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47thの備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-11-08

慎泰俊『働きながら、社会を変える。』

備忘録」と名付けたブログ自体、危うく忘れそうになってしまうぐらいの久方のブログ更新です。

すっかり半年に一度の更新ペースになりつつあるのですが、それもこれも今年は忙しかったから・・・などという言い訳を用意していた自分の頭をガツンと殴られたようなショックを感じたのが、二人の友人が時期を同じくして送ってくれた新著でした。

まずは、先に届いた慎泰俊さんのこちらです。

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

慎さんとは、私がニューヨークブログを書いている頃に、お互いのブログを通じて知り合いました。

それがいつぐらいなのかとふと思って慎さんのブログ調べてみると・・・どうも2005年9月のHurricane Katrinaに関する考察の辺りのようです。

そうすると、それからもう6年が経つということになります。いや、まだ6年しか経っていないと言うべきかも知れません。

6年前は独学でMBA進学を志しながら、たくさんの知識を吸収し、それをブログでアウトプットし続ける一人の青年でした。

その彼が、たった6年間の間にMBAを修め、外資系金融機関金融モデルを組み立てる専門性を身につけ、更にPEファンドに転身し、(まだ直接一緒に仕事したことはありませんが)同じフィールドで働くようになり・・・たった6年の間に、彼はビジネス・パーソンとして、自分の目指した道をものすごいスピードで進んできています。そのことだけでも凄いことなのに、彼はビジネス・パーソンとしてのキャリア以外の自分の可能性の追及も怠らず、それをLiving in Peace(LIP)という形で実現させてきました。

前書きで彼はこう言っています。

 僕は、世の中がよくなるためには経済がよくなる必要があると信じている。だから、企業の成長をサポートするこの仕事(筆者注:PEファンド)には大きな意味があると考えているし、もっといろいろなことができるようになるためには、早くこの業界における一流のプロフェッショナルになりたいと思っている。

 でも、この「本業」だけが僕の人生のすべてなのか、というとそうでもない。世の中には本業を通じて解決できる問題もあるけれど、本業では直接的な対象としていない問題もある。たとえば、教育問題や貧困問題などは、僕の本業の主な守備範囲には入らない。・・・

 自分が取り組むべき課題を一つに絞ることは重要だと多くの人がいう。そうかもしれない。けれど、本当に人は一つの課題だけに取り組むべきなのだろうか。たとえば、「仕事と子育ては両立できない」と言って、仕事をする人は子育てなおざりにしてよいのだろうか。

 目の前にたくさんある課題について、たった一つに取り組む、と言わずに、きちんと優先順位をつけてそれぞれの課題に自分の24時間を割けばよいのではなかろうか。

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2011-03-26

これから「原発」とどうつきあっていこうか

最初に告白してしまうと、3月11日巨大地震以後これまでぐらい、自分のチキンぶりを思い知らされたことはありません。

携帯に入ってくる地震速報にびびり、福島第一原発の状況に一喜一憂し、文科省の環境放射線水準を確認しては、家族を実家に疎開させるべきかを思い悩み、今日もまた情報収集をしながら、いろいろなリスクを考えてしまいます。

こういうストレスがかかると、人間は攻撃的になりがちで、私も反省しなくてはと思うことが多々あるんですが、それにしても「原発」まわりのことについては、感情的に過ぎないかと思うことがあります。

一方の極みには、今回の福島の事故をもって、原発は人間に扱えるものではないと決めつけて、早急な原発廃止を求める声があります。

確かに、目に見えない放射線は不安ですし、今もまだ予断を許さない状況であることは間違いありません。

ただ、ギリギリのところとはいえ、今この時点でも、原子炉を制御下に置くための努力は続いています。楽観はすべきではありませんが、核反応の進行は抑制されているようですし、放射性物質の漏出についても二重三重の封じ込め構造が一定の成果をあげているように思えます。また、同じく津波の被害を受けた女川や福島第2原発では今のところ事故は報告されていません。地震専門家ですら想定外であった超巨大地震と巨大津波の直撃を受けて2週間、亀の歩みのようでも原子炉を制御下に置こうとする営みは続いており、今この時点で白旗をあげてしまうのは、余りにも性急という気がします。

とはいえ、もう一方の極みにある、ともかく原発経済活動に不可欠なんだから、原発廃止論は非現実的だという決めつけも性急だと思います。

もちろん、今、福島第一原発で起きていることなんて、全て想定の範囲内リスクは織り込み済みだった、というなら別ですが、普通は、日本の原発はしっかりとした安全体制がとられており、放射性物質の漏洩はまずないという前提で考えていたんではないでしょうか?あるいは、事故は起きるにせよ、例えば、東京の水道で基準値以上の放射性物質が検出されるような状況になるとは思っていなかったのではないでしょうか?

