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漆喰

(一般)
しっくい

漆喰は漆喰(しっくい)は土と石灰は日本で最も歴史ある安全・安心な建材です。

漆喰の歴史

世界では
 今から5千年前のエジプトのピラミッドの壁に使われたのが漆喰(しっくい)の起源のようです。

 古代ギリシャやローマ時代の建築物、アクロポリスの神殿やポンペイの遺跡にすでに漆喰(しっくい)が使われていました。
これらの文明では、漆喰(しっくい)は絵の具を石灰に染み込ませて壁を装飾する手法に用いられました。

 これが後に、イタリアルネッサンス時代のフレスコ画として確立されました。

アジアでは
 エジプトよりシルクロード、ラスコーを経て、中国は敦煌へ、そして千三百年前に日本へ渡りました。

 中国の万里の長城にモルタル、つまり煉瓦をつなぐ接着剤として漆喰(しっくい)が使われていたようです。

日本では
 高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村字平田、国営飛鳥歴史公園高松塚地区にあり、飛鳥歴史公園館などの施設が整備されています。
 平成17年の発掘調査により、藤原京期(694年〜710年)の間だと確定されています。
石室内部(内法:奥行2.6メートル,幅1.0メートル,高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図,日月像及び四神図,人物群像(女子群像,男子群像)が描かれた壁画古墳です。

 男・女の群像は、それぞれ4人一組で、東西の壁に、男子像が南寄りに、女子像が北寄りに描かれています。四神は、南壁を除く各壁の中央部に描かれています。日輪は東壁の青龍、月輪は西壁の白虎の上にそれぞれ描かれ、星宿は天井の中央部にちりばめられています。扉石の内側には、朱雀が予想されるが、漆喰(しっくい)が剥離しており、わかりませんでした。人物像の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線をなし、人物像の高さは、およそ40cmです。

 キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村字安部山、高松塚古墳の南約1.2kmの場所にあります。
 丘陵の南斜面を削平した平坦面上に、一層が2〜3cmという非常に緻密な版築で築かれた、二段築成の墳丘をもつ円墳で、下段の径は13.8m、上段径は9.4m、高さは3.3mです。
 墳丘内部の凝灰岩切石を組み合わせた石槨は、幅約1m 長約2.6m 高さ約1.3mの大きさで、天井部には約17cmのくり込みがあります。
 1983年のファイバースコープによる内部探査で、北壁に描かれた玄武(上記写真)が確認され、 2001年までの数次にわたる探査の結果、石槨内の壁画の全貌が明らかになりました。

 石槨内部には漆喰(しっくい)が塗られ、東西南北の壁には、青龍、白虎、朱雀、玄武が残っていました。さらに四方の壁それぞれに三体ずつの、獣面人身像が描かれていたと思われます。天井には内規、外規、赤道、黄道を描き、金箔を朱線で結ぶ星座を配置した、本格的な天文図が見られます。外規の東西には日輪、月輪が外接しています。
戦国時代

 戦国時代に城郭(じょうかく)建築のため石灰と海草糊を混ぜて使う独自の漆喰工法が確立されました。漆喰が城に使われたのはその優れた防火性と耐久性のためです。

 日本が誇る世界遺産の姫路城は、漆喰を利用した壁の白さか、別名白鷺城とも呼ばれています。

 秀吉は聚楽第建築に中国から当時の最新技術を導入し、『強い漆喰』を使って、聚楽第を建てました。

江戸時代

 防火性と耐久性の長所を生かして、江戸時代には裕福な商人屋敷の土蔵や神社仏閣に漆喰(しっくい)が使われるようになりました。

 熟練した左官の技は鏝絵(こてえ)や漆喰細工に見られ、その歴史は江戸時代に始まります。伝説的鏝絵師の入江長八は江戸時代の左官です。彼の功績もあって、優れた漆喰細工が美術品として理解されるようになりました。

明治維新後
 文明開化の旗のもと鹿鳴館を代表とする数多くの洋風建築物が造られました。建築物の洋風化はまさに日本の近代化の象徴だったのです。
 当時、美術の枠でとらえていた洋風建築が日本へ移入されるにあたり、日本の伝統的漆喰塗り職人であった左官が活躍することになりました。意匠を凝らした室内装飾や天井のデザインには日本の伝統的な漆喰細工であった鏝絵(こてえ)の技術が生かされました。
 擬洋風建築は和風建築と洋風建築が融合したもので、いわば日本の近代建築への過渡期に位置づけられるものです。このように、熟練した漆喰塗り職人である左官は日本の洋風近代建築に大きく貢献したのです。

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