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江口寿史 KING OF POP Side B』刊行されました! 21:27 『江口寿史 KING OF POP Side B』刊行されました!を含むブックマーク

 2015年10月から16年2月にかけて明治大学米沢嘉博記念図書館で開かれた「江口寿史展 KING OF POP Side B」(写真撮影フリーだった展示の感想ツイートのまとめはこちら。 http://togetter.com/li/886025 )を書籍化した『江口寿史 KING OF POP Side B』が、10月25日、青土社から発売になりました!

江口寿史 KING OF POP Side B

江口寿史 KING OF POP Side B

 展示のキュレーションをさせてもらった私が、そのまま編者をさせていただいて、コンパクトな展示空間に頭おかしいんじゃないかってくらいギチギチに詰め込んだ高密度展示を、その高密度感のまま、A5判144ページのコンパクトな本の中に再現した本になっております。

小・中学時代の落書きノート、デビュー当時のマンガから「パイレーツ」「ひばりくん」などの貴重な原画に加え、初出誌や関連資料を多く用いて、それぞれの仕事が置かれた時代の文脈を明らかにする。マンガ家・江口寿史の軌跡をたどる、ファン必読の一冊。


【目次】

第1章 それは『ジャンプ』からはじまった

第2章 ひばりくんと白いワニ

第3章 時代の気分を<編集>する

第4章 This is Rock! 音楽と江口寿史

おまけ 江口寿史による江口寿史年代記

 とんぼの本シリーズやふくろうの本シリーズのように、この種のコンパクトなオールカラーのビジュアル本はたくさん先例がありますが、この高密度ぶりはちょっと見たことがないのではと思います。

 私が全ページ、インデザインで、各ページにどの図版とどの解説テキストがそれぞれどういう大きさ・位置で入るかレイアウトしたものをもとに、デザイナーの川名潤さんが、「こ、これがデザイナーの…力…っ!」と驚かされる仕事ぶりで、これぞまさに「ポップ」というべき本に仕上げてくれました。

 表紙は江口さんが、この本の内容にふさわしいイラストって結局どんなんだ…?っていう難問に、「3頭身じゃない先ちゃん」という見事な解答を出してくださいました。そう、全部この人が生み出してきたものなんです。

 まえがきで江口さんも書かれてるんですが、「パイレーツ」や「ひばりくん」直撃世代は「その後」の仕事をフォローできていないことが多く、また逆に近年のイラスト仕事で江口さんを知った若い世代はマンガ家江口寿史のすごさを知らないという状況がある中、デビュー前から今日に至る、江口さんの仕事の歩みをたどることのできるガイドブックになっているのではないかと思います。

 基本的には仕事を歴史順にたどっているのですが、4章は音楽との関わりという切り口で江口さんの仕事を通覧しなおすということをしていて、江口さんのディープなファンのみなさんにも楽しんでいただけるのではないかと思っています。

 去年出た画集と今年の初めに出たユリイカの総特集江口寿史と合わせて読んで・見て・いただければ、江口寿史の仕事の広がりとその意味が、ほぼ見渡せると思います。


 刊行を記念してたくさんのサイン会、そして私も登壇するトークイベントなどが用意されています。

 青土社のサイトにイベント情報のまとめページがありますので、そちらをチェックしていただければと思います。


http://www.seidosha.co.jp/topics/index.php?id=52&year=2016


 また、アマゾンで買いたくないよーという方は青土社のサイトから各ネット書店へのリンクがまとめられています。


http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2979


 担当編集者の(F)さんは、微に入り細にわたる校閲作業を粘り強く行うと同時に、江口さんの原稿を待つという高難度なタスク(笑)をこなしてくださいましたし、デザイナーの川名さんは上でも触れたように煩雑極まる作業を見事に遂行してくださいました。そして江口さんは、私の作業に一切口出しせず、素晴らしい表紙と(編者にとっては)感動的なまえがきをくださいました。


 …てことは、これでこの本売れなかったら完全に俺の責任じゃん…!ってこないだ気付いて膝ガクガクしたんですが、今はもう俎板の上の鯉の心境で、みなさんのご感想を待つばかりです。とりあえず、手に取ってぱらぱら見てもらえればありがたいです!

 よろしくお願いします!

