ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

八ッ場ダム

 どうやら新しく自民党の総裁になった谷垣が石波と一緒に八ッ場ダムの現場に金曜日に出かけて大沢正明群馬県知事や地元関係者と意見交換するらしいと時事通信が報じている。ここで野党第一党自民党が現地の自治体の首長とどんな話をどんなヴィジョンを持ってするのか、というのは(民主党に取ってではなく)自民党にとって大変大きな試金石になるような気がする。
 もう既に公明党はかつての国土交通大臣を先頭に現場に行って現場自治体の火に油を注いできた。今度はひょっとしたら現場首長諸先生方は谷垣の手を握って泣き伏すかも知れない。「話が違うじゃないですか!?」
 この総裁もあと一年の寿命なんだろうか。
産経新聞は地元をあおる。

前原誠司国土交通相が、八ツ場ダム(群馬県長野原町)の本体工事費を平成22年度予算の概算要求に盛り込まない考えを表明した29日、群馬県の大沢正明知事は「極めて遺憾」とコメントし、国との対決姿勢を維持。一方で、地元住民の間には、話し合いも行われないままに中止への流れが進む現状に、危機感と疎外感が広がった。(msn産経ニュース 2009.9.30 02:12)

 話し合いを提示したけれど、それを無視した人たちがいたことには触れていない。

press man

 どなたか文房具フリークの方のブログで知ったこのプラチナ万年筆が作っているシャープペン、「press man」を私はこれまで一体何本買ったのか記憶にない。多分それくらい買ったのである。然るに何故、私のボール紙でできたチョコレートか何かが入っていたと覚しきペン皿にはこのシャープペンシルは2本しかないのか不思議でしょうがなかった。
 部屋のぐるりに立っている本棚と私の椅子の行動範囲との間の隙間は今や本が背中を見せてびっちりと並んでいるのだけれど、ちょっと不自然なものを抜いてみると、その不自然さは、press manを挟んでいるから故のことだったりする。つまり読みかけのまま、ラインを入れるために使われるpress manはそこにいて、早く続きをやれと私は叱っているのだった。すんません。

荒木和作 ガロ

 私のこのブログを「荒木和作」で検索してくださった方がおられて、おかげでガロの1975年の解散直前のアルバム「吟遊詩人 GARO」には荒木和作の曲が三曲入っていることを知った(作詞は全部阿久悠)。荒木和作自身は「和作」というアルバムを山田と二人で作ったっきりで、漏れ聞くところでは園芸師になっているという話を聞くが、一度はがきのやりとりをしただけでその後一切連絡をしていない。ついこの前、知り合いの若者が人に頼まれてその人のライブハウスに出演者の写真を撮りに行ったらその出演者というのがGARO堀内護だったという話を聞いたばかり。おかげでまた一つ40年前の仲間に話すことが増えた。
 その後、ひょっとしてと思ってiTunesで荒木和作とやまだあきらの「和作」のsearchをかけてみたら、な、なんとダウンロードできるではないか!数年前にCDで再販されたものを即入手していたのに、当時の仲間の集まりに持って行ってかけているうちに酔っぱらってどこかに忘れてきてしまっていた。あれ以来このアルバムを聴くことができたのだけれど、この音は今聞いてもちっとも遜色がない。今の若い人たちが聴いてその感想を書いていて概ね良い評であるのがわかる。なんだか今夜は久しぶりに幸せな気分である。

