『観光都市 江戸の誕生』

一条真也です。

東京に来ています。
定宿のホテルが中国人客で満室になっています。
秋葉原に行ってきたのか、みんな石丸電器やラオックスの紙袋を持っています。
改めて、東京は世界中の人々がやって来る巨大観光都市であると思いました。
ということで、『観光都市 江戸の誕生』安藤優一郎著(新潮新書)を読みました。


                  見どころいっぱい八百八町


著者は江戸・都市史研究家ですが、1965年生まれで早稲田大学の出身とのこと。
ということは、63年生まれのわたしと同時期に早稲田のキャンパスで擦れ違っていた可能性もあります。ブログ「ホームカミングデー」で同窓生との「学縁」を強く感じて以来、著者が早大出身と知ると、なんだか親近感が湧きます。
さて、本書のカバー折り返しには、次のように書かれています。
「従来、観光地としてイメージされることがあまりなかった江戸。100万前後の人口を抱え、参勤交代などで絶えず住人が入れ替わった江戸は、一大観光都市だった。将軍吉宗は都市化に伴って減少した憩いの場を江戸市民に提供した。寺社は霊験よりも見世物で参拝客争奪戦を繰り広げ、大名はお国自慢の神仏を江戸屋敷に勧請し賽銭を集め、苦しい財政の足しにした。歌舞伎や落語、時代小説だけではわからない、大江戸観光事情をあきらかにする」



本書の「目次」は、以下のようになっています。
「プロローグ」
第一章:日記が語る遊山の楽しみ
第二章:よりどりみどりの八百八町
第三章:ご開帳の集客力
第四章:成田ブランドを確立した戦略
第五章:武士たちの新規参入
「エピローグ」



「プロローグ」の冒頭には、次のような言葉が登場します。
「泰平の世として知られる江戸時代は、観光旅行が庶民にも身近になった最初の時代である。お伊勢参りなどは、年間で100万人前後にも及んだと推定されている。元禄3(1690)年から2年間、長崎出島のオランダ商館に滞在し、江戸も2度訪れたことがあるドイツ人医師ケンペルも、日本人が非常によく旅行していることに、たいへん驚いている」(『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫、1977年)。



人口100万人という当時の世界で最大の都市であった江戸には多くの観光名所が存在しました。江戸観光を謳歌した人々に男女の差はなく、芝居見物など、むしろ女性が江戸観光市場を牽引したと言えます。さらに幕末になると、日本人だけでなく欧米人も江戸の観光名所を訪れ、日本文化を堪能しています。
著者は、次のように述べています。
「その舞台は、将軍の住む江戸城。庶民は入れないはずの大名屋敷。神仏のデパート・浅草寺。江戸出開帳のメッカ・回向院。大相撲とも縁の深い深川の富岡八幡宮。江戸総鎮守の神田明神赤穂浪士が眠る泉岳寺。江戸の寺社だけではない。関東地方の初詣の定番・成田山新勝寺、牛に牽かれて善光寺、金毘羅参りの金毘羅社、安産の神様・水天宮など名立たる寺社の数々。そのほか、江戸のウォーターフロント隅田川、桜の名所・飛鳥山。さらに、両国・吉原を筆頭として、各所に広がる盛り場。團十郎演じる歌舞伎の舞台も、江戸観光の大舞台であった。
そこで人々は、水と緑あふれる自然景観に心を癒され、霊験あらたかな神仏を拝んで信仰心が満たされた。さらにはキテレツな見世物、曲芸、講談、芝居など、あらゆる芸能を楽しむことができた。グルメやショッピングも楽しめた。華やかな江戸文化に出会える、日本で最もトレンディな場所であった」



しかし、華やかな江戸観光名所の裏では、多くの観光客を集めるために、現代のマーケティングも顔負けの営業戦略が存在しました。まさに、そこでは江戸の観光戦略が熾烈に展開されていたのです。著者は次のように述べます。
「相乗効果に期待した便乗商法も花盛りであり、大名までもが、柳の下のドジョウを狙って、江戸観光市場に新規参入している。将軍吉宗も、新たな観光地を江戸に造り出し、トップセールスに乗り出している。派手なパフォーマンス、あるいは出版メディアや歌舞伎の舞台など、様々な宣伝広告媒体を駆使した活発なプロモーション活動が展開されていた。現在日本各地で展開されている観光地のサバイバル合戦とは、すでに江戸で展開されていたものに他ならなかった。観光という切り口で100万都市江戸を眺めることで、これまで知られていなかった江戸の世界に触れることができる。観光都市江戸が誕生し、大きく成長していく秘密も見えてくるだろう」



