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一条真也の新ハートフル・ブログ

2017-03-30

『般若心経は間違い?』

般若心経は間違い? (宝島SUGOI文庫)


一条真也です。
『般若心経は間違い?』アルボムッレ・スマナサーラ著(宝島SUGOI文庫)を読みました。2007年8月に刊行された『般若心経は間違い?』(宝島新書)を改訂し、文庫化したものです。

般若心経は間違い? (宝島社新書)

般若心経は間違い? (宝島社新書)



著者は、いわゆる「上座仏教」として知られるテーラワーダ仏教の日本における代表的人物です。1945年、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニア大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、80年に国費留学生として来日。駒澤大学博士課程で道元の思想を研究。2005年、スリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリア大寺にて日本大サンガ主任長老に任命されました。06年、日本国内三ヶ所に戒壇を設立。現在は、日本テーラワーダ仏教協会の長老として伝道と瞑想指導に従事しています。著書多数。

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本書の帯



本書の帯には、以下のように書かれています。
「『般若心経』はわからなくて当たり前! なぜか?
初期仏教のスマナサーラ長老が解読・解説するブッダの教え」
また、カバー裏には以下のような内容紹介があります。
「日本で一番知られているお経といえば『般若心経』。流行の写経でもまず第一に選ばれるのがこれです。では、この般若心経って、いったいなんなのでしょうか? 初期仏教のテーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が、ブッダの教えをもとに、一行一行、順を追って解読していきます。なぜ難解なのか、どこがおかしいのか。・・・般若心経がここまで裸にされたことは、かつてなかったと斯界を騒然とさせた話題の書」

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本書の帯の裏



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
はじめに「般若心経は難しい?」
第一章 色即是空と空即是色
第二章 呪文と真実語
第三章 生き方を語る仏教
第四章 無我問答
おわりに「まことの般若心経」




はじめに「般若心経は難しい?」の冒頭で、著者は「般若心経」をいろんな人々が解説しているが、どれもイマイチ納得できないと述べます。みなが好き勝手な解釈をして「私の『般若心経』」を語っているといいます。それが日本の「『般若心経』文化」になっているというのです。著者は述べます。
「文化を楽しむのはいいことですが、『般若心経』のことを本当に知りたいと思っている人には困りものですね。じつは『般若心経』は、わからなくて当たり前なのです。それはお釈迦さま、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。『般若心経』をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦さまが涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを、私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦さまが説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです」



著者によれば、このジレンマを解決する方法が一つだけあります。
それは、どのような方法か? 著者は以下のように述べます。
「『般若心経』を読んで、わからないところは、直接、お釈迦さまに聞くことです。お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち『普遍的で客観的な事実』を完全に語りました。ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。完全たる悟りに達していない人々は、たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、言葉という不完全なものを駆使して『完全に語る』ことはありえないのです。正等覚者でない限りは、真理は完全には語れないのです。どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです」



続けて、著者は以下のように述べています。
「このようなわけで、ブッダのあとに作られた大乗経典には、不完全な言葉で表現するというハンディがつきまとっているのです。その不完全な言葉の前でいくら悩んでも答えは出ません。しかし、お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、それまでわからなかった経典の教えもたちどころに理解できるようになります。『般若心経』の作者がお釈迦さまの教えのどこにヒントを得て、どんな真理を教えようとしたのか、明確にわかります。『般若心経』の欠点もわかりにくさも、なるほどと俯瞰できます。そこではじめて、出口のない『「般若心経」文化』の迷路から抜け出て、『般若心経』をきっかけとして、お釈迦さまの説かれた真理へとアクセスするための道のりも描けるのです」
そんな狙いで、著者はブッダの言葉から抽出して本書を書いたとか。



第一章「色即是空と空即是色」では、「経典とは何か」として、著者は以下のように述べています。
テーラワーダ仏教の世界では、文字どおり『ブッダの教え』を経典といいます。お釈迦さまの言行を記録したものが経典です。お釈迦さまの直弟子たちが書いたものも経典といいます。それらは、お釈迦さまが涅槃に入られた直後に、直弟子たる阿羅漢(最高の悟りに達した聖者)の集会で厳密に確認され、教えを変化させないようにと細心の注意を払いながら、守られてきました」



続けて、著者はテーラワーダ仏教について以下のように説明します。
テーラワーダ仏教は、ブッダの入滅後100年くらいから現われた分派(部派仏教)の中でも、常に最も保守的に厳密にお釈迦さまの教えを守ってきたと自負している宗派です。その経典はパーリ(pali 聖典)語という言語で伝承されてきましたが、このパーリ語はお釈迦様が実際に説法されたインドのマガダ国の言語であると伝えられています。ですからパーリ語の経典を口ずさめば、お釈迦さまと同じ言葉を話したことになるのです」



「大乗仏教の三蔵」として、著者は以下のように述べています。
「ブッダの入滅後数百年経ってから徐々に創作された大乗仏教の経典では、『如是我聞(かくのごとく私は聞いた)』という経典の形式を取りながらも、経典製作者が自らの禅定体験や神秘体験などをもとにして、ブッダの名前を使って自由に物語を作り、独自の思想を語ったもののようです。自由にといっても、一応、従来のお釈迦さまの教えに着想を得てアレンジした形をとっています」



続けて、著者は大乗経典について以下のように述べています。
「『大般若経』『法華教』『大乗涅槃経』『維摩経』『無量寿経』、そして本書で取り上げる『般若心経』など、インド各地や中央アジア(一部は中国大陸)で雑多に製作された大乗経典は、従来の三蔵の上に覆いかぶさるように追加されていきました。お釈迦さまは次第に宇宙に遍在する神のような存在となり、その教えも神秘的なものに変質していきました」



また、「般若心経は日本仏教の心臓部」として、著者は述べています。
「日本の仏教は、そのほとんどが大乗仏教に属します。荒海を渡って大量の経典が日本にもたらされましたが、なかでも最もポピュラーな経典が『般若心経』です。『心経』という名前のとおり、日本仏教の心臓部のような存在です。その内容は、大乗仏教が最も重視する『空』思想を解説した長大な経典『大般若経』から要点を抜き出し、前後に文章を付け足して作られたようです。日本の法隆寺には、世界最古のサンスクリット語写本として、『般若心経』が保存されています。歴史的には、最澄さんや空海さん、一休さんや自隠さんといった有名なお坊さんが、こぞって『般若心経』を注釈した本を書いてきました」

慈経 自由訳

慈経 自由訳



すべての日本仏教が「般若心経」を重視しているわけではありません。
宗派によっては『般若心経』に一切触らないという宗派もあります。
たとえば、日蓮系の創価学会や、「南無阿弥陀仏」の称名念仏をもっぱらとする浄土真宗では『般若心経』を使いません。
著者が信仰するテーラワーダ仏教でも「般若心経」は重視されません。
その代りに「慈経」が根本経典として重視されています。「スリランカの般若心経『慈経』」として、著者は以下のように述べます。
「自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として、『慈経(Metta−sutta メッタ・スッタ)』という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦さまが『慈しみ(慈悲)』の実践について説かれたものです」
わたしにも、『慈経 自由訳』(三五館)という著書があります。