少なくとも、地震前の私の認識はそこまで及んでいませんでした。

そもそも、福島第一原発地震後立て続けに起きた事象については、未だ現在進行中であり、水素爆発や原因不明の黒煙騒ぎ、タービン建屋への放射性物質を含んだ水の流れ出し等々、専門家ですら予想できなかったことや、現場への接近が限定されているため、その原因を確定できないことが多数生じています。

原発の有するリスクは、今回の経験を踏まえて、こうした事象を安全にコントロールできる手法が確立できるかどうかにもよるわけで、当然ながら、リスクの見直しは必要なはずです。

それを見極めないうちから、原発は不可欠だと言っても説得力は感じません。

あるいは、今回の事故でも健康被害が直ちに生じるような水準の放射線被害は出ていないから原発の安全性は揺らいでいないとか、過剰反応だという意見があるのかもしれませんが、これは少し違うと思います。

放射線に関する基準は一定の前提を置いたものであり、短時間の被曝で直ちに健康に影響が出るものではないことは、その通りでしょうが、原発は相当の長期間そこにあり運営されるものであり、また、今回の事故による放射線量の増加がどの程度の期間で収束するのかということも、未だはっきりとしたことは誰も言えない状況です。

今、まだこの時点で健康被害が生じないということと、今後もその心配がないということは、(当たり前のことながら)全く別です。

原発が安全であるというためには、通常の恒常的な運転状況での放射線量が基準値以下に抑えられることはもちろん、今回のような事故による放射線量の基準値超過状況が、最終的に健康に被害を与えるようなレベルに至る前の短期間あるいは狭い地理的範囲で収まって言える話だと思います。

後者は、今まさに進行中ですから、この推移次第では安全性が確保されないという評価になることは十分にあり得ます。

他方で、原発による生命・健康リスク「だけ」を、ことさらに問題視することも合理的ではないと思います。

人間の経済活動は、たくさんの生命・健康リスクを生み出します。それこそ、交通事故で日本国内だけで何千人の人が死んでいますし、たばこは本人の健康リスクだけでなく受動喫煙により周囲の人の健康リスクももたらします。もっとマクロな視点でいえば、電力不足による停電は、例えば暑さ寒さによる健康へのリスクや交通事故リスクの増加などの形で間接的に人の生命身体に影響を及ぼすでしょうし、それによる経済活動の低下は、貧困や社会サービスの水準低下による生命・健康へのリスクを増大させる可能性もあります。

原発による生命・健康リスクは、最終的には原発を失うことにより生ずる、そうした他のリスク要因とのバランスで議論せざるを得ないはずです。

・・と、いつものように、あっちの話もこっちの話にもけちをつけ、結局、おまえはどうなのかと、原発廃止派からも推進派からも石を投げられそうなので、最後に私の「今」のスタンスを明らかにしておきます。

私が、今欲しいのは、自分の頭で考え、自分なりの結論を出すための判断材料です。

中でも、福島第一原発の今の状況のメカニズムは何で、それはどのような形で対処されるのか、そして、今後対処可能なのか。現在進行形で起きている、今のこの事象が、やはり私自身のリスク判断にとって一番大きな要因とならざるを得ません。逆にいえば、福島第一原発の状況がある程度目処がつく前に、原発をどうするかについて自分の意見を固めることはできません。

しかし、別に、何もせずに様子見するつもりはありません。

私自身、今回のことを通じて、原発、そして日本のエネルギー事情について、もっと勉強しないといけないということを痛切に感じています。とりあえず、電気事業連合会が出しているINFOBASEという資料ダウンロードし、ipadに入れて勉強し、同じく電気事業連合会の出している過去の電力統計などを見ながら、当面の発電能力を欠いた東日本での電力供給にどのような道があるのかを自分なりに考えています*1原発の安全性についても、二次情報を鵜呑みにするのではなく、推進派・反対派によるものを問わず、なるべく偏りのない情報を集めていこうと思っています。

