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2017-12-17

唐珍について

昨日の続きの唐氏シリーズ。

今日は唐珍。

唐珍は宦官唐衡や、少帝の妻の唐姫*1、荀の妻?の一族で売官により司空までなった人だ。

この唐珍について『広東通志』、『百越先賢志』で今まで知らなかった記述を見つけた。

『広東通志』巻四十四 人物

唐珍字恵伯、桂陽人。幼時聞人講書即能記誦、人謂神童。及長状貌瓌特、善事父母。天性恬漠、荊州刺史度尚甚稱重之、及就辟召、累官太常。

熹平二年秋、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍以防蠻宼。

其先世家本潁川、同族有中常侍衡、與左悺等竊弄威福。衡常呼珍為弟、珍恥之。遂陽瘖不復出言。以病罷歸、居公位僅朞月。光和二年卒、郷人立廟祀之祈禳有應號唐司空廟。

百越先賢志』巻三

唐珍字恵伯、桂陽人。幼聞讀書即能記誦、天性恬漠、寡欲。荊州刺史度尚、甚稱重之、及就辟召、累官太常。

熹平二年、代楊賜為司空。嘗奏請沿海立堠戍、以防夷冦、天子不從。

自言先世家本頴川大父南徙已居三世。同族有中常侍衡、與左琯等竊弄威福、衡常呼珍為弟、珍耻之。然衡有弟、方為京兆虎牙都尉、珍謂所親曰「彼已有虎牙弟、又奚用弟我為耶。」。

自是陽瘖、不復出言。遂以久病罷歸。素師事郴人成武丁、得黄老養性之術。閉戸呼吸玄牝、人罕接焉。光和二年卒、郷人屢見其出入山水間、立廟祀之、號唐司空廟

(據『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』叅修)

2つの記述は多少異同があるが、おそらく引用元は同じだと思われる。

まとめると次のようなことを言っている。

唐珍、字は恵伯、桂陽の人である。幼い頃から書物の講義を受けるとすぐに記憶して暗誦したので、神童と呼ばれた。成長すると容貌はすぐれ、よく父母に仕えた。

生まれつき落ち着きがあり、欲が少なく、荊州刺史の度尚*2は唐珍をたいへん称賛し重んじた。辟召されて職に就くと、官位を重ねて太常になった。

熹平二年(173年)秋、楊賜に代わって司空となった。常に海沿いに物見やぐらと、とりでを立て賊を防ぐよう奏上したが、皇帝は従わなかった。

自ら祖先の家はもともと潁川であり祖父が南の桂陽に移ってすでに3代と言っていた。

同族に中常侍の唐衡がおり、左琯らとともに権力をほしいままにしていたが、唐衡は常に唐珍を弟と呼び、唐珍はこれを恥じた。

唐衡の弟の方は京兆虎牙都尉であったが、唐珍は親しい者に言って曰く「彼にはすでに京兆虎牙都尉の弟がいる。またどうして弟を私とする必要があるのか*3。」

自ら声が出ない病気を装い、二度とは発言することがなかった。そして、長い病により罷免され、帰郷した。三公の位にあることわずか一か月であった。

日ごろから郴の人、成武丁に師事しており、黄老の養生術を会得した。戸を閉じ鼻と口で呼吸し人と交友することは稀だった。*4

光和二年(179年)に死去したが、郷里の人がしばしば、唐珍が山や川の間を往来しているのを目撃したため、廟を立ててこれを祀り、唐司空廟と号した。

この記述を信じるとすると、後漢書では潁川の唐珍とされているが、実際には桂陽の人であった。

おそらく桂陽に居住していても本籍は潁川のままであったために、潁川の唐珍と書かれているのだろう。

さらに、宦官唐衡の弟とされていたが、実際には同族であったから弟と呼ばれただけだったという。


ただ、この話を読むと、熹平二年(173年)に司空になった唐珍が、宦官の唐衡から弟と呼ばれたことで病気を装って罷免された、という流れに思えるが、唐衡は延熹七年(164年)に死んでいる。