ここで著者は大乗仏教の修業について言及し、「菩薩の修業が波羅蜜」として以下のように述べています。
「大乗仏教になると、仏道修行の目的も、それまでの『ブッダの教えを実践して完全に悟る(阿羅漢の悟りを得る)』ことから『菩薩行をして自分がブッダ(正等覚者)になる』という途方もないものに変わってしまいます。ブッダたるお釈迦さまの教えを実践することはダサい小乗(劣った教え)で、自分がブッダになって人々を救うことを目指すのがカッコいいということになってしまったのです。それで大乗仏教の具体的な修行法は『六波羅蜜』として整備されました。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つです」



著者は「般若心経」の内容について、「弟子に守られる師匠」として以下のように述べます。
「『般若心経』は、作品として矛盾だらけでガタガタで、前後がつながっていません。主観を入れない限り、まともな理解が成り立たないので、解説する方々はなんとか理屈をつなげてあげよう、ありがたい経典を助けてあげようとする。だから『般若心経』の本を書く人々は、経典をおのおのの主観でしっかり固めてあげて、『私の「般若心経」』にすることで、『般若心経』を助けてあげているのです。『般若心経』は、そうやって主観という接着剤で固めないと成り立たない経典です。それで現代人の頭である程度論理的にしっかり理解できるようになりますが、原典の内容そのものは理解できていないのです」



第二章「呪文と真実語」として、著者は以下のように述べています。
「『般若心経』は自画自賛して『これこそ無上の呪文である』と宣言するのですが、それならあらゆる呪文と効き目を競争してもらわなくてはなりません。この呪文が勝ち抜いて、ようやく『無上呪』杯の優勝を認定できるのですが、作者はそこまで気にしません。『法華経』と同じですね。他の経典は法華経が王様だと認めていないのですが、自分で勝手に『「法華経」こそが経典の王様だ』と威張るのです」



しかし、著者は「宗教は呪文願望を支えてはならない」として述べます。
「宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。これは仏教に限った話でなくて、宗教一般の基準です。『裏道を通って楽々と最高の結果を出してやろう』というのは明らかに不公平でしょう。呪文の力で誰かが合格して、必死に努力して勉強した人がそのおかげで落第するとしたら、あまりにも不公平です。宗教家ならば、『試験に合格したければ勉強しなさい』と言うべきなのです」



また、著者は「お釈迦さまを元気づけた『呪文』」として述べています。
「インド文化では、『呪文でなんでも希望がかなうんだそ』というところまでは持っていったのですが、さすがに『呪文で悟りに達するぞ』とまでは言わなかったのです。インド人はヒンドゥー教で、『梵我一如』を究極としていますが、『呪文を唱えて梵我一如できるぞ』と、そこまでは言わなかったのです。『希望をかなえるくらいはできますよ』と、そこで上限をつけていたのですが、『般若心経』やらチベット密教の経典になると、悟りまで呪文で達成してしまう。呪文をあまりに過大に評価し過ぎなのです」



さらに「『般若心経』の作者も真剣ではなかった?」として、著者は以下のように述べています。
「おそらく『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師、祈祷師のような人が書いたのでしょう。知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈禱師程度だと思います。呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き写されて書き写されて、残っただけのことなのです」



さらには「中身の勉強は不要」として、著者は述べます。
「『般若心経』は、仏典ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。『般若心経』は大乗仏教の空思想とは関係がありません。龍樹が確立した空思想は大乗仏教の大事な教えで、それは別のところでそれなりに頑張って成立させています」



そして、著者は「理論、実践、向上への躾が必要」として述べます。
「ブッダのパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には『これが真理です』という理論、メッセージがないのです。『このようにしなさい』という実践論もありません。『私たちは確実に、人間として成長しなくてはいけないのだ』という向上への躾も欠けています。それは先に紹介した『慈経 Metta−sutta』と比べれば歴然としているでしょう?
『向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない』これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。ブッダの生の教えなら、たとえ4行であっても、『頑張りなさいよ』というひと言が、成長するための方法が、必ず入っているのです」



第三章「生き方を語る仏教」では、著者は「空ではなく無常を語れ」として以下のように述べています。
「人間は何をやっても結局は死にますよ」というのは事実です。それだけを極論にして1つの哲学体系を作ったとしましょう。『何をやったって結局死にますから』と極論に浸ってしまうと、『何もやらなくていい』という結論になるでしょう。そういう方向に持っていけます。『勉強しなくたって、仕事しなくたって、どうせ死にますから』と。もしお母さんが病気で倒れて看病しなければならない状況でも、『どうせ死ぬんだからいいや。意味がない。今は風邪で倒れているけど、いつか死ぬからまぁいいや』ということになってしまう。そうしている間に、風邪をこじらせたお母さんが肺炎になって死んでしまうかもしれません。道徳が木っ端微塵になってしまっているのです。そのように、事実であっても、『どの程度で言うのか』という実践的なアプローチがあります。それは一般人には語れないのです。ブッダ以外には無理です」



第四章「無我問答」では、著者は「修行者の心の振動はトップレベル」として以下のように「心」について述べています。
「『心』は巨大なエネルギーです。「生きている」ということは、心の仕事で、それはすごいエネルギーなのですね。『足を上げる』というだけのことにしても、意思がなければできません。体温を保つのも、食事するのも、会社に行くのも、あれやこれやと考えるのも、全部『心』がやっているのです。それはすごいエネルギーです。みんな自動的にやってしまっていますが、実際には『この指を持ち上げるぞ』という意思がなければ、指1本動かせないのです。私たちを支配しているのは、心なのです」



そして、著者は「阿羅漢には『自分』がない」として述べるのでした。
「悟りを目指す本来の仏教を『衆生の救済を目指さない教えだ。自分の悟りにしか関心がない教えだ』と批判する向きもありますが、それは誤解の極みです。悟った人には、欲も怒りも無知もありません。『自分のために』の『自分』がありません。無我なのです。だからこそ、衆生に限りない慈しみを注ぐことができるのです」
この一文は、テーラワーダ仏教のプレゼンテーションとして読めますね。



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2017年3月30日 一条真也

2017-03-29

『般若心経の科学』  

般若心経の科学 改訂版?276文字に秘められた宇宙と人間の本質 (祥伝社黄金文庫)


一条真也です。
『般若心経の科学[改訂版]』天外伺朗著(祥伝社黄金文庫)を読みました。
「276文字に秘められた宇宙と人間の本質」というサブタイトルがついています。1997年7月に刊行されたノン・ブック新書判『般若心経の科学〜「276文字」の中に、「21世紀の科学」を見た』(祥伝社)を著者が全面的に加筆修正して、文庫化したものです。



