Hatena::ブログ(Diary)

尚書省 三國志部

2018-06-11

第24回例会のレジュメ

昨日龍谷大学の竹内先生が主催されている「三国志研究会(全国版)」第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題してお話をさせていただきました。

まずはご清聴くださりありがとうございました。

これまでの研究会にて報告したことを踏まえて、今回は扁額より角度を変えてアプローチを行いました。結果はまだまだ核心には至ることができませんでしたが…


さて、今回の例会にて配布したレジュメをGoogle Driveにアップしましたので、ご興味のあるかたは以下のリンクよりご自由に閲覧・保存をしてください。

https://drive.google.com/file/d/1Ddg39PsVARtE14Fu_yMascu7N6ZW-lFG/view

2018-06-04

【告知】三国志研究会(全国版)第24回例会で発表します

龍谷大学の竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。2018年6月10日(日)に龍谷大学大阪キャンパスにて開催される第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題して報告をします。

・第24回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai024

大興寺に伝わる「関帝」像に関して、今年の3月末より少し進展がありましたので、今回はこれまでの報告内容を踏まえて、その像についてお話したいと思います。
よろしくお願いします。

2018-06-03

『絵詞要略 誓願寺縁起』

関帝とは直接関係がないが武村南窓をより知るため、また今後彼について調べる中で手掛かりとなりうる資料があったため今回はそれを取り上げる。


慧明 編・東洲 画『絵詞要略 誓願寺縁起』上下巻(以下『縁起』)。絵詞と書いて「えことば」と読むそうだ。跋に「寛政四年壬子秋八月」とあり、成立は1792年。内容は京都浄土宗誓願寺の略縁起である。誓願寺は天明八年(1788)正月三十日に発生した天明の大火により焼失し、寛政四年七月に綸旨を賜って、文化四年(1807)に本堂が再建される。『縁起』は誓願寺再建の勧進のために刊行されたものと考える。

内容は薄いが本題へ。
『縁起』上巻には無記名の漢文序があり、その最期に「南窗武幹書」と署名がされている。蛇足ではあると思うが「窗」は窓の異体字である。その下には縦に「南」と「窗」の印が捺される。大興寺といい、今回の誓願寺といいお寺と何らかの繋がりがあるのだろうか。

f:id:kyoudan:20180602210917j:image


異体字が含まれいたり「武」の字がないものの、「関帝」扁額の表面とほぼ同様の字句が記されている。つまり吉村武幹の署名には「南窗武幹」「南窓幹」の2パターンが存在し、意図的なのかは未明であるが書き分けていたものと思われる。

なぜ『縁起』には「吉幹之印」が捺されていないのか、情報が少なすぎるため掘り下げることができないが、印も複数持っており署名と同様に使い分けているものと考える。
彼が関与する他の作品をまだ確認することができていないため、判断材料が著しく不足しているのが現状であり、いろいろと断言するには少し早計であろう。
まずは今後の課題として彼の手掛けた書や作品を探し、どのように署名を残しているのか、また印はどれを用いているのか等々…傾向が分かる程度に情報を収集し分析を行いたい。

2018-06-02

「関帝」扁額の作者考

昨日の記事の続き。「関帝」扁額の裏側、つまり「関羽大将軍」の面に記されている人物名を手掛かりに調べた結果、作者であろうと思われる人物がひとり浮上したので、その備忘録を…。

・「関帝」扁額について - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180601/1527812798


「関羽大将軍」面にある落款には篆書体で「吉幹之印」と書かれていた。その落款と署名「南窓幹」を手掛かりに調べたところ、ある人物が該当した。

その人物は武村南窓という人物である。彼の来歴は未明であるが、著名な書家だったようで、安永四年(1775)および天明二年(1783)に刊行された京都に住む様々な文化人の情報をまとめた『平安人物志』の書家の項に彼の個人情報が見える。

姓名、字、号、住所、俗称の順で以下に引用する。

『安永四年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 南窓
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武邨新兵衛  

『天明二年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 帰一
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武村南窓

