ていますが、その9・11以降のアメリカではほとんどUFOの目撃談を耳にしなくなりました。




2008年にアメリカで公開された「クローバーフィールド/HAKAISHA」は、謎に満ちたSFパニック映画でした。巨大都市ニューヨークを次々と崩壊へと追い込んだ<HAKAISHA>の正体は、どうやら怪獣のようでした。ゴジラとの関連も指摘されており、劇中で怪獣が最初に登場する橋はブルックリン橋であしたが、そこはハリウッド版ゴジラが息絶えた場所でもありました。でも、怪獣としての<HAKAISHA>は、アルカイダに代表されるイスラムの恐怖の具現化であったと思います。
10 クローバーフィールド・レーン」ですが、直接は「クローバーフィールド/HAKAISHA」の世界観に通じてはいません。正体不明の相手から理由もなく攻撃されるといった設定だけが同じです。まあ、全編に漂う理不尽な空気は共通していると言えますが・・・・・・。

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シェルター内で生活する3人
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一番怖いのは人間かもしれない



10 クローバーフィールド・レーン」では、絶望的な状況の中で生きるためのシェルターが登場します。これがけっこう楽しそうで、内部には豊富な食料をはじめ、各種のパズルやボードゲーム、さまざまな本やジュークボックス、さらには映画のDVDやVHSソフトまで完備しているのです。まさに「引きこもりのユートピア」みたいな場所で、わたしは「こんな所で避難生活を続けるのも悪くないかも」と思ってしまいました。

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「強い女」を演じたメアリー・エリザベス・ウィンステッド



シェルター内部で暮らす人間たちは、当然ながら「死」を意識して生きています。「人生最後の日には何をしたいか」みたいな話も自然に出てきて、わたしは「ある意味で、この生活は『究極の終活』かも?」と思いました。
それにしても、メアリー・エリザベス・ウィンステッド演じるミシェルが逞しさに満ちた行動力を示しました。こういう極限状況で泣き叫んだりせずに、冷静に行動できる女性は素晴らしいですね。こんなに強い女性は、「エイリアン2」のシガニ―・ウィーバー以来かもしれません。わたしは、この映画を観終った後には、女性の強さばかりが心に残りました。鑑賞後、ヒラリー・クリントン女史を応援したくなったアメリカ人も多いのでは?



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2016年6月27日 一条真也

2016-06-26

「ガリガリ君」論争に物申す

一条真也です。
ブログ「無礼者日本一決定戦の開催を!」に書いたように、わたしは自称「社会学者」の古市憲寿氏と参議院議員の山本太郎氏とのガチンコ・トークショーを今日6月26日に開催することを提案していました。
しかし、どうもそのような動きはなかったようです。それどころか、山本氏は24日にも無礼なふるまいをしたことが判明しました。またしても相手は安倍晋三首相ですが、今度は焼香に合掌ではなく、変な質問をしたのです。

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ヤフー・ニュースより



「ガリガリ君を収支報告書に計上していた」 山本太郎、党首討論で突如「安倍攻撃」というネット記事には、以下のように書かれています。
「参議院選挙が2016年6月22日に公示されてから最初の党首討論が24日、報道番組『NEWS23』(TBS系)で開かれたが、ここでも『政治とカネ』の話を巡りヒートアップする場面があった。生活の党と山本太郎となかまたちの山本太郎氏が安倍晋三首相に対し、『ガリガリ君』の購入を収支報告書に計上していた、などと突如追及を始めたのだ。安倍首相は『個人攻撃じゃないか』と反論、きまずい空気が流れた」



前東京都知事の舛添要一氏が政治資金の公私混同問題で6月21日に辞職したこともあり、山本氏は「舛添さんの問題は『非常にセコかった』ということを日本中が共有した問題だったと思うんですね。政治資金が政治活動に関係あるのかということに使われたことに関しても、非常にみなさん怒りを持った」と述べました。その後、「そのセコさ、そのやり方っていう部分に関しては、負けず劣らずといいますか、安倍総理も、たとえば『ガリガリ君』というアイスクリームであったりとか、そういうものにも支出をしている。少額に対する領収書に対して開示をされた内容から分かってきたらしいんですけれども」と言い出したのです。



