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2016-06-21 加熱する朝日と沈黙する読売

[]「客観報道できないマスメディア」を20日付け紙面で徹底検証〜加熱する朝日と沈黙する読売 12:05



 今、この国のマスメディアにおいて、ある種の事案に対してひときわ顕著な報道傾向が見られます。

 今回は当ブログとして、この興味深い報道傾向について、メディアリテラシー論的に読者と共に考えてみたいと思います。

 ・・・

 そもそも『報道』とは何か。

 報道とは、出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論活動のひとつであります。

 報道を行う主体を報道機関、報道の媒体をメディアと呼び、中でも影響力が無視できない大規模なメディアをマスメディアと呼んでいます。

 そしてメディアが伝達する「報道」を受ける側が、オーディエンス(一般大衆・読者・聴視者)すなわち我々市民であります。

 そもそもメディアが報じる「報道」は、客観的という意味で本質的な限界性を有していることは重要です。

 あるメディアが伝える「報道(記事)」は、事実そのものでは決してなく「(事実を元に構成され、コード化された表現」(representation)ということだといえます。

 新聞記事であれ、TVニュースの原稿であれ、そこでは事実に基づき、メディア側が事実の側面を、与えられた制限(例えば字数制限やTVなどの時間制限)内で、事実を記号化(言語化)しかつ整理し「加工」を施し、オーディエンスに伝えることになります。

 つまり「記事」は現実を反映しているのではなく、メディアの手によって、現実を「再構成」し、提示しているわけです。

 現実を「再構成」する作業の過程において、誤謬性が必ず発生します。その出来事に対し、意図的でないにせよ、選択した事実だけ提供すること、記事の中で用いる言語の定義(しばしば曖昧であったりする)、事実の説明に、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)、もちろんそれに事実そのものを誤報したりする可能性もあるわけです。

 従って、ある「事実」の「報道(記事)」を伝えられた、我々オーディエンスは、その記事の内容を疑うことなく「事実」と無防備に受け入れてしまうのではなく、メディアをリテラシーする、メディアの報道内容を、できうる限り社会的文脈でクリティカルに分析し評価する能力が求められるのです。

 我々はメディア報道を鵜呑みにせず、メディア・リテラシー(能力)を身に付ける必要があるわけです。

 ・・・

 今日、日本では、ある種の「事実」報道について、残念ながら、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)報道が顕著なのであります。

 

 「報道価値」("news value")という言葉があります。

 どの事案が報道価値を有するのか、限られた紙面の中で、あるいは限られた時間の中で、どの記事を報道するのか、報道する価値を見出すのか、これはまさにメディアの自主判断に委ねられています。

 これがある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的機微に触れた場合、えてしてメディアはその事案に過剰に事実以上に「報道価値」を過大に与えてしまいがちです。

 ときに過剰報道を繰り返し、いさんでメディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)ことで「客観報道」を結果的に放棄してしまいます。

 もちろん、逆の危険もありえます、

 やはりある種の、つまりそのメディアの編集方針や考え方など政治的イデオロギー的主張に都合の悪い事実に触れた場合、えてしてメディアはその事案に対して過小な「報道価値」しか与えません、本来客観報道に値する国民的事案に対しても、消極的な報道にとどめるか、最悪の場合、あえて報道をしません、意図的に報道価値をゼロと見なしてしまうわけです。

 これらの危険性について、無論メディアも無自覚なわけではありません。

 「朝日新聞」「読売新聞」のそれぞれの「綱領」「信条」を確認しておきましょう。

f:id:kibashiri:20160621045310p:image

http://www.asahi.com/shimbun/company/platform/

f:id:kibashiri:20160621045000p:image

https://info.yomiuri.co.jp/group/stance/index.html

 「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き」(朝日要領)、「真実を公正敏速に報道」(朝日要領)、または「真実を追求する公正な報道、勇気と責任ある言論により、読者の信頼にこたえる」(読売信条)と、それぞれ謳ってはいます。

