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週刊「ごごJazz」

2012-03-21

ジャムセッション

 ジャズには、レコーディングや正規の演奏とは別に、ジャムセッションというものがあります。これは、事前にアレンジメントなど詳しい打ち合わせなしに、即興的に個々のミュージシャンがアイデアを出して競い合うという趣向です。(いまは、ロックなどでもあり、若者の社会的な集まりなどにもジャムという言葉が使われるようです)

 アフター・アワーズといわれる本番が終わったあとのライブハウスやスタジオでミュージシャンの楽しみ、腕試しとしておこなわれていました。ときに楽しいくつろいだ演奏となり、ときに激しいバトルとなり、ときには実験的な新しいスタイルの誕生となりました。
 有名なのは、1941年「ミントンズ・プレイ・ハウス」での演奏後のジャムセッションです。チャーリー・クリスチャン(g)やディジー・ガレスピー(tp)、セロニアス・モンク(p)など、その後ビッグネームとなる若いミュージシャンが集まって夜な夜な競い合っていた演奏が、偶然にもプライベートな録音として残っています。これが、世に言うビ・バップの誕生です。それぞれが次代のジャズとは何かを模索していて、互いに切磋琢磨、研究して新たな音楽を見つけ出していく、そんな場だったのでしょうね。

 また、ジャムセッションはしばしば「他流試合」となります。いくつものコンボ(バンド)が出演した場合、それぞれのバンドからミュージシャンが出て初めての「バンド」となって演奏することもあれば、一つのバンドに外から1人のミュージシャンが飛び入りして演奏することもあります。ここに生まれる腕の競い合い、ウィットユーモアの往還がスリルと興奮を生み出し、ジャムの醍醐味が味わえます。
 
 このジャムセッションをアフター・アワーズでなく、コンサートホールに聴衆を集めて聴かせるビジネスにしたのがノーマン・グランツでした。このあたりの才覚、商魂はなかなかですね。ヴァーブやのちのパブロといったレーベルで大物同士を組ませるアルバムを山ほど作ったグランツらしい。
 
JATPは、スターを多く抱えていました。そこで問題になるのが「オレが、オレが」にならないの かという点です。日本に来たときこそいなかったものの、40年代のJATPには、レスター・ヤングコールマン・ホーキンスチャーリー・パーカーというジャズサックスの3大開祖がそろっていたのですから。
 しかし、達人ぞろいだからこそ、商業的にも耐えうるジャムができたのです。キーと曲さえ決めればあとはピアノあたりの進行役となって、各人が次々と技を披露しました。同じ楽器が何回も続くなんてヤボはしません。緩急もみんな心得ている。ソロの順番も決めていなくても最高のものを作り上げようという姿勢で決まってきます。そこは、ジャズミュージシャンの心意気といったところでしょう。あるジャズマンは、ジャムは「競争」でなく「協調」だといっています。
 
 お薦めの曲は、「コットン・テイル」。D・エリントが、ベン・ウェブスターのために書いた曲です。そのベンは、来日JATPのメンバーですから、ソロはまずベンから始まります。時間の関係で最後までは無理でしょうが、楽器から楽器へとソロが移る楽しい様子をお楽しみください。
 もし、パーカーが日本に来ていたら…そんなことも思うアルバムです。
2011年4月26日放送)

2011-04-11

たった一人がこじ開けた扉

先週は、50年前、最先端ジャズの上陸の衝撃の話でした。今週は、それを遡ること5年、今からちょうど55年前に単身、本場に乗り込んだ女性ジャズピアニストの話です。

穐吉敏子(以下トシコ)、1929年生まれ。81歳の今も現役バリバリの世界的音楽家です。
19561月(ですから、先週のA・ブレイキーの来日のちょうど5年前です)、26歳のトシコは海を渡ってアメリカバークリー音楽院(現大学)に留学します。まだ100ドルしか持ち出せないような時代でした。
そこで音楽理論を学び、ジャズウィメンとしての活動を軌道にのせました。渡米前のトシコは18歳で大分から上京、進駐軍クラブなどで演奏を続け、渡辺貞夫なども加えてカルテットをつくっていました。
1953年、JATPオールスターズが来日したおり、たまたま、オスカー・ピーターソンの目にとまったトシコは、JATPを率いていたノーマン・グランツに紹介されて『アメイジング・トシコ・アキヨシ』(ノーグラン→ヴァーブ)という初のアルバムを出します。ここがアルバムの出発点です。