そうした個人レベルで判断材料、能力を高めるのとは別に、マクロレベルでは、今回直接に影響を受けなかった既存の原発の安全性についても、早急に検証がなされるべきだと思いますし、その情報は広く公開されるべきだと思います*2。安全性の前提となる想定の妥当性、想定に対する安全確保のための方策の妥当性、想定外の事象が起きた場合の事後的・非常的な安全確保のあり方について広い範囲で多様なレベルの専門家の目にさらされることが、安全性の確保と共に、原発に対する不安感の払拭には必要だろうと思います。

また、想定外の事態が起きたときの原発のもたらす経済的なリスクも踏まえた上で、改めて代替エネルギーエネルギー需要側の構造転換との経済性比較がなされるべきだと思います(もしかしたら、これまでにも十分それはなされているのかもしれませんが、そこも勉強していきたいと思います)。

いずれにせよ、今回のことを通じて思い知らされたのは、自分と周囲の人たちの生活にかかわる大きなリスクであるエネルギー原発のことについて、上っ面なことしか分かっていなかったことです。原発反対、賛成と自分の旗幟を明らかにするほどの情報もなければ、そう主張する人たちを合理的に説得できるような材料も有していません。

もちろん、原子力専門家になろうとは思いませんが、反対・賛成という形で自分の意見を持つのであれば、自分と違う立場の人に対して、自分の立場を説明して説得できる程度には一次情報やロジックをきちんと踏まえないとと思っています。

エネルギー問題というのは、理論で全てが決まる問題ではありません。リスク定量的に把握することは科学的なアプローチでできるかもしれませんが、その結果明らかになったリスクを、どの限度まで、どのような手続で受け入れていくかは、純粋な科学の問題ではなく社会的・政治的な問題です。

自分の立場が正しいと思うのであればあるほど、その「正しさ」を相手に納得してもらうための丁寧なロジックと対話の姿勢をもって、違う立場の人を説得していきコンセンサスを形成できなければ、その「正しさ」が実現することはありません。

随分長くなってしまったので、最後に、もう一つだけ。

今回の事故について、もう犯人捜し=誰の責任かという議論が始まっているようです。

ただ、元々「原発」については高度の専門性、政治性、経済性が絡まっている上に、そのきっかけとなったのは地震専門家でも想定外と言ってしまう巨大地震と巨大津波です。

見方によっては、誰かに責任を押しつけることは容易にできるでしょう*3が、今回の事故による巨大な被害の全てを引き受けさせるだけの帰責性を見いだせるかは、そう簡単な話ではありません。

また、「罰」や「責任」は何のためにあるのかという視点も重要です。私は、「責任」や「罰」は、それによって人々のインセンティブに影響を与え、将来過ちが起きないようにするためのメカニズムだと思っていますし、そうした形で運用されるべきだと思っています。

単に、誰か犯人を見つけて溜飲を下げたいというのは、ペストの発生を魔女のせいとして火あぶりにしたいという欲求*4と大して変わらないような気がします。

ここでも、事故の発生メカニズムが明らかになった時点で、将来に向かって同じような間違いを防ぐために必要な責任のあり方という観点から議論がされることを期待したいと思います。

最後に、こちらは昨年の春、福島第一原発から直線距離で50キロほどの三春で撮った写真です。

この美しい場所が、もし人の立ち入れない区域となってしまうようなことがあれば、もしかしたら他のものを犠牲にしても原発は不要と考えるのかもしれません。

感情に偏った過剰反応はいけませんが、こうしたセンチメントは、やはりそれはそれで人間が人間らしくあるために大事なものだということも、特に私のような頭でっかちな人間は忘れないようにしないといけないのかもしれません。f:id:ny47th:20110326193534j:image:right

*1:産業インフラである電力が一定期間にわたり不足する状況で、社会がどのように対応していくのかは、壮大な社会実験でもあり、これの行方もまた将来のエネルギー政策を自分なりに判断する上での貴重な情報源となると思います

