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ナサニエル・ホーソーン

(読書)
なさにえるほーそーん

(ナザニエル・ホーソーン、Nathaniel Hawthorne 1804年7月4日 - 1864年5月19日)
アメリカ合衆国の小説家。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。

概要

 1804年7月、マサチューセッツ州の寒村セイラムに生まれる。実家はアメリカ建国期より続く名家であり、中でも家系の二代目にあたるジョン・ホーソーンが、セイラム魔女裁判の判事であったことはとみに有名。また、初代のウィリアム・ホーソーンもクエーカー教徒迫害に関っており、こうした先祖達のアメリカで果たした役割が、ホーソーンの創作活動に大きな影響を与えたとされている。
 作家として名声を馳せたのは、1850年に発表した『緋文字』以後。だが、それに先んじての作家としてのキャリアは長く、すでに1837年に彼の代表的な短編集である『二度語られた物語』を発表しており、その出版に至るまでの12年にも及ぶ文学修行時代の隠遁生活も数えると、26歳でデヴューしてとんとん拍子に成功した弟分ともいえるメルヴィルに比べて、最初は随分苦労している。しかし、この文学修行時代の苦しい経験と、自分の作る物語への妥協のない姿勢*1が、ホーソーンのその後の創作活動を支える核となる。1851年には第二長編『七破風の屋敷』、1853年には第三長編『ブライズデール・ロマンス』、1860年には最後の長編となる『大理石の牧神』を物す。また、これら長編の出版の間にも第二短編集も発表するなど、旺盛な創作活動を展開する。
 文学マーケットがまだ未成熟であったこの時代の作家の常として、ホーソーンも自らの筆だけで生活を作り上げることは出来なかったが、彼の場合、それでも比較的幸福な人生を送ったということが出来る。同時期の作家と比べてみても、晩年はニューヨークのアパートで世間から忘れられてひっそりと死んだハーマン・メルヴィルや、ボルティモアの路上で客死したエドガー・アラン・ポーなどと比べ、アメリカ大統領が友人であったホーソーンは、1853年から四年間リヴァプール領事として公務を勤め上げるなど、それなりに恵まれた人生を送っている。1860年、三年にもわたるヨーロッパ旅行から帰ってきたホーソーンは、最後の長編を書き残すが、それ以後は健康を崩し、1864年、旅行中のニューハンプシャー州のプリマスにて永眠する。60歳。
 ホーソーンの作品は、長編よりも短編においてその資質を十全に発揮している。代表的な短編である「若きヤング・グッドマン・ブラウン」などは、盟友メルヴィルに激賞され、またカフカを先取りしていると言われる「ウェイクフィールド」などは、20世紀のアルゼンチンの作家ボルヘスに、「文学における最高傑作の一つ」と言わしめる。また、現代アメリカの作家ポール・オースターなども、この「ウェイクフィールド」にインスパイアされて、『幽霊たち』を書き上げるなど、同世代は勿論のこと、後世にも多大な影響を与え続けている。彼の文学の本質は、メルヴィルがすでに同時代に喝破したように、表面上はたとえ「小春日和の陽光」が指しているような穏やかさがあったとしても、その「魂の裏側」には、何十倍もの「暗い闇」が存在しているという、その秘められた虚無の強さであったといえる*2。勿論、このメルヴィルの評は、多分にメルヴィル自身の資質を自らがコメントしている文章だとは言えなくもないが、同時にホーソーンの内側にも、深い闇があったことは否定できない。自らの家系への愛憎半ばする不安から始まり、ピューリタニズムの根源を歴史の中で問い直そうとしたホーソーンの物語には、確かに人間の心性の裏にある不可知な衝動への、冷静な視線が存在していたといえる。

代表作

*1:習作時代に書き上げた長編『ファンショー』の出来が気に食わず出版後に回収したり、短編集などは出版することもなく全て焼き捨てたりなどしている

*2:この一文中の括弧内のキーワードは、全てメルヴィルによって書かれたホーソーン論「ホーソーンとその苔」の原文より翻訳引用

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