岡山県の宇野駅と香川県の高松駅を結んでいた鉄道連絡船。国鉄(1987年からはJR四国)が運営した。 1910年の開設から1988年の瀬戸大橋開通まで、本州と四国を結ぶ重要な役割を果たした。航路自体は瀬戸大橋開通後も高速艇による営業が継続されたが、それも1990年には休止、翌年正式に廃止となった。
宇野・高松間の航路では、民間会社3社によるフェリーが運行されている。
《前回からのつづき》 blog.railroad-traveler.info 1986年から1987年、すなわち国鉄の最末期に、キハ54形は0番台12両と500番台29両、合計で41両が製造されました。JR北海道とJR四国が国鉄から継承した気動車の数からすると、かなりの小所帯(キハ40系:JR北海道157両、JR四国53両 キハ20系:JR北海道103両 キハ58系:JR四国131両)だったといえます。 新製されたキハ54形は、0番台が松山運転所に、500番台は旭川運転所、苗穂機関区、函館運転所、釧路運転区にそれぞれ配置されました。 四国に配置された0番台は、当初の計画通りに予算本線と土讃本線…
旅の目的 500系新幹線に乗ってみたい!というのが今回の動機です。 子供の頃から乗ってみたいなーと思いつつ西日本住まいではない私は乗る機会がないなーと思っていましたが、2027年引退という記事が出てきしまったので消えてしまう前に今回乗りに行きました。 乗るだけだとつまんないので、西日本でいろいろしてきました。 500系乗車! 2024年度ダイヤでは、下りの500系は6本。内1本がコラボ枠(ハローキティ)、内3本が岡山発。つまり普通の塗装の新大阪発は7:40発か17:37発の2本しかない惨状状態でした。 www.railway-enjoy.net ↑お世話になったサイト 新大阪発の3本の内、7:…
先週、函館で青函連絡船・摩周丸に会って、懐かしい思い出がよみがえり、当時を思い出しながら旅情にひたってみました。 (いずれも2024年12月20日撮影) まだまだハナタレだった社会人2年目から、全国展開のシステム構築にSE(システムエンジニア)として携わっていた。当時はOA(Office Automation)が全盛で、 インターネットという言葉すらない時代。1~2年かけてシステムを設計・開発、その後、全国の支店・営業所を回ってシステムのセットアップ、現地調整、トレーニングを行った、今の私の原点ともいえる仕事。 ■ はじめての北海道、昭和59年(1984年)冬 仙台~盛岡の後、花巻空港から千歳…
いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。 2月の末に更新して以来、ご無沙汰しております。 2月の初めに頸椎の手術を受け、その間、療養に専念しておりました。5月に入って主治医から「ふつうの生活に戻ってよい」とのお許しをいただき、体調もぼちぼちと戻ってまいりました。 手術と簡単に書きますが、想像以上に体力を奪われるものでした。以前にも、全身麻酔の手術を受けたことがありますが、このときは1時間ほどの簡単なものでした。その経験から、「今回も楽勝♪」などとたかをくくっていたのが間違いの元。今回の手術は4時間半のロングランになり、その分だけ体力も奪われてヘロヘロでした。 ブログの執筆も手…
宇高連絡船はかつて四国の高松駅と岡山県の宇野駅の間を国鉄が航行していた鉄道連絡船だった。私は高松で小学生時代を送ったが、当時はまだ瀬戸大橋は出来ていなかったので、故郷の神戸に帰省するときは必ずこの連絡船に乗った。そしてこの時にいつも食べたのが高松駅の駅弁「あなごめし」だった。この弁当は本当に美味しかった。この弁当を食べることは私にとって連絡船に乗る最大の楽しみだった記憶が今でもある。 私が最後に宇高連絡船に乗ったのは、父の転勤で高松から京都に引っ越した時だった。3月の転勤や卒業に伴う引越しのシーズン真っ最中の時期であったこともあり、宇高連絡船の乗り場は見送りの人たちで大変な賑わいだった。父の会…
さようなら宇高航路… 本州ー四国間を移動する手段として長らく運航されていた、岡山県の宇野港と香川県の高松港を結ぶ「宇高航路」。 瀬戸大橋が建設される前は青函連絡船や関門連絡船と並び、「鉄道連絡線」としての役割を担っていました。 車も鉄道も通ることができる瀬戸大橋が開業すると、民間のフェリーも含めて「宇高航路」は縮小傾向に転じます。 寝台特急「サンライズ瀬戸」も朝に瀬戸大橋を通過する。 しかし、コスト面でフェリーが瀬戸大橋に勝っていたり、瀬戸大橋が何らかの事情で通行規制となったときの代替輸送など、フェリーには一部の需要がありました。 結局、瀬戸大橋開業後約30年間宇高航路は存続していましたが、高…