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一条真也の新ハートフル・ブログ

2017-06-25

「22年目の告白―私が殺人犯です―」

一条真也です。
大ヒット中の日本映画「22年目の告白―私が殺人犯です―」を観ました。韓国映画のリメイクと聞いて、「どうせ、よくある残虐な殺人モノだろう」と甘く見ていたのですが、予想に反してムチャクチャ面白かったです。とにかくテンポが非常に良くて、わたしは夢中になってラストまで一気に観ました。




ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「未解決のまま時効を迎えた連続殺人事件の犯人が殺人に関する手記を出版したことから、新たな事件が巻き起こるサスペンス。韓国映画『殺人の告白』をベースに、『SR サイタマノラッパー』シリーズなどの入江悠監督がメガホンを取り、日本ならではの時事性を加えてアレンジ。共同脚本を『ボクは坊さん。』などの平田研也が担当。日本中を震撼させる殺人手記を出版する殺人犯を藤原竜也、事件発生時から犯人を追ってきた刑事を伊藤英明が演じる」

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生した1995年、三つのルールに基づく5件の連続殺人事件が起こる。担当刑事の牧村航(伊藤英明)はもう少しで犯人を捕まえられそうだったものの、尊敬する上司を亡き者にされた上に犯人を取り逃してしまう。その後事件は解決することなく時効を迎えるが、ある日、曾根崎雅人(藤原竜也)と名乗る男が事件の内容をつづった手記『私が殺人犯です』を発表し・・・・・・」




22年目の告白―私が殺人犯です―」は、2012年の映画「殺人の告白」のリメイク作品です。テレビドラマ「検事プリンセス」「王女の男」などで人気の俳優パク・シフが、初の映画主演をこなしたサスペンスです。わたしは韓国映画をあまり観ないのですが、昨日お会いした映画通の先輩経営者から「いま韓国映画が一番面白いよ」と聞かされました。たしかにコミック原作・イケメン主演だらけの日本映画よりも、しっかりとシナリオが書き込まれた韓国映画のほうが完成度が高いかもしれません。ぜひ、DVDを入手して「殺人の告白」も観てみたいと思います。




「殺人の告白」は、15年前の連続殺人事件が時効を迎えた日に、美貌の男が「自分が犯人だ」と名乗りを上げます。「22年目の告白―私が殺人犯です―」は22年です。その差は7年もあるわけで、ちょっと22年という時間は長過ぎると思いました。そこには日本における時効の法律の歴史が絡んでいるのでしょうが、22年というのはあまりにも長い。たとえば、20歳のときに殺人を犯したとしても、22年後に犯人はすでに42歳の中年です。
でも、藤原竜也が演じる曾根崎雅人はどう見ても30歳代です。
実際の藤原竜也は35歳なわけですから、ここはやはり「殺人の告白」と同じく15年で良かったのではないかと思いました。だって、40歳代の「美貌の殺人者」というのも何かねえ・・・・・・。それとも、彼は未成年で殺人を犯したという設定でしょうか。それならば、単独犯で複数の人間を縛り上げるという犯行にリアリティがなさすぎます。いずれにせよ、「22年目」には無理があるように思えてなりません。




それにしても、藤原竜也の圧倒的な演技力には唸りました。さすがは蜷川幸雄がその才能に惚れ込んだだけのことはあります。彼には「クズ役をやらせたら日本一」などの声もあるようですが、記者会見での立ち居振る舞いなども見事でした。曾根崎雅人にはある意味でカリスマ性を感じましたが、サイン会で大歓声が起こるなどというのは、リアリティがなさすぎると感じました。だって相手は仮にも連続殺人犯ですからね。社会に恨みを抱いている人間などがネットで匿名で応援するとかならともかく、公共の場で堂々と殺人犯を讃美するほど日本人は馬鹿ではないでしょう。




この映画、とにかくネタバレ厳禁ですので、内容には触れにくいのですが、わたしは「本を出版するとは、どういうことか」という問題について考えさせられました。この映画には2冊の本が重要な役割で登場します。ラストでもう1冊登場しますが、いずれも出版動機が不純なものでした。わたしも本を書く人間なのでこれは自戒を込めているのですが、はっきり言って、本を書く人間には自己顕示欲が異常に強かったり、あるいは非常に自己中心的な人物が多いです。本当に、「何でもいいから売れる本を出したい」と思っている物書きの何と多いことか!




もちろん、「世の中を良くしたい」という志をもって素晴らしい本を書かれる方もたくさんいらっしゃいます。故渡部昇一先生、経済人では稲盛和夫氏などが代表でしょうか。もともと、本を書いて出版するという行為は志がなくてはできない行為だと思います。なぜなら、本ほど、すごいものはないからです。自分でも本を書くたびに思い知るのは、本というメディアが人間の「こころ」に与える影響力の大きさです。




子ども時代に読んだ偉人伝の影響で、冒険家や発明家になる人がいます。1冊の本から勇気を与えられ、新しい人生にチャレンジする人がいます。1冊の本を読んで、自殺を思いとどまる人もいます。不治の病に苦しみながら、1冊の本で心安らかになる人もいます。そして、愛する人を亡くした悲しみを1冊の本が癒してくれることもあるでしょう。本ほど、「こころ」に影響を与え、人間を幸福にしてきたメディアは存在しません。

絶歌

絶歌



この映画に登場する曾根崎雅人は『私が殺人犯です』という告白本を出版します。ブログ『絶歌』で紹介した1997年の神戸連続児童殺傷事件の当時14歳だった加害者男性「元少年A」による手記が出版されたときもそうでしたが、殺人犯が告白本を出版すると猛烈なバッシングを受けます。
『絶歌』が出版されたときは、「サムの息子法」と呼ばれる米ニューヨーク州の法律が注目されました。加害者が犯罪行為をもとに手記を出版するなどして収入を得た場合、被害者側の申し立てにより収益を取り上げることができるという法律です。1970年代のニューヨーク州の連続殺人事件を機に制定されました。その後に改正が施されながらも、同様の法律が米国約40州に広がっています。ある意識調査によれば、日本では9割以上の人が「サムの息子法」を導入すべきであると考えているそうです。
たしかに、人を残虐な方法で殺して、出所後にその手記を出して印税を稼ぐというのは「殺人ビジネス」と言われても仕方ないでしょう。ネットでは、「未成年のときに社会現象になる事件を起こせば出所後に本にすれば不自由なく暮らせるのか」「これで人殺して本書いて儲けるっていう一連の流れが出来るね」といった意見が多かったです。

BORDER DVD-BOX

BORDER DVD-BOX



まあ、このような手記を書く殺人犯もクズですが、それを出版して金を儲けようとする出版社もクズであり、同罪です。金儲けだけのために社会に有害な本を出す者は必ず罰を受けます。曾根崎の『私が殺人犯です』を刊行した出版社はその後、想像を絶するダメージを受けたことでしょう。担当した女性編集者も、もう出版業界にはいられなくなったでしょうね。
ところで、最近、小栗旬主演のTVドラマ「BORDER」を全話観ました。その第三話「連鎖」にも、殺人を犯した元少年が告白本を出版したがゆえに殺されるというエピソードがありました。ちなみに、「BORDER」は死者と会話ができる刑事の物語で、100%わたし好みのドラマでした。今度、スペシャル特番で続編が放送されるそうで、とても楽しみです。

眠れる森 DVD-BOX

眠れる森 DVD-BOX



わたしは基本的にテレビを観ない人間でした。
しかし、ここ最近は、「TVer」とか「GYAO!」といったドラマ見放題の便利なサイトができたおかげで、けっこうPCで観ています。
そんなわたしは生まれて初めて全話を観たドラマは、1998年にフジテレビの「木曜劇場」で放送された「眠れる森」でした。中山美穂と木村拓哉が主演したミステリーでしたが、最終回まで殺人事件の犯人がわからず、見応えのあるドラマでした。初回の冒頭には1995年に発生した地下鉄サリン事件のニュース画面が流されました。「22年目の告白―私が殺人犯です―」の冒頭にも、同じ1995年の阪神・淡路大震災のニュース画面が流されたので、わたしは「眠れる森」を思い出しました。そういえば、両作品には仲村トオルが出演しています。彼の演技にも鬼気迫るものがありましたが、これ以上書くとネタバレになるので、このへんで・・・・・・。



2017年6月25日 一条真也

2017-06-24

『はじめての論語』

一条真也です。
はじめての論語』(三冬社)の見本が出ました。「しあわせに生きる知恵」というサブタイトルがついています。一条本では、初めての児童書です。
お子さんやお孫さんと一緒に『論語』を学ぶことをイメージして書きました。
版元は、ロングセラー「だるまんの陰陽五行」シリーズで有名です。

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はじめての論語 しあわせに生きる知恵』(三冬社)


本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
第1章 仁
人間には、愛と思いやりが大切です!
(1)いっしょに勉強する仲間を大事にしましょう
(2)ずっと友だちでいられる人を見つけましょう
(3)正直に人とつきあいましょう
(4)まちがいを改めないと、どうなるの?
(5)友だちができる人、できない人
(6)なぜ「礼儀」を大事にしなければいけないの?
(7)失敗を人のせいにしてはいけません
(8)自分の言葉どおりに行動できますか?
第2章 義
将来、「何をしていくか」を見つける
(1)まわりの猊床銑瓩个り気にしてはいけません
(2)昔のことを学び、これからに活かしましょう
(3)自分の考えが「正しいかどうか」たしかめよう
(4)知らないことは「知らない」といおう
(5)「臆病なこころ」を捨ててしまうために
(6)夢をかなえるために自分を磨きましょう
(7)寝食を忘れて打ち込めるものはありますか?
(8)分が変われば世の中も変わる
(9)「天命」という言葉を知っておこう
第3章 礼
人として生きる「道」を守る
(1)ルールを守らないと世界はどうなるの?
(2)自分をつらぬく生き方をつくるためには
(3)外見となかみのバランスをじょうずにとる
(4)人の気持ちをわかろうとしていますか?
(5)学ぶ気があれば、いつでも学べます
第4章 智
善悪の区別と爐曚鵑箸Δ亮分瓩鮹里
(1)牋い人瓩砲覆辰討い泙擦鵑?
(2)牋い人瓩辰討匹鵑平佑燭繊
(3)失敗は反省するだけでなく、そこから学ぶ
(4)人の成功をこころからよろこぶ人になれるか
(5)「自分だけが正しい」なんて、うぬぼれてない?
(6)ムダづかいの癖がありませんか?
(7)まわりの忠告を聞き流していませんか?
第5章 忠
誰にもでも真心で接するということ
(1)うわべだけ仲良くしてもなんにもならない!
(2)自分にまちがいがないかどうか、気づいてる?
(3)自分がしてほしくないことを、相手にしていませんか?
(4)誰からでも学ぼうという気持ちをもつ
(5)自分のこころにやましいところはありませんか?
(6)こころのなかでは嫌っている相手とどう接するか?
(7)人を思いやるこころを持ち続けられるか?
第6章 信
自分を信じ、人を信じてともに成長する
(1)自分のためになる友だちがいますか?
(2)「もうこれ以上はむり」と、あきらめていませんか?
(3)教わるのを「はずかしい」と思っていませんか?
(4)いい言葉を使い、いい表情をしていますか?
(5)自分だけが正しいと思っていませんか?
第7章 孝
自分と親、ご先祖さまへと続く生命の爐弔覆り
(1)人としての「自然の人情」を大事にしましょう
(2)なぜご先祖さまに感謝しなければならないの?
(3)なぜ親を大切にしなければいけないの?
(4)年配の人への尊敬の念をもちましょう
(5)「どこに行くか」「どこにいるか」を家族に伝えていますか?
(6)お葬式はとても大事です
第8章 悌
謙虚な気持ちで、人のいいところを認め、敬うこと
(1)仲間をこころから大事にしていますか?
(2)リラックスする時間を持っていますか?
(3)家ではいつもニコニコしていよう
(4)年下の人をばかにしていませんか?

