Hatena::ブログ(Diary)

コッソリのぞき見ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-06-02

本日の雑談+マンガについて

| 15:58 | 本日の雑談+マンガについてを含むブックマーク

みなさん、お久しぶりです。薬を飲みながら睡眠障害と戦いつつ、マンガを読んでいる生活を送っておりました。最高15時間ぐらい寝てた日もあります。おかげで体重が危ない状態になってきて、必死でカロリーコントロールと運動を心がけています。

さて読んでいたマンガですが、だいぶ種類が多いので一言コメントを中心に紹介したいと思います。



しょっぱなからギャグマンガでございます。この日常という名前ながらの非日常が面白くてところどころ大笑いしました。そこっ!?というギャグや突然やってくる!?に新しいギャグマンガを見た気がしました。



女子高生オタクで妄想しすぎているというかわいそうな主人公。しかし僕は彼女が足掻けば足掻くほど大笑いしてしまうような人間になってしまいました。人間って気づかないうちに残酷になっているようです。


魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)


ついに完結した戦闘+ハーレム+ファンタジーと男性オタクが食いつきそうなところをすべて兼ね備えていたマンガの完結。もう10年近く連載していたのか・・・。ネギま!が連載を開始してしばらくしてから読み始めたが、僕もきっちり10年歳をとっている。あの時は将来に対して不安しかなかったけど、今も不安が自分を突き動かしているなんて思いもしなかった。次の10年はもっとマシになるようにしよう。


絶対可憐チルドレン 30 (少年サンデーコミックス)

絶対可憐チルドレン 30 (少年サンデーコミックス)


こちらももう30巻目に突入した、絶対可憐チルドレン。こっちも8年ぐらい連載しているのかな。なんだかんだと読み続けています。おもしろいのですが、どうおもしろいのかが伝えにくいマンガだと今気づきました。


進撃の巨人(7) (講談社コミックス)

進撃の巨人(7) (講談社コミックス)


作者が「僕は中二病を引きずっている」発言して以来、いつか必ず読もうと思っていたマンガをついに読んでみました。この独特の絶望感や仲間が簡単に死んでいく話は最近では珍しくなったなぁと思いつつ、作者が思いっきり生きるとは何か、死んでしまうってどういうことに真正面からぶつかって書いているのが伝わってきて、心に刃が突き刺さった気がした。大人たちは生きることはキビシイと突き放して言いながらも、こういうギリギリに追い詰められた時に何かが出来る人間って実はほとんどいないだろう。でもそれが出来る人間というのは大切な物を捨てる覚悟がある人間だ、というのは作者の言うとおりでもある。0と1だけが存在する世界では、あがき、覚悟、諦念、必死、絶望、希望、など極端な言葉が世界を決定するだろう。

2012-05-23

あなたの身近な「困った人たち」の精神分析  小此木啓吾

| 04:15 | あなたの身近な「困った人たち」の精神分析  小此木啓吾を含むブックマーク

普段の生活をしていれば、なんであの人はあんな性格をしているんだろうと思うことは誰にでもあります。人を傷つける言葉を平気で吐いてくる人や、反対にオドオドしている人もいれば、猜疑心のカタマリのような人もいたりして、付き合っていると疲れると感じることもよくあることだと思います。本書ではそんな日常にいる困った人たちのパーソナリティ精神分析しています。つまりミクロな視点から見た精神分析なのです。しかし注意してほしいことは、本書での「性格傾向」と「パーソナリティ」の定義は違うことです。「性格傾向」はある人物の特徴に見られる特有態度などその人の性格を意味していて、「パーソナリティ」はこれらの性格傾向がひとつの心の働きをする人格全体の構造や機能を指しています。この違いを頭にいれていないと本書は読めませんので注意してください。


それでは具体的な「パーソナリティ」のミクロな狂いとはどんな種類があるのでしょうか。本書の「パーソナリティ」をまとめれば以下のようになります。


これらの「パーソナリティ」の特徴とその傾向を見事に分析していて、本書を読めば、あの人はああいう「パーソナリティ」なんだなと理解することが出来るでしょう。とくに自己愛パーソナリティについては最も深く分析しているように感じます。自己愛とは、自分を愛し、自分の人生を楽しむことができる活力源になる精神活動です。自己愛パーソナリティの狂いは、人との共感性がなかったり、自分が特別扱いされること当然だと思いこんだり、自分の我欲のために他人を利用するような人間を指すようです。小此木氏は「アイデンティティ-(マイナス)自我理想(集団幻想)=(イコール)裸の自己愛」という公式を自己愛人間を理解する上で使っています。自分自身を規定するアイデンティティに社会や文化を背景とした規律などを差し引いたら、この裸の自己愛があると小此木氏は考えています。そしてこの裸の自己愛が危機に陥った場合に、自己愛妄想型のパーソナリティを持つ人間(ヒットラーなど)に魅了されたり、神秘に惹かれていくのだと言います。


しかし一方で本書を読む際の注意点もあります。文庫が発行されたのは2000年ですが、単行本が書かれたのは1995年なので心理学として時代遅れな感は否めません。今の心理学脳科学や薬理学を取り込むことによってずいぶん様変わりしていますし、社会心理学統計学を取り込むことで社会科学の色合いが強くなり、小此木氏のようなフロイトを中心にした精神分析社会心理学はすっかり心理学の主流からはずれてしまいました。それなので本書に出てくる様々なパーソナリティ障害の治し方は、あくまでも自己コントロールが中心です。もちろんそれができないから困っているのですが、本書ではそれほど深くパーソナリティ障害を治すことについては語られません。それでもお互い違う「パーソナリティ」の価値観を補ったり、お互いの役割関係を分担することを自覚することは、現在でも日常で役立つ場面がきっとあると思います。


2012-05-21

【違法ダウンロード刑事罰導入を阻止しよう】について

| 03:20 | 【違法ダウンロード刑事罰導入を阻止しよう】についてを含むブックマーク

http://agora-web.jp/archives/1452195.html


まずは上記の記事を御覧ください。僕も反対します。こういうことをひとつひとつ言っていかないと日本はどんどん息苦しくなるのは間違いないでしょう。どうも自民党公明党民主党のほとんどの議員インターネットや通信のことを理解できないか、ただ危険な存在としかイメージできていないんじゃないだろうか。もしくはどこぞの業界団体に献金をうけて賛成しているだけとか。いずれにせよ政策のほとんどは官僚が作っているようですが。


こういう反対を具体的に意見する時は、住んでいる選挙区議員にメールを出すなりすればいいのだろうか。

機関車先生  伊集院静

| 05:18 | 機関車先生  伊集院静を含むブックマーク

多くの島が浮かんでいる瀬戸内海に葉名島という島がある。その島に建っている小学校に校長以外の教師がいなくなってしまい、校長は必死になって新しい先生を探していた。そしてひとりの教師が見つかるのだが、その教師はあくまで臨時として葉名島に赴任することになった。なぜならその先生には普通の人にはない大きな特徴があったからだ。それは子どもの時にかかった病気によって声が出せなくなってしまったというハンディキャップだった。時代は昭和30年代の設定で、その時代は今よりハンディキャップを持つ人にはずっと暮らしにくい世界だっただろう。しかしこの先生が新しく赴任することによって葉名島新風が吹き上げることになる。


このようにはじまる「機関車先生」は、その新任の教師に子供たちがつけたあだ名です。「機関車先生」は子供たちと黒板に文字を書いてコミュニケーションを取るだけでなく、先生の行動や先生自身が身にまとっている逞しさや優しさによって子供たちにすぐに信頼されます。しかし「機関車先生」は子供たちとのコミュニケーションによるほのぼの物語ではなく、昭和30年代の空気や日本のムラ社会が持つ独特の様式の中でおきているということを忘れてはいけません。島の誰がお金に困っているや、その人に高利でお金を貸して儲けていたりする、そういう環境の中で「機関車先生」は子供たちに世の中にはつらいことがあっても勇気を持てることや、本当に強いこととは何かということを身体で表現します。ヤクザ者に抵抗するとさらに痛い目に合うので無抵抗で殴られている光景を子供たちはみて「機関車先生」に失望しても、喧嘩相撲や剣道で正面からぶつかって勝っていく先生に、強いということはただ相手を倒すことじゃないことが子供たちに伝わっていきます。


そして最後は著者の伊集院静氏による短いエッセイで本書は終わります。著者は40年以上前に葉名島に一時訪れていて、ある夏の間生活していたようです。そこで病弱な少年だった著者は、島の空気と町のなかで元気になっていったようです。そんな幻と交錯する記憶を持つ著者が書いたこの「機関車先生」には、かつて私たちも体験したある夏の陽炎を見出すことが出来るでしょう。


機関車先生 (講談社文庫)

機関車先生 (講談社文庫)

2012-05-18

無縁・公界・楽 日本中世の自由とその平和 網野善彦

| 04:20 | 無縁・公界・楽 日本中世の自由とその平和 網野善彦を含むブックマーク

少し前に亡くなられましたが、網野善彦という歴史家がいました。主に平安期から室町時代の研究で成果を上げた方なのですが、彼の歴史観は保守的な歴史学会からは異端とされ、網野氏自身も大学の末席ですごした研究者でした。しかし一方で網野氏の歴史観に影響を受けた人もたくさんおり、中沢新一氏に至っては親戚ということもあり、網野善彦を継ぐ。と宣言しています。


網野氏の歴史観とは「縁」という関係性の裏側には、実は「縁切り」があり、そして「縁」が切れる[た]「無縁」という世界が「縁」の社会と拮抗しながらも存在していただけでなく、そこから豊穣な文化や芸能などがあったのではないかと問いかけたと言えるのではないでしょうか。網野氏は「縁」が切れる場所のことをアジールと呼び、平安末期から江戸時代まで「縁」が切れる場所を紹介します。「縁」が切れる寺や自治都市といった場所は世俗の権力が及ばないアジールになり、特に寺では江戸時代までその自立性をもっていたようです。


「無縁」は主従関係や親族などといった表の「縁」と切れた状態であり、そこから「無縁・公界・楽」の世界へと「無縁」になった人々は入っていき、その「無縁・公界・楽」の特徴まとめると、以下のようになると網野氏は言います。

1.不入権

2.地子・諸役免除

3.自由通行権の保証

4.平和領域、「平和」な集団

5.私的隷属からの「解放」

6.賃借関係からの消滅

7.連座制の否定

8.老若の組織


アジールという場所は表の世界にはない自由性と、未開社会から受け継いだ年功序列の組織(老若)ながらも横の平等性が保たれた社会で、しかも平和で自立した機能をもっている。これではまさに「無縁・公界・楽」の場というのは「理想郷」であり、「ユートピア」と言えます。網野氏は批判は当然承知でこのような「理想郷」を描いたのだろうし、多くの人からみても明らかに踏み込みすぎた説でしょう。しかし日本という存在の底に流れる社会性や文化性を探るには相当魅力的な説になっていることも事実だと思います。「楽」の意味がそのまま甘さをもった言葉として、「公界」が自立的なきびしさを持って「理想郷」をめざす抑圧に断固とした意志の強さを意味する言葉として、「無縁」は古い時代から貧乏、飢餓、孤独をイメージさせる言葉としてとらえられて積極的な理想を意味をしないけれども常に日本に付きまとっていたとして表現されています。そして網野氏は「無縁・公界・楽」を以下のように西洋と日本の思想を対比させながら、日本の深層を一気に書ききります。


もとより、ギリシャローマの市民の民主主義キリスト教の伝統をもち、ゲルマンの未開の生命力に裏付けられ、中世を通じて深化し、王権との闘いによってきたえられてきた西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いているといわれよう。とはいえ、これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。p.129


これは無主・無所有というマルクスであり、バクーニンであり、プルードンであり、クロポトキンであるアナーキズムマルクスに対する日本からの宣言でもあるのは見逃せないでしょう。


しかし平安末期から室町にかけて成立した「無縁・公界・楽」といった状態も時代が下るに連れて表の権力、すなわち封建領主にその自由性を奪われていくことになりました。とくに安土桃山時代時代の織田信長豊臣秀吉によって、それまでのアジールが少しづつ奪われていきます。江戸時代にはほとんどのアジールが消滅してしまい、男女の縁切り寺も自立的な機能はほとんどなくなってしまいました。そして最終的に「公界」は「苦界」になり、「無縁」な人々は「えた・非人」と被差別部落、その他の漂泊民は自由と引換の陰惨な境涯を強いられて行くことになったというのが「網野史学」がもたらした「無縁」の問題提起でありながらも、権力や武力と異質な「自由」と「平和」への再生の試みでもあったのです。


無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

2012-05-17

本日の雑談

| 04:11 | 本日の雑談を含むブックマーク

なんとか調子ももどりつつも、毎食後眠気が襲ってくる生活を送っています。これはどうすればいいのでしょうか。ご飯を食べた後約2時間ぐらい寝てしまっていますが、私は元気です(?)。いろいろと書いたりしなければならないことが溜まってきていますが、なんとか書いていきますのでよろしくお願いします。