驚いた安倍首相は「私は全然知らないですよ。いきなりこんなところでそんなこと言われても。事実かどうかは調べますけど」と困惑しつつも反論しました。しかし、山本氏はなおも「おかしいですよ。フェイスブックで秘書がその件に関して『今日は一緒にコンビニに行って、これを買ってもらったんだ』ということに関しても、裏が取れているということで、記事にされている」と言い張ります。安倍首相は「私の支出で買っているんですから、そんなもの政治資金で買いませんよ」と言えば、山本氏は「コンビニの領収書が計上されているんです。政治資金、収支報告書にも載っているということは明らかになっている」と続けます。完全に2人だけのやり取りになったそうです。

 

とんだ「ガリガリ君」論争の勃発ですが、ブログ「ガリガリ君が好き!」ブログ「ガリガリ君も、すげえぞ!」にも書いたように、わたしはガリガリ君が三度の飯より好きです。というか、自宅での夕食後には必ず食べています。そんなガリガリ君を、わたしはいつも、松柏園ホテル小倉紫雲閣の中間地点にあるコンビニの「ポプラ」で購入しております。ガリガリ君が品切れになっていたら、わたしが買い占めたと思って下さい。



公式サイト「プロフィール」の「好きな食べ物」にも「豆、野菜、海藻、ガリガリ君」と、ちゃんと記しています。公私共に認める「ガリガリ君」好きのわたしですので、安倍首相と山本氏の論争を看過することはできません。
山本氏の追及によれば、安倍首相はコンビニで「ガリガリ君 コーンポタージュ」を自分と秘書の分の2本購入したとか。2012年当時の税込価格で126円なので、本当だとすれば購入額は252円となります。天下の総理大臣が、252円のアイスキャンデー代を経費で落としたりするでしょうか?

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これが「ガリガリ君 マンゴー&ピーチ」だ!!
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一口かじれば、天国へ行ける!



山本氏は出演後の6月25日(24日深夜)に、「ガリガリ君食べて寝よーっと。 ちなみに自腹ね」とツイートしているとか。本当に無礼な男ですが、彼はガリガリ君の何味を食べているのでしょうか。安倍首相が購入したというコーンポタージュ味はもう売られていませんし、今なら「マンゴー&ピーチ」が最高です。はっきり言って、この世にこれ以上美味しいものはないです。某芸能人が覚醒剤で逮捕されたようですが、クスリなんか必要なし!
わたしはこれを一口かじれば、天国へ行けます。

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こりゃ、たまらん! マンゴー&ピーチ最高!



かつて流行した「ティラミス」だの「パンナコッタ」だの「ナタデココ」だのといったスイーツを食べたときも「美味しいな」とは思いました。しかし正直言って、「ガリガリ君」に比べれば屁のようなものでした。日本はついに、人類史上最高のデザートを発明しましたね。あっぱれ、赤城乳業!
というわけで、わたしがこの論争に関して物申したいのは、一番美味しいのは「ガリガリ君 マンゴー&ピーチ」だということです。さあ、これからガリガリ君食べて、「サンデー毎日」の原稿書こうっと。ちなみに自腹ね。(笑)




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2016年6月26日 一条真也

入棺体験

一条真也です。
今日は、大変貴重な体験をしました。
一度死んで、それから生まれ変わったのです。

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イベントで「入棺体験コーナー」を設置



本日、「サンクスフェスタ in小倉紫雲閣」が開催されました。
全国の終活フェアなどで人気を呼んでいる「入棺体験」コーナーも設置しましたが、お客様が来る前に、自分でも試しに棺の中に入ってみました。普通サイズの棺だったので、ちょっと窮屈でしたが、なんとか体が納まりました。

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わたしも棺の中に入ってみました



棺に入って目を閉じると不思議な感じで、本当に自分が死んだような気がしました。わたしは「これまでの人生に悔いはないか」と振り返り、自分の人生をフラッシュバックしてみました。すると、いろんな想いが次から次へと思い浮かんできました。亡くなった方の気持ちが想像できたように思います。

