(増補版)329E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年12月〜1875年3月)

題:(増補版)329E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年12月〜1875年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年、イギリスの陸軍将校サム・ブラウンは中国の利益
 収奪にも関わった。
  ブラウンは、インドの大反乱の時も戦っていた(イギ
 リスのインドの方々からの収奪が酷く、その結果、大反
 乱が起き、ブラウンは、その時も、軍人として関わって
 いた。今度は、中国の方々へ対してだった)
  イギリスは、中国からの利益収奪に邁進(まいしん)
 した。
  あらゆる面から利益の収奪を試みた。
  その為、ビルマからの中国ルートを調べた。
  中国・雲南地域からの利益収奪のための調査を計画し
 た。
  指示された陸軍将校ブラウンの調査において・・、
  その案内役の領事館のマーガリーが、視察をし、その
 折、現地住民とトラブルが発生した。
  マーガリーらの5名が殺害された。
  イギリスはまた、何時ものように、これを口実に中国
 (清国)を威嚇し始めた。
  そして、1876年9月、イギリスは、高姿勢でもって、不
 平等のまるだしの、税金の免除などがある芝罘(ちーふ)
 条約を結ばせ、イギリスは侵略的な特権をいっそう拡大
 した。
  このイギリスはじめ、アメリカ、そして、ヨーロッパ
 各国は、アフリカ支配権をも争奪し、そして、酷いこと
 に、アフリカを好き勝手に分割した。
  そして、我が物とした。
  また、この中国へ殺到している欧米列強は、この中国
 も、アフリカ同様な分割に切り刻み、我が物とすること
 が、明らかに見える。
  西蔵チベット)は、イギリスの勢力下にあった(イ
 ギリスは、1700年代後半から、チベットに手を出してい
 た)。
  イギリスは、中国の広大な領土が、中国だけの手にあ
 るのはおかしいと言った。
  「(キリスト教の)神の御心に背く」と公言していた。
1874年2月20日、イギリスの保守党ディズレーリが、景気対
 策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相に就任
 した。
  言葉としての「帝国主義」の始まり:
  ディズレーリ(任1868、1874〜80)は、この頃、高ま
 りつつある「小英国主義」(植民地は、財政負担を増す
 重荷に過ぎないとし、植民地放棄を唱える立場)を攻撃、
 植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張した。
  ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年、
 インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン
 会議でロシアの南下を阻止し、一方でキプロス島獲得、
 帝国主義政策を推進した。
1874年3月7日、清の同治帝(どうちてい)が、第2次アヘ
 ン戦争で破壊されたままの円明園の修復工事を正式に着
 工させた。
  国家財政困難なため群臣は中止を求めた。
1874年3月15日、フランスが、ヴェトナム(阮朝)と第2次
 サイゴン条約締結した。
  ベトナムは、紅河(ソンコイ川)沿いの通商権を奪わ
 れ、
  フランスは、ヴェトナムの清からの「独立」を認め、
 事実上これを保護国化し、自分のものとした。
  清朝は、これを認めずヴェトナムを藩属国と主張する
 が、政権中枢の李鴻章らの妥協・譲歩政策により実効あ
 る抵抗はできなかった。
1874年6月27日、アメリカ・インディアンの方々が、連合軍
 を結成して、決起し、戦ったが、
  アメリカ合衆国から、徹底的に報復されて敗北し、強
 制収容所的な居留地へ閉じ込められた。
  クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカーが、
 コマンチ族・カイオワ族・南部シャイアン族連合軍を率
 いて、テキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを攻
 撃した。
  しかし、アメリカ合衆国軍の徹底した報復戦に降伏し
 た。
 「1875年6月2日」条約で、インディアン専用地とされた
 バッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始
 まったにもかかわらず、
