「お伊勢」は「お多賀」の子でござる♪

 まだ私が小さかった頃、母親が時々「お伊勢へ参らばお多賀へ参れ♪ お伊勢はお多賀の子でござる♪」と、俗謡を口にしていたのを覚えている。当時は意味も分からず、また成人してからは思い出すこともなかった。

 しかし最近、改めて「古事記」(真福寺本)を読む中で、「伊耶那岐神(イザナギノカミ)」が「多賀大社」(滋賀県多賀町)で祀られていることを知り、この俗謡の意味に思い当たった。「伊勢神宮」の祭神は、言わずと知れた「天照大御神アマテラスオオミカミ)」。そして、このアマテラスはイザナギの長姉である。さしずめ、この俗謡は「娘だけでなく、たまには父神のおわします『お多賀さん』にもお参りしなさいよ」といったところなのだろう。

 私の生家は、多賀大社から車で30分ほどの所にある。子供時代、初詣を始め何度もお参りしたものだが、当然のことながらその祭神にまで気が回ることもなく、成人後は生家を出たこともあり、足が遠ざかっていた。今、多賀大社にはイザナギと共に「伊耶那美神(イザナミノカミ)」も祀られている。できれば近々、行ってみたい。今度は気を引き締めて。

 ただ一方で「日本書紀」などでは、イザナギが降り立った地は、近江の多賀ではなく、イザナミとの「国造り神話」で最初に生み出した島、淡路島ともされており、それを支持する歴史学者も多い。さらに多賀大社は、古事記日本書紀が完成する奈良時代以前に創建されたと言われており、元々は地元の豪族・犬上氏を祀る社(やしろ)であったという。ちなみに犬上氏は、第1次遣唐使・犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)を出した一族として有名である。で、あるが故に、これまで多賀大社は、伊勢神宮のように遇されることがなかったのであろうか?

 そこで、天皇家の「皇祖神」とされるアマテラスは、どうやって誕生したのか?古事記では、こんな話が展開されている。

 まず、高天原(たかまのはら=天上世界)に成った神々の中から、初めて人の形をした男神イザナギと女神・イザナミが生まれ、この2柱の神は、先立つ神々から「国造り」を命じられ、まぐわう(夫婦の交わり)ことで淡路島、四国、それから隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬佐渡島、そして最後に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、いわゆる本州が生まれた。この八つの島を「大八島国(おおやしまのくに)」という。この国(わが国)である。

 そして国ができたことで、2神は様々な神を生み始める。海の神、川の神、水の神、風の神、山の神、土の神、食物の神・・・・・。やがて火の神を生んだ時、イザナミは陰部(ほと)に大火傷を負い、それがもとで身罷ってしまった。イザナミのことを忘れられないイザナギは、イザナミを連れ戻そうと黄泉(よみ)の国にまで行き、そこで「絶対に見ないでほしい」と言うイザナミの願いに反して、醜く変貌したイザナミの姿を見てしまい、怒ったイザナミの代わりの魔物に追われ、やっとのことで黄泉比良坂(よもつひらさか=出雲にある揖屋坂であろう)から地上に逃れるのである。

 地上に戻ったイザナギは、日向国の橘の尾門(たちばなのおど)という河口で身を清める。いわゆる「禊ぎ」を行った。まず左目を洗った。そしてアマテラスが生まれた。太陽の女神である。天を治める。次ぎに右目を洗い「月読命ツクヨミノミコト)」が生まれた。月の男神で夜の闇を治める。そして鼻を洗って「須佐之男命(スサノオノミコト)」、海を治める嵐の神が生まれた。従って、アマテラスはイザナギの長姉ということになるのだ。

 古事記では、もう一つの話として、スサノオの子孫である「大国主神オオクニヌシノカミ)」が、治めていた出雲の地をアマテラスに譲る「国譲り神話」の物語があるが、これによって葦原中国(あしはらのなかつくに=地上世界)の全てを知らす(=治める)ことになったアマテラスは、孫の「邇邇芸命ニニギノミコト)」に、それを命じる。孫が地上に降り立ったので「天孫降臨」である。日向の高千穂の地に降臨した。

 降臨に際して、アマテラスは3種の神器をニニギに与え、ニニギはこの内「御鏡(みかがみ)」を五十鈴宮(いすずのみや=現在の伊勢神宮の内宮)に祀った。これが、伊勢神宮の起源となる。

 そして、このニニギの4代後の子の1人が「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」。兄たちと共に「東征」し、紀伊・熊野から大和(奈良)に入ったイワレビコは、紀元前660年1月1日、橿原の地で初代「神武天皇」として即位するのである。ざっと、こんな話である。お隣・中国は春秋戦国時代孔子孟子の時代である。始皇帝が全土を統一する400年ほど前のことだ。

 さて昨日から、今上天皇の「生前退位」などを議論する有識者会議が始まったが、論点ではないものの、今上が退位した後は京都に移るという案があるらしい。イヤ〜、これには驚いた。とは言っても、天皇家が東京に居続ける根拠は、どこにも無いのだが。

 これに関連したテレビインタビューで、和歌の才で天皇家に仕えてきた京都の「冷泉家」の25代・女性当主が「『ちょっと行ってくる』と言って明治天皇は出て行かれた。それからズッとお留守番をしています」と語っていた。150年近いお留守番である。気が遠くなりそうだ。

 そういえば、冷泉家の先代当主は数十年前に「この前の戦(いくさ)で貴重な文物が随分と無くなりました」と語り、誰もが、それは、明治維新に繋がる「鳥羽・伏見の戦い」のことであろうと思っていたら、実は「応仁の乱」のことであった、というとんでもない長い時間軸を見せられたことに、唖然とした思いがある。