スターリンを退けた場所では


本来、佐藤亜紀氏への応答を先に行うべきなのですが、tikani_nemuru_Mさんへの応答をひとまず先に行います。佐藤亜紀様、「後回し」にして申し訳ありません。次回のエントリで応答させていただきます。


スターリニストなのでスターリンになりたくない(追記アリ - 地下生活者の手遊び

だから私には「社会意識は言論や表現とその流通のあり方をメッセージとした表象に対する読解の文脈として反映される」がわからない。最初この一節を読んだときは、ただの言葉遊びだと思ったことを正直にいっておきます。今は、それが言葉遊びでも詭弁でもないことはわかりますが、その意味するところは正直なところ腑に落ちてはまだわからない。私にとって表象は、それはそこにあるもので、読み解くものではない。読み解く主体は私にとって同志スターリンになってしまう。


私も正直に申し上げるなら、『言論・表現への法規制に抗するために』を一読したとき「tikani_nemuru_Mさんともあろう人が何を言っているのだろう」と思いました。表現に対して人類社会が積み上げてきたリテラシーを木っ端微塵に粉砕する先祖返りと思えたからです。表現に対して政治的判断において作家の「心がけ」を要求するなら、表現論にコミットする者はNOと言います。


政治的判断の前提となる状況認識において、私とtikani_nemuru_Mさんは近しくすると考えます。しかし、私は政治的判断を表現に対して行使しません。表象の商業的流通に対して行使するなら、ゾーニングを採ります。

私にとって表象は各々にとってそこにあるものであり、読み解くものではない。これは多分、愚昧の一典型でしょうし、そして私だけの愚昧でもないような気がする。「可視化された差別構造として表象を批判する*2」というのはそういうことではないでしょうか。ラディカル・フェミニズムにおいてのそれは戦略的愚昧なのかもしれませんが。運動というのは、どこかに愚昧であることを選択して内在させなければならないようです。


「可視化された差別構造として表象を批判する」ことは当然妥当です。ラディカル・フェミニズムが戦略的愚昧とは私は思いませんが、tikani_nemuru_Mさんと私との決定的な相違は何かと言えば、御承知の通り、表現に対する政治的判断の有無と、政治的判断に伴う主体の措定です。


tikani_nemuru_Mさんが御自身をスターリニストと仰るのは、政治的判断において判断の主体を「同志スターリン」と措定することなくして「可視化された差別構造として表象を批判する」ことはできない、と考えておられるから。その点において、ラディカル・フェミニズムをその愚昧を理由に退けることはできない、と。――「可視化された差別構造として表象を批判する」ためには、政治的判断において判断の主体を「同志スターリン」と措定しなければならない。


最初に書いておきますと、同意できません。「可視化された差別構造として表象を批判する」ためには、政治的判断において判断の主体を「同志スターリン」と措定しなければならない、はずがないからです。私の理解では、ラディカル・フェミニズムはそのようなものではない。そしてその理解は、たぶんmojimojiさんと近いのだろうとは思いますが。


私は、判断の主体を「同志スターリン」と措定することを退けます。そして、政治的判断を――表象の商業的流通に対してでなく――表現それ自体に対して行使することを退けます。「表現の自由」とは「表象の商業的流通の無制限の自由」ではない。問われているのはそのことだと私は理解しており、またそのことには同意します。しかし、なぜ「このような狂った世界において表現の自由は自明ではない」という話が繰り返し提出されるのか――念の為に付記しますが、佐藤亜紀氏が違うということは百も承知です――理解しかねます。


表現行為は自由です。その自由とは憲法概念ではありませんが、しかし表現行為は自由です。それが私のまったく政治的ではない判断であって、私の立場は、あくまでそこにある。表現行為は自由ですが、表現されたその後で、この世界に他者ある限り問題は発生します。その問題を相互理解ではなく共存の論理において「社会」へと包摂するために法はある。だから、その観点において主張される規制論には理があると私は考えます――私は採りませんが。


