覚え書:「耕論 核なき世界と平和賞 黒澤満さん、セルゲイ・バツァノフさん、中村桂子さん」、『朝日新聞』2017年10月07日(水)付。

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耕論 核なき世界と平和賞 黒澤満さん、セルゲイ・バツァノフさん、中村桂子さん
2017年10月7日

 「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)が今年のノーベル平和賞に決まった。核をめぐる情勢が変わるなか、受賞はどう影響を及ぼすか。核問題に取り組んできた3人に聞いた。

【特集】核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)
 ■日本の外交政策、転換点に 黒澤満さん(大阪女学院大学大学院教授)

 核兵器禁止条約ができた被爆72年の今年こそ絶好のチャンスでした。条約が発効に向けて動き出したいま、今回の平和賞授賞は非常に大きなインパクトを世界に与え、核軍縮の新しい流れを加速させるでしょう。

 核禁条約は、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)と被爆者の協働作業が生み出したものと言えます。核廃絶を求める被爆者の訴えを基礎とし、それを実現するべくNGOが非核保有国を動かした。グテーレス国連事務総長も「広島と長崎の勇敢な被爆者は、核兵器の壊滅的な影響を思い出させ続ける。彼らの証言は、感動と、条約交渉に道徳的な力を与えた」と条約署名式で賛辞を送りました。その意味で授賞は、被爆者の長年の努力をたたえるものでもあります。

 この条約は、核兵器は違法であると「悪の烙印(らくいん)」を押し、人類全体の生存と安全を守るための「人道的アプローチ」を突き詰めたものです。そうして国際社会は、人類の安全保障という究極の価値を共有しました。国家の軍事的安全保障をベースとしてきた従来の核軍縮交渉にパラダイムシフト(考え方の大転換)を迫るものなのです。

 これに応じようとしないのが、米ロ英仏中の核保有国や日本など「核の傘」に依存する国。保有国が不参加では実効性がないと批判しますが、条約の目的は長期的な視点に立ち、核兵器を非正当化することにあります。条約によって保有国と非保有国の対立が深まると懸念する声もありますが、核禁条約はあくまで核不拡散条約(NPT)を補完するもの。保有国はNPT第6条の誠実に核軍縮交渉をして完結させる義務をこそ履行すべきであり、それで対立や分裂は緩和され得るのです。

 「核の傘」は、もはや神話です。核実験やミサイル発射を繰り返す北朝鮮と米国がもし衝突して日本が巻き込まれる事態になったとしても、米国が東京を守るためにワシントンを犠牲にする覚悟で核兵器を使うなんてことはあり得ない。オバマ政権当時、核兵器を相手国より先に使わない「ノー・ファースト・ユース」(第一不使用)の対応が検討された際も、日本政府は核抑止力を弱めるからと嫌がった。核廃絶を唱える唯一の戦争被爆国の大いなる矛盾です。

 今回の授与は、人類のために核軍縮を進めよというメッセージです。日本政府は核保有国と非核国の橋渡し役になると言うが、どこまで本気か疑わしい。そんな政府の姿勢を正そうとしてきた被爆者の活動をたたえるものでもある今回の授賞は外交政策を変える好機です。ここで日本が態度を変えて行動できるかどうかは、世界の核軍縮と安全保障の行方を大きく左右するでしょう。(聞き手 核と人類取材センター事務局長・田井良洋)

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 くろさわみつる 1945年生まれ。大阪大学名誉教授、専門は軍縮国際法。日本軍縮学会初代会長、NPT再検討会議日本政府代表団顧問。

 ■地球の安保に核欠かせぬ セルゲイ・バツァノフさん(元ソ連・ロシア軍縮大使)

 ノーベル賞受賞決定は、政治的な成功ではあるでしょう。でも、そのインパクトは何でしょうか。核保有国の背中を押す必要はあると私も思います。

 核兵器禁止条約の前向きの面は、中小の国々を核軍縮に巻き込み、それらの国々が幾ばくかの影響力を及ぼせることや、核保有国に対して、小さな国々の主張をもっと真剣にとらえるように促すことなどです。

 逆に、この条約ですべての課題解決を要求するのは極めて難しいです。なぜなら、単に「人道の問題」ではないからです。

 「たった一発の核兵器の使用が皆にとっての人道的災害を作り出しうる」ことはもう長年わかっていたことでした。「人道を基礎とすることによってのみ、我々は核兵器を効果的に破棄できる」という考え方は、浅はかです。ほかにも考慮しなくてはならないことが、あるわけですから。

