Nuclear Umbrella
核抑止論に関連する概念のひとつ。
自らが核兵器を持たずとも、安全保障条約を締結している他国が核兵器を保有している場合、その核兵器によって核抑止力が得られるという考え方のこと。核兵器という脅威に対して「傘を差し掛ける」イメージ。
核抑止そのものが万全の信頼を置かれている理論というわけではなく、「核の傘」についてはさらに疑問を挟まれることが多い*1。
「東京が核攻撃を受けた場合、アメリカがニューヨークやワシントンへの核攻撃を甘受してまで核報復するとは考えられない」といった内容の発言をする評論家は多い。
もっとも現実的(良心的?)な解答は「アメリカ政府は報復すると明言しているが、実際にどうなるかは『分からない』」といったところである。
そもそも「抑止」とは敵味方ともに「こうなるだろう」という推測・予測で成立する考え方である。
ソ連(当時)が東京を核攻撃した場合、アメリカは報復としてモスクワへ核攻撃を行う「かもしれない」し、あるいはモスクワは温存して代わりにキエフやミンスクへの核攻撃にとどめる「かもしれない」し、あるいはソ連領ではないワルシャワやハバナあたりへの核攻撃にとどめる「かもしれない」。あるいは奇貨居くべしとばかりに全面核攻撃に訴える「かもしれない」*2。
もちろん報復を行わずにアメリカが自国を中心とする安全保障体制の崩壊を容認して、「民主主義の盟主」の座を捨てて、威信と覇権獲得能力の失墜を受け入れる「かもしれない」。
分からない以上、まともな指導者であればそんな危ない橋を渡る道理はなく、結果として核の傘が機能するということになる。
もちろん上記は単純化したケースであって、現実の歴史を見れば「オレには相手の対応が予測できる」と錯覚した指導者が冒険主義的な行動に出て戦争を引き起こしたり、抑止を行うことを明言すべき指導者が誤った政治的シグナルを発して相手の行動の抑止に失敗することもある。
よって問題はスタート地点に戻り「東京が核攻撃を受けた場合、アメリカがニューヨークやワシントンへの核攻撃を甘受してまで核報復するとは考えられない」との言説が「間違っている」とは言い切れない面もある。