当事者活動と通名使用

先日の東京大学UTCPのシンポジウムに出ていた方のtwitter
チェックしてみたら、
「そもそもFacebookで使用する名も、通称である職業名でなければ意味がないため、
いつ垢BANされるかわからない立場です。ご了承ください。」とあった。
それで、活動上の名前は本名ではないのだなと解った。

他にも障害当事者で団体運営をしている人の名前が、
本名っぽいけれど本名ではないという方がいるということは聞いたことがある。

この人は本を出したりする前から通名を使っていたのだろうか。

通名を使う理由は主に二つ考えられる。
・就業等の対社会的な理由
自助グループ内でのプライバシーに関する理由

そういえば著作に、ダルクかどこかの自助グループに参加して、
ルールに従いニックネームを名乗るシーンが記されていた。
アレを読んだとき、「それニックネームじゃなくて、本名では?」と
思ったのだが、著者名は本名ではなかったのですね。

自助グループではニックネームを名乗る人は多い。
ネットのオフ会の流れで開催されているものも多いので、
ハンドルネームがオフラインでも使用されていることも
ニックネーム使用の理由の一つだ。

私は、自助グループにありがちな締まりのない雰囲気に、疑問を感じることが多い。
そうした雰囲気が形成される要因として、ニックネームの使用があるのではないかと
考えている。

ただ、本名っぽい名前で、実際にそれで社会活動を行っている場合は、
それなりの社会的緊張感は保てるのだろうなと思う。

しかし、一つ気になるのは、ある程度の信頼関係が築けたと思っている相手の名前が、
本名ではなかったと知った時、割とショックなんじゃないかなと。
しかも自分は本名を名乗っていた場合。
結局、本名を名乗らないというのは相手を信頼していないということな訳だから。

しかも、件の人の場合、当事者同士の共感という、感情レベルの「つながり」を非常に重視している。

ところで、東京大学では研究者の通名使用は認められているのだろうか。
単なる在野の当事者でなく、東京大学所属の研究者として発表を行う場合も、
その名前を名乗っているので。

それと、「職業名」というのも気になった。
障害者としての活動も「仕事」なわけで、こういう人のことは
市井の障害者とは分けた方がいいと思うのですが、一般的には
障害者としてのプリミティブ感を求められている気がする。
また、「仕事」であっても、労働者としての当事者性は語りませんね。
それをやったら、仕事が無くなるだろうから。
でも、労働系の雑誌に寄稿はしていて、、、。

東京大学UTCP/PhDC×べてるの家討論会 「当事者研究の現象学」(4)

東京大学UTCP/PhDC×べてるの家討論会「当事者研究現象学」(4)
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2013/12/utcpbethel_phenomenology_of_to_3/
というシンポジウムを聴きに行った。

私が到着したのは午前のプログラムの途中からで、シンポジウム的なことをやっていた。

その後、べてるの家スタッフが資料を見せながら自分の話を。
ひきこもり経験や、施設利用者に励まされたことなど。

その次にべてるの家ともう一つの施設のスタッフが合同で話し合うパート。
ここでもスタッフのリストカット経験といった「支援者」の精神病理性が話題に出ていた。
その他、利用者との関係性のこと等。
ある程度距離を持たなければやっていけないというような。
「支援者」の「当事者性」について。

気になったのは、支援者の1人が「、、、なんすよ〜」という口調で、他にもずいぶんと砕けた話し方がなされていた。
「当事者性」を語る場であれば、だらしの無い口調でも許されるのだろうかと。
主宰者としてもこのくらいの方が、「アウトサイダー」を認めているというリベラルな立場を示せて、都合がいいのかも。
しかし、公の場で私的な会話のような口調をする人が支援者として働いているのはいかがなものかと。
公と私が分けられないわけですよ。
こういうことの延長に、障害者施設での虐待はあるような気もする。

今年の活動

■今年の活動

○市内の別の場所へ引っ越し(厳密には昨年末)。
○けがと引っ越しでサーフィンが出来なくなり、ボディサーフィンにシフト。
ヴィパッサナー瞑想の合宿参加(2回)。
○いくつかの読書会に参加。
ギークカフェの自由研究発表会に参加。
○neccoの「バラバラ」という、当事者ネット番組に出演。
○「ロンカラ」という、ネット番組に出演。
○自分で読書会の開催。
西荻一箱古本市に参加。
ハローワーク障害者雇用の採用募集へ応募、手応え無し。
発達障害の就労支援施設に申し込む。
twitterを更新するようになる。