著者の本名は土井利忠で、工学博士。1964年、東京工業大学電子工学科卒業後、ソニーに42年間勤務。CD、ワークステーション「NEWS」、犬型ロボット「AIBO」などの開発を主導、上席常務を経てソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所(株)所長兼社長などを歴任しました。97年、マハーサマディ研究会(現ホロトロピック・ネットワーク)を主宰、医療改革や教育改革に携わり、瞑想や断食を指導しています。
2012年11月初旬に開催された「ダライ・ラマ法王と科学者の対話」のレセプション・パーティーで、わたしは著者と初めてお会いしました。その場には、「サムシング・グレート」で知られる村上和雄先生、「勇気の人」こと矢作直樹先生もおられました。

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本書の帯



本書の帯には以下のように書かれています。
「『空』とは何か? 『苦』から逃れる術はあるのか?最先端科学で読み解いた『仏教』『悟り』の奥義。」
また、表紙前そでには「『般若心経』を最新科学で分析すると・・・」として、以下のような内容紹介があります。
●――「二元論」を見直す時が来た
●――「無我」の境地を日常生活で保てるか?
●―― 「色即是空」を明確に説明する「ホログラフィー宇宙モデル」
●―― 「量子力学」科学者たちは、「東洋哲学」にのめり込んだ
●―― 宗教も量子力学も深層心理学も、同じ結論にたどり着く
●―― 複雑で膨大な「カルマの法則」
●―― 「死の恐怖」からの解放
●―― 「悟りを開く」とはどういうことか?
●―― 緊急時の瞑想法

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本書のカバー裏



カバー裏には、「般若心経とは・・・」として、以下のように書かれています。
「●―― 全文276文字、もっとも短い仏教の経典。大乗仏典の『空』『般若思想』を説いている。原典は、西暦2〜3世紀にインドで成立、作者不詳。漢訳は7種あるが、日本では主に玄奘(三蔵法師)訳が用いられている。宗派を問わず、広く愛読され、写経もさかん」



本書の「目次」は、以下のような構成になっています。
「まえがき」
『般若心経』全文
『般若心経』天外伺朗による意訳
1章 「呪」――「呪文」は効くのか?
2章 「観自在菩薩」――あなたの心の中にも観音様は眠っている
3章 「度一切苦厄」――すべての「苦」が消え去る時
4章 「色即是空」――「空」の概念と「あの世」の科学
5章 「不生不滅」――あなたは、今、「あの世」でも生きている
6章 「無眼耳鼻舌身意」――ないないづくしをどう読むか?
7章 「究竟涅槃」――人生は、胎内から出て宇宙に帰る旅路
8章  般若心経瞑想法
「むすび」
「参考文献」



「まえがき」の冒頭を、著者は以下のように書き出しています。
「高名な物理学者であるボームが提唱した『ホログラフィー宇宙モデル』と、深層心理学を切り開いたユングが提唱した『集合的無意識』の仮説が奇妙に一致し、それが仏教の説く『空』の概念そのものを表わしているのではないか、という骨子はそのまま踏襲しています」



1章「呪」では、「般若心経」の最後の言葉である「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい・ぎゃてい・はらぎゃてい・はらそうぎゃてい・ぼうじそわか)」について、著者は以下のように述べています。
「『般若心経』の、『ぎゃてい・ぎゃてい・・・・・・』というのは、『マントラ』です。ということは、『意味』にではなく、『音』じたいに力があると信じられているということなのです。これが、『呪文の効用』です。
日本には、古来より『言霊』という思想があります。『音』には、ある種の生命が宿っており、発声することによってその生命が生み出され、その生命固有の作用を周囲に及ぼす、という考え方です」



「さまざまな宗教で共有するマントラ」として、著者は述べます。
「キリスト教の『アーメン』というのは、とても不思議な『マントラ』です。
じつは、世界中のありとあらゆる宗教で使われています。
『オウム真理教』のせいで、ずいぶんイメージが悪くなってしまいましたが、仏教やヒンドゥー教では、『オーム』を聖音と呼んでいます。無から有を生じる時の宇宙の原初音とされており、瞑想に熟達すると、聞こえてくるのだと言います」
また、著者は以下のようにも書いています。
「古神道では『天』と書いて『アメ』と読ませます。天神の御座所を意味します。はるか昔のエジプトでは、『アーメン』というのは神の名ですし、イスラム教でマホメットのことを『アーミン』と呼ぶこともあるそうです」



2章「観自在菩薩」では、「仏教は、一種の“無神教”」として述べています。
「如来は、サンスクリット語ではタターガタと言い、『最高の完全』という意味です。菩薩は、『悟り』にいたるさまざまな修行の内容を表わす、と言われています。もともとは、サンスクリット語のボディサットヴァ、が漢語で『菩提薩埵』になり、それが略されたものです。ボディというのは『悟り』、サットヴァというのは『勇者』といったような意味であり、『悟り』に向かって勇気を持って精進している人、という意味です。そこから、精進の中身とか、修行者とか、衆生の救済者とか、いろいろな解釈に分かれました。
大乗仏教というのは一般大衆に深遠な仏教哲学をいかに説くか、ということに、たいへん心を砕いていろいろな工夫をしています。したがって、如来や菩薩を擬人化して、誰にでもわかりやすくしたのだと思われます」



「『自分と他人の区別』からの脱却」として、著者は以下のように述べます。
「どこかでピッと線を引いて、物事をふたつに分けることを『二元性』と言います。デカルトの説いた『物質と精神』だけでなく、『男と女』『身体と精神』『自分と他人』『生物と無生物』『善と悪』『正と誤』『生と死』など、いくらでもあります」
著者は、これらの考え方を「分別智」であるとします。
一方、著者は以下のように「無分別智」についても述べます。
「自他の区別を抜け出し、すべてが融合しているという世界観にもとづく知恵を、仏教では『無分別智』と呼んでいます。それを、サンスクリット語では『プラジーナ』、西インドで古代に使われていたパーリ語では『パーニャ(panna)』と言います。このパーニャに中国で『般若』という漢字が当てられました。つまり『般若心経』は、無分別智を説いたお経です。この無分別智のことを、本書では、すこしくだけて『あの世の智慧』と呼ぶことにします」



3章「度一切苦厄」では、「生まれることが『最大の苦』!?」として、著者は以下のように述べています。
「じつは、人間は誰しもが、生まれ落ちることで耐えがたいトラウマ(精神的外傷)を負ってしまうのですが、それを心理学では『バース(誕生の)トラウマ(精神的外傷)』と呼んでいます。
母親の心身が健康なら、胎児は子宮の中で羊水に浮かび、ぬくぬくと育っています。ところが、ある日突然陣痛がはじまり、子宮に締めつけられるという恐怖の体験をします。
その後、細い産道を降下するという、長時間の苦痛に耐えなくてはいけません。生まれ落ちると、ようやく苦痛からは解放されますが、それは同時に母親との悲しい別離につながっています」