しかし、そのとき、表現行為に現行の社会を先立てて、表現行為に対して社会的な自重を迫るべきではない。憲法理念としての「表現の自由」とはそのことを指していると私は理解しています。だから、私の理路においても、「表現の自由」には紐は付かない。もっともこれは、「公共の利益」に表現行為を先立てる私の政治的ならざる判断に基づくものなので、異論は大いにあると思います。


「このような狂った世界において表現の自由は自明ではない」それは、政治的判断の前提となる状況認識であって、「だからこそ」自明ではない「表現の自由」はこの狂った世界において憲法理念として守られなければならない、というのが私の判断であり、規制反対論者の判断と理解しています。それが政治的判断かという問いに対しては、「同志スターリン」を措定しない政治的判断は共存の論理のトップダウンな実現でしかない、と答えます。


共存の論理のトップダウンな実現は、それが可能な社会であるならばあってよいことです。「それが可能な社会」の微妙については措くとしても、日本にその可能の余地はない、というのが私の「政治的判断の前提となる状況認識」です。政治的判断とは公安思想のことではない、むしろ公安思想を廃棄するために政治的判断がある。そして歴史を参照するまでもなく、高度に発達した公安思想と政治的判断は区別が付かないから、表現規制の問題に対して私は政治的判断を採りません。「同志スターリン」の措定は、言うまでもなく理念型です。そして理念型は、いつだって公安思想として実現されました。「それが可能な社会」において。日本における公安思想の未発展は、慶賀すべきことか否か。


端的に言うなら、カントは真善美の分解において近代批評の枠組を設定しました。真善美を体現する政治を20世紀の全体主義は指向しました。政治的判断が真善美における個別的判断を超越するものとして「同志スターリン」を措定するとき、それに基づく表象批判を私は退けます。ラディカル・フェミニズムが愚昧とは私はまったく思いませんが、また「可視化された差別構造として表象を批判する」ことは妥当ですが、しかし私はその表象批判を時に退けます。退けるとは、反論することですが。「同志スターリン」を措定して真善美における個別的判断を超越して表象批判するなら、淡々とそのことを指摘するまでです。「同志スターリン」を措定しないなら、話は別です。


表象批判は、たとえそれが不可視の差別構造の再現前に対する批判であるとしても、「同志スターリン」を措定した政治的判断として行われるべきではない。私はそう考えます。批評とはそういうことだからです。表象は強力だからこそ、表象には表象で対抗するよりほかない。上野千鶴子はそう言いました。


しかし、とここで問われることがあります。批評が真善美の分解を前提するとして、表象の商業的流通は21世紀の真善美そのものとして私たちにとってあるのではないか。それは、私たちにとっての切迫した政治そのものとしてあるのではないか。そのとき、表象読解という批評は政治的に無力ではないか。切迫した政治問題を批評の問題へと差し戻すべきか、政治問題には政治の処方箋しかないのではないか。表象の商業的流通という資本主義の暴虐に規定された21世紀の真善美を個別の判断へと分解することが批評によってそもそも可能なのか。個別の判断へと分解された表象がその政治的原罪において無力であっても、しかしその商業的流通は無力どころか沈黙の螺旋を強いる暴虐そのものとしてあるのではないか。であるならば、暴虐に対して、公共圏の構築しか妥当解はなく、防波堤もない。


――表現論としては難しいにせよ、ラディカル・フェミニズムの問題意識がこうした点にあったことは承知しています。ラディカル・フェミニズムが現在進行形の暴虐に対して別なる暴虐を要請したことも確かです。しかし。

性差別の深刻と「ある種のポルノの表現に内在する性差別性」をヒモ付けて考えるのではなく、ヒモで結ばれたものとして、あるいは一体のものとしてそこにあると認識しているのです。概念操作をそこで行っているわけではない、というかできない。