*2:何でもいいからとりあえず危険だから原発を止めるというのは賛成しません。ただ、原発を止めると電力不足になるからそのまま運転し続けるというのも乱暴な話で、需要予測や地域を越えた電力融通の可能性も踏まえた上で、設備の安全性チェックのロードマップは早めに示すべきだと思います。

*3:つまり、「あれなくばこれなし」という意味での条件関係は、いくらでも見つけることができる

*4:もちろん、手続や理由付けはもっと洗練された近代的なものが使われるでしょうが

2011-01-05

facebookへの出資スキームのどこが問題か?

f:id:ny47th:20101123063408j:image

遅ればせながら、皆様明けましておめでとうございます。

写真は本文とは全く関係ありませんが、最近、趣味をきかれると「写真」と答えるぐらいにはまっているので、今年はブログにも積極的に載せていこうかなどと考えています。

中身ではなく、写真の方へのコメントも歓迎いたします。

それはそれとして、今年最初のエントリーはやはり今年の抱負かなぁ、でも毎年そんなんちゃんと立ててないし、どうしよう・・・とか迷っているうちに、正月休みも終わってしまったんですが、今日、さる方から電話がかかってきて、新年のあいさつもそこそこに、「facebookGoldman Sachsが出資したスキームについてSECが調査しているらしいですけど、どこが問題なんですか?」ときかれて、「その話は知っているけど(心の声:twitterのTLに流れてたな、なんか)、具体的なことは知らないけど、もうちょっと話してみて」と、伝聞情報だけで与太話をしていたら、面白いかもと思って、ちょこっと調べてみたので、結局備忘ということで。

元ネタ収集は無料登録で記事が読めるNew York Timesからですが、とりあえず以下の3つぐらいを見てみると・・・

ちなみに、皆さん、ご存じのようにfacebookは非上場会社です。したがって、今のところ、日本でいう有価証券報告書とか四半期報告書の開示義務はない上に、そもそもこうした報告書に必要となる財務諸表作成義務とか監査を受けなきゃいけない義務もありません(もちろん、SOX法の各種ガバナンス関係規制もかかりません)。

今回のスキームでは、GSロシア投資家と一緒に5億ドルの投資を行いますが(GS分は4.5億ドル)、それとは別に投資ビークル設立して、そこへの投資GS資産クライアントに募っているようです(ちなみに、最低投資額は200万ドルのようです)。

最終的に、どのぐらいの人数の投資家がこのビークル投資するかは分かりませんが、こうして投資ビークルを介して、法定開示を行っていない企業への投資を勧誘するのは脱法じゃないの、というのが、今回のSECによる調査の一つのポイントではないかと記事は言っているわけです。

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2010-01-28

新たな役員報酬規制への違和感

 おおむね月1度ペースで開催されている資本市場研究会の勉強会は、本当にいつも勉強になります。

 で、今回は首都大学東京の尾崎悠一准教授による「金融危機役員報酬規制」というご報告でした。

 詳しい内容は、きっと研究会の成果をまとめた本に載ると思いますので、私の印象に残った要点だけでいいますと・・・

    • 金融機関役員報酬規制は、元々「過大なリスクテイクのインセンティブを役員に与えない」ということを主眼として主張された。
    • 具体的なコントロール手段としては、さまざまなものが言われているが、大きく分けると、報酬決定権限の所在と報酬の形態について議論がなされている。
    • 決定権限の所在としては、(1)独立取締役からなる報酬委員会の権限の強化、(2)株主総会決議(勧告決議)の要求(いわゆるSay-on-Pay)の流れがある。
    • 報酬の形態については、リスクに整合的な報酬体系をとることが主張され、(1)インセンティブ報酬の割合又は額の抑制、(2)インセンティブ部分については、stock optionではなく、長期のrestricted stock*1の利用、(3)後にリスクが顕在化した場合の報酬の一部の返還(clawback)の導入等が主張されている。
    • 近時は金融機関だけでなく、事業会社についても同様の役員報酬規制が議論されている。