「『生苦』=バーストラウマ」として、著者は以下のように述べます。
「仏教で、人間の基本的な苦しみのひとつに「生苦」を挙げたのは、このバーストラウマのことでしょう。
旧約聖書に出てくる『エデンの園』という楽園は、子宮を象徴しており、アダムとイヴがそこから追放されたというエピソードは出産を意味する、と心理学は説いています」
また著者は、バーストラウマについて以下のように説明します。
「バーストラウマを最初に発見したのは、フロイトの直弟子のひとり、オットー・ランク(1884〜1939年)です。バーストラウマは、フロイトの『性欲一元説』では説明することができない、人間の無意識の新たな側面を指摘したことになります。そのためランクは、フロイト主流派から集中攻撃を受け、孤軍奮闘、激しい論争になりました。結論的には、ランクがこの論争に勝ち、深層心理学の世界ではバーストラウマがほぼ定説になっています」



4章「色即是空」では、「テレビ放送の電波=『あの世』、テレビ画像=『この世』」として、著者は「『この世』をテレビの画面、『あの世』は空中を飛んでくる電波と考えてみてください」と述べ、さらに以下のように説きます。
「『テレビ画面』と『電磁界』から類推していただきたいことは、『あの世』と『この世』が1対1に対応している、ということです。別の言いかたをすれば、『あの世』がなければ『この世』もない、と言えます。放送局からの電波がなければ、つまり『電磁界』が存在しなければ、画面には何も映りません。『電磁界』と『テレビ画面』は1対1に対応しているのです。これとまったく同じ関係が、『あの世』と『この世』の関係でも成立しているに違いないと私は考えています」



「『あの世』では、すべてのものが一体になっている」として、著者は以下のように述べています。
「仏教では、人間の根本的な性質を『仏性(仏としての本能・仏になる種子)』と呼んでいます。これは、人間の表面的な自我(エゴ)とは正反対の性質であり、むしろ、すべてが溶け合った『あの世』の特質ではないかと、私は考えています。つまり、『あの世』というのは、仏の慈悲に満ち溢れているのではないでしょうか。『すべてが一体で、慈悲に満ちている』、これは観音様そのものですね。だからこそ、修行が進んで、『あの世の見かた』ができるようになり、『妙観察智』に達すると、慈悲が発露されるというわけです」



「『色即是空』を明確に説明する『ホログラフィー宇宙モデル』」として、著者は以下のように述べています。
「『色即是空』ということは、『明在系』=『暗在系』、あるいは『この世』=『あの世』という意味になります。これは、『ホログラフィー宇宙モデル』から考えれば、むしろ当然の結論ですね。『明在系』あるいは『この世』のすべてが、『暗在系』『あの世』に、たたみ込まれているわけですから。
『あの世』を離れて『この世』があるのではなく、『この世』を離れて『あの世』があるわけでもありません。両者は、一体で不可分なのです。このことは、テレビの画面と、電磁波の例でもあきらかです」



著者は、物理学者デヴィッド・ボームの仮説を紹介しながら、以下のように述べます。
「ボームは、『人間の精神も、暗在系にたたみ込まれている』と言っています。つまり、人間の精神活動である『受・想・行・識』も、すべて『空』、つまり『暗在系』=『あの世』にたたみ込まれていることになり、『梵我一如』と同じことになります。われわれの常識では、『自分の精神活動は、自分の脳味噌の中で完結している』ということになっています。自分の想念が『あの世』にたたみ込まれている、などと言うと、わけがわからなくなります。でも、「『あの世』を仮定しないと、“テレパシー”とか“虫の知らせ”とかの問題は説明できません。『ホログラフィー宇宙モデル』というのは、これまでの近代科学では説明ができなかったさまざまな神秘的な現象を、科学的に探求するためのヒントを与えてくれます」



「『あの世』は『空』である」として、著者は以下のように述べます。
「太陽の光は、『白色光』と呼ばれています。つまり、色がないのですね。ところが、虹でおなじみのように、プリズムにこの太陽光を通してやると、あらゆる色が出てきます。
絵の具だと、あらゆる色を混ぜると、黒になり、その黒から元の色を分離することはできません。ところが光の場合には、あらゆる色を混ぜると、色がなくなって白になり、その白からいくらでも元の色を取り出すことができるのです。
『あの世』というのも、この光に似ているのでしょう」



続けて、著者は以下のように述べています。
「量子力学は、真空は莫大なエネルギーを秘めていることをあきらかにしており、『ゼロ・ポイント・エネルギー』と呼ばれています。
1立方センチメートルに含まれるゼロ・ポイント・エネルギーを計算すると、現在知られている宇宙の全物質が持つ総エネルギーより大きくなります」



5章「不生不滅」では、「『無意識』はすべての人が共有している」として、著者は「予知夢」について以下のように述べます。
「『予知夢』の存在は、『無意識』には未来の情報がたたみ込まれていることを示しています。つまり、このことは『無意識』には、過去・現在・未来の時間が区別なくたたみ込まれていることを暗示しているのです。ユングは、早くから“人間の魂は皆つながっているのではないか”という仮説を抱いていました。最初にそれを表明したのは、1916年にパリで行なった講演で、彼はこれを『集合的魂』と呼びました。この『集合的魂』の仮説は、40年の歳月にわたって『無意識』に関する研究を進めるにつれて熟成され、やがて『集合的無意識』という形で集大成されました」
「宗教、量子力学、深層心理学の一致」として以下の式が示されます。



空=暗在系=集合的無意識=あの世



「宇宙全体が、ひとつの生命体である」として、著者は「あの世」の本質について以下のように述べています。
「あらゆる角度から眺めた『あの世』のもっとも基本的な性質は、『たたみ込み』にあるのはあきらかです。私とあなたが溶け合い、すべての人や物質が渾然一体となってたたみ込まれ、すべての人の考えや想念もひとつになり、そして空間や時間もたたみ込まれている。
しかも、すべてが一体になると、ちょうど太陽光が無色になるように、何もなくなって『空』になる。これが、私が縷々述べてきた、『あの世』の要約です」



「『あの世』と『霊界』の違い」として、著者は「霊界というのは『あの世』そのものではないということです。むしろ、『あの世』のごく表面に薄くこびりついている『かさぶた』のようなものにすぎないと考えています。
そして、著者は以下のように霊的真実を語るのでした。
「一般に言われる『魂』というのは、『本当の自分自身』が『個』という下着を着けた仮の姿です。その上から、“服としての肉体”をまとうと、今『この世』で観測される自分自身になるわけです。世の中で言う霊というのは、たとえて言えば、下着1枚でウロウロしているような状態で、まことにお行儀が悪いわけです。では、その下着に相当する『個』を表現するものとは何かと言うと、仏教ではこれを簡単に『カルマ』と呼んでいます。
つまり、『本当の自分自身』が、下着としての『カルマ』を着て、その上に肉体をまとって「この世」に生まれてきたものが人間だ、ということになります」
この著者の「魂」の定義は興味深く、また説得力があると思いました。



*よろしければ、本名ブログ「佐久間庸和の天下布礼日記」もどうぞ。



2017年3月29日 一条真也

2017-03-28

無知の知(ソクラテス)

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一条真也です。
ソクラテスは「哲学の祖」とされる人物です。
そんな彼は、「無知の知」という有名な言葉を後世に遺しています。
ソクラテスは、紀元前469年に、彫刻家ないし石工の父と産婆の母との間に生まれたとされます。アテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。

