tukinohaの絶対ブログ領域

2014-09-17

そろそろ「従軍慰安婦」問題について一言いっておくか そろそろ「従軍慰安婦」問題について一言いっておくかを含むブックマーク

屋上屋を架すつもりはないので、最近話題の論点からはやや外れた部分について書きます。「一言」といっておきながら全然ひとことで終わらないのはお約束ということで。


1.国家間の問題?被害者はどこにいった?

90年代における「アジア国民平和基金」が挺隊協のような慰安婦支援団体からも批判されたことは有名ですが、この基金を推進した側としては元「慰安婦」は高齢化しているので、たとえ拙速であっても今のうちに補償しなければならないという判断がありました。これに対して挺隊協などは民間基金ではなく政府による公的な基金でなければならないとして、元「慰安婦」の利益よりもむしろ「政治的な筋を通す」ことを優先したわけです。私としては前者の立場により共感します。

2000年代以降では現在がもっとも「慰安婦」問題に注目が集まっているように思うのですが、その割には、みなさん妙にのんびりしているように感じるのは私だけでしょうか?それとも、もはや被害者存命中の問題解決など不可能である、と割り切っているのでしょうか?その場合、いったい「慰安婦」問題とは何に対する・いかなる解決を目指した問題なのでしょうか?

現在の「慰安婦」問題は自国政府に対する態度を表明するための踏み絵のようなもので、仮に韓国人元「慰安婦」を問題にしているように見えても、実際には日本国内で完結した内向きの議論になっていると思います。私見では、「慰安婦」問題のやっかいなところは「日本語によってだいたいの部分が研究出来てしまう」ところにあって(それ自体が植民地支配の遺産なのですが)、その場合、元「慰安婦」自身にとって「慰安婦であること」はいかなる経験であったのか、それは現在をどのように規定しているのか、という視点がしばしば抜け落ちてしまいます。結局のところそれは「日本人による、日本人のための日本史」でしかないわけです。歴史系の学会もこの点ではあまり変わりません。2000年代に入ると、扶桑社の「新しい歴史学のために」が検定を通過し、その関係で「教科書のなかの慰安婦問題」が毎年のように取り上げられるようになるのですが、韓国の教科書と比較して、日本の教科書の「慰安婦」への言及の少なさを嘆いてみる、というような言及の仕方がほとんどでした。結局のところ、(特に関西の)学会では「慰安婦」問題は自国の政府批判する政治的賭け金以上の意味はもたなかった、ということなのでしょう。


2.朝日新聞の過大視

「吉田証言」に関する朝日の報道国連のクマラスワミ報告・マクドゥーガル報告までを直結させるような主張は、私には「コミンテルンの陰謀」と同レベルの話に思えます。少なくとも、当時の人々が受けた衝撃を説明するものではまったくないでしょう。丸山真男門下の英才・石田雄をして「敗戦によってアイデンティティの危機に直面した軍国青年として、何が戦争中間違っていたかを反省する動機から社会科学の研究に志した私としては、半世紀近くもこの深刻な問題を社会科学的に究明する責任を果して来なかった点を深く恥じなければならない」(『社会科学再考』1995年)と言わしめたこの問題の衝撃を、いち新聞の力に帰せしめるわけにはいかないと私は思います(別に朝日を擁護しているわけではないですよ。念のため)。

少なくとも91年から始まるユーゴ紛争、92年から始まるボスニア紛争で繰り広げられた戦時性暴力が国際的に問題視され、それを違法なものとして裁こうとする機運が高まっていたことを「慰安婦」問題の背景として押さえておく必要があります。こうした背景を朝日新聞自身も忘れ、「慰安婦」問題は我々が盛り上げたのだと思っているのだとしたら、それは僭称というべきでしょう。