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2018-04-15

ポケモンGOコミュニティデイからのついについに…ミュウツーゲットだぜ 22:33 ポケモンGOコミュニティデイからのついについに…ミュウツーゲットだぜを含むブックマーク

 イベントやら新学期の準備やらで先週の土日はお休みなし。ここで書く暇なかったんで書いてないですけど、春休みには、那須へ二泊三日旅行行って、子供たちは母方のおばあちゃんちに行ったりもしてます。


 で、今日は久しぶりの普通の休日。今までは下旬に開催されていたコミュニティデイが今月は中旬開催ということで、また中野へ行ってきました。天気予報では昼過ぎまで雨だったんですが、実際は朝から降ってなくて助かりました。

 今までより湧き方がおとなし目ではありましたが、メリープを、色違いも含めて大量にゲットして3匹デンリュウに進化させられました。レイドもできて快調にXPを稼ぎ、トレーナーレベルも36にアップ。

 で、今日は、ある意味ではその後が本番。17時30分からついに挑戦できることになったEXレイドバトル。ミュウツーをゲットすることができました。


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 ジムにランダムにポケモンが降臨して行われる、誰でも参加できるレイドバトルと異なり、ミュウツーが降臨するEXレイドは招待制。EXレイドバトルが開催されるジム自体限られてるうえ、そのジムで招待パス配布の前週にレイドで勝利していることが抽選権を得る条件になっており、その中で抽選に当たった人にだけ特定の日時のパスが送られて来る仕組みです。

 今まで3回当選してはいたのですが、ゼミの発表会や、出張、学会の理事会と、ことごとく動かせない予定とぶつかってしまい参加できず。今日ようやく参加できた次第。三男がバトルして、次男がゲットチャレンジ。こうげきとHPが14の84%個体を、ゲットだぜ。まあ、今までそもそもいなかったわけですから、十分じゃないでしょうか。

 次男と三男も楽しかったようで、帰宅すると二人でめっちゃ楽しそうに今日の報告をおかあちゃんにしてました。仕事の合間に駆けつけられる範囲でわずか2つしかない、EXレイド開催実績のあるジムを調べて、開催周期から今週は多分こっちだろうとか予測しながら、まめにレイドをしてきたかいがありました。実は来週の月曜日も当選してるんですが、こちらは13時からということでおとうちゃんが昼休みを利用して参加してきます。

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2018-04-04

土居伸彰×三輪健太朗×宮本大人「マンガとアニメーションリアリズム―『個人的なハーモニー』から考える」 12:12 土居伸彰×三輪健太朗×宮本大人「マンガとアニメーションとリアリズム―『個人的なハーモニー』から考える」を含むブックマーク

 今日、ゲンロンカフェで行われるこちらのイベントの始めに私の方から土居さんのお仕事と三輪さんのお仕事がいかに近い問題意識の中で響き合っているかをざっとお話するのですが、その予習・復習に利用していただければと、お二人の本から、今日の議論にとって重要そうな部分の引用集を作りました。

 ワードで作ったものをベタっと貼っただけなので、読みづらいと思いますが。←【追記』ゲンロンカフェのイベントページにPDF版を載せてもらえました!こちらの方が読みやすいので、ぜひ!

http://genron-cafe.jp/event/20180404/

直リンクはこちら!

http://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2018/04/7fe3334dd80a006f9e19af24a476c889.pdf



マンガとアニメーションとリアリズム−『個人的なハーモニー』から考える

2018.4.4.@ゲンロンカフェ

参考引用集(宮本大人)


1.土居伸彰『個人的なハーモニー』と三輪健太朗『マンガと映画』に共通するスタンス

マンガと映画

マンガと映画


『個人的な…』:「アニメーション」という言葉自体の歴史性を問う

 アニメーションとは何か?アニメーションに関する数々の入門書をめくれば、その答えはだいたいこのようなことを書いている――アニメーションという言葉はラテン語の「animare=生命を与える」に由来するという語源や、アニメーションとは無生物を動かして生命を与えるということである。一方で、この「アニメーション」という言葉がいついかなるようにして使われるようになったのか、その起源や歴史性については、ほとんど情報を見つけることができない。あたかも、アニメーションという言葉が、太古の昔から、当たり前のように存在していたかのごとく。(p.58)

