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尚書省 三國志部

2018-07-20

黄檗宗少林山 達磨寺(再訪)

北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

北関東三国志ツアーその3。

聖天宮 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180314/1520957334

・中華 孔明 - 尚書省 三國志部
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180316/1521126939

北関東三国志ツアーの敢行に伴い、計画当初の2017年の年末より「神怡館は絶対に、もし可能であれば達磨寺も行きたい」という旨をUSHISUKEさん(@USHISUKE)に伝えていた。目的は関帝像の拝観である。2016年大型連休を利用して参詣したももの、この時はあいにく拝観することが叶わなかった。「今回こそは」と思いUSHISUKEさんに無理を言ってツアーのプランに組み込んでいただいた。

・黄檗宗少林山 達磨寺 - 尚書省 三國志部
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20160508/1462677148


中華 孔明にて昼食を取り、13時過ぎに出発する。孔明から達磨寺までは50kmほど距離があるものおの、廣瀬住職に16時よりお約束を取っていたため、時間的にはかなり余裕があった。途中で深谷城址公園にも拠りつつ高崎線に沿って達磨寺を目指した。

特に渋滞や事故に巻き込まれることなく、15時半頃に達磨寺の駐車場に到着。
先の記事でも紹介したが、今回も達磨寺の縁起を以下に引用する。

黄檗宗(禅宗)少林山達磨寺 縁起
昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光る物があるので、里人が不審に思って見ますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂に納めて置きますと、延宝年間(一六八〇頃)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師坐禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山としてしられると、元禄十年(一六九七)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
享保十一年(一七二六)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い永世の祈願所とされました。
のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。

まずは住職さんにお会いする前に、最上層の本殿(霊符堂)にてお参りする。前回は曇天であったが、この日は天気にも恵まれ快晴であった。天気によって伽藍が見せる表情が全く異なっており面白く感じた。その後、本殿隣の達磨堂へ。ここでは古今東西各種各様の達磨像や資料等が所狭しと展示されており、中には中曽根元総理の達磨等が展示されていた。規模は小さいものの、非常に見応えのある展示内容であった。

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二層下にある寺務所へ住職さんを訪ねに移動し、受付にて関帝像の拝観しに来た旨をお伝えし住職さんに取り次いでいただいた。住職さんに挨拶をし、関帝像を安置しているお堂へ移動する。移動中に、自分が行っている関帝・華光研究の概要をお話すると「この辺(群馬県では)関帝像はうちしか知らないが、華光菩薩像でしたら寳林寺にある」と教えてくださった。以前、達磨寺へ来た際に海野住職にお会いし、寳林寺の華光像を拝観したことをお伝えする。
そういったお話をしている間に、関帝像が安置されている観音堂に到着した。

これまで調査した寺院のほとんどは、関帝像は本堂にお祀りされており、本尊に向かって右須弥壇上に関帝像が達磨像と対にして置かれていた。しかしながら達磨寺では関帝像は観音堂に置かれていたため、つい驚いてしまった。
住職さんのお話に拠れば、観音堂は達磨寺の中でも最も古い建物で、達磨寺が創建された当時の姿を残すそうである。
この観音堂は、もとは一切経を納める「無尽法蔵」という経蔵であった。明治三十二年に造られた十一面観音像が置かれたことを機に、観音堂に名称が改められたと思われる。
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観音堂 外観


さて観音堂の内部には須弥壇が三つあり、中央の壇上には十一面観音像が、向かって左壇上には厨子や牌が置かれ、向かって右壇上には厨子が二つ並べて置かれていた。この厨子は秘仏だそうで一般公開していないとのこと。
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観音堂 内陣と本尊の十一面観音像


まず左側の厨子について。内部が著しく破損しているため、長年扉を閉めているそうである。また状態が酷いため尊名も定かではないらしい。翌日、仏像文化財修復工房の松岡誠一さん(@mokujiki2)にご意見を伺うとどうやらこの像は「弁財天・十五童子像」ではないかとご教示いただいた。以前、別の「弁財天・十五童子像」の修復を手掛けられたそうで、大変ありがたいことに画像もご提示してくださった。この場を借りて改めてお礼を申しあげます。本当にありがとうございました。

・仏像 修復・修理・修繕「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/

・厨子入り弁財天十五童子の修復|「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/page/rei2/butuzou/benzaiten/benzaiten.top.html