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「目次」はこんな感じです



今から2500年前ほど昔の中国の国に、孔子という人物がいました。
孔子は「人がしあわせに生きるためには、どうすればいいか」ということを考えた人で、孔子とその弟子たちの言葉や行動をまとめた本が『論語』です。
孔子は、紀元前551年に生まれました。同じ頃、インドには釈迦、つまりブッダが生れ、それから80年ほどしてギリシャにソクラテスが生れています。孔子は儒教、ブッダは仏教、そしてソクラテスは哲学の祖だとされています。

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わたしもイラストで登場します



こういった偉人たちがほぼ同じ頃に活躍していたというのは、考えてみれば不思議です。さらに紀元4年にはイスラエルにイエスが生まれています。そう、キリスト教の祖です。この孔子、ブッダ、ソクラテス、イエスの四人は「四大聖人」と呼ばれ、明治時代の日本では非常に尊敬されました。中でも、孔子とブッダの2人はそれ以前の江戸時代からよく知られ、わたしたち日本人に大きな影響を与えてきました。そして、孔子の教えが書かれた『論語』は、千数百年にわたって、わたしたちの祖先に読みつがれてきたのです。

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「仁」のイラストはこんな感じです



『論語』ほど日本人の「こころ」に大きな影響を与えてきた本はないのではないでしょうか。特に江戸時代には、あらゆる日本人が『論語』を読みました。武士だけでなく、町人たちも『論語』を読みました。そして、子どもたちも寺子屋で『論語』を素読して学んだのです。
なぜ、それほどまでに日本人は『論語』を学んだのでしょうか。それは、『論語』に書いてある教えを自分のものとすれば、立派な社会人になることができ、人の上に立って多くの人を幸せにすることができ、さらには自分自身が幸せになれるからです。

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なぜ「礼儀」を大事にしなければいけないの? 



江戸時代、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』という本が大ベストセラーとなり、多くの日本人に読まれましたが、その中にも『論語』の教えが書かれています。すなわち、「仁義礼智忠信孝悌」です。
「仁」とは、愛と思いやりのことです。
「義」とは、悪いことをにくむ気持ちです。
「礼」とは、人として生きる「道」を守ることです。
「智」とは、善いことと悪いことの違いを知ることです。
「忠」とは、誰にでも真心で接するということです。
「信」とは、自分を信じ、人を信じて、ともに成長することです。
「孝」とは、自分と親、ご先祖さまへと続く「いのち」のつながりです。
「悌」とは、年齢が違っても、人の長所を認め、大切にすることです。

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「礼」のイラストはこんな感じです



これらの8つの教えは、『論語』の教えを日本人向けにまとめたもので、とてもわかりやすくなっています。そして、これら8つを自分のものとした人のことを「君子」と呼びます。『論語』には「君子」という言葉がたくさん出てきますが、はじめは地位のある人のことでした。それから、徳のある人をさす言葉になりました。人間界で最も素晴らしい人を「聖人」といいます。孔子はまさに聖人ですが、君子は聖人ではありません。あくまで、この現実の社しゃかい会に存在する立派な人格者で、生まれつきなれるものではありません。『論語』には「君子は上達す」という言葉がありますが、努力すれば誰でもなれる人、それが君子なのです。

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自分だけが正しいと思っていませんか?



そんなことをいうと、「なんだか、かた苦しいなあ」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。孔子は大いに人生を楽しんだ人でした。きれいな色の着物を好み、音楽を愛した人でした。『論語』には「楽しからずや」「悦よろこばしからずや」といった前向きな言葉がたくさん出てきます。
同じ聖人でも、ブッダやイエスの言葉には人間の苦しみや悲しみについては出てきても、楽しみや喜びなどはまず見当たりません。この点、『論語』に前向きな言葉が多いのは、本当に素晴らしいことだと思います。孔子は、とにかく「どうすれば、幸せに生きることができるか」を考えた人なのです。

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お葬式はとても大事です



本書では、『論語』に出てくる孔子の言葉をわかりやすく紹介しました。
ぜひ、『論語』の言葉を、心をこめて読んでほしいと思います。できれば、声に出して読んでほしいです。わたしたちのご先祖さまは、子どものとき、『論語』を大きな声で読んでいたのです。
『論語』の言葉に後には、わたしが説明をしています。
また、イラストも取り入れ、わかりやすくしました。
大塚さやかさんが素敵なイラストを描いて下さいました。
本書を読んだ小中学生たちが、これからの長い人生をしあわせに生きるために必要な言葉を1つでも見つけてくれれば、とても嬉しいです。きっと、その言葉は、子どもたちの一生の宝物となることでしょう。

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子どもに『論語』を、お年寄りに『般若心経』を!



本書に続き、もうすぐ、『般若心経 自由訳』(現代書林)も刊行されます。「子どもに『論語』を、お年寄りに『般若心経』を!」を合言葉とし、わたしは「天下布礼」をさらに推進させたいと願っています。 
はじめての論語』は7月7日に全国一斉発売されます。ぜひ、お子さんやお孫さんのために1冊お求め下さい。プレゼントにも最適ですよ!



2017年6月24日 一条真也

『怪奇事件はなぜ起こるのか』

怪奇事件はなぜ起こるのか


一条真也です。
がん闘病中だった小林麻央さんが亡くなられました。
最後までブログで発信を続けられた麻央さんの生き様は、日本人の死生観を確実に変えたと思います。心より御冥福をお祈りいたします。
じつは、このブログ記事は故人の夫である市川海老蔵さんについて言及しているのですが、この記事を書いたのはもう何か月も前です。たまたまアップ日の順番がこの日になったことの巡りあわせに驚いています。昨日アップしたブログ『四谷怪談 祟りの正体』の最後には、「それにしても、本書が刊行された2002年以降も、『お岩』の祟りが続いていることには驚かされます。その詳しい話は、また明日・・・・・・」と書きました。
『怪奇事件はなぜ起こるのか』小池壮彦著(洋泉社)を読みました。
「『生き人形』から『天皇晴れ』まで」というサブタイトルがついています。
「不思議ナックルズ」(ミリオン出版)Vol.3〜Vol.14(2005・4・20〜2008・4・23)に掲載されたものを加筆・再構成したそうです。

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本書の帯



本書の帯には、以下のように書かれています。
「事件は作られる。現実は隠される。だから実に奇っ怪なことではあるが、この世は怪談でできているのだ」
また、カバー前そでには以下のように書かれています。
「この本が扱う素材として、怪談は当然出てくる。この世が怪談だらけだからだ。凶悪事件もむろん出てくる。その背景が隠されているからだ。そして最終的に私の視点は、日本史の深層へと向かう。日本で起きる事件は、日本史の中で種がまかれて、根っこをはった上に展開しているはずだからだ」



アマゾンでは、本書の内容を以下のように紹介しています。
「稲川淳二の代表作『生き人形』のモデルとなった男の生涯から『かぐや姫』コンサートテープに入った幽霊の声、人体消失、凶悪な呪いが支配する廃墟ホテルの謎、岡田由希子自殺事件、宮崎勤事件、酒鬼薔薇事件の陰謀の調査、そして天皇制にまつわる隠された歴史の謎を追う迫真のルポルタージュ!」



本書は「怪談の章」「事件の章」「歴史の章」の三章構成となっています。
アマゾンでは、それぞれ以下のように紹介しています。
■怪談の章
その後も現在進行形! 終わっていなかった『四谷怪談』、お岩の祟り
自動車ごと人間が消えた! 謎の人体消失事件の系譜
次々と関係者が死んでいく、都内某所にある「呪われたマンション」
「わたしにも聞かせて」かぐや姫解散コンサートのテープに入った亡霊の声
最強の呪いが放たれる幽霊物件「山の上のホテル」に潜入 ほか
■事件の章
川崎市で起こった少年投げ落とし殺人事件は仕込まれた「コントロール殺人」だった!
宮崎勤事件を「作り上げた」謎の組織の存在とは?
某銀行破たん劇の背後で起こった連続死亡事件の、触れてはいけない因果関係 ほか
■歴史の章
高松塚古墳発掘でささやかれる「呪い」の6人連続死亡事件
泉湧寺に隠された天皇家、謎の歴史
世界中が驚いた、天皇晴れという奇跡 ほか



本書の「まえがき」には以下のように書かれています。
「事件は作られる。現実は隠される。そうであるなら、実に奇っ怪なことではあるが、この世は怪談でできているのだ。現実はその裏に監禁されている。ならばその闇の戸を開いてみよう。怪奇事件はなぜ起こるのか。どのようにして作られるのか。それを探ってみようではないか」

四谷怪談―祟りの正体 (知の冒険シリーズ)

四谷怪談―祟りの正体 (知の冒険シリーズ)



「怪談の章」の最初は、「四谷怪談 祟りの系譜――終わらない祟りの連鎖」です。ブログ『四谷怪談 祟りの正体』で紹介した本は2002年の刊行でしたが、本書は2008年の刊行です。著者は以下のように述べています。
「四谷怪談は21世紀の今日においてなお、我々の首筋に冷水を浴びせ続けている。かつてコミックビデオ『東海道四谷怪談』でお岩の声を熱演した戸川京子が、平成14年(2002年)7月18日に自殺した。動機は不明だった。怪談の実説によれば、7月18日はお岩の祟りが発現する日である。まさにその日の出来事だったことから波紋を呼んだ。そしてその余韻もさめやらぬ平成17年(2005年)6月、映画『四谷怪談でござる』(快楽亭ブラック監督)でお岩を演じた林由美香が急死した。前日まで元気だったのに、いつのまにか自宅で亡くなっているのが発見されたという。原因不明と報じられて世間を騒然とさせた」

東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)

東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)



『東海道四谷怪談』を書いた鶴屋南北は、さまざまな奇怪な体験を芝居のプロモーションに利用したといいます。著者によれば、怪談とはそもそも怪奇実話のことであり、創作では客を呼べないことをもちろん南北は知っていたというのです。さらに著者は以下のように述べます。
「祟りの逸話のリアリティによって芝居は大当たりをとったが、その年から翌年にかけて南北の関係者3人が次々と病死した。その翌々年には南北の娘婿である勝兵助が死んだ。同じ年に門下の勝井源八も死亡。そして1年後には南北自身が病死し、同業者の桜田治助と南北の片腕だった金井由輔も相次いで死亡した。さらにその翌年には南北亡き後の演劇界を担うと目された松井幸三が38歳で病死。続けて2代目勝俵蔵を襲名したばかりの南北の息子も死んでしまった。実に『東海道四谷怪談』初演から5年の間に、南北とその息子をはじめとする芝居関係者11人が連続死したのである」




