1945年の「社会を流動化させるための戦争継続」論

私は敗戦を予想していたが、あのような国内統一のままでの敗戦は予想しなかった。アメリカ軍の上陸作戦があり、主戦派と和平派に支配権力が割れ、革命運動が猛烈に全国をひたす形で事態が進行するという夢想を描いていた。国内の人口は半減するだろう。統帥が失われ、各地の軍隊は孤立した単位になるだろう。パルチザン化したこの部隊内で私はどのような部署を受け持つことになるのか、そのことだけはよく考えておかなければならないが、などと考えていた。ロマンチックであり、コスモポリタンであった。天皇の放送は、こうした私をガッカリさせた。何物かにたいして腹が立ってならなかった。 (竹内好「屈辱の事件」1953年、丸川哲史『日中100年史 二つの近代を問い直す』光文社、2006年、p.111、重引)

 「革命」の誘因条件としての「戦争」待望論の変形。「正しい」目的のためには「人口の半減」も厭わない清算主義。ドイツの例を考慮すれば、「革命運動が猛烈に全国をひたす」ことはなかっただろうし、沖縄戦の例を考慮すれば、「各地の孤立した軍隊」は「パルチザン」化することはなく、その刃が民衆へ向けられたことは必至である。

自衛隊の「反逆」

 44普通科連隊の連隊長だった1等陸佐は先月10日の日米共同訓練の開始式で「同盟は『信頼してくれ』などという言葉だけで維持されるものでもない」などと訓示し、北沢防衛相は同12日、文書による注意処分とした。
 防衛省によると、この直後、第11旅団の中隊長の3等陸佐は、榛葉副大臣長島昭久政務官ら複数の同省幹部に「連隊長の発言は全くおかしくない」「自分も部隊で同じ事を言っている」などというメールを送っていた。同省は正規の手続きを経ずに意見具申したことが規則違反だとして、今月3日に内規に基づく口頭注意とした。
 第2特科連隊(旭川駐屯地)でもほぼ同時期、中隊長の1等陸尉が部内の朝礼で「連隊長の発言は間違っていない」「鳩山総理はいいかげんだ」と訓示したという。 (読売新聞 2010/03/25 03:11)

 「戦前は恐慌と政治不信の深刻化が軍部の台頭を招いたが、現在では軍部に相応する勢力が存在しないのでそういう心配はない」という類のオピニオンをしばしば見かけるが、今回のような事件があるとそれほど楽観的にはなれない。一般の公務員と異なり、武力を有する武官の「批判」は「脅迫」の意味を帯びる。それでいて文民統制を弱体化させる(制服組の権限拡大)「改革」は当の民主党政権下でも継続しているのも問題。
 ちなみに教職員組合の裏金問題を「企業・団体の政治献金」という観点から「教員の政治的中立」の観点にすり替えている連中はこれを批判しないのか。政府と何ら直接の任命関係のない教員には政府批判を禁じる一方で、首相と指揮命令系統のある自衛官の政府批判は賞讃するのは明らかなダブルスタンダードだ。

79%でも「思ったより少ない」

http://www.work-check.jp/ ワークルールチェッカー

 このサイトは今年2月に開設。雇用形態や労働時間などを入力した上で、9項目(派遣労働者は14項目)のチェックリストに答えて労働条件を点検する仕組みで、今月12日までに回答を寄せた2万1052人分を集計した。その結果、全く問題がなかったのは全体の21%で、残る79%で法令違反の可能性が見つかった。項目別では、「有給休暇がもらえない」が49%で最も多く、「残業代が支払われない」(36%)などが続いた。 (読売新聞 ジョブサーチ2010/03/24)

 日本の労働法制はザル法なので当然の結果。むしろ「問題なし」が2割「も」あったことに驚いた。いくら規制強化しても実効力がなければ無意味。「労働警察」みたいな権力が必要なのかな。

日韓歴史共同研究委員会第2期報告

http://www.jkcf.or.jp/history/second/index.html 日韓歴史共同研究委員会 第2期
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010032301000547.html 日韓歴史研究報告書の要旨 - 47NEWS


