日毎に敵と懶惰に戦う

酒と食い物と美術と旅と横浜…などの記録。Twitterやってます @zaikabou

横浜会議2004 なぜ、国際展か?

横浜会議2004「なぜ、国際展か?」

横浜会議2004「なぜ、国際展か?」

ありゃりゃ、登録されていないのか。ちゃんとISBNは付いているのに。

[横浜会議2004-なぜ国際展か?]  
 A5判 254p(モノクロ) 1,200円(税込)
 2004年秋に行われた衝撃的なシンポジウムの全記録。パネラーは磯崎新、岡部あおみ、北川フラム、南条史生、長谷川祐子多摩美術大学芸術学科建畠ゼミ企画。

多摩美のゼミの企画としてシンポジウムを行ったんだけど、磯崎新横浜トリエンナーレのディレクターを返上する宣言をした、なかなか面白いシンポジウムの記録。もともと本にするつもりではなかったようだが、BankART1929が版元になって出版に漕ぎ着けた。確かに、出版するに値する面白い内容。
http://www.ycan.jp/archives/2005/12/2004_2005.html
当日のレポはこちらで
http://www.ycan.jp/archives/2004/12/2004_1.html


最初、長谷川祐子と、北川フラムと、南條史生が、それぞれの活動をレポートしたのまでは普通なんだけど(それも内容は面白いけど)、磯崎新が第2回横浜トリエンナーレの構想を解説して、そして、「これは時間が足りません。だからもう一年延期しようと言ったけど、横浜市は駄目だと言った。だから私は降ります」と言ったところでディスカッションへ。ここから盛り上がる。
磯崎新は、横浜トリエンナーレを『世界でいくつかの、三つ、四つの国際的に評判になっているビエンナーレトリエンナーレと互角な格を持つような場所をここで作ってほしい』という理解で進めていた。そして、普段は裏に隠れている美術財団を、はっきりとバックに付いた形で前面に出してきて、それの間で競わせるような企画を出した。
それに対して、北川フラムは地域との協働、場所の固有性のような話をしていて、南條史生は若い作家を発掘していく意義なんかを話していて、コマーシャリズムが前面に出てくることを批判していて、どうも出発点と言うか、現状認識がずれている。
そんでもって、磯崎先生『キュレーターは思い上がっているのではないかと』とか言い出すもので、キュレーターの意義なんかを巡ってなかなか議論が白熱する。そして、磯崎先生は、美術財団に寄りかからずに開催できる、100万人の入場収入を見込めて、それを前提に運営するような企画も提示する。
これは、浅田彰+ポール・ヴィリリオ青木淳福田和也+ダニエル・リベスキンド+張永和、坂本龍一+アレクサンド・ソクーロフ隈研吾、堪*1木野衣+アッバス・キアロスタミ西沢大良押井守マシュー・バーニー+ゲーリー・チャン、島田雅彦+蔡國強+シー・ジェイ・リムの各組にテーマを与えて、それぞれテレビ局のスタッフを絡ませるという企画。うわ、確かに面白そうだし100万人の入場は見込めるかもしれないけど、実現できるのかこんなもん、みたいな案なわけだが、だけど、横浜市はそれも駄目だと言った、と。
さらに話は転がって、第1回の横浜トリエンナーレ後、振り返ったり次回につなげたりする様な会議を持たなければいけなかったのに、南條さんはぜんぜん呼ばれなかった、とか、横浜市の運営のありかたへの不満も出てきたり。
そんなこんなで、深夜にまで及んだシンポジウムの記録。いやあ、なかなか面白かった。こんなことの後に引き受けた川俣正は、やっぱりタダモンじゃないわ。

あの膨大な作家とさらに膨大な関係者の利害や条件を「とにかく作りましょう」の一言で束ねた(のだろう)結果、国際的アートイベント全体を比喩でもなんでもなく、自らが行ってきた作品の延長にあるような「仮構物の出現」としてしまったのだとしたら、川俣氏という人はほとんど「バケモノ」みたいな存在として立ち現れてくる
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20051017

*1:本当は木偏

団地ナイト2

団地ナイト2
【日時】2006年2月25日(土曜日) 18:30会場 19:30開演
【料金】¥1300(飲食別) *チケットの前売りはありません。全て当日券ですので、当日会場にお越しいただきお買い求めください。
【場所】新宿ロフトプラスワン(地図)
http://homepage2.nifty.com/danti/dn2.html