四谷怪談の祟りは、21世紀の現在も生きている!
ふと、わたしはブログ「喰女ークイメー」で紹介した日本映画のことを思い浮かべました。この映画は三池崇史監督と市川海老蔵がタッグを組み、歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」を題材に描く衝撃作でした。その映画の劇中劇で、海老蔵はお岩の亭主である田宮伊右衛門を演じています。
市川海老蔵、衝突事故はお岩さんの呪い?『共演者たちも次々と』」という「女性自身」の記事には、2014年8月20日に行われた「喰女―クイメ―」の完成披露試写会で、主演の市川海老蔵(36)、柴咲コウ(33)が揃って登場したことが紹介され、以下のように書かれています。
「前日に自宅にワゴン車が衝突してきたことをブログで報告していた海老蔵は、(同作題材の)お岩さんの呪い?と問われると『ゾッとしました』とコメントした。海老蔵は『さっき皆で話していたのですが、共演者おのおのに色々なことが起こっているみたい』と話すと『結構ゾッとしましたね』と苦笑い。そんな海老蔵を横目に柴咲は『私は別にないです。問題なし』と語り『海老蔵さんが引き受けてくださったのかも。ありがとうございます』とお礼をし、会場の笑いを誘っていた」
ところが、この後、彼はワゴン車の衝突事故どころではない大きな災難に見舞われます。この事実に気づいたときは本当にゾッとしました。




「事件の章」では、「歯科医一家バラバラ殺人事件――凶悪事件の背後に見え隠れする“プロジェクト”」の「凶悪事件の背後に見え隠れする“ある薬”」のくだりが怖かったです。著者はSSRIという薬を紹介し、こう述べます。
「SSRIは、1987年暮れにアメリカで認可されたうつ病の治療薬である。翌1988年から売り出され、日本でも、ルボックス、デプロメールなどの名で1999年に発売された。この薬が服用者の自殺を誘発したり、凶暴化するなどの副作用を持つことがアメリカで問題になり、日本でも数年来その危険性が指摘されている。2006年に厚生労働省は、SSRIの副作用のリスクを明記するように製薬会社に指示したが、一般的にこの経緯はあまり知られていないのではないだろうか。ほとんど報道されてこなかったからである」




続いて、著者は以下のようにSSRIについて述べます。
「もちろん服用者の多さを考えれば、誤解は避ける必要がある。すべての服用者が凶悪化しているわけではない。だが近年起きている犯罪の陰にSSRIがあるのは事実のようだ。1999年にアメリカのコロンバイン高校で起きた銃乱射事件の犯人や、2007年4月に起きたヴァージニア工科大学銃乱射事件の犯人も、SSRIを服用していたという。日本では1999年に全日空機をハイジャックして機長を殺害した犯人がSSRIの服用者だった。そればかりか、池田小事件(01年)の宅間守、寝屋川小教師殺傷事件(05年)の当時17歳の少年、宇治小6女児殺害事件(05年)の萩野裕、川崎マンション男児投げ落とし事件(06年)の今井健詞、長野放火事件(06年)の“くまぇり”こと平田恵里香、会津若松母親首切断殺害事件(07年)の当時17歳の少年などは、いずれもSSRIを服用していたという」




著者は、「米国・ウエスベッカー事件と日本・宮崎勤事件のシンクロ」として、「警察庁の統計によると、暴行・障害の認知件数は2000年から急増するが、これは必ずしも犯罪が増えたことを意味しない。1999年に起きた桶川ストーカー殺人事件を境に、警察の活動方針が積極化したためであることを浜井浩一は指摘している」と述べます。それは、ある年を境に人々が急激に暴力的になったりするとは考えにくいからであり、この指摘を踏まえない犯罪増加談義は戯言に過ぎないからです。著者は「ただ、SSRIの日本での発売が1999年であったという事実は、不気味な符号として浮かび上がらざるを得ないのではないだろうか。アメリカでSSRI服用者が起こした最初の凶悪事件は、1989年のウエスベッカー事件である。これは日本における宮崎勤事件と、発生の時期がぴったり重なる」とも述べています。




そして、著者は日本の宮崎勤事件に言及し、以下のように述べるのでした。
「1988年1月にアメリカで発売されたSSRIを、ウエスベッカーは新薬の試験的な意味で処方された。当時日本では未発売だが、将来の大きな市場として見込まれていたに違いない。宮崎は初代モルモットとして、隠密裏に薬の副作用を試された・・・・・・そして案の定、夢の中で常軌を逸した行動に出た・・・・・・そんな想像もしてしまうのである」
著者は、宮崎勤は冤罪であったという主張を展開しています。

幕末 維新の暗号

幕末 維新の暗号



「歴史の章」では、「皇室を巡る謀略の裏面史――孝明天皇暗殺疑惑から皇室典範改正問題へ」を興味深く読みました。加治将一氏の『幕末維新の暗号』(祥伝社)などですでに有名な説ではありますが、著者は「明治政府と皇室をめぐる黒い霧」として、以下のように述べています。
「幕末に攘夷を唱えて鎖国政策を保守せんとした孝明天皇は、明治天皇の父にあたる。疱瘡で急死したタイミングが開国派にとってあまりにも都合のよいものだったため、死後にすぐ暗殺の噂が広まった。公式にはむろん病死であって暗殺の確証はない。だが当時から毒殺説だけではなく刺殺説も囁かれていた。この種の研究発表が自由になった戦後以来、死因をめぐって学者の論争が繰り返されてきたが、それらの見解をすべて踏まえた上で、いまなお謀殺の疑いはあると断言できる」



また、著者は孝明天皇暗殺疑惑について以下のように述べます。
「明治天皇は、父帝の突然の死をどう捉えていたのだろうか。当座は病死だと信じて疑わなかったとしても、暗殺の噂は後年まで流れていたのである。気にかけないはずはないと思うが、その詮議を官僚に命じた形跡はない。そのことも含めた様々なデータから、鹿島の著書『裏切られた3人の天皇』は、明治天皇が孝明天皇の皇子ではなかった可能性を述べている。この説によると、倒幕派は長州藩が匿っていた南朝の末裔・大室寅之祐を明治天皇とすりかえて擁立したという。つまり、孝明天皇に続いて明治天皇も幼い頃に謀殺されたというのだ。なぜ薩長とその勢力に与した公家たちがそんなリスクを冒したかというと、明治維新の目的が、実は南朝革命だったからだという」



続いて著者は、「明治政府は“南朝革命”による皇位剥奪か」として、以下のように述べています。
「中世に天皇家が、跡継ぎ問題をめぐって南朝と北朝という2つの系統に分かれたことはよく知られている。抗争の末に南朝は敗れ、足利将軍家をバックにした北朝天皇家がその後も続いた。だが、三種の神器を擁した南朝天皇家の正統性を唱える議論が近世に起こり、南朝正統論に基づく尊皇イデオロギーが幕末に勢力を増した。その背景には、北朝天皇家の血筋が足利氏によって断絶されられたのではないかという疑惑があった。もしそれが本当なら、北朝は正統性を失ってしまう。この伝説を信じた(あるいは利用した)薩長の志士が、孝明天皇暗殺と明治天皇すりかえによって北朝を打倒し、南朝天皇の末裔をでっちあげて政権を奪取した」



さらに著者は、南朝革命について以下のように述べます。
「確かに明治政府には不審な点がある。北朝の天皇を擁立しながら、なぜか南朝正統論に染まっていた。明治天皇が自ら南朝を正統と裁可したこともある。当時は南北朝のどちらが正統かという歴史認識問題が再燃していて、政治決着の方法がそれしかなかったという面はあるにせよ、明治政府が天皇の正統性を主張するなら、北朝正統論でなければ筋が通らない。なのになぜ南朝イデオロギーを鼓吹したのか、不思議に思った経験があるのは私だけではないだろう。さらにいえば、王政復古の大号令は“神武創業”を理念とし、過去の伝統を断ち切った“新王朝宣言”に等しいものだった。これは事実である。そして明治政府は、皇位継承法を明文化するにあたり、当初なぜか女系継承を認める案を出していた。天皇の万世一系と矛盾する法案を作成したのは、有栖川宮熾仁親王と伊藤博文である」



そして著者は、「帝国憲法制定に始まる謀略の系譜」として、以下のように述べるのでした。
「南朝革命はもちろん仮定の話だが、1つの事実として、伊藤博文はあまり明治天皇を敬っていなかった。伊藤と熾仁親王が天皇を見下した会話をしつつ、操り人形を踊らせるような身振りをしていたという目撃証言もある(『ベルツの日記』)。また、天皇機関説は美濃部達吉に始まるわけではなく、伊藤の政権構想が、すでに実質的に象徴天皇制だった。現に帝国憲法の制定によって、天皇の大権は制限された。天皇は“玉”であって“器”にすぎず、器を替えてもシステムが継続される要素を、明治政府の機構はすでに孕んでいた」



「歴史の章」では、「平成『皇室クライシス』の深層――見えざる敵は、陰謀か、それとも呪詛か」においても皇室問題を扱っています。著者は「皇室にまつわる怨念譚『小倉事件』の禍根」として、以下のように述べています。
「国文学者・池田彌三郎の著書『日本の幽霊』によると、皇室には300年前に仕掛けられた呪いのプログラムが潜伏している。霊元天皇の時代(1664年〜1686年)に起きた『小倉事件』である。
大納言小倉実起の娘・小倉中納言侍局(以下、小倉局と呼ぶ)が、霊元天皇の第1皇子を生みながら、跡継ぎから排除されるという事件が起きた。天皇は後に前大納言松木宗条の娘・宗子が生んだ第5皇子を皇太子にした。なぜか。簡単に言えば、天皇が宗子の方を寵愛したためである。この処置に反対した小倉実起は、息子ともども佐渡島に流された。大納言クラスの貴族が遠島の刑に処されるのは異例のことだった。天皇の意志はそれほど固かった。第1皇子は無理やり出家させられ、母の小倉局は寂しく病死した。皇太子となった第5皇子が、後の東山天皇である」



続けて、著者は小倉事件について以下のように述べます。
「この事件は、後々まで怨みを残した。小倉局は死ぬ前にこう言ったという。
『帝の御系統には、御世継ぎ御一方を残して、あとは皆とり殺してしまう。7代祟る』。帝というのは霊元天皇のことである。池田彌三郎は、この呪詛の言葉に着目し、父子相承の関係で見ると東山天皇から7代目が明治天皇だったことを指摘する。明治天皇の皇子女は、15人中10人が早世している。男子で成人したのは大正天皇だけである」



また、池田彌三郎の『日本の幽霊』の冒頭には、田中河内介にまつわる怪談のエピソードが置かれています。著者は、「タブー視された勤皇志士・田中河内介の末路」として以下のように述べています。
「田中河内介は、幕末に権大納言中山忠能(明治天皇の外祖父)に仕えた勤皇の志士だった。明治天皇の養育を補佐する立場にあったが、文久2年(1862)に寺田屋事件に関わって横死した。寺田屋事件は、薩摩藩の実質的指導者だった島津久光が、公武合体政策を推し進めるため、過激な尊皇攘夷派を粛清した事件とされている。田中河内介は攘夷派の首謀格だったが、皇室に縁のある者だったため、薩摩藩が身柄を預かることになった。だが護送中に薩摩藩士は、河内介を息子ともども斬殺してしまう。死体は海に捨てた。この行為に大義はなく、必要以上に陰惨な方法で河内介を抹殺した背景は維新史上の謎となっている。
そこで話は怪談になる。田中河内介の末路を語ってはいけない、語ると死ぬ、というのである。大正初年に怪談会でこのタブーを破ろうとした者が、実際に急死したという。その現場に池田彌三郎の父親が立ち合っていたというエピソードが『日本の幽霊』に書いてある」

明治天皇(1) (山岡荘八歴史文庫)

明治天皇(1) (山岡荘八歴史文庫)



