2012-01-13
「落葉降る下にて」から「寿福寺」まで
虚子記念館は、松林の公園近くの住宅街の中にあった。阪神の震災の跡ではないかと思われる取り壊しの跡や、陋屋がぽつぽつ残る川縁を歩く。昼食に訪れた喫茶店や、お茶を求めた駅前のスーパーでは、年配者が目についた。小倉ではコンビニでも居酒屋でもハングルと日本語を駆使して忙しく働く若者やにぎやかなグループばかり見て来たので、この地の静けさは一層印象的で、師走の風の音ばかり耳についた。
記念館では、新しく発見された虚子宛の芥川の句稿などが展示され、漱石や久米正雄などの文人俳句が特集されていた。芥川と虚子は、虚子の息子年尾を通して私的なつきあいがあり、芥川は句作に対して余技以上の打ち込み方を見せていたようだ。虚子とはかなり年が離れていた筈だが、紹介されていた「句は人並みに苦労してゐる故、虚子と比較されてもよろしい」というような言葉を読むと、先達というよりライバル視していたようにも思われる。 小説に関しても「「俳諧師」は感心しないが、(それを早く教えてもらいたかったよ・心のぼやき)虚子の小説は本人も周りも分かってないが、なかなかのものだ」というような評価をしている。虚子が娘の死について書いた「落葉降る下にて」が高評価のようである。併設の図書室で探して読むことに決めたが、まずは「国子の手紙」である。図書室にはさすがに虚子の全集があり、「国子の手紙」はあっさり見つかった。「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」で見慣れた形の、引用を組み合わせて気のきいた内
容にしてみせる、いわばリツイート小説である。つまらない手紙
や句では成り立たず「獲物」がないと書けない小説だ。「国子の手紙」は読んだらさぞかし腹立だしいものだろうと予想していたが、「愛子もの」に 相似する形をこの作品にも見つけ、そちらに気をとられた。虚子は「虹」を出す前に愛子や母に読んできかせて了解をとっていることを「音楽は尚ほ続きをり」で書いているが、「国子の手紙」でも国子の娘に国子について小説を書くことを説明したというようなくだりをいれている。成立年代からいって「愛子もの」が評判よくなければ「国子の手紙」は書かれなかったわけで、無責任な現代の読者としては「虹」でやめときゃよかったのに、と残念に思った。そして、これも「愛子もの」に入る「寿福寺」を何の気なしに読み、芥川推奨の「落葉降る下にて」を探したが、なぜか見つからない。駅に向かいながら、ひとつ読めたのに、またひとつ気になる出てきちゃったよと苦笑した。
しかし、「落葉降る下にて」は地元の本屋に浪漫文庫が置いてあったことで、あっけなく読めた。虚子が中年になってからの作だが、芥川などの読者を意識してのことであろうか。子を亡くしたことを非情ともいえる筆致で書いている。高熱のせいで、子の知能に異常が出ていたことを嘆き、亡くしてほっとしたというような心境を書き、妻に冷たいとなじられたことも記している。そして山の温泉場で、亡くした子を自分で荼毘にする男に会って興味を持つといったくだりもあり、無常漂う作風というか、芥川だったら共感するだろうなという、材料が事実だけに、書き手の目に戦慄するところのある小説である。
しかし、この小説だけだったら、さほど感銘は受けないが、先に何の気なしに読んだ「寿福寺」とこの小説を並べてみると、子どもを亡くした衝撃のあまり、感覚が麻痺してしまった男親の姿が「落葉降る下にて」から立ち上がってくる。「寿福寺」も、それだけ読むと短さのあまり、そうは印象に残る一篇でもないが、この「落葉降る下にて」の後に置くと、老境に至って、やっと明らかにされる親の心境というものもあるのか、という感慨を抱かされる。
近年の虚子の小説というと「愛子もの」か、子規にまつわるものが文学資料的に紹介されている扱いである。これでは、「小説」に人一倍こだわっていた虚子としては、死後も無念な ことであろう。
