岡山後楽園
唯心山の北に広がる沢の池の向こうには小さな砂利島が見え、左手には寒翠細響軒が建ち、右手には五十三次腰掛茶屋、さらに右手に慈眼堂が垣間見える。
今の岡山城の付近には旭川の流域に岡山、石山、天神山という3つの丘があった。その石山にあった城を手に入れた宇喜多直家は岡山の地を戦国の表舞台に立たせた。その子の秀家は、岡山の丘に本丸を定め、今に残る岡山城を築いた(1597天守完成)。その後城主となった小早川秀秋、池田氏により城と城下町は拡張され今に至る。岡山城の天守の外壁は、黒塗りの下見板で覆われていて、烏城の別名がある。築城時には城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、金烏城とも呼ばれる。天守は4重6階の複合式望楼型で、戦災で焼失したが、昭和41年(1966)に再建された。
岡山後楽園の正門の向かいに県立博物館があり、その入り口脇に石棺が二つ安置されている。赤い石棺は八幡大塚2号墳出土の古墳時代後期の石棺である。八幡大塚2号墳は児島半島北東部の児島湾に向かった台地上に立地し、墳丘径は約35mで、児島半島東部最大の円墳である。横穴式石室の奥壁近くに安置されていた長持形石棺の伝統を引いた組合せ式家形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部は赤色に塗られ、風化した人骨とともに金製の垂飾付耳飾り、銀製の鍍金した空玉、太刀などが納められていた。左奥の灰色っぽい石棺は、朱千駄古墳出土の古墳時代前期の石棺である。朱千駄古墳は赤磐市穂崎、両宮山古墳の南西の平野部の西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。後円部中央に埋められていたこの石棺は、6枚の石で組み立てられた長持形石棺で、縁に縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の竜山石である。内部から多量の赤色顔料と勾玉、管玉など多数の小玉や、鉄槍、蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。
造山古墳
倉敷、大原美術館
三日目は大原美術館を見に倉敷市に向かった。大原美術館前の倉敷川に沿って、倉敷美観地区が広がる。白壁の蔵屋敷、なまこ壁、柳並木など趣ある景観が楽しめる。
撮影禁止だったのでパンフから一枚だけ取り込んでみた。これがエル・グレコの「受胎告知」である。
「杉本博司ギャラリー 時の回廊」、家プロジェクト
「時の回廊」の南側(海側)、ベネッセハウスパークの芝生エリアに、ニキ・ド・サンファールの屋外作品群が展開する。テラスレストラン前には、「腰掛」(1989)という作品があり、隣に座って記念撮影する人が多い。
ベネッセハウス周辺をあらかた見て回った後に、直島の東側にある本村エリアに向かう。この本村地区には、古い民家や歴史ある神社をアーティストが改修し、空間そのものを作品化する、家プロジェクトという企画が実施されている。このANDOU MUSEUMは、安藤忠雄の設計による打ち放しコンクリートの空間が、本村地区に残る木造民家の中に新しい命を吹き込んでいる。安藤の活動や直島の歴史を伝える写真、スケッチ、模型だけではなく、新たに生まれ変わった建物と空間そのものを展示する美術館である。古民家の内部に入れ子状に組み込まれたコンクリートボックスは、母屋の木造屋根部分に設けられたトップライトからの光が館内を照らし、過去と現在、木とコンクリート、光と闇といった対立する要素がぶつかり合いつつ重奏する、奥行きに富んだ空間を演出している。しかし、残念ながら内部は撮影禁止だった。