 技術論的にも色々と興味深い話はあるのですが、個人的に違和感を感じたのは、規制目的と手段の整合性がとれていないような気がしたことです。

 まず、「過大なリスクテイクのインセンティブ」という問題は、預金取扱金融機関については、それなりに合理性があるような気がしています。というのも、一般的に、負債提供者が事前に予測している以上の過度のリスクテイキングがなされると債権者から自己資本提供者への利益移転が起きます。通常は、財務制限条項や期限の利益喪失条項等によって、そのような利益移転の発生を防止するわけですが、預金提供者の大半を占める個人預金者間には集合行為問題等があり有効なモニタリングや、適切なアクションがとられない可能性があり、結局、効率性が害される可能性があります。加えて、預金については一定の預金保険で守られることから、ますますこのような債権者=預金者による規律は弱まります。その意味で、預金保険による直接の効果は、(経営者ではなく)預金者による(モニタリング・コスト等をかけないという意味での)モラル・ハザードといった方がいいのかもしれません。そのため、利益移転のみを意図した、その意味において「過度な」リスクをとる判断がなされる可能性があると思われるからです。

 その意味で、目的には一応の正当性はあると思われるのですが、このような意味での「過度の」リスク・テイキングの防止は、もっと直接的に自己資本比率規制やリスク管理体制の義務づけなど預金取扱金融機関リスク管理を規制することでも可能です。また、上記のような意味での「過度の」リスク・テイキングは、経営者株主との間のエイジェンシー問題から生じるのではなく、預金者と株主との間で生じるエイジェンシー問題に起因するものです。

 したがって、少なくともSay-on-Payのような株主インセンティブ経営者インセンティブを一致させる手段は逆効果ですし、同じようにインセンティブの方向性が株主と一致している限りは、インセンティブ報酬の形態は本質的な問題ではないようにも思われます*2

 端的にいえば、株主と預金者との間のエイジェンシー問題から生じる「過度の」リスクテイキングに対しては、報酬規制というのは余り効果がないのではないかという疑問を持ったわけです。

 でも、まあ、預金取扱金融機関については、預金者の属性と預金保険の存在を前提とすると、経営者を少しリスク回避的なぐらいにふっておいた方がいいという判断もあり得ないわけではないので、やはり設計の仕方次第だろうなと思います。

 これに対して、預金取扱をしていない金融機関と事業会社については、そもそも「過度の」リスクテイキングの意味がよく分からないところがあります。というのも、例えば、今回の諸悪の根源とされている投資銀行についていえば、その資金提供者は零細な預金者ではなく、モニタリング・コストをかけようと思えば、ある程度かけることのできる債権者です。彼らは財務制限条項や期限の利益喪失条項等を用いて利益移転のみを目的としたリスク・テイキングにはある程度の歯止めをかけることができます。

 また、いわゆるプリンシパルインベストメントについていえば、これは完全な自己資本ですから、自己資本提供者、例えばパートナー性の投資銀行であればそのパートナーが経営者を管理する(あるいは相互監視する)インセンティブを持っています。

 その意味で、利益移転のみを目的としたという意味での「過度な」リスク・テイキングは、私的なアレンジに任せていても、ある程度防止できるはずです。

 なので、ここで「過度の」というのであれば、あとはこうした直接的な当事者以外の外部的な効果を意識したものと考えざるを得ません。例えば、余りに大きな企業が潰れると回り回って預金取扱金融機関も潰れて預金保険の対象になるからとか、あるいは、もっと直接に預金保険の対象とならなくても政治的に公的資金が出されるからといった議論になります。

 確かに、こうした外部効果は考えられますが、それを理由として、当事者間の私的なアレンジメントに介入することには、大きな危険が伴います。端的にいえば、ここでは利益の移転のみを目的としたリスク・テイキングは既に私的なアレンジである程度抑止され、リスクとリターンの関係は見合っているわけですから、ハイリスクな活動を抑止することを目的とした規制は、そのままハイリターンな活動も抑止してしまうからです。

 この意味で、預金取扱金融機関や事業会社に対しても、「過度のリスク・テイキング」の防止を目的とした報酬規制を導入しようとするのは、預金取扱金融機関以上にしっくりとこないものを感じます。

 もう一つテクニカルな面で違和感があるのが、報酬の払い戻し(clawback)です。

 これは、過度のリスク・テイキングでリスクが顕在化して株価が下がると株主が害されるからということのようですが、市場が少なくとも情報効率的であれば、株価には企業の選択したリスクが既に反映されており、結果としてプロジェクトが失敗に終わって株価が下がったとしても、その下落可能性自体が予め株価に織り込まれていた以上、株主は何も「害された」わけではありません。

