刀剣、特に日本刀を作る職人。鍛人(かぬち)、鍛師(かなち)、刀鍛冶(かたなかじ)、刀匠(とうしょう)などとも呼ばれる。刀剣を製造することを鍛刀(たんとう)といい、鍛刀される場所・地域を鍛刀地(たんとうち)という。また、鍛刀地および鍛刀技術や特徴を同じくするものを刀派(とうは)、流派(りゅうは)、刀工群(とうこうぐん)、刀工集団(とうこうしゅうだん)と呼ぶ。
石見国邑智郡出羽郷を拠点とした刀工。銘に「直綱」あるいは「石州出羽住直綱」と切る。活動時期は南北朝期から室町初期にかけてであり、初代直綱から数代続いたとされる。 石見国邑智郡出羽郷の刀工 参考文献 石見国邑智郡出羽郷の刀工 寛政四年(1792)の奥書をもつ『古刀銘尽大全』や寛政八年(1796)刊行の『本朝鍛冶考』によれば、石見国出羽鍛冶の祖は、鎌倉末期の応長年間(1311〜1312)に活動した左衛門尉盛綱であった。そして盛綱の子が初代直綱とされる。 初代直綱は南北朝期の建武年間(1334〜38)に活動*1。弘安三年(1280)に生まれ、貞和四年(1348)に69歳で没したという。相模国出身で刀…
備中笠岡の刀工。備後の鞆の刀工貞次の子。15世紀後半、笠岡城主陶山宗兼の招きで笠岡に移住したとみられる。 「備中国笠岡住宗貞作」 参考文献 「備中国笠岡住宗貞作」 東京国立博物館所蔵の刀剣の中に「備中国笠岡住宗貞作」「文明十三年八月日」と刻銘された脇差一口がある。その銘から、文明十三年(1481)に笠岡の刀工宗貞によって作られたものであることが分かる。 刀工系譜によれば、宗貞は備後鞆の刀工貞次の子とされる。宗貞の項には「備州鞆住宗貞作 寛正六年」とある。このことから、宗貞は寛正六年(1465)時点では鞆に居住し、その後、当時の笠岡城主陶山宗兼の招きに応じて笠岡に移ったものと推定される。 なお文…
安芸国大山を拠点とした刀工。大山鍛冶は筑前の左文字派出身の守安を初代とする。宗重は15世紀中頃の応永・康正年間から16世紀末の文禄年間まで活動が確認されており、同名の人物が3〜4代続いたと考えられている。 大山鍛冶の系譜 大山住宗重の作刀 参考文献 大山鍛冶の系譜 寛政四年(1792)の奥書をもつ『古刀銘尽大全』には、最も古い安芸国の刀工として鎌倉末期の入西が挙げられている。入西は筑前の法師鍛冶良西の子または弟とされる人物で、永仁年間に安芸国に移住したという。古剣書には「安藝国入西 永仁伍年閏十月日」の銘文の記載があり、その2年前の永仁三年(1295)のものとみられる「安藝国入西 永仁三年六月…
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。 舞楽太刀 五阿弥派 参考文献 舞楽太刀 毛抜形太刀は、柄に毛抜形の透かしが施されることに由来する。平安中期頃に登場した太刀の一様式であり、日本刀の原型と考えられている。柄(鉄製)と刀身とが接合され、一体となるよう作られている(共鉄造り)。 吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口と、「正光」銘の2口、計4口の毛抜形太刀がある。いずれも平安期の毛抜形太刀の模古作と伝わる。『福山志料』巻…
大手町にある石碑。 「加洲刀工兼巻末裔中村家跡地」と。 刀工の名前は難しくてなかなか覚えられません^^; 石碑があるのはわかってましたが。 県のHPで調べました。 「太刀 銘加賀国金沢住兼巻作」は県の文化財に 指定されており、辻村兼若に次ぐ加賀の名工 とのこと。 3代藩主前田利常公に招かれたそうです。 勉強になりました!
平田鍛刀場さんのSNSの投稿で 和銑(わずく)というものをプレゼントして頂きました♪ 平田鍛刀場さんは、東京は青梅市で伝統的な日本刀とほぼ同じ工程で作られる包丁やナイフを丁寧に制作しているという今ではなかなかお目にかかれない存在 www.hiratatantoujou.com 鍛冶場というなかなか触れる機会のない作業を体験出来る見学・体験会を実施しております。 何を隠そうこれに参加出来たらと思いTwitterをフォローさせて頂いておりました。 なかなか出掛けにくいご時世なのではやく気兼ねなく出歩ける日常が戻ってきて欲しいっす。。。 そんな中 古くから発展してきたたたら製鉄という製鉄法を用いる際…