 ・・・

 さて、上記の「不偏不党の地に立つ報道」「真実を追求する公正な報道」が、この国のマスメディアにおいて、如何にその実現が至難なことなのか、「朝日新聞」と「読売新聞」の6月20日付けの紙面で検証いたしましょう。

 まず朝日新聞紙面(東京本社14版)を確認しましょう。

 まず一面トップ記事に、沖縄県民大会で「海兵隊撤退求め決議」されたことを大々的に報じています。

■20日付け朝日新聞紙面1面トップ記事

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※記事見出し部の赤囲いは当ブログで付記(以下の記事同様)

 続く2面では、「沖縄 あふれる抗議」と題して、6万五千人(主催者発表)の参加者をもって「参加者予想超す」とし、また参加した翁長知事の「負けてはいけない」発言を取り上げ、一方、自民党政権は「基地反対の波 政権警戒」とこの動きが波及することを恐れていることを詳細に報じています。

■20日付け朝日新聞紙面2面記事

f:id:kibashiri:20160621051503p:image

 さらに社説では「怒りと抗議に向き合え」と県民大会に対する安倍政権の消極姿勢を批判しています。

■20日付け朝日新聞紙面社説

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 そして最終紙面、社会面では、「沖縄 涙 怒り」と題して、「本土のみなさんも第二の加害者」「変わるんだと思ったが」と参加者の沖縄県民の声をひろい、あわせて国会前でも約一万人(主催者発表)の集会があったことを報じています。

■20日付け朝日新聞紙面社会面記事

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 一面トップから、社説、社会面まで、4本の大型記事でほぼ紙面を埋めた朝日新聞の本事案に対する熱き「想い」が伝わってくるような紙面構成であります。

 ただ、朝日がこの事案に過剰に事実以上に「報道価値」を過大に与えてしまっている印象はぬぐえません。

 また「沖縄 あふれる抗議」(2面)、「怒りと抗議に向き合え」(社説)、「沖縄 涙 怒り」(社会面)と、朝日の主張を掲げるべき「社説」と、それ以外の客観事実報道すべき「記事」との表現の区別がみられません、つまり、メディア自身の(時に記者個人の)判断を刷り込む(事実と自己意見の混合)報道が顕著なのです。

 さらに、抗議する側の主張・感情におもねるばかり、政府側の主張は一点も触れられていないのです。

 ・・・

 さて同じ日20日付けの読売新聞紙面(東京本社版)です。

 今私の手元に20日付け読売新聞(東京本社版)がありますが、何度か繰り返し精読しましたが、読売紙面には、1面から社会面まで、沖縄県民大会の記事が関連記事も含めて一件も報じられていません。

 皆無なのです。

 一遍の「事実報道」すら存在しません、この事案にはオーディエンスに伝えるような報道価値は全く無いと言わんばかりです。

 まとめます。

 2015年11月度のABC部数によれば、読売新聞の発行部数936万部、朝日新聞は663万部であります。

 日本で発行部数1位の新聞と第2位の新聞のこの極端な「偏向ぶり」はいかがでしょうか。

 報道価値をゼロとみなし完全に沈黙する読売と報道価値以上に加熱報道する朝日と、二大新聞のこの報道の姿勢の差はいかがでしょうか。

 仮にですが、情報の取得手段が新聞しかなく(そのような市民は少ないでしょうが)その新聞が朝日新聞だけであった場合、今沖縄では大変なことが起こっている、沖縄県民の怒りはものすごい、なのに政府は何で向き合わないのか、と朝日の報道からそのような疑問を持つ読者がいても当然でありましょう。

 あるいは情報取得手段が読売新聞だけであった場合、そんな県民大会があったこと自体読者は知る由もないわけです。

 本エントリーは特定のメディアを批判する意図はありません。

 そうではなくて、繰り返しになりますが、そもそもメディアが報じる「報道」は、客観的という意味で本質的な限界性を有していることを、我々読者は改めて認識すべきなのでしょう。

 本件は、読者側がマスメディア報道を冷静に比較検証することで、報道内容(報道しない内容)を冷静に評価・リテラシーすることが可能である好事例だと考えます。



(木走まさみず)

