【産経抄】8月11日

 予想通り菅談話をdisる抄子。disり方が予想通り酷い。

小人閑居して不善をなす

小人(つまらない人間)は暇をもてあますとろくな事をしないと言う意味でしたっけ。
よりによって首相に向かって、小人だの、暇をもてあましてるだの、常軌を逸してますな、抄子は。

歴代首相は、まとまった日程がとれる8月に外遊するのが常だった

 鳩山内閣の閣僚が5月の連休に外遊したら、外遊する意味があるのかと因縁つけた過去がある癖によく言う。

返す必要のない文化財

 略奪した文化財ないし、略奪したと言われてもしょうがない文化財じゃないんですか?
 ちなみに自民党のお友達だった(いや今もか?)野党・公明党文化財返還を「我が党もすべきと訴えてきたこと」であるとし「率直に評価」(http://www.komei.or.jp/news/detail/20100811_3016)しています。韓国側も、「韓国併合を合法・有効としていること」など色々と不満はあるとした上で、自民党政権時代には考えられなかった「文化財返還」が行われることなどについては過去よりも前進していると一定の評価をしています。
 まあ、当たり前ですが。

「お渡しする」と約束

 一方、赤旗は返還自体は評価しながらも「略奪したも同然の文化財であり、「返還する」「お戻しする」とでもいうべきであり「お渡しする」とは菅談話は随分と軽い表現」という趣旨の批判をしています(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-08-11/2010081101_06_0.html)。
 まあ、民主党内右派の反発を恐れて「お渡しする」としたみたいですが。

 以下の抄子の言いがかりは「全共闘世代」云々とかバカバカしいので基本的には全て省略しますが、いくつか取り上げます。

8月15日に靖国神社に参拝する予定の閣僚が誰もいない

 自民党時代にも参拝しない閣僚はいました。
 大体、政教分離原則違反の疑いが濃いこと(靖国参拝)をやれと主張するなよ。追悼なら靖国に行かなくても出来ます。
 むしろ、抄子の主張を信じるなら、今まで閣僚の誰かしらが参拝していたというのが、私には恐怖ですが。

自民党政権時代も小泉純一郎首相退任後、在任中に参拝した首相はいなかったが、それが政権交代を早めた一因だと小欄はにらんでいる。

 在任中に靖国参拝しなかった首相などいくらでもいます。抄子はアホかと。大体、選挙の争点は靖国問題じゃなかったでしょうが。

愚にもつかぬ談話を出した首相

 愚にもつかぬ文章しか書けない人は黙っていなさい。

普天間問題にせよ、財政再建にせよ、やるべき仕事はいくらでもある

 誰もやらないなんて言ってないんですが。

【正論】終戦から65年(立命館大学教授、大阪大学名誉教授・加地伸行)(追記・訂正あり)

昭和20年、だれもが辞退した沖縄県知事(当時は官選)を引き受けた島田叡(あきら)は1月に着任後、献身的に尽くし、6月、日本軍総司令部のあった摩文仁(まぶに)において自決した*1