また著者は、以下のようにも述べています。
「『日本の幽霊』が刊行された4年後に、作家・山岡荘八が雑誌で『明治天皇』の連載を始めている。この小説はタイトルに反して明治天皇がほとんど出てこない。田中河内介を主役とし、彼の勤皇の理想があえなく破綻する物語である。最終巻に至っては、小説の枠をはみ出ることも厭わずに、作者は田中河内介の殺害された状況を考証している。そして河内介が神と崇めた孝明天皇の暗殺説をつぶさに述べた後、数え年16歳の明治天皇の即位をもって全巻が終了する。つまり、この小説は『田中河内介はなぜ殺されたのか』というモチーフを主軸にして、明治天皇の“誕生から即位まで”の時代を描いている。しかし、タイトルは『明治天皇』であるから、明らかに不自然な構成である。これも実は暗示なのだと思う」




続けて、著者は田中河内介の怪談について以下のように述べます。
「田中河内介の末路がタブー視されたのは、薩摩に相当うしろめたい動機があったからに違いない。『語ると死ぬ』という怪談は、薩摩の犯罪を逆説的に告発したものとも言える。田中河内介は、幼少期の明治天皇を知る生き証人である。幼い頃の明治天皇が書いた文章も所持していた。後に明治天皇が河内介の行方を気にして官僚に尋ねたという逸話が講談になっている。天皇にとって、幼い頃よく背におぶさった河内介は、懐かしい爺やだった」



さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「池田彌三郎と山岡荘八の著述を見ていて思うのは、この2人はそれぞれの立場で研究を続けるうちに、明治天皇すりかえ説にたどりついていたのではないかということだ。ゆえに田中河内介というキーマンを照射することで、近代史最大のタブーを暗示したのではなかったか。田中河内介の怪談の、本当に恐るべき点は、そこにあるのかもしれない」



著者はよほど皇室に関心があるようで、「歴史の章」には「『東武皇帝』の真実とタブー――正史から抹殺された一人の天皇」もあります。そこで著者は、「戦前の歴史研究でタブーだった孝明天皇暗殺説と東武皇帝の存在」として、以下のように述べています。
東武皇帝は、いまから140年前に明治天皇と対峙した“もう1人の天皇”である。そういう人物がいたという事実は、近代日本の“正史”からは消されている。一般に幕末から明治の時代は、薩長連合軍を主軸とする官軍が、徳川幕府を倒した物語として知られている。だが、実際にはそうではない。最終的に勝ったのが薩長連合軍だったから官軍ということになっただけである。もともとは幕府軍が官軍であって、長州は朝敵だった。しかし、幕府を支持した孝明天皇の急死によって、事態が流動化したのである」



また著者は、東武皇帝について以下のように述べています。
東武皇帝は、もともと輪王寺宮公現法親王といい、現在の栃木県日光市にある輪王寺の住持だった。この職は代々皇族が務め、徳川家の菩提寺である寛永寺の門住も兼ねた。代々の輪王寺宮は“東の天皇”という位置づけで、徳川幕府の切り札だった。もし西国の大名が朝廷を担いで幕府を攻撃した場合、幕府も輪王寺を擁立して官軍になるシステムだった。ゆえに薩長軍が江戸を占領したとき、彰義隊などの旧幕臣は、輪王寺宮を擁して徹底抗戦した。そして全滅した後、輪王寺宮は東北に逃れて東武皇帝となる。当時21歳」



さらに著者は、以下のように東武皇帝即位について言及します。
奥羽越列藩同盟は、慶応4年(1868年)6月16日の東武皇帝即位をもって、元号を“大政”と改元した。しかし、結果的に薩長新政府軍が勝ったため、大政改元は歴史の闇に葬られた。そして明治政府という官軍が旧幕府勢力という賊軍を倒したという物語が創作された。その物語が、今日まで、日本人の意識に刷り込まれている。だが実際には徳川幕府が政権を返上した後、短い期間ではあったが、京都新政府と東北新政府という2つの革命勢力が対峙したのだ。東北新政府は負けたために賊軍呼ばわりされたにすぎない」



「歴史の章」の最後、そして本書の最後に置かれているのは、「昭和天皇が残した神話“天皇晴れ”――世界も驚いた“エンペラーズ・ウェザー”の真実」です。著者は「“究極の晴れ男”昭和天皇の“天皇晴れ”伝説」として、以下のように述べています。
「昭和天皇は、行幸の先々で好天に恵まれた。それを世に“天皇晴れ”と呼んだ。1975年9月に、昭和天皇が訪米した折、アメリカはずっと晴れていた。そしてその間、日本は曇天か雨だった。しかし、天皇の帰国の日に特別機が羽田空港に降り立つと、ぴたりと雨が止み、にわかに雲の切れ間から光が射し込んだ。その光景はテレビ中継されていたので、多くの国民が驚いたのである」



「天皇晴れ」という言葉は、1964年の東京オリンピックの頃から使われ始めたそうです。竹田恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』に詳しく触れられていますが、竹田恒泰氏の祖父で旧皇族だった竹田恒徳は著書『雲の上、下 思い出話』で以下のように述べています。
「東京オリンピック大会の開会式は昭和39年の10月10日、東京・国立競技場で行われたが、その前夜はひどい雨だった。(中略)ところが、一夜明けた当日になると、それこそ前夜の雨がうそのように、雲ひとつない青空が広がっているではないか。私自身も信じられないような、見事な“天皇晴れ”であった」



天皇晴れは、単に晴れるだけではなく、悪天候が天皇の登場に合わせて快晴に転じることをいいます。この現象は、1972年2月3日、札幌冬季オリンピックの開会式でも再現されました。著者は述べます。
「天皇晴れは、オリンピックや国民体育大会、そして1970年の大阪万博、1985年の科学万博などでも見られたが、国内のイベントのみに現われた現象ではない。1971年の昭和天皇訪欧時には“エンペラーズ・ウェザー”が地球規模で現出して世界に衝撃を与えている」



羽田空港からアンカレッジに飛び立った昭和天皇は、現地でも珍しい極彩色の巨大なオーロラをアンカレジの空に出現させます。
その後も、デンマーク、ベルギー、フランス、イギリス、オランダ、スイスと秋晴れが続きました。最後の行幸地である西ドイツも晴天でしたが、すべての日程を終えた天皇が特別機でボン空港を発ったとたん、現地はどしゃぶりの雨になりました。これが“エンペラーズ・ウェザー”として欧州人を驚嘆させたわけです。だがむしろ注目すべきは、その間に日本が記録的な天候不順に見舞われていたことだと、著者は指摘します。




著者は「天皇陛下ご容態急変と神話の終焉」として述べています。
「天皇晴れ神話は、それが崩れたときに、より重い意味を持った。1987年9月、昭和天皇は体調を崩して入院した。そして翌1988年の天皇誕生日(4月29日)は雨だった。4月29日に終日雨が降ったのは、1976年以来のことだった。戦後の天気をすべて調べても、この日に雨が降り続いた例は5回しかない。1951年には、朝からの雨が一般参賀の時刻に合わせてやんでいる。1978年には、一般参賀が終了してから小雨がぱらついた。1979年も朝からの雨が一般参賀の前にやみ、天皇が登場すると晴れ間が覗いた。1980年以降はずっと雨は降らなかったが、その連続記録が途絶えた年の9月19日、深夜11時すぎに、突然テレビの画面が乱れた。番組が中断されて、皇居前からの中継映像に切り替わり、黒塗りの車が次々と慌しく皇居に入る映像が流された。『天皇陛下御容体急変』の臨時ニュースだった」




昭和天皇崩御の日についても、著者は以下のように述べています。
「1989年1月7日、昭和天皇崩御の日も雨だった。前年12月29日以来、ようやく晴天が続いていたが、突然天気が崩れた。崩御の日の午後、和歌山県に住む87歳の男性が、納屋で首を吊った。『お供をする。陛下には軍隊にいたころから一命を捧げるつもりだった』。そう書かれた遺書が足元にあった。この老人が覚悟を決めたのは、前年9月のやまない雨の音を聞いていたときだと私は思う。あのときの豪雨は人知を否定していた。何かの糸がぷっつり切れて、何もかも押し流していくような雨だった。えもいわれぬ喪失感があった」




著者は「データが物語る“天皇晴れ”の奇跡」として述べています。
「以前、サヨクの知人に天皇晴れと逆天皇晴れの話をしたら、やはり太陽神なのかと驚愕していたが、特異日の関係ではないかとも言っていた。訪欧も訪米も台風の特異日である9月26日の直後に出発日が設定されていた。これは台風一過で晴れる確率が高い。そして帰国日はいずれも晴れの特異日である10月14日に設定されていた。特異日というのは、単に特定の天気が現われやすい日というだけではなく、その前後の日とは違う天候状態が現われる頻度の高い日をいう。前後の日が雨でも、なぜかその日は晴れるという現象が統計上認められる。科学的な理由はわかっていない」



そして、著者は天皇晴れについて以下のように述べるのでした。
「その意味では天皇晴れも特異日のバリーションだが、だからといって、その説明が何かを明らかにするわけではない。天岩戸神話が日食のメタファーだとしても、実際にヤマトの女王が隠れた瞬間に日食が起きたなら、それは奇跡だろう。問題は物事が起きるタイミングである。不思議な偶然の一致に多くの人が驚嘆すれば、時代を問わず神話になる。昭和天皇の場合、神がかりな偶然の頻度は、尋常ではなかった。それはデータ的に明らかである」



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月24日 一条真也

2017-06-23

麻央さん、お疲れ様でした。

一条真也です。
悲しいニュースに接しました。
がん闘病中だった小林麻央さんが亡くなられたのです。
先程、「小林麻央さん死去 34歳 22日夜自宅で 闘病中にブログ続けるも力尽く」の見出しで、スポニチが訃報記事を配信しました。
心より故人の御冥福をお祈りいたします。

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「ヤフー・ニュース」より



じつは、わたしの妻は毎日、麻央さんのブログを読み、その回復を願っていました。妻から麻央さんの容態などについてよく話を聴いていたので、わたしも信じられない気持ちでいっぱいです。とても残念です。
幼いお子さんを二人残して逝かれる心情を思うと、たまりません。



でも、麻央さんの生き様は多くの人々に勇気を与えました。
これほど「覚悟」を持って生き切った方はなかなかいないと思います。
「死への覚悟」だけでなく、「生き抜く覚悟」も持っておられました。
麻央さんの生き方は、確実に日本人の死生観に影響を与えました。



麻央さんは、ブログの持つ豊かな可能性をも示して下さいました。
これほど個人の病状を多くの日本人が気遣ったことがあったでしょうか。
それこそ、昭和天皇のご闘病以来ではないかと思えるほどです。
みんなが麻央さんの病状を気にし、回復を願っていました。
麻央さんは、ご自宅で愛する家族に囲まれた麻央さんは最愛の海老蔵さんに「愛してる」と言って、この世を旅立って行かれました。



麻央さんから愛を渡された海老蔵さんも、立派だったと思います。
夫として、父として、役者として、そして男として、立派でした。
わたしは、心から市川海老蔵という方を尊敬します。
お二人は本当に見事なご夫婦でした。わたしも含めて、多くの人々に夫婦愛の素晴らしさを教えてくれました。ありがとうございました。
麻央さん、お疲れ様でした。どうか、安らかにお休み下さい。合掌。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月23日 一条真也

『四谷怪談 祟りの正体』

四谷怪談―祟りの正体 (知の冒険シリーズ)


一条真也です。
『四谷怪談 祟りの正体』小池壮彦著(学研)を読みました。「怪奇探偵」の異名をもつ著者はわたしと同じ1963年生まれで、怪談研究の第一人者。東京都新宿区の出身で、國學院大学文学部文学科を卒業しています。