このごろ特にこのごろ特に 2016/06/21 18:12 「報道しない自由」と「視野狭窄な報道する自由」を、
マスコミはしっかり行使していますな。
ネットを知った人たちは欺かれないとは思いますがね。

novonovo 2016/06/23 00:35 朝日1面の写真の異様さについても報道されないですね。
全員が1種類のカードを同じように掲げ持つ=組織された集団である ということです。
(外国に見られる自然発生的デモでは、各自が手書き手づくりで、カードを掲げています)

この人達はどこでカードを受取ってどんな指示で掲げているのか、どこへ帰るのか、という私の知りたいことは誰も報道してくれないです・・・・

2016-06-14 都議会は疑惑解明の道を閉ざしてはならない!!

[]都議会は疑惑解明の道を閉ざしてはならない!! 16:36



 14日付け毎日新聞電子版速報記事から。

舛添氏公私混同

自民、不信任案提出へ

毎日新聞2016年6月14日 15時34分(最終更新 6月14日 15時43分)

 東京都の舛添要一知事の政治資金支出などを巡る公私混同問題で、都議会最大与党の自民党は14日午後、舛添氏に対する不信任案を議会運営委員会に提出することを決めた。与党の公明も同日、不信任案を提出し、既に提出していた野党6会派と一本化して15日の本会議で審議する。

 不信任案が可決されると、舛添氏は10日以内に議会を解散するか辞職を選択することになる。そうでなければ失職する。

http://mainichi.jp/articles/20160614/k00/00e/040/236000c

 うむ、都議会会派の中で唯一「舛添氏に対する不信任案提出」に対する態度を決めかねていた、最大会派である都議会自民党が、不信任案提出を決定、これにより野党6会派と一本化し都議会全会派による不信任案を15日の本会議で審議することが決まりました。

 高まる世論の批判の前で、都議会自民党も、舛添都知事をかばっているのかとのとばっちりを避けるために、重い腰をあげたわけです。

 最悪の展開です。

 当ブログとしては、できうる限り公的な立場に在職させたまま。徹底的に疑惑を公の前で解明すべきであると、繰り返し主張してまいりました。

 一か月前の当ブログのエントリー。

2016-05-16 舛添要一知事は辞任させてはいけない

http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20160516

 当時の主張を抜粋。

さて、当然ながらこのタイミングで各方面から都知事辞任論が噴出しております。

 当のご本人舛添氏は会見で「あとは有権者、都民の皆さんの判断にお任せしたい。ただ、都民の声をどういうふうに測るのか」と訳の分からない理由から辞任する考えはないことを明らかにしております。

 よろしいです。

 舛添要一知事が一連の疑惑に対して説明責任を果たしていないことは明らかです。

 当ブログとしては、現在報じられている舛添「公私混同」疑惑は、実は氷山の一角ではないのかと、穿っております。

 ご本人も辞任の意思がないのなら、ここは辞任などすぐには認めずに徹底的に膿を出し切り、不正な血税を使った行為を洗い出し、返金すべき公金は全て返金していただきましょう。

 このモラルなきセコい政治家を、都議会やメディアのあらゆる調査に晒(さら)し続けましょう。

 彼を簡単に辞任させることは反対です。

 会見を見る限り、彼は本当の意味での反省などしていません。

 この後に及んでも、小さな嘘やセコい責任転嫁に終始しています。

 彼には、これだけセコく公金の私物化を繰り返してきたその社会的責任を取らせるべきです。

 それには公的な立場に在職したまま。徹底的に疑惑を公の前で解明すべきです。

 このタイミングで全会一致で舛添都知事に対する不信任案が可決されれば、せっかく浮き彫りになりつつある、彼の数々の「ごまかし」「嘘」「偽証」「隠蔽」が、明らかにされることなく、未来永劫「放置」されることになりかねません。