「だれもが辞退した沖縄県知事
・要するにそう言うことです。当時沖縄に行けと言うことは「死にに行けと言うこと」と同義語であり、沖縄は本土の捨て石(要するに沖縄差別)でした。よほどの人格者かバカでない限り誰でも辞退するでしょう。
 そもそも島田が沖縄に赴任する羽目になったのも、前任者・泉守紀が命惜しさなどから、沖縄から異動したいという政治工作を内務省に対して行い、希望が叶い、めでたく香川県知事に転出したからでした。
 そのためもあり「在任期間一年半の間に9回の出張をし、三分の一に近い175日間を県外で過ごした」(ウィキペディア「泉守紀」)というのですから、そりゃ沖縄県民には恨まれるでしょう(もちろん中央とのまともな折衝だって、それなりにやったでしょうが)。
産経新聞「【元気のでる歴史人物講座】(4)島田叡」(http://sankei.jp.msn.com/life/education/090128/edc0901280803002-n1.htm)は「泉が任務を放棄した」と書いてありますが、一応、香川県知事任命の辞令が内務省から出ていますので「本音」はともかく「建前の上」では「任務放棄」はしていません。建前で本音を否定する建前大好きな産経さんが「建前がどうであれ泉は逃げたんだ」と非難するとは珍しいですね(皮肉)。
・なお、ウィキペディア「泉守紀」に寄れば、泉は、便所のそばで豚を飼育するなどの本土との慣習の違いに苛立ち「沖縄は遅れている」と言う差別的言動を公然としたため、沖縄人である部下との溝が広がり孤立感を味わっていたと言うことも異動希望の背景にはあったようです。泉は人間的に相当問題のある人のようですな。
 泉が異動の政治工作をしなければ島田も死ぬことはなかったでしょう(島田の前任者・泉はそのため沖縄では酷く嫌われていると言います。後で紹介しますが、その反動もあり、島田は沖縄では敬愛されてると言います)。
 そう言う中で島田の態度は感動的ではあります。ただし、島田は「命惜しさに前任者・泉や就任を辞退した者のように仕事から逃げるなど卑怯者の所業」「自分はそんな奴らとは違う」と言う価値観・美意識から沖縄に向かったのであり、別に沖縄県民への深い愛情とかがあったわけではないようです。それはともかく卑怯者ほど長生きすると言うことでしょうか。
 いずれにせよ、島田のような人間は例外的存在でした。島田をネタに戦前の沖縄差別をうやむやにしようなど、杉原千畝をネタに「日本はユダヤ人をナチから救った」と言うような愚行であり、島田に失礼です。
・どこまで本当か知りませんがウィキペディア「島田叡」から感動的エピソードをいくつか紹介してみましょう。しかし、島田のエピソードを読む限り、牛島満司令官以下、軍人の皆さんはあまり評価できそうな人間ではないんですが。首里から撤退するなんて住民を巻き添えにすると反対した島田に対して、「本土決戦のためには仕方がない」(←もちろん軍・政府の中央が「住民を犠牲にしても本土決戦を有利にしろ」という命令をしてるわけで同情の余地はありますが)と主張したわけですから。

ウィキペディア「島田叡」
・沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。
・およそ横柄なところのない人物で、女子職員が汲んできた水での洗顔を勧めると「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」といい、他の職員と同様、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭っていた*2
・陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。」と反対の意思を示した。昭和20年5月末の軍団長会議に同席した島田は、首里撤退の方針を知らされ、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である。」と憤慨。そのとき牛島司令官は、「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ。」と説いて会議を締め括ったという。6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい。」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。
高校野球で夏の県大会を制した高校には、「島田杯」が授与されることを見ても、いかに島田知事が県民に敬愛されていたかが分かる。
【2015年6/24追記】
その後のウィキペディアの記述変更をここに追記しておきます。
・島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者*3のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。1945年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入された*4。こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し、深い信頼の念を抱くようになった。
・島田が沖縄県知事として現地に赴任するに至った背景には、佐賀県警察部長在任中、龍泰寺で開かれていた「西濠書院」という勉強会に参加したことがきっかけとされる。島田は、その書院を主宰していた住職・佐々木雄堂に出会い、『葉隠』と『南洲翁*5遺訓』について学び、その思想に深く感銘を受けたとされる。後に、佐々木は沖縄に赴任する島田に対して、葉隠と南洲翁遺訓の2冊を贈り、島田はこの2冊を携えて「敢然と沖縄に赴任する」旨を佐々木に書き送っている。

その昔、責任をとった牛島(ボーガス注:第32軍(沖縄)司令官)ら将帥、島田らキャリア官僚がいたのである。

 ノモンハン敗戦の責任を取らなかった辻政信とか、「俺も後で特攻する」と言いながらしなかった富永恭次*6とか、インパール作戦失敗の責任を取らなかった牟田口廉也*7とかろくでもない人間も山ほどいますけどね(毒)

基地(その場所は別として)を置かざるをえない。いや、置かねばならない。である。

 沖縄差別も大概にしろよ。

とすれば、沖縄に対して単に地域への経済的援助に終始するのではなくて、日本全体としてできることを多様に提供すべきではないのか。
 例えば、国家から大恩恵を蒙っている、東大をはじめとする旧帝国大学系7大学は、その総入学定員数約1万5千人強の内、少なくとも3%程度すなわち約500人分を、小中高を沖縄で暮らし育った受験生に対して入学沖縄枠として提供せよ。また、証券市場に上場できるほどの会社数千は、毎年必ず1人を入社沖縄枠として求職者に提供せよ。

 そんなことを沖縄は望んでないんだよ。基地置くなって言ってるんだよ。私のような沖縄に対して関心のない者でもマスコミ報道見るだけで分かることだろうが! 
 利権(それも相当せこい利権)で買収しようなんてどれだけ沖縄をバカにしてるんだよ。


