Scotland旅行 後半

20日:フォート・ウィリアムエジンバラ

14:30にエジンバラ中央駅でLSE MPAの友人マックス(マクシミリアン)と待ち合わせているため朝ごはんを8時に食べ、9時には出発する。朝ごはんに出てきたBlack Puddingというものが非常に美味しいので、原料は何かと聞くが、いつもハキハキとしている女将さんがモゴモゴと口ごもるので、変だなと思いつつ完食する。その日の夜にマックスが写真を見て、これは豚の血と脂を固めて焼き上げたものだと説明してくれ、少し衝撃を受ける。

エジンバラまでのルートは、これまでと違い、海岸線をなぞるのでなく高原地帯をまっすぐに突っ切るもの。道も単純で事前に地図をコピーして確認しても、特に大きな問題は無く、3時間強で到着する目算。途中で休憩を入れながらゆっくり行こうと出発。

フィヨルドの谷をまたぐ高架橋を渡って暫く行くと、広大な景色の広がる場所に出る。基本的には、巨大な山がフィヨルドに削られ出来上がった谷の底に自動車道が整備されており、運転していると両側に迫る山の大きさに圧倒される。早速、途中のパーキングに車を停めて少し歩いてみることにする。

運よく登山道入り口を見つけて200メートルほど登ってみる。登山道入り口で中国人の大学生に声を掛けられ、途中まで一緒に歩く。グラスゴー大学で工学を勉強し、この夏に卒業するのだそうで、中国に戻るのでなくヨーロッパで就職先を見つけたいと言っていた。彼に限らず、一般的に中国や東南アジアからの留学生は、まだまだ自国の経済・生活レベルが相対的に低いこともあり、戻りたがらない傾向が強いように感じる。

景色を堪能した後、車に戻る。中国人の彼はこれから7時間かけて登山をするそうだ。少し車を走らせていると大きな平野が目に入る。走る車も少なく、スイスイと行くと三叉路に出る。もう一つの道は私のルートに無い番号の道だったので、それまで来た番号と同じ道を選択して車を走らせる。思えば、それが間違いだった。

その後、全くの一本道が続き、頭の片隅で変だなと思い続けながらも更に1時間半ほど行くと見覚えのある街に着く。なんと、昨日海岸線沿いを走っているときに通過したObanであることに気付き、全く逆方向に来たことを知り、途方にくれる。やはり小まめに道を確認しながら来るべきだった。

早速マックスに道に迷った旨をメールし、再出発する。距離的には3時間分の運転を全て帳消しにするほどのロスがあり、かなり急がないと待ち合わせの時間には間に合わない。更に、こんな時に限って山道でタンクローリーの列の後ろについてしまう。もう焦るのは止めて遅れることを織り込んで行くことに決める。

Stirlingからは高速に乗り、70-80マイル以上で飛ばす。先日書いたように、80マイルは110キロくらいと勘違いをしていたので、日本の高速より少し速いくらいの感覚だったが、実際には130−150キロくらい出ており、結局は14:30にエジンバラに到着する。空港でレンタカーを返してバスに乗り、中央駅に着いたのは15時過ぎ。マックスと会って、早速ホテルに荷物を置きにバスに乗る。

ホテルといってもB&Bくらいのレベルで中国系移民の家族が経営している。英語があまり通じず不安を覚えるが、部屋の清掃やセキュリティはしっかりしているようだった。荷物を置き、早速街に出る。

エジンバラは丘の頂にある城を取り囲むように街が作られており、そのため緩やかな坂が多い。とても綺麗な街で、道を曲がるたびに何らかの発見がある。まるで街全体が設計されているような完成度だ。城の近くのGrassmarketという通りにあるバーで牛肉の煮込み料理を食べ、また少し歩き回った後、Last Dropというバーにて、今日迷いに迷って辿りついた街と同じ名前のウィスキーObanを飲む。

その後マックスの大学時代からの旧友であるセバスチャンが合流し、3人でセバスチャン一押しのバーに向かう。3人同じくKilchomanを頼み、結局その一杯だけで夜12時まで語らう。セバスチャンはコロンビア人とドイツ人のハーフで、オランダで弁護士資格を取った後、現在エジンバラ大学知財関連の修士課程にいる。ドイツ語が話せるのかと思いきや、スペイン語と英語だけということで、3人の会話も英語になる。

エジンバラでは常に雨が降っているが、エジンバラの住人達は傘をささない。フードつきのパーカーやジャケットを着込んで、雨が降れば頭にフードをかぶって平気で歩いている。私もロンドンで入手したBarbourのジャケットだけで雨を凌いで歩くが、防水性は完璧に近く、傘の必要性は感じなかった。

雨の匂いはVictoria Stにあるこのバーにも立ち込めており、照明の暗さもあいまって、一種の不思議な静寂がある。多くの人々が飲んでいるにも関わらず、ロンドンのような喧騒がないため会話がしやすい。

運転の疲れもあり、ホテルに戻った後は倒れるように眠りにつく。


21日:エジンバラ

朝8時に朝食。9時に街に出て、エジンバラ城に向かう。朝から雨が降り続いていて風も強く、あまり観光日和ではない。13時まで城の中をウロウロと歩き回る。ロンドン塔と同じような構成だが、エジンバラの方が戦うための城という印象が強い。王冠や王杓の宝石も、ロンドン塔では540カラットのダイヤモンドだったのに対して、エジンバラでは小振りの水晶。2つの王室の間に、圧倒的な財力・権力の差があったことを伺える。

城の中には第一次・二次世界大戦の記録・資料も多く展示されており、日本軍やドイツ軍から接収した日本刀や鉄十字軍旗もあった。マックスの祖父はドイツ陸軍の将軍の一人だったそうで、ナチス将校とやりあった際のエピソードを聞かせてくれた。今すぐウサギの肉料理を出せと主張するナチス将校に、そこら辺にいた猫を料理させて食べさせたらしい。大戦前半はパリの基地にいて、後半はロシアにいたとのこと。