 そのような「甘い」落としどころに、このシビアに追求すべき本件を、なしくずしに都議会自公の保身のために、未解明のまま辞任を認めてよろしいのでしょうか。

 ホテル三日月の件に代表されるように、彼のいくつかの「言い訳」は、金額の大小ではなく、政治家としてのその資質が厳しく問われる、「偽証」罪が適用されるべき疑いのある重大な疑惑が残っているのです。

 都議会は今こそ、その存在価値が問われます。

 会期を延長するなどをして、徹底的に疑惑を追求すべきです、必要ならば百条委員会の設置もよろしいでしょう。

 まだ打つ手はあります。

 疑惑解明の道を閉ざしてはなりません。

 もしこのまま知事を辞任に追い込むならばです。

 知事への批判的チェック機関としてその役割を放棄し、自己保身のために、とかげのしっぽ切りよろしく、臭い物に蓋(ふた)をするとするならば、都民の怒りの矛先は、都議会議員に向いていくことでしょう。



(木走まさみず)

よくわからんロジックだよくわからんロジックだ 2016/06/15 00:17 「都知事を辞任したら疑惑を追及できない」とするのは何故?辞任しても追及すれば良いじゃないか!!
そもそも、都知事を「御飾り」と軽視しているから、「疑惑追及のために続投」などというトンでも論が出てくるのだけど、
仮に明日、東京直下型地震が発生したら、あの舛添が都政を指揮するんだよ、レームダック知事を温存するなんて危機感無さ過ぎ

2016-05-27 そもそも国家の責任は消えないというのか?

[]そもそも国家の責任は消えないというのか? 16:17



 BBCニュースの大井真理子記者の記事が興味深いです。

BBCニュース

2016年05月26日 17:38

そもそも広島の人たちは謝罪してほしいと思っているのか

http://blogos.com/article/176999/

 世論調査では8割近くの被爆者たちは「原爆投下への謝罪を求めないと回答」していると指摘します。

広島、長崎で被爆した人たちを対象にした共同通信の調査では、78.3%が原爆投下への謝罪を求めないと回答している。特に、謝罪要求が大統領訪問の妨げになるならばという懸念もある。

 そのうえで池田信夫氏の「原爆が投下されたときはオバマ氏は生まれてもいなかったので、彼は何の責任も負っていない」との発言に触れています。

ジャーナリストの池田信夫氏は、「原爆が投下されたときはオバマ氏は生まれてもいなかったので、彼は何の責任も負っていない」のだから、オバマ氏は謝罪しなくていいはずだと書く。さらに、中国や韓国が日本に要求する謝罪についても、「同じことが安倍首相にもいえる」と書いている。

 なるほど、橋下前大阪市長の「今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること」とのツイートにつなげていきます。

大阪市の橋下徹前市長は最近、「今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること」とツイートした。

 記事自体は、謝罪云々ではなく今回の訪問が「過ち」が二度と繰り返されないよう努力してきた被爆者たちの取り組みにプラスになることを期待しているときれいにまとめられています。

しかし生存する被爆者の多くは、「過ち」が二度と繰り返されないよう努力してきた自分たちの取り組みを補完する訪問になるよう、期待を抱いている。それが誰による「過ち」だったにせよ。

 さて、この問題、大変興味深いのです。

 「自分が生まれる前の過去に祖国(自分が属している国)が行った行為に、現在の自分には責任はあるのか?」

 個人の視点で考えれば、ありえませんよね。

 例が単純化しすぎかもですが、例えば親が犯罪をしたとしてその責任を子供は負わされるのでしょうか?

