(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月〜1894年3月)

題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月〜1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年〜1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版ガリ版印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
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  (今日の言葉)
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  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
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