もう一つの厨子には関帝像(19cm)のみが置かれていた。厨子の大きさは高さが約40cm、幅は約30cm、奥行きが約18cmと少し小さく、まるで念持仏の印象を抱いた。像容について。全身を金色一色で塗られており、幅の広い額飾りが幘に現されており、後頭部から肩まで垂れ下がっていた。表情は太く釣り上がった眉に目尻が釣がった細い目、鼻は髭と鬚は欠けており僅かしか見えない。また右髯は人または動物の毛が見受けられるも経年劣化によるものか数cmほどしか残っていない。鎧の上から袍を纏っており、右手は右腿の上で袍を握る。左手は表現されず。足は例の如く片浜まで広げ椅子ではなく台座に腰かける。他の関帝像には見られない特徴を持つ。
先の弁財天像が入った厨子も大きさほぼ同様であった。関帝像は達磨像と対にして置かれることがほとんどであるが、この関帝像は財神の性格から弁財天・十五童子像と対にして置かれていたのではないかと考える。


さて関帝像を拝観しながら住職さんに何点か疑問を伺うと、以下の事をお話してくださった。火災等で資料が逸しているため多くの事が「分からない」ということであった。

1.関帝像には墨書が見えず、資料が残されていない(現存していない)ため、作成時期や仏師はもちろん、いつ・どのような経緯で達磨寺に置かれたのか不明。
2.当初より関帝だけだったのか、関平周倉像が脇侍像に存在していたか定かではない。
3.心越が達磨寺の開山に携わっているが、大阪・亀林寺のように心越が「寿亭侯印」を達磨寺にももたらしたのか不明。
4.関帝像が入る厨子の底板の裏に「丸山」の二字が見えるが、何を示しているのか不明。
5.厨子内に突き出た二本の釘の用途は不明。蝋燭を挿していたいた可能性も否めない。
6.関帝像と対に達磨像が置かれていたのか不明
7.観音堂は毎年、年始に一度扉を開けるが堂内の厨子の扉は開けることはない。今回数十年ぶりにあけた。(弁天象や関帝像等は原則公開していない≒秘仏として扱っている)
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達磨寺蔵 関帝像(※像はモノクロにするなど一部画像処理を行っております)


達磨寺に関帝像が伝わったのは黄檗宗に開宗する前で、心越が開山したタイミングだと考える。まず達磨寺像は他の黄檗宗寺院の関帝像とは像容が少し異なっており(黄檗様式ではない)、また心越が関羽の末裔であると自称していること、亀林寺に関帝像と壽亭公印をもたらしていること、さらに祇園寺(茨城県水戸市)にも壽亭公印をもたらしており、心越の没後関帝と関わりのある人物(黄檗僧や華僑)と達磨寺が接点が見受けられないためである。


やはり「資料が現存しない」というのは非常に悩ましい点ではあるが、住職さんより大変貴重な数々のお話を伺えた。今回の訪問は実りのあるものになった。

今後は心越について、また黄檗宗以外の寺院でお祀りされている関帝像について調べたい所存である。



【参詣日】
2018年3月10日(土)
【寺院情報】
・建立年 1697年(享保11年)
・本尊 千手観音像
・所在地 群馬県高崎市鼻高町296

2018-06-11

第24回例会のレジュメ

昨日龍谷大学の竹内先生が主催されている「三国志研究会(全国版)」第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題してお話をさせていただきました。

まずはご清聴くださりありがとうございました。

これまでの研究会にて報告したことを踏まえて、今回は扁額より角度を変えてアプローチを行いました。結果はまだまだ核心には至ることができませんでしたが…


さて、今回の例会にて配布したレジュメをGoogle Driveにアップしましたので、ご興味のあるかたは以下のリンクよりご自由に閲覧・保存をしてください。

https://drive.google.com/file/d/1Ddg39PsVARtE14Fu_yMascu7N6ZW-lFG/view

2018-06-04

【告知】三国志研究会(全国版)第24回例会で発表します

龍谷大学の竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。2018年6月10日(日)に龍谷大学大阪キャンパスにて開催される第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題して報告をします。

・第24回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai024

大興寺に伝わる「関帝」像に関して、今年の3月末より少し進展がありましたので、今回はこれまでの報告内容を踏まえて、その像についてお話したいと思います。
よろしくお願いします。