しかし、虚子については、特に関心もなかったのに、最近は会う人ごとに、森田愛子のことや杉田久女のことにからめて、虚子の小説のことばかり喋っていた。別に虚子自体は好きな作家というわけでもないのに、思えば不思議なことである。そんな折、何の気なしに年譜を見ていたら、いと夫人は10月18日生まれで、自分と同じ誕生日であった。星回り故に惹きつけられたのかと笑ってしまう。
2012-01-11
久女の句稿
小倉にある北九州文学館で杉田久女展が先月の25日まで開催されていた。久女については近年様々な研究本が出ているが、様々な句の生まれた縁ある土地に、まずは行ってみなくては、と思いたち、師走のある日、西に出かけた。車中では、岩波文庫から、復刻された虚子の『俳諧師』を手にしていた。見返しに子規や碧梧桐が出てくる自伝的小説とあったが、期待したような虚子本人のエピソードはなく、学問に飽きて、俳句も始めたもののさほど打ち込むわけでなく、のらくらしている主人公が、周りの俳人の悲劇を眺めているといった内容だった。碧梧桐が妻にしようとしていた女性と虚子が結婚してしまったことや、子規との交流もほとんど出てこない。続編も、上京した兄が慣れない下宿屋稼業を弟に勧められて始めたものの、生活苦のうちに死んでいく様子を、ちゃっかりイチ抜けした弟が淡々と語るというもの。さらけださない私小説という感じが退屈で、小倉までの車内は殆ど寝ていた。
小倉の駅はモノレールの発着場所が立体的に組み込まれた不思議な建築だった。長く伸びた歩道橋から 町に降りると昭和の香るアーケード街で、お菓子屋ではサンタ帽をかぶった女の子が何人も立働いていた。小倉城の前をずっと西に歩いていくと、北九州文学館が図書館に隣接して建っていた。道を挟んだ隣には松本清張記念館もある。
杉田久女展は、ノートや書簡、たくさんの写真など資料が豊富な内容だった。これは夫の杉田宇内が全部小原村に持ち帰った後に娘の石昌子氏により研究、整理されたものと思われる。久女というと、夫の宇内とも行き違いがあり、家庭的には不幸な人のように語られている。しかし、戦争を越え、小倉から愛知の山間に生活を引き上げるという中でも、久女の手になるさまざまなものが散逸しなかったということに夫婦の不思議を思う。
まず、 久女の資料で圧倒されたのは、源氏物語の原文や注をびっしり引き写したノートである。特に細かい解説はなかったが、その古びたノートにぎっしり書かれた文字を見ると、「向上心」という言葉が太字で思い浮かんだ。洗濯や繕い物、煮炊きに時間を取られる昭和初期。いつ、久女は勉強をしていたのだろうか。そして、 空襲のたびに久女が防空壕に持ち込み、晩年、娘に託した句稿が緑の表紙をつけて置いてあった。それは持ち運ぶには横長で、想像よりずっと大きなものだった。句集刊行は久女の悲願であったとは知っていたが、大きな草稿を抱えて必死に逃げたその姿を思うと、 自然に涙が出てくるのだった。
この展示は久女の写真もたくさん掲示してあった。小さい娘のそばで、微笑みながら何かに目を走らせている姿は子への愛情の深さを感じさせた。そして、孫を抱いた娘とその夫と共に写っている久女の写真は、頬もふっくらし、目も穏やかなのが印象的だった。 みすず書房から出ている中村草田男の回想記を読むと、虚子は晩年になるほど万事に平凡であることの良さを説いて、子規の追悼記念にも「子規も平凡を愛していた」と語り、それはおかしいと草田男に違和感を抱かせている。晩年の虚子は天才を見抜く力を持ちながら、それを自ら封印したように見受けられる。流麗で象徴的なものより、素朴な句を殊更に賞揚した時期があったのは、時節柄の危険を案じ、係累や弟子に影響がないようにと、危機管理を考えたのではないだろうか。師の人脈のおかげで、作風が警察権力に問われなかったという説のある草田男も「師は文学第一の人ではない」と回想録で批判しているが、久女も、そこが見えていたのではないだろうか。君子と化した師に、何度も序を頼んだことは哀切なことと語られるが、実はその依頼の中には、文学者として、今の姿勢はどうなのかという、師への問いかけもあったのではないか、と資料を眺めながら思うのだった。
久女の娘、石昌子氏の地道な資料研究のおかげで、研究者も増え、田辺聖子氏の小説にもなり、杉田久女の書籍は近年も次々と刊行されている。この展示の図録もかなり力が入ったものだった。文学館が刊行した久女の句集もあり、句集は小倉市内の書店でも取り扱われている。