うまく意味が取れていないせいかもしれないが、時系列がめちゃくちゃになっている気がする。


また、『太平御覧』に引く『汝南先賢伝』によると汝南太守唐珍という人がおり、免職になって故郷に帰っていた陳蕃を功曹として招聘している。

『太平御覧』巻二百六十四 職官部六十二 所引『汝南先賢伝』

袁閬,字奉高,為功曹,辟太尉掾。太守唐珍曰:「今君當應宰府,宜選功曹以自代。」因薦陳仲舉,珍即請蕃為功曹。

適当訳

袁閬、字は奉高、功曹であったが太尉掾に辟召された。

(汝南)太守の唐珍は言った。「今君は宰相の府に仕えようとしているが、代わりの功曹を自ら選ぶべきだ。」と。

そのため陳仲挙(陳蕃)を薦め、唐珍は陳蕃に功曹になってもらうよう要請した。

唐珍を称賛した荊州刺史度尚は八廚の一人で党人だし、この陳蕃も党人である。

唐珍は宦官一族にしては党人との関係が深い。



唐珍は官位を買ったと批判されてたり、司隷校尉宦官と結託していたという話もある。

なんとなくだが桂陽出身で司空になった唐珍と、潁川出身で唐衡の弟の唐珍という二人の別人を混同しているのではないかという気がしてしまう。

ぜひ唐珍についてみんなも考えてみよう!


補足:『百越先賢志』によると、上の記述は『太平御覧』『人代紀要』『穎川志』『湟州志』を参照したとのことであるが、『太平御覧』、『人代紀要』には唐珍についてのここまでの詳しい記述は見られない。

『穎川志』『湟州志』はおそらく『潁川志』、『湟川志』の誤記であると思われる。*5

『潁川志』、『湟川志』はいくつか種類があるようで、いつ成立したものを参照したのかはよくわからない。

潁川志は古いものだと、後周(951-960)の樊文深が書いた『中嶽潁川志』がある。*6

また、『湟川志』は宋代に成立したものがあるとネットに書いてあった。

*1:違うかもしれない

*2:度尚の荊州刺史在任期間は延熹五年(162年)〜延熹七年(164年)

*3:「又奚用弟我為耶」の訳だがあまり自信がない。

*4:閉戸呼吸玄牝人罕接焉。の訳が全然わからない!

*5:『百越先賢志』の他所で『潁川志』、『湟川志』の引用がある

*6:『旧唐書』巻四十六 經籍上

2017-12-16

会稽太守唐鳳と周規

実はこのブログは昔から潁川の唐氏についてしばしば取り上げてきた。

唐姫

碑文に見る唐氏の一族


今回、いくつか唐氏について発見したので1つの記事にしようかと思ったが、ちょっと長くなりそうだったので分ける。(2〜3回)

一つ目は唐鳳。これまで唐姫の父親の元会稽太守唐瑁を宦官唐衡の一族としてきたが、もしかしたら違うかもしれない。

『太平御覧』人事部一百三十三 所引『会稽典録』

周規,字公圖,太守唐鳳命為功曹。鳳,中常侍衡之從兄,恃中官專行貪暴。規諫曰:「明府以負薪之才,受剖苻之任,所謂力弱載重,不惟顛蹶。方今聖治在上,不容紕政。明府以教人之職,行桀紂之暴。」鳳怒,縛規,槌於閣中。鳳后果以檻車徴。

適当訳

周規、字は公図、(会稽)太守唐鳳によって功曹に任じられた。唐鳳は中常侍唐衡の従兄であったため、それをたのみ欲張りで暴虐であった。

周規は諫めて言った。「太守殿は薪を負うような身分の低い人でありながら太守の任を受けている。いわゆる『力は弱いのに重いものを載せているが、躓いて倒れると思っていない』だ。

今は聡明な天子が治めており、過ちを許さない。

太守殿は人を教導する職をもって桀や紂のような暴君の行いをしている。」と。

唐鳳は怒り、周規を縛り、叩き打った。

唐鳳は後に果たして護送車で召しだされた。

「負薪之才」は、ただ薪を負う才能があるだけ、身分が低い人を比喩して言うものらしいが、太守に向かって「身分低い」と言うする周規ヤバい。

功曹は地域の有力者だから中央から送られてくる太守よりも力が強いことはしばしばあったようで、これはその関係性を示す例かもしれないが、たぶん単純にこいつは性格が悪い。