ソクラテス (岩波新書)

ソクラテス (岩波新書)



ソクラテスは、自分自身の「魂」を大切にすることの必要を説きました。
また、自分自身にとって最も大切なものは何かを問い、毎日、町の人々と哲学的対話を交わしました。それには契機となる出来事がありました。彼にはすでに何人かの弟子がいましたが、その1人であるカイレフォンがデルフォイの神託所に尋ねると、「ソクラテス以上の賢者はいない」というアポロンの託宣を受けたのです。この神託に直面したソクラテスは当惑しました。そして、「いったい、神は何を言おうとしておられるのか。何の謎をかけておられるのか。なぜなら、わたしは自分が知恵のある者ではないことを自覚しているのだから」と自問したのです。



しかし、神はけっして偽りを言うはずがありません。無知なるソクラテスを「最高の賢者」と語るからには、何か深い意味が隠されているに違いないのです。ソクラテスは、この謎を解くことが神から自分に課せられた天職であると理解し、思い悩んだ末に、世に賢明のほまれ高い人々を歴訪することを決心しました。彼らから賢さを学ぶことによって、謎の神託の意味を解こうとしたわけですが、この対話活動こそ彼の哲学の出発点となりました。また同時に、彼が死罪となる運命の第一歩だったのです。



すでに年配だったソクラテスは、アテナイの町角や体操場で美しい青少年や町の有力者たちを相手に、「人を幸福にするものは何か」「善いものは何か」「勇気とは何か」などと問いただしました。これをソクラテスの「問答法(ディアレクティケー)」といいます。これらの問答のテーマの多くは実践に関するものでしたが、最後はいつも「まだ、それはわからない」という無知の告白を問答者同士が互いに認め合うことによって終わりました。



多くの青年はソクラテスの問答に魅了されて、20歳のプラトンのように彼の弟子になりました。しかし、その他の青年は次のように思って憤慨しました。つまり、ソクラテスは「まだ、それはわからない」と言いながらも、実は自分では知っているかのような印象を与える。これを「ソクラテスのイロニー」といいますが、そこで自分たちの無知を露呈された人々は、ソクラテスのやり口の陰険さを怒ったのです。



しかし、ソクラテスの真意は、各人が自己の存在がそれによって意味づけられている究極の根拠についての無知を悟り、これを尋ねることが何よりも大切なことと知るように促すことにありました。もとよりソクラテスがこの根拠を知るということではなく、むしろ、究極の根拠についての無知を悟ることにありました。いわゆる「無知の知」です。
対話活動の結果、ソクラテスが発見したことは何でしょうか。それは、賢いと思われている人々は本当は少しも賢くないということでした。
すなわち、「人間の知恵など無に等しい」ということ、「ソクラテスのように自分の無知を自覚することが人間の賢さである」ということが、アポロンからのメッセージだったのです。



ソクラテスのめざすところは、「無知の知」への問いかけを通じてこの「行き詰まり(アポリア)」の内にとどまるところにありました。それがソクラテスの哲学でした。それは根元から問いかけられるものとしての場に自分を置くことであり、このような方法で自分が全体として根源から照らされることだったのです。なお、今回のソクラテスの名言は『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)にも登場します。

世界をつくった八大聖人 人類の教師たちのメッセージ (PHP新書 520)

世界をつくった八大聖人 人類の教師たちのメッセージ (PHP新書 520)



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2017年3月28日 一条真也

2017-03-27

『儀式論』に反響続々!

一条真也です。
ブログ『儀式論』で紹介した本がおかげさまで好評です。
「儀式とはなにか」を突き詰めた書であり、「人間が人間であるために儀式はある」と訴えました。多くの冠婚葬祭会社、神社、寺院、さらには全国の図書館にもご購入いただきました。心より感謝しております。

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稲葉俊郎氏のブログより



また、さまざまな方々のブログやツイッタ―、フェイスブックなどでも同書を紹介して下さっています。感謝の気持ちでいっぱいです!
未来医師イナバ」こと東大病院の稲葉俊郎先生も、ブログ「未来医師HP開設」で紹介した「TOSHIRO INABA」内のブログに「一条真也『儀式論』」という記事を書いて下さいました。NHK「SWITCHインタビュー達人達」にも出演されて超多忙な身なのに、本当にありがとうございます!



稀代の読書家として定評のある稲葉先生は、ブログの冒頭で「600ページもある大著で、簡単に感想を書くことを拒むような高峰だったので、結局3回読みなおした」として、以下のように書かれています。
「『儀式』というものが、これほど広範に捉えられるのかと、驚いた。現代は、情報革命と多様化の波の中で、『儀式』の意義がよくわからなくなっている時代だ。ただ、『儀式』という形は時を超えて残っている。だからこそ、こうした本が、儀式や儀礼の現代的な意義につき、改めて考え直す重要なきっかけになる。現代では『儀式』や『神話』は悪い意味で使われることが多いことが、そのことを示唆している。確かに、形だけを踏襲して、本質からずれてしまった『儀式』はむしろ有害なものもあるだろう。人を縛り不自由にすることだけを目的として作用するならば。
『儀式』の本質を取り戻すため、あらゆる角度から論じているのが本書である。文化人類学や宗教学など、膨大な参考文献から構成されていて、本を何十冊も読むくらいの勉強になった。古典的名著でタイトルだけは知っていても読んだことがない本が多い。だから3回くらいは読まないと、自分の土壌に染み込んで感想を書くまで理解できていなかったから、なかなか感想を書きだせないでいた。一条さんの博覧強記の読書と、その本質を的確につかんだ原文からの引用が、理解を深いものにしてくれる」

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稲葉俊郎氏のブログより



それから、稲葉先生はブログ『宗教生活の原初形態』ブログ『儀礼文化序説』ブログ『言語としての儀礼』ブログ『芸術学事始め』ブログ『日本の祭』ブログ『コンプレックス』で紹介した参考文献を次々に取り上げ、その核心となる文章を引用して、自身の感想を述べられています。その中で、わたしが感動したのは、日本民俗学の創始者である柳田國男の『日本の祭』の初版本が稲葉先生の自宅のソファーの上に置かれている写真でした。
なんと、その本には「弘文堂」の文字とマークがあるではないですか! 
名著『日本の祭』と拙著『儀式論』が同じ版元だったとは感動です!

