◇第4回 比較文学研究会 プログラム

2014年12月20日公開

〈プログラム〉
総合司会 森岡卓司
【開会の辞】(10:30)  
東北支部長 伊藤豊
【研究発表】(10:35―12:05、13:00―14:30)
〈研究発表1〉
ミレナ・イェセンスカーの西洋諸国観 ―1920年代に書かれたモード記事を通して―
半田幸子(東北大学大学院博士後期課程)
司会 井川重乃
〈研究発表2〉
太宰治チェーホフ受容 ―「火の鳥」を例として―
唐 雪(北海道大学大学院博士後期課程)
司会 高橋秀太郎
◇昼食休憩(12:05―13:00)◇
〈研究発表3〉
恐怖の詩学田村隆一とW.H.オーデンの比較研究
陳セン(北海道大学大学院博士後期課程)
司会 木戸浦豊和
〈研究発表4〉
詩の生成 ―ポーリーヌ・メアリ・ターン「コブレンツの思い出」をめぐって―
中島淑恵(富山大学
司会 飛ケ谷美穂子

【ワークショップ】(14:45―17:30)
テーマ《笑い》
〈ナビゲーション&パネリスト紹介〉 
コーディネーター・司会 森田直子東北大学
〈報告1〉
笑う身体の誕生 ―パラッツェスキ初期詩作品読解―   
石田聖子(東京外国語大学リサーチフェロー)
〈報告2〉
虚無的な「笑い」:愛と憎しみの双面神
村田裕和(北海道教育大学旭川校
〈報告3〉
徳川夢声の「軟尖」 ―1930年代ユーモア小説の一側面―
成田雄太(東北大学非常勤)
〈総合討論〉

【閉会の辞】(17:30)  
北海道支部長 種田和加子   
(閉会17:35)

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【発表要旨】

〈研究発表1〉
ミレナ・イェセンスカーの西洋諸国観 ―1920年代に書かれたモード記事を通して―
半田幸子(東北大学大学院博士後期課程)
 本発表の目的は、戦間期チェコで活躍したジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカー(Milena Jesenská, 1896-1944、以下ミレナと呼ぶ 。)の1920年代のモード記事にみられる彼女の西洋諸国観、なかでも特にイギリス観、フランス観およびドイツ語圏観を中心に探ることである。
 ミレナの名は、今日では、20世紀を代表するプラハのドイツ語作家フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)の情熱的な書簡の名宛人、または「恋人」として知られているが、当時のチェコにおいて彼女はカフカよりも有名な存在であった。彼女は、戦間期を通して新聞や雑誌に1000以上の記事を残しており、モード記者、翻訳家、編集者、ジャーナリストとして大変活躍していたのである。しかし残念なことに、政治や言語が障壁となり、彼女についての研究といえばもっぱら伝記で、著作についての研究はほぼ見当たらない。唯一といえる著作分析は、英語圏で刊行された記事選集『ミレナ・イェセンスカーのジャーナリズム 』の序章(pp.1-41)のみである。
 さて、ヘイズの前掲書では、ミレナの記事は「ファッション、インテリアデザイン、社会問題について」(p. 2)だと述べられているが、発表者がみたところ、社会問題だけではなく、女性としての作法、生き方などライフスタイルと称せるテーマに及ぶことも多くある。いずれにしても、モード記事といってもテーマはモードに留まることはなかった。そのような彼女の記事にはまた、イギリスやフランスが登場することが非常に多い。一方で、ドイツ語圏が挙げられることは少なかった。
 本発表では、1918年にハプスブルク帝国からの独立を果たしたチェコスロヴァキアという文脈で捉え、チェコの政治的な立場も考慮に入れながらミレナの記事を分析する。そして、最終的な目標として、ミレナの西洋諸国観を明らかにすることによって、彼女自身の考えを明確化するだけではなく、チェコにおけるミレナの位置づけを探りたい。また、チェコの政治的な立場と文化的な視点の方向性が一致するのか否かにも注目したい。