ちなみにこの周規、会稽の人なのでおそらく『後漢書』朱雋(朱儁)伝に出てくる周規だ。

後漢書皇甫嵩朱雋列伝第六十一

時同郡周規辟公府,當行,假郡庫錢百萬,以為冠幘費,而後倉卒督責,規家貧無以備,雋乃竊母嗽隋ぐ抖解對。母既失産業,深恚責之。雋曰:「小損當大益,初貧後富,必然理也。」

適当訳

当時、同郡の周規が中央に招聘され、出発するにあたり郡の倉庫から百万銭を借りて、冠の費用とした。

のちに倉庫の役人が督促したが、周規の家は貧しくて蓄えがなかったため朱儁は母の絹を盗んで周規のために返済にあてた。

母は財産を失ったため、朱儁を責めたが、朱儁は言った。「小さな損で大きな利益を得る、はじめは貧しくて後に富むは当然の理だ。」と。


というか周規は本題ではないので閑話休題

この会稽太守唐鳳、はっきりと唐衡の従兄と書いてある。

唐姫の父の元会稽太守唐瑁とこの会稽太守唐鳳は同一人物なのだろうか。

瑁(mao)と鳳(feng)では発音もだいぶ違うし字形も似ていない。

さらに唐瑁は弘農王毒殺後も生きているが、唐鳳は逮捕されてるし生き永らえたとはあまり思えない。(生きてた可能性もあるが)


私は唐扶頌の記事で、唐氏の系図を描いたが

潁川唐氏についてはもうちょっと考える必要がある。

そのカギを握る司空唐珍についての記載を発見したので次回更新は唐珍。


というかこの話、だいぶ昔に自分でツイートしてたらしいんだよね


完全に忘れてたけど。

2017-09-28

婁圭の氷の城

前回更新から1年半も経過してしまいました。

最近はこんな動画を投稿したりしてます。

D

王必と応劭を広めるために始めたのに出番ほとんどなくて作戦は失敗しました。

1,000再生いけばいい方かと思ってましたが、5,000くらい再生されたものもありがたいことです。

さて、本題、動画内で婁圭が出てきたので今日は婁圭のことを一つ。

三国志』巻一 武帝紀 注引『曹瞞伝』

時公軍毎渡渭,輒為超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯説公曰:「今天寒,可起沙為城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。

建安16年(211)、曹操馬超韓遂が戦った時のこと、曹操軍は渭水を渡るたびに馬超の騎兵の攻撃を受ける上、砂がちで土塁も作れず、橋頭保を築けないでいた。

婁圭は、「今は寒いので砂で城をつくり水をかけておけば(凍結し)一夜で完成できる」と進言、曹操はこれに従い、夜のうちに川を渡り、城を作り水をかけさせたところ、翌朝には城が完成し、無事に渭水を渡ることができたという。


三国演義』でも採用された婁圭の有名なエピソードだ。


同上

臣松之案魏書:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!

これに対し、裴松之は「季節は閏8月だぞ、そんな寒いわけないぞ」と疑念を示している。


というわけで、今回はこのエピソードが本当にありえないのかを調べてみる。



そもそも、建安16年閏8月とはいつなのだろうか。

中央研究院両千年中西暦転換で調べてみると、西暦211年9月25日〜10月24日が閏8月だという。

馬超韓遂が渭水の南で曹操に敗れたのは9月庚戌の日で、*1西暦だと211年11月15日になるので、氷の城を作って渡河したのは閏8月の終盤であることは充分考えられる。