 そう問われば、そんなナンセンスな主張が通るのは北朝鮮のような不満分子をファミリーごと弾圧してしまうような全体主義国家だけでしょう。

 広島長崎への原爆投下確かにアメリカによりもたらされたが、当時生まれてもいないオバマ大統領が謝罪する必要はないのは当然だと思われます。

 同じ理屈ならば、橋下前知事が指摘しているように、安倍首相をはじめ戦後生まれの日本人は、中国・韓国に謝罪する必要はないのは当然になるわけです。

 当ブログとしても同じ考えです。

 ・・・

 さて、この問題、「責任がある」と主張している人々が国の内外に少なからずおりますことは、まことに興味深いのであります。

 そこでそのような考え方を当ブログなりに考察してみたいと思います。

 ここではまず国を「人格化」いたします。

 人の「人体」に例えて「国体」を考えます(戦前の「国体の護持」の国体と字面が一緒ですがそれほど哲学的意味は持ちません(苦笑)、為念)。

 人体は多くの細胞から構成されていますがひとつひとつの細胞には当然寿命があり細胞は絶えず生死を繰り返しながら、しかし人体は細胞の寿命よりはるかに長く維持されていきます。

 そして各細胞は生死を繰り返しますが、「人体」は固有の意思を持ち固有の行動をし細胞よりはるかに長い時間の人生を歩んでいきます。

 同様に「国体」は多くの国民から構成されていますが一人一人の人間は短命でありますが、「国体」ははるかに長く維持されていきます。

 そして構成される人間は生死を繰り返しますが、「国体」はそれぞれの時代で固有の意志を持ち固有の行動をとり長い歴史を刻んでいきます。

 こう考えると、例えば人が過去に犯罪を犯したとすると、ひとつひとつの細胞には責任はありませんが、人体、すなわち細胞の総体としての人のその責任は相当の期間残るわけです。

 同様に考えれば、国が過去に過ちを犯したとしたら、一人一人の国民には責任はありませんが、「国体」、すなわち国民の総体としての国の責任は相当程度残るという考え方もできるわけです。

 もう一度問題を提示。

 「自分が生まれる前の過去に祖国(自分が属している国)が行った行為に、現在の自分には責任はあるのか?」

 つまり、全体主義的国家主義的史観でこの問題をとらえれば、「あり」となるわけです。

 「私」より「国」を優先した考え方で歴史を眺めれば、そして「国家」には意志があるとするならば、「国家」の責任というのは、人の寿命のような短命である理屈は通らないことになります。

 なんか考察していて、全体主義的でいやになってきました(苦笑)が、おおよそこのような考え方が底流にあるような気がします。

 ならば「1000年過ぎても日本を絶対許さない」との憤怒も、少し理解できるのであります。



(木走まさみず)

ぶうぶう 2016/05/27 20:12 安倍晋三個人に責任は無いが、内閣総理大臣たる安倍首相には相応の責任があるとうだけでは?
生まれる前の話だから責任が無いというなら、戦前の賠償金なんかも全て踏み倒せることになる

日本の歴代の内閣総理大臣は直接戦争行為に加担していなくても為政者の責任として謝罪している
問題なのは謝罪しているにも関わらず「恨」を持ち続け、贖罪の意味での謝罪を求めることではないのか?
「責任が無いから謝罪しなくて良い」とかいう大雑把な問題ではないと思うのだけど

レーガン大統領は彼自身が直接関与していない「日系人の強制収容所」問題に謝罪したと記憶しているが、あれは犯罪者がするような贖罪の意味での謝罪ではなく、公的な立場としての謝罪
同様に、オバマ個人が原爆投下に関与したのでは無いから贖罪の意味での謝罪は不要だが、過去に大量虐殺を行った国の大統領として原爆投下を謝罪するのは何らおかしくはないと思うのだけど

あ 2016/05/28 05:19 責任って何?
頭を下げるだけのこと?
違う。賠償、金銭的なことだ。
生まれていなかったら責任はない?
違う。相続とは、マイナスもプラスも相続する。
日本人として生まれたから、日本人としての権利も生まれながらに与えてもらえる。
日本人の権利を相続したからだ。
難民の子供が、「私は日本人になりたい」と言っても、日本人にはなれない。
日本人の子供が「僕はアメリカ国籍が欲しい」と言ってもアメリカ人にはなれない。

そもそも、「絶対許さない」とか「1000年恨」とか「倍返し」とか、
そんなに憎しみを増幅して、そんなに殺し合いたいのか?
やくざと同じだ。
ほとんど争いのない所に言いがかりをつけ、争いを作り出す。