【追記その1】
 「玉砕大好き」産経が紹介しなかった、おそらく紹介したくないであろう島田のエピソードを紹介しましょう。

http://blogs.yahoo.co.jp/ganho31/9305201.html
 「女、子供に敵は何もしないから君たちは最後は手を上げて出るんだぞ」。
 沖縄戦の組織的戦闘が終結したといわれる1945年6月23日の直前、当時の島田叡知事=兵庫県出身=から掛けられた言葉を胸に、県警察部職員だった山里和枝さん(85)=うるま市=は戦後67年間を生きてきた。島田知事はその後、沖縄本島南部・摩文仁の軍司令部壕に向かい、消息を絶った。語り部として戦争の悲惨さを訴え続ける山里さんは言う。
「知事は私に『絶対に生きろ』と言ったんです」
(中略)
 6月15日か16日、山里さんは壕の入り口で鉄かぶとを肩からさげた知事に出会った。
「絶対軍と行動を共にするんじゃないぞ。最後は手を上げて出るんだぞ」。
 知事は山里さんの肩をたたいて出て行った。
 国のために命をささげるつもりだった。
「今になって、捕虜になれと言うのですか」。
 悔しくてたまらなかった。だが、その後、壕に逃げ込んできた日本兵が泣きわめく子供を銃で射殺したのを目撃し、変わった。
「友軍なんてこんなものか、絶対に生きてやろうと思いました」。
 知事の言葉通り、投降して生きた。

http://www.qab.co.jp/news/2012072736981.html
 山里さんはある人物の最期の姿を目撃していました。その人物とは島田叡知事。敗戦色が強まり死を覚悟して壕を出ようとしていた島田知事と偶然会い、そこでかけられた一言で自身が命拾いしたと明かしました。
 山里さんは「絶対友軍(日本軍)と行動を共にするなよと。手をあげて(壕を)出るんだよと。敵は女子、子どもに何もしないから、手をあげて出るんだよと仰って、私の肩を軽く叩いて、出ていらしたんです、これが最後です」と話しました。


【追記その2】
産経新聞「【元気のでる歴史人物講座】(4)島田叡」(http://sankei.jp.msn.com/life/education/090128/edc0901280803002-n1.htm
も批判する島田の前任者・泉守紀については「立派な知事・島田、ダメ知事・泉」として一般に評判が悪いです。
 2013年に製作されたTBSの島田知事が主人公のドラマも

http://www.tbs.co.jp/ikiro2013/story/
 沖縄戦が始まる2ヶ月前の1945年1月末、一人の男が沖縄県知事に就任した。前任の知事・泉守紀(大原康裕)が、職場放棄同然で沖縄を脱出したためだ。
 そこで、白羽の矢が立ったのが、大阪府内政部長の島田叡(緒形直人)だった。