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本書の帯



帯には「お岩はなぜ祟るのか?」と大書され、続いて「怪奇探偵・小池壮彦が三百有余年の闇の迷宮を探索。ついに決定的な真実が明かされた!」と書かれています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「序」
『東海道四谷怪談』抄
第一章 祟りの胚胎
第二章 祟りの顕現
第三章 祟りの探訪
第四章 祟りの波紋
第五章 祟りの真相
「後日譚」
「主要参考文献」




第一章「祟りの胚胎」の冒頭では、著者自身が体験した怪異が紹介されています。本書を書くにあたり、さしあたってお岩さんの伝説から筆を起こそうと思い、著者はワープロの画面に文字を討ちつけはじめました。すると、妙なことに「伊右衛門」という単語がうまく打てません。「伊右衛門」とはもちろんお岩さんの夫であった田宮伊右衛門のことですが、「伊右衛門」の「右」の字が、なぜか「岩」になるというのです。



このエピソードを紹介したあと、著者は以下のように述べます。
「ワープロの調子がよくないだけなのに、お参りに行かなければいけないな、という気分になる。この気分というのは、自然にわきあがってくるものであって、わざわざそうしなければならないという義務感に基づくものではない。なんとなくお参りに行って、仕事場に戻ってくる。またワープロを作動させると、異常は見当たらない。
お参りしたから故障が直ったのだとは思わない。けれども、『四谷怪談』の原稿を書こうしたら身辺に異常が発生し、お参りしたら消えたという言い方にまちがいはない。おそらくこういう偶然を、いろいろな人が古来経験してきたのであろう。そうでなければ、お参りに行く習慣が今日まで保たれてきたはずもない」

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)

怪談 牡丹燈籠 (岩波文庫)



「四谷怪談」といえば、日本を代表する怪談ですが、著者は先行して「牡丹燈籠」という有名な怪談があったことに着目します。そして、「『牡丹燈籠』が祟った時代」として、以下のように述べています。
「もともと『牡丹燈籠』は中国産の怪談だけれど、三遊亭円朝の作品は、日本で実際に起きた事件を物語に仕組んだともいわれている。これは大正時代のジャーナリスト、矢田挿雲が伝える説である。登場人物の萩原新三郎のモデルは旧旗本の羽川金三郎、お露のモデルは浅草の商人飯島某の娘のお常という者で、実在した恋愛事件を採り入れた怪談だという。
この説、信憑性の度合いは定かでないが、戦前の芝居関係者が『牡丹燈籠』をまったくの創作とは見ていなかったのは確かのようである。そのせいか大正時代には『牡丹燈籠』にまつわる祟り話が『四谷怪談』にまさるとも劣らないほど有名になっていた」



著者は、「牡丹燈籠」にまつわる以下のようなエピソードを紹介します。
「明治45年(1912)7月、新富座で尾上菊五郎が『牡丹燈籠』を上演したときに明治天皇が崩御した。公演は中止となった。やがて大正4年(1915)7月に歌舞伎座で市村羽左衛門が久々に『牡丹燈籠』を上演することになったが、このときは途中で羽左衛門が病気になってしまった。大正8年(1919)8月に帝劇で菊五郎が再演したときは、菊五郎の第1のいい女房役者だった菊次郎が急死した。関東大震災のあとに演舞場で菊五郎が三演を試みたときには、本人が発熱して休場・・・・・・」



著者は「大正時代に『牡丹燈籠』は、祟りの王者だった」と述べ、さらに「おむね」の霊に言及します。
「『おみね』の霊と聞いて首をかしげる人もいるかもしれないので注釈すると、『牡丹燈籠』の登場人物に、おみねと伴造という夫婦がいる。この夫婦の家に、お露の幽霊があらわれて、『萩原さまの家に御札がはられていて中に入れない』と泣きつくのである。そこで、おみねが悪知恵を働かせて幽霊に100両の金をせびり、伴造が御札はがしの役を買って出る。
落語ではこの場面が『御札はがし』という独立した演目になっている。地獄の沙汰も金次第という、おぞましい話になるのであるが、おみねもやがて伴造に謀殺されるという物語の展開がなおさら残酷ゆえに、戦前は上演を禁止されたこともある。その経緯から、悪女おみねを演じることに禁忌のにおいがつきまといはじめたらしい」



また著者は、「役者たちの受難」として、以下のように述べます。
「芝居や映画でアクシデントが起きなければ、祟りの噂も忘れられていく。
言いかえれば、いまでも祟りの噂が生きている『四谷怪談』は、それだけ事故の頻度が多かった。どの怪談よりも長きにわたって事故が起きつづけてきたのだ。より多く報道されてきたので、話題になりやすかったということもある。事故が起きても明るみに出なければ、楽屋話にとどまるからだ。噂が大衆化するためには、何らかの媒体が記事にして世間に知らせる必要がある。そこで初めて噂が説話化される」

真景累ヶ淵 (中公クラシックス)

真景累ヶ淵 (中公クラシックス)



さらに著者は、やはり日本を代表する怪談である「怪談累ヶ淵」に言及し、以下のように述べています。
「この『怪談累ヶ淵』というのも、現在は主に三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』を原作としているが、元来は実話である。その昔に累という人は実在し、お墓もある。だからいまでも歌舞伎で『累もの』をやるときには、『四谷怪談』と同じように、墓所にお参りする風習がある。7代目尾上梅幸の『拍手は幕が下りてから』という本によると、新作の芝居でアクシデントが起きてもいちいち祟りとは認識しないらしい。事故を祟りと考えるのは『四谷怪談』と『累ヶ淵』の伝統が築き上げたブランド・アイデンティティなのだ」



続けて、著者は「四谷怪談」祟りについて以下のように述べます。
「そこで『四谷怪談』にまつわるエピソードだが、撮影現場でセットの柱が倒れたとか、大八車の車輪がひとりでにはずれたとか、そういう話は枚挙にいとまがない。役者の目が腫れたという話はもちろん、撮影中に泊まった旅館で鏡を見たらお岩さんの顔が映っていたとか、そういう話も、ほとんど映画の撮影がおこなわれるたびに記録されてきた」

東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)

東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)



第二章「祟りの顕現」では、「『四谷』の地霊」として、著者は述べます。
「舞台で演じられるたびに、お岩さんはこの世によみがえっている。
そうであれば、役者が「お岩稲荷」にお参りするのも自然の行為と言える。ただし、昔からのしきたりで、伊右衛門を演じる役者はお参りしないのが決まりである。お参りすると、かえってお岩さんの霊を怒らせてしまうからという理由による。このしきたりは、歌舞伎界では守られているが、テレビや映画の撮影時にはどうであろう?見たところ、みんなそろって参拝しているようである。伊右衛門役の俳優が『ちゃんとお参りしたのに崇られた』と嘆くことになるのはそのためだろうか」




著者は、お岩さん伝説のルーツについて以下のように述べます。
「そもそもお岩さんの話の原典は『四谷雑談集』という読み物であった。『雑談』というのは世間話のことである。この本に出てくるお岩さんは、白立心が強く、頑固な性質の女である。芝居のように伊右衛門と恋人同士だったわけでもない。父亡きあとの家を存続させるため、無理して婿養子を迎えただけだ。伊右衛門は、はなからお岩さんに愛情はない。伊東喜兵衛の企みでお岩さんが家を追放されるのは芝居と同じであるが、毒を飲まされるという展開もない。そんなことをするまでもなく、最初から顔が醜いのだから。
陰謀を知らされたお岩さんは、怒り嘆いて家を飛び出し、そのまま行方不明になったというのが実説の顛末である。その後に田宮や伊東の関係者が次々と変死したため、世間ではお岩の祟りではないかと噂した」



著者は「芥川龍之介の『四谷怪談』」として、大正時代を代表する人気作家であった芥川が関東大震災の3ヵ月前の発表した「市村座の四谷怪談」という文章を紹介しながら、以下のように述べます。
「お岩さんの祟りを畏怖する感性は、大正時代にひとつの完成を見たのかもしれない。近代化路線を邁進する日本および日本人が、あらためて闇の領域に目を向けた明治後期から大正時代にかけて、古来の怪談がリバイバルした。祟り話も大いに語られた。
この時代の怪談の語られ方は、明治期にいったん迷信が否定されたプロセスを踏まえているから、祟りを戦略的に肯定するスタンスが研究されている。すなわち、祟りが迷信であることを前提とした上で、その迷信が現実化する異常事態に焦点を当てるのだ」



本書には多くの「四谷怪談」の祟りのエピソードが紹介されています。
歌舞伎関係者をはじめ、多くの人々にとって、それは実際に起こった事実なのでした。著者は「こにに『四谷怪談』の奇跡がある」として述べます。
「おそらく多くの祟り話が、実際には祟りなど起きないという経験的な理由によって存在意義を失っていったのだ。しかし不思議なことに、『四谷怪談』は逆である。ここぞというときに必ず異変が起きてきた。その経験の積み重ねが、今日まで続いている」



夜に「四谷怪談」の話をしてはいけないという戒めがありますが、それは『東海道四谷怪談』の著者である鶴屋南北の体験談に基づくそうです。役者の家で伝承された逸話を、明治末期から大正・昭和にかけての時期に、新聞や雑誌などのメディアを通じて6代目尾上梅幸が語り継いだのでした。著者によれば、現在も流布する「四谷怪談」の祟り話は、六代目梅幸という名優が、同時にすぐれた語り部でもあったことからブランド化されました。そして祟りの噂の淵源は、鶴屋南北の時代にさかのぼります。南北たちは初演当時に、祟りの逸話を芝居のPRに活用したものと推測されます。著者は「南北は以前にもそのような広報活動を試みた前歴がある」と述べます。



第二章の最後には、「祟られた南北」として以下のように書かれています。
「実は『東海道四谷怪談』の上演を機に、南北の周辺で異変が起きていた。芝居初演の年に、松島半次という者が死んだのをはじめ、翌年には二世増山金八など2人の作家があいついで死んでいる。いずれも南北の関係者である。その翌々年の3月には、南北門下で娘婿の勝兵助が死亡し、8月には同じく門下の勝井源八が死んだ。『四谷怪談』の初演から3年足らずで、5人の演劇関係者が次々とこの世を去ったのだが、異変はそれだけにとどまらなかった」



続けて、著者は「祟られた南北」について述べます。
「1年後には、南北自身が死んでしまった。同じ年に、同業者の二世桜田治助も死亡。続いて南北の片腕だった二世金井由輔など、2人の人物も続けて亡くなった。さらにその翌年には、南北亡きあとの演劇界を担うと目された松井幸三が38歳の若さで病死。続いて二世勝俵蔵を襲名したばかりの南北の息子も死んだ。奇怪なことに、『東海道四谷怪談』初演からわずか5年の間に、鶴屋南北とその周辺にいた11人もの関係者が連続死した。これにより歌舞伎界は急速に衰退したのである」



第三章「祟りの探訪」では、ある事件が小説や芝居になるまでの時間という興味深い問題について以下のように述べられています。
「この時代、事件が劇化されるまでに、普通はどのぐらいの年月を要したか? 赤穂浪士の討ち入りは、事件から46年後に劇化されている。八百屋お七の放火事件は、3年後に小説になり、およそ30年後に劇化された。皿屋敷の怪談も、伝承が文献に記録されてから31年後に劇化されている。累ヶ淵の怪談は、累の殺害事件から43年後にルポルタージュが評判になり、その41年後に劇化された。お岩さんの祟り事件と同時代のめぼしい出来事は、世間で話題になってから30年から40年ぐらい経った段階で、すべて浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれている。そして、何度も上演されている。現代で言えば、何度も映画化されたというのと同じである」