3.国家間の問題とすることで見えなくなるもの

慰安婦」問題の参考書としては現在でも吉見義明従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)がベストだと思っているのですが、いま読み返すと結構いろいろな発見があります。特にぎょっとするのは188頁以下にあるオランダ人「慰安婦」の事例。

これは日本軍が「慰安所」を設置するため抑留所に収容されていた女性を「慰安婦」として連れ出そうとする事例なのですが、抑留所のリーダーたちが抗議して暴動が起こります。その三日後にまた軍人がやってきて、「志願者」を出せば最初に連れて行った女性は返してやる、と言いました。その結果、売春婦だという噂のあった数名の女性が「志願者」として連れて行かれ、「慰安婦」として働くことを強制された、というわけです。

この「志願者」選び出しにどのような力が働いたのか、ということが私にはとても重要なことのように思われるのです。それは抑留所にいた他のオランダ人たちの責任を問うことにも繋がるのかもしれないし、「売春婦という噂」が「こいつは慰安婦になっても仕方ないやつだ」という認識へと繋がっていく差別の問題にもつながるのかもしれません。

慰安婦」問題を国家間の問題としか見ない人、あるいは「慰安婦は売春婦のことである(から何の問題もない)」と考える人にとっては、上記の話はどうでもいいことなのでしょうが。


4.戦前からの連続性において「慰安婦」問題を考えることが必要ではないか

日本軍の体質の問題」として「慰安婦」問題を考えようという人は結構いるのですが、日本軍の(あるいは戦前日本社会の)暴力性・マッチョイズムを指摘するだけでは、おそらく問題の半分くらいしか捉えられないように思われます。実際、大正〜昭和戦前期というのは「修養」「人格」の重要性が唱えられた時代であり、公娼制度に対して「女性の人格を否定」するものであり「男性を堕落させる」ものとする批判が激しく行われた時代であったからです。「慰安婦」制度に対して嫌悪感を示し、利用しなかった男性もいたわけで、そうした人々も(利用した人々と同じく)「時代の子」であったと言えるのではないでしょうか。

ところで「慰安婦」に関する研究書にはしばしば「『慰安婦』に対して心中を迫る男性」が登場します。少なからぬ将兵が「慰安婦」を心の支えとし、だからこそ心中を迫ったのです(田中克彦氏が『従軍慰安婦靖国神社』で「『慰安婦』は将兵にとって心の支えだったのだから、謝罪するよりもまずは感謝すべき」と述べていますが、愛情を寄せながら心中を迫るストーカー男の論理に似ている)。こうした「心中」を生み出す背景についても考えてみる必要があるでしょう。私見では「修養」「人格」を重視し、「慰安婦」制度に否定的だった人々こそが「心中」を迫ったのではないかと思うのですが、とくに根拠なし。


・上記の問題に関連する資料

「これまでお逢いしたことのない方々と話しているうちに、思いだしたことがあった。それは、兄の戦死後、そのことを伝えきいて来られた友人たちのうち、お一人が入隊後によこされた一通の手紙のことだ。 それは、強烈な内容だった。

自分は今、慰安所で淪落の慰安婦を抱いている。この女は、一平卒である自分にあたたかい。ともに身の不幸を嘆きはしても「死ね」とは言わない。だが、いまの世の女たちは、母も、姉妹も、恋人も、友人も、みんな「勇んで戦争に征け。そして名誉の戦死を死ね」と言う。言わないまでも、言うにひとしい態度をとる。これは何だ。なぜ慰安所の女だけが、「いのちを大切にせよ」「どんなことがあっても死ぬな」と言ってくれるのか。自分はもう、愛を口にする女たちを信じない。

