yuhka-unoの日記

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「昔は良かった。発達障害者も社会の中で受け入れられて生活していたんじゃ」という幻想

発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

上の記事、発達障害についてある程度知識がある人なら、すぐにトンデモだとわかる内容なんだけど、でも実際、発達障害に対するトンデモ認識としては、わりとよくある、というか、「典型的なトンデモ認識」と言っても良いような内容なので、これを機会に、発達障害についてのよくある誤解について書いてみることにする。
 

これら精神障害や発達障がいは、近代社会が「発明」したものかもしれず、近代社会成立以前にはこのような障がい名は世界に存在していなかった。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

精神障害発達障害の名称が近代以前に存在していなかったのは、近代社会が「変わった人」を排除するために、そのようなカテゴライズを必要としたのだというのは、発達障害に纏わる典型的な誤解のひとつだが、実際のところは、他の多くの障害や疾患と同様、近代になってから医学が発展したからだ。
身体的な疾患だって、病気の原因が突き止められて病名がついたのは、近代になってからというのは、ごまんとある。身体の仕組みについての研究が進んだことによって、それまで私たちの身体の中に存在していたものが解明されて、名前が付けられたものも、ごまんとある。例えば、神経細胞について「ニューロン説」が提唱されたのは、近代になってからだが、もちろんそれ以前から、私たちの身体の中には「ニューロン」や「シナプス」は存在していて、情報伝達を行っていた。それと同じだ。「発明」というよりは「発見」と言ったほうが良いだろう。
 
アスペルガー症候群」の名称は、オーストリア出身の小児科医ハンス・アスペルガーに由来する。

1944年、彼はアスペルガー症候群の最初の定義を著した。4人の男児において、彼が「自閉的精神病質」と呼んだ、自閉症(そのもの)と精神病質(人格の疾患)を意味する行為や能力のパターンが見られた。そのパターンには、「共感能力の欠如、友人関係を築き上げる能力の欠如、一方的な会話、特定の興味における極めて強い没頭、ぎこちない動作」が含まれる。彼はアスペルガー症候群(AS)の子供達が、興味のある事柄について非常に詳細に語る能力を持っていることから、彼らを「小さな教授たち」と呼んだ。

アスペルガーは、この行為のパターンの同定が広く認識される前に死亡した。なぜなら、彼の仕事はほとんどドイツで行われ、ほとんど翻訳されることがなかったからである。「アスペルガー症候群」という術語を初めて用いた人物は、イギリスの研究者ローナ・ウィングである。彼女の論文「アスペルガー症候群−臨床報告」が1981年に発表され、1943年にカナーが発表した従来の自閉症モデルに異議を申し立てた。

ハンス・アスペルガー - Wikipedia

アスペルガー症候群」という名称が初めて使われたのは、ローナ・ウィングが1981年に発表した論文の中なので、アスペルガー症候群がつい最近になって知られるようになったのは、ごくごく当たり前の話である。ちなみに、ウィングがこの研究に取り掛かった動機は、娘が自閉症だったからだそうだ。
私自身は発達障害当事者ではあるものの専門家ではないので、発達障害の歴史について詳しいとは言えないが、それでも、アスペルガー症候群及び自閉症スペクトラムの名付けとカテゴライズについて語るのなら、レオ・カナー(1894年-1981年)、ハンス・アスペルガー1906年-1980年)、ローナ・ウィング(1928年10月7日-)の名前くらいは出てきそうなものだが。「最近になって発達障害の名称が広まったのは、近代社会が『変わった人』を排除するため」という認識は、発達障害の研究に携わってきた人たちの存在を無視していると思う。
 

逆にいうと、我々の近代社会が成立するために必要だったもの(このような「変わった方々」を排除することで社会は統率され生産性が上がっていく)が、これら「精神障がい」や「発達障がい」等の障がい名と障がい基準だと言える。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

発達障害は近代以前には「発見」されていなかったのだから、近代以前の社会が発達障害者をどのように扱ったのかはわからないが、精神障害についてはある程度わかっている。

精神医学(Psychiatrie:ドイツ語)という言葉は、1808 年にドイツの医学者ライルJ.C.Reilによってつくられた。 その発端は、啓蒙思想の残響を受けながら18 世紀後半から 19 世紀前半に取り組まれた精神病者の解放運動によって徐々に構築されていったものである。それまで精神病者は「狂人」として、収容施設や療養院に拘束され非人間的な処遇を受けていた。(ガス室で虐殺されることさえあった。)これに対して、ヨーロッパ各地に精神病者へのこうした非人間的処遇に反対して立ち上がる人が登場した。 たとえばイギリスのヨーク市に理想的な施設「ヨーク・リトリートYork Retreat」をつくったクエーカー教徒の商人チューク、「狂者を直接に治すことができるのは精神治療しかない」として収容所の改革を説いた前述のライル、バイロイト近郊の施設を模範的な精神病院に建てかえ、病者と生活を共にした同じくドイツの医師ランガーマンJ.G.Langermannらがその例である。その中でも特にフランスのフィリップ・ピネルが、1793 年に、パリ近郊のビセートル病院で患者を鉄鎖から解放した事績は有名である。ピネルは精神病院の改革者として行動すると同時に、 1801 年には『精神疾患に関する医学‐哲学的論考』を著して「近代精神医学の父」とみなされている。
―精神医学 - Wikipedia―