概念操作を行っているのでないのなら。「ある種のポルノ」の製作者やユーザーに対して性犯罪の暗数の話を持ち出すべきではない。貴方たちの表現行為とそれに伴う経済活動が現在進行形で性犯罪被害者を泣き寝入りさせている、と事実上言っていることがわかっておられますか。因果や相関やエビデンス以前に、そのように連関させる議論はきわめて危険です。


現在進行形で性犯罪被害者を泣き寝入りさせている表現行為と経済活動はあるでしょう。産経新聞とか、というのは半分冗談ですが。資本主義の暴虐とはそのことだからです。しかし、それが「ある種のポルノ」である、と陵辱エロゲに対して主張することは、日本における性犯罪の暗数を本気で問題としておられるなら、あまりにも、問いの筋道が恣意的に過ぎる。――いや、本気で問題としておられることはわかっていますが、だからこそ。

レイプと二次被害・三次被害は一種のヘイトクライムだというのが私の見解です。二次被害・三次被害というのは性差別の問題であり、大きくいえば差別問題をどう考えるかが私の問題意識です。私はヘイトスピーチ規制にははっきりと反対ですし、ヘイトクライムの重罰化も賛成できません。


ただ、差別は深刻な問題であるとは思います。私がヘイト云々の法規制に賛成しないのは、それが軽微な人権侵害だからではけっしてありません。

個別の犯罪が関連を持って継続する系統的な被害 - 地下生活者の手遊び


この見解に私は概ね同意します。しかし、レイプがヘイトクライムなら、『レイプレイ』はヘイトスピーチか。ヘイトスピーチではない。それが私の見解です。政治的には、生殖に及ぶレイプゲームが公共圏に存在することが問題なので、ゾーニングという暫定解になります。ヘイトスピーチとは公共圏の問題だからです。当然、ヘイトスピーチを「犯罪」と規定することに私は賛成しません。


表現論においては、理論上、ヘイトスピーチでしかない表現はありえます。それが、ヘイトスピーチでしかない表現か否か、そのことを知り、あるいは知らしめるために「表象は読み解かれなければならない」。そして、そのことは、規制論とは関係がない。ヘイトスピーチでしかない表現が公共圏に存在することが問題である、という問いをtikani_nemuru_Mさんは立てておられないと理解しています。つまり、tikani_nemuru_Mさんの理路においては、『レイプレイ』はその商業的流通こそが問題なので。


当然、それがヘイトスピーチの問題であるなら、そして「ヘイトスピーチでしかない表現が公共圏に存在することが問題である」という問いを立てておられるのなら、「表象は読み解かれなければならない」し、読み解かれた結果、その表現がヘイトスピーチたりえないなら、公共圏から排除される理由はない。というか、ヘイトスピーチを問題とする限り、表象の読解は公共圏で行われなければならないに決まっている。自主規制などとんでもない話です。だからこそゾーニング表現の自由においては問題です。


とはいえ、政治的判断の前提となる状況認識について述べるなら、そのような議論が可能な社会状況とは到底思えません。今までも、これからも。そして性犯罪被害者は現在進行形で泣き寝入りし続ける。にもかかわらず、源氏物語川端康成のような過去の古典ではなく、現在の陵辱表現に対して、それがヘイトスピーチでしかない表現か否か「表象は読み解かれなければならない」として、公共圏における吟味検分を前提として説く。それが、表現論にコミットする者の、こう言ってよいなら、歴史的な立場です。


そして――ヘイトスピーチでしかない表現が公共圏に存在することが問題である、という問いをtikani_nemuru_Mさんは立てておられないと私は理解しているので、問題が表象の商業的流通なら、つまりハーバーマス的な公共圏の問題ではないなら、そして規制論を採られないのなら、ゾーニングを採ります、とお答えします。というか、tikani_nemuru_Mさんはヘイトスピーチを表現論の角度から捉えておられない。その前提に立って「ある種のポルノ」をカテゴリー的にヘイトスピーチと指摘するなら、それはあまりに単純化された議論なので、私としては淡々と具体例に及んで指摘するしかないのです。つまり、討議的空間としての公共圏を支持する論者に対しては、そちらで話しましょうということになります。