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わが人生を振り返りました



入棺体験は、自分を見つめ直す行為になると実感しました。わたしは「わたしが人生を卒業する日はいつだろう。いずれにせよ、今日は残りの人生の第1日目だな」と思いました。そして、実際の自分の葬儀は湿っぽくせずに、明るいわたしのカラオケ愛唱曲を流してほしいなと思いました。
春ならば、サザンオールスターズの「彩〜Aja〜」
夏ならば、矢沢永吉の「時間よ止まれ」
秋ならば、佐野元治の「SOMEDAY」
そして冬ならば、北島三郎の「まつり」を流してほしいです♪

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生まれ変わったつもりで頑張ります!



本当は1時間ぐらい入っていたかったのですが、お客様をご案内する時間が迫ってきたので、しぶしぶ棺から出なければなりませんでした。
わたしは、「死」と「再生」を疑似体験することができました。
一度死んだと思って、生まれ変わったつもりで頑張りたいです!



わたしは、「葬式は、要らない」とか「もう親を捨てるしかない」とか言われている方にも入棺体験をしていただきたいなと思いました。
きっと、その方の葬儀に対する考えも一変するかもしれません。
みなさんも「入棺体験」の機会があれば、ぜひお棺にお入り下さい。
そこには、思いもしなかった豊かな精神世界が待っていますよ!



(追伸)このブログ記事を読まれた「バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者の鎌田東二先生から以下のメールが届きました。
「棺体験、ブログ、拝読しました。わたしの知り合いの女性は、毎日、棺に入って眠っているそうです。彼女は棺をベッド代わりにしているのです。毎日どんな『死と再生』を経験しているのでしょうか」
わたしは、「その方は、吸血鬼ではないでしょうか?」と返信いたしました。



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2016年6月26日 一条真也

世界格闘技の日

一条真也です。
6月26日は、「世界格闘技の日」です。40年前の1976年6月26日、プロレスラーのアントニオ猪木とプロボクサーのモハメド・アリが「格闘技世界一決定戦」を戦った記念すべき日ですが、日本記念日協会が「世界中が注目し、その偉業は現在へ続く全世界レベルでの総合格闘技の礎となった試合」と評価し、正式に記念日に制定したのです。




「世紀の一戦」のことは、よく記憶しています。わたしは中学1年生でした。
試合は土曜日の昼間に行われ、米国へも衛星生中継されました。日本ではその日の夜にも再放送され、昼夜合わせて視聴率は50%以上を記録しました。本当はわたしは学校を休んで昼間のテレビ観戦をしたかったのですが、親が許してくれませんでした。今から思えば、なぜあれほど話題性のある(視聴率が取れる番組)を土曜の夜か、日曜日に行わなかったのでしょうか。当時は今のように週休二日は普及しておらず、土曜日はみんな学校や会社に行っていたのです。また、今のようにネットが発達していたら、昼間の試合結果はすぐ情報拡散して、夜の番組では視聴率が望めなかったでしょう。この試合はNHKでも速報され、朝日、読売、毎日などの大新聞も大きく報じました。それぐらい、日本中が熱く注目した一戦だったのです。




試合は、猪木が寝転がった状態からアリの足に蹴りを仕掛け、アリのパンチが届かず攻めあぐねる展開でした。結局、両者決め手に欠け、15ラウンド引き分けに終わりました。 当時、ルール説明の不徹底から酷評された一戦も、アリ側からの厳しい要求によるルール上の制約があったためで、猪木側にとっては不利なルールであったことがのちに判明しています。現在の総合格闘技でも、片方が寝て、片方が立っている状態を「猪木・アリ状態」と表現し、寝ている選手が放つ蹴りは「アリキック」と呼ばれています。
いま、DVDで「世紀の一戦」を観直すと、15Rをひたすら寝て闘う猪木の姿に感動すら覚えます。