翌朝、久女の句碑のある小倉飯店前の公園に足を向けた。繁華街にあるせいで交番の横の公園は樹もなく、空虚な印象だったが、碑の前には山茶花が咲き、僅かに彩りを添えていた。
花衣の句を眺めながら、優れた作品に宿る力を思った。本人の処世が下手 であろうが、時節の邪魔が入ろうが、読者がいれば、作品は残っていく。そして時が経てば経つほど、作品自体の持つ力ははっきりしてくるものなのだ。
結局「国子の手紙」は読めないままだったが、帰り道に虚子記念館に立ち寄ることを思い立ち、小倉を後にした。
2012-01-09
森田愛子をたずねて
みくに龍翔館は、えちぜん鉄道三国駅の北東の坂道を登ったところにある。森田愛子と伊藤柏翠の展示は、二人の句の軸や、虚子の葉書などが並び、詳しい年譜も掲げてあった。ミーハーな動機ながら、実践女子専門学校時代にも、道行く人が振り返ったという森田愛子の写真を見たかったのだが、展示室には人の良さそうな笑顔の写真が一葉だけだった。窓口で図録がないか聞いて、渡されたものを見て驚いた。愛子は大正6年生まれだったというが、全然大正・昭和的な感じがない。上戸彩が着物を着たらこうもあろうかというきわめて現代的な佳人である。若き日の伊藤柏翠も歌舞若伎俳優のような面立ちで、二人が野の花を前にして並んでいる写真などは映画のスチール写真のようである。愛子と柏翠は七里ヶ浜の療養所で知り合い、俳句の手ほどきを柏翠がした後、愛子もホトトギスに投句している。虚子の助言もあって二人は結婚はしなかったが、先に退院した愛子を追い、柏翠は三国に暮らすようになる。
虚子の小説「愛居」には柏翠の居た療養所に虚子の娘達が見舞いに行ったことが書いてある。「其は丼にさらつと盛つてある御飯に、西洋皿のやうな侘しい皿に、昆布とにしんの佃煮、其に豆が二三十粒添へてあるものであつた(中略)柏翠は、此病院の食物が此時勢のためだん々貧弱になつて来て、これでは栄養が摂れないから、最近に三国に行く積もりだと話していた。」 年譜によると柏翠は18歳から34歳まで療養所にいた。親達も早くに亡くし、身元を引き受けてくれる所がなかったせいだろう。それだけ病院生活に慣れてしまうと、きっと退所するのも一大決心が要ったに違いない。
21年に没した久女の死因が当時の病院食の事情の悪さによる栄養失調のせいもあったのではないか、という記事を読んだ矢先のことだけに、結核療養所も同様だったのだろうかと想像してみる。
柏翠は、三国についてからは気胸になるなどして、危ない時期もあったようだが、愛子を亡くした後も三国に住み、結婚もし、二人の娘にも恵まれ、米寿でなくなる平成11年まで存命だった。何の偶然か森田愛子の母も米寿まで生き、昭和55年に亡くなっている。 虚子のおかげもあろうが、俳人としては数年しか活動できなかった愛子の句集や句碑が残ったのは、 この二人の長寿も大きかったのだろう。もっとも、三好達治も「燈下言」の「自慢」という一編で熱心に句に打ち込む、愛子の句稿を見せられたことなど回想を書いているが、愛子の句はたくさんあり、全部が発表されているわけではないらしい。
龍翔館を出て、坂を下り三国の街に入っていった。愛子に縁のある森田銀行は今でも建物が保存され、見学して外に出ると雨が降っている。向かい側の新しいカフェに入って虚子の「虹」を読み返した。文字だけだった物語が頭の中ではっきりした映像になっていく。陽が射してきたので外に出て河端まで出た。九頭竜川は上流近くの郡上に住む自分にとって、耳に親しいものだったが、河口がこんな表情があるとは、不惑を越えて初めて知った。愛子にとっての河のイメージは自分の持っている故郷のそれとは、全然違うものなんだろう…と、えちぜん鉄道の時間まで、しばしぼんやりしていたのだった。
わが家の対岸に来て春惜しむ 愛子
obelisk2
2012/01/10 09:54
こんなことを書くのはちょっと恥ずかしいのですが、金子さんは散文もすばらしいですね。しみじみとしっとりした文章で、いつも感嘆させられます。気のせいかも知れませんが、都会暮らしでないところのよさが、出ているのかも。どこかに連載を持たれてもちっともおかしくないと思います。これからも楽しみにしています。