〈研究発表2〉
太宰治チェーホフ受容 ―「火の鳥」を例として―
唐 雪(北海道大学大学院博士後期課程)
 太宰治におけるチェーホフ受容はこれまで主に『斜陽』と『桜の園』の関連性を中心に論じられてきた。未完の長編小説「火の鳥」(『愛と美について』1939・4、竹村書房)について、柳富子は女優・高野幸代には「多分にニーナを想起させるものがある」とし、「劇作家と同棲する点もニーナとトリゴーリンの関係が下敷きにされた推定され」る(『斜陽』について―太宰治チェーホフ受容を中心に」、『早大比較文学年誌』第五号1969・3)とチェーホフの四幕の喜劇『かもめ』(1896)の影響を指摘している。
 また、「火の鳥」を「戯曲的言説に仕立てた」(「『火の鳥』―<人の役に立ちたい>女優―」、『国文学解釈と鑑賞』72、2007・11)という木村小夜の指摘は示唆的である。この意味で、『かもめ』のニーナがトレープレフの創作した劇を演じると同様、「火の鳥」も高野幸代を主役に据える『三人姉妹』(1900)が上演される、つまり一種のメタ演劇ともいうべき性質を備えているといえる。さらに、ヴェルシーニンの登場に辟易し、「まるで三木朝太郎そつくり」という善光寺助七の発言から、『三人姉妹』と本作の浅からぬ関係が窺い知れる。
 しかし、一見したところ、「作家はロマンスを書くべきだ」(「一日の労苦」、1938・3)と主張する太宰とリアリズム演劇を確立した先駆者であるチェーホフとは作家としての資質が相当異なり、その間に容易に超えられない懸隔があるはずだ。にもかかわらず、太宰が生涯にわたってチェーホフにことのほか心酔したのはなぜなのか。ここでは、「火の鳥」に見る『かもめ』と『三人姉妹』の受容を考察することによって、太宰とチェーホフの根本的近似性と決定的差異をつきつめてみる端緒としたい。

〈研究発表3〉
恐怖の詩学田村隆一とW.H.オーデンの比較研究
陳セン(北海道大学大学院博士後期課程)
 第二次世界大戦後成立した『荒地』派グループは英米詩人、特に、T・S・エリオットからの影響が定説のように語られてきた。しかしながら、人間の本質的な不安、ないし恐怖に深い関心をもっていたW.H.オーデンが『荒地』派に及ぼした深い影響も見逃せない。本発表では『荒地』の詩作を代表する詩人田村隆一とオーデンを比較して論じる。
 1973年、青土社により出版された田村の詩集『新年の手紙』は、オーデンの1700行を越す長詩と同じ題名を持ち、田村がオーデン60歳の写真から感銘を受けて創作した作品「ある詩人の肖像」も収録されている。また、田村の詩と批評においても、オーデンの詩と詩論は数多く論じられている。田村はオーデンについて「『危機』と『恐怖』の専門家」(散文「ぼくの苦しみは単純なものだ」)であり、「恐怖と不安と人間の崩壊を観察してきた」「鷲の眼」(詩「ある詩人の肖像」)を持っている詩人、と述べている。これらを手掛かりに、田村の詩と散文を取り上げて検討し田村がオーデンから受けた影響を明らかにしたい。
 田村の詩の最大の魅力は「たいへん強い感情のアクセントをともなった恐怖と戦慄のヴィジョンにあり、知性と感性の均衡から生まれる詩句の見事さ」(鮎川信夫「恐怖への旅」)と評されている。オーデンと田村の戦争(戦前・戦後も含めて)体験から生まれた「恐怖」の表象、主題、隠喩、思想性などが彼らの「恐怖の詩学」になったと考えている。そして田村の戦後十年間の作品を集めた詩集『四千の日と夜』と、オーデンの30年代の詩作品と対比することによって、彼らの「恐怖の詩学」にはどのような共通点と相違点があるのかと言う問題を検討する。