「本来」アニメーションは…という普遍性を装う物言いを相対化する

アニメーションの「本質」がいつも変わらぬものとしてあるという硬直化した本質主義から距離を取る

常にその性質を変えながら動いていくものとしてアニメーションという表現ジャンルの生態を捉えようとする姿勢

三輪の『マンガと映画』にも同様の姿勢

普遍的に妥当するマンガのシステムなるものは想定されえない」「システムは通時的にみて変化しうる」「システムは共時的にみて複数存在しうる」(pp.34-35)

マンガ表現の「発展」の度合いを測る尺度として「映画的技法」などの「手法」の有無を検証するという方法に対する批判

 個別の手法の水準にではなく、作品全体が基づいているシステムの水準に着目して、様式を理解すること。ここには、理論的な観点とは別に、もう一つの重要な目的がある。それは、マンガ史的記述の中からナイーブ進歩史観を排除することである。「手法」への定位は、しばしばその「手法」を、「洗練」され「発展」され「完成」されるべきものと見なす傾向を帯びてしまう。たとえば竹内は、手塚の革新性を述べようとする文脈で、「古典的な同一化技法をのりこえている」といった言い回しを用いている。こうした表現は、竹内自身の本意ではないのかもしれないが、否応なく一種の進歩史観を連想させてしまう。(pp.166-167)

同じ技法が違う効果をもたらすことがありうる

メディウム・スペシフィック」な要素の相対化→eg.マンガには「本来」音声がない、マンガは「本来」静止画である(運動がない)

実際には、直接音声を発することができないにもかかわらず音声を表す工夫を積み重ねてきているからこそ、「無音」を表現することの方が難しい

実際には、「本来」静止画である中で運動を表現するのが「普通」であるからこそ、「静止」状態を表現する方が難しい

マンガやアニメーションという表現システム/メディアの「本質」を論じ始めた途端、人々が陥りがちな思考の抽象化・硬直化を回避し、現に生きて動いている表現の生態を歴史の中で捉えようとする姿勢



2.『個人的なハーモニー』のキーポイント

2.1.謎、「個人的」ということ

ノルシュテインの『話の話』はなぜ謎めいているのか?

絵を用いるアニメーションは、本来、「謎」とは対極の、すべてを明快に表すものであるはずで、たとえすぐにはわからなかったとしても、それは文化のコードや読み取りのコードが違うだけであって、それを学びさえすれば「謎」は消えるはずなのだ――キッソンや高畑が「謎」の調査を行おうとした際に前提としていたのも、アニメーションは明示的な意味を持つはずだ、とういうテーゼだったのではないか。

 しかし、そういった全体に基づく読解・分析がすべての疑問を解決してくれたのかといえば、そうではなかった。だとすると、このような疑問も浮かんでくる――もしかしたら、その前提自体が間違っているのではないか?つまり、アプローチを変えれば理解可能なものにおさまるだろうという前提に実は根拠がないとしたら?もしかして、『話の話』は、「謎」であること自体に意味があるのだとしたら?「謎」が「謎」のままに残り、あたかも観客がその異質さによって拒絶されたかのように感じたり、作品の与える印象が不定形のまま流動をやめず、観客と作品のあいだに安定した関係性を築かないことこそが、重要なのだとしたら?(p.23)

テクストの意味は多様な解釈に開かれているという一般的な認識からさらに進んで、なぜ『話の話』においてはそうなのか、を問う中で「個人的」というキーワードが出てくる

「個人的」という言葉自体の意味の重層性

「個人的」の対義語が、文脈ごとに違っている

「非・商業的」「非・集団的」「非・社会的」

そこからさらにその意味が膨らんでいく

「個人的」であることは、二つ目の視点にもつながっていく――言葉を並べていけば、「非明示的」・「非共有的」・「不確定的」・「流動的」であるということである。(p.39)

2.2.原形質性

エイゼンシュテインディズニー論の再読から

 これらの例全てを貫く一つの前提がある。一度定められれば永久に固定される形状という拘束の拒絶。硬直化からの解放。ダイナミックにいかなる形状をも取りうるという能力。この能力を私は「原形質性」と呼ぼうと思う。なぜならば、ドローイングで具現化された存在は、形状を定められ、輪郭を決定されていても、原初的な原形質のようにふるまうからだ。原形質性は「安定した」形状をもたず、好きな形状をとることができ、発達段階を行ったり来たりすることで、生けるものが取りうるあらゆる――すべての――形状に固定しうるからだ。(p.188)