じつは、アリは猪木戦以外にもプロレスの試合を何度も行っていました。
アリは幼少の頃より大変なプロレスファンだったと自伝にも書いています。
アリ少年のアイドルは「吸血鬼」「銀髪鬼」と恐れられた大ヒールのフレッド・ブラッシーでした。後年のアリのビッグマウスは、ブラッシーから影響を受けたとされています。熱心なプロレスファンであったアリは、プロレスの仕組みを熟知していました。アリと戦ったレスラーたちは、アリに完敗することを事前に義務づけられたワークをリング上で演じたのでした。




アリは、当然ながら猪木戦も同じようなワークをやるものだと思って来日にしたといいます。しかしながら、猪木はアリと真剣勝負で闘う決意であることを知り愕然とします。アリは、自分が負けるとは思っていないにしても、万が一ケガをさせられては大損害だと焦りました。その結果、アリ陣営が猪木に突き付けたのが、かの「がんじがらめルール」でした。華やかには欠けたものの、世紀の一戦は、正真正銘のセメントマッチ(真剣勝負)だったのです。現在でいうMMA(総合格闘技)の原点でした!




ブログ『1976年のアントニオ猪木』で紹介した本で、著者の柳澤健氏は猪木・アリ戦について詳しく書いています。その柳澤氏は現在発売中の「ゴング」14号で「『INOKI 1976』最新の語り部が猪木vsアリ戦の深層を語る。」として、同誌のインタビューに答えています。そこで柳澤氏は、「アリには“殺してしまうかも”という恐怖があり、猪木には“ヘビー級チャンピオンのパンチをまともに食らったらどうなるかわからない”という恐怖があった。そこに踏み込む猪木さんはやっぱり凄いよ!」と語っています。

ゴング 14号 (Town Mook)

ゴング 14号 (Town Mook)



また、同じインタビュー記事で、柳澤氏は以下のようにも語ります。
「40年前に、レスラーとボクサーの真剣勝負が存在して、しかもやったのがアントニオ猪木とモハメド・アリだったということが凄い。UWFもPRIDEも、みんな猪木vsアリの延長線上にある。総合という概念を生み出した佐山(サトル)さんの発想だって、猪木さんの異種格闘技戦が原形なんだから、偉大としかいいようがない」
わたしは、この柳澤氏の発言に100%同意します!




ブログ「世界最強の男」にも書きましたが、わたしは幼少の頃から強い男に憧れていました。「柔道一直線」の主人公・一条直也に憧れ、「空手バカ一代」の大山倍達に憧れ、ウルトラマンや仮面ライダーに憧れました。
誰の発言だったかは忘れましたが、「男は誰でも、最初は世界最強の男を目指していた」という言葉が強く印象に残っています。

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「世界最強の男」に憧れていました!



小さい頃、男の子は誰でも強くなりたいと願う。それが叶わないと知り、次に「世界で最も速く走れる男」とか「世界で最も頭のいい男」とか、長じては「世界で最も女にモテる男」や「世界で最も金を稼ぐ男」などを目指す。つまり、世界最強の男以外の「世界一」はすべて夢をあきらめた落ちこぼれにすぎないのだという意味ですね。極論のようにも思えますが、「速さ」や「賢さ」や「魅力」や「金儲け」などより、「強さ」こそは男の根源的にして最大の願望であることは事実かもしれません。




ブログ「アリよさらば!」にも書いたように、今月4日、プロボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリが、アメリカ・アリゾナ州の病院で死去しました。死因は敗血症性ショックとのことで、74歳でした。
今日は、「ザ・グレーティスト」であったアリを偲ぶ日でもあります。
また、この「世界格闘技の日」の制定をきっかけに格闘技ブーム、プロレスブームがもう一度起こることを心から願っています。
それにしても、人生最大のライバルと戦えた猪木氏は幸せな方ですね。
1ヵ月後の7月27日、わたしは島田裕巳氏と対戦、もとい対談します。



