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斎藤利治

(一般)
さいとうとしはる

父は斎藤道三、母は小見の方、濃姫の弟。妻、佐藤忠能の娘・正室院。生涯側室は持たなかった。織田信長の義弟、明智光秀とは又従兄弟にあたる。

1541年、美濃国大名である父・斎藤道三、母・小見の方の末子として生まれたとされる。

長良川の戦いで道三が斎藤義龍に討たれると、織田家に寄す。その後、信長によって元服し、斎藤長龍と名乗る。近侍し、多く武功する。
美濃国攻略において名義で中濃の各合戦で活躍(堂洞合戦、関・加治田合戦)。信長が美濃国を攻略後、美濃国国人衆佐藤忠能の娘を室とし、加治田城城主となり、信長からは、美濃斎藤家後継者とされる。兄の斎藤利堯へは留守居を要請し、織田家に呼び寄せた。加治田衆を中心とした家臣団と美濃衆と共に義兄の信長の天下不武に邁進する。
その後、信長と共に行動し、大きな合戦に参加。嫡男織田信忠に家督を譲り、濃姫の養子となると信忠の側近となる。
信忠のと共に行動し、各合戦に参加や、留守居、領土維持(内政、調略)を行った。
信長包囲網(上杉謙信中心)において、織田家は苦戦を強いられ、各地で荒木村重松永久秀等の謀反と反乱・一揆による全国の敵対勢力を敵に回し、存亡の危機に瀕していた。だが、月岡野の戦いで織田家存亡に光を与えることとなる。
義兄の信長より総大将に任命され、加治田衆と美濃衆・尾張衆・親族の飛騨国姉小路氏姉小路頼綱の援軍を率い戦国最強上杉軍に勝利し、義兄信長の天下不武に貢献、信長包囲網を崩壊させた。
有岡城の戦いまで、全ての合戦で活躍した。
その後、病気を患い甲州征伐に参加しず、兄の斎藤利堯が留守居・政治・領土維持を行った。
秀吉の中国侵攻軍として利治は信長・信忠から病気を心配され、御供を認められなかったが、利治は平癒したとして、妻子との最後の別れを覚悟し、夜中に加治田衆と共に(大島光政等)、加治田城を打出て岐阜城を打過ぎ、京都へ入り、変事の前日に妙覚寺入り、信忠と合流した。その後、信忠と共に妙覚寺へ宿をとり、光秀の閲兵を待つ。その矢先、本能寺の変で信長が自刃したため、信忠へ逃亡を促すが信忠からの覚悟を悟り、京都所司代村井貞勝の提言で共に二条城へ移り、奮戦する。
信忠自刃後、二条御所に火をつけた新五を中心に福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らと共に勇勢に闘い、明智軍を止めたが最後は一族の斎藤利三により攻められ討死した。
明智軍を止めている時に、織田長益らが二条御所を脱出(出来た)。

斎藤義興(池田家の高家衆)
斎藤市郎左衛門(松平家高家衆)
蓮与(速水守久の母)速水氏繁栄。

家臣

加治田衆-利治の親衛隊であり、強力な軍隊と優れた能力の人物が揃う。中濃美濃攻略後、義兄の信長から利治へ、直衛・親衛隊として領土安堵・斎藤家後継者として認められる。
美濃衆
尾張衆

兄弟

濃姫
孫四郎(龍元)
喜平次(龍之)

関連項目

斎藤家

義家

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