2018-06-03

『絵詞要略 誓願寺縁起』

関帝とは直接関係がないが武村南窓をより知るため、また今後彼について調べる中で手掛かりとなりうる資料があったため今回はそれを取り上げる。


慧明 編・東洲 画『絵詞要略 誓願寺縁起』上下巻(以下『縁起』)。絵詞と書いて「えことば」と読むそうだ。跋に「寛政四年壬子秋八月」とあり、成立は1792年。内容は京都浄土宗誓願寺の略縁起である。誓願寺は天明八年(1788)正月三十日に発生した天明の大火により焼失し、寛政四年七月に綸旨を賜って、文化四年(1807)に本堂が再建される。『縁起』は誓願寺再建の勧進のために刊行されたものと考える。

内容は薄いが本題へ。
『縁起』上巻には無記名の漢文序があり、その最期に「南窗武幹書」と署名がされている。蛇足ではあると思うが「窗」は窓の異体字である。その下には縦に「南」と「窗」の印が捺される。大興寺といい、今回の誓願寺といいお寺と何らかの繋がりがあるのだろうか。

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異体字が含まれいたり「武」の字がないものの、「関帝」扁額の表面とほぼ同様の字句が記されている。つまり吉村武幹の署名には「南窗武幹」「南窓幹」の2パターンが存在し、意図的なのかは未明であるが書き分けていたものと思われる。

なぜ『縁起』には「吉幹之印」が捺されていないのか、情報が少なすぎるため掘り下げることができないが、印も複数持っており署名と同様に使い分けているものと考える。
彼が関与する他の作品をまだ確認することができていないため、判断材料が著しく不足しているのが現状であり、いろいろと断言するには少し早計であろう。
まずは今後の課題として彼の手掛けた書や作品を探し、どのように署名を残しているのか、また印はどれを用いているのか等々…傾向が分かる程度に情報を収集し分析を行いたい。

2018-06-02

「関帝」扁額の作者考

昨日の記事の続き。「関帝」扁額の裏側、つまり「関羽大将軍」の面に記されている人物名を手掛かりに調べた結果、作者であろうと思われる人物がひとり浮上したので、その備忘録を…。

・「関帝」扁額について - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180601/1527812798


「関羽大将軍」面にある落款には篆書体で「吉幹之印」と書かれていた。その落款と署名「南窓幹」を手掛かりに調べたところ、ある人物が該当した。

その人物は武村南窓という人物である。彼の来歴は未明であるが、著名な書家だったようで、安永四年(1775)および天明二年(1783)に刊行された京都に住む様々な文化人の情報をまとめた『平安人物志』の書家の項に彼の個人情報が見える。

姓名、字、号、住所、俗称の順で以下に引用する。

『安永四年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 南窓
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武邨新兵衛  

『天明二年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 帰一
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武村南窓

住所の「釜座二条上ル町」は現在の京都市中京区大黒町界隈だと思われる。


京都府立総合資料館が所蔵する『初稿草體選』(年代未明)に、扁額と同じ彼の落款が捺されていた。


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扁額印

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『初稿草體選』印

完全に同一のモノである。さらにこの書の扉には所有者によるものと思われる南窓の来歴を簡潔に記したメモがあり「寛政七年(1795)五月十三日没 齢米弱」とある。
もしこのことが事実であるのであれば、1707年生まれになる。しかしながらその事を肯定できる判断材料がないため、ひとまず置いておきたい。なお文化十年(1813)に刊行された『平安人物志』に彼の名前が見えないことには理解ができる。


川上新一郎(1999)「古今和歌集版本考 : 前稿の補訂をかねて」(『斯道文庫論集 』pp.347-366)のp.352に拠ると武村南窓は「書肆武村新兵衛(四代目)」であったと触れられる。ここでも武村南窓は「寛政七年五月十三日没」と上と同様の事が記されているため、没年はこの日で間違いないようであろう。
また以下のサイトでも武村南窓は書家ではなく書肆であったと以下のように述べられる。兼業しているのだろうか…

寛政三年(1791)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(1756)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。

・新井白蛾の基礎的研究 : 江戸の易占(ブログ版)
http://blog.livedoor.jp/narabamasaru-ekigaku/archives/1007679087.html


大きく反れてしまったが、「関羽大将軍」の扁額を作成した南窓幹は、二階堂先生が予測された通りやはり号であった。彼の来歴は未明のため様々な可能性を考えることができるが、例の扁額は彼が存命中(1795年まで)に作成されたものと考える。

よって足利尊氏が「関帝」像と同時期にこの扁額も取り寄せたとされていたが、扁額は足利尊氏の死後350年以上経った江戸時代に造られたものであろう。