■観に行った展覧会

フランシス・ベーコン
アンドレアス・グルスキー(全然良くない)
○恵比寿映像際でマイク・ケリーのビデオ作品だけ鑑賞(講演も)
○稲村クラシック(サーフィンの大会)

 
■健康

○引っ越しを機に、県内の発達障害を診る医院へ。
 アスペルガー障害だけでなく、ADHDの傾向やIQのバラツキも指摘される。
○花粉症対策を機に、iherbという海外通販でサプリメントを色々試す。
○市内の栄養療法系の医院にかかる。
○三軸修正法の施術を受ける。


■読んだ本

○『アメリカ未完のプロジェクト』リチャード・ローティ
○『サバルタンは語ることができるか』G・C・スピヴァク
○『自閉症精神分析』竹中均
○『ジェンダー・トラブル』ジュディス・バトラー
○『いまこそロールズに学べ』仲正昌樹
○『自己コントロールの檻』森進一
○『ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎
○『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大
○滝本哲史の一連の著作(この手の本は初めて読んだ)

今後読みたい、スピヴァク本

サバルタンは語ることができるか』ではいまいち、
サバルタン論におけるデリダの重要性が掴めなかったので、改めて
デリダ論―『グラマトロジーについて』英訳版序文』を
読んでみようと思います。

今のところ、「サバルタン」の声を脱構築するのがデリダの役割だという
理解をしています。
仲正昌樹さんの著作を通してなんですが。
で、スピヴァク本の中では、
そのことがよくわからなかったなという。

デリダといえば、先日のヴィパッサナー瞑想の合宿の経験を
振り返るきっかけになるかなと思い、
デリダから道元へ―「脱構築」と「身心脱落」 』を
注文してみました。

『サバルタンは語ることができるか』

数年前に発達障害の診断を受けたわけですが、それ以降、
障害者論にも目を向けるようになりました。

しかし、結構疑問もわいてきて、例えば「障害者=弱者とも限らない?」とか。

それでサバルタン論と言うものを一応抑えておこうと思い、
G・C・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を読んでみました。

薄い本ですが自分には中々難しくて、理解できない部分が多くありました。
しかし、それなりに自分が大学の講演会を聴きに行ったりしたことで起きた
疑問と合致する箇所もありました。
そこで初めて、というより、以前からカルチュラルスタディーズ系の言説に触れて
感じてたことが、ここにもあるなという感じなんですけどね。

特に前半部分の、フーコードゥルーズに対する批判についてです。

ところが、二人とも、イデオロギーの問題およびかれら自身が知的ならびに経済的な
生産活動の歴史のなかに巻き込まれているということにまつわる問題については、
これを一貫して無視している。

「現実とは、工場、学校、兵営、監獄、警察署で実際に起こってることにほかなりません」
対抗ヘゲモニー的なイデオロギー的生産という困難な仕事を遂行する必要を
このようにしてあらかじめ閉ざしてしまったことは、
けっして好ましいことではなかった。
それは先進資本主義諸国のネオコロニアリズムの正当化の基礎をなしている
実証主義的経験主義がみずからの闘争の場を
「具体的経験」や「実際に起こっていること」に定位するのに手を貸してきた。
実のところ、囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である
具体的経験が明るみに出されるのは、
あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験をつうじてなのだ。
どうやらドゥルーズフーコーも、社会化された資本の内部にいる知識人は
具体的経験を振り回すことによって労働の国際的分業の強化に手を貸すことに
なっていることに気づいていないようである。

明らかに呈示されているのはなんのことはない、
左翼知識人達の挙げる、自分を知っており政治的狡知にたけた
サバルタンのリストだけである。
そして、かれらを表象しながら、知識人たちはみずからを透明な存在として
表象しているのである。

スピヴァクリーダー』の編集者たちの序論には、
サバルタンは語ることができない」という主張についての
インタビューのなかでのスピヴァクの説明を要約して、つぎのようにある。
(中略)
もしサバルタンが彼女自身の声を聴いてもらえている場合には(中略)、
そのときには彼女のサバルタンとしての地位は完全に変わってしまっていることであろう。
彼女はもはやサバルタンではなくなってしまう。


私は上山和樹さんのブログFreezing Pointをチェックしているのですが、
そこでの主張と共通性を感じます。


この本は1988年に出版され、日本語版は1998年に出されたのですが、
メインストリームの議論の状況は、進展していないと言うことなのでしょうか?