  アメリカ・インディアンの戦士の多くは、フロリダ刑
 務所に収監された。
  残った部族の者は、オクラホマ居留地へ閉じ込めら
 れた。。
  アメリカ合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍
 に命じて、
  北部平原のインディアンを狩り集めて、同じ様にイン
 ディアン準州オクラホマ)へ送るように命令した。
  シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残って
 いたインディアンを集めて連合軍を組織した。
  アメリカ合衆国は、大切なインディアンの食糧である
 バッファローを無意味に殺戮した。
  これによってバッファローは激減し、アメリカ・イン
 ディアンの方々も食糧不足になり、絶滅への道をたどる
 事になる。
  アメリカの平原で無意味に殺戮され、山となった死体
 の山のバッファローの写真がある。
  そして、その山のてっぺんにアメリカ人の白人が誇ら
 しげに立っている。
  この様な目的でバッファローが殺されたことを、証拠
 となる写真もはっきり存在し、このあきらかなる事実を、
 放送大学アメリカの歴史の講座は隠して放送した。
  そして、嘘の講義を放送大学は放送した。
1874年7月24日、イギリスが、ガーナのゴールド・コースト
 南部を植民地とした。
1874年7月末、親善大使としてスー族領域のブラックヒル
 へ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(
 内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見した。
1874年7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッ
 パ抜かれた。
  スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到した。
  ララミー砦条約は一方的に無効にされた。
1875年、マルクスエンゲルスが、ドイツ社会民主党にお
 ける「デューリング主義」の危険性を、リープクネヒト、
 ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘した。
1875年(明治7年〜明治8年)、出来事:
・立憲政体漸立の詔が出された。
・徴兵令が改正された(国民皆兵
・錦絵新聞が人気で流行
・流行した唄 「官員唄」 → 「髭をはやして官員ならば…」
・新聞紙条例に悩む各社、共同して内務省へ質問書
・東京曙新聞・末廣鉄腸ら → 投獄者が続出
•平仮名絵入新聞(4月)新聞創刊
•浪花新聞(12月)新聞創刊
・論 加藤弘之 「國體新論」
著作権についての法令が発布された。
  ただし、所管は文部省より内務省に移った。
1875年、科学・産業:
・東京気象台が創立され、赤阪葵町で気象観測が開始され
 た。
・東京王子に紙漉き(かみすき)工場(後の王子製紙)が
 できた。
1875年、教育・本:
・幼稚園の初め(京都)
・ 「文明論之概略」(福澤諭吉)
・ 「亜細亜諸國トノ和戦ハ我榮辱ニ関スルカキノ説」(福澤
 諭吉)
・訳 「弥児経済論」(著:J. S. ミル,林董/訳:鈴木重孝)
・訳 「開巻驚奇 暴夜物語(アラビアンナイト)」(訳:永峰秀
 樹)
1875年、データ:
・財政 国税に占める地租の割合:88.2%
・統計 医師数:27,650名(うち女医2名)
・統計 官によるお雇い外国人527名(学術144、技師205、
 事務69、職工36、雑73)
1875年、衣:
・司法官の制服が制定された。
・四谷の朝倉松五郎が、洋式メガネを作った。
1875年、食:
・勧業寮が、リンゴの苗1300本を輸入し、全国に配った。
・東京風月堂が、ビスケットを作った。
・東京の茶商・上林熊次郎が、紅茶製造の伝習所を募集し
 た。
アメリカよりサケ・マスの人口孵化法を習った。
・ 海外で醤油が珍重された。
・ビールが初めて売り出された。
  国産ビールの広告が「東京日々新聞」に初めて掲載され
 た。
  ビールは、明治時代になって、日本でも醸造される様
 になり、初めは外国人住宅地などで作られていた。
  コープランドというアメリカ人もそのひとりで、コー
 プランドは、日本におけるビール産業の"祖"とも呼ばれ
 る。
  コープランドに学んだ日本人によって、後々いくつか
 のビール工場が造られるようになり、野口正章(まさあ
 きら)は、1874年(明治7年)山梨県甲府に、私財を投
 げ打って「三ツ鱗(みつうろこ)」印ビールを完成させ
 た。
  甲府での売れ行きは"イマイチ"だったことから野口氏
