日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆八百万の神々が見守る日本列島

 幸運かどうかは別として、震災時には遠洋航海に出ていて難を免れた、宮城県外所属のはえ縄船が十日気仙沼港に入港、マグロ等の漁獲物4トンを水揚げし、仲買人を集めた震災後の初セリとしてご祝儀相場の高値で取引され、久々に活況を呈したとある。

 活況を呈するのも構わぬが、斯かるはえ縄船の船長と乗組員は、湾内入港前には紛うことなく頭を垂れて黙祷し、未だ湾内の水底に眠るであろう数多の行方不明者の一時も早い救助と御霊の鎮魂を期して拝み、更には、入港を受け入れた気仙沼の魚市場もまた同様に、水底に彷徨う地元民の御霊を敢えてゆるがす事にもなる湾内への漁船の立ち入りを、巫覡や巫女を以って粛々と祀らしめたのかどうかもまた、余計なお世話だが、実に気掛かりな所ではある。御霊の鎮めに対し、鹿島神宮香取神宮への奉斎無しに、或いはまた、住吉大社の祭神に坐する、底筒男神、中筒男神、表筒男神息長足姫命の四座に対する鎮めの祀りごと無しに、はたまた、塩土老翁を御祭神とする塩竈神社等への奉斎無しに為される日常活動の漁業再開は、良質性を追い求める日本民族としては褒められたものではない事を知るべしであろう。

 間接的には山側より、直接的には海よりもたらされる自然の恵みを求めて、古より神社や祠を詣で、日常活動としての漁業を営んで来た我ら道々の民、ヤマト圏から直接海づたいに、或いは、ヤマト圏から長野県等の内陸部を経由して、現罹災地の陸奥国に集まりし東国の民とその末裔達、震災後に再び生業を復活させるべく経済活動の再開に向けて動くのも良いが、漁業の再開に於いて、やる事も遣らず為すべき事もなさずして唯々我武者羅に動き回り、水底に眠る多くの同朋が助けを求める中で、其の海中に手を突っ込んで漁をする何ぞは罰当たりの為す仕儀と自覚すべし、況してや、自衛隊や警察隊、或いは、消防隊や海保隊等々に拠る、疲労困憊の中で危険と隣り合わせで海中捜索活動をし続けるダイバー達や、罹災に遭いながらも社会正義を顕現する地元消防団員等に拠る、湾内広くに眠るであろう行方不明者に対する、必死に捜索を尽くす当該救出救助隊の活動を尻目に、如何に喰わんが為ではあるにせよ、或いは、住宅ローンや借金返済の為とは云え、条理の手順を一切踏まずして船を駆り出し、海原をけ立てて海中に手を突っ込む何ぞは罰当たりの行為、日本民族の良質性に悖る其れは肉食獣のおぞましい行為でしかないのである。勿論、無い事を信じたい。

 古代日本列島に於いて、ヤマト朝廷より派遣されし、或いは、東遷に因る蝦夷地の平定や制定後に派遣されし陸奥国に於いて、名実ともに現地の首長としても認められし国造等が、永く続く陸奥国の土地に根差す信仰に合流、鹿島神宮を建立したり、或いは、香取神宮大宮氷川神社、新しくに在っては塩竈神社等々を、其の時代々々に於いて建立、祭神を迎えては五穀豊穣や大漁、安全や繁栄等々をともに祈願し、村や戸を作っては治め、郷や郡を置き定める事と相成り、東国に現に住まう道々の民は今日へと至るのだが、今に至る直近での戦後六十五年間と云うもの、我ら道々の民が総じて失って来たものが何かと云えば、其れは紛う事なく、我ら道々の民が良質性を追い求める其の礎として有し、先祖代々に於いて連綿として受け継いで来た、所謂、八百万の神々の御存在に対する依拠を以ってする篤き信仰心であり、当該八百万の神々の、夫々の存在意義に対する知識と伝承不足と云う事にもなるのであろう。また、強いて言えば、物理科学の可視的発展に拠る、当該不可視的心霊科学の排除や押し潰しを以って、人類史に於ける超近世代に住まう一人として、或いは、紛うことなく其処に参画する、自らも其の一人であるとの錯覚をして、何時しか篤き信仰心に依る道々の民の精神的支柱、即ち、奉斎する事での依拠による護持心をも失わしめて終った事ではあるのだろう。自業自得と云うにはあまりにも悲惨に過ぎる現下の災禍ではある。

 宗教史家や宗教研究家ではないので、宗教に関わる深い形而上的探究成果を説き示せる由もなく、また、其の異才の欠片も有り得もしないが、人類発生史以来延々と寄り来る神々の存在と観念は、明確には習わずとも日本民族一人ひとりの中に深く息衝いて存在しており、如何な無神論者に在る事を吹聴する道々の民の一人とは謂えども、八百万の神々を無視する事は基より不能、物理化学の可視的発展真っ只中の現状に在ってすら、日本列島の隈なくに存在する寺社仏閣の存在が其れを証左しており、そのかず数十万寺社にも及んでいるのが其の顕われ、所謂、天津神国津神仏陀や偉人等々の、八百万の神々を御神体として仰ぎ奉る斯かる日本列島に於いて、神々に対する祀りごと無しに、其れも欲得の赴く侭に動く事は、忌み嫌われて然るべきもの、湾内に於ける行方不明者の捜索真っ只中での経済活動に、民族的価値が認められる筈もないのである。

 今でこそ都道府県と云う単位で一括りにされ、一色の塗り潰しで夫々に理解されて終う日本民族だが、インフラの未整備時代に在っては同じ福島県人でも性格は異なり、海側と山側、或いは、内陸部とでは、明らかな性差は認められてもいた様だ。地震が頻発している福島県浜通り地方、即ち、太平洋沿岸部に住まう福島県民は、茨城県鹿島の民と深く繋がり、特に、飯舘村等に在っては、古代に於いて、鹿島神宮の氏子達が移り住んだと言われてもいる場所で、其れ故に、我が故郷の会津地方に比べれば、八百万の神々に対する信仰心の篤い人々が大勢住まわっているとも言われている。とは云え、海から北上して福島入りした古人も、長野や群馬の陸側から入りし古人も、全てと迄は言わぬが、更なる古代にまで遡れば、現大阪の浪速や河内に辿りつく人々であって、勿論、百済人在り、新羅人在り、高句麗人在りで、当然に伽耶人も、ヤマトからの人々として、或いはまた、彼等ヤマト人とともに北上する諸技能を持った開拓使兼兵士として移り住んだ人々に在る以上、時とともに其の集団性格は変わっても、ミトコンドリアDNAは、突然変異が無い限り、変わる事もまたないのである。

 聖徳太子に拠ってヤマトに導入された仏教、即ち、欽明天皇朝の蘇我氏族(蘇我稲目)に拠って導入された仏教でもあるとされているが、神道を主導していた物部氏族が衰退していったからと云って神道が廃れた訳でも何でもなく、神仏習合が強制されて久しき今も尚、物部神道日本民族の遍くに息衝き、東国の民の日常生活をしっかりと支えて呉れているのである。

 伽耶百済新羅高句麗、或いは、ツングース等々の文化が、今もなお良質に、其れも、色濃く残る日本列島だが、中でも特に東北地方は、捜せば必ずや出て来る宝の山の如き存在、況してや、自然が不断に遺されている恵みの地でもあれば、一億二千七百万の国民にとっても生命の拠り所であり、命綱ともなる東国は場所、基より、八百万の神々が坐する自然郷にも在れば、神々に抗うが如き奉斎無しの活動は、太平洋沿岸部に住まう東国の民が遣る由もなかろう。