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2016年6月26日 一条真也

2016-06-25

パゾリーニの世界

一条真也です。
イギリスがEUを離脱することが決定し、「ヨーロッパとは何か」が問われています。25日、わたしはヨーロッパの人々の「こころ」を支えている二本柱である『ギリシャ神話』と『新約聖書』をモチーフとした2つの映画をDVDで続けて観ました。パゾリーニ監督の「アポロンの地獄」と「奇跡の丘」です。

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「アポロンの地獄」と「奇跡の丘」のDVD



そもそも、「ムーンサルトレター」第132信で、文通相手である「Tonyさん」こと宗教哲学者の鎌田東二先生が唐突にパゾリーニの映画について書かれていました。鎌田先生は、「ピエル・パオロ・パゾリーニ監督(1922−1975)『奇跡の丘』(1964年)と「アポロンの地獄」(1967年)を改めて立て続けに観ました。そして、いろいろと考えさせられるところ、大でした」と述べられています。




鎌田先生は「もともと、パゾリーニは大好きな映画監督です。わが映画鑑賞ベストスリーは、以下の通りです」として以下の3本を挙げられています。
●第1位:17歳の時、銀座のテアトル東京でシネラマで観たスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年製作)
●第2位:19歳の時観たジャン・リュック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」(1965年製作)
●第3位:同じ頃観たバゾリーニの「アポロンの地獄」(1967年製作)


鎌田先生は、「今初めて気づいたのですが、この3本ともに1960年代後半の製作になりますね。1960年代後半が如何に昂揚したおもろい時代であったか、証明しているようです。これ以来、これほどおもろく刺戟的な映画をあまり見ていません」と書かれています。
わたしは「2001年宇宙の旅」と「気狂いピエロ」は観ていましたが、「アポロンの地獄」は観たことがありませんでした。それで早速、DVDを取り寄せたのですが、『儀式論』や島田裕巳氏との往復書簡、さらには『死を乗り越える映画ガイド』(『死が怖くなくなる映画』を改題)の執筆が控えており、なかなか観賞する時間がありませんでした。それが、昨日ようやく『死を乗り越える映画ガイド』を脱稿し、今すぐにすべき仕事に一応の目途がつきました。それで、やっと今日になって、「アポロンの地獄」を観た次第です。




「アポロンの地獄」は、父を殺し、母と交わる、呪われた王オイディプスの物語です。現代とリンクさせることによってギリシャ悲劇を斬新に解釈し、パゾリーニ監督自身の人生をも託した傑作です。わたしは『儀式論』を書くにあたってフロイトの著作をいろいろ読んだのですが、フロイトの精神分析学では「エディプス・コンプレックス」という考え方が重要になります。これは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期において起こる心理的抑圧のことをいいます。


アポロンの地獄 ニューマスター版 [DVD]

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フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇『オイディプス』(エディプス王)になぞらえ、「エディプス・コンプレックス」と呼びました。『オイディプス』は、主人公が知らなかったとはいえ、父王を殺して自分の母親と結婚(親子婚)したという物語です。
わたしは、映画「アポロンの地獄」を観て、エディプス・コンプレックスがより深く理解できたように思います。




それから「奇跡の丘」は、キリストの生誕から磔刑、そして復活までを丁寧に描き、数々の映画賞に輝いたパゾリーニの出世作です。パゾリーニ自身は無神論者でしたが、彼は『新約聖書』の冒頭に置かれている「マタイによる福音書」に基づいてキリストの生涯を忠実に映画化しています。この作品は、1964年の第25回ヴェネチア国際映画祭審査委員特別賞と国際カトリック映画事務局賞をダブル受賞しています。無神論者が作った映画でありながら、とはいえ、カトリックの国イタリアでカトリック映画として認められたわけです。



しかしながら、この映画、やはり単なるキリスト教映画ではありません。
鎌田先生は、この「奇跡の丘」について、以下のように書かれています。
パゾリーニの手にかかると、この『福音』を告げるイエスが、実に過激な社会主義者か共産主義者に見えてくるのです。つまり、『神の国共産主義者』『神の国社会主義者』としての『革命家イエス』が実に大胆不敵に、過激に描かれているのです。これは『マタイ伝』に忠実ではあっても、『救世主イエス』というよりも、『世界革命家イエス』ですね。う〜ん、と唸りました」