横浜開港150周年博覧会

 全然人が来なかったというのがここ数日のニュースになっている。目標500万人だったんだけれどもその1/4も入らなかったって。ということは125万人に達しなかったということになるわけだ。発表では153日間で、約120万人だということだ。1日辺り1万人に達していないということになる。
 私はこの種のものが好きでなくて、1970年の大阪万博だっていっていない。つくばの科学博も行っていない。辛うじていったのは仕事がらみで1989年の横浜博覧会と1990年の大阪鶴見緑地で開かれた国際花と緑の博覧会だけだという実にこの種のイベントを語るにはなんの資格もない。
 これだけ想定入れ込み数と実際の有料入場客数とが食い違ったらこれは相当な赤字になるんだろうなぁと思わせるけれど、実際にはスポンサリングによるスポンサー負担なんかがあるからそうは計算できないんだろうけれど、これではスポンサリング企業としても問題になりそうだ。
 今、2016年のオリンピックだっていらねぇよといっている人がいくらもいる中で、今行っておかなくちゃもう見られない!といった危機感に駆られてこの種の催し物に押し寄せる人なんているんだろうかと疑問に思ってしまう。
 1970年の大阪万博の頃はなんだかオリンピック級の大イベントが外国からやってくるという雰囲気に日本中がインボルブされてそれのためだったら「なんでも我慢しますぜ、おれらしがない国民は黙って待っていればなんでも見せてもらえちゃうんですからね!」的な雰囲気が満ちていたわけで、そんな時代と今は比べようがない。「どこかの県立博物館で今こんな特別展示をやっています」と変わらない雰囲気で捉えられているんじゃないだろうか。私は全くお伺いする気持ちがなかった。
 賭だったんだから、それが外れちゃっただけだよ、とはいえないの?

性犯罪は別だとおもうなぁ

 8月のはじめに日本体育大学の18歳の学生が真夜中に帰宅中の女性を後ろから来て自転車をぶつけてぶった押し、田んぼで性的暴行を加え、ようやく捕まった。未成年だから名前も顔も出ない。卑怯この上ない行為で最初にこの記事を読んだ時に怒りに震えて何も書けなかった。どう考えても人間性を失った行為で、許し難い。
 未成年だからどうせという考えが働いていると思っても良いだろう。こういう奴が報じられると、こんな奴が更正なんてできるわけがないだろうし、被害者の抱え込んだトラウマを考えると許してなるものか、という気持ちがふつふつと湧いて出てとどまるところがない。
 もちろん自分が犯したことの愚劣さに気づくことのできないそんな自分を作り出してきた家庭環境、それを助長したかも知れない生育環境、あるいは身近な社会環境にあったことが遠因になっていたのかも知れないけれど、それにしてもこうしたただ単に卑劣な行為は許し難い。
 表現の自由だということにはなっているけれど、こういう行為を助長するコンテンツ産業(産業というほど立派なものじゃない、恥ずべき産業というべきか)というものはあって、そうした倫理観がどこかに吹っ飛んでしまっている、あるいは未だに身につける機会に恵まれていない人たちが、別段大したことではないという観念を植え付けられてしまう可能性はある。それでも自由なんだ。

当然の反応

 日本航空は今後の方針として国内外約50路線からの撤退を挙げている。しかし、地方からは「経営が厳しいからもうからない路線を切り捨てるというのでは国民の信頼を失う(井戸敏三知事:毎日新聞 2009年9月29日 兵庫版)」という批判の声が上がっている。神戸空港なんてものを作ったのがそもそもの間違いなんだけれど、それとは違って生活航路となっているところはいくらもあって、そういう地域でそんな悲鳴が上がるのは当たり前だ。
 しかし、利用者の絶対数が望めるかといったら誰がどう考えてもそんなことは期待できない。函館-奥尻の航路は双方の人口を考えたって、その二つのつながりを考えたって毎航満席なんてことが考えられるわけがない。それでも利用する人はいる。そういう人は奥尻から船に乗るしか方法がない。それでも船があるんだからまだ救われるというところか。唯一の航路がなくなればその便利さからも撤退せざるを得ないということになる。
 そうでなければ、赤字を垂れ流していくのか、ということになるけれど、それをずっとそのままにしてきたからここまで来てしまったということだろう。結論からいうと離島航路は別会社にしてやるしかないだろう。自治体が民間バス会社が撤退してしまった地域にコミュニティバスを走らせるような発想しかやりようがない。それこそ一日一便もしくは二日、三日に一便しか飛ばないけれど、なくなってはいないというやり方だ。
 欧州に行くと確かにこの田舎町と都会の駅との間にパブリックの交通はあるのだけれど、水曜日と土曜日に一往復だ、というようなところに結構出会う。こうした方式しかないだろう。地方自治体からの陳情に与党議員がくっついて歩いて運輸省の役人を脅かして継続してきたやり方はもう通用しないもの。
 それこそ至近の静岡富士山空港ではないけれど、この狭い島国に90を超える飛行場があること自体が大間違い。運輸省が地方出身の自民党議員と土建屋に振り回されて波風を立てずにやろうとしてきたことが間違いの元。「いつかどうにかなっちゃうだろうけれど、その時には俺はもういないよ」方式はこの種の話にはとても有効だった。自民党陳情政治の真骨頂だ。誰がここまで放置してきたのかといったら、そんなやり方でもおかしいと思わなかった私たち「世界に誇る」日本人だよ。