北海道じゃ10月に初雪も降ることあるし、閏8月に凍るくらいの気温になってもおかしくないんじゃないかな。


裴松之北海道は北緯41〜45°、渭水近辺は北緯34〜35°、日本なら大阪とか京都とかだぞ。」



仕方がないのでそのあたりについても考えてみる。

後漢末以降、世界的に寒冷化していたと言われているおり、北緯34°で北海道並みの気候になっていても全然おかしくない。

実際に次のような記事がある。

宋書』巻三十三 五行四

呉孫權嘉禾三年九月朔,隕霜傷穀。

呉の嘉禾三年九月一日に霜が降りて穀物を損なったという。

嘉禾三年九月一日は西暦234年10月10日、霜が降りた詳細な場所は不明だが、呉はだいたい北緯24〜34°である。

『晋書』巻二十七 五行上

太康五年(略)九月,南安郡霖雨暴雪

太康五年九月、南安郡で長雨と大雪が降ったという記事もある。

太康五年九月は西暦284年9月27日〜10月25日、南安郡の緯度は北緯35°である。


このように、当時は寒冷化しており、建安16年の閏8月に氷の城が建つというのは充分にあり得ることであったと思う。

*1:『後漢書』紀第九 献帝紀「十六年秋九月庚戌,曹操韓遂馬超戰於渭南,遂等大敗,關西平。」

2016-03-13

王必(おうひつ)とはどんな人?曹操を黎明期から支えた忠臣

曹操の覇業を支えた忠臣といえば、荀(じゅんいく)、

荀攸(じゅんゆう)や程─覆討いい)などが有名です。

彼らと比べるとほとんど知られていないですが、彼らに匹敵するくらい曹操の勢力拡大に貢献した王必(おうひつ)という人物がいます。

曹操からは、鉄や石のように固い志をもち、国の良吏であると褒められています。

一体どのような人物だったのでしょう。



関連記事:金禕の胡婢

関連記事:王必コピペ

関連記事:于濤『実録三国志』での王必の評価が高い件


この記事の目次

曹操のために命懸けで献帝のもとへ

呂布を舌で殺す

金禕の反乱と王必の最期

三国志ブロガー鎮虎将軍雲子の独り言


曹操のために命懸けで献帝のもとへ

王必は曹操に初期から仕えた人物です。

曹操は初平2年(191年)に兗州牧(えんしゅうぼく)となると、

献帝のもとに使者を送ります。

使者として選ばれたのが、兗州従事)の王必でした。

従事は州の役人で、基本的に地元からの登用なので

王必は兗州出身なのでしょう。

当時、献帝長安にいましたが、その長安は李傕(りかく)や郭棔覆くし)によって乱れており、

さらに、関東諸将(反董卓連合)との国交は断絶した状態でした。

王必は長安に向かいますが、その途中の河内郡(かだいぐん)で、太守の張楊(ちょうよう)から通行を拒まれます。

しかし、張楊幕僚であり後に曹操に仕えることになる董昭(とうしょう)のとりなしで、通行を認められました。

しかも、曹操献帝に推薦する上表までしてもらうことになります。

董昭は兗州の出身者でしたから、王必とは同郷の誼もあったのかもしれません。

そうして長安にたどり着いた王必でしたが、長安でもまた困難に遭遇するのです。

李傕や郭椶蓮◆峇愿譴僚将は自分たちで皇帝を立てようとしており、

曹操使者を送ってきたとはいえ、それは真意ではない」

として王必を留め、その意向を拒絶しようとしました。

ここでもまた王必を助ける人物がでてきます。

当時、黄門侍郎として漢朝に仕え、後に曹操の配下となる鍾繇(しょうよう)です。

鍾繇は畜生として知られていますが、この時は李傕らに対し

群雄割拠し、朝命に従わない者ばかりの中で、

ただ曹操だけが献帝に心をよせています。」

曹操の忠義を伝え、王必は無事に使者の任を全うすることができました。


呂布を舌で殺す

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その後、兗州曹操の親友の張邈(ちょうばく)や、

部下だった陳宮呂布を引き入れ反乱を起こしますが、

王必は曹操に反することなく仕えていたようです。

曹操が司空(しくう)となると、兗州従事から司空主簿(しくうしゅぼ)となったようで、

下邳(かひ)の戦いで呂布を捕えたときに王必は主簿として再び登場します。

曹操は捕らえた呂布を生かしたいと思い、縄を緩めようとしましたが、

王必は「呂布は強い捕虜で、その軍勢は近くにいます。緩めてはいけません」

と諫め、結局呂布は縊り殺されることになります。

王必の進言により、呂布は死ぬことになったのです。


金禕の反乱と王必の最期

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王必はその後、丞相府の官吏のトップである丞相長史(じょうしょうちょうし)となって登場します。