 現代政治外交史に専攻が極端に偏っていた日中歴史共同研究よりは、非委員の研究を含めれば、広範な分野をフォローしているが、要所を「保守派」が抑えているために、日本国内でも存在する個々の研究者の対立が「国家間の対立」にすり替えられている印象(それはメディアの報道の仕方にも責任がある)。政治史や教科書問題ではわざと右傾的な研究者を立てて、対立を煽っているとしか思えない。
 特に山室建徳は「共同研究は不毛だった。歴史研究への姿勢が日韓では違いすぎる」と、いかにも韓国の歴史研究が「政治的」で自らは「実証的」であると言いたげだが、実際は山室のような人は保守的ナショナリズムにシンパシーを寄せており、自らの政治性にあまりにも無自覚である。今回の彼の論文「教科書編纂から見た歴史教育」は、全面的に「戦後」歴史教育を否定し、家永訴訟の意義にすら言及せず、ましてや教科書批判の文脈の歴史的変容や、教育実践の実際には目もくれず、旧態依然の反共イデオロギーを礼賛する内容である。「教科書は子どもに特定のイデオロギーをたたきこむ手段ではない」と言いながら、右翼イデオロギーを一切批判せず、「多様な国民意識を尊重」と言いながら、平和主義や民主主義に基づいた教育をその「多様」性には含めないのはあまりにも恣意的である。李讚煕の冷静でもっともな批評に対するコメントも全く反論になっていない。歴史教育の研究業績のほとんどない人だから当然なのだが。

中曽根→橋本→小泉→鳩山と続く「新自由主義モーメント」

 自民党は、60年代後半から徐々に得票率を減退させ、80年代に入るとこれが50%を割るようになる。ここから自民党は農業・商工業をベースにした政党から、本格的な国民政党への脱皮を試みた。その中で、戦略として採用されたのが鈴木内閣および中曽根内閣による行財政改革である。『新中間大衆の時代』(村上泰章)が時代のキーワードとなったように、とりわけ中曽根内閣による都市中間層へのアピールは巧妙かつ合理的なものだった。農業従事者や自営業者との税負担の不公平感を煽ることで支持基盤を広げ、さらには国鉄労組を始めとする官公労を攻撃することで、経済的争点と政治文化的争点とを結びつけ、ここに新たな動因戦略を確立した。(中略)そして「改革と敵探しによって政治の求心力を高める」という手法を生んだ、この「新自由主義モーメント」は、その後の政治のフォーマットを提供することになった。
 新自由主義モーメントは、自社さ連立政権を率いた橋本政権に手渡された。同内閣は行政改革財政再建を始めとする「六大改革」を唱え、1府12省体制の省庁再編に先鞭を付けたほか、財政構造改革法を提出する「火ダルマ改革」を成し遂げる。重要なのは、この90年代の新自由主義政治も、自民党内の「守旧派」や官僚機構に対する対抗戦略として、当時の有権者に広く支持されたことである。(中略)
 90年代の新自由主義モーメントでさらに無視できないのは、「政治主導(執政改革)」概念の定式化とその確立である。中曽根改革で第二臨調が重用されたように、橋本改革の過程でも内閣官房の格上げや補佐官制度の強化、特命担当大臣制度の導入、経済財政諮問会議の設置など、派閥政治と官僚機構に対する制度的な防波堤が築き上げられた。
 「行政改革」「財政改革」「政治主導」の3つを携えて登場したのが、2000年代の小泉構造改革路線ということになる。(中略)彼のいう「聖域なき構造改革」は新たな政治というよりは、新自由主義的政治の戦略の延長線上にあった。 (吉田徹「民主党政権はなぜ脆弱なのか」『世界』2010年4月号、p.p.95−96)

 もっとも、都市中間層の獲得につながる従来の新自由主義政治が完全に破棄されたわけではない。「ムダ撲滅」以外からの財源が期待できないこともあって、独立行政法人公益法人の原則廃止論は撤回できない。新自由主義改革を経て、今では旧国立病院・国立大学、果ては職業訓練機関までもが、こうした行政の減量の対象となっており、結果的に政権は福祉国家路線と新自由主義路線との間の股裂き状態になっている。日本政府の規模は、他先進諸国と比べて公務員数でも、歳出水準でも、突出して大きいわけでは決してないものの、自ら政府の大小について争点化を行ってしまったことで、民主党政権は袋小路に追い込まれてしまった。 (同前、p.p.98−99)

 1980年代以降の新自由主義路線の由来と展開を的確に示している。「行財政改革」「政治主導」という新自由主義のフォーマットに拘泥している限り、福祉国家などありえない。民主党政権交代前も交代後も一貫して新自由主義の強い制約下にある。