18歳のわたくしは「女を抱く」といわれるだけでもう素直に読めなかった。「なんでこんな手紙くれはるか」と不愉快で、その悲痛な、重大な意味に気づく力がなかった。」

(岡部伊都子「生きる こだま」1992年)

nesskonessko 2014/09/18 00:42 江戸時代にも遊女と心中する男はいたし、いつの時代にもそのときの気持ちの流れでそうなる人はいるのではないでしょうか。当時の軍人を特殊視することはないと思いますが。

mopetto2012mopetto2012 2014/09/18 21:52 ブログ主さんは、>「慰安婦」問題は自国の政府を批判する政治的賭け金以上の意味はもたなかった、ということなのでしょう。」と書かれていますが、雑駁すぎる見解ですね。

確かに、旧社会党は政府を批判・追及するために利用しましたが、そもそもは自民党の保守派の計略ですよね。(『連立政権』を組んだときの妥協の産物ですが、1995年『国会決議』直後、日本遺族会を中心に『戦後50周年国民委員会』が結成されて…1996年には「新しい歴史教科書をつくる会」が作られたのです。

その背後には、日本最大の右派組織「「日本を守る会」(もともとは、過去の満州地域侵略を主導した極右勢力)と、天皇制国家主義を復興させたい『日本を守る国民会議』があったのですが、戦争責任論を自虐史観と位置付ける両者は1997年統合されて【日本会議】が結成されたのですよね。これには、日本の政財界の大物が名を連ねています。

今日の、「慰安婦」問題への保守派の言説、「朝日新聞」バッシングとは、日本の「裏の力」の実力がいかに強いかを露わにしています。「国会議員懇談会」には保守系国会議員が約250名が参加していますし、2014年発足の第2次安倍改造内閣では、閣僚19人のうち15人が懇談会のメンバーです。

「慰安婦問題」は、戦争の〈加害〉〈被害〉の構造のなかに、ジェンダーの問題が横たわっていることが明らかにしてくれました。しかし、ここには、あまりにも難解な問題が複雑に錯綜しています。まずは、植民地主義問題と戦場における「被傷性」の問題。さらには、ポスト冷戦の国際社会、ポスト覇権システム、世界システム論のなかでの「従属論」というものにもアンテナを張って洞察する必要があると思います。

ブログ主さんの考察で残念に思うのは、日本における「女性差別」の問題への探求です。売春のルーツは古代にまで遡りますが、日本では近世以降「遊廓」が誕生しました。(江戸時代、【遊廓】は制度化されて、人形町に「吉原遊廓」、大坂に『新町遊廓』、京都に『島原遊廓』が作られました。)
さて、ここで考察するべきは、「貧困」と「女性差別」の重層性です。かつて日本では貧窮の中で飢餓状態が慢性化すると「間引き」というものが行われました。間引きを免れた子どもでも、貧困のなかでは、女中奉公、女工、さらには酌婦や芸妓として売られていく子が少なからずいたのです。そのように連綿として続いてきた「女性差別」は、日本人の意識にすり込まれています。

初めての訪問で言いにくいことを述べました。ブログ主さんが、文中で、
>「(特に関西の)学会では」…と書いていましたから、学究者かなと思いました。読んで、学習されているのに勿体ないと感じてしまいました。
「女性差別」については、哲学の「贈与論」まで援用しなければ見ても見えないのではと思います。
批判、議論は絶え間なく続いていくものと思います。それは、真実が追及されるための複雑なプロセスであり、自尊心が傷つくこともあると思いますが、今後も、いよいよの論考を重ねてください。

tukinohatukinoha 2014/09/18 22:54 mopetto2012さんのご批判はちょっと重すぎるので、nesskoさんの疑問(これは全くもっともな疑問だと思います)に関して少し捕捉します。