コンプレックス (岩波新書)

コンプレックス (岩波新書)



また、河合隼雄の『コンプレックス』を取り上げたことに反応して下さったのも嬉しかったです。じつは、想定内ではありましたが・・・・・・稲葉先生も指摘しているように、日本を代表する心理学者であった河合隼雄が人間のエネルギーを「水」に喩え、その「水」の流れとして儀式の本質を考えることは卓見です。それは、人間内部のエネルギーのことを述べながら、同時に自然や神という無尽蔵のエネルギーとの交流の事も示唆しているのです。



また、稲葉先生は以下のようにも書かれています。
「現代が、多くの儀式が失われ、だからこそ儀式の本質が重要になっている時代だとすると、それは『体験に導き、同時に体験から身を守るもの』としての現代の儀式のあり方が求められている時代なのだろう。そういう意味では面白い時代でもある。一条真也さんは実践家として第一線のトップランナーで実践されている偉大な方でもある。現代ならではの儀式の創造、というと難しく聞こえるが、それは儀式の本質を再発見し続けことでもある。発見は、過去の連綿としたつながりを尊重し、その流れをつかまえることでしか発見できないものだと思う。温故知新というように、古典を尋ねることは、死者に敬意を持ち、死者の知識や経験を生者が受け取ることでもある。ただ単に新しい儀式を仕掛けることが大事なのではなく、一条さんがこの本で問いかけているように、人間や生命や生死の本質に触れながら、現代なりの儀式や儀礼を再発見して行くことが大事なのだ。死者や歴史への敬意を込めながら。そうした姿勢にはいつも大きく勇気づけられています」



わたしへの過分な評価には恐縮するばかりです。
それは横に置いておくとして、稲葉先生の儀式文化に対する提言はじつに傾聴に値します。わたしを含めて、すべての冠婚葬祭人が肝に銘じておきたいメッセージです。最後に、稲葉先生は以下のように書かれています。
「『儀式論』は600ページという大著で、 2016年11月8日に発売された本です。あまりに重厚で壮大な本だけに、感想を安易に書けず、3回読みなおして、やっとこうして感想を書くことができた。1年くらいかけてじっくり読み込むに耐えうる本だ。読んだ後も、こうして感想を書けた後も、充実感に満たされるすごい本だった。自分もこういう本を一生に一冊でも書ければと、思う。知的好奇心を刺激され、とてもとても刺激を受けた本でした」
これを読んで、わたしは稲葉先生に対して感謝の気持ちでいっぱいになりました。稲葉先生、本当にありがとうございました。

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佐藤修「CWSコモンズにようこそ」より



続いて、「サロンの達人」こと佐藤修さんです。
HP「CWSコモンズにようこそ」の「ブック」コーナーに書いて下さいました。まず、佐藤さんは儀式「軽視の風潮に警鐘を鳴らす 一条真也さんの渾身の書き下ろし」として、以下のように述べられています。
「すぐにも読みだしたかったのですが、600ページというその厚さと時空間の広がりを感じさせる体系的な構成の目次を見て、いささかひるんでしまいました。これは軽い気持ちでは読みだせないなと思いながら、しばらくパソコンの前に置いて眺めるだけにしていましたが、ようやく読む気になって、今月初めから気が向いた時に、章ごとにゆっくりと消化しながら読みだしました。しかし、各章とも内容の密度と広がりに、そう簡単に読み進めません。それにそこに言及されている参考文献も読みたくなってしまうのです」



佐藤さんは、ロバート・ベラー著『心の習慣』の日本版(訳者は島薗進氏!)への序文の文章を以下のように紹介されています。
「本書がモーレス、すなわち『心の習慣』に焦点をあてていることじたい、 儒教の『礼』に照応するものをアメリカ文化のなかに探しだそうとしたものとも言えるかもしれない。『儀礼』の語を広い意味で用いるとすれば、私たちはアメリカ人の生活の儀礼的パターンを描き出そうとしたと言える。心の底に深く根を下ろした個人主義のゆえに、アメリカ人は自分たちは内発的に生きているのであって、儀礼などに支配されてはいないと考えようとする。しかし、事実はそうではない。この点こそ、本書の中心的な主張の一つである」



このベラーの文章を紹介された後で、佐藤さんは以下のように述べます。
「一条さんのメッセージを思い出しました。『心の習慣』の著者のロバート・ベラーは、この本の中で、アメリカ社会の先行きに大きな懸念を表明していますが、その基盤にあるものが、一条さんと通じているのです。
ベラーは、こう書いています。『私たちの活動のすべては他者との関係において、集団や結社や共同体のなかで繰り広げられている。そしてこうした関係や集団や結社や共同体は制度的構造によって秩序づけられ、文化的な意味パターンによって解釈されている』
まさに、儀礼と儀式。一条さんは、儀式と儀礼に関してこう書いています。
『儀礼とは文化を文化たらしめるもの、限りなく「文化」の同義語に近いものと考えることができる。儀式とはそれを具象化するもの、つまり文化の「核」になるものと言っていいだろう』
そして、手紙にこう書いていました。『わたしは、儀式を行うことはすなわち人類の本能であると確信しています。そして、儀式の存在こそが人類の滅亡を防いできたと考えています』同感です。私もそう考えています」



最後に、佐藤さんは以下のように書かれています。
「それにしても、刺激的な本です。一条さんは、儀式に関連したさまざまな分野の文献や事例を踏まえて、人類にとって儀式とは何かの知見を集大成したのです。この儀式エンサイクロペディアとも言うべき本書を通して、読者はさらにさまざまな分野へと知の旅ができるはずです。ですから、私もあまり急がずに、ゆっくりと、寄り道しながら、本書を読み進めようと思います。みなさんも、よかったらぜひお読みください。そして、『儀式』ということについての思いを深めてもらえればうれしいです。たぶん、世界の見え方が少し変わり、生き方も変わってくるはずです。読まないで、机の上に置いて、眺めているだけでも、心が豊かになります。そんな本です」
佐藤さんの書評には大変勇気づけられました。
本当に、ありがとうございました。

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不識庵の面影」より



そして、「一条本」の書評といえば、この人を忘れてはなりません。
「書評の達人」として知られる不識庵さんが、自身のブログ「不識庵の面影」に「『儀式論』その読み方と所感」と題する記事をUPして下さいました。
不識庵さんは冒頭で、「ようやく『儀式論』を読み終えました。しかし、問題は『読みこなせていない』ということに尽きます。正直に告白すれば、著者である一条真也氏の該博な教養の前に呆然と佇む己の未熟さを痛感させられた大書でした」と書かれています。




また、不識庵さんは以下のようにも書かれています。
「日常生活において、感覚的な体験だけでは知り得ないものについて考えることは稀でしょう。 形而上者謂之道 形而下者謂之器
とはいえ、この『儀式論』については、形而下の特質、即ち仕様に言及しておきましょう。四六判の上製本、所謂ハードカバーですが、『ロマンティック・デス』(国書刊行会)や『唯葬論』(三五館)など、これまでにもハードカバーの『一条本』は多数存在しますが、『儀式論』は黒レザー仕様で、背表紙のタイトルと表紙の太陽を表現したシンボリック・マークは金、裏表紙の月を表現したシンボリック・マークには銀で箔押し加工が施されています。
しかも『一条本』初の函入り!
600ページという『儀式論』の威容は『学術書』乃至『事典』のような趣があります。高級感溢れる仕様であり、保存性にも優れた書籍といえます」

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)