バラエティ豊かな江戸の観光施設の中でも、とりわけ強い集客力を誇ったのが宗教施設でした。「江戸名所図会」には江戸の名所が1043項目取り上げられていますが、そのうち、寺・神社・祠・堂などの宗教施設だけで、その半数以上を占めたそうです。著者は、次のように述べています。
「寺院、神社から鎮守、稲荷、祠に至るまで、江戸には数多くの宗教施設があった。現在のように無数の娯楽が氾濫している時代とは違い、娯楽が限られていたこの時代、宗教施設への参詣とは、江戸市民にとって信仰心を満たすことはもちろん、余暇を楽しみ、癒しも得られる機会であった。自然景観だけでなく宗教施設も、観光客に気晴らしをもたらしていた」



宗教施設の人気は、信仰心というよりも、日本人特有の「ご利益」を求める心によるところが大きかったようです。寺社の側でも、ご利益の範囲を広げたほうが参拝者の増加が期待できるので、両者の微妙な利害関係は一致していました。
そして、ご利益を求める人々は、いわゆる「札所めぐり」に向かっていきました。
「札所めぐり」について、著者は次のように述べています。
「江戸の寺社をめぐっていく札所めぐりも、江戸市民にたいへん人気のあったレクリエーションである。江戸中期には、御府内88ヶ所、山の手33ヶ所、江戸6地蔵をはじめ、江戸市中の寺社を様々なパターンでまわる札所めぐりが生まれていたという。江戸後期に入っても、御府内21ヶ所、山の手6阿弥陀仏、荒川辺88ヶ所など、新たな札所めぐりが次々と生まれ、札所めぐりは江戸市民のなかに広く定着していった。その裏には、何とか参詣客を増やしたい寺社側の戦略も当然あったことだろう。様々な江戸札所めぐりも、江戸観光市場を活性化させるツールなのであった」



そして、江戸の宗教観光の頂点に位置するのが、浅草寺でした。
その当時の様子を、著者は次のように書いています。
浅草寺の本尊は観音だが、神仏のデパートとも称されるように、名高い神仏の数々が境内に数多く祀られていた。そのため、観音だけでなく、弁天・薬師・稲荷・八幡・阿弥陀・不動などの神仏を信仰する人々も多数参詣した。そして当然のごとく、浅草寺境内には、多数の参詣人を相手とする茶屋・楊枝見世などが、江戸後期には300軒近く立ち並んでいた。一般的に盛り場には、水茶屋・菜飯茶屋などの飲食店、楊枝や小間物を売る店、楊弓などの遊び場、芝居小屋や見世物小屋までも立ち並ぶ場合もあった」



そして、江戸では「ご開帳」が頻繁に行われました。
「ご開帳」とは何か。通常は「秘仏」として参拝を許可しない仏像を、一定期間のみ、その帳を開いて信者に公開する宗教行事です。現在でも広く行われています。
もともとは霊験あらたかな秘仏と縁を結ぶための純粋な宗教行事でしたが、次第に、神仏や霊宝などを開帳する際に信者から奉納される金品や賽銭を目当てに行われる行事に変わっていきました。そして、京都をはじめとした全国の有名寺社は江戸での出開帳を行うようになったのです。場所としては、回向院を中心に、本所・深川・浅草エリアの寺社が人気があり、それらに集中しました。著者は、次のように述べています。
「江戸市民の側から見れば、江戸にいながらにして、全国有名寺社の秘仏や霊宝が拝観できるメリットがあり、それが回向院などの宿寺に出かける大きな動機にもなった。また一方で、秘仏や霊宝だけでなく、物珍しい見世物や新しい催しにも出会える期待感ともなったはずだ。これらの要素が相まって、本所・深川・浅草エリアは、江戸の周遊・広域観光のメッカとしての地位を保ち続けるのである」



ご開帳の集客力は、多くのエンターテインメントを生み出しました。
ご開帳が行われる寺社の境内には、グルメやショッピングはもちろん、弓矢で遊ぶ楊弓見世をはじめ、様々な娯楽を提供する芝居小屋や見世物小屋までありました。
見世物小屋では、豹や象など舶来物の動物(動物見世物)や、「飛んだ霊宝」のような珍奇な細工見世物が、手を替え品を替えて興行されました。また、奇抜さと巧みさを兼ね備えた細工見世物は、江戸の人々にたいへん人気がありました。「飛んだ霊宝」は魚が素材でしたが、貝、瀬戸物、麦藁、ギヤマンなどを素材にしたものもあり、江戸の見世物では、細工見世物が興行の約半数を占めていたそうです。「講釈」と記された小屋で興行された講談も、江戸市民にとって、大変身近な娯楽でした。
特に人気があったのが「三国志」です。関羽像の籠細工が人気を呼んだのも、講釈師を通して、それだけ関羽が江戸市民の間で有名だったこと示しています。
ちなみに、軍書講釈の人気ベスト3は「太平記」「三国志」「源平盛衰記」だったとか。



ご開帳とエンターテインメントとの関係について、著者は次のように述べています。
「開帳場が置かれた境内には、見世物小屋や芝居小屋など集客力のある施設が元々揃っていた。そのため、開帳から収益をあげることが段々難しくなってくると、寺社も背に腹は代えられず、逆に境内の見世物や芝居といったエンターテイメントなものに便乗することで、集客力を維持・強化し、参詣人の確保を目指すようになる。人目を惹く奉納物が開帳場に陳列されたのも、事情は全く同じである。『飛んだ霊宝』のように、開帳に便乗した見世物が興行され大ヒットした事例の逆輸入といったところであろう。その結果、奉納物や見世物は開帳場には不可欠なものとなり、人々の興味と期待も、それに傾斜していった」



また、当時の開帳ブームの実態について、著者は次のように述べています。
「江戸出開帳四天王である善光寺や清涼寺を除く寺社の場合、その開帳が成功するか否かは、開帳神仏の力ではなく、開帳場での見世物、奉納物の評判によって決まる。開帳についての世評は様々であるが、男女・貴賤を問わず、人の心は移ろいやすいもの(浮気)である。ある開帳場での見世物、奉納物が大きな評判(ぞよめき)になると、我も我もと、千里の道も厭わず、どっとそこへ流れて行ってしまうという。江戸開帳市場が飽和状態になるほど、多くの寺社が開帳しているため、江戸市民の側としては、どの開帳場に出かけたら良いのかわからない。そのため、あの開帳場の見世物や奉納物が面白いなどと評判が立つと、一極集中的にそこへ流れていってしまう群集心理が暗示されている指摘である。大変鋭い見方と言えよう。流行を作り出すため、四苦八苦している寺社の姿も見えてくる」



「エピローグ」の冒頭で、江戸の観光戦略について、著者は次のように述べています。
「江戸の観光市場では、そのポテンシャルの高さを背景に、観光客の熾烈な獲得合戦が繰り広げられていた。当時、強力な集客力を発揮していたイベントとしては、寺社での開帳のほか、祭りがあった。神田明神の祭礼(天下祭)は、その最たるものである。現代でも、祭りは大きな経済効果をもたらすイベントではあるが、開帳(2ヶ月前後)に比べればはるかに短期間であり、その経済効果の大きさには及ばなかった」
そこには、今でいうマーケティングの存在が確かにありました。
そして、当時のマーケティングのシンボル的存在が「成田山」です。
一地方寺院から全国区の寺院に飛躍した成田山は、卓越したマーケティング戦略により、勝ち組の代表だったのです。成田山は、まず江戸出開帳を繰り返すことで、江戸で成田不動の信者を多数獲得しました。それだけでなく、多くの江戸市民を成田山に誘致すること(成田詣)に成功し、成田の観光都市としての礎を築いたのです。


              ディズニーランドは現代の伊勢神宮である


最後に、著者は次のように述べています。
「集客力を維持・強化していくには、人目を引く話題を絶えず提供していくことが必要だったが、それには多額のプロモーション費用(宣伝広告費)の投入が不可欠であった。当然、江戸開帳を実施するには相応の資金が必要となり、それを支える組織力も開帳の要件となったが、その条件を満たす寺社はおのずから限られていった。その上、そうした条件がクリアできたとしても、開帳期間中、天候が悪かったり、流行病などのマイナス要因に見舞われると、江戸出開帳四天王でさえ、赤字決算になってしまうのが実情だった。この頃、江戸観光市場とは、投機性が強い市場に変質していた」
宗教施設もレジャー施設も集客のためのマーケティングが不可欠なことは共通しています。わたしは、本書を読んで、かつて「ディズニーランドは現代の伊勢神宮である」と唱えた『遊びの神話』(東急エージェンシー)のことを思い出しました。


2011年10月29日 一条真也

長寿祝いと隣人祭り

一条真也です。

いま、羽田空港のラウンジです。
今朝の「西日本新聞」にわたしのインタビュー記事が出ていました。
「路地裏オトナ倶楽部」のコーナーで、「長寿祝い無くさないで」というタイトルです。


                 「西日本新聞」10月29日朝刊


世界一の高齢化国である日本には、長寿祝いというものがあります。
61歳の「還暦」、70歳の「古希」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」などですね。
沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝います。
長寿祝いにしろ生年祝いにしろ人が幸せに生きていく上でとても重要です。
神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。
神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。
また7歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。
つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。
だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。



長寿祝いというセレモニーは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれます。それは大いなる「老い」の祝宴なのです。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「哲学とは、死の学びである」と言いましたが、わたしは「死の学び」である哲学の実践として2つの方法があると思います。
1つは、他人のお葬式に参列することです。
もう1つは、自分の長寿祝いを行うことです。
神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろんそれは自殺とかいった問題とはまったく無縁で、あくまでポジティブな「死」の覚悟です。



人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。
また翁となった自分は、死後に神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあります。
そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。
人間は必ず老い、必ず死にます。それは不幸なことではありません。
わたしは「老い」から「死」へ向かう人間を励ます生年祝いという心豊かな文化を、世界中に発信したいと思っています。



また、記事の最後には「隣人祭り」についても触れています。
隣人祭り」にわが社が関わっていることは広く知られてきました。
わたしの大学のゼミの恩師である孫田良平先生も、拙著『隣人の時代』(三五館)を読まれて、隣人祭りに関心を持たれたようです。
そして、孫田先生は「寿齢隣人祭り」というアイデアを提案して下さいました。
「寿齢」とは、初めて接する言葉です。辞典にはない言葉ですが、古稀・米寿・傘寿など祝い歳の総称のようです。 隣人祭りの主唱者は下からの盛り上がりで町内会・農協・商工会・同窓会連合・氏神講など自由に勝手に、日取りは差し当たっては国民の祭日である9月第三月曜日の「敬老の日」に行う。ただし法律では、「敬老の日」を「老人を敬い長寿を祝う日」と古風に定義しており、高齢者自らの主体性・自立性・自尊心を励ます意味が入っていません。
同じ日本国の祝日であっても、「子供の人格を重んじ、幸福をはかる」子供の日、「成人になった青年男女を祝い励ます」成人の日に比べると、高齢者は受身の扱いにすぎません。孫田先生は、主客を逆にした法改正が望ましいとされています。
さらに孫田先生は次のように述べています。
「寿齢隣人祭りの企ては、特に高齢者・壮年層に新しい『人の縁』をつくり出して、孤独死放置の悲劇を減らすことである。東日本大震災は職も地位も財産も一瞬に失わせても、そのはかなさを救うのは『人間お互い新規の縁結び』と教えてくれた。長生きを、意味ある寿と見直す機会にしたい」
わたしは恩師の提案に感銘を受け、大いに勇気づけられました。
これからも、長寿祝いと隣人祭りを大いに広め、さらにはイノベーションとしての「寿齢隣人祭り」に取り組んでみたいと思います。
では、これからスターフライヤーに乗って、北九州に帰ります。


2011年10月29日 一条真也

隣人館と隣人祭り

一条真也です。

東京から北九州へ戻ってきました。
サンレー本社の社長室に入ると、机の上に「ふくおか経済」11月号がありました。
「ふくおか経済」は、福岡県を中心としたビジネスのオピニオン・マガジンです。


                   「ふくおか経済」11月号より


「施設型介護事業に参入」として、わが社の「隣人館」が紹介されています。
「底中所得者の高齢者を対象に、住宅型有料老人ホームを開発。公的年金の範囲内で賄えるよう利用金額を低価格に設定しているのが特徴で、家賃、管理費、食費を合わせ利用料は月額7万8千円」と書かれ、さらに施設について詳しく紹介しています。
ブログ「隣人館の起工式」も参考にされて下さい。


                  「ふくおか経済」11月号より


また、他のページでは、「観月会にご長寿ら250人参加」として、わが社がサポートしている「隣人祭り」のことが紹介されていました。
これは、NPO法人ハートウェル21が開催した「隣人祭り〜秋の観月会」のことです。
同法人は、わが社の佐久間進会長が代表を務めています。
「ソプラノコンサートやフラダンスショーなどのアトラクションの後、会はメーンイベントでもある月を照らす“送魂”へ。曇り空の中、月が顔を出すと会場から『わあ』という歓声が湧き上がり、会場全体が拍手で包まれた」と書かれています。
ブログ「隣人祭り〜秋の観月会」も参考にされて下さい。



「隣人館」も「隣人祭り」も、わが社のミッションである「人間尊重」を形にしたものです。
もちろん、本業の冠婚葬祭こそは究極の「人間尊重」であると思っています。
すべては、人間尊重思想を広めるという「天下布礼」の一環なのです。


2011年10月29日 一条真也