私のごとき表現論における愚昧の徒は、その表現が結果的に成功しているとき、後付けでヒモを分離します。馬鹿にとってヒモは結ぶものでなく、切り離すものです。社会通念のコードに対する異議申し立ての有無は、あとから結果の出来不出来で決めます。まさに、sk-44氏のいうとおり、「シンドラーのリスト」も「川端康成」も、後付けで差別から切断されます。


そして、それ以外のスタンスのとりようがないわけです。「社会通年のコードと表現のコードを一致させる議論」が政治的というのなら、そもそもがナチュラルに政治的で、作品の出来次第で政治から切断となります。


そもそも世界は政治的である。そもそも世界が政治的であるとき、政治的なる世界から垂直するものとして表現はあり、表現の可能性はある。そして『シンドラーのリスト』も川端康成も、政治的なる世界から垂直したからこそ「後付で差別から切断されます」。――そういう話ならわかります。「作品の出来次第」と仰っていますが、言うまでもなく、「出来次第」は政治的判断で決まるものではない。御承知の通り、「表象は読み解かれなければならない」は「同志スターリン」を否定する主張です。


そして、「後付」ならまだしもtikani_nemuru_Mさんは「事前」にその話をしている。作家に「心がけ」を説いている。「読み解かれることに対する心がけ」ではない、「性犯罪被害者を泣き寝入りさせないための心がけ」を、です。それは、退けるしかありません。法学的見地において、あるいはテクニカルに云々ということの以前に、tikani_nemuru_Mさんは、相当に無茶なことを言っている。


たとえば産経新聞客員編集委員であるところの花岡信昭に対するように、公共圏の言論にコミットすると自任する媒体に対して「性犯罪被害者を泣き寝入りさせないための心がけ」を求めることは当然妥当です。しかし、「ある種のポルノ」は、陵辱表現は、ひいては表現行為は、そうではない。ゾーニングされる「公器」はありえない。たとえば、巨大なガラスケースの中で切断された牛の頭部が腐敗し蝿がたかり蛆を産み付けていく様をそのまま公共の美術館に展示したダミアン・ハーストは当時大顰蹙を買いましたが、当然、公共の美術館に展示しないことにはハーストの表現は意味がない。


そもそも、ゾーニングの理由は早い話が「エロだから」であって、「差別的な表現だから」ではない。問題が差別であるなら、当然、ゾーニングなどされるべきではないのであって、表象は公共圏において読み解かれなければならない。しかし「エロだから」ゾーニングされている。私としても、刑法の規定は認めませんが、「猥褻」という概念が社会に存在することは認めます。刑法の規定は認めないが「猥褻」という概念が社会に存在することを認める、という業界の判断がゾーニングでもある。tikani_nemuru_Mさんが理念型において「ある種のポルノ」と問題を措定するとき、それが「エロだから」ゾーニングされていることと、問題が表現の差別性にあるならゾーニングなどされるべきでなく公共圏において読み解かれなければならないこと――つまり現実の問題と理念型の問題を、ごっちゃにしてしまわれている。


繰り返しますが、tikani_nemuru_Mさんが仰る理念型に基づく「ある種のポルノ」は産経新聞ではない。ゾーニングや公安思想の問題等、政治的判断の前提となる状況認識についておそらくは近しいことを認めたうえで、公器に対する要求を理念型に基づく「ある種のポルノ」に対して求めることは構いませんが、私としてはそれは失当しているとして退けます。問題が問われるたび、何度でも退けるでしょう。性犯罪被害者の泣き寝入りを、現在進行形の問題として持ち出されようとも。