ブログ「鎌田東二先生からのメール」、およびブログ「グリーフケアの夜」でも紹介したように、この4月1日から鎌田先生はイエズス会によって設立された上智大学に所属されることになりました。それで、日々キリスト教やカトリックを意識するようになられたそうですが、「奇跡の丘」という映画は『聖書』に忠実でありながら、実に大胆不敵にアンチカトリックではないか、とも思ったといいます。つまり、カトリック的な「組織」や「ヒエラルキア」を徹底批判し否定するような「神の国」思想ではないかというわけです。



鎌田先生は、レターに以下のようにも書かれています。
「19歳で初めて見た時も実に印象に残りましたが、イエスを裏切ったイスカリオテのユダがイエスの逮捕後、木に首を吊って自殺する場面の背後に恐ろしいような滝があるのを、再見して初めて意識しました。この自死場面の恐ろしさ、畏怖すべき風景の描き方は半端ではありません。凄い。魂消た。脱帽! パゾリーニはん、あんたは、凄いよ。凄すぎる!」

奇跡の丘 ニューマスター版[DVD]

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わたしは、朝日新聞に「こころの世界遺産」というコラムを連載しています。人類に多大な影響を与えた書物を紹介しているのですが、6月29日(水)朝刊では『旧約聖書』を紹介します。さらに次回は『新約聖書』を取り上げる予定ですので、この「奇跡の丘」はとても参考になりました。これまでにも「パッション」「JESUS」「ジーザス」など、イエス・キリストの生涯を描いた映画たくさんありますが、そのリアリティというか、『新約聖書』の記述に忠実に沿っているいるという点において、「奇跡の丘」の右に出る作品はありません。イエスの言葉が、具体的な背景とともにリアルに迫ってきます。




わたしは、パゾリーニの映画をこれまであまり観たことがありませんでした。問題作として有名な「ソドムの市」の監督としてスキャンダラスな印象があり、なんとなく敬遠していたのです。彼は1922年にイタリアのボローニャで生まれています。軍人の父カルロ・アルベルトはベニート・ムッソリーニの命を救ったことで有名なファシストだったそうです。パゾリーニ自身はファシストではなく、逆に一時は共産党員だったぐらいです。
1975年11月2日、「ソドムの市」の撮影を終えた直後のパゾリーニはローマ近郊のオスティア海岸で激しく暴行を受けた上に車で轢殺されました。



「ソドムの市」に出演した17歳の少年が容疑者として出頭し、「同性愛者であったパゾリーニに性的な悪戯をされ、正当防衛として殺害して死体を遺棄した」と証言し、警察の捜査は打ち切られました。しかし少年による単独犯としては無理のある内容であり、ネオファシストによる犯行とする陰謀論が主張されました。パゾリーニの享年は53歳で、今のわたしと同じ年齢です。
「アポロンの地獄」と「奇跡の丘」の素晴らしさを教えて下さった鎌田先生に感謝いたします。ちなみに、両作品を続けて観終わった頃、「ムーンサルトレター」第133信がアップしていました。どうぞ、御覧下さい。



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2016年6月25日 一条真也

六月博多座大歌舞伎

一条真也です。
24日の夕方、わたしは「博多座」を訪れました。中村芝雀改め五代目中村雀右衛門襲名披露「六月博多座大歌舞伎」を鑑賞するためです。
ブログ「松竹大歌舞伎」で紹介した昨年9月23日以来の歌舞伎鑑賞でした。あのときは、中村翫雀改め四代目中村雁治郎襲名披露公演でした。
小倉駅から新幹線に乗ったら、なんと話題の「エヴァンゲリオン号」でした。
わたしは、パープルの車体のエヴァに乗って博多に向かいました。

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新幹線「エヴァンゲリオン号」で博多へ・・・
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駅構内のポスターの前で
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博多座にやってきました
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博多座の前で