戦争が終わった時、日本人は道具の責任にした。
「兵器があるから悪い。私たちは悪くない。両手を縛れば平和になる」。
そうだろうか?
戦争には手段も要るけれど、動機があるのではないか?
資源という既得権がある地主階級の人々と、
労働を提供するしかない奴隷階級の人々。
誰かが種を蒔かねば、誰も収穫できない。
誰かが働かずして暮らせれば、誰かがその分、働かねばならない。
今は、農業も国際的にはかなり自動化されて、
少ない労働で多く収穫できる。
今や、農地は、ほぼ資源だ。
人口国という労働を売って資源を買うしかない奴隷を収容する国。
一方で、資源国という、働かずして、資源を切り売りするだけで、
労働成果を買える国。
日本国内だってそうだ。
「いろいろ手を尽くして資産を貯めて、最後は不動産などの不労所得で
働かずして暮らせる人生すごろくの上がりを目指しましょう」。
おかしくないか?
なぜ、日本人が日本の領土に住むのに、
こんなに人頭税を払わねばならないのか?
土地はいくら値上がりしても総量を増やせない。
地価は土地の価値ではない。
必要な人に必要な土地が流通していない不平等の指標だ。
土地税制を流通時課税から保有課税に切り替えるべきだ。
譲渡益税や相続税を廃止し、地価税に一本化すべきだ。
農家だけの特権である農地取引を、全国民に開放すべきだ。
日本国内で不正が行われているのに、
海外に不公平を止めろなどとどう主張するのか?
核戦争の恐怖で、戦争への敷居は上がった。
でも、戦争が遠のいたことで、
戦争の動機となる不正はますます増長して積み上がっている。

でも、初期状態の偏りが、増幅されず、能力を反映した均衡に
向かってゆくような社会を考えるべきだ。
資産や既得権の貧富の格差が、更なる格差を再生産しないようにすべきだ。
憎しみが増幅されて、小さな誤解が殺し合いに発展しない負の金利(緩やかな時効)を
考えるべきだ。
能力ではなく、初期状態の揺らぎが、
どんどん、自発的に歪みを拡大させて、
運命を決めてしまうような社会は良くない。

先住民や既存所有権を偏重する社会は異常だ。

2016-05-24 警察の対応を批判するだけでなくザル法を改正しないとだめでしょ

[]警察の対応を批判するだけでなくザル法を改正しないとだめでしょ〜国会議員の先生方、もしかして情弱なんじゃないでしょうねえ 15:48


 さて、警察の対応に批判が集まっています、NHKニュース記事から。

地元警察署 ストーカー被害の相談として扱わず

5月24日 4時04分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010532441000.html

 まあ、警察側の対応に落ち度があるとすれば、問題点を指摘することは大いに結構です、今後に生かされるためにも警察批判は必要でしょう。

 そのうえでです。

 ここに『ストーカー行為等の規制等に関する法律』いわゆるストーカー規制法が公開されています。

ストーカー行為等の規制等に関する法律

(平成十二年五月二十四日法律第八十一号)

最終改正:平成二五年七月三日法律第七三号

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H12/H12HO081.html

 で、その第二条(定義)が今問題になっているわけです。

 ここではこの法律において「つきまとい等」つまりストーカー行為について、八つの項目を列挙しているのであります。

(定義)

第二条  この法律において「つきまとい等」とは、特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、当該特定の者又はその配偶者、直系若しくは同居の親族その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者に対し、次の各号のいずれかに掲げる行為をすることをいう。

一  つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他その通常所在する場所(以下「住居等」という。)の付近において見張りをし、又は住居等に押し掛けること。