私は『レイプレイ』をプレイしていません。tikani_nemuru_Mさんはプレイされましたか。もししておられないなら、そのうえでなお、公器に対して公器の証明として為される要求を理念型に基づく「ある種のポルノ」に対して行うことは無茶です。現在進行形の性犯罪被害者の泣き寝入りを持ち出すなら、私としても、「エロだから」を理由とする官憲の弾圧の歴史と現在進行形のゾーニングの実施について幾度でも述べます。


余談ですが、ポルノの現場に関心があるかと問われれば微妙です。私には私の商売と人生がある。私自身はポルノユーザーであったことがない。性産業の現場は普通に自分の商売絡みですが、しかしエロゲと性産業を一緒くたにしうるものではない、にもかかわらず「抜き」に関わるものは一斉討伐しようとするのが我が国の官憲であり、そして官憲の本性においてそれは正しい。官憲の本性は致し方ないとして、もちろんtikani_nemuru_Mさんのことではありませんが、リベラルを自任する人が規制致し方なしと言っているのは何なのか。規制反対論者の開き直りに対する意趣返しとして規制を支持するなら、了解し難いことです。「規制される前に自重しろ」は「中の人」だけが言ってよいことです。いずれ規制は避け難いならなおのこと。


女子差別撤廃条約に私は同意しますが、「人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有する」表現に対して自重を求める発想に同意した覚えはないし、そのような前提は女子差別撤廃条約には書き込まれていないと理解しています。それは、tikani_nemuru_Mさんが御自身で置いた前提です。つまり「人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有する表現」を定義できるとする前提です。その前提は、定義する主体を「同志スターリン」に措定しなければ成立しない。私の理解では、ラディカル・フェミニズムは「同志スターリン」を措定する主張ではない。


少なくとも政治的には、表現の問題と、表象の商業的流通の問題は別に問われるべきです。むろん、商業的流通を前提する表現の問題は、問われます。しかしそれは政治的に問われうることではない。表現論の範疇です。表現論とは、表現無罪ということではない。そもそも政治的なる世界において、政治的なる世界から垂直するものとしてある、表現の可能性を模索することです。


政治的なる世界から垂直しない俗情と結託した表現は政治的に問われうる、という見解には同意しますが、しかし政治的に問うことは「同志スターリン」を措定することではまったくない。「同志スターリン」を措定することは、性犯罪被害者の当事者性さえ剥奪することだからです。


性犯罪被害者が生殖に及ぶレイプゲームを問うことは当然のことと私は思います。繰り返しになりますが、私はラディカル・フェミニズムを必ずしも退けるものではありません。「同志スターリン」を措定することは、ラディカル・フェミニズムが主張した、その当事者性さえ剥奪するということです。この点では、mojimojiさんのラディカル・フェミニズムに対する理解は正しい。念の為に付記しますが、mojimojiさんは「同志スターリン」を措定しているのではまったくない。意見は概ね違いますが、しかしあの人が決してそのように考えないことは私は知っています。

しかし、女性差別撤廃条約人種差別撤廃条約は、明らかに文化や伝統の差別性に踏み込んでその撤廃を指向しているようです。ここでは何かしらの暴虐が要請されているのではないかと思えるのです。


文化や伝統の差別性に踏み込んでその撤廃を指向するべく暴虐を要請することは構いませんが、問題がポルノであるとき、差し込まれなければならない文脈があります。言い古されてきた話を手短に。


「同志スターリン」を措定するまでもなく、ポルノは俗のものです。そこに聖性を見てしまうのが人間の面白さであり、そのことの政治性をよく知っていたのがサドでした。三島由紀夫はサドのアイロニーをベタに受け取って、エロスと大義を半ば本気で追求しました。そもそも聖性をこそ糞と思っていたサドは、性を聖から俗へと奉げ返さんとして、そして捧げ返すことの政治性を知っていました。性を聖から俗へと捧げ返すことの桁外れに強力な政治性を。