 にもかかわらず、裏目に出た際には報酬の払い戻しをさせるというのは、しっくりとこないところがあります*3

 ということを、尾崎先生に聞いたところ、ここでの問題意識は、元々の開示においてリスクが十分に開示されていなかった(つまり、市場価格がリスクを反映していなかった)ような事態を考えているようだとのことでした。それなら、理屈は納得できますが、それならそれで、そのようなことは不実開示責任の責任追及の枠組みで議論すべきであって、リスク情報をちゃんと開示している企業まで巻き込まれてしまう報酬規制で対応するのは、これまた目的と手段のバランスが崩れているようで違和感を感じたところです。

 とまあ、簡単にまとめるつもりが、少し丁寧に考えを追うと長くなってしまいました。

 ただ、報酬規制というそれ自体はきわめて会社法的な論点を考えるにあたって、目的の正当性や目的と手段の相当性を検証する意味で、ファイナンス理論や経済学的な考え方というのが有用だというイメージの一つの例にはなるんじゃないでしょうか。

 今日はこんなところで。

 

*1株式報酬であるが、株式譲渡可能となるまで一定の期間の経過や条件の成就が求められるもの

*2:もっとも、株主は長期的にみれば預金者に対して機会主義的行動をとらないというコミットメントを行うことで預金利子を低水準とするインセンティブを持っている場合でも、経営者に一回限りの裏切りを行うインセンティブが生じるような報酬体系となっていることはあり得ます。その意味では、ストック・オプションではなく、株式報酬(restricted stock)を用いるべしという主張には一定の合理性があるように思われます

*3:もちろん、ストック・オプションのようにアップサイドは無限に利益を享受できる一方、ダウンサイドリスクには限定があるような報酬形態については株主からオプション保有者への利益移転のみを意図した行動を誘発する危険もあります。もっとも、いつでも株式を売却してexitできる株主と違って経営者はその会社に特有の資源に投資をしなければならない時点でrisk averseな傾向があることから、アップサイドによった報酬形態の方が望ましいということでストック・オプションは採用されているわけであって、元々、そうしたバランスをとろうという試みがあるわけです。もちろん、企業によっては、ストック・オプションではなく、ダウンサイドも共有される株式報酬や後払い的スキームでバランスをとる方がいい場合もありますが、それも私的なアレンジメントに任せればよく、あえて規制で介入することを正当化する理由には弱いでしょう

2010-01-13

思いつき:ローとエコのすれちがいは、どこに?

 私は法学経済学ぐらいにシナジーのある学問はないんじゃないかと勝手に信じているんですが、世の中にはもちろんそうではない人たちもたくさんいます。

 「それがいい組み合わせである」と信じてもらうためには、まあ地道に実例や実績をつみあげていくしかないんでしょうが、最初から法学経済学水と油であるかのように思っている人や、そういう議論の構図になることが残念ながらあるようです。

 本当に残念だなぁ、と、思いながら、でもtwitterとかの140字では語り尽くせないぐらいに、誤解の溝が深いこともままあるんですが、いくつか典型的な奴について、思いつきでつっこんでおきましょう。

(現在の)経済学そのものに対する誤解

 まず、「経済学」ということでイメージしているものの内容に、そもそも誤解があるような気がします。

 ミクロ経済学の最初でみるような需要曲線と供給曲線が交わって均衡があるという図=市場に任せれば全てがうまくいくというのが経済学の全て(ないし、ほとんど)だと思っているとすれば、それはやはり誤解です。

 現代の経済学は、市場の失敗が起きる条件の特定や、それへの対処のために制度が有効であることを認識しています。とりわけ「契約理論」と呼ばれる分野では、契約が不完備であるという現実から出発して、当事者間の交渉だけでは最適な取引が実現しない場合があることを明確に認識しています。

 

 もっとも、需要供給分析に限らず、経済学の議論の特徴(だと私が思っていること)の一つである「モデル」を用いた議論は、それに慣れ親しんでいない人の拒否反応を招きやすいことには、十分に自覚的であるべきだとは思います。

