最初の勅撰和歌集。八代集の第一。二〇巻。
延喜五年(九〇五)の醍醐天皇の命により、紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)が撰し、同一三年ころ成立。六歌仙・撰者らの歌約一一〇〇首を収め、仮名序・真名序が添えられている。 なお、紀貫之が書き下ろした古今和歌集仮名序は、日本の文学と仮名の定位に莫大なる影響を与えた。
歌風は、雄健でおおらかな万葉集に比べ、優美・繊細で理知的。古今集。
志賀の山越えにて、山の井に女の手あらひて水をむすびて飲むを見て、よみてやる むすぶての しづくににごる やまのゐの あかでもきみに わかれぬるかな むすぶ手の しづくに濁る 山の井の あかでも君に 別れぬるかな 志賀の山越えの際、女性が溜まった湧き水で手を洗い、手ですくって飲むのを見て、詠んで贈った歌 すくいあげた手からこぼれるわずかな水にも濁ってしまうような、そんな水の少ない山の井では飽き足らないのと同じように、逢ったばかりで十分時間もたっていないのに、もうお別れすることになるのですね。 数ある貫之歌の中でも名歌に数えられる歌。第四句の「あか」には「閼伽(あか)」、すなわち仏前に供える水の意…
越のかたなる人にやる おもひやる こしのしらやま しらねども ひとよもゆめに こえぬよぞなき 思ひやる 越の白山 知らねども 一夜も夢に 越えぬ夜ぞなき 越の方角にいる人に贈った歌 思いをはせている越の白山のことは実際には知らないけれども、一夜として夢で越えない夜はありません。 次の 780 と詞書が共通です。「越」は北陸地方の旧国名。「しらやま しらねども」との同音の重なりがリズムを生み出していますね。 この歌は、古今和歌集(巻第十八「雑歌下」 第980番)、拾遺和歌集(巻第十九「雑恋」 第1242番)に入集しており、また 古今集0391 の藤原兼輔(ふじわら の かねすけ)歌と第二句・第三…
かうぶり賜はりて、加賀介になりて、美濃介にうつらむと申すあひだに、内裏の仰せにて歌よませたまふおくに書ける ふるゆきや はなとさきては たのめけむ などかわがみの なりがてにする 降る雪や 花と咲きては たのめけむ などかわが身の なりがてにする 位階を賜って加賀介となり、美濃介に変わろうとする間に、天皇の仰せで歌を詠んだ際にそれに添えて書いた歌 雪がまるで花が咲いたように降って、それが私に良いことをもたらしてくれるかと思うのに、どうして私は望む官職につけないのであろうか。 貫之は917年に加賀介、翌918年に美濃介に任ぜられていますので、918年に詠まれた歌ということになるでしょうか。いずれ…
池に見ゆる月をよめる ふたつなき ものとおもふを みなそこに やまのはならで いづるつきかげ ふたつなき ものと思ふを 水底に 山の端ならで 出づる月影 池に映って見える月を詠んだ歌 二つあるはずがないと思うのに、山の端ならぬ池の水底にも月が出ていることよ。 この歌は、古今和歌集(巻第十七「雑歌上」 第881番)に入集しており、そちらでは第二句が「ものとおもひしを」とされています。 貫之が得意とする、「水に映る情景」の描写ですね。「ふたつなき」は単に物理的な数を言っているのではなく、月ほど美しく神秘的なものは他にはない、との含意でしょう。その唯一無二のはずの月が、ふと目をおとすと水底にも映り、…
風雅のこころとうつろひ――『古今和歌集』と『新古今和歌集』における自然詠の美的理念の変容 多紀理 はじめに 〜山川にしるき心〜 日本の古典文学において、自然の情景は単なる背景ではなく、心情を映し出す鏡として詠まれ続けてまいりました。とりわけ和歌における自然詠は、時代ごとの美意識や価値観を如実に反映しております。なかでも『古今和歌集』(以下『古今集』)と『新古今和歌集』(以下『新古今集』)は、それぞれの時代を象徴する勅撰和歌集として、自然観や表現理念に大きな相違を見せております。 本稿では、「もののあはれ」「幽玄」「有心無心」といった日本的美意識の理念を軸に据えつつ、具体的な和歌を精査しながら、…
難波にてよめる なにはがた おふるたまもを かりそめの あまとぞわれは なりぬべらなる 難波潟 おふる玉藻を かりそめの 海人とぞわれは なりぬべらなる 難波にて詠んだ歌 難波潟で、生えている玉藻を刈ると、私はかりそめの海人になったような気持ちになることだ。 「玉藻」は「藻」の歌語、第三句「かり」は「(藻を)狩り」と「仮(そめ)」の掛詞になっていますね。上二句が「かり」を導く修辞法と考えると、貫之が実際に藻を刈ったわけではなく、難波潟の自然に魅せられた心情からの想像の歌のように思えます。 この歌は、古今和歌集(巻第十七「雑歌上」 第916番)に入集しています。 ランキング参加中言葉を紡ぐ人たち…
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古今和歌集 付載 墨滅歌 巻第十 物名歌 1104 おきの井 みやこじま をののこまち おきのゐて身を 焼くよりもかなしきは 都島辺の 別れなりけり 古今和歌集(片桐洋一著、笠間文庫)の訳 真っ赤に燃えている火の上にいて身を焼くよりもせつないことは、都と島べの別れでありますよ。 意訳 題詞 456番歌の後に置かれた一首。 主題 復位を果たすこと叶わなかった陽成天皇をめぐって。「おきの井」(怒りのあまり顔を紅潮させるさま)と「みやこじま」(都を離れて島へ赴くこと)との掛詞に寄せて詠まれた歌でございます。 作者 小野小町 本文 陽成天皇は、再び皇位にお戻りになることかなわず、熾りの火のごとく、顔を…
とある返し おきつなみ たかしのはまの はままつの なにこそきみを まちわたりつれ 沖つ波 高師の浜の 浜松の 名にこそ君を 待ちわたりつれ という歌への返し 沖の波が高く立つ高師の浜の浜松の、「まつ」の名の通りあなたのお越しを待ち続けておりましたよ。 773 の藤原忠房の歌に対する貫之の返歌。第二句の「たか」が「高(師の浜)」と「(波)高(し)」、第三句の「まつ」が「(浜)松」と「待つ」の掛詞になっています。 この歌は、古今和歌集(巻第十七「雑歌上」 第915番)のほか拾遺和歌集(巻第十九「雑恋」 第1240番)にも入集していますが、贈答歌の形で忠房の歌と並べて採録しているのは古今和歌集の方…
凡河内躬恒が月あかき夜来たるに、よめる かつみれど うとくもあるかな つきかげの いたらぬさとは あらじとおもへば かつ見れど うとくもあるかな 月影の いたらぬ里は あらじと思へば 凡河内躬恒が月が明るい夜にやってきたので、詠んだ歌 月を美しいと思いつつ、同時にうとましくもある。月の光は私のところだけに射すのではなく、それが届かない場所はないのだと思うと。 詞書を見ずに歌だけを詠むと男女間のやきもちの歌のようですが、貫之が躬恒に向けた歌ですから、誰とでも親しくつきあう躬恒をちょっとからかったのか、あるいは異性のところに通うついでに申し訳のように貫之のところを訪れたのを揶揄したのか、いずれにし…