〈研究発表4〉
詩の生成 ―ポーリーヌ・メアリ・ターン「コブレンツの思い出」をめぐって―
中島淑恵(富山大学
 フランス国立図書館には、ポーリーヌ・メアリ・ターン(ルネ・ヴィヴィアンの本名)の少女時代の手稿が複数残されている。そのうち、16歳のターンが創作ノートとして書き始めた手帳には、コブレンツを旅した印象が散文で綴られている。ターンが訪れた1893年当時には、普仏戦争の犠牲となったフランス軍兵士の墓が、コブレンツの演習場の片隅にうち棄てられたようになっていたようである。そのようなドイツの仕打ちに義憤を感じた少女ターンは、ドイツへの敵意とフランスへの愛国心にあふれた文章を綴っている。このときの印象は、詩人となることを決意した少女ターンにとって相当鮮烈なものだったようで、このあと、当時師と仰いで詩作の助言も受けていたらしいアメデ・ムレに宛てた書簡の中でも、このときの印象を韻文で綴ることを何度か試みている。
 本発表では、散文で書かれた最初のエッセイと韻文で書かれた書簡の中の詩とを比較対照させることによって、少女時代のヴィヴィアンが、あるテーマをどのように詩と成して行ったかについて、その軌跡を探ろうとするものである。また、韻文で書かれたものは複数のバージョンが残っており、おそらくはアメデ・ムレの助言を受けて、少女詩人が韻文を彫琢して行った軌跡をもたどることができるものと思われる。
 また、「敵愾心」や「愛国心」といったテーマは、詩のテーマとしては凡庸であり、後年のヴィヴィアンの作品の中に、直接的な形では反映されてはいないが、「墓」や「死」といった形象はヴィヴィアンの作品の中で重要なテーマ系をなしており、その死生観とでもいうべきものに何らかの影響を与えているのではないかと推測される。本発表では、形式的な詩の彫琢以外に、これらのテーマ系がその後のヴィヴィアンの作品の中でどのように反映されているか、あるいは変容を被っているかについても検討を加え、ヴィヴィアンの詩作のあり方を検討する機会にしたいと考えている。

【ワークショップ】
テーマ《笑い》

《企画の趣旨》
コーディネーター・司会 森田直子東北大学
 洋の東西を問わず、笑いや滑稽、風刺を意図した文学ジャンルは古来 一定の存在感を持ってきた。受容者の笑いであれ、作中世界あるいは語り手の笑いであれ、笑う人とその周囲にもたらされる力(現実を いったん超えたあとで現実に戻ってくる力)が、文学テクストという回路を通して表現されてきたことに目を向けたい。このたび、「笑 い」に関するワークショップの呼びかけに対してアイデアを寄せていただいた三名のパネリストは、いずれも20世紀の社会情勢、映像文化などを背景とした新しい 身体観のもとでの「笑い」に注目している。それは一方で、笑いを通した文学的表象(芸術運動と結びついた新時代の身体表象、あるいは 極限的心理の表現)の可能性を示しており、また一方では、新しいタイプの大衆読者を束ねる力ともなることを示している。フロアでの議 論を通して、「笑い」の文学的表現についてさらに多様な視野が開かれることを期待したい。

《ワークショップ報告要旨》

〈報告1〉
笑う身体の誕生 ―パラッツェスキ初期詩作品読解―    
石田聖子(東京外国語大学リサーチフェロー)      
 本発表は、20世紀初頭イタリアで浮上した笑い認識を、身体をめぐる文学表象との関連に着目しつつ考察するものである。分析の主な対象とするテクストは、アルド・パラッツェスキ(Aldo Palazzeschi, 1885-1974)の初期詩集『白馬』(1905年)、『ランタン』(1907年)、『詩集』(1909年)である。
 1881年、高い身体能力を備える操り人形ピノッキオの誕生は、新たな身体性の萌芽を予告した。実際に、20世紀初頭にアバンギャルドが台頭すると、異質な身体をめぐる表象が次々に現われた。たとえば、同時期に世界で広く人気を博したイタリア初期喜劇映画は、映画技術を最大限に駆使することで“四肢がバラバラになってもなお動く身体”など斬新な表象を次々に生み出し、他方、綜合芸術運動未来派は新しい時代に適したダイナミックな身体性の発露を声高に訴えた。そうしたなか、新たな時代に相応しい身体として“笑う”身体を構想し、その文学における表象を追求した作家がパラッツェスキだった。後に未来派の首唱者マリネッティに見出されて同派に加入し、笑いを称揚する未来派宣言「反苦悩」(1914年)を執筆することになるパラッツェスキは、未来派と出会う前、すでに笑いと身体をめぐる思索を開始していた。その思索がたどった経緯は、パラッツェスキが1905年から1909年のあいだに創作し、構想された順に詩を厳密に並べて自費出版した三冊の詩集に克明に記録されている。パラッツェスキのもっとも初期の詩において身体は不在である。詩の空間を満たすのは身体の存在を噂する声だ。その後、徐々に見出されてゆく身体は、“笑い”を主な特徴とするものとして描かれる。ここで“笑い”は、新しい時代が要請する生の条件、すなわち生に対する能動的な態度の表明として選びとられる。発表では、パラッツェスキの初期詩に主な例をとり、“笑う身体”が生まれるまでの経緯を明らかにしたい。