マックスもその一人だが、ヨーロッパのエリートは容姿や姿形から一目でエリートと分かる出で立ちをしている。Tシャツなどは着ず、常にボタンダウンのシャツで髪や髭もきれいに整えており、控えめな笑顔を絶やさない。一方で自分の国について話をするときは熱がこもり、若干国家主義的なバイアスが掛かることもある。特にギリシャ問題についての憤りは大きいようだ。

13時の時報を城壁で聞いた後、雨もひどくなってきたので昼食を兼ねて近くのバーでハンバーガーを食べる。ちょうどBBCアウンサンスーチー氏のウェストミンスター寺院でのスピーチを生放送していたので最初から最後まで見る。ビルマにおける民主主義の象徴であり思想的・精神的な柱であったアウンサンスーチー氏が、70歳弱にして野党第一党を率いて具体的な政治活動を開始している。

そういう背景もあってか、壮大な夢を語る抽象的・思想的なスピーチというよりも、英国に援助を依頼したいこと(特に民主主義教育の資源・資金援助)を並べた具体的・実務的な内容であった。とはいえ、アウンサンスーチー氏が語った「今回の機会を逃した場合、また数十年間の停滞期にビルマは戻ってしまう。そういう意味で、今現在が最も難しく重要な時期である。」という言葉は切実で、共感を呼ぶメッセージだったと思う。

全く雨も止まないので国立博物館に向かうことにする。スコットランドの歴史を見た後、地球上の巨大生物についての展示があり、巨大生物好きとして釘付けになる。閉館時間まで粘り、外に出るが雨が止む気配は無い。仕方なく雨の中を徘徊し、エジンバラ大学近くのバーでABERLOURとTOMATIN(それぞれ12年)を飲む。完全に地元民しかいないバーで、隣のおじさんは自分の財布をテーブルの上に放置したまま席を離れるというくらいのアットホームさ。

カウンターに座っていた地元のお爺さんが話しかけてきて、Black Bottleというブレンド・ウィスキーを紹介される。1杯1.9ポンドで恐ろしく安いのだが、アイラ島のウィスキーのみをブレンドして作っているらしい。ということで、二杯目はそれにする。ただ、個人的にはアイラの特徴が全て消えてしまっていて好きな感じではなかった。

セバスチャンがやってきて、エジンバラ大学の中の学食兼バーで夕食をとる。学食といっても非常に雰囲気が良く、残念ながら我がLSEとは随分差のある素敵な建物で、お酒もご飯も美味しい。ピザとJuraを頼んで7ポンド。エジンバラ大学は非常に良い。笑 学費もLSEの1/3〜1/4だそうだ。

エジンバラ大の学食でヨーロピアン・カップチェコポルトガルの試合を見る。グラスゴーで見たチェコポーランドの印象ではチェコは余り強くなく、対ポルトガルでは全く攻めることができずに1点決められて試合終了。とはいえポルトガルも以前ほど強くは無く、精彩を欠いている。全体的に世界のサッカー水準って前回ワールドカップの頃と比べると下がっているよねと話を振ると、たしかにあの頃から目立った選手も殆ど出てきていないよね・・と、暫くサッカー停滞期とその理由に関する議論になる。

なぜかマックスも私も非常に疲れており、その後はホテルに帰ってすぐに就寝。


22日:エジンバラ〜ロンドン

また8時から朝食を取った後、荷物を引き上げて9時に出発。いったん中央駅のDepositoryに荷物を預ける。朝から随分良い天気で昨日とは全く違い、日差しが暑いくらい。エジンバラ名物の尖塔に登り、階段を207段上って頂上に到着する。先のとがった形状の塔なので、上に行けば行くほど階段が狭くなっており、よく太った人が上のほうで嵌まって動けなくなるのだそうだ。それがよく分かるくらい狭い階段だった。

頂上に着いて一息入れていると東のほうから急速に霧が立ち込めてくるのが見える。すると瞬く間に街が霧に包まれ、ポツポツと雨が降り始める。50mほど先にあった時計台が全く見えなくなるほどの濃霧で、高い塔の上から眺めていると外界から隔絶されたような不思議な気分になる。全く何も見えなくなったところで塔を下りる。

マックスの予約した電車が2時半出発なので、それまで時間を潰そうと、骨董品店やツイード・ジャケットの洋品店、ウィスキー専門店、楽器店等を冷やかして回る。二人とも前日に食べ過ぎているので全く食欲は無く、カフェに入ってもコーヒーしか頼まない。

出発時間も近づいてきたので中央駅に戻る。私は飛行機移動で液体物が持ち込めないので、マックスにお土産のウィスキーを持っていってもらう。その後一人で新市街を散策して記念にTシャツを購入する。不景気なのかどの店でも50%以上のセールをやっている。グッチやプラダ等の高級店でも70%オフと書いてあるのを見ると、このユーロ危機というのは本当に深刻なのだなと改めて思う。

17時にトルコ人のウミットと先ほどの尖塔の下で落ち合い、Scotch Malt Whisky Societyの本店に向かう。ウミットはLSEで規制法関連の修士課程にいて、トルコでは公正取引委員会で通信事業の民営化を担当していたそうだ。ウミットと一緒に、ペルー人のマリアとブラジル人のフラビアも来ており、4人でSocietyに向かう。

SMWS本店は前評判どおりの素晴らしい建物でかなり広い。まだ17時だというのに席は既に埋まっており、少し待ったが運よくすぐに窓際のテーブル席を確保する。最初に簡単にシステムを説明した後、各人にウィスキーの好みを聞き、ウミットにはLaphroaig、マリアとフラビアにはCraigellachie(クレイゲラキ)、自分はClynelishを頼む。ウミットはピーティなものを、女性陣にはフローラルなものを、自分は少しバランスの良いものを。

マリアはペルー人女性特有の非常にがっしりした体躯の持ち主でよく喋る。最初の就職先がアーサー・アンダーセンということで、かなり盛り上がる。今はMA専門の弁護士事務所で働いているらしい。時間単価が高いでしょと話を振ると1時間200USDということで、ペルーの物価を考えれば相当な高額ということが分かる。