と「泉ダメ知事論」にたっています。
 が、泉擁護論を見つけたので参考までに紹介しておきます。


大城将保*8の【おきなわ百話】
■『(41)泉知事の「汚名」の真相』

http://www.okinawa100.info/post-31.html
 戦前の沖縄県令・県知事27名のなかでもっとも評判の高いのが、戦前最後の第27代県知事・島田叡[あきら]である。
 古い話ではなく、昨年(2013年)8月、TBS系テレビで放映されたドラマ「生きろ〜戦場に残した伝言〜」が好評で、沖縄現地では2014年の「6・23慰霊の日」にも再放映されて話題となった。
 さらに放送ドラマが活字化されて、『10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡』(ポプラ新書)という出版物にもなった。
 従って、ここで島田知事の評伝を語るつもりはないのだが、島田知事や荒井退造*9警察部長の名声が高くなればなるほど、対極に埋もれていく前任知事の存在が気になってくる。
 とにかく、沖縄の県政史上、泉守紀知事ほど評判の悪い役人はいない。戦後70年にもなろうとする今日まで、「戦場化の沖縄から逃げた卑怯な知事」として県民の評判もよくない。
■『沖縄新報』(昭和19年)
「一般指導的地位にある人々の率先垂範が求められている。ところが最近、瞬時と雖もゆるがせに出来ぬその重要な戦場を離れ、さして重要ならざる用務のため官公衙諸団体の職員が盛んに県外出張をなし交通の不円滑をいいことにして長期間を浪費し或ひは鉄砲玉の如くその侭不名誉きわまる退職手続きをなすが如き非国民的所為が見受けられ斯界矯正の声さえ台頭している。」
■『日本の歴代知事(歴代知事編纂会・編集発行)』
「(泉が)本県を去ったのは、昭和二十年一月一日米軍のB29が飛来して沖縄が日米の決戦場となる可能性を予想してのことであった。泉は沖縄戦を見越して出張名目で離県し、そのまま帰任しなかった」云々。
 以上、最近に至るまでさまざまな評伝は、知事を「戦場から逃げた臆病で卑怯な県知事」として定説化していたが、ここに一冊の例外が現れた。
 野里洋*10 著『汚名:第二十六代沖縄県知事・泉守紀』(講談社 1993年12月)である。野里氏は泉元知事の消息を探し続けていたが、戦後40年目にして埼玉県の自宅をさがしあて、泉夫妻にインタービューを行うとともに秘蔵の日記帳を閲覧する機会に恵まれた。
 取材の経緯や日記の内容については『汚名』の原本にゆずるとして、同書を一読して強く感じたことは、「戦場化沖縄から逃げた臆病で卑怯な県知事」という風評が、当時の沖縄県守備軍によって意図的にばらまかれたものであったという驚きであり、今なお、同様のデマが沖縄現地でも受け継がれている恐ろしさであった。
(中略)
 昭和19年夏ごろから、中国大陸から戦闘部隊が続々と沖縄の島々に移駐してきた。
 兵舎の準備も間に合わず、民家を借りて住民と雑居する状態となり、兵隊たちの乱暴狼藉がひんぱんに発生し、未亡人や娘たちと兵隊たちの間に風紀問題が頻発する状況となった。
 軍司令部(第32軍)としては、こうした事件は兵隊専用の遊行施設がないのが原因とみて、県当局に軍人専用の「慰安所」を設置するよう申し入れてきた。これにたいして、泉守紀県知事は、「ここは満州や南方ではない。いやしくも皇土の一部である。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない。県はこの件については協力できかねる」と、きっぱりと拒絶した。
(中略)
 こうした強い信念に基づいた強硬な姿勢が軍部から非難され、やがて泉知事攻撃へと発展して軍部の片棒をかつぐ新聞などの泉攻撃キャンペーンに発展していく。沖縄守備軍が県下にばらまいた泉知事攻撃のネガティブキャンペーンは戦後まで受け継がれ、今日にいたるまで泉知事の「汚名」が清算されたとはいえない。
 一例として沖縄タイムス社編『沖縄大百科事典』で「島田叡」の項には約800字のスペースをとりながら、前任者の泉知事については項目さえ掲げてないという不平等な処遇である。
 ただし、当時から泉知事の牧民官(地方長官)としての姿勢をたかく評価する人びともいた。『汚名』は次のように宮城嗣吉氏(沖縄出身元海軍兵曹)の証言を紹介している。
 「三十二軍が沖縄に上陸してしばらくした頃でした。軍が県に慰安所をつくるよう言ってきた。泉さんはそれ以前から、軍紀が乱れて兵隊と沖縄の婦女子の間にトラブルが増えていたのを嫌っていました。沖縄を植民地のように思って振る舞う軍に対して『沖縄は皇土の一部で、占領地ではない』とたてつき、軍の慰安所設置要求などに反対していた。軍の権力に立ち向かった信念の強い、立派な知事さんでした」 
 ともあれ、泉知事は昭和20年1月、上京中に香川県知事に栄転した。
 後任の沖縄県知事には島田叡が就任した。新知事は覚悟の上の赴任であったから、あえて軍司令部に抵抗することなく、慰安所設置も黙認するしかなかった。

 大城氏の泉評価はともかく泉が「外地ならともかく国内に慰安所なんかおけるか」と言ったのが事実なら産経の主張に反し「慰安所とは当時からそういう目で見られていた」ことの証明にはなるでしょう。