 だが、エイゼンシュテインのこの原形質性の概念を考える際に気をつけねばならないのは、エイゼンシュテインは決して、ビジュアル(物質性)の次元における具体的なメタモルフォーゼについて語っているのではないということだ。ラーキンの作品のように描線がぐにゃぐにゃと曲がるとき、それこそが原形質性の具体例にも思えるが、しかしおそらくそうではない。目に見えて起こる変容の話をしているのではないのである。ディズニー作品を語るエイゼンシュテインの言葉は、ディズニー作品において実際にメタモルフォーゼが起こっているように錯覚させるが、そうではない。『人魚のおどり』を観ても、タコは象に実際に姿を変えるというわけではない。自らの身体の輪郭線を象に模すことによって、結果として象のような印象をあたえているというだけなのだ。

 エイゼンシュテインが原形質性という言葉で意味しているのは、アニメーションのビジュアルのそのリテラルなレベルで起こっていることではない。アニメーションを観る私たちの意識(つまり抽象性のレベル)において――すなわちエイゼンシュテインの言う「メタファー」を知覚するレベルで――起きている変容である。二重性が活用されることで、描かれているもの(実際に存在しているもの)とは違ったものを、アニメーションは観客に見せうるということ――物質的にはタコでありつつ、同時に「メタファー」としては象になる――、それを語っているのである。(pp.188-189)

 ノルシュテインにとって、子供の絵は、アニメーションが本来そうあるべきことを行っている。ノルシュテインによれば、「概して、子供の絵というものは、簡素さ、鋭さ、現実的なものを欠いた空想によって驚きに満ちている」。子供の絵はシンプルな線や色彩によって組み立てられ、写実性という意味でいえばまったくもって現実的ではないが、しかしそれは子供自身が見いだした「具体性」を体現したものとして、それを見る者には受け止められているはずだと考える。(pp.250-251)

 子どもがどのように絵を描くか思い出してみてください。子どもたちはよくこんなふうに描くでしょう。紙の下の方に線を描く――それは大地です。上の方に線を描く――それは空です。〔……〕空も大地も、子どもたちにとっては、一本の線のなかに入りきってしまうものなのです。この意味で、子どもの考えというのは、概して驚くべきものなのです。子どもはすべてを驚くほど明確に、そしてはっきりと見ていて、すべてを線のなかに凝縮し、描写しきっているのですから…… (p.251)

 われわれはそれらが……ドローイングであって生きたものでないことを知っている。

 われわれはそれらが……スクリーン上にドローイングが映写されたものであることを知っている。

 われわれはそれらが……似たようなものも実在しない「奇跡」、つまり技術的トリックであることを知っている。

 しかしそれらとは不可分に、

 われわれはそれらが生きていることを感覚する。

 われわれはそれらが活動し動き回ることを感覚する。

 われわれはそれらが存在し、思考するとさえ感覚する。

ここでエイゼンシュテインが語っているのは、アニメーションにおける「イメージ」創出の可能性のモデルである。単なるドローイングの集積であることは「知っている」。でも、それは生命として「感覚」される。ここで語られているのは、目撃されるドローイングと、それを通じて感覚される「イメージ」のズレである。(ドローイングの)アニメーションは、絵であることを意識に上らせつつ(「知っている」)、それでも同時に、自動的に生や思考を知覚させる(「感覚する」)。ここにおそらく、アニメーションの原形質性をめぐる分水嶺がある。その左右どちらに行くかにおいて、アニメーションが「芸術」になりえるかどうかが決まる。エイゼンシュテインがディズニーのアニメーションに対して驚くときに意識しているギャップやズレは、ディズニー自身にとっては消し去ってしまいたいものだった。静止画が生命に見える魔法は必要ない。魔法は、物語の次元において、キャラクターたちの境遇にこそ起こらねばならない。一方、ノルシュテインの観点からすれば、そのズレは保たれねばならない。(pp.256-257)