 経済学の議論というのは、まず「モデル」を用いて最適(optimal)な状態を定義しますが、これは、それが実現可能だと思って、そう言っているわけではありません。

 「需要曲線と供給曲線の交わるところに価格と生産量が定まっていることが望ましい」ということは、現実に、それが達成されていることや、それが現実に達成可能であることを、自動的に意味するものではありません。むしろ「モデル」の前提条件を修正したり、色々な制約を加えていくと、こうした状態を達成することは非常に難しいことを知っています。

 それでもなお、こうした最適な状態を最初に議論するのは、目標とする方向(ベンチマーク)を明確にするためです。

 もっとも、これは方向性を定めるという程度の意味であって、予め最適な状態を知ることができるということではないので、注意が必要です*1。「均衡価格はあるはずだが、それを予め知ることができない」のは、市場で均衡価格に到達することを阻害している要因を特定して(例えば情報の非対称性)、それを解消するための政策的提案(開示制度)をするという目的においては、何ら不都合は生じません。

 ・・・と、脇道にそれましたが、こうしてベンチマークを明確に見据えることで、それが実現できない要因を整理して、採り得る対処方法を特定し、さらには考え得るいくつかのアプローチの中でより望ましいアプローチを選択する基準として、「モデル」を用いた議論は非常に重要なものです。

 ただ、こうした流儀に慣れ親しんでいない人に対して、まず「モデル」の正しさを納得させるところから始めようとすると、すれ違いが生じる可能性があります。

 というのも、ある状態Aと提案されている状態Bを比較する時に、あえて効率性の観点から「最適」な状態を定義して、そことの比較で論じるというやり方は、学問的には正しくても、普通に考えると、ダイレクトにAとBを比較すればいいのに、何でわざわざ「最適」を議論するのかという観点で直感的に分かりにくいところがあります。また、その「最適」状態の定義自体に、経済学に反感を持つ人が警戒心を有する最たるものである「効率性」という基準が、当然の前提として組み込まれているわけですから、「効率性」基準の妥当性を納得できない人は、そもそも「モデル」を用いてベンチマークを設定するという議論に対して、「何かだまされているんではないか」という警戒心を抱いてしまうことがあることもやむを得ないところがあるように思います。

「効率性」と「正義・公平」について

 というわけで、やはり「効率性」の議論は避けて通れないところがあるんだろうと思います。

 この観点でいうと、典型的な経済学の議論は、まずパレートあるいは、それを修正した意味での「効率性」基準に基づいて状態の優劣を定めます。

 このレベルの議論で達成された「効率性」は、分配の公平性を何ら保証しません。

 とりわけ一般の人に理解しがたいのは、最初の時点における資源の分配、もっと有り体にいえば貧富の差は効率性基準によって顧みられないことです。

 ただ、これを以て経済学は弱者に冷たいというのは早計です。「効率性」の問題と「分配」の問題をひとまず切り離すことは、それによって争点を整理するという方法論であって、それ自体が目的ではないはずです。

 パイの話にたとえれば、まずパイを大きくするためにはどうすればいいのかを議論して、パイを大きくしてから分けましょうという議論の仕方です。

 もっとも、そうきれいに両者を分けられるわけでもなく、パイを大きくするモチベーションを十分に与えるためには、大きくした後の分け前の仕方についても自然と考えざるを得ません。例えば、よくがんばった人にはたくさんあげるよ、といった動機付けです。

 多くの場合、このパイを大きくするための議論に際して、参加者に適切な動機付けを行うような分け前を考えていくと、自然と参加者にとって納得度の高い分配となるため、明示的に分配の議論を行う必要はありません。別の言い方をすれば、契約理論など個々の主体のインセンティブを十分に考慮した上で効率性を議論していくことによって、分配の公正性の問題が効率性の向上と一緒に解消されることも多いということです。

 ただ、こうした効率性議論は、(理由の如何を問わず)パイを大きくすることに貢献できない立場の人たちの救済のロジックは生まれてきません。

 ここに至ると再分配の問題に向き合わないといけません。もっとも、再分配というのは所得移転ですから、インセンティブの阻害やモラル・ハザードの問題をそれ自体含んでいますし、そもそも、そのような効率性に直接貢献しない所得移転のあり方についてのコンセンサス形成は非常に難しい話です。更にいえば、経済成長が期待できる場合には世代間所得移転なども考えられますが、不況期にはそういうわけにもいきません。