ビアトリス・ホーネガー『茶の世界史 中国の霊薬から世界の飲み物へ』(平田紀之訳、白水社、2010年)

茶の世界史―中国の霊薬から世界の飲み物へ

茶の世界史―中国の霊薬から世界の飲み物へ

 「茶」の通史。古代中国における飲茶習慣の発祥と展開、道教と茶の関係、日本での茶道の発達、ヨーロッパでの茶の需要拡大とアジアの植民地化、帝国主義との関係、茶生産の搾取構造の変容、茶の色や味や飲み方を巡るさまざまな逸話などなど、論点は多岐にわたるが、経済史・社会史・文化史が有機的に結びついた叙述となっている。ユーモアやアイロニーを交えた語り口が卓抜である。
 おそらく著者が最も問題意識を抱いているのは、茶の生産者と消費者の不均衡という点である。17世紀初頭にオランダが日本から茶を輸入したのを嚆矢として、ヨーロッパで飲茶習慣が始まるが、当初は薬用品だったのが嗜好品として需要が拡大するに従い、列強間のシェア争いや貿易収支の不均衡が甚だしくなり、周知の通りイギリスは中国との茶貿易の収支を有利にするためにアヘン貿易を始め、それが中国に対する帝国主義的侵出につながった。長らく中国が独占していた茶生産は、近代以降インド植民地での大量生産へ移り(本書ではイギリス人が中国内地で茶の栽培法を「スパイ」し、インドへ移植する経緯も詳述している)、安価な移民労働者の搾取が構造化して今日も基本的には変わっていない。「何世代にもわたって、茶労働者は農園で生まれ、農園で死んでいく。ここでは彼らは侵入者として冷遇され、非熟練労働者として劣った人間とみなされているので、社会階層の底辺に帰属させられている」(p.247)。劣悪な労働環境に加えて、地域社会からの疎外(スリランカでは最近まで茶労働者の多いインド・タミル族には国籍すらなかったという)が茶生産に従事する労働者を苦境に置いている。著者はそうした不均衡の是正策としてフェアトレードを推進する立場を明示している。
 個人的な注目点としては茶とコミュニケーションの関係である。すでに古代中国で茶は社交と結びついて発達し、文人たちは茶会を開いて文化・芸術を議論し、飲茶競技なるものも存在した。17世紀イギリスでは「コーヒーハウス」で茶が供され、「茶を飲みながら、客は新聞や広告パンフレットを読み、ゴシップ、印刷される前の最新ニュース、およそ考えうる限りの話題をめぐる活発な会話に接した」(p.74)。入場料が1ペニーと安価だったことから庶民の社交場として繁盛し、情報交換やビジネスの場としても機能したという。18世紀に流行するプレジャー・ガーデン(社交庭園)も茶が不可欠で、そうした茶会がミドルクラスの一種のステータスとなった。酒もそうだが、茶も常に「他者との時間の共有」をお膳立てする道具なのだろう。茶会の社会的機能の歴史的変容というテーマはもっと開拓の余地があると思われる。

李王の娘の学習院不登校

また、方子女王の義理の妹にあたる李徳恵(李王垠の異母妹)は朝鮮の日出小学校から学習院に転校してきた。しかし、異国の貴族学校になじめなかったのか体調不良で登校拒否となっている。義姉の方子は「何か学校の友だちにいわれたことを、感情的に強く受けられて、くよくよといつまでも気になさったりする」と述べている。そして「行きたくない、と終日床につかれて、食事にも出ようとされません。夜は強度の不眠症で、ときには突然外にとび出され、おどろいてお捜しすると、裏門から赤坂見附のほうへ歩いておられた」ともいう。朝鮮王家の娘とはいえ、併合された国であり、実母の身分は低く、かつ有力な後見人もおらず、人質同様にして連れてこられた少女にとって、必ずしも居心地のいい世界ではなかったようだ。とくに徳恵は実の親がなく、李王職の篠田治策次官が保護者であり後見人となっていたが、学校での悩みを打ちあけられる人ではなかったのである。 (小田部雄次『皇族に嫁いだ女性たち』角川書店、2009年、p.189)

 事情・背景は違うし、王公族と皇族の違いを軽視するべきでもないが、一応前例として。