戦場でワルツを」などのアニメーションドキュメンタリーにおける「リアリティ

 ここで起こっているのは、原形質性のアップデート版である。エイゼンシュテインがディズニー作品にその性質を見いだしたとき、それはもっぱら、現実からの離脱として考えられていた。対して、ここで起こっているのは、現実自体の根本がそもそも揺らぎ、離脱を永遠に繰り返す状態である。アニメーションが変性する現実を説得力をもって提示するとき、むしろ、実写映像の方こそが、あまりにも均質であるがゆえに嘘くさく、フィクションのように見えてしまうという事態が起こる。実写の世界=現実/アニメーション=虚構という単純な区分はもはや成立しない。アニメーションと実写に区別はつけがたい。もっと言えば、アニメーションは「親密な」現実となり、実写は「疎遠な」現実となる。原形質性の働きにより、転覆が起こるのだ。すべては、現実は多種多彩なグラデーションとなり、それぞれすべてがそのフレームの「上」で展開しうる可能性の一つとなる。

3.『マンガと映画』における『個人的な…』との共鳴点

3.1.「記号」的ということ

 マンガが「記号」的な表現であるということは、作り手と受け手の間に、ある種のコードに基づいた約束事が成立しているということである。そして、それが約束事である以上、その約束がいつも守られるとは限らない。(p.182)

ただの地平線として描かれたはずの線は、本当なら成長する山の背後に隠れるはずの場面で、隠れない。このとき地平線は、地平線の性質を画像の中の関係としては保ちながら、同時に「地平線でないもの」にもなってしまう。しかし「地平線でないもの」は、それ以上に何かを指示する何者かであろうとせず、ただあり得ない線としてそこにあり続ける。

 つまり、それは抽象的な「ただの線」なのだ。だから、マンガ的な約束を逆手にとって、何でもできる。山を切り取ることだってできるのだ。(p.183. 夏目房之介「マンガ描線原論」の引用)

 このことを逆に言えば、マンガのテクストを構成しているあらゆる要素は、もともと「ただの線」なのであり、読者はそれを様々な約束事に従って何かの表象として読み取っているにすぎない。だから、その世界の中では「何でもできる」し、何だって起こりうる。しかし、だとすれば、そのことの裏返しとして、実はそこでは何も起こりえないのではないか。あらゆることが可能な世界とは、あらゆることが無効になってしまう世界のことなのだから。(p.183)

3.2.キャラ/キャラクターとリアリズム

 …大塚の議論においては「記号−非リアリズム」と「写実−リアリズム」とは対置されるべきものであり、だからこそ「記号的キャラクター」に「傷つく身体」を与えることは「矛盾」とされるほかないのである。つまり、大塚的な議論の枠組みにおいては、マンガにおけるリアリズムの獲得は、「記号的(非リアリズム的)キャラクター」に「身体性(写実的リアリズム)」を与えるという、本来なら矛盾した営為によって成し遂げられたのだということになる。(p.190)

…大塚においては、「記号的」に描かれたキャラクターが、にもかかわらず「傷つく身体」を持つことでリアリズムを獲得するという図式が見出される。一方、伊藤の議論には、「単純な線画」で描かれたキャラクターが、だからこそ「実在感」を持つという図式が見出せる。前者において「矛盾」ととらえられた問題が、後者においては論理の「根拠」として捉え直されているのである。

 ここで、最後の引用文で「プロとキャラクター性」と呼ばれていたものについて確認しておこう。これは、伊藤が打ち出した「キャラ」と「キャラクター」の概念を区分する議論において、「キャラ」の側に対応する概念である。大塚の「記号的身体」に近い概念としても説明され、その定義は次のようになされる。

 

 多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 この「キャラ」と対比される「キャラクター」の方は、次のように定義される。

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

伊藤によれば、マンガのキャラクターは、簡単な線画を基本とする「キャラ」(記号的身体)の持つ実在感にこそ支えられている。しかし、それを基盤としながらも、「キャラ」が本来記号的なものでしかなかったことを隠蔽し、あたかも「身体」の表象であるかのように見せかけることで「キャラクター」が成立する。

 この「キャラクター」の成立こそ、手塚治虫が『地底国の怪人』によって成し遂げた事態であり、伊藤はそれを「マンガのモダン」の成立と捉える。その議論の骨子を、ここまでの本書の文脈からまとめればこうなる――記号的な「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「(人格を持った)身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることによって、近代マンガはリアリズムを獲得した。(pp.192-193)