曹操は、王必について次のような布告を出します。

「王必は、私がいばらを取り除いていたような創業時からの官吏である。

忠義でよくはたらき、心は鉄や石のように固い志をもっている国の優良な官吏である。」

王必は非常に曹操から信頼されていたのです。

さて、王必と親しくしていた金禕(きんい)という人物がいます。

金禕は郡国から会計報告等のために中央に派遣されてきた上計吏でしたが、

朝廷内の官吏や高官と結び、密かに反乱を企んでいました。

建安二十三年(218年)、曹操が鄴(ぎょう)にいる間に、金禕らは許都(きょと)で反乱を起こします。

王必は曹操から留守を預かり、許都の兵を統括して皇帝を守ることを命じられており、許都防衛のトップだったのです。

そのため、反乱ではまず王必が狙われ、王必は肩を射抜かれます。

反乱が起きた当初、王必は誰の反乱かわからず、金禕の家に駆け込みますが、

反乱軍の仲間だと勘違いした金禕の家の者は「王必を殺したか?」と問うたため、

その反乱が金禕によるものと知ることになります。

王必は、典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)厳匡(げんきょう)とともにこの反乱を鎮圧しますが、

十日あまりして、そのときの傷がもとで死んでしまいます。

曹操は王必の死を知って激怒し、漢の百官を鄴に呼びつけ次のように言います。

「反乱の際に消火にあたったものは左に、消火しなかったものは右につけ」と。

百官たちは消火にあたたものは無罪となると考え、皆左についたところ、曹操は彼らを皆殺しにしてしまいます。

「消火しなかったものは反乱を助けたはずはないが、消火に当たったものは本当の賊なのだ」というのです。

王必の死に対しての異常なまでの措置ですが、それほどまでに王必のことを想っていたのでしょう。


三国志ブロガー鎮虎将軍雲子の独り言

曹操の覇業には地味ながらいぶし銀のように活躍した王必のような人物がいました。

中国研究者の于濤氏は、王必を使命をまっとうし、

曹操長安の形勢をしらせたことを高く評価しています。*1

また、許都の反乱は、漢の臣だけでなく、かつて曹操幕僚であった者も反乱の中心にいるなど、曹操政権を揺るがすものでした。

それを命を懸けて鎮圧し、許都防衛の任を全うしたことは非常に重要なことです。

もし、王必が鎮圧に失敗していたらその後の魏の成立はなかったかもしれません。

そんな重要な人物ですが、コーエーシミュレーションゲーム三国志にはでてきていません。

大変残念なことですね。

「今回の三国志のお話はこれでおしマイケル

次回もまた雲子春秋でお会いしましょう

それじゃまたんき〜!」

*1:于濤著、鈴木博訳『実録三国志』(青土社2008、5)p208

2016-02-01

後漢書の元ネタ〜曹操悪評編〜

献帝の憤り−てぃーえすのワードパッド

上の記事に引用されている、献帝曹操に対する憤りについて書かれた次の文

後漢書皇后紀第十下、献帝皇后

帝都許,守位而已,宿衞兵侍,莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策, 曹操惡而殺之。其餘内外,多見誅戮。操後以事入見殿中,帝不任其憤,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀,三公領兵朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背,自後不敢復朝請。

どうやら習鑿歯の『漢晋春秋』からの引用らしい。

『太平御覧』皇王部十七、孝献皇帝

《漢晉陽(春)秋》曰:獻帝都許,守位而已,宿衛近侍,莫非曹氏黨舊恩戚。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,曹操惡而殺之,其餘內外多見誅。操后以事入見殿中,帝不任其忿,因曰:「君能相輔則厚,不爾,幸垂恩相舍。」操失色,俯仰求出。舊儀三公輔兵入朝,令虎賁執刃挾之。操顧左右,汗流洽背,自後不敢復朝請。


『漢晋春秋』について詳しくは以下の記事が詳しい。

『漢晋春秋』の蜀漢正統論−三国与太噺

『漢晋春秋』では漢と晋を正統王朝とする一方で、魏を正統王朝とみなしておらず、憚ることなく魏や曹操の悪評を書くことができたようである。

後漢書』は曹操に対して厳しい立場をとっており、『漢晋春秋』は非常に都合の良い史書であったのだろう。