そして、「東電OL殺人の闇」として、著者は以下のように述べるのでした。
「いつの世にも深刻ゆえに多くを語られず、しだいに実情が闇の中に埋もれてしまう事件というのはあるものだろう。あるいは東電OL殺人のように、最初から闇の要素を含むような事件は、興味本位の語りやすいところでしか表立った話題にはならない。すると、お岩という女性が生きながらにして鬼女と化した事情というのも、私たちが想像する以上に、当時の人たちにとって語りにくい背景を孕んでいたのではないか?
現代の私たちの感覚では理解が行きとどかないような、江戸時代人に特有の琴線に触れるおぞましさを醸し出す事件であったがゆえに、話題にする気力も失せたと。誰もが沈黙を余儀なくされるような、不気味な事件であったと・・・・・・」



第四章「祟りの波紋」では、著者は「内部告発」として述ます。
「現代の怪奇実録本の作者として、私は過去にいくつかの実話集を書いてきた。書き手の側から言うと、読者が信じるか否かは別にして、ネタの信憑性は保持しているつもりなのだ。脚色はしたとしても、まったくのウソを書くことはない。そのルールさえ首の皮一枚でも保つことができれば、あとのことは知らないという姿勢である。虚構が真実を語るというけれど、そもそも虚構とは事実の再構成である。その結果、虚構が何ほどかの真実を内包するに至る場合もあれば、そうでない場合もある。つまらない虚構に終始した小説は、ひとかけらの事実ほどにも真実を語らない」

唯葬論

唯葬論



わたしは『唯葬論』(三五館)の「怪談論」で、怪談の本質が「鎮魂」や「慰霊」にあると書きましたが、著者の小池氏も怪談について述べています。
「そもそも怪談の歴史は、宗教的な道徳意識を広めるための説教の歴史と密接なかかわりがある。たとえば江戸時代のスタンダードな怪談集である『伽婢子』を書いた浅井了意は真宗の説教者であるし、同じく怪奇実話を集成した『因果物語』を書いた鈴木正三は禅宗の説教者であった。累ヶ淵や皿屋敷の怪談は、いずれも浄土宗の宗教者によって怨霊が得度される。それらは宗教宣伝の書物であるから、祟りは決して野放しにされない。
だが『四谷雑談集』には、その要素がない。祟りは鎮められることがない。同時に、作者は物語の末尾で祟りの恐ろしさを説くのではなく、性質の邪な者が報いを受けるのだと結論している。『あながちお岩の恨みにも限るべからず』というのだ」



実際の、お岩の物語とはどのようにして生まれたのでしょうか。
「リークされた四谷怪談」として、著者は以下のように述べます。
「最終的に『四谷雑談集』を書きついだのは、貸本屋の親父や講釈師かもしれない。だがそもそも原作を提供したサムライがいたのであろう。もしこれが内部告発文書なら、原作者は喜兵衛や田宮伊左衛門の近くにいた人物ということになる。彼は貸本屋の親父に告げたのだ。
『お岩の失踪は、単なる夫婦のいざこざではない――』
世間は当初、気まぐれな一人娘がとうとうおかしくなったそうだ、というぐらいにしか考えていなかった。しかし、あるサムライは、お岩失踪の背後にある伊東喜兵衛らの陰湿な画策には我慢しがたいものがあると感じた。そして内部情報をリークした・・・・・・」




第五章「祟りの真相」では、著者は「神話のリバイバル」として、なんと阿部定事件を取り上げ、以下のように述べています。
阿部定事件は、昭和44年(1969)のエログロブームのおりに、初めて映画化された。昭和51年(1976)には『愛のコリーダ』が世界的評価を受けたため、阿部定事件とは何だったかという話題が盛り上がった。個人的には、阿部定というと、宮下順子のイメージがある。日活映画の『実録阿部定』(1975)に由来するものだ。伝説の猟奇事件は、発生から40年を経たのちに、新しいイメージで世間の話題をさらった。これは江戸時代に事件が芝居に仕組まれるまでに要したスパンと一致する。事件を知らない新世代が育ち、あらためて過去に目が向けられて、古い事績が新鮮な驚きとともに再発見される。それに要する時間がおよそ4、50年なのだろう」




著者は、「お岩がたくさんいる」として、複数の「お岩」という名の女性が存在したことを指摘します。そして以下のように述べます。
「複数の「お岩」がいたというのは、ひとまず歴史上の事実である。『お岩』の名から『四谷怪談』しか連想しない現代人の常識は、そもそも『お岩』という名が江戸時代の女性名としてポピュラーだったという事実から見れば、極めて非常識なことになる」



また、著者は「お岩」という名前について以下のように述べます。
「日本の各地に『お岩』がいた。この名前は桃山時代から流行したようだ。
もとをたどれば、『いわ』とか『きく』などの二音節の女性名は、『瑠璃王』『姫夜叉』『岩鶴女』といった古代型の女性名が、中世になって分解した結果生まれた。たとえば『岩鶴女』という名であれば、中世に『〜女』という名づけ方が廃れて短縮される傾向を強めた結果、『岩』と『鶴』に分解した。こうした命名法の単純化は、16世紀後半から公家・武家の娘の名に生じた。農民の娘の名も同じような変化を見せた。
結果、桃山時代には身分を問わず、『とら』『まつ』『きち』『きく』といった名が増えた。『いわ』も同じ系列の名であったにすぎない。特別な名前であったわけではない。ただ、堅実な印象の名であり、長寿が連想される名ということで愛されたようである」



また著者は、「二人のお岩」として、以下のように述べています。
「田宮家の系譜にも、複数の『お岩』がいた。少なくとも2人の『お岩』が。
過去帳によれば、寛永13年(1636)に亡くなった2代目の奥さんの俗名が『於岩』であった。この人がまず『第一のお岩』である。一方、『四谷雑談集』に出てくる『お岩』は、元禄時代の人であるから、寛永13年(1636)から数えると、およそ半世紀あとに『第二のお岩』がいたことになる」



さらに著者は、3人目の「お岩」さんを発見します。
そして、「後日譚」の中で以下のように述べています。
「伝説の軸となる『お岩』は3人いた。寛永・元禄・明和の時代に。
寛永のお岩さんは、田宮家2代目の奥さんである。この人の名は3代目の娘、すなわち孫に継承された。元禄のお岩さんである。彼女は夫に裏切られて失踪した。お岩が鬼女となって横丁を駆けぬけたという目撃談がひとしきり話題になったのち、事件は忘れられた。しかし、お岩失踪の背後に蠢く悪人たちの行状を暴露した告発文書が、御先手組内部の者によって執筆された。怪談の実録本として水面下で流布した」



続いて、著者は以下のように述べるのでした。
「田宮家の没落後、新たに召し抱えられた山浦氏が屋敷に住んだ。やがて明和の時代になってから、山浦忠八郎の奥さんの変死事件が起きた。山浦氏の関係者も次々と不審な死を遂げたことから、祟りの噂が立った。『四谷怪談』の再現に世間は息を呑んだ。
江戸の世には貞女も悪女もひっくるめて、さまざまな個性の「お岩」がいた。彼女たちの行状が噂となって『四谷怪談』のストーリーと錯綜し、『お岩伝説』のヴァリエーションを増やした。明和の事件が元禄の出来事として語られたり、その逆もあったりして事実が混沌とする中で『東海道四谷怪談』が上演された。これが決定版とされた」



本書は、「四谷怪談」という日本人なら誰でも知っている有名な怪談の歴史的背景を探った書であり、同時に語り継がれてきた多くの「四谷怪談」にまつわる怪異が事実であったことを証明する書でもあります。「祟り」という暗い問題に光を当てたきわめて珍しい作品であると言えるでしょう。それにしても、本書が刊行された2002年以降も、「お岩」の祟りが続いていることには驚かされます。その詳しい話は、また明日・・・・・・。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月23日 一条真也

2017-06-22

『般若心経』講話

一条真也です。
21日の16時半から、臨時の「平成心学塾」を開講しました。
そこで、わたしは『般若心経』についての講話を行いました。
もうすぐ上梓する『般若心経 自由訳』(現代書林)をテキストに、全国から集まった葬祭責任者を前に話しました。いつもはセレモニーホールの支配人までですが、この日は副支配人も加わって人数が増えました。

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最初は「一同礼!」から・・・・・・
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みなさん、お元気ですか?



会場は、小倉紫雲閣の「鳳凰の間」でした。
いつもは、葬儀が行われている部屋ですね。
そこで「導師入場」ならぬ「講師入場」として、演壇に進みました。
わたしはまず、現代日本における葬儀の現状、それから現代日本仏教の問題点について語りました。近年、葬儀に親類縁者は集まりますが、葬儀と一緒に初七日や四十九日の法要も済ませるのが一般的です。本来、「初七日」とは命日を含めて7日目の法要であり、以後、7日ごとに法要が営まれ、命日から数えて49日目に「四十九日」の法要が営まれていました。

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現代日本における葬儀の現状を語りました
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現代日本仏教の問題点について語りました



なぜ、7日ごとに法要が営まれたのか。それは、亡くなった人に対して閻魔大王をはじめとする十王からの裁きが下され、49日目に死後に生まれ変わる先が決められるという信仰があったからです。故人が地獄、餓鬼、畜生、修羅などの世界に落ちることなく、極楽浄土に行けることを祈って法要が行われました。「四十九日」の法要までが忌中で、神社への参拝や慶事への出席などは遠慮する習わしです。しかし、現代社会では親類も遠くに住んでおり、仕事などの都合もあって、7日ごとに法要するのが困難になってきました。49日目に再度集まるのも大変です。

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講話のようす
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ホワイトボードを使って説明しました



葬儀の日に「四十九日」の法要まで済ませてしまうというのは、合理的な考え方かもしれません。でも、それは、それこそ伝統的に信じられてきた閻魔大王の裁きのスケジュールを人間の都合に合わせてしまうことでもあり、じつは仏教的にはトンデモないことです。
それこそ実際の裁判の被告が、裁判官に向かって「忙しいので、一審、二審、三審を同じ日にやってくれませんか」と言うのと同じことです。本当は、こんな無法がまかり取っている時点で、仏教的には破綻しています。

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『般若心経 自由訳』の表紙を初公開!