まぁ「お察し」な内容である。近代以前の社会において、精神障害者の扱いは、決して良いものではなかったようだ。ヨーロッパにおいて、精神障害者魔女狩りの対象にされていたのは有名な話である。少なくとも、精神障害についての歴史を少しでも調べてみたのなら、精神障害の研究と当事者に対する扱いは、近代になってから格段に進歩していることがわかるはずだ。
これはあくまでも私の推測に過ぎないが、「変わり者」として魔女狩りの対象になった発達障害者も、けっこういたのではないだろうか。偉大な功績を残した発達障害者の記録は後世に残るが、魔女狩りの対象になった発達障害者の記録は、なかなか後世には残らないだろうしね。
 
こういった「昔は良かった。発達障害者も社会の中で受け入れられて生活していたんじゃ」という幻想は、「三丁目の夕日」的な世界を信仰する人たちによくある「昔は良かった。貧乏でも家族の絆があって、皆が助け合って暮らしていたんじゃ」という幻想と同じ種類のものだと思う。「昔の人は寛容だった」という、よくあるユートピア幻想だ。
私は、この手の「昔の人は寛容だった」という認識は、実のところ、酒乱やセクハラやDVや体罰といったことに対して「寛容だった」のではないかと思っている。そりゃあ、日本社会のマジョリティである「オヤジ」たちにとっては、昔の日本社会ほうが「寛容だった」だろう。白人男性にとっては、昔の西洋社会のほうが「寛容だった」のと同じように。
三丁目の夕日」的な時代や、近代以前の社会が、社会的弱者にとって良い時代だったとは、私にはあまり思えないのだけれど。現に、日本は一昔前まで、障害者が社会に出ることが当たり前でなかったのだから。女性や黒人や同性愛者といった人たちにとって、昔の「古き良きアメリカ」は、本当に良かったのかという話である。
私の父も何らかの発達障害があると思われるのだが、父の生育暦を聞いてみると、発達障害というものがよく知られていなかった時代の、周囲の大人たちの父に対する逆効果な対応や、集団に馴染めないがゆえの苦悩を体験しているので、現代よりも「三丁目の夕日」の時代のほうが、発達障害者にとって生きやすい社会だったとは、私には到底思えない。

 

僕は学者でもジャーナリストでもなく「支援者」だから、本人たちが必要であれば、たとえその裏に近代社会がもつある意味「暴力的カテゴライズ」に気づいていたとしても、それに反対はしない。
発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない〜アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

精神障害発達障害について名称を付けることを「暴力的カテゴライズ」だと言うのなら、「インフルエンザ」「骨粗鬆症」「悪性腫瘍(癌)」「エイズ」などの身体的疾患の名称も「暴力的カテゴライズ」なのだろうか。身体的疾患についても世間の偏見が強い疾患は多いが、疾患や障害をカテゴライズして名前をつけることと、その疾患や障害に対して世間が偏見を持つことは、基本的には別の話だ。もし名前が付けられずカテゴライズされなかったとしたら、「原因不明の奇病」という扱いで、患者は適切な治療を受けることができないし、患者の周囲の人たちも、適切な接し方がわからないままということになってしまう。
元記事を書いた人は、精神障害発達障害の名称について、「世間が偏見を持って排除するために、そのようなカテゴライズが生まれた」と考えていそうな節だが、順序が逆である。大抵の疾患名や障害名のカテゴライズは、原因の究明と予防と治療・療育を目的としている。それに世間が勝手に偏見を持っているだけだ。身体的疾患については、このことが当たり前にわかるのに、精神障害発達障害についてはわからないとしたら、それは、精神障害発達障害に対する偏見がそうさせているのではないかと思うのだが。「暴力的」なのは、カテゴライズそのものではなく、カテゴライズに対する世間の無理解と偏見だ。
 
まぁ何と言うか、「昔は良かった」とか「伝統的な子育て」とやらのために、発達障害者を利用しないで頂けますかねぇという感じである。面倒臭いことこの上ない。
 
 
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