二  その行動を監視していると思わせるような事項を告げ、又はその知り得る状態に置くこと。

三  面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること。

四  著しく粗野又は乱暴な言動をすること。

五  電話をかけて何も告げず、又は拒まれたにもかかわらず、連続して、電話をかけ、ファクシミリ装置を用いて送信し、若しくは電子メールを送信すること。

六  汚物、動物の死体その他の著しく不快又は嫌悪の情を催させるような物を送付し、又はその知り得る状態に置くこと。

七  その名誉を害する事項を告げ、又はその知り得る状態に置くこと。

八  その性的羞恥心を害する事項を告げ若しくはその知り得る状態に置き、又はその性的羞恥心を害する文書、図画その他の物を送付し若しくはその知り得る状態に置くこと。

 で、問題なのが項目五です。

五  電話をかけて何も告げず、又は拒まれたにもかかわらず、連続して、電話をかけ、ファクシミリ装置を用いて送信し、若しくは電子メールを送信すること。

 当初は電話とFAXだけだったのを3年前の改正で「電子メール」を追加したわけです。

 で、この改訂後、電子メールによる迷惑行為により逮捕者も出してはいるわけですが、なんでこのときにツイッターとかフェースブックとかLINEとかブログもそのコメント欄も含めてSNSツール全般を広範囲に対象にしなかったのかということです。

 3年前2013年当時ならすでにLINEはまだこれほど普及はしていなかったけれど、ブログは勿論ツイッターやフェースブックも十分普及していたわけです。

 今回のアイドルに対する暴行事件においても犯人は執拗にSNS上で最初はおとなしかった内容がどんどんエスカレートして暴言を繰り返していたわけで、ストーカー法の2条の五項に、SNSが対象になっていたならば、ストーカー行為として十分に事前に警察を動かすことができたはずなのです。

 そうすればこの犯罪行為は防止できていた可能性もあったはずです。

 今回警察の対応に批判的な発言もメディア等で見られますが、はっきり言って法律が時代についていってないことは明白です。

 3年前の改正でなんで「電子メール」に限定しちゃったのだろう。

 現在ではネットユーザーのコミュニケーションツールはメールよりSNSのほうがはるかに利用されていますのに。

 これは早急に法改正をする必要があると考えます。

 国会議員の先生方、もしかして情弱なんじゃないでしょうねえ。

 ふう。



(木走まさみず)

フォロワーフォロワー 2016/05/25 10:10 被害者の職業がアイドルとなっている点についてはどのようにお考えですか?
報道の多くは、アイドルとファン(オタク?)の問題とされていますが、私は本件について単なるストーカー殺人未遂事件だと思っています。

容疑者ははアニメファンだった、米軍関係者だったという印象操作だと思っております。

KoichiYasuokaKoichiYasuoka 2016/05/25 14:40 五号は、もともとの立法意図が「無言電話」の対応なのです。なので、ここに「空メール」を入れるのはいいと思うのですが、SNSは変です。SNSに関しては、普通に三号「面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること」あるいは四号「著しく粗野又は乱暴な言動をすること」で対処すべきでしょう。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20160524

2016-05-23 まさに『策士策に溺れる』を地で行く都知事会見に拍手を

[]まさに『策士策に溺れる』を地で行く都知事会見に拍手を 14:49



 舛添氏は、公正な目で見てもらう必要があるとし、事務所とは無関係で政治資金規正法に精通した弁護士などにチェックさせるとして、この日は一切、説明しませんでした。

記者から何を聞かれても、「第3者の厳しい目で見てもらう」の一点張りで、44回も壊れたレコードのように繰り返します、そして弁護士にだけヒアリングを受けると繰り返しました。

 舛添氏が弁護士を選ぶと偏った立場になるのではと突っ込まれても、そうでないように複数の弁護士に調査を打診していると答えるのみであります。

 拍手を贈りたいです、ブラボーです。

 お見事です。

 私は、多くの読者と同様、舛添氏のこの「素晴らしい」戦術は、ズバリ「保身」にあると読んでいます。

 まず橋下徹前大阪市長が鋭く指摘しているように、「公私混同をいくら追及しても政治資金規正法上、違法にはならない」ことでしょう。

橋下徹

2016年05月21日 09:42

舛添さん問題、公私混同をいくら追及しても政治資金規正法上、違法にはならない。

http://blogos.com/article/176337/

 過去事例に照らしても、天下のザル法である政治資金規正法では、責任追及はせいぜい会計責任者止まり、まず政治家の管理責任までは追求の手が及ばないことは、過去散々「政治とカネ」の問題でほかの政治家を糾弾してきた舛添氏は熟知しているわけです。