 いきおい、再分配の問題になると、誰しもトーンが弱くなり、最低限のセーフティネットは必要だが、財源は・・・という話になります。

 それでも、パイを大きくするための効率性の観点からの議論には大きな価値がありますが、その過程で出てくる「弱者」への配慮を欠いているととられると、やはり相互理解の障壁となってしまいます。

法律家」の二つの側面

 思ったより長くなったので、法律家による経済学への誤解だけではなく、「法律家」への誤解にも触れておこうと思います。

 この話を書こうと思っていたら、小倉秀夫弁護士twitter上で端的に問題をつぶやいていたので、引用させてもらいます。

@cloudgrabber @ny47th でも、法律家、とりわけ実務家って、対症療法を行うことを第1に求められているのです。経済学者の意見に従って対症療法を放棄ないし拒絶するようになったら終わりではないかと思ったりします。

 私を含めローエコが好きな法律家は、制度論を語るのが好きなので誤解を受けるかも知れませんが、小倉弁護士の指摘のとおり、実務法律家の責務は目の前にある事件の解決、より端的にいえば依頼者の利益の保護です。

 そして、実務法律家の依頼者は、社会的強者とは限らず、往々にして社会的弱者であり、その利益の保護は伝統的に実務法律家の存在理由の一つです。たとえて言えば、病人を助ける医者のようなもので、目の前に困っている人がいれば、法的なスキルを用いて、その人の困っている状況を改善してあげたい、というのは実務法律家の行動原理です*2

 

 医療保険保険料を惜しんだために保険未加入の患者が運び込まれた時に、現場の医者に対して、「そんな奴を治療すると医療保険を支払うインセンティブを失わせるから治療すべきではない」といえば、まあ、100人中99人は反発するんではないでしょうか?

 私も、多分、反発します(笑)

 そのような意味では、法律実務家のそうした現場の医者としての職務について制度論の観点から不合理だといわれれば、まあ、カチンとすることは当たり前というところもあります*3

 一方で、法律家というのは、制度設計者としての側面を持つ場合もあります。そうした制度設計の議論を行うときには、現場の都合だけではなく、制度設計のバランスということも、やはり大切だろうと思います。現場で働く法律家にとってみても、苦しむ人自体が減るような制度設計であれば、本来は反対する理由はないはずです*4。 

というわけで

何か思いつきで書いていたら、結構長くなりましたが、他にも、経済学徒の方は日本での判例法的なものを含めた法やルールの形成過程が、かなり柔軟なものであることや、実質的に立法的な作用を担っていることについて誤解しているところがあるんではないかとか、法律家は価格メカニズムや市場の失敗の含意について誤解しているんではないかと思われる節もあるんですが、とりあえず今日のところは、こんなところで。

ともかく、私の願いは、ローとエコの人がそれぞれの知見を組み合わせて、今の日本にとってよりよい「制度」は何かを活発に議論できるといいな、ということで。

*1:たとえていえば、解が存在することは分かっているが、その解が具体的にどんなものかを導き出すのはきわめて困難か、現実的には不可能というような状況でしょうか

*2:それ自体が合理的かどうかも経済学的には興味深いと思いますが、経済学徒の方は、「そのような行動様式をとることが法律家という職業のレントを維持するために望ましいからである」とでも思って、とりあえずはそういうものであるとして聞いておいてもらえると助かります

*3:また、そうした現場の人間の行動原理としては、目の前で手を施せずに人が苦しむというコストと感謝されるという心理的なベネフィットのネットのベネフィットと、その治療にかかる機会費用と金銭的な追加ベネフィットのネットの比較で前者を好むということは経済学的にみても不合理な行動ではありません。それを防止したければ、そもそも現場の医者のインセンティブ構造に手をつけなくてはいけません。もちろん、そのような極端な場合を想定したインセンティブスキーム副作用を及ぼす恐れがあるわけですが

*4:「本来は・・・はず」と書いたのは、苦しむ人がいることでレントを得られるということを暗黙のうちに理解している場合には、建前はともかく、苦しむ人が出てくる現状そのものを改善するインセンティブは乏しいからです。こういうことに限らず、制度設計を論ずる人とその影響を受ける人との間のエイジェンシー問題というのは、本当は相当に深刻な問題です