さらに、不識庵さんは以下のように書かれています。
「既に80冊を超えた『一条本』の中でも『代表作』と呼ぶに相応しい一冊であることはもとより、『論語』為政第二ノ一の『爲政以徳 譬如北辰居其所 而衆星共之』という一文の如く、儀式の意義を指し示す『徳』さえも薫る名著といえましょう。本書では儀式が『地域や民族や国家や宗教を超えて、あらゆる人類が、あらゆる時代において行ってきた文化』であることを一条氏は繰り返し強調しておられますが、先人たちが守り伝えてきた儀式を廃れないように時代に合わせてアップデートしていく必要性があることも、本書が強く主張するところであります。
しかし、一条氏は『古人の跡』を求めたのではなく、『古人の求めたるところ』を求めたことは一読すれば理解出来ます。すなわち『不易流行』があったればこそ、儀式という文化が時を超えて『いま』に伝わっているのです」



そして、不識庵さんは以下のように述べられるのでした。
「しかし、著者が危惧する昨今の儀式に対する日本人の姿勢は、良識ある方ならば首肯出来る惨状にあります。学者ならば憂いて終わればいいのでしょうが、実業家としての一条氏には『止むに止まれぬ想い』、すなわち使命感から『真理は単純にして美しい』ことは百も承知で、600ページを費やして『儀式が日本を救う』、ひいては『世界に平和をもたらすのは儀式』であることを縷々と書き綴っておられるのです。
いわば『儀式論』とは『救国の書』でもあるのです」

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この神々しい写真を見よ!(「不識庵の面影」より)



この他にも、超弩級の文章が延々と続きます。おそらく日本のネット書評の歴史に残るような凄い書評となっています。写真もどれも素晴らしい!
このたび、多くの冠婚葬祭互助会さんなどが大量購入して下さいましたが、実際に『儀式論』を読み始めてみて、「想像以上に難しい」「なかなか読み進めない」と困惑している方も少なくないのではないでしょうか。そんな方々も、この不識庵さんの「『儀式論』その読み方と所感」を読めば、必ず最後まで読了できるはずです。徳は孤ならず必ず隣あり。不識庵さん、最高の読書ガイドを書いていただき、本当にありがとうございました!



また、ブログ「徳は孤ならず必ず隣あり」で紹介したように、日本を代表する宗教学者の先生方からも続々とコメントが届いています。
まずは、東京大学名誉教授で上智大学グリーフケア研究所所長の島薗進先生から「大著の『儀式論』は宗教学の重要領域に踏み込んでおられ、意義深いご著作ではないかと思います」というメールをいただきました。
また、京都大学名誉教授で上智大学グリーフケア研究所特任教授の鎌田東二先生からは「渾身の力作大著。儀式総決算も総決算。これまで勇猛果敢に実践的儀式論を展開してきた一条真也『儀式理論神学』の確立ですね! すばらしい!すごい!すてき!」というメールをいただきました。

唯葬論

唯葬論



さらには、『儀式論』でご著書から多くの引用をさせていただいた福井大学名誉教授の小林道憲先生からは直筆のお手紙を頂戴し、そこには「素晴らしい名著の読書案内の書にもなっていて、これも一条本のひとつの魅力かと思います。さらに同時に文化人類学的業績にもなっていて、不思議な魅力をもった御著書です。『唯葬論』とともに『儀式論』は今までのお仕事の集大成だと思いました。これで理論武装は完成しましたね」とありました。
そして、わが儒教の師である大阪大学名誉教授の加地伸行先生からは直接お電話を頂戴し、「あなたの本で多くのことを学びました。あなたの活動に心から敬意を表します」と言っていただきました。本当にありがたいお言葉です。先生方に心より感謝申し上げます。

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週刊読書人」2017年1月20日号



各紙に書評も書いていただきました。
まずは、ブログ「『週刊読書人』に『儀式論』の書評が掲載されました」で紹介したように、日本を代表する書評新聞として知られる「週刊読書人」の1月20日号に「京都の美学者」こと秋丸知貴(滋賀医科大学非常勤講師)さんが素晴らしい達意の文章で書評を書いて下さいました。

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神社新報」第3339号



それから、ブログ「『神社新報』に『儀式論』の書評が掲載されました」で紹介したように、神社本庁の機関紙的なメディアである「神社新報」の第3339号に大阪・堀川戎神社の寳來正和禰宜が書評を書いて下さいました。「神社新報」の主な読者は、神社本庁に属している神社や神職です。

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「中外日報」2016年12月9日号



そして、ブログ「『中外日報』に『儀式論』の書評が掲載されました」で紹介したように、京都に本社を置く日本最大の宗教新聞「中外日報」にも書評が掲載されました。同紙は、仏教界の方々がほとんど購読されています。
神社新報」や「中外日報」という神仏両界のオピニオン・ペーパーに取り上げられたことは望外の喜びですが、これも「儀式」というテーマが特定の宗教にとらわれない普遍性のあるテーマだったからと思います。

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儀式論』(弘文堂)のチラシ



わたしは、『儀式論』を何かに取り憑かれたように一気に書き上げました。
わたしの心中には「俺が書かねば誰が書く」という大いなる使命感がありました。不遜を承知で言えば、わたしは、ダーウィンの『種の起源』やマルクスの『資本論』のような人類社会に多大な影響を与える本をイメージしながら、『儀式論』を書き上げました。ドン・キホーテのような心境で書きました。
まだお読みでない方は、ぜひ一読して下さいますよう、お願いいたします。

儀式論

儀式論



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2017年3月27日 一条真也

2017-03-26

「パッセンジャー」

一条真也です。
24日に公開されたSF映画「パッセンジャー」を観ました。
現在のハリウッドで最も旬な2人をダブル主演に迎え、極限状況に置かれた男女の愛と運命を壮大なスケールで描いています。いわば「宇宙版タイタニック」とでも呼ぶべきスペース・スペクタクル・ロマンです。




ヤフー映画の「解説」には以下のように書かれています。
「航行中の宇宙船を舞台に、目的地到着前に目覚めてしまった男女の壮絶な運命を描くSFロマンス。宇宙空間で生き残るすべを模索する男女を、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などのクリス・プラットと『世界にひとつのプレイブック』などのオスカー女優ジェニファー・ローレンスが演じる。『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』などのモルテン・ティルドゥムが監督を務め、『プロメテウス』などのジョン・スペイツが脚本を担当」

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また、ヤフー映画の「あらすじ」には以下のように書かれています。
「近未来、5000人を乗せた豪華宇宙船アヴァロン号が、人々の移住地に向かうべく地球を出発。到着までの120年、冬眠装置で眠る乗客のうちエンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが、予定より90年も早く目覚めてしまう。絶望的な状況を打破しようとする二人は、次第に思いを寄せ合うものの、予期せぬ困難が立ちはだかり・・・・・・」




わたしは宇宙が舞台のSF映画が大好きなので、楽しみにしていました。
パッセンジャー」に登場する宇宙船アヴァロン号の船内設備は、これまでのSF映画に出てくる宇宙船の中でも群を抜いて豪華でした。
宇宙船の中での孤独を描いた映画としては、ブログ「月に囚われた男」で紹介した作品があります。デヴィッド・ボウイの息子であるダンカン・ジョーンズの監督作品です。近未来、地球に必要なエネルギー玄を採掘するために月に派遣されたのは、サムというたった1人の男でした。サムと会社の契約期間は3年で、地球との直接通信は不可能です。孤独なサムの話し相手は、ガーディという1台の人工知能を持ったロボットだけです。サムは3年間の孤独ですが、「パッセンジャー」で人工冬眠から早く目覚めすぎたジムは90年もの時間を宇宙船の中で過ごさなければいけませんでした。