わたしが訪れた「夜の部」の演目は、「双蝶々曲輪日記『引窓』」、「五代目中村雀右衛門襲名『口上』」、「本朝廿四孝」、「女伊達」です。
今回は、次回作である『儀式論』の「芸能と儀式」という章を書く際に歌舞伎に大いに言及したこともあり、たまらなく歌舞伎が見たくなって博多座にやってきました。わたしが広告代理店の新入社員だった頃、歌舞伎座100周年記念イベントの仕事をしたことがあります。連日、歌舞伎について勉強し、また鑑賞するうちに、その魅力にすっかり取りつかれたのですが、最近は忙しさにかまけて歌舞伎から遠ざかっていました。

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今年の「六月博多座大歌舞伎」は、中村芝雀改め五代目中村雀右衛門襲名興行です。公演に先駆けて行われる「船乗り込み」もすっかり博多の風物詩としておなじみとなりましたが、今年は雨天中止で式典のみでした。今回この襲名興行に華を添えるべく 坂田藤十郎尾上菊五郎、片岡仁左衛門といった豪華俳優が出演しています。



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公演プログラム
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五代目中村雀右衛門(プログラムより)



中村芝雀改め五代目中村雀右衛門のプロフィールは以下のとおりです。
昭和30年11月20日、四代目 中村雀右衛門の二男として東京に生まれました。兄は八代目大谷友右衛門。昭和36(1961)年二月歌舞伎座「一口剣」村の子明石で大谷広松を名乗り初舞台。屋号京屋。昭和39(1964)年、九月歌舞伎座「三笠山御殿」御半下おひろで七代目中村芝雀を襲名。女方として、時代物、世話物、新歌舞伎、舞踊などで数々の役を演じる。近年では父雀右衛門の当たり役にしていた、「金閣寺」雪姫、「本朝廿四孝」八重垣姫、「仮名手本忠臣蔵」おかる、「義経千本桜」静御前、「傾城反魂香」おとく、「引窓」お早、「葛の葉」葛の葉、「毛利村」お園、「番町皿屋敷」お菊、「井伊大老」お静、「一本刀土俵入」お蔦、「藤娘」藤の精、「勧進帳」源義経など、着実に芸域を広げ、定評を得ており、京屋の芸の継承に努めています。平成20(2008)年日本芸術院賞受賞。
平成22(2010)年紫綬褒章

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久々に博多座に入りました
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花道のすぐ隣の席でした
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この幕の向こうに別世界が・・・



さて、博多座の中に入り、会場を見渡すと、高齢者の方がほとんどでした。
中には杖をついて来られた方も見られました。一般に高齢者の方は時代劇が好きだと言われます。歌舞伎も江戸時代を舞台とした演劇です。「引窓」を鑑賞しながら思ったのですが、お年寄りになればなるほど昔の話を好まれる理由がわかったような気がしました。というのも、江戸時代に生きていた人々というのは、現在はもう生きていません。いわば、死者です。高齢の観客は、舞台の上で生き生きと動いている江戸時代の人々が間もなく死ぬことを知っています。すると、「どんな元気な人間でも、いつかは死ぬ」、ひいては「人間が死ぬことは自然の摂理である」ということを悟り、自身が死ぬことの恐怖が薄らぐのではないでしょうか。歌舞伎を見てこんなことを思うなんて、わたしはやはり唯葬論者なのかもしれません。

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「引窓」(プログラムより)
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総勢12名の豪華な口上でした(プログラムより)



続いて、四代目中村雁治郎襲名披露「口上」が行われました。
舞台上には総勢12名の役者、左から仁左衛門、時蔵錦之助松緑、友右衛門、芝雀改め雀右衛門、藤十郎、左團次、孝太郎、菊之助歌六菊五郎が並ぶという豪華な「口上」でした。
わたしは、歌舞伎の襲名というのは儒教における「孝」そのものであると考えています。現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。



演劇としての歌舞伎には、華があります。「華」は「花」に通じますが、歌舞伎にはもともと「花形」や「花道」といった花にまつわる言葉があります。相撲や芝居で花形に与えるお金も「花」と呼びます。力士や役者への心づけを「花」というのは、まず見物のときに造花を贈って、翌日お金を届ける習慣から来たそうです。歌舞伎の「花道」も、ここを渡って客が役者に花を贈ったことから、この名がついたわけですね。「花形役者」は、客から花を贈られるほどの才能の持ち主というのが本来の意味です。