(宮本註)『テヅカ・イズ・デッド』における「リアリティ」の二つの水準の区分

「もっともらしさ」:「作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせる」(p.85)

「現前性」:「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させる」(p.85)

一般に「リアリティ」という言葉は「もっともらしさ」の意味で使われ、「現前性」は、普通、意識されない。

 何であれ「表現」が作中世界を受け手の前に現前させるということは、受け手がじゅうぶんに作中世界に「没入」していることを意味する。そのために、さまざまな工夫がなされ、表現上の技術は蓄積される。受け手が作中世界に没入している以上、普通はその「没入」をもたらす装置のことは意識されない。たとえば、普通の観客が映画を見てもそのカットのつなぎには気がつかないといったことは、その好例だろう。(伊藤2005,85)

「キャラ」の「現前性」(=「存在感」「生命感」):「簡単な線画を基本とする図像によって表現されるものであること」によってもたらされる。

ササキバラ・ゴウの議論

 アニメーションの「登場人物」が人間というリアリティを棚上げして、キャラクターとなって疾走していくとき、おそらく現在われわれが日常的に慣れ親しんでいるような意味での「キャラクター」が、そこに生じていったように思われる。物語の重力圏にとらわれ、その中で役割を果たすための奥行きと重さを持った「登場人物」から、浮遊する空っぽの「キャラクター」へ。そのテイクオフには、おそらくこの時代のアニメーションが大きく関わっている。……「物語」や「現実」の重力を、「動き」という魅力によって断ち切り、単に絵でしかないものとして記号の世界へ浮遊していくこと。

 単に絵でしかない、という事態は、絵が単に絵である以上に何ら奥行きを持たない、ということだ。紙の上のインクのしみや、黒板の上の白墨のように、奥行きを欠いた、まったく表面的なもの。

ここでササキバラが「キャラクター」と呼んでいるものは、伊藤の区分では「キャラ」に相当する。マンガやアニメーションに描かれる「キャラ」とは、そもそも「紙の上のインクのしみ」でしかないものである――この根本的な事実こそが、その実在感を支えている。

 とすれば、そのような「キャラ」のリアリティを隠蔽した「マンガのモダン」において、「キャラがコマ枠を突き破る」ような自己言及的な身振りが抑圧されねばならなかったのは当然である。そのような表現は、枠線もその中に描かれたキャラも等価な存在であって、ともに「インクのしみ」でしかないことを露わにしてしまうだろう。

 したがって、「映画的リアリズム」が要請される一方で「フレームの不確定性」が抑圧されたという伊藤の議論は、実のところ「コマ」や「紙面」そのものを問題にしていたわけではない。そこで問題になっていた対立は、むしろ「仮想的なカメラ」と「インクのしみ」との間に見出されるべきものなのである。つまり、フレームの中に描かれた光景が、単なる「紙の上のしみ」などではなく、「仮想的なカメラ」によってとらえられた空間であると見なさせること――それこそが要請されていたのである。

 こうして我々は、「映画的」という言葉の用いられ方を検討することで、大塚や伊藤の議論が本来「キャラクター」の問題には要約しきれないものであること、むしろ「空間」の表象に関わるものであるという理解に辿り着くだろう。(pp.202-203)

『プレーン・クレイジー』から『白雪姫』までの間に、アニメーション史は少なくとも三つの大きな技術革新体験している。そして、そのいずれもが、現実と同質の「空間」を表象=再現するというリアリズムに寄与しうるものであった。

 第一は「音響」である。ディズニー初のトーキーは、ミッキーマウスを主人公とした短編作品『蒸気船ウィリー』(1928)だが、そこにはたとえば、「まだ姿を見せていない蒸気船の汽笛が聞こえ、それから船が画面に入ってくる」といった場面が見られる。こうした例では、音響の働きによって、目下フレームに捉えられている光景がそれ自体で完結したタブローではないこと、画面外にも同質の空間が広がっていることが強調される。

 第二は「色彩」である。ディズニー作品における色彩は、1932年の『花と木』で初めて登場するが、同時代的にディズニーのアニメーションを体験した今村太平は、その重要性を次のように強調する。