■(34)島田知事と「台湾米」のナゾ (後編)

http://www.okinawa100.info/120/post-25.html
 島田叡[あきら]知事が着任してから摩文仁の激戦場に消えるまで、わずか5か月しかない。この短期間にまっ先に決行したのが「台湾米」の買いつけであった。
 県知事みずから危険な空路を台湾まで飛んで、配給用「台湾米」を買いつけるとは前代未聞の出来事であり、島田知事の誠実さと責任感と行動力を物語るエピソードとして今に語り継がれている。
 私自身も島田知事の人柄や功績を評価するのに人後におちる者ではないが、ただし世間一般の「偉人伝」とは別に、当時の戦場行政の実情を史実として確認しておくためには、まず、新任知事をそこまで突き動かした動機と目的が何であったかを、明確にしなければならない。
(中略)
 県民の安全を思いやる誠実さとか、わが身の危険をかえりみない大胆な行動力とか、人物評論はさておき、知事をそこまで駆り立てた根本的原因は、軍司令部から県庁に指示した戦場行政の基本方針(ボーガス注:沖縄県民の北部疎開のこと)であったことを確認しておくべきである。
(中略)
 老幼婦女子の北部疎開については、前任の泉守紀知事が「北部には食糧がない」との理由で強硬に反対して、知事更迭*11の一因ともいわれていたが、島田知事はこれを素直に受け入れた。
 それだけに島田知事としては国頭疎開者の食糧確保は戦場行政の最優先事項だったのである。
(中略)
 結局、知事特注の台湾米は国頭地方事務所には届かなかった。その結果どうなったか、ふたたび『沖縄警察とともに』から引用しよう。
 「中南部から北部への疎開者は15万人に達した。計画倒れの地方事務所はてんてこまいで、『とにかく食えるものは何でも食べよう』と呼びかけて、ソテツ食を奨励するほかはなかった。食糧運搬に使役した馬を殺して肉を分けた。(後略)』

 島田美化、泉非難に対する大城氏の異論提示です。


■(36)戦前の県庁役人が描いた「沖縄人の自画像」

http://www.okinawa100.info/120/post-27.html
(前略)
「よくもこれだけネガティブな文句を公文書に書き並べたものだ」と、私は当時の県庁役人たちがみずからを〝民度低ク〟などと卑下して新任知事に報告せざるをえなかった心境が切なくなってきた。
 こうした劣等意識が陰陽さまざまな形で噴き出してくるのが沖縄近現代史の一側面であったのだろう、とユウウツになってきた。 
 ところが後日、ふとあることに気がついてわがオツムをたたいた。
 この報告書はウチナーンチュ(沖縄人)自身が書いた「自画像」ではなかったのだ。
 当時の沖縄県庁の上級役人たちは、ほとんどが本土出身者だった。県知事はじめ部長、課長クラスのほとんどは、内務省の辞令で内地(本土)から赴任してきた「ヤマトゥンチュー役人」であった。
 はじめて沖縄の地を踏んだ彼らが、県民をどのように蔑視し不快感をもっていたか、事務報告書はまざまざと彼らの内面を映し出していたのだ。
(中略)
 ともあれ、このようなゆがんだ沖縄観をもったヤマト役人たちが、その後どのような行動をとったか。
 1944年10月の十・十空襲で那覇市が全焼し、沖縄の戦場化が必至の情勢になると泉知事はじめ、部課長クラスのヤマト役人たちは、本土出張の名目で沖縄を去ったまま再び帰任することはなかった。
 泉知事などは「決戦を前に知事は沖縄を見捨てて逃げた」などと新聞でたたかれて、「汚名」を残すことになる。
 戦場に踏みとどまって、県民の食糧確保や避難誘導に最後の最後まで献身的に奔走したのは、たった二人。
 泉守紀前知事の空席をうめるべく、1945年1月に急きょ後任知事に任命されて赴任してきた島田叡[あきら]知事と、部下の荒井退造警察部長の二人だけだった。
 二人とも南部戦線の鉄の暴風のなかで殉職し、摩文仁岬の「島守の塔」に祀られている。

 島田が沖縄において評価される背景の説明です(島田の部下・荒井についても触れられていますが)。なお「戦前、沖縄県庁が出世コースじゃない」というのが「戦前沖縄県庁幹部職員の偏見」の背景でしょう。


【追記その3】
時事通信『島田叡氏の碑が完成=沖縄戦時の知事、住民救う−那覇
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201506/2015062600068&g=soc
沖縄タイムス『島田叡氏の功績後世へ 奥武山で顕彰碑除幕』
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=121671
琉球新報『島田叡氏の足跡しのぶ 那覇に顕彰碑建立 最後の官選知事』
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244858-storytopic-1.html