 核禁条約の運動は、核保有国の外側からの動きです。核保有国は外側の誰かに指図されるのは嫌ではないでしょうか。感情的にはもちろん、外側からの指図が実践的になり得るとは思えません。非核保有国は「あなたたちの核兵器を捨てろ」と命じているわけです。核保有国にしてみれば、ばかげたことだと聞こえるでしょう。

 核禁条約からは「検証」も抜けています。核保有国が参加するときに初めて検証の具体的方法を考えるというのですが、核兵器を禁止する条約を結ぶわけですから、「領土に核兵器が隠されていない」と他人にどうやってわからせるのでしょうか。

 今日、核兵器を巡って、少なくとも9カ国のプレーヤーがいます。数十年前には、旧ソ連と米国だけでしたから交渉することが可能でした。戦略爆撃機やミサイルの破棄をどうやって検証するか、などについてですね。しかし、今は同じ舞台に9カ国もいます。実現可能な新しい検証システムを作ることができるとは思えません。

 核禁条約の推進側は、本当に人道的なこと、つまり「戦争を防ぐ」という大きな目的を忘れつつあるように思います。私にとってみれば、逆に現在の安全保障を危険にさらしているようにもみえます。「魔法の力によって世界から核兵器が消滅した世界では、より戦争が起きやすくなる」ともいえるでしょう。

 「核兵器には前向きの役割がある」と言っているわけではありませんが、今日における核兵器という要素は、地球規模の安保体制の一部だということです。これを取り除くというのならば、戦争を防ぐという意味で、バランスをどうとるか考えなくてはなりません。戦争を防ぐには何が必要か。これは単純かつ、とても哲学的で、とても大きな問いかけなのです。(聞き手・松尾一郎)

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 Sergey Batsanov 1954年生まれ。旧ソ連で軍備管理と軍縮を担当、89〜93年にソ連・ロシア軍縮大使。05年からパグウォッシュ会議ジュネーブ事務所長。

 ■核の問題はみんなの問題 中村桂子さん(長崎大学核兵器廃絶研究センター准教授)

 北朝鮮情勢をめぐり、核に対して世の中が「寛容」とも言える状況になってきていると感じています。日本の政治家が核武装を平然と語り、「安全のために核兵器は必要だ」と、核へのタブー意識が薄れてきました。今回の平和賞が、世界が悪い方向に向かっているのを揺り戻すきっかけになればと思います。

 被爆者が訴えてきたのは核兵器の絶対否定です。力や暴力で何かを動かそうとした結果として、その被害を肌身で感じてきた被爆者の声は真実なのです。その真実をスタート地点にしなければと思います。

 核兵器禁止条約は、ICANを始め市民社会の貢献なしには実現しませんでした。核不拡散条約(NPT)体制での核軍縮が停滞している現状で、条約は核兵器のもたらす非人道性やリスクに大きな警鐘を鳴らしています。それはまさに、被爆者と市民社会が訴えてきたことです。

 長年、平和運動反核運動はありましたが、ICANなどの市民社会の動きは核禁条約を作るという一点で、様々な分野で活躍する人が集まって、知恵と力を出し合った。大同小異、違いを乗り越えて、新しい風をもたらしました。

 ICANは核軍縮に関する国際会議のたびに被爆者を招いてフォーラムを開いてきました。核兵器廃絶運動に関わる若い人が被爆者の話を聞き語り合うことで、自らが核の問題に携わっていく意義を再確認する。そうやって人の層を広げました。

 核兵器禁止条約において、広島・長崎と被爆者がこれまで行ってきたことは市民社会の動きを支える上で不可欠なものでした。私もそうですが、こういった活動に携わる人は被爆者と会って話すことが原体験になる。核兵器がない方がいいことを頭で分かっているだけでは限界があります。自分が動かないといけない、自分に役割があると強く思って動くためには、原体験が必要なのです。

 9月に亡くなった、長崎大学元学長で長崎の平和運動の中心的存在だった土山秀夫先生は常々、核兵器廃絶の運動を進めるには「理性と感性」が必要だとおっしゃっていました。核禁条約に至った、市民社会被爆者によるこのプロセスは、まさにこの言葉と合致するものです。