トシコは、1996年、岩波新書で自伝ともいうべき『ジャズと生きる』を著しています。これには、ずいぶん自意識の強い、強靭な精神の持ち主だったことが隠さず記されています。これでないと海の向こうで、日本人、女性という当時、差別を受ける立場で数々の猛者たちと対等に伍していくことはできなかったでしょうね。

昨年、NHKのBS放送でトシコ・バンドの上海公演の様子が放映されましたが、81歳にしてなお、「もっとうまくなりたい」「最も音の多いバド・パウエルともっとも音の少ないジョン・ルイスを尊敬している。両者のような演奏をしたい」とキラキラとした目で語っていたのが印象的でした。

作曲家編曲家指揮者と多彩な才能を見せるトシコですが、「自分はあくまでピアニストだ」と言っています。前者もすべてピアニストの視点から出発していると。

トシコは、70年代、2度目の夫となったサックス奏者のルー・タバキンとともに「トシコ・タバキン・ビッグ・バンド」を結成します。このバンドは次々と話題性のあるアルバムを放ちますが、初めて吹き込んだのが今回紹介する『孤軍』(1974年)です。
タイトルチューンの「孤軍」は日本の鼓(つづみ)とフルートを組み合わせてつくられたユニークな曲です。このアルバムは「売れない」「和洋折衷じゃないか」などと酷評も多かったようですが、ヒットしました。

ちょうどそのころ、フィリピンジャングルでたった一人で「戦って」いて発見された旧日本軍小野田少尉に深い印象を受けて作った曲です。しかし、このタイトルは、トシコその人の姿でもあったのです。
孤軍奮闘―。先の自伝でも「『孤軍』と名付けて、彼(小野田少尉)に捧げた。また、私自身もアメリカにおいて孤軍だ、とも思った」と書いています。
 
トシコのバンドのコンサートはいつも同じ曲で幕を開けます。「ロング・イエロー・ロード」、長く黄色い道。生まれ故郷の旧満州中国東北部)の黄色くかすんだ道をモチーフにして作ったと言われますが、これもまた、アメリカで成功するまでの、長く、黄色い(イエロー=日本人)、苦難の道が根底にあることは間違いありません。

先日、アメリカでメジャー・リーグが日本のプロ野球に先駆けて開幕しました。日本人選手の活躍が毎日伝えられます。いまでは当たり前の光景ですが、これもまた野茂秀雄という一人の選手がさまざまな国内の批判を受けながら「孤軍」となり、長く黄色い道を切り開いていったからにほかなりません。
トシコは、バークリーの日本人第2期生として、渡辺貞夫を呼び寄せます。ナベサダはいまや世界のナベサダとなりました。

トシコの渡米から55年。同じく一人の女性ジャズピアニストが快挙を遂げます。上原ひろみ。今年2月、音楽業界で最も栄誉ある賞だといわれるグラミー賞を受賞しました。今、アメリカジャズ界も「イエロー」の実力を認めないわけにはいかなくなっています。ミュージシャン、コンサート、CDやDVDなどの媒体、すべて含めたジャズ市場は、本国よりも日本の方が今は上回っているのではないでしょうか。
上原ひろみは、たまたま来日していたチック・コリアの目に止まって世界に羽ばたきました。このあたりも因縁めいたものを感じずにいません。トシコは上原を祝福するとともに、新たなライバルとして見ているのではないかと想像しますね。

たった一人がこじ開けた扉、そして、その向うの長い道のり、極めた山頂、そんな深い感慨を覚えるアルバムです。
(2011年4月5日)

2011-04-06

泥臭くもなく、鼻にもつかず

今週は、ジョージ・ウォーリントン(1924〜1993)の『ジャズ・フォー・キャリッジ・トレイド』(プレスティッジ)から。

サックスとペットの2管にピアノ、ベース、ドラムスのリズムセクションという構成のクインテット、1956年の録音とくれば、聴く前から物知り顔の「ああ、よくあるハード・バップものね」「音もだいたい想像がつくよ」という声が聞こえてきそうです。
 