やっぱり

 亀井静香の金融・郵政改革担当相はやっぱりミスキャストだろうなぁ。全体を見渡せていないような気がする。
「私が言ったから株が下がるほど脆弱(ぜいじゃく)な銀行は銀行業を営んでいく資格がない(2009年9月29日 読売新聞)」って、そりゃないと思うなぁ。実入りが悪くなるとわかっている会社が採算性を向上させることができるとは誰も思わないもの。そうなりゃ配当が圧迫される可能性は充分高くなるもの。そうなると態勢として売り気配が濃厚になるのはやむを得ない。これは投機じゃないから。はっきりいってもう柔軟性に欠ける。

先代「しらせ」

9月11日まで文部科学省が公募していた先代「しらせ」の後利用に関する件について4件の利用公募案が発表されている。

  • 沖縄県浦添市の誘致研究会:日本や周辺各国の小中高校生へ提供
  • 広島県江田島市の株式会社大柿産業を代表とするグループ:小・中・高校生を対象に海洋体験学習
  • 株式会社ウェザーニューズ:脈々と未来につながる「地球環境」というテーマに多くの人々が参加し、共創する場
  • 大阪市特定非営利活動法人日本環境技術協会:先代「しらせ」の実績を生徒及び学生、一般人に広く知ってもらう

 ま、要するにどのアイディアも展示するというパターン。これはもう航海はできないのだろうか。南極行きクルーズ船には古くなりすぎているということだろうか。あるいはそんな縛りがあることも考えられる。1982年竣工の本船はもうすでに27年が経っている。今でも横須賀に係船されているだろうか。

逆方向へ?

保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が第1党の座を守り、大連立の相手だった左派の社会民主党SPD)が歴史的大敗を喫した。この結果、同盟と第3党の中道政党、自由民主党(FDP)による連立政権樹立が確実
社民党の大敗は、福祉重視型の社会を築いてきた欧州社民主義の行き詰まりを示した
社民党緑の党が政権の座にあった2002年、稼働期間が32年に達した原発を順次廃棄する「脱原発」政策を始動させた。これを転換し、稼働期間を延長する(2009年9月29日付・読売社説)

SPDは雇用の確保など中低所得層向けの政策を前面に出して支持を訴えたが、この11年間政権の座にあって現実路線をとり、左派色の強い政策を実行できなかったことから、従来の支持者が緑の党や左派党などに離れた(asahi.com 2009年9月28日10時35分)

 読売の論調はどう見ても英国のGordon Brown労働党政権も早晩保守党に敗れるのは目に見えていて、欧州はやっぱり何をするにもグローバリズムの世界にあって経済競争に勝たなくてはならないし、地球温暖化対策として原子力発電はやめられないだろうという印象を強く持たせる社説になっている。
 総じて、日本の政権が自民党から民主党に変わったことが世界の潮流から逆行しているぞというイメージを持たせるものになっているといっても良いかも知れない。もちろんこの読売は「社説」だから色が濃いということにもなるのだろう。
 色が濃いといえばもちろん産経新聞の「主張」が有名だけれども、こちらは明白に日本の自民党にエールを送っている。

ドイツの有権者が、一見安定感がある左右の大連立よりも、自由主義を前面に打ち出す中道右派連立政権を選択した意義に注目したい。日本の各政党、とりわけ下野した自民党には学ぶ点が多いのではないか。
しかし、脱原発には莫大(ばくだい)なコストがかかる。地球温暖化対策で原発が見直されているとき、メルケル首相は「再生可能エネルギーが普及するまでは原発の運転を延長する」と公約した。現実を直視する、こうした姿勢が評価されたのではないか。(msn産経ニュース 主張 2009.9.29 03:23)