「同志スターリン」は、20世紀において、その政治性をこそ抑圧しました。21世紀においてなお、性を聖から俗へと捧げ返すことの桁外れに強力な政治性を抑圧するのは、たとえば私のようなフロイディアンでもありますが、しかし「同志スターリン」はどうなのですか――と、理念型においてそれを措定するtikani_nemuru_Mさんがどう考えておられるかは伺いたいと思います。


エロが弾圧されるのは、官憲の本性においては、性を聖から俗へと捧げ返すことの反体制が所以です。そこに存在する莫大な政治的資本を、国家は当然独占したがる。「同志スターリン」において、公私の区別は存在しません。公私の区別を私は欺瞞と承知する立場ですが、しかし「同志スターリン」に白紙委任するつもりもない。


改良主義が人々の意識の涵養を問題としないなら事は法の問題です。御承知の通り「同志スターリン」はそう考えます。「同志スターリン」は、司祭の説教を無力と考えるから。資本主義の暴虐が加速するこの20世紀において、司祭の説教によって、性を聖から俗へと捧げ返すことの桁外れに強力な政治性は押し留めることができない、と。その判断は――性を聖から俗へと捧げ返すことの桁外れに強力な政治性を押し留めようと考えるなら――妥当です。資本主義の暴虐に対して、カストロだってそう考えました。そして毛沢東は自室のベッドでやりたい放題、というのはスターリン含めて属人的な話をしているのではまったくないので措きますが。


そこに存在する莫大な政治的資本を国家が独占したがること、日本の家父長制批判が指摘していたのはそのことでした。そこには吉本隆明共同幻想論も親和した。だから、存在する莫大な政治的資本を国家に独占させることなく俗へと捧げ返すことによってかつてエロは反体制であったし、それは今もそうなのです。少なくとも、官憲が目の敵にする限りは。もちろんそれは、家父長制どころではない21世紀の資本主義の暴虐をなんら解体しませんが。


一応、自由を掲げる先進民主主義国であるところの日本におかれては「押し留める」役割を公安が担っている。自由な社会のセキュリティホールを継ぎ接ぎしているのは彼らです。それでよいか。よいわけがない。なら「同志スターリン」を措定するか。駄目駄目です。新しい皮袋に同じ酒を注ぐに過ぎない。だから公共圏の構築という議論になる。その理路は至極妥当と考えます。21世紀において、資本主義の暴虐はいっそう加速している。表象の商業的流通のグローバル化も、ゾーニングを無化するインターネットも。


しかし、日本において大半がなんらかの性犯罪に遭遇している女性の問題は、存在します。問題は、現在進行形の性犯罪被害者の泣き寝入りであって、表現論と表象読解ではない。表現論と表象読解は、法と道徳の議論は、そして表現の自由というお題目は、現在進行形の性犯罪被害者の泣き寝入りをこの社会において問うことを足止めする高邁な詭弁に過ぎないのではないか。今現在も、性犯罪被害者が泣き寝入りしているにもかかわらず。――たぶん、tikani_nemuru_Mさんはそのように考えておられると思います。


おためごかしでなく、それは、わかります。私自身にとっては、性と暴力と自由の問題は、ひいては資本主義の暴虐の問題は、法と道徳において解きうるものではまったくない。現在進行形で判断を問われ続ける問題です。ネットでも、リアルでも。私以外の人の問題意識とコミットメントは、私にはわからない。ただ、私は表現論にはコミットします。「性犯罪被害者の泣き寝入り」を言挙げて「表現自重しろ」は断じて認められません。因果や相関やエビデンス以前の問題です。