 日本における核兵器廃絶運動が、被爆者の存在に頼りすぎていた側面は否めません。被爆者がいなくなっていく中、全ての世代が主人公になっていくしかない。ノーベル賞は、核の問題が特殊な誰かの問題ではなく、みんなの問題であるという警鐘でもあると思います。広島と長崎、被爆者だけの問題ではないと意識が変わるきっかけになっていかないといけない。ノーベル賞には、そんなメッセージが込められていると思います。(聞き手・山野健太郎

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 なかむらけいこ 1972年生まれ。モントレー国際大学大学院修了後、平和問題に取り組むNPO「ピースデポ」の研究員に。12年から現職。
    −−「耕論 核なき世界と平和賞 黒澤満さん、セルゲイ・バツァノフさん、中村桂子さん」、『朝日新聞』2017年10月07日(水)付。

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(耕論)核なき世界と平和賞 黒澤満さん、セルゲイ・バツァノフさん、中村桂子さん:朝日新聞デジタル



覚え書:「漱石を知っていますか [著]阿刀田高 [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)」、『朝日新聞』2018年02月18日(日)付。


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漱石を知っていますか [著]阿刀田高
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)
[掲載]2018年02月18日

■独自のものさしで文豪を採点

 夏目漱石をどのように読むか。現代文学の主軸に位置する著者が、漱石文学を一作ごとに解剖し、その作品についての採点を試みた異色の書である。
 『吾輩は猫である』を皮切りに『明暗』までの13作品が著者の目で読み解かれる。作品は漱石の発表順になっているが、おのずとそこには流れがあるという。『猫』はとくにストーリーはなく、「観察と描写と博識のおもしろさ」だが、『坊っちゃん』にはストーリーがあり、いわば「善玉と悪玉」のその活劇が小説のパターンとなっている。『草枕』になると「芸術を思案し検討するページ」「男と女の関係など小説的なページ」がたがい違いに描かれる二重構造の作品にと変化しているというのだ。ストーリーの展開をなぞりながら(現代文に直しているのもわかりやすく)説いていくので、読者としてはなるほどとうなずける。
 著者は漱石文学は案外最後まで読まれていないのではとの指摘もするが、それは漱石の教養や知識、あるいは人間観が必ずしも小説としてすべて成功しているわけではないからと見ているようである。各々(おのおの)の作品を論じた末尾にはAからFまでの「ものさし」をつくり、ストーリーのよしあしから、知識の豊かさ、文章のよしあしなどを5段階に分けて採点し、六角形で図形化している。『猫』や『坊っちゃん』は19点、『草枕』20点、『三四郎』が25点だが、もっとも点が高いのは『それから』と『こころ』の28点といったところだ。『それから』の主人公・代助の《真実の愛を貫きたい》という人間としての“自然”こそ文学の存在理由だとも説く。知識の豊かさ、小説としての現実性に4をつけた以外すべて5点満点である。
 著者は、漱石作品は日本語の良い例を示し、「後代に著しい宝物を残した文豪」と認めるも、「女性軽視」の面があり、この点が“国民的作家”たりえないと惜しんでいる。
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 あとうだ・たかし 35年生まれ。作家。著書に『ナポレオン狂』『ギリシア神話を知っていますか』など。
    −−「漱石を知っていますか [著]阿刀田高 [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)」、『朝日新聞』2018年02月18日(日)付。

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独自のものさしで文豪を採点|好書好日




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覚え書:「ハックルベリー・フィンの冒けん [著]マーク・トウェイン [評者]横尾忠則(美術家)」、『朝日新聞』2018年02月18日(日)付。

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ハックルベリー・フィンの冒けん [著]マーク・トウェイン
[評者]横尾忠則(美術家)
[掲載]2018年02月18日