 

 今後の漫画映画から、色を取り去ることはできない。それは映像が光の運動だからであり、光の運動は色だからである。このことはアニメ―ティングによってもまた不可避的である。写真による運動の分析は、単純な線への還元を困難にする。なぜなら運動する形は色と光だからである。事物の運動、それは色の運動である。極彩色漫画の快感は、その根底に、かかる客観的現実の、より完全な再現があることに基づいている。

こうした言説からも、アニメーションが「現実」の「再現」=表象を目指してリアリズムを獲得したと見なされてきたことが確認できる。

 第三は「マルチプレーン・カメラ」である。この技術は、背景を複数の層に分割し、それぞれを独立に動かすことで、現実的な「奥行き」感を実現した。J・P・テロッテは、ディズニーの技術的な発展が目指していた一つの方向性として「現実の幻影を作り出すこと」を挙げているが、その観点から見たとき、「「現実の幻影」を高める技術革新、分けても最も歓待された装置は文句なく、初期のアニメーション史における開発の系譜に足跡を残すマルチプレーン・カメラだろう」と語られることになる。

 音響、色彩、マルチプレーン・カメラ、これらに見られる技術的発展は、以上のように、アニメーションが現実の空間を表象=再現することに貢献してきたと言える。そしてこの流れは、一九九〇年代以降、アメリカ長編アニメーションを牽引することとなる3DCGアニメーションへと着実に受け継がれている。(pp.204-205)

 

 だが、現実と同質の空間を模すという方向性は、決して歓迎されるばかりではなかった。「インクのしみ」でしかないからこそ今日につながる「キャラクター」は文化を生み出しえたアニメーションが、現実の空間を再現しようとし始めたとき、そこに起こった転回は、ときとして批判的に受け止められたのである。

 たとえば、『ダンボ』(1941)に対するジークフリート・クラカウアーの次の表は極めて興味深い。

 ディズニーの最初のミッキーマウスのカートゥーンである『プレーン・クレイジー』(1928)では、漫画家のペンの力のみによって、小さな自動車が飛行機に変形され、操縦室のミッキーを飛行させる。『ダンボ』でも同様の奇跡が起こり、象の赤ん坊が突然耳を広げ、ペガサス爆撃機のように宙を滑空する。しかし、ここでの奇跡は、この映画がカートゥーンだからという事実に単に由来するのではなく、ダンボの友人である小さなネズミが、横柄な鳥たちから手に入れた「魔法の羽」の心理的な効果に依っているのである。この些細な相違は、ディズニー映画の構造上の変化を露わにしている。

 クラカウアーがかくも重視する「変化」は、大塚的な枠組みの中では理解できないものである。『ダンボ』の中で大事故にあった象たちは、「包帯姿になる」という申し訳程度の描写で「傷つく身体」を回避され、また「赤ん坊がコウノトリによって運ばれて来る」という映画冒頭のシークエンスは、露骨に思えるほどはっきりと「性的な身体」を排除している。ここでの「変化」は、「インクのしみ」であるがゆえに自由に飛ぶことのできるミッキーマウスの引こうと、本来なら飛ぶことなどできようはずもない物理的な「空間」に生きているダンボの飛行との間に見出されるのである。(pp.207-208)

 土居伸彰は、ライアン・ラーキンを論じた文章の中で、このクラカウアーの議論のほか、セルゲイ・エイゼンシュテインら初期の映画作家ないし映画理論家たちが、初期アニメーションの持っていた「原形質性」「可塑性」を称賛していたことを紹介している。それは、アニメーションが本来「インクのしみ」でしかないからこそ実現できたメタモルフォーゼの魅力、描線の多義性が孕む豊かさの魅力であった。

 そして、そのような観点からアニメーションの力を称賛していた論者たちにとっては、アニメーションが現実と同様の物理的空間を表象することを目指すなど、何ら望ましい事態ではなかった。(p.208)

 しかし、このような多義性の世界に変わって表に出てきたのは、大塚や伊藤が「映画的」と呼んで示そうとした種類のリアリズムである。クラカウアーは、「ディズニーがここで実写映画の技術を模倣しようとしていることは疑いない」と断じる。また別の角度から述べれば、それはササキバラが「物語を描くために必要なリアリズム」と呼んでいたものでもある。クラカウアーの言葉では、「リアルなスタイルへの変化は、ストーリーを要求する長篇のカートゥーンによって助長された」となり、ここでもまた見事に呼応している。(p.208)