「慰安婦」問題について考えるうえで、性風俗産業一般に対する人々の認識が重要である、と私は思っています。大正〜昭和初期に公娼制度に対して強い批判がなされたことは本文に書いたとおりですが、一方でこの時期は性風俗が(こういういい方が許されるとすれば)感情労働としての意味合いを強めながら、収入で言えば下層の方まで浸透していった時期でもあります。いわゆる「カフェー」というやつです(「純喫茶」という言葉がありますけど、これは「カフェー=性風俗産業」との対比)。
公娼制度に対する批判と、感情労働化した性風俗の浸透。このふたつは関係しており、また「慰安婦」に対する兵隊の見方にも一定の影響を与えているのではないか、と。
つまり、
1.性風俗が下層社会にまで浸透していくことで、ある意味「当然の権利」と化していき、「もっと慰安婦をよこせ!」という要求を生み出す。
2.「慰安婦」に対しても(カフェーのように)感情労働を要求するようになる。つまり「慰安所」を利用するということは(文字通りの意味で)精神的な「慰安」を得ることだ、と考えられる。
この2つの要素が「心中」多発の背景にあるのではないか・・・というのが私の仮説です。
もちろん本文にも書いた通り根拠のない想像なので、適当に流してください(笑)

tukinohatukinoha 2014/09/18 22:56 mopetto2012さん
こんなのも書いているので、よかったら読んでみてください。
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha/20100802/p1

mopetto2012mopetto2012 2014/09/19 10:50 ご紹介の記事、読ませていただきました。その論はバタイユ『エロティシズム』を援用されたのでしょうか?あるいは、『アンチ・オイディプス』が、より多くでしょうか?(私は、岩井克人『貨幣論』を読んでいませんが。)

としても、正直、わかりにくい文章でした。原始土地機構における「贈物」という剰余価値の不均衡「女性を与えるものと与えられるものとの身分の上下」をとらえて書いておられるのですか?
モースの「贈与論」、レヴィ=ストロースの「贈与の交換」は、今日ではジェンダーから痛烈に批判されていますね。

>「感情労働化した性風俗の浸透」という表現は歴史の脈絡が見えません。そもそも「慰安婦」問題の歴史的背景と、「貧困と女性差別」を構造的暴力としてとらえていないのでしょうか?
「心中」といっても、戦時と平時では著しく違うと思いますが…そもそも、男と女が、その瞬間脳裏をかすめたのはまるで別物である場合も多いと思いますよ。ましてや、戦時下、性奴隷にされた女性と日本軍隊の男の間に横たわる溝は埋めようもなく深いもので、そこには交感はありえないと思います(極限状態からの遁走のために女性が眩惑されたとしても、それこそが構造的暴力のもとで行われた差別です)

nesskoさんが、「江戸時代にも遊女と心中する男はいたし」と書かれていますが、「遊郭」の女性は貧窮のために売買だれた女性で、管理、拘束されて、時には暴力による強姦もあったのですから絶望的だったと思いますが。西鶴の作品には哀愁が文学として書かれていますが、実態は凄惨なものだったのですよ。

とはいえ、もはや政治問題になっている「慰安婦」問題や、公娼制度については、立脚点が違うようです。私のコメントによって重苦しい気分にさせてしまったことはお詫びします。

nishidayoshiyanishidayoshiya 2014/09/21 03:50 はじめまして。よくこのブログを拝読しております。傷つきやすさや共同体に焦点をあてられたゲーム評論や、大正期の新カント派についての記事など、大変興味深く読んでおります。

今回の記事を読み、「1.国家間の問題?被害者はどこにいった?」に関連して、思いだしたのですが、2010年12月5日のシンポジウム『女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジウム:「法廷」は何を裁き、何が変ったか〜性暴力・民族差別・植民地主義〜』
(於国際基督教大学)で、ちょうど、tukinohaさんが問題提起なさっているようなことが、つまり、サバイバー(元「慰安婦」)が高齢であり、サバイバーに対して何ができるのか、誰が何をすべきか、が論点に挙げられていたことを思い出しました。
些か記憶があいまいですが、確か、2010年現在ではサバイバーがよりよく生きられるよう支援する試みがなされている、みたいなことを言っていたような気がします。(ブログ記事がありました。[日本軍「慰安婦」特集(4):女性国際戦犯法廷から10年国際シンポジウムに参加して 徐阿貴]http://wan.or.jp/book/?p=811&page=2の、「村上麻衣さん(旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委員会)の報告」のあたりの「被害女性と向き合い、喜びや笑いを共有する中でプラスのもの、限りある人生で少しでも「幸せ」を生み出すこと、その積み重ねが「未来」につながっていくのでは」みたいな話の中でそのようなことが言われていたはずです)。