 わかりやすいなぁ。 金がかからなきゃ悪魔にも魂売るって訳ね、産経は。

JR西日本つづき

国土交通省航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)の山口浩一・元委員(71)からJR西日本山崎正夫・前社長(66)に漏えいされていた問題
当時、事故調の鉄道部会長だった佐藤泰生・元委員(70)も報告書公表前に鈴木喜也・東京本部副本部長(55)と複数回にわたって接触していた。この二人は旧国鉄の構造物設計事務所での同僚。
山口:山崎前社長に要求され、事故調査委の会議で「自動列車停止装置(ATS)があれば事故が防げた」などとする文言を報告書案から削除するよう発言
佐藤:「向こうから接触してきたので、JR西の安全対策などを探るちょうどいい機会だと思った。(JR西幹部には)中間報告書など公開されている情報の解説をした」(2009年9月26日 読売新聞)

 これだけじゃ終わらないだろう。
 鈴木JR西日本東京副本部長は「後ろめたい気持ちはなかったか」との質問に「佐藤さんに迷惑をかけてはいけない、という気持ちはあった」と漏らした(神戸新聞2009/09/26 23:27)と報じられている。「会社のためだと思って心を鬼にして踏み切ってしまいました」なんて答えれば良かったのにねぇ。この答えじゃ、佐藤に悪いと思っているだけの奴と思われるに違いない。
 しかし、JR西日本はこのままの体制で終われると今でも思っているのだろうか。偶々こんな時に幹部にいたのは俺の所為じゃない、とどうせ思っているんだろうということは想像がつく。かつての全日空の若狭ほどではないとはいえ。旧国鉄も官僚意識が未だに払拭できている訳じゃないんだということだ。

週初めはいつも

 昨日の月曜日のことなんだけれど、ここのところ手元不如意に陥っていて銀行に行こうと思い立った。で、割と近場の方の支店に行ったらずらずらと二つ折れ、三つ折れになって人様が並んでいる。ありゃぁ、こりゃ凄いことになっているなぁ、じゃ、もう少しやり過ごしてあっちにも支店があるから、そっちで買い物なんぞをしてあっちの支店に入ればいいやと思っていった。そうしたらあっちの支店なんかもっと長い列になってしまっているのである。どういうことなんだろう。週の初めというのは毎週そうなのか?それともこの前のシルバーなんたらという休みの固まりが余韻を引いていて日曜日が明けるまでそっち方面がそうは問屋が卸さなかったということだろうか。
 こっちは問屋がどんどん卸してくれる状況なんだから後にずらせば良いだけの話だ。どれほど寝ても頭の痛いのが消えていかず、こんなことは珍しい。昨日の夜に脳圧が極端にあがったのかも知れない。危ない、危ない。リラックス、リラックス。
 その点ではきらきらアフロ鶴瓶がしていたざこばの話は笑うけれど、相当にやばい。酔っぱらって客前に出てきて「お前ら、俺のこと嫌いやろ!」はない。ないが、それを押しとどめるのに鶴瓶がキスしちゃうのはやばい。それも何度も。
 しゃぶしゃぶをしていて「俺もしゃぶしゃぶになる」といって大やけどしたざこばがやけどの後を隠していて、楽屋で米朝に見つかって「おい、どないしてん?」と聞かれ、「入れ墨、けしましてん」ととっさの知恵。そこまでは良かった。「なんて彫ってたん?」とたたみ掛けられて、ヨイショのつもりで「へ、米朝命」。「それを消したんか?!」
 一昨日のライブハウスにいた役者でロックンローラーだという「勘違いエーちゃん」みたいなバカは掃いて捨てるほどいるけれど、こうした話を聞いて見ると現場そのものは同じような状況だ。だけれどもその周りは結構気を遣って収めてきているということだ。勘違いのバカ野郎はもう二度と見たくない、だけれども、この類はどこにでもいる。
 みんな目立ちたいんだよね。みんな自分をかまってほしいんだよね、みんな自分を見ていてほしいんだよね。そういっていながらかまいまわしてくれる親はウザイんだよね。そうそう世の中上手い具合にはいかないわ。かまってほしい人からは無視され、かまって欲しくない人からはちょっかい出されるんだわ。いくつになってもそれは変わらないんだわ。人間って学習しないんだよなぁ。
 あ、この部分週初めにはなんの関係もござらぬ。明日こそ勝負だ。