うわあ、行かなくちゃ、行かなくちゃ

以下のような人にはとくにお薦めです。
・「美しい景観を創る会」認定の「悪い景観100景」に、なんとも割り切れない思いを抱く人。
・表参道の坂道がなんで「丘(ヒルズ)」なんだとむかつく一方で、早く行って買い物してみたいと思う人。
・見慣れた街の、電柱やコンビニや自販機や住宅が続くとりとめのない風景を、ふと「写真に撮りたい」と思った瞬間がある人。
・団地に興味のある人、および「団地に興味のある人」なんてどのくらい居るんだろうということに興味のある人。
江戸東京博物館の企画展示「東京エコシティ:新たなる水の都市へ」は、いい展示だが、キャプションの文章など、工夫すべき余地はあったはずだと感じる建築史学者、およびその日記の読者。
http://fieldsmith.net/bslog/archives/2006/02/post_372.html

うわあああ、行かなくちゃ、行かなくちゃ

今日の日記

8時半起床。家でゆっくりして疲労の回復を図る。医者通いもそろそろ佳境に入ってきた。もう少し我慢して完治を目指そう…って、先週末とか昨日とか、どこが「安静」だよ、ってところではあるが。
昼飯食ってから出かけて会社へ。仕事をいろいろ片付けてから、東京駅へ。途中、新川崎の駅で崎陽軒の「おべんとう・春」を購入。東京駅の売店でプレミアムモルツ購入。
19時24分の「あさま」に乗ったが、東京駅で新幹線の扉が開いたのは19時23分であった。相変わらず、東京駅は発射直前にならないと扉を開けない。到着から清掃、出発まで、かなり無理をしたスジを引いているのだなあ。これ以上の増発は本当に限界そうだ。やはり、新宿延伸するんだろうか。
車内で弁当使い、ビール飲んで、21時07分に長野駅着。駅近くのJALCITYに宿泊。

私の日記のスタンス

日記になんでも書く、というスタンスを取ることは、有る意味、日記に書いてある内容を読むことで、その人のすべてが理解できると誤解させるリスクを負うことだと思った。そんなはずはないのだけれど。ま、だから、そういうスタンスは取らない。
私の場合、ある意味、すべてがネタであり、それはつまり嘘だ、とか誇張している、ということではなく、こんなの別に面白くないじゃん、な平々凡々な日常の積み重ねであったりするわけだが、それを含めてネタなんである。だから、わりと、取捨選択して書く。行動の基本的な事実関係は押さえるけれど、それ以上はあんまり書かない。
そして、一見俯瞰的な視点で書いているようなことも、それはまさしく私の日常であり、つまりそういう「しょーもないこと」を考えていること自体が私の日常であって、生活とか恋愛とか仕事と言うのはある意味、その思索の敷衍に過ぎない。過ぎないって書いちゃうと語弊があって、それぞれの場面においては真剣なのであるが、しかしそれは日常の思索の過程をどう当てはめていくか、という実践の場であり、その生活自体が思索の対象ではない。
生活と言うのはエピソードの積み重ねであるから、そこに矛盾しない一貫性を見出すことなど出来なくて、でも自分が生活への思索を始めるとその一貫性を求めてしまいそうで、怖い。だから、その代わりに交換可能な理屈を積み立てて、生活に放出することで自我を保ったりしている。
それはもう、ちっちゃいころから変わらなくて、小学校のころ、日記を、毎日先生に出さなくてはいけなくて。自分、書くことねえな、とか思ってぜんぜん書かなかったんだけど。ある日何を思ったか書いた内容が「オバタリアンとは何か」みたいな似非考察。提出後返ってきた時の先生のコメントが「日記久しぶりですね」だけだったのは今にしてみれば結構恥ずかしい体験なわけであり、あのころから予兆はあったわけだが。
ま、とかなんとか言いつつ、実はあんまり日常を書かないのは、彼女と会ったときの話題を温存するため、という指向が一番働いているようは気もするが、じゃあおまえらの関係はネタで成り立っているのかと言われればその通りです、話のネタと食い気でつながっております、とここで書く、のは、さてどんなもんだろう。怒ったらあとで電話かメールくれ。冷たいとか言われるのはこのあたりに原因があることは自覚してるのであるが…