また、「被害者」ということばで、同じく思いだしたのですが、2010年のシンポジウムでは、「日本の軍人のレイプによって産まれた子ども」が壇上で発言していました。ある世代の問題には、限定されないのだそうです。

もしご存じの事でしたら(あるいは、私自身の偏見や無知に由来する謬見になってしまっておりましたら)、余計なことを、大変失礼いたしました。

これからも、更新、楽しみにしております。

tukinohatukinoha 2014/09/22 15:11 nishidayoshiya様
コメントありがとうございます。泥縄式の勉強なので知らないことばかりなのですが、「日本の軍人のレイプによって産まれたども」についてはご指摘をいただくまで考えたことがなく、そのこと自体を恥ずかしく思いました。視野狭窄なのは私も同じですね。
有益なご指摘ありがとうございました。

2014-04-30

[]幕末の借金を大正に取り立てる 幕末の借金を大正に取り立てるを含むブックマーク

「道義埋没の塚△浅野候を相手取る」(『万朝報』1914年4月30日)

和田某という人物の祖父は元郡山藩の納戸役(会計掛)をつとめ、のちに大阪へ出て商人となり巨万の富を得た。彼はその後、芸州藩(浅野家)の御用商人となったのだが、慶応三年の師走、当時は藩主の世子(跡継ぎ)であった浅野長勲の結婚式のため銀百貫を貸した。しかし返済が行われないままウヤムヤになってしまい、法律上も時効となる。しかし和田某はあきらめず、宮内大臣への陳情を行っていたという。この年、和田某は弁護士・角岡某とともに、浅野家に対して借金の返済を要求。むろん法律上の根拠はないため、次のような主張を行った。

1913年6月、浅野長勲候の孫・長武のもとに伏見宮博恭王の王女が嫁ぐという噂をきいた。「人道を解しない者をして、女王殿下に祖父と仰がせ奉る事は畏れ多いことだ」。和田某は内大臣府へ御降嫁中止の要請を行った。これに驚いた浅野家では和田某に対して家扶金の名目で100円を与えたが、受け取る理由がないので突き返した。あくまで借金の返済を要求する。これが受け入れられない場合、吉良上野介の墓の横に「浅野候道義埋没の塚」と題する石碑を建立する予定である(忠臣蔵の浅野家は、この記事の浅野侯爵家から見て分家にあたる)。

この要求が通ったかは不明であるが、華族に対するこうした超法律的要求は、彼らが皇室に近い位置にいるだけに頻繁に行われていたのではないだろうか。

2014-04-23

[]活動弁士(活弁)について 活動弁士(活弁)についてを含むブックマーク

「女給生活」(『北陸タイムス』1914年4月23日)

活動弁士のキャリアステップと待遇について。富山県の映画館を念頭においた記事。

今茲に弁士にならうと云ふ者があるとすると先づ見習として実際舞台に立ち乍(なが)ら主任弁士其他の訓陶を受けるのであるが、それがどうにか喋べれるやうになるには先づ六ケ月は掛る、乃(そこ)で前説明位が出来るやうになると十円乃至十五円位の月給にあり附く事が出来るのでそれから先きは腕否咽喉次第運次第で当地では三十円か三十五円が最高だけれども東京辺りには百円位取る者が六七人も居る相である

斯うなると締たもの、一館の主任として先生先生と奉られ下級弁士をコキ使ふ事が出来、斯う見にても高等官以上の月給取だよと脂下る素晴らしい勢ひのものである