それから、『般若心経』の話題に移り、日本人にとって最も親しまれているお経である『般若心経』の自由訳を紹介しました。葬祭責任者たちの前で自由訳を披露するのは初めてです。仏教には啓典や根本経典のようなものは存在しないとされます。しかし、あえていえば、『般若心経』が「経典の中の経典」と表現されることが多いです。『西遊記』で知られる唐の僧・玄奘三蔵は、天竺(インド)から持ち帰った膨大な『大般若経』を翻訳し、約三〇〇字に集約して『般若心経』を完成させました。その後、古代よりアジア全域で広く親しまれてきました。

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『般若心経』の成立史を説明しました
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1ページづつ、自由訳を紹介しました



そこで説かれた「空」の思想は中国仏教思想、特に禅宗教学の形成に大きな影響を及ぼしました。日本に伝えられたのは8世紀、奈良時代のことです。遣唐使に同行した僧が持ち帰ったといいます。以来、1200年以上の歳月が流れ、日本における最も有名な経典となりました。特に、遣唐使に参加した弘法大師空海は、その真の意味を理解しました。空海は、「空」を「海」、「色」を「波」にたとえて説いた『般若心経秘鍵』を著しています。わたしの自由訳のベースは、この空海の解釈にあります。

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美しい写真が次々に登場しました
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写真とともに自由訳を披露しました



これまで、日本人による『般若心経』の解釈の多くは間違っていたように思います。なぜなら、その核心思想である「空」を「無」と同意義にとらえ、本当の意味を理解していないからです。「空」とは「永遠」にほかなりません。「0」も「∞」もともに古代インドで生まれたコンセプトですが、「空」は後者を意味しました。わたしは、「空」の本当の意味を考えに考え抜いて、死の「おそれ」や「かなしみ」が消えてゆくような訳文としました。「空」とは実在世界であり、あの世です。「色」とは仮想世界であり、この世です。

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会場が静まり返りました
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最後に大いなる秘密が・・・・・・



最後に出てくる「羯諦羯諦(ぎゃあてい ぎゃあてい)」が『般若心経』の最大の謎であり、核心であると言われています。古来、この言葉の意味についてさまざまな解釈がなされてきましたが、わたしは言葉の意味はなく、音としての呪文であると思いました。そして、「ぎゃあてい ぎゃあてい」という古代インド語の響きは日本語の「おぎゃー おぎゃー」、すなわち赤ん坊の泣き声であるということに気づいたのです。

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死とは、母なる世界に帰ってゆくこと!



人は、母の胎内からこの世に出てくるとき、「おぎゃあ、おぎゃあ」と言いながら生まれてきます。「はあらあぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼうじいそわか」という呪文は「おぎゃあ、おぎゃあ」と同じことです。すなわち、亡くなった人は赤ん坊と同じく、母なる世界に帰ってゆくのです。

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『般若心経』の真髄を説きました



「あの世」とは母の胎内にほかなりません。
ですから、死を怖れることはありません。
死別の悲しみに泣き暮らすこともありません。
「この世」を去った者は、温かく優しい母なる「あの世」へ往くのですから。
最後に、「これが『般若心経』。『永遠』の秘密を説くお経である・・・・・・」とわたしが述べると、会場から大きなため息が漏れました。

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仏教の未来を構想する
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最後は、もちろん「一同礼!」


『般若心経』とは、多くの日本人にとってブッダのメッセージそのものかもしれません。そして、そのメッセージとは「永遠」の秘密を説くものであり、「死」の不安や「死別」の悲しみを溶かしていく内容となっています。超高齢社会を迎えたすべての日本人にとって、本書が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」、そして、「安らぎ」と「幸せ」を自然に得ることができる書となれば、こんなに嬉しいことはありません。わたしの講話を聴いた葬祭責任者たちは、まるで悟りを開いた高僧のような清々しい顔をしていました。
『般若心経 自由訳』は7月初旬に刊行予定です。お楽しみに!
同じ頃、小中学生向けの『はじめての論語』(三冬社)も刊行されます。
「子どもに『論語』を、お年寄りに『般若心経』を!」を合言葉として、わたしたちは「天下布礼」をさらに推進させたいと願っています。 

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『般若心経 自由訳』(現代書林、7月初旬刊行予定)



2017年6月22日 一条真也

2017-06-21

『怪奇探偵の実録事件ファイル2』 

怪奇探偵の実録事件ファイル〈2〉


一条真也です。
『怪奇探偵の実録事件ファイル2』小池壮彦著(扶桑社)を読了。
ブログ『幽霊は足あとを残す』で紹介した本(1999年3月刊行)のサブタイトルが「怪奇探偵の実録事件ファイル」でした。本書はその続編で、2000年7月に刊行されています。前作同様に、怪談好きにはたまらない内容となっています。そして、本書には怪談好きの頭に必ず浮かぶであろう疑問の答えが書かれています。著者はわたしと同じ1963年生まれで、日本を代表する怪談研究家として知られています。東京都新宿区の出身で、國學院大学文学部文学科を卒業しています。



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
第一章 怪奇探偵、怪奇事件の謎に挑む
謎の人骨火葬事件は七人坊主の祟りか?
伊豆半島最後の秘境「しらぬたの池」の怪異
「午前二時の花嫁」の謎は解けるか?
第二章 怪奇探偵、幽霊伝説を追う
東京タワーの下には女の死体が埋まっている?
少年霊が事故をいざなう「じゅんいち君道路」の謎
忘れられた祟りの現場、池袋「四面塔」
巨大観音に込められた昭和の祈り
第三章 怪奇探偵、身近な不思議を問う
幽霊はなぜタクシーの座席を濡らすのか?
誰もいない部屋で笑う赤ん坊は幽霊にあやされているのか?
幽霊を科学的に説明できるか?
「あとがき」



「まえがき」の冒頭で、著者は東京の浅草の路地に、洗っても消えないシミが長らく残っていたことを紹介します。子どもたちは夕方になると、その路地を避けて通ったそうです。「あそこは怖いよ、ユーレイが出るよ・・・」と言いながら。著者は、その路地には恐ろしい記憶がひそむのだということは子どもたちは直観で悟っていたのだろうと推測します。それは、終戦の年の3月に下町の大空襲があったとき、多くの人々が焼かれた場所でした。焼いたバナナのような死体は、脂肪が溶けきって、外の歩道にまで流れました。それが戦後10年以上たっても、消えないシミとして路地に残ったのです。



このようなシミの話題の後で、著者は以下のように述べています。
「いま私たちの生活の中に、そのような“シミ”は、ほとんどない。あってもすぐに消されてしまい、何事もなかったかのようにふるまうのが常である。だから子供たちも、見えないものを見る取っかかりを失い、直観を働かせることができなくなった。そういう傾向が急速に強まったのは、元号が平成になってからである。なぜその時期から強まったのかという理由は、いろいろあって一口には言えない。
しいて言うなら、死にまつわるむごい話や、むごい写真や、事件にかかわる人の顔や、名前などについて、言ってはいけない、書いてはいけない、見せてはいけない、などの禁止事項が、平成になって増えた。怨念のやり場を設けず、むしろそれを封じることに神経質になり、現実を直視しない姿勢を、昭和時代よりも強くする方向で、私たちはこの10年ほどを過ごしてきた。その結果、生活の中から、どんどん“シミ”が消されていった」



続けて、シミが消されていった社会について、著者は述べます。
「そのほうがいいだろうということで、そうしてきたのは間違いない。しかし、ふりかえってみて、世の中が暮らしよくなったかと言えば、なっていない。むしろ、悪くなったように感じる局面が多いことは、もう誰の目にも明らかだろう。やはり生活の中に、いくぶんかの汚れはあったほうが、私たちの暮らしはバランスを保てることがわかった。
だから私は、私なりのやり方で、“シミ”を見つけては突っつくことにした。そしてできたのが、『幽霊は足あとを残す』という本だった。その中では、個人的な心霊体験が社会性を持つに至るプロセスや、その逆に、社会的な事件となった怪談が、そもそもいかなる個人の体験に基づいていたかなどを、戦後史という枠組みに重ねて検証した」



第一章「怪奇探偵、回帰事件の謎に挑む」の「『午前二時の花嫁』の謎は解けるか?」では、東京都杉並区東荻町にあった学生寮に毎晩、午前2時になると花嫁姿の幽霊が出るという噂が取り上げられます。著者は幽霊屋敷の問題を考える上で「シックハウス症候群」に注目し、次のように述べます。
「シックハウス症候群が、日本で話題になったのは、1990年代になってからのことである。だが、その名が広く知られるようになったのは、近年のことであろう。不定愁訴というのも、変な言葉だが、要するになんだかわからないけれども気分が悪くなるという、漠然とした不快感を、もともとそう呼んでいた」



続けて、著者は「不定愁訴」の具体例について以下のように紹介します。
「たとえば、新築の家に住むようになった家族が、なんだか不仲になったという話がある。母親は、頭痛がすると言ってはイライラし、父親はそれを見てうんざりする。
『この家には何かいるよ・・・・・・変だよ・・・・・・』
と言って娘は涙をポロポロこぼし、しだいに家庭が崩壊していく。
父親には感じないものを、妻子は感じているように思える。
そこへ霊能者が来て、『ものすごい霊気じゃ』と言い、やはり頭痛を訴える。昔ならここで除霊の儀式ということになるのだが、その程度の霊のしわざなら、いまやすべてが不愁訴の4文字でかたづけられるようになった。父親が症状を訴えないのは、女性に比べて霊感が弱いからではなくて、家にいる時間が少ないからである」



また「家具の正体」として、アンティークの椅子が買ったときとは異なる形に変容する話が紹介されています。椅子の背もたれが太くなり、椅子全体のバランスが崩れていく。そして、椅子の中からは無気味な音がする。このような怪奇現象について、著者は相談者と以下のような会話を交わします。
「椅子が太る・・・・・・。なぜそんな現象が?」
「虫です。虫の卵が木の中に入りこんでいることがあって、そのまま家具が組み立てられてしまうこともあるそうです。卵の殻が中身を保護して、防腐剤にも負けないんですね。それで、周辺の防腐剤の作用がなくなったときに、タイミングよく孵化する」
「すごい話だね」
「虫は、木の中で成虫になるまで過ごし、やがて内側から木を叩く。外に出ようとして。これは、実際にあったことなんですよ」




第二章「怪奇探偵、幽霊伝説を追う」の「東京タワーの下には女の死体が埋まっている?」では、著者は「乱舞する都市伝説」として、東京タワーの怪談について以下のように述べます。
「東京タワーにまつわる怪談めいた噂は、ずいぶん息長く語り継がれてきた。いわく、東京タワーはよく見ると傾いている。またいわく、蝋人形館に幽霊が出る・・・・・・。さらに、東京タワーは台風に弱い、という噂もかつては流布していた。風速70メートルでタワーは曲がり、90メートルで折れる。そんな噂が、昭和40年代には、それなりのリアリティをもって語られていた。世間もそれを信じていた節がある」



東京タワーの怪談に関しては、著者は「最新の建築技術が生んだ怪談」として、以下のように述べています。
「東京タワーの敷地は、創立者の前田久吉が、土地の所有者である『増上寺』から買収したものだった。戦後の荒廃した世の中にあっては、悪質な土地ブローカーや詐欺師の横行が悩みの種で、前田の苦労は並大抵ではなかったという。最終的に土地の買収がうまくいったのは、増上寺の檀家総代に前田と親しい政財界の有力者がいたからだったが、東京タワーの工事は、末端の関係者までの十分な理解を得られないまま始められた」



続けて、著者は東京タワーの工事秘話を紹介します。
「もっとも、どんなプロジェクトでも、すべての人々に100パーセントの理解などが得られるものではない。どこかで妥協案を模索するしかなく、現に『心光院』の住職は、タワーの建設に必要以上の抵抗はしなかった。が、注目されるのは、最後までこのプロジェクトに反対だった檀家の一部が、怪談を立ち上げるという形で、その意思を表明したことである。工事現場のロープを伝って、人魂が鉄塔を這い上り、泣きながら墓場に戻ってくる・・・・・・。工事が始まってからすぐに、そんな噂が広まった。これが東京タワーの怪談のルーツである」



著者は、「首を吊った女の死体までが・・・・・・」として、東京タワーの怪談について以下のように述べます。
「実は、東京タワーの下には、ある女の死体が埋められているという噂が、やはりタワー建設当時に流布していたというのである。その女は、明治時代に地元の料亭に勤めていたという。時の政府高官に凌辱されたのを苦にして首つり自殺した女。明治の地元の料亭で、政府高官が出入りしていたと言えば、『紅葉館』が思い浮かぶ。つまりこれは、東京タワーの噂というより、明治時代に『紅葉館』で自殺した女の死体が、ひそかに敷地内に埋められたという秘話の趣がある。この“お竹如来”の縁起というのは、そもそも江戸時代末期に爆発的なブームとなった一種の都市伝説である。江戸の大伝馬町に住む佐久間という家に奉公していたお竹という下女が、ある日、突然身体から光明を放ったかと思うと、大日如来と化した」