 は、東京での"販路拡大"のために"新聞広告"を出した。
  日本人が、最初にビールを飲んだとされるのは、1860
 年(安政7年)に、日米修好通商条約の批准書交換使節
 の一員として渡米した仙台藩士。
  また、福沢諭吉も、遣米使節団の随員として渡米して
 いるが、帰国後の1867年(慶応3年)に「西洋衣食住」で、
 ビールを紹介している。
1875年、住:
・潜水誠、マッチの製造を開始した。
・また、吉井友実(よしいともざね)が、東京・三田四国
 町に新燧社(しんすいしゃ)を創業し、マッチの製造を
 始めた。
東京市内の新築は石造・煉瓦造と規定されていたが、土
 蔵造・塗屋造も許された(防火性の高いものをの主旨)
・銀座に下水が竣工した。
甲府で開放水路の上水道通水。
東京市内主要道路にガス・ランプの街燈ついた。
1875年、その他:
日本橋の料理屋で、新物好きの主人が呼び鈴をつけた。
・小幡英之助、歯科医を開業した。
・金港堂書店・有田香蘭社・深川セメント・芝浦製作所
 どが創立した。
1875年1月3日(11月26日)新島襄が、渡米後10年振りに帰
 朝、横須賀着(これより同志社の建設に努める)
1875年1月4日(11月27日)台湾征討に関する日清談判に成
 功せる大久保利通が帰朝し、参内し復命する。
1875年1月8日(12月1日)大阪〜神戸間に鉄道貨車運輸が開
 業した。
1875年1月10日(12月3日)西郷従道の率いる台湾征討軍が、
 台湾を発して、凱旋の途についた。
1875年1月17日(12月10日)外国の天文学者が、初めて来日
 し、神戸諏訪山上にて金星の太陽通過を観測した。
1875年1月18日(12月11日)東京市街に、初めて石油ランプ
 の街燈が点火された。
1875年1月20日(12月13日)伶人(れいじん、音楽を奏する
 人、特に、雅楽を奏する人)に命じ、西洋音楽を学ばせ
 た。
1875年1月25日(12月18日)東京市街に、煉瓦街完成と、初
 めてガス燈が点火した 。
  東京・京橋〜銀座〜芝金杉橋の街路の両側に、85基の
 ガス燈が点火した。  
  芝浜崎町のガス工場から銀座までガス管を敷設した。
1875年1月25日(12月18日)東京、名古屋、大阪に歩兵連隊
 を編制した。
1875年2月3日(12月27日)西郷従道谷干城らが、台湾征
 討より東京に凱旋した(参内して征台の状を奏す)
1875年2月6日(明治8年1月1日)外国郵便の取扱を実施した。
1875年2月7日(1月2日)郵便為替が施行される。
  最初は、尋常為替(小為替30円以下)を取り扱った。
1875年2月9日(1月4日)最初の消防出初式が、日比谷にて
 挙行された(これより毎年の恒例となる)
1875年2月10日(1月5日)最初の郵便局が、横浜に落成した。
  外国郵便業務を横浜・神戸・長崎で開始した。
1875年2月13日(1月8日)小学児童の学齢を定めた。
  小学校年齢、満6歳から14歳までとなった。
1875年2月17日(1月12日)招魂社に合祀した。
  1853年(嘉永6年)以来、国に殉せし忠霊、九段上招魂
 社(後の靖国神社)に合祀された。
1875年2月17日(1月12日)イタリア人のキヨソネが来日し、
 わが国の印刷術の発展に貢献した(印刷界の恩人)
1875年2月23日(1月18日)明治政府が、三菱蒸汽船会社に
 上海航路の開始を命じた。
1875年3月2日(1月25日)紙幣印刷のための銅版印刷機が輸
 入された。
1875年3月2日(1月25日)金原医籍店(のちの金原出版)が
 創業した(医学書輸入)、丸善に次ぐ古い出版社。
1875年3月3日(1月26日)国産マッチ製造が始まった。
1875年2月(旧暦1月)山県陸軍卿が、砲台築城地として、
 長崎・鹿児島・下関・豊予海峡紀淡海峡石巻・函館
 を挙げた。
  殊に、まず帝都に近い東京湾口の観音崎富津岬等の
 数箇所に砲台を築くことが必要であると奏上した。
1875年3月10日(2月3日)横浜〜上海航路定期運行を開始。
  日本最初の外国航路・上海〜横浜航路(三菱商会)が
 開始された。
  悲願であった上海航路を、三菱蒸汽船会社が開設した。
  東京丸、新潟丸、高砂丸、金川丸の4隻で、1週1回の
 定期航路が開始。
  横浜〜上海は神戸、下関、長崎経由で、わが国初の海
 外定期航路となった。
  東京日日新聞の広告には・・、
  「…乗組人は練熟せる西洋人にして航海の安心、荷物
 の取扱の厳重なるは申すに及ばず賄方(まかないかた、
 食事の用意をする人)等も至って清潔丁寧なり…」
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive