半坪ビオトープの日記

岡山後楽園

岡山後楽園
倉敷と吉備の古墳を見た後、岡山市の後楽園を訪ねる。岡山後楽園は、岡山藩主・池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみた。その後も藩主の好みで手が加えられたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきた。

岡山後楽園
名称は岡山城の後ろに作られた園と言う意味で後園と呼ばれていたが、「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから、明治4年(1871)後楽園と改められた。江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることができる、江戸時代を代表する地方では稀な大名庭園であり、「特別名勝」に指定されている。

築山、唯心山
庭園の真ん中に位置する一番大きな池・沢の池の南に唯心山がある。池田綱政の子・継政が造らせた約6mの築山で、園内が見晴らせる。南に岡山城がある。

沢の池、砂利島

唯心山の北に広がる沢の池の向こうには小さな砂利島が見え、左手には寒翠細響軒が建ち、右手には五十三次腰掛茶屋、さらに右手に慈眼堂が垣間見える。

御野島、中の島
唯心山から池に沿って北に進むと、松の木の先に島がある。左手にあるのは御野島、右手にあるのは橋が掛かり島茶屋のある中の島である。それぞれ趣向が凝らされている。

慈眼堂、烏帽子岩
沢の池の北側に建つ慈眼堂は、元禄10年(1697)池田綱政が藩内の平安と池田家の安泰を願って観音像2体を祀り建立した観音堂である。今は空堂となっているが、江戸時代には歴代藩主が篤く信仰していた。脇には稲荷宮や由加神社もある。門の右手に見える巨岩は、烏帽子岩という陰陽石で、高さ4.1m、周囲17mあり、30数個に割って運びここで元通りに組み立てたという。石は瀬戸内の犬島産の花崗岩で、園内には大立石など随所に使われている自然石である。

唯心山の右手奥に岡山城
慈眼堂の先の砂利島の近くに来ると、砂利島の向こう、左手には唯心山、右手奥には岡山城が垣間見える。

岡山城

今の岡山城の付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があった。その石山にあった城を手に入れた宇喜多直家は岡山の地を戦国の表舞台に立たせた。その子の秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(1597天守完成)。その後城主となった小早川秀秋池田氏により城と城下町は拡張され今に至る。岡山城天守の外壁は、黒塗りの下見板で覆われていて、烏城の別名がある。築城時には城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、金烏城とも呼ばれる。天守は4重6階の複合式望楼型で、戦災で焼失したが、昭和41年(1966)に再建された。

延養亭
沢の池の周りを大きく回り終えて正門近くの建物群を眺める。この茅葺きの建物は延養亭という。貞享3年(1686岡山藩主池田綱政が、家臣の津田永忠に命じて、後楽園の築庭に着手し、要の建物として最初に建てられたのがこの延養亭だった。完成後は藩主の静養や賓客の接待、藩校の儒学者の講義場として使われた。後楽園の中でここからの眺望が最も素晴らしく、園内の景勝のほとんどがここに集まるよう設計されている。この建物も戦災で焼失したが、昭和32年の復元工事では正徳2年(1712)の絵図に基づき建築当時の姿に復元された。左手に見える建物は栄唱の間という。その右奥にある能舞台の正面にあり、能を鑑賞する際の見所(けんじょ)となっている。

花葉の池
栄唱の間の南側正面に花葉の池がある。南西岸には元禄時代初期に巨岩を九十数個に割って運び、元の形に組み立てた「大立石」がある。12月も半ば近くなのに赤い紅葉が輝いて美しい。

八幡大塚2号墳出土の石棺、朱千駄古墳出土の石棺

岡山後楽園の正門の向かいに県立博物館があり、その入り口脇に石棺が二つ安置されている。赤い石棺は八幡大塚2号墳出土の古墳時代後期の石棺である。八幡大塚2号墳は児島半島北東部の児島湾に向かった台地上に立地し、墳丘径は約35mで、児島半島東部最大の円墳である。横穴式石室の奥壁近くに安置されていた長持形石棺の伝統を引いた組合せ式家形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部は赤色に塗られ、風化した人骨とともに金製の付耳飾り、銀製の鍍金した空玉、太刀などが納められていた。左奥の灰色っぽい石棺は、朱千駄古墳出土の古墳時代前期の石棺である。朱千駄古墳は赤磐市穂崎、両宮山古墳の南西の平野部の西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。後円部中央に埋められていたこの石棺は、6枚の石で組み立てられた長持形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部から多量の赤色顔料と勾玉、管玉など多数の小玉や、鉄槍、蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。

 

造山古墳

ビジターセンターより造山古墳を見る
倉敷から岡山へ戻る途中、北回りで吉備の南西にある造山古墳を訪れた。吉備は7年前にも同じく大原美術館の後に、吉備津神社吉備津彦神社、総社宮などを巡ったが、造山古墳は見逃した。造山古墳の駐車場には造山古墳ビジターセンターがあり、造山古墳と周辺の中小規模の6基の古墳を合わせた造山古墳群や、日本遺産に認定された「桃太郎伝説」を紹介している。立ち入りできる古墳としては日本最大であり、世界最大の登れる墓といっても過言ではない。駐車場から眺めても前方後円墳の大きさがよくわかる。左が前方部、右が後円部である。

造山古墳
吉備には古墳時代前期から大型古墳が築かれ、古墳時代中期には巨大古墳も築かれたが、造山古墳は全長約350mと全国4位の超巨大古墳である。エジプトのクフ王のピラミッド本体より長く、始皇帝陵の墳丘と同じくらいである。手前には田んぼと民家が並んでいる。

右手が後円墳
民家の間を抜けると、黄色いセイタカアワダチソウの群落の向こうになだらかな丘が横たわっている。右手が後円墳で左手の前方墳との境目あたりが、崩落地のように土が削れて抜き出しになっている。

古墳の周りには石垣
よく見ると古墳の周りには新しく石垣が組まれていて、古墳の崩落を防いでいるのがわかる。

後円部の手前のくびれ部
崩落地の左手に登り口があり、上がると後円部の手前のくびれ部が平らに整備されていた。この平坦部は安土桃山時代羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために平らにしたことによるという。その時、後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭を2カ所、縦堀を3カ所設けている。

平坦部から後円部
後円部からは讃岐の安山岩でできた板石が発見され、前方部の上には阿蘇山の溶岩でできた石棺や、陪塚の千足古墳には天草千穂の砂岩で作られた石障がある。熊本県香川県からはるばる運ばれてきたもので、造山古墳に葬られた王は、吉備だけでなく、九州、四国まで影響を及ぼすことができた大王だったことがわかる。

三段築成の後円部
墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設け、墳丘表面には葺石がふかれ、各段には円筒埴輪が巡らされていた。ほかに盾・靭・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪も発見されている。

整備工事中の後円部
令和5年から後円部の崩れた部分を修理する整備工事に着手している。最近の発掘調査では、後円部の中心には大王の埋葬施設が保存されていることがわかってきている。

後円部の上から前方部を眺める
後円部の上から前方部を眺めると後円部の方が若干高いように見える。

後円部の彼方には吉備の平野
振り返って後円部の彼方を眺めると、吉備の平野が広がっているのがわかる。大王が大きな墓を作れたのは広い平野からの収穫も必要だったに違いない。

前方部には石の鳥居
今度はくびれ部を通り越して南西方向にある造山古墳の前方部に向かうと、石の鳥居が建っている。
 

前方部に建つ荒(こう)神社
つまり、前方部の墳丘は破壊されて、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。ちなみに墳丘全体の長さは約350mだが、前方部の幅は約215m、高さは約25m、後円部の復元直径は約190m、高さは約29m。造山古墳と荒神社の主軸方向は一致していて、荒神社の拝礼方向は北西にある雲南市や奥出雲になっている。荒神社の前面方向の南東には直島近くの鬼ヶ島伝説のある女木島・男木島がある。
 

荒神社の鐘撞堂の向こうに石棺
荒神社の鐘撞堂の向こうにある手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜式の長持型石棺の身部分であり、随分風に晒されている。
 

荒神社の右横後ろに石棺の蓋
荒神社の右横側後ろの杉の木の根元に、石棺の蓋の破片が放置されている。

石棺の蓋
石棺の蓋の表面に直弧文の線刻があり、内側には赤色顔料が明確に残る。大正時代に国指定史跡に指定されている。
 

倉敷、大原美術館

岡山、西川緑道公園で「西川イルミ2023」というイベント
アートの島・直島を1日かけて見て回った後、フェリーで岡山県玉野市にある宇野港まで行き、電車に乗り換え岡山駅に着いた。夕食のため街中を歩くと、西川緑道公園で「西川イルミ2023」というイベントが行われていた。

「西川イルミ2023」の「スターライトトンネル」
街中のオアシス「西川緑道公園」が、約25万球のイルミネーションの光に包まれる。この年のテーマは「光のウィンターフェスティバル」。全長約300mのシャンパンカラーに輝く光のトンネルや、木々を照らし出すライトアップ、水面にきらめく光など、幻想的な空間を創出している。この辺りがメインの「スターライトトンネル」。

大原美術館前の倉敷川

三日目は大原美術館を見に倉敷市に向かった。大原美術館前の倉敷川に沿って、倉敷美観地区が広がる。白壁の蔵屋敷、なまこ壁、柳並木など趣ある景観が楽しめる。

「くらしき川舟流し」
美しい白壁の街並みを倉敷川から観光できるのが「くらしき川舟流し」。はっぴ姿に菅笠を被った船頭さんが、白壁のいわれなど観光案内をしてくれる。

旧大原家住宅
ちょうど大原美術館の向かい辺りに、国指定重要文化財の旧大原家住宅がある。大原美術館、倉敷絹織(現、クラレ)の創設者・大原孫三郎、大原家代々が暮らした家。

倉敷川の白鳥
天領」と呼ばれる江戸幕府の直轄地であり、物資の集積地として栄えた白壁の町、倉敷。その倉敷川には白鳥がよく似合う。

茶店エル・グレコ
大原美術館の隣にある喫茶店エル・グレコ。創業1959年。大正末期の洋風建築をリノベーションして喫茶店として営業している。

大原美術館
大原美術館は、日本初の私立西洋美術館として知られる。倉敷の実業家・大原孫三郎が、自身がパトロンとして援助していた洋画家・児島虎次郎に託して収集した西洋美術、古代エジプト美術・中近東美術、中国美術などの作品を展示するため1930年に開館した。展示館は、薬師寺主計の設計による、イオニア式柱を有する古典様式の本館のほかに、1961年に藤島武二青木繁岸田劉生など近代日本の洋画家作品や、現代美術の作品を展示する分館、同年に河井寛次郎バーナード・リーチ、宮本健吉などの作品を展示する陶器館が開館。その後も工芸館、東洋館などが開館した。本館の玄関右側に立つ彫刻は、ロダンの「カレーの市民ジャン・ダール」(1890)。

大原美術館
本館の主な収蔵品は、エル・グレコ「受胎告知」(1599-1603頃)、ドガ「赤い衣装をつけた三人の踊り子」(1896)、モネ「睡蓮」(1906頃)、ルノワール「泉による女」(1914)、ゴーギャン「かぐしき大地」(1892)、セガンチーニ「アルプスの真昼」(1892)、モディリアーニ「ジャンヌ・エビュテリヌの肖像」1919)など、教科書でよく見たような有名な作品が多い。だが、残念ながら館内撮影禁止だった。玄関の巨大な柱は、一見大理石に見えるが実はコンクリート製で、石の粉をモルタルに混ぜて、左官技術により施されている。

エルグレコの受胎告知

撮影禁止だったのでパンフから一枚だけ取り込んでみた。これがエル・グレコの「受胎告知」である。

大原美術館の中庭
工芸・東洋館は、江戸時代の米蔵だった建物を染色家の芹沢銈介のデザインで改装したもの。倉敷ならではの白壁の蔵が中庭を囲む一角に、赤い壁の蔵が建つのがなんともおしゃれである。
 

「杉本博司ギャラリー 時の回廊」、家プロジェクト

杉本博司ギャラリー 時の回廊」、杉本博司の「苔の観念」
杉本博司ギャラリー時の回廊」は、ベネッセハウスパークにおける杉本博司作品の展示空間を周辺のラウンジやボードルーム、屋外にまで拡げ、杉本の多様な作品群を継続的かつ本格的に鑑賞できる世界的にも例を見ないギャラリーである。ベネッセアートサイト直島の黎明期より様々な形でアート計画に参加してきた杉本の当地との関わりを背景に、既存の「松林図」や「観念の形003オンデュロイド:平均曲率が0でない定数となる回転面」などに、「ジオラマ」や「Opticks」といった主要な写真シリーズなどが新たに加わった。ちょっとした中庭には苔がびっしりと生えている。その中に大きな水滴が数珠つなぎのように立っている。この作品は、杉本博司の「苔の観念」。まさに苔の思いが凝縮されているようだ。

杉本博司の「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」
地下1階の展示室では、既存の「カリブ海、ジャマイカ」(1980)や「カボット・ストリート・シネマ、マサチューセッツ」(1976)に加え、杉本がアメリカ自然史博物館に展示されている古生物などを再現したジオラマを撮影した「ジオラマ」シリーズより「ハイエナ、ジャッカル、コンドル」(1976)が新たに展示された。これにより「劇場」「海景」を含めた杉本の初期の代表3シリーズが同じ空間に集うことになったという。

ガラスの茶室「聞鳥庵」
屋外では、ヴェニスヴェルサイユ、京都で展示され人々を魅了してきたガラスの茶室「聞鳥庵」(2014)が設置されている。掛け軸や花の代わりに周囲の環境そのものを取り込むことにより外に開かれながら、内省的な空間を実現している。また、単なる彫刻作品だけでなく、実際に茶室として使えるということも、この作品の重要なポイントである。水と自然を生かした安藤忠雄の建築に呼応するかのように佇む。

庭に太い古木
時の回廊」は、杉本の創作活動の原点の一つである直島と、建築や作庭を中心としたプロジェクトの集大成である小田原の「江之浦測候所」を繋ぐものとして作られたという。杉本が探究し続ける「時間」や「光」、そして「自然」を体感できる場所がまた一つ生まれたのである。「聞鳥庵」の少し海側の庭に太く大きな古木がまだ生き生きと枝を広げていて、自然の力を十分に感じさせる。

ニキ・ド・サンファールの「腰掛」

「時の回廊」の南側(海側)、ベネッセハウスパークの芝生エリアに、ニキ・ド・サンファールの屋外作品群が展開する。テラスレストラン前には、「腰掛」(1989)という作品があり、隣に座って記念撮影する人が多い。

ニキ・ド・サンファールの「らくだ」
左手前の作品は、ニキ・ド・サンファールの「らくだ」(1991)であり、右奥の作品はカレル・アペルの「かえると猫」(1990)である。ニキ・ド・サンファールの作品は他にも「猫」(1991)、「象」(1991)があり、「らくだ」同様、鉢植えとなっている。

カレル・アペルの「かえると猫」
カレル・アペルの「かえると猫」も近づいてよく見ると、カエルが猫を持ち上げている姿が、なんともにぎやかで面白い。何枚ものカラフルな分厚い板を重ね合わせて不思議な造形作品になっている。

ANDOU MUSEUM

ベネッセハウス周辺をあらかた見て回った後に、直島の東側にある本村エリアに向かう。この本村地区には、古い民家や歴史ある神社をアーティストが改修し、空間そのものを作品化する、家プロジェクトという企画が実施されている。このANDOU MUSEUMは、安藤忠雄の設計による打ち放しコンクリートの空間が、本村地区に残る木造民家の中に新しい命を吹き込んでいる。安藤の活動や直島の歴史を伝える写真、スケッチ、模型だけではなく、新たに生まれ変わった建物と空間そのものを展示する美術館である。古民家の内部に入れ子状に組み込まれたコンクリートボックスは、母屋の木造屋根部分に設けられたトップライトからの光が館内を照らし、過去と現在、木とコンクリート、光と闇といった対立する要素がぶつかり合いつつ重奏する、奥行きに富んだ空間を演出している。しかし、残念ながら内部は撮影禁止だった。

極楽寺
ANDOU MUSEUMの真向かいには、高野山真言宗極楽寺がある。本尊は阿弥陀如来山号八幡山。伝承によれば、貞観年間(859-876)に聖宝(理源大師)がこの地に草庵を結んだのが起源とされる。後に崇徳院(讃岐院)の直島への来島の際、寺号を改めた。また、至徳年間(1384-86)に来島した増吽僧正が海中より引き上げた阿弥陀如来像を安置され、それが現在の本尊であるという。境内は広く、八幡神社護王神社がある。ANDOU MUSEUMのすぐ南には、家プロジェクトの「南寺」がある。

草間彌生の「赤かぼちゃ」
宮浦港には、草間彌生の「赤かぼちゃ」が屋外展示されている。『太陽の「赤い光」を宇宙の果てまで探してきて、それは直島の海の中で赤かぼちゃに変身してしまった』と草間自身が語ったという作品。水玉のいくつかはくり抜かれていて、内部に入ることができる。宮浦港には、他にも約250枚のステンレス網で構成された、藤本壮介の直島パヴィリオンが屋外展示されている。
 

 

ベネッセハウスミュージアム

ベネッセハウスミュージアム
直島のベネッセハウスミュージアムは、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトに、美術館とホテルが一体となった施設として1992年に開館した。瀬戸内海を望む高台に建ち、大きな開口部から島の自然を内部へと導き入れる構造の建物は、安藤忠雄の設計による。絵画、彫刻、写真、インスタレーションなどの収蔵作品に加え、アーティストたちがその場所のために制作したサイトスペシフィック・ワークが恒久設置されている。

セザールの「モナコを讃えてMC12」
作品は展示スペースにとどまらず、館内の至る所に設置され、施設を取り巻く海岸線や林の中にも点在している。この作品は一階に展示されている、セザールの「モナコを讃えてMC12」(1994)。ポットが押しつぶされている。モナコはポットの生産で有名なことから作品のタイトルになったそうだ。

リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」と「瀬戸内海の流木の円」
後ろの壁に掛かる二つの輪は、リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」(1997)。ロングの故郷のイギリスの川の泥が塗ってある。手前にあるのは、リチャード・ロング「瀬戸内海の流木の円」。19975月、ロングが作品制作のために直島に数日間滞在し、集めた流木で作った作品である。

リチャード・ロング「十五夜の石の円」
窓の外のバルコニーに展示されているのも、リチャード・ロング「十五夜の石の円」。タイトルは制作した日が満月だったからだそうだ。

ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」
こちらの作品は、ジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」(1986)。3人は常に喋り続けている。

柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」
こちらの作品は、柳幸典の「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」。たくさんの国旗が飾られているが、どれもボロボロに見える。

「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム1990」の一部
近づいて見ると、国旗が砂でできていて、その中に蟻を入れて巣を作らせているからだ。国旗同士はチューブで結ばれていて、そこを通ってアリが自由に移動できる。世界各国を回ったこの作品は、現地のアリを大量に捕まえて作品の中に入れ、他の国に移動する前に全てのアリを逃すことを繰り返したという。

ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」
こちらの作品は、ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」(1985)。大きな三連のキャンバスに、海と砂浜、打ち寄せられた黄色と黒のボートが描かれ、その2艘のボートは画面の手前にそのまま立体としても置かれている。そして同様のボートが、振り返った先の窓から見える実際の砂浜にも置かれているそうだが、そこまで気が付かなかった。

ヤニス・クネリスの「無題」
こちらの作品は、ヤニス・クネリスの「無題」(1983)。直島のために作られた初めての作品で、設置場所も選んでもらったという。クネリスが直島とその周辺で集めた木材や茶碗、布などを鉛でぐるっと巻いている。かなりの重量で当初より重さで沈んでいるという。
 

李禹煥美術館

李禹煥美術館 、「関係項-点線面」
地中美術館から少し進むと北ゲートがあり、ここから南に海沿いの道がつつじ荘までシャトルバス専用道路が続くが、ベネッセアートサイト直島の私有地エリアである。北ゲート脇の駐輪場に自転車を置き、シャトルバス専用道路を歩き始める。坂を下っていくと右手に李禹煥美術館が見えてくる。現在ヨーロッパを中心に活動している国際的に評価の高いアーティスト・李禹煥(リウファン)と建築家・安藤忠雄のコラボレーションによる美術館である。正面から見えるのは高さ6m、長さ50mのコンクリート壁だけで、延べ床面積443m2の建物の全容は見えない。入り口は壁の左端にある。建物の前庭にあたる「柱の広場」には、オベリスクのような18.5mの柱が立つ。これは「関係項-点線面」(2010)の一部だが、このように自然石や鉄板を素材とする「関係項」のシリーズが点在している。これは自然と文明の対比が共生か、あるいは東洋と西洋の出会いか、と訪れたものを哲学的な思考に誘導する。

「関係項-対話」、「無限門」
海と山に囲まれた谷間に、ひっそりと位置するこの美術館は、自然と建物と作品とが呼応しながら、モノにあふれる社会の中で、われわれの原点を見つめ、静かに思索する時間を与えてくれる。右手の黒い鉄板とそれを挟む自然石二つの作品は、「関係項-対話」(2010)。左手奥に見える、海へのゲートのような半円形の「無限門」(2019)は、自然石に囲まれたステンレスの門。その間を通る道も長さ25m、幅3mのステンレス。地上から海へ、海側から地上へと誘うかなり大きな門だ。門によって境界を作ることは守る知恵であり、ときに対立を呼び愚かな戦いを引き起こしてきた。そんな思考を呼び起こすことを李禹煥は石と鉄板だけで仕掛けるのである。

大きなコンクリートの壁に小さな作品
半地下構造となる安藤忠雄設計の建物の中には、李禹煥70年代から現在に至るまでの絵画・彫刻が展示されており、安藤忠雄の建築と響きあい、空間に静謐さとダイナミズムを感じさせる。打ちっぱなしの大きなコンクリートの壁には小さな作品がある。残念ながら建物の中は撮影禁止であった。

瀬戸内の石
李禹煥が目指したのは洞窟のような美術館で、半開きの空が見え、胎内へ戻るような、お墓の中へ入っていくような空間であった。これに対し安藤は、李が着想した3つの箱型の展示空間を屋根を持たない三角形の広場でつなぐプランを提案した。李禹煥が作品に用いる素材の一つとして自然石が挙げられるが、李は作品が展示される地域で石を採取することを重視している。李禹煥美術館の作品に使われる石は瀬戸内の採石場を巡って集めたものである。

草間彌生の「南瓜」
李禹煥美術館と反対側に草間彌生小沢剛の作品が展示されているヴァレーギャラリーへ下る道があったが、時間の都合で省略し、北ゲートへ戻り、自転車でベネッセハウス周辺をぐるりと回り込んで、東側の東ゲートの駐輪場につき、ベネッセミュージアムに向かって歩き始めた。海岸には草間彌生の作品「南瓜」が展示されていた。右手奥に見えるのは、オカメの鼻とその手前に伸びる桟橋である。

2022年に復元制作された南瓜
「水玉の女王」とも称される草間彌生の作品の代表作の一つ「南瓜」は、各地にいくつも作られているが、これは2022年に復元制作された作品である。元は、1994年にベネッセハウスミュージアムで開催された「Open Air’94”Out of Bounds”-海景の中の現代美術展-」のために制作設置されたもの。草間にとって初めて野外での展示を念頭に作られた作品群の一つで、高さ2m、幅2.5m。それまでに制作された南瓜彫刻の中では最大級のものだった。2021年の台風9号により海に流され破損した「南瓜」(1994)が約1年後に復元されたのである。

ジョージ・リッキーの「三枚の正方形」
海岸沿いに歩いていくと、道はベネッセハウスミュージアムに向かって上がっていく。すると左手のシーサイドギャラリーへの分岐辺りに、3枚の金属板が立って並んでいる。オカメの鼻手前に点在する数点の屋外アートの一つで、ジョージ・リッキーの「三枚の正方形(Three Squares Vertical Diagonal)」。

オカメの鼻の岬
なおも道を上っていくと、左手下にオカメの鼻の岬がよく見える。
 

直島、地中美術館

小豆島に向かうフェリー・オリーブライン

二日目は高松港から瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島に向かう。高松港に停泊しているのは、有名な観光地・小豆島に向かう大型フェリー・オリーブラインである。

直島・宮浦行きの高速艇
直島・宮浦行きの高速艇だと30分ほどで直島につく。小型だが速い。

高松港から屋島を見る
晴れた高松港からは東に屋島の姿がよく見える。急崖で囲まれたテーブル上の高地の一番高いところは約300m、南北に約5km、東西に約2kmある。

女木島
高松港を出港するとまもなく右手に女木島が見えてくる。標高188mの鷲ヶ峰山頂近くに奥行き400mの大規模な洞窟があり、古来より鬼が住んでいたと伝えられていることから、桃太郎伝説とも結びつき「鬼ヶ島」と呼ばれている。大洞窟は見学ができ、随所に赤鬼・青鬼が迎えてくれる。

男木島
大き目の女木島の左手正面に男木島が見えてくる。その左手には豊島がかすかに認められる。男木島には、瀬戸内国際芸術祭2010で制作されたスペインの現代芸術家、ジャウメ・プレンサの作品「男木島の魂」や、山口圭介のアート作品「歩く方舟」などの芸術作品が展示されている。半世紀前の産業廃棄物問題で「ゴミの島」と呼ばれた豊島も、今では「アートの島」と呼ばれるようになった。アーティスト・内藤礼と建築家・西沢立衛による「豊島美術館」、アーティスト・横尾忠則と建築家・永山祐子による「豊島横尾館」などがある。

直島と柏島
まもなく右手に直島が見えてくる。右手前にある島は柏島である。直島の周りにある直島諸島の一つの無人島である。崇徳上皇が讃岐配流(1156)の折、直島の浦で柏手を打って難破船を救ったことが島名の由来とされる。

直島の南岸
直島の南岸沖を進む時には、海岸および高台に建物がいくつか認められた。

地中美術館」のテラスが見える
拡大してみると左上に見える建物は、これから真っ先にいく「地中美術館」のテラスのようだ。海岸にもいくつか建物が見えるが何の建物か見分けられない。海岸の崖には杉本博司の「タイム・エクスポーズド」という作品が掲げられているというが、確認できなかった。

地中美術館の入口
直島には町営バスもあるが本数が少ないので不便である。そこで宮之浦港でレンタサイクルを借り、島の南半分にあるいくつもの美術館を回り始める。坂道もあるが電動自転車なので助かる。ようやく地中美術館の入口に辿り着いた。

美術館へ向かう道の脇に咲く桜
岡山市に本拠を置くベネッセホールディングスの福武總一郎名誉顧問が理事長を務める「直島福武美術館財団」が2004年に開設した地中美術館は、福武總一郎がクロード・モネの「睡蓮」を購入したことがきっかけで展示や建築のプランが構想された。設計は安藤忠雄。モネは日本庭園を作るほどの親日家だったが、自宅に造園した「水の庭」や「花の庭」を参考に、チケットセンターから美術館へ向かう道の脇に4段に池を設置し、睡蓮などの草木を植えている。その道を歩くと山側に12月上旬でも冬桜が咲いていた。

大きなコンクリート壁の階段
地中美術館は、瀬戸内の景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設され、館内には、クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの三人だけの作品が安藤忠雄設計の建物に恒久設置されている。地下でありながら自然光が降り注ぎ、1日を通して、また四季を通して作品や空間の表情が刻々と変わる。館内受付までは、大きなコンクリート壁の間に設けられた階段を登るが、撮影はここまでが可能で、受付の先にある、三人の作品群は残念ながら撮影禁止である。

レストランのテラス
いちばん奥のレストランの外のテラスには出ることができる。テラスの上の緑色がかった窓は、直島に来る高速船から見えた建物の一部である。

テラスから南西
テラスから南西を眺めると、小さな島に石堤が続いていた。

テラスから南東
テラスから南東を眺めるとベネッセハウスミュージアムと思われる建物が見えた。