〈報告2〉
虚無的な「笑い」:愛と憎しみの双面神
村田裕和(北海道教育大学旭川校
 アナキズム詩人萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』(1925年)の中の代表作「日比谷」では、一人の男が「虚無な笑ひ」を浮かべながら高層ビルの谷間を「永劫の埋没」へと進んでいく。同詩集の別の詩「地震の日に」では、虐殺を思わせるような首や胴が「ころがつて笑つてゐる」。また、萩原恭次郎とともに詩雑誌『赤と黒』の仲間であった岡本潤は、戦後、『笑う死者』(1967年)と名づけられた詩集を刊行していた。「虚無」や「死」は、なぜ「笑い」という相貌によって表象されるのか。アナキズム詩人たちにとって「笑い」とは何だったのだろうか。
 翻って思い起こせば、大逆事件以来、「無政府主義者」たちの不敵な笑みこそが、世人の恐怖と憎悪を引き寄せ、大衆の処罰感情を正当化してきたのではなかっただろうか。「笑い」は、「虚無」や「死」と近接し、一方では/だからこそ、人間の怒りや憎しみを解き放つ契機となるのかもしれない。
 戦時下、岡本潤とともに雑誌『文化組織』を刊行していた花田清輝は、「我々の笑は、〔中略〕双面のヤヌスのように、愛と憎しみの二つの顔を持つ」(「笑う男」1947年)と説いていた。花田にとっての「笑い」(アリストファネス的笑い)は、秩序の破壊(ラブレー的な笑い)ではなく、秩序の再構成であり、感情のブレーキである。差異を含みながらも、こうした「笑い」は、安部公房のいう「恐怖の極限のイメージ」としての「笑う月」(1975年)にまでつながっているのかもしれない。
 本発表では、アナキストたちの「笑い」を起点として、「虚無」「憎悪」「恐怖」など、一見「笑い」と対立的に捉えられるものとの衝突・同居から「笑い」の効能を考え直してみたい。

〈報告3〉
徳川夢声の「軟尖」 ―1930年代ユーモア小説の一側面―
成田雄太(東北大学非常勤)
 1930年代の日本においてユーモア小説は、『ユーモアクラブ』などの雑誌の創刊(春陽堂、1937年)、『現代ユーモア小説全集』(アトリエ社、1935-36年)のような全集本の刊行、「ユーモア作家倶楽部」(1936年)の結成など、一つの流行となっていた。佐々木邦獅子文六を中心としたこのブームは、当時の出版界の状況や時局、他メディアからの影響など、非常に複雑な事情を反映したものと言えるだろう。
 当時映画説明者・漫談家として既にその名を広く知られていた徳川夢声はこの時代に多くのユーモア小説を発表しており、流行を担う主要な作家の一人であった。夢声の小説は「当代ナンセンス文学の第一人者[…]あらゆる「笑」ひを満載して踊り出た」と広告されていたことが端的に示すように「ナンセンス」な「笑い」の文学としての認知を得ており、夢声本人も「軟尖」と当て字をすることによって、自らの作品をそのように位置付けていた。
 しかしながら、映画説明者・漫談家など、話芸の名手としての側面が優先的に語られることによって、「ナンセンス」とされる夢声のユーモア小説の内実が検討される機会はこれまでに非常に少なかったと言える。本発表は、1930年代の日本におけるユーモア小説の流行がどのような文脈を持っていたかを整理した上で、流行の中心的な担い手であった夢声の小説の具体的な影響源・作品的背景の考察を行うものである。それによって明らかにしたいことは、1930年代のユーモア小説における「笑い」、中でも「ナンセンス」ものと言われる型の「笑い」がどのような特徴を持っていたのかということと、それがどのような系譜に位置付けられるのかということである。
 夢声が小説を書くにあたって重要な役割を果たしたのは、彼の最も親しい友人の一人東健而であった。東は海外のナンセンス小説をいち早く日本に紹介しており、そのような作品が夢声の小説に影響を与えていると考えられる。また、漫談や映画説明といった他メディアからの影響も指摘し、この時代におけるメディア間の相互的な影響関係についても言及する。