CraigellachieはSocietyのスタッフが薦めてくれたものだが、驚くほどフローラルな香りにシャープな果実味が素晴らしい。私も2杯目はCraigellachieを頼む。マリアは2杯目も甘い系が良いと言うので、Glen Elginを紹介。

飛行機の時間が近づいてきたので19時過ぎにSocietyを出て、一人で空港に向かう。中央駅で荷物を取り出してから、朝から何も食べていないことに気付き、バーガーキングでチーズ・チキン・バーガーのセットを購入してバスの中で食べることにする。

早めに空港に着き、ウィスキーの試飲所でBalvenieの18年をいただく。結局この旅は最初から最後までウィスキーだったと満足し、またBalvenieの意外な美味しさを発見し、乗り込んだ機内ではあっという間に寝てしまう。

結局自分の部屋に着いたのは深夜1時過ぎ。こんな部屋でも帰ってくるとホッとするものだなぁと思いながら就寝。

Scotland旅行 中盤

18日:アイラ島

朝起きると昨夜に飲んだウィスキーで胃がやられていることに気付く。そういえば殆ど朝から何も食べない空きっ腹に酒を流し込んでいたと反省。アールグレイにミルクをたっぷり入れて2杯ほど飲んだ後、熱いシャワーを浴びるとほぼ回復。

朝食のため8時に食堂に向かうと、既に他の宿泊客が3人(グラスゴーから来た夫妻とエセックスから来た老婦人)来ている。大きなテーブルに同席する形なので自然と自己紹介やらが始まり、朝からウィスキー談義に花が咲く。朝食は昨日と同様のスコティッシュ・ブレックファーストで量が多い。老婦人(パトリシア)と最初の行き先が同じことが判明したので、車に乗っていきますかと訪ねると是非にとのこと。非常に上品な人で、若い頃は随分綺麗だっただろうと思う。

まずはLaphroaigラフロイグ)の蒸留所見学ツアーに参加するためポート・エレンを目指す。Port Ellenという既に閉鎖された伝説級の蒸留所があるが、それはこの地名から来ており、Laphroaigはそのすぐ近くにあるらしい。老婦人はLaphroaig蒸留所内のピート畑に区画所有権(生涯貸与)を持っているらしく、その区画(といっても30cm四方くらいの面積だが)を是非見に行きたいと言う。

島を突っ切って空港を右目にひたすら走るとポート・エレンに到着する。老婦人の祖父母の世代が50年以上前にやっていたというホテルを見たいというので街中を走る。改装・増築されてはいたが、今もホテルとして続いているのを見て、老婦人は非常に嬉しそうだ。少女の頃に一度来たことがあるらしく、次回はこのホテルに泊まりたいと言っていた。港に面した非常に素敵な建物で、60-70年以上も前の記憶を辿る場所としてはすごく良いだろう。

Laphroaigに向かう途中、閉鎖したはずの蒸留所Port Ellenの煙突から煙が上がっているのを見る。その理由はLaphroaigで明らかにされるのだが、どうやら蒸留自体は既に終了しているもののウィスキー用の製麦は継続しているらしく、原料となる麦(発芽させ燻した状態の麦)を他の蒸留所に卸しているとのこと。現在、製麦から熟成までの全工程を蒸留所内で行っているところはLaphroaigBowmore、Kilchoman、Spring Bank、BalvenieHighland Parkのみ。

BalvenieとはGlenfiddichの職人達が自分たちのこだわりで作るためにGlenfiddichの横(同施設?)で蒸留している銘柄であり、厳密に蒸留所と言えるかどうかは不明なので外すとして、現在イギリスでは5つの蒸留所のみしか原料から仕込んでいるところがないと言える。極論すればCaol IlaやArdbegなどは蒸留機械や熟成樽くらいしか違いがないことになり、日本酒ではなかなか考えづらい分業体制を取っていることが分かる。

蒸留所に着くとツアー開始まで15分ほどあり、老婦人が自分の区画の場所について聞くと同時に、なんと私にも区画権を贈呈するよう交渉してくれたらしく、区画所有登録と区画地図、地代?(Laphroaigの小さなボトル2本)を早速プレゼントされる。ということで、ツアー後にそれぞれの区画に行ってみることに。

Laphroaigは何と言ってもピート独特の燻製の香りが特徴的な、アイラ島を代表するウィスキーである一方、人によって好き嫌いが大きく分かれる傾向がある。シングル・モルトのウィスキーを少し詳しく調べながら飲み始めると大体すぐに出会う銘柄の一つで、日本でも比較的安価に入手できる。Laphroaigは毎年かなり大規模に生産しており、蒸留所自体もBowmoreより大きくCaol Ilaより少し小さいくらいの規模。とはいえその蒸留過程は今回見学した中では最も手が掛かっており、且つ丁寧な印象を受けた。

蒸留所見学ツアーに参加すると、自分以外は大体50−70代の欧米人が多い。人種もゲルマン民族系が多く、日本人以外のアジア人や、アフリカ系・ラテン系民族は全く見ない。夫婦で来ているケースが殆どで、夫婦揃ってウィスキー好きということが多い。ある意味、30代でこの経験ができたということ自体が非常に幸運なことのように思った。

ここでは製麦からピートを燃やした乾燥・燻製の過程から、原料粉砕・発酵の過程、蒸留・熟成の過程まで全てを見ることができる。なかでも各工程で出来上がる仕掛原料の味見ができるのは、これから何年もの熟成期間を経て出来上がるウィスキーに思いを馳せるという意味でも得難い経験だった。

ツアーが終わった後はLaphroaigのQuarter Caskを試飲する機会があったが、車を運転するために断念。Laphroaigロゴ入りのテイスティング・グラスを頂いて終了した。終了後は老婦人と自分の区画を見に行く。スタッフの方が手作りの日本国旗をくれたので、訪問の記念に自分の名前を書いた日本国旗を自分の区画に立て、写真を撮る。辺りを見回すと各国の国旗が立ち並んでいて、やはりゲルマン系民族の国旗が多いことを再確認する。笑

