1477(文明9)年に応仁の乱は東軍勝利で終結したものの、その原因となった畠山義就と畠山政長による畠山氏の家督争いは終わることなく続きました。 河内と大和を実力で切り取った義就は南山城にも進出。 山城守護にあった政長との間で、南山城は激しい係争地となりました。 こうした中、他国衆に荒らされた南山城の久世、綴喜、相楽三郡の国人たちは1485(文明17)年に国一揆を結成し、守護である両畠山氏を実力で追い出し、国人の合議制による惣国を建設します(山城国一揆)。 畠山氏の内訌は引き続き残ったものの、大規模な戦いは沈静化し、ようやく応仁の乱以来の畿内の戦乱は沈静化しました。 大和では西軍の越智氏、古市氏…