テクニカルな正当性の連鎖が、ひいては憲法に明記される自由な社会の大義が、そして私を含めたマッチョの自己主張と木で鼻を括ったような高邁な詭弁が、現実の機能においては現在進行形で弱者の傷付いた心をいっそう傷付けている。それは、そう思います。そしてそのことを、自由な社会の脆弱性としてしか捉えない私にはやさしさが端的に欠けている。その脆弱性を鑑みる限り、傷付いた心をいっそう傷付けることは自由な社会のために望ましくない、というのが私の理路ですから。


それでもなお、社会はやさしさを実現することを指向しなければならない。そう思います。しかし、私はそのとき、自由な社会のために、私たちは傷付いた心をいっそう傷付けることは自重しなければならない、とは言えない。自重しないなら法規制が待っているかも知れないとしても。


自由な社会のために、傷付いた心をいっそう傷付けることを自重することは私たちはできません。なぜなら、マイノリティがそれを強いられてきたように、自重とは究極的に沈黙でしかないからです。マイノリティのためにマジョリティは自重せよ、という議論に、私は心情的には同意しますが、理路としては難しい。ポルノとはそういう問題ではないからです。マイノリティのためにマジョリティは自重せよ、という道徳的な発想こそ、ポルノが退けてきたものでした――性を聖から俗へと捧げ返すために。そこに存在する莫大な政治的資本を国家に独占させることなく俗へと捧げ返すために。つまり、そのとき、ポルノは21世紀的な資本主義の暴虐と親和的である、ということは言えます。


そして私は、自由な社会とは、傷付いた心をいっそう傷付けることを社会の名において認める社会であり、だからこそ、自重でなく対抗言論が至上命令として要請される社会である、と考えます。そこにおいてやさしさは実現されるかと問うなら、そもそも世界観と社会観が相違する、としか言いようがない。私は、社会はやさしさを実現するためにあるのではなく自由を実現するためにあると考えます。やさしさは、コンサバの私にとっては、コモンセンスの問題です。それはもう無理だろ、というのはその通りですが、しかし社会はやさしさを実現するためにあるのではない。


不公正を是正することとやさしさを実現することは違います。差別構造の問題は、やさしさの実現の問題ではない。まして、やさしさの実現の問題を、資本主義の暴虐としての表象の商業的流通に対してではなく、表現それ自体に対して適用するなら、私はそれを幾度でも退けるしかありません。大西巨人は俗情との結託を批判しましたが、左翼である彼は俗情と結託することのない表現による社会の改良を指向したことなど一度もなかった。規制など論外であった彼にとって、資本主義の暴虐への抵抗の困難はよく承知されていた。そういうことです。社会においてやさしさは実現されるべきと私は思います。しかし、私の考えるやさしさは、表現の自由を曲げて達成されるものではない。政治的判断ではなく、私自身の判断として、そう考えます。


「差別もある明るい社会」に同意しませんが(差別のある社会は暗いに決まっている)、相互批判のある明るい社会には同意します。つまり、可視化された差別構造として表象を批判することが、またそれに対して反論することが、タブーでなく、自重と沈黙を要請する権力が発動することのない社会です。「表象は読み解かれなければならない」とはそういうことです。むろん、これもまた「同志スターリン」と同程度には、数世紀を経て目指すべき理念型でしかないのですが。自由な社会の憲法に規定される法は、相互批判のある明るい社会を暗い社会にしないためにある。つまり、告発と反論に対して自重と沈黙を要請する権力が発動する社会であってはならない。そのために、自由な社会の憲法に規定される法がある。


そして、私には、tikani_nemuru_Mさんの当初の議論は、社会においてやさしさを実現するために、「人権侵害」の四文字を持ち出すことによって、可視化された差別構造として表象を批判することそれ自体を封じ込めるものとしか映りませんでした。そのようなやさしさは、まさにスターリニストのやさしさでしかない。それが理念型の議論であるならば、やさしさは、自由な社会において実現されなければならない。その筋道が、理路においてもまた現実にも、とても危ういとしても。