 TBSドラマの反響もあって島田の記念碑ができたそうです。島田の記念碑が今までなかったらしいと言うのが驚きです。なお、島田が兵庫県神戸市出身と言う事で

井戸敏三兵庫県知事、石川憲幸兵庫県議会議長、久元喜造神戸市長

が除幕式に出席したとのことです。

*1:正確には「自決したであろうと見なされている」というのが正しい。自決したという確たる根拠はない。後で紹介する山里和枝さんのように「私に『降伏してでも生きろ』と言った知事が自決するとは思えない」「証拠がない限り戦死ならともかく自決したとは思わない」と言う方もいる。

*2:2015年6/24追記:ただしその後のウィキペディアでは『女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、あだやおろそかに使えない」と、ほんの少ししか水を使わなかったという』と書きかわっています。

*3:軍人嫌いの泉・前知事は、ことあるごとに軍部と衝突し、政府の県民疎開の方針に公然と反対したため、疎開は立ち後れ、10・10空襲に際しては県庁に出張せず、終始防空壕に避難し、空襲後はいち早く那覇から脱出するなど、県政に大きく支障をきたしていたという。

*4:従前の文献には「米軍の攻撃が激しくなり、現物は届かなかった」と記述されている場合があるが、田村洋三『沖縄の島守:内務官僚かく戦えり』(2006年、中公文庫)は誤りであるとする(なお、田村氏には他にも沖縄をネタにした著書として『沖縄県民斯ク戦ヘリ:大田実海軍中将一家の昭和史』(1997年、講談社文庫)、『特攻に殉ず:地方気象台の沖縄戦』(2004年、中央公論新社)、『沖縄一中鉄血勤皇隊:学徒の盾となった隊長篠原保司』(2010年、光人社)、『ざわわざわわの沖縄戦:サトウキビ畑の慟哭』(2011年、光人社NF文庫)がある。)。【追記】ただし大城将保氏のエントリ(http://www.okinawa100.info/120/post-25.html)は「届かなかった」としている。

*5:西郷隆盛のこと

*6:参謀本部第一部長、陸軍省人事局長、陸軍次官、第4航空軍(フィリピン)司令官など歴任

*7:第18師団(マレーシア→ビルマ)長、第15軍(ビルマ)司令官など歴任

*8:著書『沖縄戦の真実と歪曲』(2007年、高文研)

*9:荒井については■毎日新聞『上映会:荒井退造描く「生きろ」 戦時下の沖縄で住民疎開に尽力 ヒカリ座で8日/栃木』(http://mainichi.jp/area/tochigi/news/20150806ddlk09040212000c.html)、■産経新聞『【戦後70年】終戦間際の沖縄県警察部長・荒井退造を語る、宇都宮』(http://www.sankei.com/region/news/150614/rgn1506140037-n1.html)、■産経新聞『【戦後70年】荒井退造の偉業伝えて 宇都宮で追悼上映会』(http://www.sankei.com/region/news/150809/rgn1508090022-n1.html)、■産経新聞『【郷土偉人伝】荒井退造 激戦地の沖縄で県民疎開に尽力した警察部長 戦後70年に故郷・宇都宮の誇りに』(http://www.sankei.com/premium/news/150816/prm1508160009-n1.html)、■下野新聞沖縄県民の疎開に尽力、荒井退造の関連本寄贈、顕彰委が母校へ』(http://www.shimotsuke.co.jp/category/life/entertainment/books/news/20150610/1985631)、■下野新聞沖縄戦の「島守」、荒井退造の生きざまに涙 宇都宮でドラマ上映会』(http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/local/news/20150809/2046637)、■琉球新報『荒井警察部長の功績、後世に、地元顕彰会が来県、沖縄戦当時』(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244840-storytopic-145.html)、■東京新聞『宇都宮の誇り 沖縄「命の恩人」 県警察部長・荒井退造 生誕地で偉業語り継ぐ』(http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201601/CK2016011302000182.html)を紹介しておく。沖縄はともかく故郷・栃木ではほとんど無名の存在だったという荒井だがTBSドラマを契機に栃木で荒木評価の動きが起こってるらしい。

*10:著書『癒しの島、沖縄の真実』(2007年、ソフトバンク新書)、『沖縄力の時代』(2009年、ソフトバンク新書)

*11:泉の香川県知事転出は一般に「政治的裏工作による泉の逃亡」と理解され「卑怯者の泉」と非難されるが大城氏は「軍部の工作による泉更迭」と理解してるらしい。