ちょっと待って、プレイバック!! 馬鹿にしないでよ〜 坊や、いったい、何を聴いてきたの〜

このアルバムには、同時期のシャープネスなマイルスクインテットとも、黒く粘り気のあるBNの数々の盤とも違った趣があります。「上品さ」「洗練された」とでも言うような都会的な雰囲気が漂っています。

まず、アルバムタイトル。「キャリッジ・トレイドのためのジャズ」とあります。なんのこっちゃ? 「キャリッジ・トレイド」とは、馬車に乗って買い物に行くような人々という意味から転じて、富裕層、上流社会、いまでいうセレブを意味するそうです(ランダムハウス英和大辞典)。それに合わせてジャケットもジャズアルバムとしては一風変わっています。馬車に乗っているメンバーもお行儀がいい。「セレブのためのジャズ」といったところか。
 
次にジョージ・ウォーリントンその人。ウォーリントンは、バップ期の3大白人ピアニストの一人といわれます(残りはジョー・オーバニーとアル・ヘイグか)。その音色は、重量感のある低音中心で独特です。ピアノの技術よりも、メンバーをまとめ、引っ張っていく、ちょうどジャケットのように御者的存在で、このアルバムの前には、ジャッキー・マクリーンを入れて『アト・カフェ・ボフェミア』という名盤を残しています。このクインテットではマクリーンに変えてフィル・ウッズです。まだシャープさよりも温かみを重視していたころのウッズとはいえ、あのウッズを御し、このあと、C・ブラウン直系のペッターとしてBNで大活躍するドナルド・バードを御して、実にまとまったハイブロウなバンドに仕上げている手腕はたいしたものです。この点もアルバムタイトルの由来でしょうか。
 
ウォーリントンは、白人ながらこの後、アレンジ中心の白人ジャズ、いわゆるウエストコーストジャズが一世を風靡するなかでも、それにたなびかなかった、矜持あるジャズメンでした。そんなところもセレブレイトされているでしょう。泥臭くもなく、鼻にもつかず、そんな名盤です。でも、この翌年には、実家のエアコン販売を継ぐために、突如としてジャズ界から引退。80年代、フュージョン系の演奏で復帰し驚かせましたが、このころの吹き込みには、特筆すべきものはないと思います。

私としては「ファッツ・ニュー」を推しますが、いかんせんピアノトリオ演奏が長く、ウッズとバードのからみ(ここがピリッとしていいのだが)が最後の少しでオンエアしにくいかも。というわけで、B面1曲目のウッズの手になる「トゥゲザー・ウィ・ウェル」を。最初からウッズとバードが激しく交わり、いいです。(2011年2月22日)

2011-04-04

ハズレは無いと

今週は、先週のジョージ・ウォーリントン・クインテットに加わっていたトランペッター、ドナルド・バード(1932年〜)の作品から。
ハードバップ時代の代表的なトランペッターのバードがBN(ブルーノート)に吹き込んだ『フュエゴ』(1959年10月)です。後述しますが、バードが吹き込んだ数多いBNアルバムの中でも1、2を争う傑作だと思います。バード27歳、全曲オリジナル、相方のサックスは盟友ジャッキー・マクリーン、バックにはデューク・ピアソン(p)をはじめとする傑出したリズムセクションとくれば凡作なわけがありません。

タイトルは「炎」という意味ですが、20代の若々しエネルギーが火と燃える感じの伝わってくるアルバムですね。どの曲もいいです。B面がいいアルバムだといわれていますがタイトルチューンのベースからドラムス、ピアノと盛り上げていくイントロも捨てがたい。聴きどころは、バードのロングトーンという息の長い艶のあるトランペットとそれに絡むマクリーンのアルトでしょうか、ピアソンのピアノもいいですよ.

バードは牧師の息子として育ったという経緯もあり、ゴスペルのDNAが刷り込まれていたようです。作品全体に漂うファンキーなムードはこのせいかもしれません。正式な音楽教育を受けていて、曲作りのうまさには定評があります。
BNの看板スターともいうべき存在で、ハードバップの本流、4000番台(BNにはクラシカルな10インチの5000番台から、マイルズやロリンズ、バド・パウエルなど第一世代が担った名盤ぞろいの1500番台、それに50年代から60年代にかけての本流4000番台があります。4000番台の前に8がついているのはステレオ盤です)を中心に20枚以上もリーダーアルバムを残しており、サイドメンとして加わったものも含めれば、数十枚にのぼります。私としてはちょっと出すぎじゃないのと思うのですがねぇ。それだけアルフレッド・ライオンに買われていたのでしょう。でも、4000番台のバードは何を聞いてもハズレは無いと思いますよ。