Caol Ilaが製造工場然として自動的にウィスキーを生産しているのに対して、Laphroaigはウィスキー好きの職人達が一つ一つの手間を愛しみながら一樽ずつ作り上げていくという印象。BowmoreLaphroaigと同じく製麦からの全工程を蒸留所内部で行っている一方、Laphroaigに比べると少し粗い感じ。蒸留所の立地もLaphroaigが街から離れ、海に面した林の中にあるのに対し、Bowmoreは街中にあり蒸留所の窓から自動車の走る音など生活音が聞こえる。どちらが好きかというのは完全に個人の好みの問題だが、私は今回最もLaphroaigに良い印象を持った。

Laphroaigの後はLagavulinとArdbegの蒸留所を回り、老婦人が是非行きたいという1300年前の教会の遺跡に。ゲール文字やケルト模様の美しい遺跡を見た後は島を一周するルートで街に帰ろうとするも、道が途中で終了していたためにかなり遠回りをすることになる。山道は舗装されていないところも多く、羊の群れが道を占拠しているなど、牧歌的な景色が楽しいドライブでした。途中で突然飛び出してきた子羊を危うく轢きそうになり、かなり驚きましたが。

ドライブをしつつ老婦人と色々な話をする。英国王室、サッチャー以降のイギリス政治、原発問題、ゲール語の歌と詩、老婦人がエセックスに所有する丘と庭園(旦那さんが生前趣味にしていた鉄道模型が走っているらしい)。日本には東京オリンピックを見に来たことがあり、横浜に滞在していたという。現役時代は体育教師をしていて、パリで英語教師をしていたこともある。5年前に夫を亡くしてからは時々旅行に出るのが趣味なのだそうだ。

街に帰り老婦人と夕食の約束をした後、Bowmoreの蒸留所見学ツアーに。Laphroaigに負けず劣らず拘りのウィスキー造りをしている。ピートで燻している最中の部屋に入れたのは、Laphroaigと違って煙が少ないからだろう。(Laphroaigでも燻製中の部屋を外から覗かせてもらったが、人間が入るには煙が立ち込めすぎていた。)

ツアーのガイドをしてくれたスタッフに、「なぜアイラ島にはこれだけ多くの蒸留所が集中しているのか」と聞いてみたら、その回答が面白かった。

1.[英国政府の国内産業保護] アイルランドからの酒類輸入に際する関税が引き上げられた際、地理的に比較的近いアイラ島アイルランドの技術移転が進みウィスキー製造拠点となった。
2.[地下経済拠点としての発展] 本島からアクセスしにくい立地を活かして密造酒の一大生産拠点となった。Bowmore規制撤廃年が創業年となっているがそれより以前から生産していた。
3.[人的資本集積と天然資源] 1と2により比較的早期からウィスキー生産職人が集積したため高度な技術をもつ人材が多く生まれた。またピートが多く採れる土地柄も有利となった。

ところでBowmoreは現在サントリー資本の傘下にあり、蔵にはサントリー先代社長の佐治氏やエリザベス女王の所有する樽が眠っていた。ちなみに現在は個人の樽の保存はやっていないそう。樽を一つ買っておいて、自分の葬式かなんかで来場者に振舞うっていうのを、ちょっとやってみたいと思ったりしました。今買っておけば、50-60年ものを振舞えるくらいには生きられるかもしれない。

夜は街のレストランで老婦人と会食。HaddockのFish&ChipsとArdbeg15年を頼む。Fish&Chipsは今まで食べたものの中で最高に美味しい。ちょうど雨がパラパラと降り始めていて、砂浜に面した席からは海に落ちる雨粒がよく見える。嘴の赤い鳥が一羽、雨の中で一生懸命に貝を探しては空けて食べようとしている。老婦人はバード・ウォッチングが趣味と言い、あれはOyster Catcherねとその鳥の名前を言い当てる。(その後ホテルにあった本で調べたら本当にそうだった) 食後、老婦人がどうしても払うと言ってくれるが、そこは固辞する。


19日:アイラ島フォート・ウィリアム

朝、また同じように熱いシャワーを浴びた後、早めの朝食をとってから早速出発する。ポート・アクレイグのフェリーが9:30には出航するためだ。8:30にB&B"An Cuan"を出て港に向かう。早く出たのはBunnahabhain(ブナハーベン)という港近くの蒸留所を見るためだ。子ウサギや子鹿が跳ねる田舎道を10分ほど行くとなだらかな斜面の下に、なだらかな湾に面した蒸留所が見えてくる。少しだけ中を見学するが、あまり感じるものは無い。蒸留装置が他の蒸留所に比べると随分錆付いていて汚い。蒸留所全体も暗い雰囲気で、なぜか小鳥達が酔っ払ってまっすぐ飛べずにフラフラと彷徨っていた。

Bunnahabhainを出て港に向かいフェリーに乗る。またクジラやイルカを探すが何も見えず。とはいえ非常に良い天気で、2時間の船旅を満喫する。11:30にKennacraigに到着後すぐに出発してFort Williamに向かう。Tarbertを経てObanを通り過ぎ、Fort Williamに着いたのは15:00。山が多くアップダウンの激しい道のため安全第一で運転。しかし、マイル表記のメーターではスピード感が全くつかめない。

(今調べてみたら、時速60マイルはちょうど時速100キロくらいのようで、勝手に80キロくらいと思っていたのは間違いだったらしい。速いところでは80マイル以上出していたので、最高スピード130〜150キロで走っていたことになる。全く安全運転ではなかった。苦笑)

Fort Williamでは以前からやってみたかったフライ・フィッシングを。小さな沼で一日漁業権を買い、釣竿と仕掛けをレンタルしてから15分だけやり方を教えてもらう。クリント・イーストウッド似のおじさんが竿の降り方や毛針の着水の仕方を丁寧に教示してくれる。狙ったポイントに毛針を落とすのは、やってみると案外と簡単だった。

しかし16:00から19:00まで3時間、釣竿を振り続けるが結局一匹も釣れない。時間帯が悪いということもあるのだろうが、あまりに何の感触もないので、途中からはすっかり魚釣りというよりは狙ったポイントに着水させるゲームをやっていた気がする。また15分ごとに雨⇒曇りと天気が激動する中で、地元民がミッチーと呼ぶ小蝿(虻のように刺す)と戦い続けるのは結構大変だった。

何も釣れなかったがそれなりに楽しんだ後はホテルに向かう。19世紀に建てられた貴族の館を改装したホテルで、ものすごく豪華な外装・内装。フィヨルドに削られた特徴的な形状の湾を目の前に建てられており、あたかも100年以上前の会話が聞こえてくるような気がした。もしかすると、日本がロシア艦隊を殲滅した話題などが食卓に上ったかもしれない。近くのレストランに出かけ、またFish&Chipsを食べる。

その夜、暖炉に火がくべられたホテル内のバーで、今朝方行ったばかりの蒸留所Bunnahabhainの18年を楽しんでいると、スティーブ・ジョブズそっくりの米国人男性が話しかけてくる。驚くほど似ているので最初は本当にジョブズなんじゃないかと思ったほど。とはいえ職業は内科医(Physician)だそうで、子ども3人が大学に行き、手が離れたので奥さんと二人で旅行に来ているとのこと。招かれるままに彼らのテーブルに行って様々会話を楽しむ。

とはいえ、行ってみて分かったのはジョブズ氏の奥様が少し険悪な雰囲気だったということ。たぶん2人で旅行に来たものの色々あって雰囲気が微妙になってきたので、一人で飲んでいる男を招いて刺激を入れたのだろう。奥さんも良い人なのだが米国人女性にありがちな唯我独尊性格で、ジョブズ氏も米国人男性にありがちな奥様至上主義なため、そういう理不尽な険悪さにもニコニコと対応している様子だった。私もかなり気を使い、持っていたカメラで二人の写真を撮ってあげたり、息子さんの自慢にOh Great!と相槌を打ってみたりと、せっかくのBunnahabhainを楽しむどころではなかった。苦笑

ジョブズ夫妻と別れて12時ごろに就寝。

Scotland旅行 前半

スコットランドに来ています。これを書いているのは、一部のスコッチ好きの間で有名なアイラ島にある瀟洒B&Bのベッドの上。部屋備え付けのテレビでは前女王の夫ジョージを批判するBBCのドキュメンタリーが流れています。明日朝には出立してしまうので、備忘録を兼ねてこれまでの旅程を纏めておこうと思います。

16日:ロンドン〜グラスゴー
ガトウィックを昼過ぎに出てグラスゴーに3時前に到着。レンタカー会社で予約していたプジョーを受け取る…はずが、なぜかVW。まぁ、しょうがないと諦めて乗り込む。グラスゴーは大雨で、しかも車はMTなので発進に非常に気を使う。MTは自動車教習所で乗ったのが最後なので大丈夫かと思いきや、あまり問題はない。ATよりもギヤやトルクを感じられる分、直感的で楽しい。

地図を見ながらホテルに到着。一晩35ポンドということで殆ど期待していなかったが、古い宮殿の一角を改装したようなステキなホテルで驚く。天井がものすごく高くて、窓も2メートルくらいの高さ。笑

経営している老夫婦がものすごく親切で、こちらが何も言わないのに、明日のフェリーが問題なく出発するかどうか確認してくれると申し出てくれる。スコティッシュは親切という評判を上回る親切さ。チェックアウトの時には、わざわざカラーでプリントアウトした時刻表や連絡先などWebサイトのコピーを手渡してくれる。

早速荷物を置いて、近くのバス停から中心街に向かう。雨は降り続いているが、出発前に買ったBarbourのジャケットの防水防風性に助けられる。バスを降りると、街が少し湿った煙のような、古い森のような匂いで満たされていることに気づく。適当な表現ではないが、完全に死んでしまった街の残骸に現代の夢だけが棲みついているような、巨大な幽霊の街のような錯覚を覚える。

その感覚は大聖堂や市庁舎、現代美術館を回るうちに強くなり、更に200年前にオープンしたというバーとフィッシュ・アンド・チップス屋に着く頃には確信に変わる。バーではカントリー・ミュージックを演るバンドとラフロイグを楽しみ、古いフィッシュ・アンド・チップス屋ではイタリア移民系列の店主とオペラについて語らう。そんな中でも、その賑やかな墓場のような感覚が抜けない。不思議な空気。

ホテルに帰り、近くのバーでポーランドチェコの試合を眺めながら、またラフロイグ(クオーターカスク)を舐める。チェコが均衡を破って一点いれたので部屋に帰り、熱いシャワーを浴びてから明日の用意をしてベッドに入る。

17日:グラスゴーアイラ島
6時に起きてシャワーを浴び、7時にスコティッシュ・ブレックファースト。ロンドンのものより量が多い。玉子はポーチドエッグにしてもらう。8時に出発。A82を北上してA83でKennacraig港に向かう。途中の景色が素晴らしすぎるので途中で何回か休憩をとる。休憩が多すぎたのか、一時間遅れで到着。とはいえ一時間半程度の余裕を見ていたので12時半のフェリーには間に合う。

フェリーに車を載せ、デッキに上がる。港以外は何もないフィヨルド状の内湾から外洋に出て暫くするとアイラ島が見えてくる。手前にはジュラ島がある。ジュラはジョージ・オーウェルが小説 1984年を執筆し、その後の終生を過ごした島。

クジラやイルカが見えることがあると聞いたのでずっとデッキに出て目を凝らしていたが結局何も見えない。とはいえ、かなり多くの種類の鳥が海を超えて本島からアイラに渡っているのを見る。冷たい海の水面ギリギリを小さな鳥が飛んでいるのを見ると、少し寂しげな気分になる。

アイラ島のPort Askaigに到着すると、Caol Ila(カリラ)の蒸留所見学時間が迫っているので早速その方向に向かう。蒸留所は港の少し北側の崖を下りたところに建てられていた。Caol Ilaは個人的に好きな蒸留所で、他のアイラ・モルトよりシャープで甘い印象があったのだが、蒸留所を取り巻く景色や環境があまりにイメージ通りで嬉しくなる。

蒸留所が面する港の向こう300-400メートル先にはジュラ島が見え、背後の崖には小さな滝があり、穏やかな天候のこじんまりした場所で居心地が良い。Caol Ilaはゲール語でSound of Islayを意味し、アイラでは最大の生産量を誇る。Caol Ilaとして熟成して販売するのは全体の5%で、他はジョニー・ウォーカーなどに卸しているとのこと。

蒸留所内部の撮影は禁止ということで少し残念だが、十人くらいの少人数グループで全体をスタッフが案内してくれる。なんとSMWSのロンドン支部のスタッフ四人も研修旅行で来ており、いろいろ話しながら一緒に回る。見学の最後には10年もののCaol Ilaをドラム・グラスでテイスティングし、グラスはプレゼントされる。

四人と別れ、車でB&Bに向かう。なだらかな地形の狭い田舎道をゆっくり運転していると、陽がさしてきてのんびりした気分になる。B&BBowmoreにあり、街自体が非常に小さいのですぐに見つかる。部屋に荷物を置いて、早速ドライブに出掛ける。

まずはこの頃話題のKilchoman(キルホーマン)に。日曜で6時を過ぎているので閉まっているのは確実だが、周辺の風光が見たくて車を飛ばす。舗装されていない農道をゆっくり20分ほど進むと、なだらかな丘の上に牛や馬の牧場があり、その牧場の中に牛舎を改造したようなこじんまりした蒸留所がある。まさに密造所!といった風情で、すごく牧歌的且つ微笑ましい印象。

Kilchomanは2000年代中盤の操業で、そのため最初の樽が2010年に出たばかりという非常に新しい蒸留所。Ardbeg(アードベッグ)よりもピーティで強い味わいだが、たぶんスコッチ好きの親父が趣味を嵩じて始めちゃったという感じなんだろうと勝手に想像していました。

Kilchomanを後にしてBruichladdichに向かう。アイラの住人は車ですれ違う時に手を上げてドライバー同士が挨拶する。こちらが手を上げると、あちらも嬉しそうだ。子供たちも礼儀正しくて道ですれ違う時にスピードを落とすと手を上げて挨拶をしてくれる。

Bruichladdichも既に閉まっている。ここはスコッチで初めてオーガニックのウィスキー作りを始めたところで、知る限りでは現在でも唯一。蒸留所はBowmoreから車で20分ほど行った入江の反対側に位置し、Bruichladdich村の真中にある。ミントグリーンの看板ロゴや、洒落っ気溢れるモニュメントから、おちゃめでロックな20代といった印象。

ホテルに戻り車を停めてから街の数少ないバーに出掛ける。Pibrochの12年からBowmoreの15年とDarkenと飲み進めていると日本語が聞こえてきたので会話に加わる。日本でワインと焼酎をつくっている25歳と、同年代くらいの新婚カップル、70代の実業家という顔ぶれ。

9時半ごろから飲み始め2時間くらい会話を楽しんだ後、実業家氏に全員ビールを奢って頂き、バーも閉店になる。25歳氏と会計を待っているとグラスゴーから来たWebエンジニアのIam37歳が話しかけてきて、その流れで何故かもう一軒付き合うことになる。Ardbegを一杯奢ってもらったお礼に不思議なスピリット(茴香系)をご馳走し、Iamが先に潰れてしまったので自分も部屋に帰る。時計をみると12時を回っていたのですぐに就寝。

世界一豊かな国の大使が語った5つの政策

ルクセンブルグ駐英大使のBern氏に、彼の国の成功要因についてお話を伺ってきた。

ルクセンブルグGDP/capita(一人当り国内総生産)が日本の倍以上もある、世界で最も豊かな国である。日本と同様に、天然資源があるわけでもないこの国が何故このような成功を収めることができるのか。


1.有利な地理的条件
ルクセンブルグは人口50万人弱の小国だが、その主要産業は決してニッチなものではない。銀行、化学(Dupont等)、鉄鋼(Arcelor Mittal等)、ICT、流通などのメジャーな産業で伝統的に高い競争力を保持している。ちなみに人工衛星も強いらしい。
その秘訣について聞くと、ルクセンブルグに進出している日本企業(TDK)がBern氏に語った内容を教えてくれた。曰く「R&Dに強いフランスと生産技術に長けたドイツから、それぞれ最高水準の労働者を同時に雇うことができる」からだという。つまり二つの文化圏の強みを融合させることで、世界最高水準の実質賃金をもたらす産業の育成が可能になるとのこと。

2.BeNeLux三国の協働
地理的条件だけでは上述の産業組成モデルは完成しない。そのため、より自由に域内経済交流の可能な欧州連合という政治・経済的枠組みを創造する必要があった。そして、その最大のチャンスがベルリンの壁崩壊だったという。壁崩壊を期にソビエトに対抗する枠組みの必要性を説き、ベルギーやオランダとの強固な関係性をテコにして一気にEU組成まで持っていった。外交官の話なので割り引いて聞くとしても、凄まじいばかりの外交戦略であると驚かざるをえない。

3.徹底的なOpen Country
以前ルクセンブグルにも固有の言語があったが、段階的に廃止してゆき、現在はフランス語(主に官公庁や小売・サービス業)とドイツ語(新聞や製造業)が主要公用語となっている。社会的に移民も多く受入れており、現在の国民の7割はポルトガル系らしい。日本人も多く、日本人学校もあるという。
政治的にはEUNATO、UNが関わる全ての紛争地域に軍隊を派遣して常にプレゼンスを示し、多国間でのパートナーシップを構築し、国際法を遵守してDiplomacyを発揮している。印象に残ったのは「我々の外交にディシプリンは無いが、ガイドライン[Presence, Partnership, Rule of law]を遵守している」という言葉だ。
経済的には海外からの直接投資を多く受け入れ、ヨーロッパにおける中核拠点として一定のポジションを築いている。大臣自ら営業に赴くことも多いという。シンガポールや上海に拠点を移されてしまう日本との差について考えざるを得ません・・。

4.グローバルな高度能力人材の獲得
最近までルクセンブルグは国内の高等教育に殆ど力を入れず、大学進学希望者には他国への留学を強く推奨していたという。これは上述の内容を鑑みれば当然のことかもしれない。人口50万人弱の国の限界という理由もあるだろう。しかし、現在は更なる高度能力人材の「外国からの獲得」を目指して、国内大学への投資を強化しているとのこと。
国内に競争力のある産業があれば、高い能力をもった自国民が外国に留学しても必ず戻ってくる。そういう自負があるからこそ選択できる政策かもしれない。

5.小さく機動的な政府
とはいえ政府が民間に対して投資先分野を推奨したり保護規制をかけたりすることは殆どない。政府は自らが経済・社会の要請に対して最大限効率的であることを目指し、日本で言うところのお役所仕事をどれだけ排すことができるかを目標にしているという。
ルクセンブルグに拠点を置く企業は世界に通用するものが多く、そのため各々の判断で投資がなされれば、結果的にそれが最も効果的なはずという前提に立っているとのことで、政財の下手な馴れ合いは無いとのこと。


このように、ルクセンブルグの政治・経済モデルは理想的に見える。日本でも、中国にGDP総額で追い越されて以降、「ルクセンブルグのようになるためには何をしたら良いか」という議論を時々聞くようになった。

しかし、特に日本との比較においては、実際には少し割り引いて評価する必要があるだろう。


1.GDP/capitaの数字的トリック
実際には給与所得者の4割が毎朝国境線の外側から通勤してくる労働者であり、彼らは国民としてカウントされていないので数字が過大に評価されている。実際にはこんなに高くはない。(とはいえ、それでも相対的に見れば、ルクセンブルグGDP/capitaは高い水準にある。)

2.高いGDP/capitaは諸刃の剣
高いGDP/capitaは、即ち、高い実質賃金や生活物価を意味する。そのため、常に高い付加価値を創造する最先端の産業誘致と人材育成を図ることが安定的雇用のための最優先課題であり、また社会不安に直結する所得格差の縮小も同時に進めなければならない。この二律背反をマネージするのが最大の課題であろう。(労働組合が強いので、現在は所得格差も比較的小さく、この点では成功しているようだ)

3.外部環境の変化に脆弱
銀行業や輸出主導の産業が多いため、ユーロ危機や石油価格といった外部環境変化に際して受けるダメージが大きい。ルクセンブルグ国内の市場規模は小さいため、EUという枠組みはどうしても堅守していきたいはず。今後のユーロ圏の動向次第では、大きな影響を受ける可能性もある。


とはいえ、今回Bern氏に伺った話は、どれも非常に示唆に富む内容のものだった。そのまま日本に応用できる類のものでは決して無いが、戦略のコンセプトや戦術のエッセンスは参考にできる点が多いような気がする。

そして、ルクセンブルグがその昔不況にあえぎ、国民の海外転出によって人口の1/3を失ったことのある国であることを覚えておきたい。北側のヨーロッパはどこもそうだが、未曾有の危機を乗り越えたからこそ得られた独自戦略がある。

未だ本当の危機に陥ったことの無い戦後の日本政治・経済には決して真似のできない真剣さをBern氏から感じることができたのが、今回最大の収穫だったかもしれない。

NPM時代の終焉

どうやらNPMの時代はその終わりを迎えつつあるようだ。

NPMとはNew Public Managementの略称で、もともとは1980年代に財政赤字への対処を目的としてイギリスを中心に始まった行政改革「運動」であり、企業経営の方法論を行政経営に援用した内容のものが多い。

NPMを推進する原動力は、Dis-aggregation(購入・供給の分離)、Competition(競争原理の導入)、Incentivization(経済的インセンティブの付与)の3つであり、それぞれの代表的な施策には以下のようなものがある。

1.Dis-aggregation(購入・供給の分離)

  • エージェンシー化による統制強化(Agencification)
  • 脱専門職化(Deprofessionalization)
  • 株式会社化(Corporatization) など

2.Competition(競争原理の導入)

  • 市場化テスト(Compulsory market testing)
  • バウチャー制度(Voucher schemes)
  • 業績評価(Performance measurement) など

3.Incentivization(経済的インセンティブの付与)

  • 民間資金の活用(Private Finance Initiative)
  • 民共同(Public private partnership)
  • 公営事業の民営化(Privatization) など

日本では特に1と2が自治体等を中心に進みつつあるが、殆どお作法導入に止まっており、財政赤字削減には殆ど効果は見られない。3については、小泉政権時代の規制改革・民間開放推進会議の頃にその端緒が見られ、幾つか大型PFI案件も進められたが、それと同時に手痛い失敗も期している。

またイギリスを中心にヨーロッパを見てみると、1980−90年代にNPM的手法を積極導入した結果、現在では以下のような評価が大勢を占めている。

NPMは行政の複雑化を招いたことで、

  1. 逆にコストが高くなり赤字額も増えた。
  2. 公的サービスが質・量ともに劣化した。
  3. 一部企業が許容しがたい利益を得ている。

大阪市などを中心に、これからまさにNPM的手法の真髄を導入しようとする日本にとっては、不都合な事実でしかないが、アカデミックな世界でも、一般的な生活者レベルでも概ね上述のような評価に定まってしまっており、個人的にも留学当初は、そもそもの留学目的の一つがこの体たらくということで随分がっかりした。

しかし、こちらで様々な人にヒアリングをする中で、幾つか分かってきたこともある。そして本当のところNPMへの評価は次のようにする方が客観的だということも。

NPMは複雑な行政を明るみにさらしたことで、

  • 隠されてきたコスト構造を解明した。
  • 過剰供給とそれに起因する死荷重を削減した。
  • 隠されてきた利権を市場に公開した。

とはいえNPM反対派の挙げる問題の中には、綺麗ごとではすまされないものも多い。もし時間があれば、次回はNPM賛成派・反対派の議論をもう少し深く掘り下げて、その止揚策を挙げてみようと思う。

Emerging Art Market

世界中でここ数年、美術品市場が急成長中なのだそうです。先日大変興味深い話を聞いたので、この分野は全く素人ながら、私のテーマでもあるSoft Powerにも関連するところもあり、備忘録も兼ねて軽く纏めておこうと思います。

  1. 新興国の高度成長期には億万長者が多く生まれ、中には国内外の美術品を買い漁る人も出てくる。
  2. 新興国が軸となり美術市場が活性化すると、世界中で新たな才能が見出されたり、当該国の歴史的な美術品の価値が世界に発信されたりする。
  3. 一方でそういった億万長者達はある水準で満足してしまい、ワイン等の他の奢侈品に移ろいやすいこともあり、今回の急成長もバブルで終わる可能性が高い。

Art Marketの取引総額は、イギリスのオークションハウス(クリスティーズ?)の推計によれば、2009年に280億円、2010年は430億円だということです。基本的にVolatilityの高い市場であるものの、急成長の背景にはBRICsのバイヤーの存在があるそうです。

例えば中国バイヤーの購入総額は、現在世界全体の23%を占めており、2005年には5%でしかなかったことを考えると非常に大きなPowerをもっているとのこと。ヨーロッパの美術品市場になぞらえると、ロンドンは香港、ベルリンは北京、スイスはシンガポールという比較がされるくらいだそうです。一方で贋作が多く出回ったり、マネーロンダリングに使ったり、落札金額をいつまでも支払わなかったりするので、China Premiumが課せられているそうです。

ロシアはシルクロードがオイルロードになったことで、Roman Abramovichを中心に世界中で"Trophy Buying"(トロフィーを獲るくらい有力・著名な作品ばかりを買うこと)を盛んに行っており、プレミア・リーグチェルシーのみならず、特にロシア美術史とは無関係な西欧諸国を中心に人気のあるポスト・モダーンを多く集めているとのこと。とはいえロシア人の買い方はかなり投機的で、購入した翌年に売りに出したりと保有期間が非常に短いということでした。

インドでも55人の億万長者(Billionaire)が、Active Collectorとして日本人の目利き(Masanori Fukuokaさんという人が有名らしい)を雇うなどして相当数投資しているようです。

一方で、ブラジルは国内の美術市場が独自に発展していて強いこともあり、国外の美術品市場にはあまり出てこず、国内への投資が多いということです。("文化・芸術の歴史の長い国の億万長者は、そもそも国外を買い漁ることはしない"と、若干ブラジル以外に対してはシニカルに見ているようでした。)

この業界の長い人の話なので、こういった見方は特にヨーロッパでは一般的なんだろうと思いますが、内容を総括して私が感じたのは以下3つでしょうか。

  1. 美術・芸術とは高尚な側面ばかりではなく、実はその大きな部分が億万長者たちの個人的な見栄によって動かされており、オークショニア達も含めて、そんなに純粋に美術・芸術を見ているわけではない。
  2. 結局、巨万の富を得た人々の間で必ず起こるブームの一つでしかないので、経済成長のスピードが緩やかに落ち着いてしまえば、美術品市場のバブルも終わってしまう。
  3. とはいえ、特にグローバルな億万長者達のサロンでの影響力はすさまじく、そこで名声を得たり、当該国の作家の名前が知られるようになることは、国家としての潜在的なプレゼンスを高める上で効果がある(?)。

美術品市場や億万長者達のサロンというものが、具体的にどんな場なのかもよく分かっていませんが、そういった人々をターゲットに国家ブランディングを仕掛ける必要がある場合は、美術品市場というチャネルは面白いのかもしれません。

政策や製品の特徴・方向性がいつのまにやら失われてしまう理由

八方美人的に色んな意見を取り入れた挙句、もともと持っていた方向性を見失っていったり、当初のコア・ファン層が評価していた特徴がバージョン・アップを重ねるうちに消え去っていくことがあります。

そして、その結果、誰のための政策・製品なのか分からなくなってしまう。

たとえばノートPCについて考えてみる。消費者の嗜好が、デザイン重視派と機能重視派で次のように分布していたとして、且つApollo社はデザイン重視派を、Banasonic社は機能重視派をメインにターゲティングして製品を開発していたとする。

最初のポジショニングでは、A社・B社それぞれの方向性・特徴はとても分りやすい。そして消費者が自らの嗜好に最も近い製品を選択した結果、A社とB社は140ずつ今期の売上をあげることができた。

さて、次期製品の開発にあたって市場調査を行ったB社は、ある程度の機能を諦めてデザイン性を向上させることでシェアの拡大ができることを発見。さっそく自社のポジショニングを見直すことにした。

結果としてB社はA社から10の売上を奪取することに成功。市場のシェアを伸ばした。

一方でA社はB社からの突然の攻勢を受け、その対応方法の検討を余儀なくされる。デザイン性を大きく損ねたとしても機能性を追及することでギリギリまでB社の攻勢を食い止めるというクリンチ戦略だ。

A社の反撃は奏功し、奪われたシェアのみならず、更にB社の売上10を奪取することに成功する。ここに至り、当初はB社に先手を取られたものの、最終的にはA社がシェア争いで勝利を得たように見えた。

しかし、ここでもB社は更なる攻勢に出る。なんと、これまでのアイデンティティである機能性をかなぐり捨てても、シェアの追求に駒を進めたのだ。

結局、A社・B社はともにシェア獲得競争を繰り広げる中で当初の特徴・方向性を失い、市場の中央値に最も近いポジショニングに落ち着いてしまう。上図のように、当初の製品開発とは全く異なる方向性に帰着していくこともある。そして、この分布で言えば、左右両サイドの、それぞれ110の消費者が「最初のバージョンの方が良かった」と嘆くことになります。

これを中位投票者定理(Median Voter Theorem)といい、政治学において政党間競争を説明する際のフレームワークの一つとして、よく使われています。純粋に「闘争」を前提としたゲームのルールを研究する政治学には、マーケティング・コミュニケーションを「闘争」と捉えた際にも、示唆に富む内容が多いのです。

このケースではA社・B社の2プレイヤーを前提としていますが、もちろん新規参入C社の登場や、B社による更なる攻勢など、めくるめく闘争は続いていきます。このような消費者行動論やマーケティング論ではあまり扱うことのない純粋な戦略論のエッセンスが政治学には豊富に蓄積されており、政治学マーケティング・コミュニケーションの接点には非常に面白いフロンティアを見ることができます。