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2018-03-27

卒業式でした 12:08 卒業式でしたを含むブックマーク

 昨日は明治大学の卒業式でした。

 大学院国際日本学研究科、国際日本学部、それぞれの学位記授与式があり、自分の指導学生としては院生1名、学部生7名を送り出すことができました。

 院生は優秀だったので指導教員としては楽させてもらいました。就職してからも何らかの形で書くことは続けたいとのことだったのでがんばってほしいです。

 学部のゼミ7期生は、12人でスタートしたんですが、3人が4年の夏休みに離脱、1人(留学生)が兵役で休学(春から8期生に合流)、1人が今年の冬休みに離脱で、昨日一緒に卒業を祝えたのは7名でした。

 7期生は2年生の時の教養講座からの延長で来た学生が多く、その時の教養講座は全体に非常にノリがよかったので、ついに「奇数学年はおとなしめ、偶数学年はテンション高め」の法則が覆されるかと思ったんですが、やっぱりおとなしめの学年になってしまいました…。なんでなのかなー。この法則の前になすすべもない自分の指導力不足をもはやどうしたらいいのか…。

 振り返ってみるに、結局、一人一人へのケアが足りないっていうことなんですよね。あとから考えると離脱しそうになる兆候を見つけることはできたはずなんですよね。そこですぐに声をかける・相談に乗る、ということをできていれば、と思うんですが…。ゼミを途中離脱しちゃう学生って、基本的に人に頼るのが苦手で、相手に迷惑かけちゃいけないって思って自分だけで抱え込むタイプの子が多くて、結果、いきなり「やめます」って言ってくるっていう…。そういう学生に「思いつめる前に相談して」って言うだけではダメだってことがいい加減わかってきたので、なにか仕組みを考えないとなと思います。

 そんな中、最後まで走り切ってくれた7名にはほんとに感謝です。書き上げられた論文のレベルは全体的に高くて、こちらも勉強になることが多かったです。今年も卒論集を本にしてますのでいずれみなさんにお求めていただけるようにします。

 一人一人の個性もみんな素敵でした。ゼミブログの最後のシリーズ「卒業にあたって」、ぜひ読んでみてください。


http://miyamoto7.blog.fc2.com/

 

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(兵役から戻ったばかりの留学生と、途中離脱したけどせっかくだから一緒に写真撮ろうよってなった学生1名合わせて9名になってます)


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 お祝いに来てくれた8期生もいっしょに。このお面は7期生が教養講座の時に作ってくれたやつを卒業式用に再生産してきてくれたものです。愉快なゼミですよね(笑)。

 ということで、いろいろあって、教師としてはほんとに申し訳ないことが多かったですが、卒業されたみなさんにはぜひこの2年間の経験を力にして、なるべく楽しい人生を歩んでいってほしいと思います!おめでとうございました!

【追記】

 卒業生から記念品に写真タテと、あとこんな素敵なものをもらったんでした。

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 我が家の猫、ぴっちの顔写真を使ったぴっちのハイチュウ次男三男大喜びでした。

 

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2018-03-25

自転車みがきからのポケモンGOコミュニティデイ 22:15 自転車みがきからのポケモンGOコミュニティデイを含むブックマーク

 今日は午前中、自分用の新しい自転車を買った次男から三男に譲られた自転車を洗ってさびを落とす作業を次男三男と一緒にお庭でやって、午後は3回目のポケモンGOコミュニティデイ(12時〜15時)。

 今回は井の頭公園に行って今日の大量発生ポケモン・フシギダネを乱獲。個体値もCPも高い子を3体進化させて、今日のこの時間だけおぼえるハードプラントをおぼえたフシギバナを作り、色違いも3体捕まえられたので一番CP高い子を進化させられたので、コミュニティデイの趣旨的には満足。ほんとはルギアのレイドもやりたかったんですが、それはタイミングが合わず、できなかったのが残念でしたが、まあ、よかったかと。

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 二人とも結構ノリノリでみがきました。

 奥の方にぴっちが丸まってます。

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