続けて、著者はこの奇跡について以下のように述べています。
「なぜそのような奇跡が起きたかというと、お竹は日ごろからよく働く一方で、自分の食事を貧しい者たちや犬猫などに与え、自らは残飯の残りカスを食べて、つつましく過ごしていたからだという。その功徳によって、ついに生きながら大日如来になったというのである。このお竹の奇跡は、事実あったこととして伝わり、江戸中の人々を驚愕させた。そして、“お竹ブーム”に火がついた。その熱狂ぶりは、お竹を描いた当時の浮世絵や芝居などへの取り上げられ方に一目瞭然である。お竹の墓は、北区の『善徳寺』にあり、遺品は『心光院』に保存されている。彼女は実在したのである。信じようと信じまいと」



そして、東京タワー怪談レポートの最後に、著者は述べるのでした。
「一説に、当初東京タワーでは、心光院と組んで“お竹大日如来”を大々的に宣伝し、信仰の面からも集客に努めようという計画があったという。それに反対する勢力が流した噂が、“お竹の死体”の話ではないかという見方もあったらしい。情報戦に怪談が使われるというのは、いまふりかえると、この時代の特徴だったとも言える。東京タワーの怪談を追って、最後に行き着いたのは、江戸の“お竹信仰”と明治の“紅葉館伝説”であった」



第三章「怪奇探偵、身近な不思議を問う」の「幽霊はなぜタクシーの座席を濡らすのか?」では、都市における古典的な怪談ともいえる「幽霊タクシー」についての考察がなされます。著者は以下のように述べます。
「人が死者を思い出すとき、幽霊は実在感を発散する。すると幽霊が車の座席を濡らすのは、『失禁』を例外とするなら、死者が濡れていたことも合わせて思い出された結果であろう。車の座席を濡らす幽霊が、いまもしぶとく現役を続けているのは、海沿いの国道であった。水難の犠牲者が濡れているのは当然だから、幽霊が濡れる理由もとりたてて重視されない。いわば暗黙の了解事項なわけだが、そのヴァリエーションが噂となって、海から遠い都会に伝播したとき、幽霊が濡れる理由がわからなくなった」



「タクシー怪談の戦前と戦後」として、著者は以下のように述べます。
「戦前のタクシー怪談において、車に乗る幽霊が座席を濡らすという話型は、まだ確立していなかった。そこで戦後の早い時期の資料を調べてみると、昭和23年(1948年)8月13日に、別府温泉でタクシーにまつわる幽霊事件が起きている。これは同年8月17日付の『長崎日日新聞』が速報したのだが、内容は円タク時代の怪談と同じである。金は家人に払わせると言って消えた女は、病院で腹部切開手術をした経過が思わしくなく、死亡していた。この幽霊も雨の中をタクシーに乗ったのに、座席を濡らしていない」



続けて、著者はタクシー怪談について以下のように述べます。
「車に乗る幽霊が、あたりまえのように座席を濡らすようになったのは、いったいいつなのか? 松谷みよ子氏は『現代民話考』の中で、死者と水の縁が深いことを踏まえた上で、『もしかして人は、はるかな生まれる前の記憶から、座席はびっしょり濡れていたと語るのではなかろうか』と述べている。しかし、その松谷氏が蒐集した資料を眺めると、やはり戦前の幽霊は濡れていないことがわかる。幽霊が座席を濡らすようになるのは、昭和30年代ごろからだ。そのころの怪談は、幽霊が濡れた理由をきちんと説明するのが常道だった。伊勢湾台風や羽越大水害といった惨事の記憶とともに、座席を濡らす幽霊の話が語られていたのである。そうした話のディテールが、いいかげんになってきて、理由もなく幽霊が濡れるようになったのは、昭和40年代後半ごろからのようである」



著者は、1冊の都市伝説に関する本を取り上げます。
ジャン・ハロルド・ブルンヴァン著『消えるヒッチハイカー』という本です。
アメリカの都市伝説を集めた同書には、幽霊が車に乗った証拠として何か品物を残していくというタイプの話が、すでに戦前には確立してことが紹介されています。著者は、「『消えるヒッチハイカー』という本が明らかにしたのは、アメリカのタクシー怪談において座席が濡れる話というのは主流ではないということだった。これはやはり、かなりの程度、戦後の日本で独自に成立した話型と考えられる」と述べています。



続けて、著者は日本におけるタクシー怪談について述べます。
「私が知るかぎりで言うと、『濡れる幽霊のタクシー怪談』が決定的なリアリティを帯びたのは、昭和29年(1954年)に、青函連絡船『洞爺丸』が海の藻屑と化したときである。『日本版タイタニック』と言われた洞爺丸の悲劇は、昭和29年(1954年)9月26日に起きた。津軽海峡を襲った台風15号の猛威が、1175人の命とともに、青函連絡船を転覆させた大惨事であった。日本の船が沈没して1000人以上の死者を出した例は、戦時中に米軍の攻撃により撃沈させられた学童疎開船『対馬丸』や、日本郵船『阿波丸』などの悲劇があるが、平時としては洞爺丸のケースは空前絶後の海難事故であった。このときに、犠牲者の遺体が多く打ち上げられた函館の七重浜では、車に乗っては座席を濡らす幽霊が頻繁に出現した」



「誰もいない部屋で笑う赤ん坊は幽霊にあやされているのか?」では、「幽霊に手をふる赤ちゃん」として、著者は以下のように述べています。
「赤ん坊が、奇妙なしぐさをする。と言ってもピンと来ないかもしれないが、まるでこの世のものではない何ものかに、あやされているような、そんなしぐさをすることがある。
試しに人をつかまえてはその話をしてみると、
『そういえば、うちの赤ん坊も、確かにそっぽを向いて、驚いたような顔をする。あたかもそこに、何かがいるみたいだと言われれば、そんな感じだね』
と誰もが言う。実際に赤ん坊を見ていると、誰もいない方向をじっと見つめていたり、誰かにくすぐられでもしたかのように、身をよじらせて笑っていることがある」



著者は、幼い頃、多くの子どもがそうであるように、夢の延長線上で生活していたそうです。小学校2年生ぐらいまで、自分の意志によらない何ものかの意志によって、日常生活を送っていたそうです。わけもなく学校の備品を壊したり、人に迷惑がかかるようなことをしてしまうことも多々あったとか。なぜ、小池少年はそんなことをしたのか? 
その理由を、大人になった著者自身が以下のように述べます。
「真相は、夢に出てきた見知らぬ女の子が、学校に行くといるのである。その子は『ククッ』と笑って顔を寄せてきて、『ガラス、割っちゃいな』とささやく。ぼくはその子が好きだったから、命令に従った、などという説明で、教師が納得したとは思われない。
やがて私は、その子の要求を拒否することを覚えた。彼女の顔は醜く変貌し、2度と姿を現さなくなった。女の子が最後に見せた顔が、あまりにも恐ろしくて、私は泣いた。その後に苦痛に耐えて、私はしだいに社会性を獲得していった」

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この著者の思い出は、ちょっとゾッとする話です。
わたしは、オムニバス怪奇映画の名作「世にも怪奇な物語」に登場する手毬を持った死神の少女を連想しました。著者は述べます。
「いつまでも幽霊を見つづけていてはだめなのである。大人になっても霊感が強いようでは見込みがない。だから社会性の獲得を自ずと拒否する天才詩人は、おおむね若くして他界した。天才でもないのに大人になれない人間は、たぶん小説を書こうと企てる。しかしそれにも挫折した場合、他人を恨み、社会を否定し、くだらないメッセージを残して人を殺すはめになる。失うべきものを失わず、得るべきものを得なかった結果、『またしてもこんな異常者がおりました』とだけ犯罪史に記録されることになる。
そういう前提があればこそ、子供だけが幽霊を見ておびえるというタイプの怪談も成り立つ。つまり、私たちがしっかりとした大人であればあるほど、目前にたたずむ幽霊の姿は視界に映らない。しかしそれが確実に目の前にいるならば、これは恐怖であろう」



幽霊とは何か。著者は以下のように述べています。
「いま世の中で一番怖いのは異常者による犯罪だが、幽霊はひところまで“畏れ”の対象ではあった。日本人が古来、幽霊の物語に認めてきた価値というのも、単なる怖さではなかったはずである。簡単に言えば、死者の前では畏まるべきであるという、素朴な倫理観が背景にあった。畏れというのは、恐怖の規範となる要素だが、それがあればこそ、異常者が怖いという即物的な感想とは一線を画する怖いものとして幽霊は存在した」



続けて、著者は幽霊について以下のように述べています。
「その規範が急速に価値を失っていったのが、戦後この方であることは、さまざまな資料が明らかにしている。たとえば、『幽霊より人間が怖い』というフレーズが流行したのは、昭和30年代後半だった。異常者による犯罪にしても、大正時代に社会問題として噴出して以来、昭和初期から戦後にかけて世間の大きな悩みとなった。少年犯罪も同じような経過をたどり、『頭に来た!』という流行語を発しては、わけもなく人を傷つける中学生が増えたという記事が新聞紙面をにぎわせたのも、昭和30年代だった。古くて新しい問題が、解決されずに今日に至った。戦後50数年の間、“恐怖の規範”はひたすら壊れつづけてきたが、平成という時代は、その帰結点にあたっているのだという気がする。つまり、壊れるプロセスはもう終わり、完全に壊れたあとの時代を私たちは過ごしているのだろう。そう思える材料は、世間にいろいろ転がっている」



そして、著者は以下のように述べるのでした。
「ある場所に、殺人事件があった物件がある。アパートの一室で、家賃はひどく安い。何があったにしても、安いなら借りたいという人は常にいるそうで、その部屋もこれまでに、何度も借り手が決まってきた。しかし、入居してもすぐに出ていく。やはり幽霊が出るからではなくて、近所の住人による徹底的な嫌がらせにあうからなのだ。
地元のコミュニティの間で、その物件についてささやかれる噂は、今度あそこに引っ越してくるのはどんな人かしら、ということである。まんまと入居してきた人は、とたんに地元の有名人となる。あんなところに住むのはろくなやつではない、と決めつけて、あの手この手のイジメが始まる。住人は朝起きて窓を開けると、ひまな近所の年寄りが、いつもこちらを見張っているのに気づくことになる。出かけると尾行され、ゴミを出せば中身をあさられる。しょっちゅう警察官が来て、『通報を受けたもので』などと頭をかきながら言う。それも近所の人のしわざである。そんな日々が続くから、やがて迫害に耐えきれなくなり、住人は引っ越すことになる。それが“現代の幽霊屋敷”の姿なのである」



本書が単なる怪談実話の紹介本ではなく、「怪談とは何か」「幽霊とは何か」をじつに知的に考え抜いた好著であることがわかります。そこには常に「科学」の視線があります。でも、著者は科学万能を信じる唯物論者ではありません。死者の想いに心を配り、生者の幸せを願う・・・・・・そんな人間に対する優しさが本書から漂ってきます。
惜しむらくは、本書のタイトルです。『怪奇探偵の実録ファイル2』ではあんまりです。本書良さがタイトルに反映されていません。わたしならば、『幽霊の正体』とか『幽霊を科学する』などが良かったのではないかと思います。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年6月21日 一条真也