Kaneco
2012/01/11 10:49
読んでいただきありがとうございます。スマートフォンに替えてから、文章の一字下げや改行が画面にうまく反映しなくなり、お見苦しい画面になって恐縮しながら、ただ書きたい一心で書いております。
2012-01-07
虚子の小説を読む ヒロインを辿る旅 三国
虚子が杉田久女を題材として書いた小説に「国子の手紙」という一篇がある。
「私」宛に優秀な句を寄せていた女性が、次第に常軌を逸した手紙を夥しく寄越すようになり、偏執的な振る舞いをみせるようになった後、精神の平衡を欠いて死んだと聞き「私」は、やはりそうだったかというような感慨を持つというような筋書きである。昭和23年に『文体』に発表された。久女が、腎臓疾患によって55歳で生を終えたのは昭和21年なので、没後まもなく書かれたものだ。
久女に関するさまざまな文献を読むと、この小説と、松本清張の芥川賞受賞後第一作「菊枕」が書かれたことで、久女の名誉は大いに傷つけられたという項が必ず出てくる。モデルへの名誉毀損は当時、泣き寝入りするより他なかったのだろうか。虚子も清張も書いたものに対しては、「あれは小説である」という発言を通し、その態度が遺された人々を後々まで傷つけたようだ。
そして今日、久女、そして虚子も清張も没して久しい。時を経てから、その相克を知った者としては、実際に小説を読んでみないことには、作り上げられたといわれる久女像がどうだったのかということからして分からない有様だ。清張の「菊枕」は短編集などに収録されていてすぐに読めた。「ぬい」という女性が、類型的なヒステリー妻に書かれており、後年の取材力を思うと、なぜ清張は遺族に話を聞きにいかず、地元の俳人に聞いた噂話程度で書いてしまったのだろうか?と疑問の浮かぶ作だった。
そして、肝心の虚子の小説である。俳句について著したものは文庫でも読めるが、小説となると、そんなに手軽に手にいれて読めるものでもなかった。これを読もうとしたことが、今回の旅の始まりだった。
近所の市立図書館分室には虚子といえば俳句関係のものしかなく、本館収蔵の文学全集に小説があるというので出かけたところ、俳句に加えて、「斑鳩物語」「風流懺法」「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」が収録してあった。後半の四篇は、三国の俳人、森田愛子の追憶が書かれており、「愛子もの」とよばれる。「虹」は発表後、川端康成に高く評価されたらしいが、読む人によって異なる印象を持たれる作品らしく、富士正晴『高濱虚子』(角川書店)では、べたべたに甘いと片づけられている。
「音楽は尚ほ続きをり」に、目を通していた時、俳誌「花鳥」に載せられた「愛子の頁」からの引用とした部分に「あすよりは病忘れて菊枕 虚子」という句があることに気がついた。句を聞いた愛子は「私はぎくりとした。快くならねばならないと思つた。前の日もお別れの日にも「きっと快くなりますからね。」とぢつと私を見つめて予言の様に云つて下すつた先生のお顔を、苦しくなると思ひ出して拝む。」などと書いている。この小説は「国子の手紙」が書かれた前年に発表されている。それもそのはずで、愛子が29歳で没したのは久女の死の翌年、昭和22年である。久女の死の年、虚子はそのような句をなぜ愛弟子になぜ与えたのだろうか。
越前三国には、日本で初めて造られた西洋式の防波堤がある。トリックアートの先駆者エッシャーの父、エッセルが造成に関わったそうだ。そのエッセルが建てた小学校を模したという立派な洋風建築が三国の成田山の近くにある。龍翔館といって、当地に縁ある文学者が紹介されている。高見順、三好達治と並んで森田愛子・伊藤柏翠のコーナーもある。また、この建物の屋上からは雄大な九頭竜川と、銀鼠色の日本海を望むことができる。突発的に旅に出るのはいつものことではあるが、虚子の小説を読み込むうちに、森田愛子の人となりがにわかに気になり、晩秋、三国への日帰り旅に出かけたのだった。