こういう問題を棚上げしてきたから、
歪な形で色々なバッシングが吹き上がってきているのでしょう。
大久保の嫌韓デモや乙武さんのレストランの件です。
「弱者」として認定されづらい人/されていない人が認定された「弱者」に
恨みっぽくなっているのかなと。
一度、「弱者」性及び「当事者」性については交通整理が必要だと思います。
佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』はとても参考になります。

また、ゲンロンカフェでの東浩紀さんと安田浩一さんの対談では、
東さんがそもそもの弱者性を問う場面がありました。
安田浩一×東浩紀 「ネット×愛国×未来 ---在特会から見る現在の日本」 - 2013/05/22 19:00開始 - ニコニコ生放送

自身の弱者性を論じる当事者系の言論人について、
「彼らはただのリベラル知識人だ」と言っていたのが、印象的でした。

もっとも、発言権を得たからといって、
例えば障害者であれば、障害の困難さ自体が無くなるわけではありません。
そのことはきちんと踏まえておくべきです。

4/25(木)マインドフルネスオフ会

mixi発達障害関係のコミュで告知したのですが、
こちらにも転載します。

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マインドフルネスについて語り合う、
当事者交流会を開催いたします。
特に、経験や知識は問いません。
少しでも興味があれば、参加可能です。

近年、日本でも、新しい認知行動療法として
期待されているマインドフルネスとは、
ヨガや初期仏教のヴィパッサナー瞑想をベースにした、
自己観察の方法です。

〜主に期待される効果〜
・認知の固定化、ループ化からの脱却。
・感覚過敏の軽減。
・うつの再発防止。
・身体感覚のまとめあげ。
・情動調節の自由度増加。
・心の理論の発達。
・集中力の向上。 

こちらのブログで、うまく説明されています。
http://spontaneous-healing.blogzine.jp/blog/2010/01/post_1ac6.html    
http://sendagi-sennsei.blog.so-net.ne.jp/archive/20130222 

発達障害に詳しい医師のブログでも、
マインドフルネスが紹介されています。
http://blog.livedoor.jp/kyoclinic/archives/4245828.html


開催日時:4月25日(木曜日)19:00〜21:00 (途中参加、途中退出可)
場所  :MUJIカフェ青山店 http://www.muji.net/cafemeal/shop/
              (お店側は、オフ会開催とは無関係です。
               オフ会に関する問い合わせ等は、ご遠慮ください。)
参加費 :各自の飲食費
参加条件:発達障害当事者(未診断可)
当日目印:緑色のナイロンパーカー

参加希望の方は、コメント欄にて表明してください、
直前でも構いません。
キャンセルの表明は、あれば有り難いですが、
なくても結構です。

また、興味があっても、今回参加できない方が
いらっしゃいましたら、今後の参考のために
お知らせください。


●●●注意事項●●●
・一般的な社会マナーを心がけて下さい。
・飲酒はお控えいただきますが、21:00以降で、 
 残って交流される場合は構いません。
・当事者が集まる場ですので、
 マインドフルネスの専門家や心理士等は居りません。
・当オフ会進行の妨げになる方へ、ご退場を願うこともあります。

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アーユルヴェーダで鼻炎治療3

治療者と話をしていてヤバいなと感じたのは、
その場でのやり取りや私たちの存在が、
社会の外側にあると錯覚しているらしい点です。

私が動作系のIQの低さを話していると
「それは社会の価値でしょう」と言ってきました。
この場でのやり取りも、医療機関に於ける金銭授受という
社会制度によって成り立っているというのに。

大体、何の価値によるのかを指摘したところで、
動作系のIQが低いことによる弊害が無くなる訳ではないし、
社会から退却することも出来ないし。

で、社会じゃなくて自分の実感レベルでもそうなんですと言っても、
「あなたの意識の問題」だと否定するのだろう。

現状として何が問題なのかを認識しないと、
問題は解決されづらいのだが、
彼はそういう状況認識自体をさせようとはしないのだ。
終始分かりやすく前向きじゃないといけないという。

それにしてもWHOによってアーユルヴェーダが認められていることは
どうお考えなのでしょうかね。
社会の価値だと言って突っぱねるのでしょうか。

こういうことを言っている以上は、
自分たちが一般社会からは認められないということを
分かっているのだろうか。

日本アーユルヴェーダ学会が属する、
日本統合医療学会日本学術会議から認定されていないのだ。


それと急に私に対して「IQ低くない」と断定してきたんだが、
IQっていう価値基準自体を否定してきた人が
何を言ってるんだと思うし、この人が高いとか低いとか言えるもんじゃないだろうと、
テスト結果を見せた訳でもないし。
かなり主観的な言い方なので、この人の「意識がどうたら」という話は
自分に向ければいいのではと思う。