住所の「釜座二条上ル町」は現在の京都市中京区大黒町界隈だと思われる。


京都府立総合資料館が所蔵する『初稿草體選』(年代未明)に、扁額と同じ彼の落款が捺されていた。


f:id:kyoudan:20180416222301j:image:w500
扁額印

f:id:kyoudan:20180602022406j:image:w500
『初稿草體選』印

完全に同一のモノである。さらにこの書の扉には所有者によるものと思われる南窓の来歴を簡潔に記したメモがあり「寛政七年(1795)五月十三日没 齢米弱」とある。
もしこのことが事実であるのであれば、1707年生まれになる。しかしながらその事を肯定できる判断材料がないため、ひとまず置いておきたい。なお文化十年(1813)に刊行された『平安人物志』に彼の名前が見えないことには理解ができる。


川上新一郎(1999)「古今和歌集版本考 : 前稿の補訂をかねて」(『斯道文庫論集 』pp.347-366)のp.352に拠ると武村南窓は「書肆武村新兵衛(四代目)」であったと触れられる。また次のサイトでも書家ではなく書肆であったと以下のように述べられる。兼業しているのだろうか…

寛政三年(1791)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(1756)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。

・新井白蛾の基礎的研究 : 江戸の易占(ブログ版)
http://blog.livedoor.jp/narabamasaru-ekigaku/archives/1007679087.html


大きく反れてしまったが、「関羽大将軍」の扁額を作成した南窓幹は、二階堂先生が予測された通りやはり号であった。彼の来歴は未明のため様々な可能性を考えることができるが、例の扁額は彼が存命中(1795年まで)に作成されたものと考える。

よって足利尊氏が「関帝」像と同時期にこの扁額も取り寄せたとされていたが、扁額は足利尊氏の死後350年以上経った江戸時代に造られたものであろう。

2018-06-01

「関帝」扁額について

大興寺が蔵する寺伝「関帝」像の制作時期は未明である。またそこには関帝像と共に中国から取り寄せた「関帝」と記された扁額があり、額面に「南宋武幹謹書」と署名があることからその内容を根拠に、同時期に伝わった「関帝」像は扁額と同時期、つまり南宋期(1127-1279年)に作られたのではないかと考えられている。

f:id:kyoudan:20180121090050j:image
平井徹「関帝廟を行く(京都大阪編)」より


現在、大興寺にて配布されているリーフレットにその扁額に関して以下のことが記されている。

(関帝像の)作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏はこの像を寺の一字に祀るとあり、いわゆる関帝廟であったと考えられます。


さて今年の4月に二階堂善弘先生にお会いする機会があり、そこで先生が撮影された「関帝」像と扁額の画像を見せていただいた。画像をよく見ると上述した情報とは異なる点があった。まず署名が前述した「南宋武幹謹書」ではなく「南窓武幹謹書(落款)」と彫られていた。以前取り上げた元治元年(1864)刊『花洛名勝図会 東山之部』巻四に見える「脇壇ニ安須関帝の額をかヽぐ。南窓武幹の筆なり」という記述が正しいようである。落款は残念ながら解像度に耐えることができず潰れてしまっていたため読解は不能であった。

・大興寺の関連資料の翻刻 『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻四 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180111/1515600254

実はこの扁額には知られていない事がある。一言でいうと裏面が存在するのである。以下は裏面に関して情報を整理していきたい。

まず中央に扁額を縦断するように「関羽大将軍」という字が彫られており、その右側には墨書で「奉納 井口忠右衛門 高失清次」が、左側には「南窓幹謹書(落款)」という署名と「吉幹之印」と落款が彫られている。

f:id:kyoudan:20180416222301j:image


これまで見てきた地誌では「関帝」像について関羽大将軍と度々記述されていたため、おそらく「関羽大将軍」と彫られた裏面が表面であったと思われる。時代が下り関羽に帝位が贈られたことに因り、扁額の裏面に関帝と施して表面として置くようになったのではないだろうか。

二階堂先生は1.諱を表記していることから製作者は日本人で、2.南窓幹は日本人の号で南 窓幹、3.何らかの理由で既存の額を使わざるを得なかった。4.「関帝」と彫り直した際に誤って署名に「武」の字を加えてしまったのではないか…とお話された。



像に関する手掛かりが皆無であったが、扁額に関する発見があり、加えてそこからアプローチできる可能性が明らかになっただけでも救いである。