また、芸者や遊女と遊んだ料金を「花代」といいます。これも、花に代わるものとしての金銭という意味ですね。どの言葉も、遊芸者と客のあいだの花のやりとりに起源があることに気づきます。これは、もともと花が御幣として神々を呼ぶ力を持っていたことにも関係があります。力士にしろ、遊女にしろ、遊芸者とは神々の代理人という役割があったわけですね。彼らは人間界の「花」でした。しかし、何よりも人間界の「花」といえば、役者に尽きるでしょう。現在でも芸能人のことをスターと呼びますが、かつては役者のことを「花」と呼んだのです。




江戸には三つの花がありました。火事と喧嘩は、みなさんもご存知かと思います。もう一つの花とは何か。それは、歌舞伎役者の市川団十郎でした。当時の江戸ッ子たちは、口々に団十郎を「江戸の花」と讃えました。『明和技鑑』という本では、団十郎を役者の氏神と記していますが、とにかく「江戸の飾海老」とも「江戸の花」とも称された大スターでした。十三代目市川団十郎となるであろう市川海老蔵も、まさに天性の「江戸の花」という雰囲気を持っていますね。現在は奥様の病気で大変であると思いますが、一日も早い團十郎襲名の日を楽しみにしています。今年は五代目中村雀右衛門と八代目中村芝翫の襲名で盛り上がっていますが、海老蔵の團十郎と、勸玄くんの新之助同時襲名が行われれば、過去最高の盛り上がりを見せるのは間違いありません。そのときは、わたしも歌舞伎座に駆けつけたいです。

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幕間にうな重を食べました


襲名披露の口上の後は、30分間の休憩で、わたしは予約していた「うな重」をいただきました。歌舞伎の幕間の料理やお酒は、ことさら美味しい。
休憩後は、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」です。これは、戦国武将の武田信玄と上杉謙信(作中では長尾謙信)の戦いや、中国の二十四孝の故事に取材した近松半二らによる「時代物」の「義太夫狂言」です。

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「本朝廿四孝」(プログラムより)



歌舞伎への誘い〜歌舞伎観賞の手引き」の「歌舞伎の演目『本朝廿四孝』」には、以下のように書かれています。
「互いに争っていた信玄と謙信は、将軍足利義輝暗殺の犯人捜査を命じられたことにより、それぞれ息子の武田勝頼と娘八重垣姫を婚約させ、3年間休戦します。八重垣姫が、身分を偽って謙信の館に入り込んだ武田勝頼に恋心を訴える通称『十種香』、謙信からの追手の存在を勝頼に知らせようとする八重垣姫に狐の霊力が乗り移り、奇跡が起こる通称『狐火』を中心に上演されます。この八重垣姫は、女方の大役である『三姫』の1つに数えられる役として有名です」

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「本朝廿四孝」(プログラムより)
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謙信公の登場に狂喜しました(プログラムより)



わたしは上杉謙信公をこよなく敬愛していますので、謙信公が舞台に登場したときは狂喜しました。歌舞伎の上演時には役者に向かって「○○屋!」と屋号の掛け声が飛び交いますが、わたしは謙信公に向かって「不識庵!」と声を掛けたいぐらいでした。実際には、無粋な行いは避けて、心の中だけで声掛けしました。「引窓」は昨年も小倉で観た演目でしたが、この「本朝廿四孝」は初めての観賞であり、新鮮で素晴らしかったです。

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「女伊達」(プログラムより)
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「女伊達」(プログラムより)



最後の「女伊達」もとても良かったです!
宝塚の第二部みたいで豪華絢爛でした。(笑)
この日は、久々に大歌舞伎を堪能させてもらいました。
今度は、ぜひ歌舞伎座で大歌舞伎を楽しみたいと思います。



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2016年6月24日 一条真也