(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年〜1570年)

 題:(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年〜1570年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1569年、信長の二女・冬姫(実子)と蒲生氏郷が結婚した。
  信長が、この少年はきっと将来大物になると見込んだ
 のが氏郷だった。
  婿として迎えた。
  氏郷14歳、冬姫12歳だった。
  近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が信長に臣従したとき、
 信長は、賢秀の子・氏郷(当時は鶴千代)を人質として
 取ったが、その時に鶴千代の器量を見抜いた。
  氏郷は、1590年に、陸奥会津に移封されて42万石(後
 に検地・加増により92万石)、
  伊達政宗を抑えるため、奥州の92万石という大きな石
 高を与えられたとされるが、
  氏郷は、「都に近い所でなければ本望を遂げられない」
 と嘆いたという。
  しかし、秀吉は、信長が認めた器量人である氏郷を恐
 れ、会津92万石に移した際、「氏郷を上方に置いておく
 訳にはいかぬ(名将言行録)」と側近に漏らしたという。
1569年2月、信長が、将軍邸を造営する。
  信長が、将軍のために二条新邸の造営を始めた。
  将軍邸造営に事よせて、三好制圧から一気に動員力強
 化を図ったのではないか。
  ついで、信長は、皇居修理に手を付けた。
1569年3月、信長が、廷臣(ていしん、朝廷に仕える臣下)
 の所領安堵をした。
  信長は、廷臣の所領で、久しく彼らの手を離れていた
 ものを回復するため、その記録提出を求め、この時に、
 廷臣は提出している。
  この所領安堵と、将軍邸の造営と、皇居の修理を始め
 た信長を見て、胸をなでおろした。
1569年3月、天皇が、信長に副将軍を任命した。
  天皇の使いが信長のもとに来て、この事を伝えると、
 信長は返事をしなかった。
  また、将軍の義昭が、信長へ、「近江・山城・摂津・
 和泉・河内の5カ国を望み通り知行する」と言ったが、
 これもまた辞退した。
  ただ、信長は、義昭から桐と二引両(ふたつひきりょ
 う)の紋はあっさり貰った。
  これは、武家の棟梁の紋だった。
1569年3月、信長の撰銭令。
  (撰銭、せんせん、えりぜに、劣悪な銭貨を排除した
 こと)
  信長が撰銭令と同追加令を出し、米や悪貨で取引をす
 ることを禁じた。
  そして、信長は廷臣領の回復も行った。
1569年3月、信長が、キリスト教宣教師が京都へ戻ること
 を許した。
  将軍・義輝の暗殺の1565年以来、キリスト教宣教師の
 ルイス・フロイスは堺に潜んでいた。
  この時、信長は京都へ戻ることを許した。
  フロイスは、帽子、金平糖を入れたガラス瓶、砂時計、
 ダチョウの卵、その他、南蛮渡来の珍品を信長へ送って
 いる。
  目覚まし時計は無駄だからと受け取らなかったという。
1569年4月8日、信長が、キリスト教の伝道を許した。
  ルイス・フロイスが、信長から京都の居住と、伝道を
 許された。この日の日付で朱印状を出している。
  また、この頃も、皇居の修理をしている。
1569年8月、信長が、秀吉を但馬国(たじまのくに、兵庫
 県豊岡市)にやり、生野銀山(いくのぎんざん)を直轄
 地とした。
  生野銀山は、平安時代の、807年に、開抗と伝えられ
 るが、詳細は不明。
  1542年に、石見銀山から採掘や精錬の技術を導入し、
 本格的な採掘がはじまっていた。
1569年10月、信長が、伊勢を平定した。
  信長が、兵糧攻めで大河内城の北畠を降ろし、南伊勢
 を平定した。
  そして、国人・土豪の結集を図り統制した。
  大河内城には次子・茶筅丸(信雄・のぶかつ)を入れ
 た。
  そして、信長は、不要と思われた城は破却した。
  そして、関も撤廃した。
1569年10月17日、信長は、伊勢を平定して上京し、義昭
 に北畠降伏を報告すると、それからわずか6日目のこの日、
 突然、岐阜に帰ってしまった。
  将軍と衝突が原因か?
1569年、オランダのメルカトルの世界地図が作られた(メ
 ルカトル図法)
1570年1月、信長が、将軍・義昭の実権を奪った。
  実権を奪われても、義昭は、信長に従おうとしなかっ
 た。
  さらに改元問題(年号の改め)などで信長に対抗した。
  ここは、信長が及ばない特殊なところだった。
  天皇のとりなしで、信長は、五箇条の条書を義昭に送
 った。
  この条書は、信長が、明智光秀・朝山日乗に宛てた形
 式をとっていて、その右端に義昭が捺印して承認の意を
 示す形となっていた。
  つまり、信長の要求を義昭が飲んだ形になった。
  内容は、義昭の内書には必ず信長の添え状を付けると
 か、これまでの義昭の命令はすべて破棄するとか、天下
 の事はすべて信長に任せた以上、将軍の承認を得るに及
 ばず、信長の分別しだい処理するとかで、
  義昭の実権を、ほとんど奪ったといったものだった。
1570年2月、信長が上京し、貴族や奉公衆(ほうこうしゅ
 う、官職の1つ)の出迎えを受けた、
  翌日、参内した。
  以後、度々、皇居の修理の様子を観察し、
  また、廷臣に家領(けりょう、所領や荘園の事)を注
 進(ちゅうしん、報告する事)させたりした。
1570年4月、浅井・朝倉・六角が挙兵した。
  また、近江一向一揆がしきりと起きた。
1570年4月、武田信玄が、信長を非難した。
  北条氏康上杉謙信が、信玄の侵略を将軍・義昭に訴
 えたのに対抗して、信玄は、彼等の言を入れない様にと
 進言するとともに、
  はっきりと信長とは名指さずに「当出頭之人」(いま
 幕府に出頭している人、つまり信長)の隣国の武士に出
 す手紙は「上意御下知」(将軍の命令)であるかのよう
 な書き方であるから注意されたいと、暗に信長を非難し
 た。
1570年4月、義昭が、年号の改元について、信長の意向に
 反して決めた。
1570年4月、義昭は、4月1日に猿楽を興行し、信長や諸大
 名・廷臣を招いた。
  また、5日には、信長と一緒に調馬(ちょうば、馬を乗
 りならすこと)を見るなど、京都の空気は太平の様に見
 えた。
1570年4月20日、信長が、越前の朝倉征伐に動いたが・・
  この日に、信長は、大軍を率いて越前の朝倉征伐に出
 陣した。
  朝倉義景が、信長の再三の上洛の催促を拒み続けたか
 らだった。
  この時、秀吉は、敦賀に攻め入り、手筒山城を落とし、
  ついで、金ヶ崎城を攻め、秀吉みずから使者となって、
 城主・朝倉景恒(あさくらかげつね、家臣)に開城をす
 すめ、誘降を成功させた。
  この時、浅井長政の謀叛の報が伝わった。
  信長の妹・お市の方が嫁いでおり、信長方は長政謀叛
 は予想はしていなかった。
  それに対する備えもなく、信長軍は退路を断たれる事
 となり、袋の鼠となった。
  信長は、急遽、朽木(くつき)越えで京都に逃げ帰り、
 秀吉は殿軍(しんがり)の大任を引き受けた。
  秀吉は、見事に朝倉勢の追撃を防ぎ止め、
  信長は岐阜に戻った。
  信長は危うい所を助かった。後の、朝倉攻めに続いて
 行く謀叛行為となった。
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