■ヤバイ少年魂、老年期にこそ

 133年前の名作がなぜ書評に? 驚きますよね。頁(ページ)を開くと漢字は数えるほど。平仮名と片仮名ずくめ。題名も「冒険」ではなく「冒けん」。児童本? 「NO!」。従来の翻訳は「何が語られているか」が問題。本書は違います、「どう語られているか」が重要。浮浪者のような少年ハックが一人称で語り、そして書く(スペルの間違いにも無頓着)方言も翻訳者が素晴らしい口語体に訳し、あの時代、あの場所に読者をアブダクト(拉致)してくれる。アメリカ文学はここから始まったとヘミングウェーに言わしめた、マーク・トウェインの歴史的記念碑作でもあります。
 本書の前編『トム・ソーヤーの冒険』は毒気の抜けた良い子のための児童書って感じだが、某批評家はトムを「good bad boy」と呼び、ハックを「bad bad boy」と呼ぶ。『ハックルベリー・フィンの冒けん』は人種差別に対する痛烈な批判によって悪漢小説として禁書に選定されたこともあります。
 ちょっと話題を挿絵に振ると、ここにはノーマン・ロックウェルの原質がある。まるで舞台の名演技を見ているように思えます。
 ハックは自由奔放で無防備、無手勝流。黒人ジムとのロードムービー的川下りには南部の生活が生き生きと活写され、それがぼくたちの子供時代の原郷へ魂が運ばれていくそんな現実と幻想の中で、内なる野性の少年魂の呼吸がうずく。学校に興味のなかった僕たちガキ大将の集団は野山や川を疾風のように駆け抜ける野盗の一団で、誰もがハックでトムになりたがる奴(やつ)はひとりもいなかった。
 僕たちが抱えているパンドラの函(はこ)にはヤバイ、ダサイ、エグイ冒険心と不透明な悪意がどっさり詰まっていた。その中身は老年期真っただ中で創造の宝物に変わって今こそ必要とするハック魂に気づかされた思いです。本書は老年期のための大人の児童書だと勝手にきめつけています。
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 Mark Twain 1835〜1910 米国の小説家。訳者の柴田元幸氏は54年生まれ。翻訳家。東京大名誉教授。
    −−「ハックルベリー・フィンの冒けん [著]マーク・トウェイン [評者]横尾忠則(美術家)」、『朝日新聞』2018年02月18日(日)付。

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覚え書:「古典百名山 E・H・カントーロヴィチ「王の二つの身体」 大澤真幸が読む」、『朝日新聞』2018年03月18日(日)付。

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古典百名山 E・H・カントーロヴィチ「王の二つの身体」 大澤真幸が読む

古典百名山
E・H・カントーロヴィチ「王の二つの身体」 大澤真幸が読む
2018年03月18日

E.H.Kantorowicz(1895〜1963)。歴史学者筑摩書房提供

■「神学」のような政治哲学

 1642年のイングランド清教徒革命は、王権を否定した最初の市民革命だった。このとき清教徒が掲げたスローガンが奇妙だ。「王(King)を護(まも)るために王(king)と闘う」。王を排しているのに王を護るとは?
 西洋近世の王権は、王は二つの身体を有するとする独特の理念によって、正統化されていた。二つの身体とは、自然的身体と政治的身体である。自然的身体は通常の肉体のことで、衰えるし、過ちも犯す。政治的身体は不可視の抽象的身体で、愚行も失敗も犯さない。それは政体の持続性や威厳を代表していた。清教徒が護ろうとしたKingは政治的身体である。
 カントーロヴィチの『王の二つの身体』は、この政治神学が成立するまでの複雑な歴史を辿(たど)った労作である。結論的に言えば、王の身体の二重性は、神であり人でもあるキリストの、政治への応用である。特にパウロが教会を「キリストの身体」と呼んだことが大きい。教会が王国に置き換わったのだ。
 結果はこういうことなのだが、奇妙なのはそこまでの過程だ。王権がカトリック教会に強く依存していた中世の段階では、この政治論は完成しなかった。王権が教会への依存度を下げ、かなり世俗化したときに、ほとんど神学のようなこの政治哲学が完成する。いわば、王はキリストから離れたことでかえってキリストに似てきたのだ。
 カントーロヴィチによれば、政治的身体は初期の「法人」のひとつでもある。われわれは法人を経済や法の機能的必要に応えるきわめて世俗的な制度と考えるが、源流には「キリストの身体(神秘体)」がある。
 一般に、民主的な市民社会は絶対王制を倒して生まれたとされる。それは正しいのだが、カントーロヴィチが示そうとしたことは、清教徒革命に現れているように、王権を乗り越える契機自体が王権の中から生まれたということである。
 日本の皇室はよく英国王室と比べられる。だが背後の観念はずいぶん違う。(社会学者)
    −−「古典百名山 E・H・カントーロヴィチ「王の二つの身体」 大澤真幸が読む」、『朝日新聞』2018年03月18日(日)付。

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覚え書:「ささやかな英雄性、共感呼ぶ カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞 寄稿、翻訳家・柴田元幸」、『朝日新聞』2017年10月09日(金)付。

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ささやかな英雄性、共感呼ぶ カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞 寄稿、翻訳家・柴田元幸
2017年10月9日