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アヴァロン号の中の2人(ヤフー映画より)



それにしても、アヴァロン号は至れり尽くせりの宇宙船です。
船内には、スポーツジムも、プールも、Wiiを立体化したようなゲームコーナーも、映画鑑賞のためのシアターも、アンドロイドのバーテンダーがいるBARもあります。たしかに自分以外に生身の人間がいないのは非常に寂しいですが、わたしならば、あとこの船に図書館、いや書斎があれば、90年でも退屈しないで過ごせるような気もします。

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小宇宙としての「わが書斎



ブログ「わが書斎」でご紹介したように、寓居の書斎には、わたしがこれまで読んできた、またこれから読もうとしている膨大な書物が収められています。そこはわが精神の巣であって、心の底からリラックスできる場所です。じつは、ときどき、この書斎がミニ宇宙船と化して、遥かな宇宙へと旅立つことを妄想することがあります。飲食をはじめとした生活面の心配さえなければ、毎日、宇宙空間で読書三昧できるというのは、わたしにとって立派な「天国」です。閉鎖された空間での読書ほど楽しいものはありません。

神話作用

神話作用



もともと宇宙船を含む船とは1つの完成された世界です。
ロラン・バルトは、名著『神話作用』で以下のように述べています。
「船舶の趣味は常に、完全に閉じこもること、品物を可能なかぎり多数手もとにおくこと、絶対的に限定された空間を所有することの喜びなのだ。船舶を愛好するのは、きびしく閉じこめられているのだから最上級の家を愛好することであり、あてどもない大旅行を好むことでは全くない。船は交通手段である前に居住の事実である」(篠沢秀夫訳)

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遊びの神話』(東急エージェンシー)


わたしも、拙著『遊びの神話』(東急エージェンシー)の中の「客船」の章に「人間は船を宇宙に変える」として書きました。じつは、かつてアニメの「宇宙戦艦ヤマト」がブームの頃(小学生でしたが)、わたしはヤマトの比ではない超スケールの宇宙船「宇宙大戦艦キング」というのを夢想して、かなり詳しい設計図を書いたことがあります。そして、巨大なわたしのキング号は、図書館はもちろん、美術館、博物館、それに水族館、植物園、動物園まで内蔵していたのです!

海底二万里 (創元SF文庫)

海底二万里 (創元SF文庫)



バルトが『神話作用』で取り上げたSF作家ジュール・ヴェルヌは世界を収縮させ、人間で一杯にし、既知で範囲の定まった人間がその後で快適に居住できるような空間に還元しようと絶えず求めていました。そして彼は『海底二万里』のノーチラス号を描くのです。船こそはヴェルヌにとってのユートピアだったのです。伝説やフィクションに登場する船の大部分は、バルトが言うように「楽しい閉じこもり」が主題でしょう。




ブログ「タイタニック3D」で紹介した映画には巨大な豪華客船が登場します。バルト説にならえば、まさに豪華客船とは閉じこもって遊ぶ場所なのです。タイタニック号の客室やレストランや娯楽室などは、外が海であるがゆえに本来の姿よりもずっとずっと輝く魅力的な空間であったはずです。客船に閉じこもって美味しいものを食べたり、ショーを楽しんだり、のんびり読書をしたりすることが、この上なくリッチな気分を与えてくれる秘密はここにあります。そして、タイタニック号の延長戦上に宇宙船アヴァロン号があることは明白です。




宇宙船アヴァロン号は「楽しい閉じこもり」の場所でしたが、ジムはやはり孤独に耐えきれませんでした。そして、オーロラという女性と出会います。オーロラが目覚め、その後、彼女が自分の目覚めた本当の原因を知って苦悩する場面は、ホラー映画の古典的名作である「フランケンシュタインの花嫁」を連想させました。あの映画でも、フランケンシュタインの怪物はこの世に自分1人だけという孤独に耐えきれなかったのでした。




閉鎖された空間に男女が2人だけでいるという状況は、官能映画の名作として知られる「流されて・・・」を連想させます。しかし、「パッセンジャー」のジムとオーロラはもっと上品でソフィスティケイトされた関係でしたが・・・・・・。2人は恋に落ちますが、悪い言い方をすれば、「猿山のサル」であり、「籠の中のつがいの鳥」といった見方もできます。




ただ、思うのですが、「籠の中のつがいの鳥」というのも1つの「縁」ではないでしょうか。アダムとイブは、つがいの人間です。ノアの方舟には、あらゆる種類のつがいの動物が乗船しました。わたしは、恋愛や見合いに限らず、男女の出会いというのはすべては「縁」のたまものと思っています。
わたしの好きなお笑い芸人のブルゾンちえみに「35億」というネタがあります。別れた元カレのことが忘れられないダメ・ウーマンに対して、デキるキャリア・ウーマンであるブルゾンちえみが「この地球上に男が何人いると思ってるの?」と質問した後で、「35億!」とブチかますギャグです。

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すべての男女の出会いは「縁」である(ヤフー映画より)



たしかに、わたしたちは35億人とまではいかなくとも、無数に近い相手の中から恋愛や結婚の対象と選んでいるわけで、まさに「浜の真砂」と言えるでしょう。ちなみに、ブルゾンちえみ以外で気に入っているお笑い芸人は、アキラ100%です。オーロラが目覚める前のジムは、アヴァロン号の船内でアキラ100%のように全裸で歩き回っていました。

結魂論―なぜ人は結婚するのか

結魂論―なぜ人は結婚するのか



拙著『結魂論』(成甲書房)でも紹介したように、かつて古代ギリシャの哲学者プラトンは、元来が1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだという「人間球体説」を唱えました。元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情です。

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「人間球体説」を連想しました(ヤフー映画より)




パッセンジャー」のジムとオーロラは1個の球体に戻ったように思います。映画の終わりのほうで「眠れる森の美女」であるオーロラが物語とは逆にキスによって男性を目覚めさせるシーンが出てきますが、洒落ていました。それにしても、オーロラにような美女と2人きりで長い時間を共に過ごせるなんて、ジムはなんという幸せな男でしょうか! うらやましいぞ!

人生の修め方

人生の修め方



パッセンジャー」は、「縁」もそうですが、「運命」や「使命」というものについても考えさせてくれます。そして、何よりも「生」と「死」について考えさせてくれます。ジムとオーロラの人生には90年という時間が待っていましたが、人は誰でも限られた時間を生きています。その時間をどのように修めるか。そう、「人生の修め方」とは「時間の修め方」のことなのです。
もうすぐ『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)を上梓するわたしは、この秀逸なSF映画を観ながら、そんなことを考えました。



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2017年3月26日 一条真也