 しかしここのところのメディアスクラム的な新たな「公私混同」疑惑がラッシュのように各メディアから噴出したのは、自信家の彼にとっても「想定外」だったわけです。

 そこで彼は法律の専門家をアドバイザーとして、今追求されている案件を、総ざらいに「精査」させて、どのように公表すれば自分自身にまで「法律違反」が及ばないか、仲間内でじっくり検討することにしたわけです。

 みみっちい彼のことです、都政など後回しにして、一生懸命に仲良しの弁護士と都合良く「精査」していくことでしょう。

 従って、この「第3者の厳しい目をもった弁護士」ですが、「政治的な機微に触れる」とか言い訳して、その名前はこれから先決して舛添氏の口からは出てこないでしょう。

 氏が選ぶおそらく彼と懇意にしているお友達の弁護士が、「第3者の厳しい目をもつ」ことなど有り得ないことなど自明なのであります。

 会見では極めて低姿勢で国民に反省した態度を見せながら、その実、肝心な疑惑の内容は「第3者の厳しい目で見てもらう」の一点張りで逃げまくったのであります。

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 さて、冒頭で「拍手を贈りたい」と形容したのは、皮肉でも何でもなく当ブログの本心です。

 9年前から舛添氏の政治家としての資質について疑問を呈してきた当ブログとしては、前回「舛添要一知事は辞任させてはいけない」と主張していたからです。

(当該エントリー)

2016-05-16 舛添要一知事は辞任させてはいけない〜都知事在職のまま、平成の合法的「市中引き回し」の刑に処すべき

http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20160516

 未読の読者のためにエントリーより結びの部分を抜粋。

 彼を簡単に辞任させることは反対です。

 会見を見る限り、彼は本当の意味での反省などしていません。

 この後に及んでも、小さな嘘やセコい責任転嫁に終始しています。

 彼には、これだけセコく公金の私物化を繰り返してきたその社会的責任を取らせるべきです。

 それには公的な立場に在職したまま。徹底的に疑惑を公の前で解明すべきです。

 都民のみなさん。

 それでは都政が停滞するではないか?と、ご心配の方もおられましょう。

 大丈夫です。

 石原、猪瀬、舛添ともう都政は十分に停滞しています。

 逆説的にいえば、都知事などダメダメでも東京都は十分に維持できています。

 読者の皆さん。

 舛添氏は都知事在職のまま、平成の合法的「市中引き回し」の刑に処すべきです。

 この「平成の合法的「市中引き回し」の刑に処すべき」という表現が、お下品、キバシリお前何様のつもりだと一部読者の反感を買った(苦笑)わけですが、そんな私的なことはどうでもいいのですが、今回の会見で、当ブログの期待通りの展開に舛添氏自らがはまりこみつつあるからです。

 彼のような自分が頭が良いと自覚する自信家は、庶民を完全に見下しているはずです。

 自分の戦術に揺るぎのない自信があるのです、知的レベルが低い庶民は自分の高等な策で完全に黙らせることができる、このように先を読んでいるはずです。

 今回も逃げおおせる、都知事を辞任する羽目にはならないと、彼は踏んでいるはずです。

 彼は都知事の地位に固執しているはずです、そうでなければあのような記者会見を開けるはずがありません。

 彼は、今回国民がいかに彼の振る舞いに呆れているのか、見くびって、どんどんドツボのような窮状に自らを落とし込んでいるわけです。

 この際です。

 彼には徹底的にそして「自信」をもって「精査」「言い訳」を繰り返していただきましょう。

 その過程で彼の政治家としてのその悪しき「資質」がさらにあぶりだされていくことでしょう。

 まさに、『策士策に溺れる』とはこのことです。

 自分が墓穴を掘っていることに気づいていないのです。

 そうは思いませんか、読者の皆さん。



(木走まさみず)

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