ノーベル文学賞受賞が決まり、記者会見するカズオ・イシグロさん=5日、ロンドン、石合力撮影
 英国の作家カズオ・イシグロは、一九八二年の第一長篇(ちょうへん)刊行以来、記憶という実はきわめて曖昧(あいまい)なものを通して、人が自分の過去と、さらには自分自身と向きあうことの困難と英雄性を主たるテーマに、読み応えある物語を端正な文章で綴(つづ)った作品を着実に発表してきた。新作の発表が世界各国の読者に待ち望まれている数少ない作家の一人であり、今回のノーベル賞受賞は、まず妥当と言ってよいと思う。

 第一長篇『遠い山なみの光』刊行の翌八三年、英国の文芸誌『グランタ』若手英国作家特集号で、長崎生まれのイシグロは、インドのボンベイ(現ムンバイ)生まれのサルマン・ラシュディらとともに若手二十人のなかに選ばれ、英文学がもはやアングロサクソン系だけのものではなくなったことを実感させた。

 『遠い山なみの光』は戦後の長崎と現代のイギリスを舞台とした作品で、やや生硬とも言えそうな几帳面(きちょうめん)な英語で書かれている。当時作者の背景を知らなかった一読者としては、この作家は日本の受験英語をきちんと身につけた人物ではないかと勝手に憶測(おくそく)したものである。ずっとあとになって、日本語で書かれた小説が英訳されたかのような効果をめざした、と作家本人が語るのを聞いて、なるほどと合点がいった。

 ■自分の過去と対峙

 八六年発表の『浮世の画家』も、自分の戦時中のふるまいを徐々に直視していく日本人画家を主人公としており、イシグロは日本を描く作家だというイメージが定着しかけた。

 だがイシグロの場合、いわゆるマイノリティ作家が、自分が一番よく知っている世界だからとの理由で自分の生まれ育った共同体を描くという、よくあるケースとは違っていた。五歳で日本を離れたイシグロにとって、日本とは、幼少時の淡い記憶はあるものの、谷崎潤一郎の小説や小津安二郎成瀬巳喜男の映画で知った未知の世界であり、二冊の自作で行なったのも、知らない国の想像/創造にほかならなかった。

 それとともに、記憶を通して過去と向きあい自分自身と対峙(たいじ)する、というイシグロの基本的テーマもこの第二作から本格化した。

 日本を描く日系作家というイメージを払拭(ふっしょく)するかのように、八九年刊『日の名残(なご)り』では、執事というきわめて英国的な職業に携わる人物に焦点をあてて、自分がかつて悪に奉仕したことを自覚しつつある人間の不器用な自省を共感をこめて描き、権威あるブッカー賞も受賞して、作家としての地位を揺るぎないものにした。

 九五年刊『充(み)たされざる者』は、おそらく最大の問題作である。迷路のような都市に迷い込んだピアニストをめぐる、時間も空間も歪(ゆが)んだ幻想性と、いつもの端正な文章とのミスマッチが独特の雰囲気をかもし出す大作であり、いわば上級篇イシグロ作品として評価する向きも多い。

 ■共同体の記憶にも

 前々作の現実感と前作の幻想性が混ぜあわされたかのように不思議な上海が現出する『わたしたちが孤児だったころ』を経て、二〇〇五年刊『わたしを離さないで』はクローン人間というSF的設定を導入しつつも、個人にはどうにもならない現実の限界が正面から描かれ、静かななかにも劇的な展開が導入されて、『日の名残り』と並ぶ人気作となっている。

 いつになくユーモラスな側面も見せ、作家本人に会うたびに感じられる静かな剽軽(ひょうきん)さをしのばせる音楽小説集『夜想曲集』をはさみ、一五年に最新作『忘れられた巨人』を刊行。個人の記憶のみならず、共同体全体の記憶の問題にも踏み込んで、なかばおとぎばなしのような中世の英国を描きながらも、現代社会を考える上での契機ともなる一作である。

 『日の名残り』を踏まえて、イシグロは、人はみな執事のようなものではないか、という趣旨の発言をしている。組織や世界を牽引(けんいん)していくいわゆるヒーローではなく、組織やより上位の個人に仕える人間のささやかな英雄性にこの人は目を向けてきた。多くの読者の共感を得てきた一因もそこにあるのだと思う。

 受賞インタビューでも日本からの影響を認めているイシグロだが、その日本では、土屋政雄という名訳者に恵まれたことを最後に指摘しておこう。
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ささやかな英雄性、共感呼ぶ カズオ・イシグロさん、ノーベル文学賞 寄稿、翻訳家・柴田元幸:朝日新聞デジタル