しかし、バードは70年代に入ると早々とファンクロックの方へ「転向」していまいます。出てきたころはクリフォード・ブラウンの再来かといわれましたが、全く別の道にいってしまいました。BNのスターでハードバップを代表する存在であるにもかかわらず、コアなジャズファンからあまり評価が高くないのはこのあたりに原因があるのでしょう。また、6歳年下だが、スタイリッシュでクラブ出演中に嫉妬に狂った愛人に射殺されたという劇的な最期のエピソードをもつリー・モーガンという強烈なカリスマ的ライバルがいたことも不運でした。
2011年3月1日)

2011-04-02

ハード・バップは終わった

今週は、1950年代から60年代にかけてジャズの本流だったハードバップムーブメントを背負い、駆け抜けた男、リー・モーガン(tp)の登場です。

「ハードパッパーとは、モーガンのことだったのかも知れない」と評論家のデヴィッド・ローゼンタールは著書『ハード・バップモダン・ジャズ黄金時代の光と影』(勁草書房、この本は名著です)と記しています。

ファーストレコーディングが弱冠18歳! それもかのマイルズやロリンズ、モンクにバド・パウエルといったきら星のごときジャズジャイアンツが担ったBN1500番台で、なんとリーダーアルバム!!です。先週のドナルド・バードでも1500番台ではサイドメンとして参加したのみでしたから、まさに神童。そのときのアルバムタイトルがいかしてます。『リー・モーガン インディード』。「モーガン、あきれた! まったく!」といったところでしょうか。新人発掘を旨としたBNでしたが、あまりのすごさにこのタイトルをつけるしかなかったのか…。

今回紹介する傑作『キャンディ』(1957・8年録音)を出したのも19歳のときですが、すでにBNのリーダーアルバムの6枚目にあたるという早熟ぶりです。

このアルバムは、モーガンが残した30数枚のアルバムのなかで唯一のワンホーンスタイルです。モーガンのペットにソニー・クラーク!!のピアノトリオというカルテット。ここにひとつのおもしろさというか特徴があります。ハードバップは、ペット+サックスや、アルトテナーなど2管や3管編成があたりまえでした。ハードバップの申し子のようなモーガンがそのスタイルを崩したという意味でもおもしろいですね。
しかし、19歳でワンホーンとは、よほど自信があったのでしょうね。普通、われわれがハードバップ期の盤をターンテーブルに乗せるとき、楽しみの大きな要素が、2管のバトルやチェイス、アンサンブルなどです。それがない。自分のペット1本で聴く者をとらえなければならない。それも1曲ではない、アルバム全面を緊張感やスリルをもったものにしないとダメです。舌を巻きます。
「アルバム聴いて、どうやねん」と(なぜか大阪弁で)すごまれれば、「恐れ入りました。すんまへん」というしかない大傑作になっているのですから。

曲はタイトルチューンの1曲目を。アート・テイラーのブラッシングに導かれて登場するモーガンというイントロがゾクゾクします。つやつやした音、独特の間をとり、工夫をこらしたフレーズが聴き所でしょうが、はずせないのはソニー・クラークですね。さすがです。メンバー最初のソロも抜群、裏へ回っても独特の存在感があります。最高です。クラークを聴くアルバムとしても1級品でしょう。

このアルバムはまだ、モーガンが「優等生」だったころのものです。このあとだんだん不良じみていき、ますますハードバップの色合い強まります。この吹き込みの年にモーガンはA・ブレイキーのジャズメッセンジャーズに迎え入れられます。さすがブレイキー、放ってはおけなかったのでしょう。このあたりはまた後日、ご紹介を。
 
なんとしても書いておかなければならないのは、モーガンの命が33歳で突如絶たれたということです。
1972年2月18日、厳寒のニューヨークのクラブ「スラッグス」に出演中、2ステージと3ステージの合間、これまで長く世話を焼いてくれ愛人関係にあったヘレン・モアに銃で撃たれました。即死でした。若い女性と結婚しようとしていたと言われます。
前述のローゼンタールは書きます。

 「リー・モーガンの死によって、ハード・バップは終わった」
(2011年3月8日)